3月4日の南法華寺(壺阪寺)と土佐街道町家の雛巡り-1
3月15日 3月4日の南法華寺(壺阪寺)と土佐街道町家の雛巡り-1
近鉄駅フリーハイキング 歩程約9㎞
此の日葉3名で参加、素晴らしいハイキング日和?暑い暑い20度超えのまるで初夏?
コース 近鉄駅フリーハイキング 壺阪山駅受付 9時半~11時10分
壺阪山駅(受付)~下屋敷門~雛の里親館~夢創館~信楽寺(お里沢市の菩提所)~
南法華寺(壺阪寺)~植村家長屋門(武家屋敷)~田塩邸(武家屋敷)~壺阪山駅
だったがコースを変えて壷阪寺へは行かずに・・・
壺阪山駅(受付)~土佐街道町屋の雛巡り~光永寺(人頭石)~ふくもり商店 &吉野スト
アー~高皇産霊神社(たかみむすび神社)(通称)天神宮~子嶋寺~高取消防署~光明
寺~石川医院(下屋敷門)~高取城の大砲レプリカ?~雛の里親館~夢創館~信楽寺
(お里沢市の菩提所)~清水谷公園ミニジャンボ雛~ふるさと農道~植村家長屋門(武家
屋敷)~ジャンボ雛(観覚寺なかよし広場)~壺阪山駅
此の日の私の万歩計は、22500歩で約16.6km歩いたことに・・・
志都美駅
香芝で近鉄下田駅へ乗り換え
香芝の鹿島神社
壺阪山駅(受付・スタート)
早速お出迎えの雛飾り・・・かぐや姫の如く竹の中に
光永寺へ向かう
光永寺(浄土真宗本願寺派)
光永寺(人頭石、人面石とも)
光永寺の庭に、人頭石という、人の頭部を模った高さ1mほどの石像が置いてある。像の
風貌は明らかに日本人のものではなく、ペルシア人のような胡人を彫ったものという説が
流布している。
記録では、元禄15(1702)年に欽明天皇陵ほとりの平田村池田にある田の土中から掘り
出された猿石は五体で、うち一体は高取町土佐の寺に移されたらしい。したがって、この
人頭石も4体の猿石と同様に元々は欽明天皇陵に並んでいたと考えられるのだ。
石材も猿石と同じく花崗岩が用いられ、7世紀の製作とされている。
※猿石
吉備姫王墓内に猿石と呼ばれる不気味な4体の石像がひっそりと置かれている。名前に
猿とあるが、実際は猿を彫ったものではない。これらの像が異様なのは、その形相のみな
らず、背面にもまた別の面妖な像が掘られていることだ。実物は陵墓の鉄柵内にあるため
表しか見られないが、飛鳥資料館の庭園にある精巧なレプリカで背面の像を確認できる。
現在は吉備姫王墓内に置かれているが、これらの石像は、江戸時代の元禄15(1702)年
に欽明天皇陵ほとりの平田村池田にある田の土中から掘り出され、一時は、欽明天皇陵
に置かれていた。隣の吉備姫王墓内へ移されたのは、幕末又は明治初年になってからだ
という。
ふくもり&吉野ストアーへ向かう
ふくもり商店
吉野ストアー
高皇産霊神社(たかみむすび神社)(通称)天神宮
参道を国道169号線が横切る。
神社の創設については当地、観覚寺の川合万次郎宅にその「由緒」があり、川合氏先祖
堤見氏兄弟が奉斎し、その後村の総鎮守となった事が記されているそうであり、また別の
記録にはその創建年代を貞元(976)の頃、小字タビチ山にあったものを、永観元年(983)
現地に遷祀した旨が記されているらしい。
子嶋寺 報恩山千寿院子嶋寺(ほうおんさん、せんじゅいん、こじまでら)
当初は子嶋山寺、平安時代中期以降は観覚寺、江戸時代には子嶋山千寿院と称しました。
宗派は高野山真言宗、本山は金剛峰寺、本尊は大日如来です。
その創立については、日本書紀皇極天皇3年条(644年)に蘇我蝦夷が東漢長直(やまとの
あやながのあたい)に命じて、大丹穂山(おおにほやま、高取町大字丹生谷)に建立した桙
削寺(ほこのきでら、法器山寺ほうきさんでら)の後身とする説もありますが、寺伝では、752
年孝謙・桓武両天皇の疾病を癒した僧報恩が、子島神祠(こじましんし、、高取町大字下子島
に所在する小島神社)の畔(ほとり)に国家鎮護のため伽藍を建立し、一丈八尺の観自在菩
薩と四天王像を安置して子島山寺(現在高取町大字上子島小字法華谷に所在する観音院の
傍らに建立)としたとあります。
二代目延鎮(えんちん)は、山城国(京都)東山の麓の霊地で修行中、たまたま出会った坂上
田村麻呂が、延鎮の教えに帰依し、また延鎮が同じ出身地である高取町の子嶋山寺の住職
であることを知り、この霊地の東山に二人は力を合わせて十一面千手観音を安置し、清水寺
を建立しました。その後、田村麻呂は延鎮と協力して地蔵尊像と毘沙門天像(びしゃもんてん)
を脇士とし、本堂を広く造りかえました。征夷大将軍田村麻呂は、蝦夷征討の成功と、出陣す
る全軍の将士が仏の加護によって無事帰還できることを清水寺に祈願しました。また田村麻
呂は大和国高市郡檜隅の領地を子嶋寺に寄贈しました。延鎮は報恩が死去すると、子嶋寺
に戻り報恩の後を継ぎ、師ゆかりの子嶋寺を本寺、京都清水寺を末寺としました。平安初期
には長谷寺と壷坂寺に次ぐ大和国の観音霊場として信仰されていました。
高市消防署
観覚寺ジャンボ雛へ向かう
観覚寺ジャンボ雛
3D動物園?
土佐街道町屋のひな飾り
土佐街道(高取町)
高取町では壺坂寺まで通じる長い長い町並みが続く。そのうち「札の辻」の交差点までの
道を地元では土佐街道と呼んでいる。明日香に都があったころ、土佐の国から都造営の
ために連れてこられて故郷へ帰れなくなった人たちが、望郷の思いからこの地を「土佐」と
呼ぶようになったといわれる。両側に水路がある狭い道に沿って、高取城の城下町に由来
する古い町並みが続いている。
※土佐街道の敷石
阪神電鉄国道線の敷石については、意外に神社仏閣で再利用されたという話題がありま
せん。それもそのはず、大部分は線路の撤去を行わないままその上にアスファルトを被せ
てしまったためのようです。ところが1995(平成7)年の阪神大震災で国道2号線の路盤が
大きく損傷し、これを改修する際に軌道敷のレールと敷石が掘り出されました。
そして、その一部が壷坂寺で有名な奈良県高取町に引き取られ、街中の土佐街道に敷設
されました。近鉄壷坂山駅近くの土佐街道2キロほどの道路の路肩部に阪神電鉄国道線
の敷石が2列で敷設されて、良い景観となっています。
此の続きは、
3月4日の南法華寺(壺阪寺)と土佐街道町家の雛巡り-2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿します。
http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、光明寺~
光明寺・・・浄土宗本願寺派・光明寺
石川医院の門
土佐街道にある「御代官所」のような建物の、『石川医院』。高取藩の御殿医として
仕えた家系とのことで、立派な門は、元は高取城の下屋敷門だったそうです。
下土佐ふれあい広場
ミニジャンボ雛&干支戌雛
土佐 恵比須神社
土佐街道に「土佐町の由来」と題する案内板があります。そこにはこう書かれています。
六世紀の始め頃、大和朝廷の都造りの労役で古里土佐国を離れこの地に召し出された
ものの、任務を終え帰郷するときには朝廷の援助なく帰郷がかなわず、この地に住み着
いたところから土佐と名付けられたと思われる。故郷を離れて生きていく生活を余儀なく
された人達のたった一つの自由な意思は古里の名を今の場所につけることであった。
高取城の大砲のレプリカ?
司馬遼太郎氏が、天誅組の高取城攻めを題材にした短編「おお、大砲」は、「新潮文庫・人斬
以蔵」に収録されている。家康による大坂城攻めで使用された大砲を、維持伝承する大砲方
として禄を得ていた武家の物語だ。
家康にちなみ権現砲とも、ブリキトース(錻力徹~す)とも称された、阿蘭陀渡りの青銅製の大
砲は全部で六門。土佐国出身の隊士・那須信吾、大阪冬の陣で、その轟音により淀君の肝
を冷やして和議に傾けた大砲も、まともに火を噴いて、用を成したのは六門の内一門。
破裂弾では無く鉄球弾で、天誅組の兜武者に当たり、三日三晩耳鳴りを起こさせたと云う。
この兜武者の耳鳴りの話は、氏の創作では無く事実だったらしい。
ブリキトース砲の模型があると聞き及んでいたので向かう。大砲は玄関入口脇に鎮座してた。
三貫目玉を約六百m飛ばすにしては砲身が短い。何よりも後装式で、大阪冬の陣(1615年)
で使われた権現砲なら、砲身の筒先から火薬と玉を入れる前装式では無いだろうか。
レプリカとは云えども、これは、違う。
雛の里親館
夢創館~ポケットパーク ミニジャンボ雛 信楽寺(お里沢市の菩提所) お里沢市のお墓が有る。 壺阪の つきに杖ひく 夫婦かな 「日本感霊録」に九世紀初めの弘仁年中、盲目の沙弥が壺阪観音の信仰で開眼治療した という話があり、 (「壺阪寺古老伝」に記されている。)すでにこの頃から本尊の十一面千手 観音は民間の信仰を集めていたことが分かる。 これは後世のいわゆる盲人開眼「壺阪霊験記」の原形になったものである。 この「お里、沢一」の物語は今より三百年以上も昔(寛文年間)壺阪寺の麓、大和国高取郷 土佐町に住む沢一という盲人と妻里の夫婦愛をテーマにした「観音霊場記」に二世豊沢周 平と妻の千賀が加筆したものであり、浄瑠璃、歌舞伎に浪曲にとこの夫婦純愛物語は日本 中さらに海外にまで知れ渡っている。 清水谷公園・・・此処で昼食 ミニジャンボ雛 ふるさと農道~植村家長屋門(武家屋敷) 植村家長屋門(武家屋敷) 壺阪山駅へ向かう 壺阪山駅
近鉄駅フリーハイキング 歩程約9㎞
此の日葉3名で参加、素晴らしいハイキング日和?暑い暑い20度超えのまるで初夏?
コース 近鉄駅フリーハイキング 壺阪山駅受付 9時半~11時10分
壺阪山駅(受付)~下屋敷門~雛の里親館~夢創館~信楽寺(お里沢市の菩提所)~
南法華寺(壺阪寺)~植村家長屋門(武家屋敷)~田塩邸(武家屋敷)~壺阪山駅
だったがコースを変えて壷阪寺へは行かずに・・・
壺阪山駅(受付)~土佐街道町屋の雛巡り~光永寺(人頭石)~ふくもり商店 &吉野スト
アー~高皇産霊神社(たかみむすび神社)(通称)天神宮~子嶋寺~高取消防署~光明
寺~石川医院(下屋敷門)~高取城の大砲レプリカ?~雛の里親館~夢創館~信楽寺
(お里沢市の菩提所)~清水谷公園ミニジャンボ雛~ふるさと農道~植村家長屋門(武家
屋敷)~ジャンボ雛(観覚寺なかよし広場)~壺阪山駅
此の日の私の万歩計は、22500歩で約16.6km歩いたことに・・・
志都美駅
香芝で近鉄下田駅へ乗り換え
香芝の鹿島神社
壺阪山駅(受付・スタート)
早速お出迎えの雛飾り・・・かぐや姫の如く竹の中に
光永寺へ向かう
光永寺(浄土真宗本願寺派)
光永寺(人頭石、人面石とも)
光永寺の庭に、人頭石という、人の頭部を模った高さ1mほどの石像が置いてある。像の
風貌は明らかに日本人のものではなく、ペルシア人のような胡人を彫ったものという説が
流布している。
記録では、元禄15(1702)年に欽明天皇陵ほとりの平田村池田にある田の土中から掘り
出された猿石は五体で、うち一体は高取町土佐の寺に移されたらしい。したがって、この
人頭石も4体の猿石と同様に元々は欽明天皇陵に並んでいたと考えられるのだ。
石材も猿石と同じく花崗岩が用いられ、7世紀の製作とされている。
※猿石
吉備姫王墓内に猿石と呼ばれる不気味な4体の石像がひっそりと置かれている。名前に
猿とあるが、実際は猿を彫ったものではない。これらの像が異様なのは、その形相のみな
らず、背面にもまた別の面妖な像が掘られていることだ。実物は陵墓の鉄柵内にあるため
表しか見られないが、飛鳥資料館の庭園にある精巧なレプリカで背面の像を確認できる。
現在は吉備姫王墓内に置かれているが、これらの石像は、江戸時代の元禄15(1702)年
に欽明天皇陵ほとりの平田村池田にある田の土中から掘り出され、一時は、欽明天皇陵
に置かれていた。隣の吉備姫王墓内へ移されたのは、幕末又は明治初年になってからだ
という。
ふくもり&吉野ストアーへ向かう
ふくもり商店
吉野ストアー
高皇産霊神社(たかみむすび神社)(通称)天神宮
参道を国道169号線が横切る。
神社の創設については当地、観覚寺の川合万次郎宅にその「由緒」があり、川合氏先祖
堤見氏兄弟が奉斎し、その後村の総鎮守となった事が記されているそうであり、また別の
記録にはその創建年代を貞元(976)の頃、小字タビチ山にあったものを、永観元年(983)
現地に遷祀した旨が記されているらしい。
子嶋寺 報恩山千寿院子嶋寺(ほうおんさん、せんじゅいん、こじまでら)
当初は子嶋山寺、平安時代中期以降は観覚寺、江戸時代には子嶋山千寿院と称しました。
宗派は高野山真言宗、本山は金剛峰寺、本尊は大日如来です。
その創立については、日本書紀皇極天皇3年条(644年)に蘇我蝦夷が東漢長直(やまとの
あやながのあたい)に命じて、大丹穂山(おおにほやま、高取町大字丹生谷)に建立した桙
削寺(ほこのきでら、法器山寺ほうきさんでら)の後身とする説もありますが、寺伝では、752
年孝謙・桓武両天皇の疾病を癒した僧報恩が、子島神祠(こじましんし、、高取町大字下子島
に所在する小島神社)の畔(ほとり)に国家鎮護のため伽藍を建立し、一丈八尺の観自在菩
薩と四天王像を安置して子島山寺(現在高取町大字上子島小字法華谷に所在する観音院の
傍らに建立)としたとあります。
二代目延鎮(えんちん)は、山城国(京都)東山の麓の霊地で修行中、たまたま出会った坂上
田村麻呂が、延鎮の教えに帰依し、また延鎮が同じ出身地である高取町の子嶋山寺の住職
であることを知り、この霊地の東山に二人は力を合わせて十一面千手観音を安置し、清水寺
を建立しました。その後、田村麻呂は延鎮と協力して地蔵尊像と毘沙門天像(びしゃもんてん)
を脇士とし、本堂を広く造りかえました。征夷大将軍田村麻呂は、蝦夷征討の成功と、出陣す
る全軍の将士が仏の加護によって無事帰還できることを清水寺に祈願しました。また田村麻
呂は大和国高市郡檜隅の領地を子嶋寺に寄贈しました。延鎮は報恩が死去すると、子嶋寺
に戻り報恩の後を継ぎ、師ゆかりの子嶋寺を本寺、京都清水寺を末寺としました。平安初期
には長谷寺と壷坂寺に次ぐ大和国の観音霊場として信仰されていました。
高市消防署
観覚寺ジャンボ雛へ向かう
観覚寺ジャンボ雛
3D動物園?
土佐街道町屋のひな飾り
土佐街道(高取町)
高取町では壺坂寺まで通じる長い長い町並みが続く。そのうち「札の辻」の交差点までの
道を地元では土佐街道と呼んでいる。明日香に都があったころ、土佐の国から都造営の
ために連れてこられて故郷へ帰れなくなった人たちが、望郷の思いからこの地を「土佐」と
呼ぶようになったといわれる。両側に水路がある狭い道に沿って、高取城の城下町に由来
する古い町並みが続いている。
※土佐街道の敷石
阪神電鉄国道線の敷石については、意外に神社仏閣で再利用されたという話題がありま
せん。それもそのはず、大部分は線路の撤去を行わないままその上にアスファルトを被せ
てしまったためのようです。ところが1995(平成7)年の阪神大震災で国道2号線の路盤が
大きく損傷し、これを改修する際に軌道敷のレールと敷石が掘り出されました。
そして、その一部が壷坂寺で有名な奈良県高取町に引き取られ、街中の土佐街道に敷設
されました。近鉄壷坂山駅近くの土佐街道2キロほどの道路の路肩部に阪神電鉄国道線
の敷石が2列で敷設されて、良い景観となっています。
此の続きは、
3月4日の南法華寺(壺阪寺)と土佐街道町家の雛巡り-2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿します。
http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、光明寺~
光明寺・・・浄土宗本願寺派・光明寺
石川医院の門
土佐街道にある「御代官所」のような建物の、『石川医院』。高取藩の御殿医として
仕えた家系とのことで、立派な門は、元は高取城の下屋敷門だったそうです。
下土佐ふれあい広場
ミニジャンボ雛&干支戌雛
土佐 恵比須神社
土佐街道に「土佐町の由来」と題する案内板があります。そこにはこう書かれています。
六世紀の始め頃、大和朝廷の都造りの労役で古里土佐国を離れこの地に召し出された
ものの、任務を終え帰郷するときには朝廷の援助なく帰郷がかなわず、この地に住み着
いたところから土佐と名付けられたと思われる。故郷を離れて生きていく生活を余儀なく
された人達のたった一つの自由な意思は古里の名を今の場所につけることであった。
高取城の大砲のレプリカ?
司馬遼太郎氏が、天誅組の高取城攻めを題材にした短編「おお、大砲」は、「新潮文庫・人斬
以蔵」に収録されている。家康による大坂城攻めで使用された大砲を、維持伝承する大砲方
として禄を得ていた武家の物語だ。
家康にちなみ権現砲とも、ブリキトース(錻力徹~す)とも称された、阿蘭陀渡りの青銅製の大
砲は全部で六門。土佐国出身の隊士・那須信吾、大阪冬の陣で、その轟音により淀君の肝
を冷やして和議に傾けた大砲も、まともに火を噴いて、用を成したのは六門の内一門。
破裂弾では無く鉄球弾で、天誅組の兜武者に当たり、三日三晩耳鳴りを起こさせたと云う。
この兜武者の耳鳴りの話は、氏の創作では無く事実だったらしい。
ブリキトース砲の模型があると聞き及んでいたので向かう。大砲は玄関入口脇に鎮座してた。
三貫目玉を約六百m飛ばすにしては砲身が短い。何よりも後装式で、大阪冬の陣(1615年)
で使われた権現砲なら、砲身の筒先から火薬と玉を入れる前装式では無いだろうか。
レプリカとは云えども、これは、違う。
雛の里親館
夢創館~ポケットパーク ミニジャンボ雛 信楽寺(お里沢市の菩提所) お里沢市のお墓が有る。 壺阪の つきに杖ひく 夫婦かな 「日本感霊録」に九世紀初めの弘仁年中、盲目の沙弥が壺阪観音の信仰で開眼治療した という話があり、 (「壺阪寺古老伝」に記されている。)すでにこの頃から本尊の十一面千手 観音は民間の信仰を集めていたことが分かる。 これは後世のいわゆる盲人開眼「壺阪霊験記」の原形になったものである。 この「お里、沢一」の物語は今より三百年以上も昔(寛文年間)壺阪寺の麓、大和国高取郷 土佐町に住む沢一という盲人と妻里の夫婦愛をテーマにした「観音霊場記」に二世豊沢周 平と妻の千賀が加筆したものであり、浄瑠璃、歌舞伎に浪曲にとこの夫婦純愛物語は日本 中さらに海外にまで知れ渡っている。 清水谷公園・・・此処で昼食 ミニジャンボ雛 ふるさと農道~植村家長屋門(武家屋敷) 植村家長屋門(武家屋敷) 壺阪山駅へ向かう 壺阪山駅
2018-03-15 18:22
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