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5月16日の楠木正成と南北朝争乱ゆかりの地-1

5月31日      5月16日の楠木正成と南北朝争乱ゆかりの地-1
                5月度歴史探訪の会 歩程約6㎞
出かけから大和路線のダイヤの乱れであたふた・・・好天に恵まれ、坂の多い神戸
で悪戦苦闘することに・・・此の日の私の万歩計は、18448歩で約13.6km歩いた・・
コース  参加者19名 2班に分かれてボランティアガイドの案内で散策・・・
神戸駅(受付・スタート)~湊川神社~湊川公園~湊川隧道~会下山公園(昼食)
~福海寺~福厳寺~能福寺・兵庫大仏(ゴール・解散)~JR 兵庫駅
今回は、楠木正成が足利尊氏との湊川の戦いで敗れ、自刃した場所等、楠木正成と
後醍醐天皇にゆかりある場所を中心に神戸の街を歩きました。
神戸駅~湊川神社
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港川神社
御祭神は 御祭神は、1336 年 5月の足利尊氏と戦い(湊川)で殉節した楠木正成。
1692 年(元禄5年)に徳川光圀(水戸黄門が『嗚呼忠臣楠子之墓』(あちゅうしんなん
しのはか)の石碑(文字は光圀の書)を建立した。幕末から明治維新の頃には、吉田
松陰、坂本龍馬、高杉晋作、伊藤博文、西郷隆盛、木戸孝允 等々 幕末の志士が此
の石碑を訪れている。
1868 年(明治元年)に明治天皇より、神社の 創建 が命じられ、1872 年(明治5年)
に湊川神社として創建された。
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※湊川の戦い
鎌倉幕府の滅亡(1333 年)から3 年後の1336 年(建武3 年)、後醍醐天皇による建武
の新政に不満をもつ武士達のリーダー足利尊氏は2 月に新田義貞・楠木正成・北畠顕
家らとの戦いで敗れて、九州へ落ち延びた。楠木正成は後醍醐天皇に、状況が有利な
今のうちに足利方と和睦する事を進言するが、後醍醐天皇はこれを退け、3 月に新田
義貞を総大将とする足利尊氏追討の軍を西国へ向けて派遣した。この時、楠木正成は
和睦を進言した事で朝廷の不評を買い、この追討軍からは外された。

新田義貞は播磨国の足利方の武将赤松則村(円心)を攻めるのに手間取り、その間に
足利尊氏は九州で体制を立直して京都を目指して東進をはじめ、中国、四国で細川氏
らの軍と合流し軍を進めた。足利尊氏軍の東進にともない赤松軍は新田軍に攻撃をし
かけ、新田軍のなかには足利方に寝返るものもでてきて、新田軍は兵庫(現在の神戸
市兵庫区辺り)まで軍を退いて立直しを図った。

足利尊氏の軍勢が京都に向かっているとの報に、後醍醐天皇は楠木正成を呼び出し
た。楠木正成は一旦京都から撤退し足利軍を京都に引入れた後に楠木軍と新田軍で
攻撃する作戦を提案するが、公家たちはこれに反対、後醍醐天皇も公家達の意見を
受け入れ、兵庫で新田軍と合流し足利軍を迎え撃つ様にと楠木正成に命じた。正成は
天皇の命令に従い、死を覚悟して湊川に向った。途中、桜井の駅(現在の大阪府三島
郡島本町付近)で嫡男楠木正行と訣別するという話し(桜井の別れ)が伝わる。

1336 年5 月25 日、新田義貞は和田岬に、楠木正成は会下山(えげやま)に布陣して
陸路と海路両方から進軍する足利軍を迎え撃つ体制をとったが、足利軍の水軍が兵
庫よりもさらに東から上陸する動きをしたため、新田軍がそれを討とうと東に動いた隙
をついて一部の水軍が和田岬に上陸、この為新田軍と楠木軍は分断されてしまった。
孤立した楠木軍は足利尊氏、直義(尊氏の弟)の大軍を相手に奮闘するも力尽きて湊
川で弟の楠木正季とともに自害した。

日本で最初のオリーブの木・・・2017年9月22日産経WEST記事
明治初期に官営の農業試験場で栽培されたオリーブが境内に移植されたと伝えられる。
樹齢およそ140年の「日本最古のオリーブ」と紹介されている木は、先の大戦による戦災
や阪神大震災を乗り越えたが、昨秋、害虫により枯死の危機に瀕していることが判明した
という。樹木医の調査で、害虫のオリーブアナアキゾウムシが根に卵を産みつけ、幼虫が
幹の内部に侵食、木全体に栄養を送り込む通路がふさがれた状態だったという。この為、
幼虫の駆除に向けて薬の散布などの治療が進められている。
治療の効果が出てるのか?健在でした・・・
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湊川神社を後にして
港川公園へ向かう
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新開地の
アーケード商店街を通る
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湊川公園へ出た
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工事中で
楠木正成像もまじかに見える
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湊川隧道へ向かう
東山商店街のアーケード通り
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商店街を抜けて
港川沿いへ出た
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湊川隧道
明治時代の湊川は度々氾濫し洪水をおこしていたが、1896 年(明治29 年)に大洪
水が発生、これを機に河川改修が行われ会下山(えげやま)の下をトンネルで流れる
日本最初の河川トンネルとして1901 年(明治34 年)に完成。その後、1995 年(平成
7年)の阪神・淡路震災で損傷した為、新たに新湊川トンネルが建設され2001 年に
完成した後河川トンネルとしての100 年役目を終えた。現在、旧湊川隧道は定期的
に一般公開が行われ、トンネル内ではコンサート等が開かれたりしています。
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旧湊川隧道の
中はのとおり
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会下山公園の下に出口が・・・
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此の続きは、
5月16日の楠木正成と南北朝争乱ゆかりの地-2 として
           下記のメインブログへ詳細を投稿します。
          http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、会下山公園へ向かう~
会下山公園へ向かう
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会下山公園(昼食)
足利尊氏と新田義貞、楠木正成との湊川の戦いの際に、楠木正成が本陣をおいたと
されており、神戸の街を広く望む事ができます。公園内には『大楠公湊川陣之遺蹟』の
碑があり、この碑の文字は日露戦争でロシアのバルチック艦隊と戦った東郷平八郎に
よって書かれました。
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会下山公園を下り
福海寺へ向かう
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JRの高架下を通り
福海寺へ向かう
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福海寺
正式には「大光山福海興国禅寺」という臨済宗南禅寺派の寺院。足利尊氏が在案圓有
を招聘して1344 年に創建され歴代足利将軍に尊崇された。本堂には足利尊氏が書い
たと伝わる『福海興国禅寺』の額が掛かっている。1336 年京都での戦に敗れた足利尊
氏は新田義貞の軍に追われて、この付近にあった「針が埼観音堂」(福海寺の前身)に
身を潜め、かろうじて一命を取り留めた。その後九州へ落ち延び、軍勢を立直して京都
を目指して東進し、湊川の戦いで勝利する。1338 年征夷大将軍に任じられ室町幕府を
開いた足利尊氏は一命を取り留めた「針が埼観音堂」への報恩と戦没者の供養の為に
福海寺を開いた。寺の門には足利家の家紋である『足利二つ引き』が配されています。
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福厳寺
臨済宗南禅寺派の寺院で仏僧国師が開いた寺で、創建の時期は不明だが14 世紀初
め頃とも言われている。1333 年(元弘3 年)に後醍醐天皇が隠岐を脱出し京都へ向か
う途中に立ち寄った寺の一つとされている。その際、赤松則村(円心)や楠木正成など
数千の武士が出迎えた。 尚、後醍醐天皇が福厳寺に滞在のおり、近くの寺院から薬水
を献上したとされ、その寺は薬仙寺の名前を賜ったと云われ現在も和田岬にあります。
門前には「史跡後醍醐天皇駐蹕之處」の碑があります。
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能福寺へ向かう
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能福寺・兵庫大仏(ゴール・解散)
伝教大師(最澄)によって開かれた天台宗の寺で、805 年に創建されたと伝わる。平氏
ゆかりの寺院でもあり平清盛が福原遷都にあたって祈願をした寺であり、又、清盛が出
家をした寺とされている。 1891 年(明治24 年)には大仏が建立され、奈良、鎌倉の大
仏と共に日本3 大仏とされていた。しかし、太平洋戦争時代の金属回収令で国に供出さ
れ、現在のものは1991 年に再建されたものです。
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又、神戸事件の責を負って切腹した瀧善三郎正信の碑があります。
神戸事件とは、慶応4年(1868 年)1 月に西宮警備を命令された備前藩兵が大砲を引
いて西国街道を通過中に、三宮神社前で行列を横切ろうとした、フランス人水兵を槍で
刺傷させ、神戸の町が一時、外国兵に占拠されました。この事件では全責任を負って同
年2 月に兵庫の津、永福寺で外国人代表らの立会いの面前で瀧善三郎正信が切腹し
て結着しました。 ・・・日本の武士の責任のとり方、切腹が世界的に有名になった事件。
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JR兵庫駅へ向かう
途中で見えた柳原えびす神社
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JR 兵庫駅
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