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11月20日(日)の百舌鳥古墳群巡り・百舌鳥駅-1

11月25日         11月20日(日)の百舌鳥古墳群巡り・百舌鳥駅-1
                     (JRハイキング誌) 歩程約4.5㎞
JRハイキング誌に掲載されていた、堺市観光コンベンション協会主催のウオークに
参加、ガイド1名に参加者4人で”百舌鳥古墳巡り”を堪能、古墳巡りを終えた後は、
大仙公園の紅葉の下で昼食休憩をして堺市博物館に立ち寄って見学して来ました。
コース:阪和線百舌鳥駅(集合10時30分)~御廟山古墳~いたすけ古墳~履中
天皇陵古墳~仁徳天皇陵古墳~百舌鳥駅 堺市観光コンベンション協会主催
此の日の私は、大仙公園の紅葉散策も有り19983歩で約13.5km歩いたことに・・・
堺市観光コンベンション協会のガイドの林さん、お世話になり有難う御座いました。
JR阪和線
百舌鳥駅(もずえき)
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少し早めに到着したので駅前の古墳を
収塚古墳
収塚(おさめづか)古墳は円墳のように見えますが、もとは前方部を西に向けた
帆立貝形古墳でした。現在、前方部は削られてその形をとどめておらず、周囲を
囲んでいた濠も埋没しています。埋葬部の構造や副葬品は不明ですが、以前に
古墳の頂上部から鉄製のよろいの破片が採集されたと伝えられています。近
年、古墳の東側で調査が実施され、濠の位置が判明し埴輪が出土しました。埴
輪の形から5世紀中頃に造られたものと推定されています。収塚古墳の西側に
は、孫太夫山(まごだゆうやま)古墳・竜佐山(たつさやま)古墳など前方部を西
へ向ける帆立貝形古墳が並んでいます。これらの古墳は、仁徳天皇陵古墳(大
山古墳)の陪塚(ばいちょう)と考えられています。
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ガイドと一緒に御廟山古墳へ
御廟山古墳
御廟山古墳(ごびょうやまこふん)は、大阪府堺市北区百舌鳥本町にある古墳。
形状は前方後円墳。百舌鳥古墳群を構成する古墳の1つ。実際の被葬者は明
らかでないが、宮内庁により「百舌鳥陵墓参考地」(被葬候補者:第15代応神天
皇)として陵墓参考地に治定されている。百舌鳥古墳群のほぼ中央、大仙陵古
墳の南東に位置する。墳丘長約203メートルで、百舌鳥古墳群では4番目の大
きさである。墳丘は3段に築かれ、南側に造り出しがある。発掘調査により、か
つては二重濠があったことが確認されている。陪塚は数基あったとされるが万
代山古墳(もずやまこふん)のみが現存している。
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善右ヱ門山古墳(ぜんえもんやまこふん・いたすけ古墳の陪塚)
堺市HPより引用
善右ヱ門山(ぜんえもんやま)古墳は、百舌鳥川北岸に位置する方墳で、いたす
け古墳の外堤と接するように築造されていることから、同古墳に付随する古墳と
考えられます。平成12・15年度の調査では、墳丘は2段築成であることを確認しま
したが、墳丘の周囲には明確な周濠を設けていません。また、テラス上に埴輪列
を検出しましたが、その埴輪から5世紀前半の築造であると考えられます。
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いたすけ古墳
いたすけ古墳は、百舌鳥古墳群のほぼ中央に位置し、前方部を西に向ける3段築
成の前方後円墳です。周囲には一重の濠が巡り、墳丘には埴輪と葺石(ふきいし)
のあることが確認されています。埋葬部分の構造や副葬品は不明ですが、墳丘の
形や埴輪の状況から5世紀中頃に築造されたと考えられます。周囲には陪塚(ばい
ちょう)とよばれる小形の古墳があり、善右ヱ門山(ぜんえもんやま)古墳が後円部
の東側に現存しています。消滅した陪塚には吾呂茂塚(ごろもづか)古墳、播磨塚
(はりまづか)古墳がありました。いたすけ古墳は、昭和30年頃に土取り工事で破
壊の危機にひんしましたが、市民による運動で保存が決まり、昭和31年に国指定
史跡になりました。現在も濠の中に残されている橋げたは、土取り工事が行われよ
うとしたときの名残です。保存運動の際に後円部から採集された冑形(かぶとがた)
埴輪は実物の鉄製冑を忠実に模したもので、堺市の文化財保護のシンボルマーク
になりました。いたすけ古墳は、百舌鳥古墳群を構成する重要な前方後円墳という
だけでなく、我が国における文化財保護の歴史を語るうえでも重要な古墳なのです。
狸が繁殖していて橋の上に10匹ぐらいの狸が出て来てエサをねだる事も有る。
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履中天皇陵古墳
上石津ミサンザイ古墳(かみいしづみさんざいこふん)は、形状は前方後円墳。百舌
鳥古墳群を構成する古墳の1つ。実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「百
舌鳥耳原南陵(もずのみみはらのみなみのみささぎ)」として第17代履中天皇の陵に
治定されている。名称は「石津ヶ丘古墳(いしづがおかこふん)」や「百舌鳥陵山古墳
(もずみささぎやまこふん)」とも。全国で大仙陵古墳(大阪府堺市)、誉田御廟山古
墳(大阪府羽曳野市)に次ぐ第3位の規模の巨大古墳である。
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   一回りして
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※履中天皇(りちゅうてんのう)は、第17代天皇(在位:履中天皇元年2月1日 - 同
6年3月15日)。名は大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと)、大江之伊
邪本和気命。中国の『宋書』に見える「倭の五王」中の倭王讃に比定する説があ
る(応神天皇もしくは仁徳天皇とする説もあり)。また古事記には「壬申年正月三
日」に64歳で崩ずとの記事が見え、これが正しければ、在位期間が427年から
432年となり、生年が逆算して369年という事になるが、定かではない。
都は磐余稚桜宮(いわれのわかざくらのみや、奈良県桜井市の稚桜神社)。

大仙公園へ向かう
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此の続きは、
11月20日(日)の百舌鳥古墳群巡り・百舌鳥駅-2 として
             下記のメインブログへ詳細を投稿しました。 
          http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/2016-11-25-1
続きは、大仙公園~
大仙公園
日本最大の仁徳陵古墳や履中陵古墳を擁する百舌鳥古墳群内に位置する
「大仙公園」が「日本の歴史公園100選」に入選しました。
「日本の歴史公園100選」は都市公園法施行50周年を記念して行われた事業
で、地域に個性や魅力をもたらす優れた歴史的・文化的資源を保存・承継・活
用する公園の整備を推進することにより、観光振興や活力に満ちた地域社会
の実現をめざすことを目的として、優れた事例を対象に選定されたものです。

模造円墳(ミニ展望台)・・・大仙公園が見渡せる?ミニ展望台へ登って
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七観音古墳
七観音古墳は、履中天皇陵古墳(ミサンザイ古墳)の外周部分に該当する大仙
公園の南入口にあり、同古墳に付随する古墳と考えられます。墳丘裾に鉢巻状
の土留めがめぐっていますが、本来の古墳の形状とは異なります。
公園整備に伴う発掘調査では、墳丘盛土と墳丘裾の可能性のある地山の立ち
上がりを確認しました。主体部については未調査のため不明ですが、碧玉(へ
きぎょく)製の琴柱(ことじ)形石製品が出土したといわれています。また、濠の明
瞭な肩や堆積層は検出されていないことから、古墳築造当初から周濠は設けら
れなかったと推定できます。
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旗塚古墳
百舌鳥夕雲町の大仙公園内にあります。
墳丘は全長約57.9メートル、後円部径約41.5メートル、高さ約3.8メートル、前方
部幅約24.7メートル、前方部高1.3メートルの、帆立貝形古墳と呼ばれる前方部
が短い前方後円墳です。後円部の南側くびれ部近くに張り出しがありました。
2段築成で、前方部を西に向け、馬蹄形の濠がめぐっています。
本格的な調査は行われていないので、主体部の構造や副葬品の内容や性格な
どはわかっていませんが、葺石と埴輪があり、円筒埴輪・朝顔形埴輪のほかに
盾・蓋(きぬがさ)などの形象埴輪も出土しています。
国指定史跡百舌鳥古墳群のひとつです。
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ぐわしょう坊古墳
旗塚古墳のすぐ西側にある直径約61メートルの大形の円墳です。
墳丘は2段築成と考えられています。周囲には濠がめぐり、葺石と埴輪があります。
主体部の構造や副葬品はわかっていませんが、円墳で径約61メートルという大き
さは、仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)の陪塚とされている径62メートルの大安寺山古
墳に次ぐ大きさで、全国でも有数です。仁徳天皇陵古墳(大山古墳)や履中天皇陵
古墳(石津ヶ丘古墳)の陪塚ではないようです。
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堺市博物館
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孫太夫山古墳
仁徳天皇陵古墳(大山古墳)の南に接してある西向きの前方後円墳で、同古墳の
陪塚と考えられます。古墳の全長は約56メートル、後円部径48メートル、後円部高
約7.6メートル、前方部幅約30メートルで、前方部の短い帆立貝形をしています。
一部の調査では、葺石と円筒埴輪があり、幅10メートル程の周濠がめぐっていたよ
うですが、埋葬施設などについては不明です。現在は濠を復元して整備されていま
す。後円部は宮内庁が管理し、前方部と周濠は堺市が管理しています。
なお、前方部は、公園造成の時に復元しています。
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仁徳天皇陵古墳
大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)または大山古墳(だいせんこふん)は、形状は
前方後円墳。百舌鳥古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「百舌鳥耳原中陵(もずのみみは
らのなかのみささぎ)」として第16代仁徳天皇の陵に治定されている。名称は「仁
徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)」や「仁徳陵古墳」とも。
全国で第1位の規模の巨大古墳である。クフ王ピラミッドや秦の始皇帝墓陵になら
ぶ「世界三大墳墓」ともいわれ、墳丘の平面規模は秦の始皇帝陵を凌いで世界最
大値に達している。
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※仁徳天皇
仁徳天皇(にんとくてんのう)は、日本の第16代天皇(在位:仁徳天皇元年1月3日
- 同87年1月16日)。名は大雀命(おほさざきのみこと)(『古事記』)、大鷦鷯尊(お
ほさざきのみこと)・大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)・聖帝(『日本書紀』)・
難波天皇(『万葉集』)。応神天皇の崩御の後、最も有力と目されていた皇位継承
者の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子と互いに皇位を譲り合ったが、皇子の
薨去(『日本書紀』は仁徳天皇に皇位を譲るために自殺したと伝える)により即位
したという。この間の3年は空位である。
人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除
し、その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった、と言う記紀の
逸話(民のかまど)に見られるように、仁徳天皇の治世は仁政として知られ、「仁
徳」の漢風諡号もこれに由来する。
ただ一方で、記紀には好色な天皇として皇后の嫉妬に苛まれる人間臭い一面も描
かれている。また、事績の一部が父の応神天皇と重複・類似することから、元来は
1人の天皇の事績を2人に分けたという説がある。また逆に、『播磨国風土記』にお
いては、大雀天皇と難波高津宮天皇として書き分けられており、二人の天皇の事
跡を一人に合成したとする見方もある。
都は難波高津宮(なにわのたかつのみや、現在の大阪府大阪市中央区)。

博物館へ向かう
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平和塔
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図書館駐車場横の桜
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此の続きは、
11月20日(日)の百舌鳥古墳群巡り・百舌鳥駅-3 として
              下記のセカンドブログへ詳細を投稿します。
             http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/
続きは、図書館駐車場横の桜~
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又、堺市博物館へ
博物館横のどら池の見える丘の上で弁当を・・・
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どら池を巡り
堺市博物館へ
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堺市博物館
金魚鉢アート&皇帝ダリア
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仁徳天皇陵古墳の周囲を百舌鳥駅へ・・・
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百舌鳥駅~天王寺駅へ戻り
奈良行16番ホーム2両目辺りから、あべのハルカスを・・・
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