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11月28日の近代学研都市のけいはんな記念公園-1

12月1日       11月28日の近代学研都市のけいはんな記念公園-1
                11月度歩こう会 例会  紅葉散策 約7㎞
今月は歩こう会ハイキングを2回、何れも紅葉散策、28日は今月2回目の歩こう会で、
京都精華町のけいはんな記念公園紅葉散策をメインに周辺の歴史ある寺社を巡る。
好天に恵まれた素晴らしいハイキング日和、私の万歩計は、23377歩で約17.2km・・・
コース 
祝園(ほうその)駅(10時・スタート)~来迎寺(らいこうじ)・お千代と半兵衛の墓~釈
迦の池~稲植神社~畑の前公園遺跡の杜~精華大通り~けいはんな記念公園(昼
食・紅葉散策)~蓮台寺~祝園駅(解散)
祝園(ほうその)駅
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祝園(ほうその)駅~来迎寺(らいこうじ)へ向かう
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来迎寺(らいこうじ)
天平勝宝元年(749)、行基の開基といわれていますが、創建の古さを伝えるものは残って
いません。近松門左衛門の「心中宵庚申」(しんじゅうよいごうしん)で知られるお千代・半兵
衛の墓があります。
同寺は、京都の自然200選・植物部門に選ばれています。来迎寺のクスノキは丘陵地状の
境内に生育し、樹齢は不明ですが、幹周4.6メートルという巨木で、寺のシンボル的存在で
もあり、ここを訪れる住民に古くから愛されています。
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お千代と半兵衛の墓&供養塔
近松門左衛門の最晩年の世話物である「心中宵庚申」(しんじゅうよいごうしん)は1722年
(享保7年)に大坂で実際に起きた心中事件を題材にしたものだが、この物語の一方の主
人公であるお千代は山城国相楽郡上田村(現京都府相楽郡精華町植田)の大百姓島田
平右衛門の二女であったと伝わる。父平右衛門は娘夫婦の非業の死を悼み、菩提寺であ
る来迎寺に墓石を建て、永代供養を行った。この墓は来迎寺に現存する。
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※大阪に有るお千代と半兵衛の墓(宝樹山銀山寺)
墓石には「一蓮托生 声応貞現信女/通月融心信士/離身童子」と刻まれている。この「離
身童子」は身ごもっていた子供のことであろう。
1722年(享保7年)4月6日、大坂油掛町の八百屋半兵衛と妻お千代が生玉の大仏勧進
所で心中した。この心中事件は、直後に紀海音が「心中二つ腹帯」、近松門左衛門が「心
中宵庚申」(いずれも浄瑠璃)に、又「新板宵庚申」(歌舞伎)に脚色した。特に「新板宵庚
申」は大当たりし、そのため、世上に広く知られた心中事件となった。お千代は24歳で身
ごもっていた。
・近松門左衛門の世話物最後の作品
1722年(享保7年) 「心中宵庚申」(しんじゅうよいこうしん)
八百屋の養子半兵衛は、もと武士の子。姑と折り合い悪い女房おちよが夫の留守中、勝
手に離婚されたことを知り、連れ帰るが、姑の手前、家に入れられず。板挟みになって夫
婦で心中する。

釈迦の池
過去帳などが残っていないので、詳しいことは解かりません。
今の来迎寺の前当たりも池の東側にあたり、大きく広がっていたと思われます。
池には、橋が架かっていたり、水辺には御堂なども建っていて、水面に映えていたので
はないでしょうか。
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稲植神社へ向かう
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稲植神社
稲植神社は今より、約550 年前の、室町時代中期に春日神社を勧請(かんじょう)され
たと伝えられております。(神仏の分身・分霊を他の地に移して祭ること)元来『上田の
社(やしろ)』という名の神社で、上田村のみの氏神であったのですが、その内南稲村
にも氏子が出来て、南稲村の『稲』と上田村の上を『植』に変えそれを合せて 『稲植神
社』と命名されたようです。
この神社は「元祇園」(京都八坂神社の元)と呼ばれて、明治以前は神仏習合の神宮
寺でしたが明治維新政府が祭政一致の方針に基づき神仏習合を廃止し、明治二年に
新たに神社を再建した際にその寺(東福寺)を取壊したと云われています、それ以後、
水害や数々の災害に遭遇し、現在の社は昭和28 年から再建されたのです。
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畑の前公園遺跡の杜へむかう
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畑の前公園遺跡の杜
発掘調査は昭和59 年~60 年度(1984~85)に実施され、弥生時代中期の集落跡に
奈良時代の邸宅跡が重なるという複合遺跡が発見された。同時に、周辺部から古墳時
代後期の円墳も見つかった。
調査後、遺跡跡は埋め戻され、畑ノ前公園(2 万平方m)として整備された。遺跡部分
は約3千平方m。
①弥生時代中期(西暦前100 年~西暦100 年)の集落跡
10 棟の竪穴式住居跡(半円形の点線)が見つかったが、同時期には3~5 棟の住居
が建っていたと想定されている。
②古墳時代後期(6 世紀前半~7 世紀前半)の古墳群
7基の横穴式石室を持つ小規模な円墳(図面右の楕円形点線)が確認された。石室に
河原の石を使っており、長良川下流域で多数発見されている様式と類似している。
しかも同地は古代、美濃の国安八(あんはち)郡と呼ばれ、姉妹間郡とも表記された。
精華町には北稲ハ間、南稲ハ妻という集落があり、その類似性が注目されている。
③奈良時代(710~794)の建物跡
23棟分の柱跡(サイコロ状の黒点)が見つかった。何度か建て替えられ、規模が拡大
されていったようだ。 宅地東南隅からは深さ7m の井戸の跡が発見された。井戸枠の
下部に高さ3.5m、直径1.1mのヒノキの木をくりぬいた井筒が据え付けられていた。
柱跡が、奈良の都と同様に東西南北の方向に正確に並んでいること、他に類を見な
い1級の井戸を備えていることなどから、都に関係する身分の高い人の屋敷とみられ
ている。古文書には、当時このあたりに稲蜂間(いなはちま)という豪族が住んでいた
と記録されており、孝謙天皇(752~757)に使えていた稲蜂間宿禰仲村女(いなはち
まのすくねなかむらめ)に関係した屋敷ではないかと見られている。
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此の続きは、
11月28日の近代学研都市のけいはんな記念公園-2 として
             下記のメインブログへ詳細を投稿します。
            http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、けいはんな記念公園(昼食・紅葉散策)~
けいはんな記念公園(昼食・紅葉散策)
1 自然を大切にした水と緑のあふれる公園
●この公園は、自然との調和・共生を基本テーマに設計されました。
●南山城の代表的な自然林や池(永谷池)を保全した「自然保全区城」と、多くの人々
が語らい、憩い、ふれあう場としての芝生広場、里山を表す谷間と伝統的日本庭園(水
景園)の交流施設区域から成っています。
2 水景園については
●特に伝統的な庭園技法を駆使し、斬新な様式美を備えた平安建都1200年の記念
となる新しい池泉回遊式日本庭園です。
●池泉回遊式の水景園は、鯉の泳ぐ緩やかな水景棚に囲まれ、会議室やギャラリー
を備えた複合施設「観月楼」とそれにつながる「観月橋」があります。秋の紅葉は特に
美しく、岩礁を背景に見事に赤く染まる葉色が見どころです。
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蓮台寺へ向かう
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蓮台寺・・・西山浄土宗のお寺です。
文禄2年(1593)、寺号を青蓮奄から蓮台寺に変えたといわれています。その後、寛文
10年(1670)、本空弓覚が復興しました。近くにあった願成寺の仏像などが移されまし
た。南稲八妻地区にある蓮台寺。明治時代の記録には、かつて近くに願成寺(がんじょ
うじ)という寺があり、その寺が閉じられた際に仏像や仏画がうつされたとあります。
れんだいじ/やくしにょらいりゅうぞう・・・愛らしい、かわいい仏様
有形文化財である薬師如来立像も、もとは願成寺にあったようです。この像の高さは、
わずか52センチ。ふっくらとした身体つきで、微笑んでいるような表情をうかべた、なん
とも愛らしい仏像です。左の手のひらに小さな薬壺を載せています。制作時期は平安
時代前期の9世紀後半と推定され、町内でもっとも古い仏像のひとつです。
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