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4月3日の静御前縁の大和高田で歴史にふれて-1

4月10日      4月3日の静御前縁の大和高田で歴史にふれて-1
                歩こう会特別企画 歩程約8㎞
此の日は3月の例会に続いて2回目の花見ハイキング企画、今年は2回とも大当り、
3月27日の背割り堤に続き桜に大当たり?素晴らしい花見ハイキングとなった・・・
コース     参加者43名
築山駅(南改札口前広場 10時)~築山古墳~高田千本桜~静御前塚跡~静御前
記念碑(大中公園)・昼食~衣掛けの松~龍王宮~横大路~春日神社(解散)~近
鉄OrJR高田駅
此の日の私の万歩計は、17729歩で約13.1km歩いたことに・・・
志都美駅
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築山駅(南改札口前広場 10時)
築山古墳前 児童公園でトイレ休憩
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築山古墳(つきやまこふん)
築山古墳は、奈良県大和高田市築山字城山にある古墳。形状は前方後円墳。馬見
古墳群を構成する古墳の1つ(南群の盟主墳)。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「磐園陵墓参考地」(被葬候補者:第
23代顕宗天皇)として陵墓参考地に治定されている。
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高田川へ向かう
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高田川
高田千本桜・・・大和高田市HPより
高田川畔の千本桜は、市制施行の1948年(昭和23年)に植樹されたものです。
まもなく、樹齢70年を迎えます。年輪を重ねた見事な桜並木を見ることができます。
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※高田千本桜植樹秘話
・・・名倉仙蔵 第2・4代大和高田市長&奈良軍政府司令官ヘンダーソン大佐
サクラ苗木は、市内の町内会から、数本ずつの寄贈をうけることになってその数は
千本を少し越えた。文字どおり市民のサクラ、ということになる。
サクラ苗木は、吉野山保勝会へ斡旋を依頼して昭和23年12月に植樹することに
なった。このまま植樹ができたらなんの問題もなかったのだが、ひとつのざ折が
あった。河川の堤防にサクラを植える交渉を、長いあいだかかって県とやってきたが
どうしても許可できないという。従来は河川の堤防にサクラを植樹すると堤防を弱く
するといわれてきたが、サクラの根の張り方からみて、植樹の位置、間隔が適当で
あればむしろ堤防を強くする、この論文を、知事と土木部長に提示して強く許可を求
めたが、許可できないという。奈良軍政府司令官ヘンダーソン大佐に話してサクラの
植樹に協力を求め。将校食堂でヘンダーソン大佐と私の趣旨説明が終わると、軍曹
がボール箱でつくった寄付箱を持って食卓をまわってくれた。当時、サクラ苗木の価
格は7年生、8年生、といったもので80円だった。
まず、ヘンダーソン大佐が自分と夫人の名前を書いて6本を寄贈してくれた。将校連
中は、つぎつぎに自分と夫人や子どもの名前を書いて軍曹に渡してくれた。30分ほ
どで250本の寄贈をうけることになった。将校とその夫人、子どもの名前を書いた小
さな名札をつくって苗木につけ、一挙に、250本を堤防の安全な位置へ植樹した。
・・・・250本の苗木に右へならって千本サクラの苗木を植えてしまった。
高田川から少し外れて
静御前 塚跡
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※静御前
静御前は大和高 田の宿の長者の妻、礒野禅尼の娘として生まれた。美しい娘でした
ので、京都へのぼって歌舞を習い白拍子の名手となった。立烏帽子、水干、鞘巻を帯
びた麗し い姿は都の人々のまととなった。源義経にかわいがられたが、兄頼朝と仲が
わるくなった弟義経は追われて吉野山へかくれたときに静御前も吉野山へ来たが捕ら
えられて鎌倉へ送られ、鶴ヶ丘八幡宮の社頭で頼朝や政子の前で「静や、しず、静の
おだまき繰りかへし、昔を今に、なすよしもがな」と胸に涙をかくして舞っ た。静御前の
妙なる舞いの名技はならびいる人々の心をうばい、政子のなさけによって静御前は鎌
倉から京都に帰ることができた。ところが心つかれて病気にな り、母のいる故郷大和の
高田の礒野村に帰った。春日町の笠神の森にある明神さまに病気平癒をいのり、帰る
途中の一本の松の木に静御前は衣を掛けた。そこは 古墳で、いまは県立高田高校体
育館の南側の運動場。もと三本松があり、三本松といっていたが、天明年間(1781~
1789)に一本枯れ、昭和にも最後の 一本があった。高田の住人森田湖月が「色かえぬ
松の緑の 古墳かな」とよんだ俳句は、昭和十八年西川林之助によって碑とされたる高
さ七十センチ、幅七十 センチ。 静御前は、ここから礒野の里へ帰って死んだという。
いまの礒野の東北、字藤木にその塚がある。
大中公園
静御前 記念碑(大中公園)
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大中公園で昼食
高田川堤防で・・・
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此の続きは、
4月3日の静御前縁の大和高田で歴史にふれて-2 として
            下記のメインブログへ詳細を投稿します。   
          http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、大中公園&高田川千本桜の途中~
昼食休憩の大中公園&高田川千本桜
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衣掛けの松へ向かう
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静御前 衣掛けの松(高田高校)
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龍王宮へ向かう
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龍王宮・・・石園坐多久虫玉神社(いそのにますたくむしたまじんじゃ)
通称は龍王宮と呼ばれる。大和高田市唯一の延喜式内社。
祭神は建玉依彦命、建玉依姫命の二坐。本社は安寧天皇片塩浮孔宮跡と伝承される。
尚、横大路に沿うように、大神神社を龍の頭、当神社を龍の胴、葛城市の長尾神社を龍
の尾とする伝承がある。
創建年代は不明であるが、第三代安寧天皇の時代の都である片塩浮穴宮跡の伝承地
に鎮座している。崇神天皇の時代に勅祭が行われたと伝えられる。延喜式神名帳では
「大和国葛下郡 石園坐多久虫玉神社 二座」と記載され、大社に列し、月次・新嘗の幣帛
に預ると記されている。
古くは「射園神:いそのかみ」と呼ばれたという。石上神宮がある石上(いそのかみ)と何
らかの関係があるのか興味深い。また、宮中に祀られていた園神神社と関係があるとの
説もある。
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横大路・・・大和高田市HPより
市内の中央部を東西に貫く道、横大路は、古代からの大道で、国家が設置した最初の国
道ともいえるものです。日本書紀には「難波より京に至る大道を置く」と記述されており、
道幅が30メートル(諸説あり)ぐらいあったとされています。
「横大路」は、古代には京(飛鳥)へ、中世以降は、長谷寺や伊勢神宮詣での交通の要衝
として、多くの人々の往来があり、そのなかには、飛鳥の都へ向かう外国の使者や、豪族
たちも、この道を通ったと思われます。
江戸時代には、伊勢参りが盛んとなり、伊勢神宮に参拝する道中には、道しるべとして
「おかげ灯籠」が建てられて、幕末にはおかげ参りが大ブームとなり、街道沿いでは、食事
や湯茶の接待などの「施行」を行ったとされています。
このようすは、文政13年(1830年)に石園座多久虫玉神社(龍王宮)に奉納されたおかげ
参りの絵馬(1990年焼失)に詳しく描かれ、この絵馬に描 かれている「おかげ参り」に由来
して、平成9年に、かつての横大路の賑わいと商都「大和高田」の復活を願って高田おか
げまつりが発足しました。
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※横大路(伊勢街道)
横大路(よこおおじ)とは、奈良盆地を東西に貫く古代からの道。 「横大路」と呼ばれた道
は、奈良盆地南部の藤原京付近を通っていた道 と 法隆寺付近から現在の天理市櫟本
付近までの道の二つがあり、通常は前者のことを指し、後者は「北の横大路」と区別される。
通常「横大路」と呼ばれる道は、桜井市の三輪山の南から葛城市の二上山付近まで東西に
ほぼまっすぐに設置された道である。難波京と飛鳥京を結ぶ官道のひとつとして整備され
た。 別名として、伊勢街道(伊勢本街道)とも呼ばれる。現在の国道166号線の一部区間そ
のもの、および国道に平行している。東側では伊勢国への伊勢街道および初瀬街道に、西
側では和泉国に至る竹内街道および長尾街道に接続する。

春日神社
大和高田市大中東町の「春日神社」が鎮座します。祭神は、奈良の「春日大社」と同じ神様
で、武甕槌命(たけみかづちノみこと)、経津主命(ふつぬしノみこと)、天児屋根命(あめノ
こやねノみこと)、天児屋根命の妃・比売神(ひめノかみ)ら春日四神を祀っています。神社
の紋は「下がり藤」です。
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※義経の七つ石
境内に「源義経の七つ石」があります。平家を滅ぼしたけど、兄頼朝に追われた義経が、
京都から奈良へ出て、山の辺の道を南へ歩き、長谷街道を西へ向かい、静御前の母・磯
野禅尼(いそのぜんに)のいた高田の里へ入り、大中の村の小さな宮(チャンチャン社)で
休みました。その時、義経に従うのは、静、武蔵坊弁慶、常陸坊海尊、駿河の次郎、伊勢
の三郎、亀井の六郎、片岡経春、狐の化身・佐藤忠信、荷物持ち喜三太の9人で、伊勢
の三郎が物見に出て、静は片岡経春の護衛で母に会いに行き、残った義経主従7人が境
内の石に腰掛ました。
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近鉄OrJR高田駅

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