8月17日の羽曳野・藤井寺史跡古墳巡り-1
8月19日 8月17日の羽曳野・藤井寺史跡古墳巡り-1
昼飲み会てくてくマップ大阪5 約8km
知人のS藤さん・K場さん・M吉さんと4名で昼飲み会てくてくマップハイキング&銭湯へ、
銭湯で汗を流してJR天王寺駅で昼飲み会参加メンバ-と合流して居酒屋へ11名参加、
此の日の私の万歩計は、21870歩で約16.1km、久し振りにとても涼しい中を歩けた。
コース てくてくマップ大阪5をアレンジして、14時迄に阿倍野へ出て銭湯へ・・・
古市駅~白鳥神社~東高野街道~誉田八幡宮~誉田山古墳(応神天皇陵)~大鳥塚
古墳~小室山古墳・頂上~中津山古墳~古室八幡神社~澤田八幡神社~市野山古墳
(允恭天皇陵)~大水川遊歩道~津堂城山古墳・津堂八幡神社~古山産土神社~小山
善光寺~藤井寺アーケード商店街~葛井寺~藤井寺駅
藤井寺駅 →大坂阿部野橋駅~湯処・あべの橋温泉へ
昼飲み会・・・集合場所&時間・・・・JR天王寺駅中央改札 551蓬莱の前辺り
昼飲み会 15:00~17:00 会費@2600円 居酒屋で15品+飲み放題
参加者 11名 終了後二次回のカラオケへ7名参加
古市駅~白鳥神社
白鳥神社
日本武尊、素戔嗚命、稲田姫命を祀る。明治時代に近隣の高屋神社を合祀し、その
祭神である饒速日命、広国押武金日命(安閑天皇)を合せ祀る。
元は軽里の西方の伊岐谷にある白鳥陵の頂に鎮座し、「伊岐宮(いきのみや)」と呼ば
れていた。南北朝・戦国の兵火により衰微し、峯ケ塚古墳の頂の小祠として祀られてき
たが、1596年(慶長9年)の慶長の大地震で倒壊し、そのまま放置されていた。1784年
(天明4年)に古市の氏神として現在地に移された。
東高野街道~誉田八幡宮
東高野街道(ひがしこうやかいどう)
東高野街道とは、かつて京都から高野山への参詣道として用いられた街道。
数ある高野街道のうち、いちばん東側に位置する道筋。八幡(京都府八幡市)で京街道
(大坂街道) と別れ、河内国の東部を通り、長野(大阪府河内長野市)で西高野街道と
合流し、 以南は高野街道として紀見峠、橋本、高野山へ至る。
いつ頃に形成されたかは定かでない。既存の集落を経ず、出来るだけ直線になるように
通されており、自然発生的に形成された道ではなく、計画に基づいて建設された古代道
路であると言われている。 淀川水系の河川や、かつて存在した巨大な河内湖(深野池)
周辺の湿地帯を避けて生駒山地の麓を通り、河内国府(現在の藤井寺市)付近で大和
川を越えると石川の左岸に沿って通った。 平安時代には駅が設置され、京と河内国府
を結ぶ官道としても重要であったとされる。
その後は官道としての重要性は薄れたものの、仏教信仰の一般化に伴い、高野山参り
が盛んになると参拝道として賑わうようになった。
現在では、府道長尾八幡線、枚方バイパス、府道枚方交野寝屋川線、府道枚方富田林
泉佐野線と国道170号(旧道)各道の大半に相当または平行する。
誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)
誉田八幡宮は、大阪府羽曳野市にある神社で、旧社格は府社。主祭神は応神天皇で、
誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の直ぐ南に鎮座する。
社伝によると、欽明天皇20年(559年)に任那の復興を目指した欽明天皇によって、応神
天皇陵前に神廟が設置されたことをもって創建としている。このことから最古の八幡宮を
称している。奈良時代には行基によって神宮寺の長野山護国寺も創建された。永承6年
(1051年)の後冷泉天皇行幸の際に、元の鎮座地から1町ほど南の現在地に遷座した。
八幡神が源氏の氏神とされることから、源氏姓を名乗る歴代の将軍をはじめ、武家の信
仰を受けた。南北朝時代から戦国時代にかけては、別当職の誉田三河入道一族によって
保護されたが、享徳3年(1454年)より始まった河内守護・畠山氏の内輪争いにより社殿・
伽藍を焼失し荒廃した。三好氏により滅ぼされた応神天皇末裔の誉田氏の一部は、四国
や九州に逃れ、また、江戸期には、関西一円の香具師(やし)(露天商)の元締めとして君
臨したといわれている。河内国を支配下に置いた織田信長により、社領をすべて奪われ、
その後、豊臣秀吉は社領200石を寄進し、社殿を再建した。天正14年(1586年)に社殿が
焼失したため、豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行に任命して社殿再建を行ったが、拝殿の
建造中に大坂夏の陣・豊臣氏滅亡があり、建物の内部が未完成のままとなっている。
江戸幕府も200石の社領を安堵し、数度にわたり社殿の修復を行った。 神宮寺の長野山
護国寺は、明治の廃仏毀釈により大半の建物が取り壊され、現在は南大門のみが残る。
東高野街道
誉田山古墳(応神天皇陵)
誉田御廟山古墳 (こんだごびょうやまこふん)又は誉田山古墳(こんだやまこふん)は、大
阪府羽曳野市誉田にある古墳。形状は前方後円墳。古市古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「惠我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみ
ささぎ)」として第15代応神天皇の陵に治定されている。また外濠と外堤は1978年(昭和5
3年)に国の史跡に指定されている。
名称は「応神天皇陵」とも呼ばれ。全国で大仙陵古墳(大阪府堺市)に次ぐ第2位の規模の
巨大古墳である。
大鳥塚古墳(おおとりづかこふん)
大鳥塚古墳は、大阪府藤井寺市古室にある古墳。形状は前方後円墳。古市古墳群を構
成する古墳の1つ。国の史跡に指定されている(史跡「古市古墳群」のうち)。
大阪府東部、藤井寺市・羽曳野市・松原市にまたがる大古墳群である古市古墳群のうち、
中位段丘(国府台地)上に築造された大型前方後円墳である。
墳形は前方後円形で、前方部を南方に向ける。墳丘は後円部で3段築成、前方部で2段
築成。墳丘表面では葺石・円筒埴輪列や、形象埴輪(家形・蓋形・盾形・靫形・冑形埴輪
など)が認められる。墳丘くびれ部両側には造出を付すほか、墳丘周囲には馬蹄形の周
濠が巡らされる(空濠、現在は埋設保存)。大鳥塚古墳は、古墳時代中期の5世紀前葉
頃の築造と推定される(赤面山古墳も同時期)。古市古墳群では大王墓の仲津山古墳
(藤井寺市沢田)と同時期とされ、巨大前方後円墳(大王墓)に次ぐ大型前方後円墳とし
て、当時のヤマト王権の政治階層を示す古墳になる。
小室山古墳へ向かう
小室山古墳(こむろやまこふん)・頂上
古室山古墳は、大阪府藤井寺市古室にある古墳。形状は前方後円墳。古市古墳群を構
成する古墳の1つ。国の史跡に指定されている(史跡「古市古墳群」のうち)。
大阪府東部、藤井寺市・羽曳野市・松原市にまたがる大古墳群である古市古墳群のうち、
中位段丘(国府台地)上に築造された大型前方後円墳である。
墳形は前方後円形で、前方部を北東方に向ける。墳丘は3段築成。墳丘長は150メートル
を測り、古市古墳群では中規模になる。
古室山古墳は、古墳時代中期の4世紀末-5世紀初頭頃の築造と推定される。古市古墳群
では最初の大王墓と目される津堂城山古墳(藤井寺市津堂)と同時期とされ、巨大前方後
円墳(大王墓)に次ぐ大型前方後円墳として、当時のヤマト王権の政治階層を示す古墳。
古室山古墳を後に
仲津山古墳(なかつやまこふん)
仲ツ山古墳(仲津山古墳)は、大阪府藤井寺市沢田にある古墳。形状は前方後円墳。古市
古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「仲津山陵(なかつやまのみささぎ)」として
第15代応神天皇皇后の仲姫命の陵に治定されている。
古市古墳群の北部、誉田御廟山古墳の北東に位置する。全長290m、後円部径170m、高
さ26.2m、前方部幅193m、高さ23.3mで、古市古墳群で2番目、全国でも9番目の大きさを
誇る。国府台地の最高所にあるため、周濠は空濠に近い湿地帯になっている。 出土した埴
輪の特徴から、古市古墳群の巨大前方後円墳では、津堂城山古墳に次いで古く、5世紀前
半の築造と推定されている。
古室八幡神社
神社に由緒書きはありませんが、國府八幡神社由緒に「藤井寺市内には、江戸時代初期の
頃に誕生した八幡神社が五社あり、国府八幡神社以外の八幡神社 は、誉田八幡宮(羽曳野
市)の分霊を勧請したものとされています。沢田八幡神社、古室八幡神社、土師里八幡神社、
津堂八幡神社の四社です。」とあり、江戸時代の初め頃、誉田八幡宮の分霊を勧請した古室
地区の氏神様のようです。
澤田八幡神社
境内には近鉄南大阪線が横切っており、踏切が設けられている。これは1922年大阪鉄道が
布忍駅 - 道明寺駅間を開通した際、町内の中を通ることを避け、仲姫皇后陵の堤に沿って
走らせることにした結果、陵の堤に続く斜面にあった神社を横切ることになったものと考えら
れる。同じように境内に鉄道の線路が横切っている神社の一つに坂田神明宮がある。
当時の住民は線路敷設に肯定的であり、公有地の一部が無償提供されている。
国府八幡神社由緒書によると、国府八幡神社を除く近隣の八幡神社(古室八幡神社、土師
里八幡神社、津堂八幡神社)と同じく、江戸時代初期に誉田八幡宮から勧請されたものとさ
れている。拝殿の棟札には、1655年(明暦元年)11月に旧地の一町西へ遷宮したと伝えられ、
次いで1777年(安永6年)の棟札からこれらの時期に建直しが行われている。沢田の氏神と
して機能し、かつては「先度社」という宮座も存在した。明治5年に村社に列せられる。
此の続きは、
8月17日の羽曳野・藤井寺史跡古墳巡り-2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿します。
https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、市野山古墳へ向かう~
市野山古墳へ向かう
市野山古墳(允恭天皇陵)
市ノ山古墳(いちのやまこふん、市野山古墳)は、大阪府藤井寺市にある古墳。形状は
前方後円墳。古市古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「惠我長野北陵(えがのながののきたの
みささぎ)」として第19代允恭天皇の陵に治定されている。
墳丘長は227mで全国20位。前方部の高さ23.3m、後円部の高さ22.3m。允恭天皇陵とも。
出土した埴輪などから、築造年代は5世紀後半とされる。
大水川遊歩道を津堂城山古墳へ
大水川(おおずいがわ)
藤井寺市のほぼ中央部を南から北へ流れる1級河川・大水川(おおずいがわ)の堤防
上にある散策公園で、大阪外環状線を境に、北は翠花堤苑(すいかていえん)、南は
彩花堤苑(さいかていえん)と命名されています。
津堂城山古墳・津堂八幡神社
津堂城山古墳(つどうしろやまこふん)
津堂城山古墳は、大阪府藤井寺市にある古墳。形状は前方後円墳。古市古墳群を構成
する古墳の1つ。 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「藤井寺陵墓参考地」
(被葬候補者:第19代允恭天皇)として陵墓参考地に治定されている。
前方部は南東を向き、二重の周濠が墳丘を囲んでいる。外側の周濠は宅地や田畑となっ
ているが、これを含めると古墳の全長は400m以上になる。
これまでの発掘調査などから築造は4世紀後半とみられ、古市古墳群の中でも初期の古
墳であり、誉田山古墳よりも先行する。
古山産土神社
創建はさだかではないが、小山地区の氏神として、1590年代に創建されたものと推定さ
れる。その昔は、「辛国神社」を岡村と共有の氏神としていたが、祭礼の度毎に小山村の
氏子と岡村の氏子との間に争いが起こり、両村の間で紛争が絶えないので、豊臣秀吉が
全国統一後(1590年)に、高鷲地区の宮村(現在の羽曳野市高鷲八丁目)の大津神社よ
り「神霊」を分神して、小山地区独自の氏神として祭祀することとなった。
小山善光寺(こやまぜんこうじ)
小山善光寺は、大阪府藤井寺市にある浄土宗の寺院である。山号は南面山。詳しくは南
面山無量壽院善光寺と称する。別名に元善光寺。信濃善光寺の元祖。
天正年間まで城山古墳の後円部外側に接する小字名善光寺屋敷址といわれる位置に
あったが、天正年間織田信長の河内小山城攻めの折、小山城と共に戦火をうける。堂舎
焼失後、西誉宗珍によって慶長年間(江戸時代初期)になって現在地に移転再建される。
小山善光寺は南面山無量壽院善光寺と称し、本田善光の伝説を持っている。その内容と
しては、推古天皇の御代若使主東人(オカオミアズマビト)本田善光が信州に帰国する途
中、難波の堀江で一光三尊仏を拾ってこれを背負って小山の里の隆聖法師の庵に宿泊し
た。法師はその仏像をまつらせてほしいと善光に所望したが一体しかないので二人で三日
三晩にわたり念仏したところ第三日目に一光三尊仏が二体になったので隆聖法師はその
一体を入手して本尊とし河内小山に一寺を建立した。本田善光は他の一体を背負って信
濃に帰り信濃の善光寺の本尊とした。日本で最初に建立されたので日本最初の善光寺と
称するようになった。
藤井寺アーケード商店街
葛井寺
寺伝では神亀2年(725年)、聖武天皇の勅願で行基が創建し、古子山葛井寺(紫雲山金
剛琳寺)の勅号を得たとされ、平安時代になって平城天皇の皇子・阿保親王が再興した
とされている。近世の地誌類や再興勧進帳でも以上の寺伝を踏襲しているが、百済王族
の子孫である渡来人系氏族葛井(藤井)連(ふじいのむらじ)により8世紀中頃に創建され
たとも推定されている。なお、平安時代初期に寺を再興したと伝えられる阿保親王の母も
藤井氏である。
百済辰孫王の後裔氏族である、船氏、津氏とならぶ白猪氏の氏寺として7世紀中葉に建
立が開始された。奈良時代の720年に白猪氏は葛井氏に改姓している。一族からは大
安寺僧慶俊が出ている。
社伝では、大同元年(807)に葛井連道依娘の藤子と後の平城天皇との皇子である阿保
親王によって再建された。また阿保親王の皇子である在原業平が奥の院を造営した。
藤井寺駅
藤井寺駅 →大坂阿部野橋駅~湯処・あべの橋へ
湯処・あべの橋・・・4名
天然温泉・・・大阪市港区の『天然温泉テルメ龍宮』から毎日搬送しています。
源泉名 龍宮温泉 1号 阪市港区2丁目3番33号 深さ 1,500m
泉質 ナトリウム塩化物強塩温泉 泉温 摂氏53.9度(浴槽温度40~42℃)
効能 ・神経痛・筋肉痛・関節・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・打ち身・くじき
・慢性消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進・切り傷
・やけど・慢性皮膚病・虚弱体質・慢性婦人病
昼飲み会集合場所へ
JR天王寺駅中央改札
飲み会へ
二次回はカラオケへ 7名
昼飲み会てくてくマップ大阪5 約8km
知人のS藤さん・K場さん・M吉さんと4名で昼飲み会てくてくマップハイキング&銭湯へ、
銭湯で汗を流してJR天王寺駅で昼飲み会参加メンバ-と合流して居酒屋へ11名参加、
此の日の私の万歩計は、21870歩で約16.1km、久し振りにとても涼しい中を歩けた。
コース てくてくマップ大阪5をアレンジして、14時迄に阿倍野へ出て銭湯へ・・・
古市駅~白鳥神社~東高野街道~誉田八幡宮~誉田山古墳(応神天皇陵)~大鳥塚
古墳~小室山古墳・頂上~中津山古墳~古室八幡神社~澤田八幡神社~市野山古墳
(允恭天皇陵)~大水川遊歩道~津堂城山古墳・津堂八幡神社~古山産土神社~小山
善光寺~藤井寺アーケード商店街~葛井寺~藤井寺駅
藤井寺駅 →大坂阿部野橋駅~湯処・あべの橋温泉へ
昼飲み会・・・集合場所&時間・・・・JR天王寺駅中央改札 551蓬莱の前辺り
昼飲み会 15:00~17:00 会費@2600円 居酒屋で15品+飲み放題
参加者 11名 終了後二次回のカラオケへ7名参加
古市駅~白鳥神社
白鳥神社
日本武尊、素戔嗚命、稲田姫命を祀る。明治時代に近隣の高屋神社を合祀し、その
祭神である饒速日命、広国押武金日命(安閑天皇)を合せ祀る。
元は軽里の西方の伊岐谷にある白鳥陵の頂に鎮座し、「伊岐宮(いきのみや)」と呼ば
れていた。南北朝・戦国の兵火により衰微し、峯ケ塚古墳の頂の小祠として祀られてき
たが、1596年(慶長9年)の慶長の大地震で倒壊し、そのまま放置されていた。1784年
(天明4年)に古市の氏神として現在地に移された。
東高野街道~誉田八幡宮
東高野街道(ひがしこうやかいどう)
東高野街道とは、かつて京都から高野山への参詣道として用いられた街道。
数ある高野街道のうち、いちばん東側に位置する道筋。八幡(京都府八幡市)で京街道
(大坂街道) と別れ、河内国の東部を通り、長野(大阪府河内長野市)で西高野街道と
合流し、 以南は高野街道として紀見峠、橋本、高野山へ至る。
いつ頃に形成されたかは定かでない。既存の集落を経ず、出来るだけ直線になるように
通されており、自然発生的に形成された道ではなく、計画に基づいて建設された古代道
路であると言われている。 淀川水系の河川や、かつて存在した巨大な河内湖(深野池)
周辺の湿地帯を避けて生駒山地の麓を通り、河内国府(現在の藤井寺市)付近で大和
川を越えると石川の左岸に沿って通った。 平安時代には駅が設置され、京と河内国府
を結ぶ官道としても重要であったとされる。
その後は官道としての重要性は薄れたものの、仏教信仰の一般化に伴い、高野山参り
が盛んになると参拝道として賑わうようになった。
現在では、府道長尾八幡線、枚方バイパス、府道枚方交野寝屋川線、府道枚方富田林
泉佐野線と国道170号(旧道)各道の大半に相当または平行する。
誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)
誉田八幡宮は、大阪府羽曳野市にある神社で、旧社格は府社。主祭神は応神天皇で、
誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の直ぐ南に鎮座する。
社伝によると、欽明天皇20年(559年)に任那の復興を目指した欽明天皇によって、応神
天皇陵前に神廟が設置されたことをもって創建としている。このことから最古の八幡宮を
称している。奈良時代には行基によって神宮寺の長野山護国寺も創建された。永承6年
(1051年)の後冷泉天皇行幸の際に、元の鎮座地から1町ほど南の現在地に遷座した。
八幡神が源氏の氏神とされることから、源氏姓を名乗る歴代の将軍をはじめ、武家の信
仰を受けた。南北朝時代から戦国時代にかけては、別当職の誉田三河入道一族によって
保護されたが、享徳3年(1454年)より始まった河内守護・畠山氏の内輪争いにより社殿・
伽藍を焼失し荒廃した。三好氏により滅ぼされた応神天皇末裔の誉田氏の一部は、四国
や九州に逃れ、また、江戸期には、関西一円の香具師(やし)(露天商)の元締めとして君
臨したといわれている。河内国を支配下に置いた織田信長により、社領をすべて奪われ、
その後、豊臣秀吉は社領200石を寄進し、社殿を再建した。天正14年(1586年)に社殿が
焼失したため、豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行に任命して社殿再建を行ったが、拝殿の
建造中に大坂夏の陣・豊臣氏滅亡があり、建物の内部が未完成のままとなっている。
江戸幕府も200石の社領を安堵し、数度にわたり社殿の修復を行った。 神宮寺の長野山
護国寺は、明治の廃仏毀釈により大半の建物が取り壊され、現在は南大門のみが残る。
東高野街道
誉田山古墳(応神天皇陵)
誉田御廟山古墳 (こんだごびょうやまこふん)又は誉田山古墳(こんだやまこふん)は、大
阪府羽曳野市誉田にある古墳。形状は前方後円墳。古市古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「惠我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみ
ささぎ)」として第15代応神天皇の陵に治定されている。また外濠と外堤は1978年(昭和5
3年)に国の史跡に指定されている。
名称は「応神天皇陵」とも呼ばれ。全国で大仙陵古墳(大阪府堺市)に次ぐ第2位の規模の
巨大古墳である。
大鳥塚古墳(おおとりづかこふん)
大鳥塚古墳は、大阪府藤井寺市古室にある古墳。形状は前方後円墳。古市古墳群を構
成する古墳の1つ。国の史跡に指定されている(史跡「古市古墳群」のうち)。
大阪府東部、藤井寺市・羽曳野市・松原市にまたがる大古墳群である古市古墳群のうち、
中位段丘(国府台地)上に築造された大型前方後円墳である。
墳形は前方後円形で、前方部を南方に向ける。墳丘は後円部で3段築成、前方部で2段
築成。墳丘表面では葺石・円筒埴輪列や、形象埴輪(家形・蓋形・盾形・靫形・冑形埴輪
など)が認められる。墳丘くびれ部両側には造出を付すほか、墳丘周囲には馬蹄形の周
濠が巡らされる(空濠、現在は埋設保存)。大鳥塚古墳は、古墳時代中期の5世紀前葉
頃の築造と推定される(赤面山古墳も同時期)。古市古墳群では大王墓の仲津山古墳
(藤井寺市沢田)と同時期とされ、巨大前方後円墳(大王墓)に次ぐ大型前方後円墳とし
て、当時のヤマト王権の政治階層を示す古墳になる。
小室山古墳へ向かう
小室山古墳(こむろやまこふん)・頂上
古室山古墳は、大阪府藤井寺市古室にある古墳。形状は前方後円墳。古市古墳群を構
成する古墳の1つ。国の史跡に指定されている(史跡「古市古墳群」のうち)。
大阪府東部、藤井寺市・羽曳野市・松原市にまたがる大古墳群である古市古墳群のうち、
中位段丘(国府台地)上に築造された大型前方後円墳である。
墳形は前方後円形で、前方部を北東方に向ける。墳丘は3段築成。墳丘長は150メートル
を測り、古市古墳群では中規模になる。
古室山古墳は、古墳時代中期の4世紀末-5世紀初頭頃の築造と推定される。古市古墳群
では最初の大王墓と目される津堂城山古墳(藤井寺市津堂)と同時期とされ、巨大前方後
円墳(大王墓)に次ぐ大型前方後円墳として、当時のヤマト王権の政治階層を示す古墳。
古室山古墳を後に
仲津山古墳(なかつやまこふん)
仲ツ山古墳(仲津山古墳)は、大阪府藤井寺市沢田にある古墳。形状は前方後円墳。古市
古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「仲津山陵(なかつやまのみささぎ)」として
第15代応神天皇皇后の仲姫命の陵に治定されている。
古市古墳群の北部、誉田御廟山古墳の北東に位置する。全長290m、後円部径170m、高
さ26.2m、前方部幅193m、高さ23.3mで、古市古墳群で2番目、全国でも9番目の大きさを
誇る。国府台地の最高所にあるため、周濠は空濠に近い湿地帯になっている。 出土した埴
輪の特徴から、古市古墳群の巨大前方後円墳では、津堂城山古墳に次いで古く、5世紀前
半の築造と推定されている。
古室八幡神社
神社に由緒書きはありませんが、國府八幡神社由緒に「藤井寺市内には、江戸時代初期の
頃に誕生した八幡神社が五社あり、国府八幡神社以外の八幡神社 は、誉田八幡宮(羽曳野
市)の分霊を勧請したものとされています。沢田八幡神社、古室八幡神社、土師里八幡神社、
津堂八幡神社の四社です。」とあり、江戸時代の初め頃、誉田八幡宮の分霊を勧請した古室
地区の氏神様のようです。
澤田八幡神社
境内には近鉄南大阪線が横切っており、踏切が設けられている。これは1922年大阪鉄道が
布忍駅 - 道明寺駅間を開通した際、町内の中を通ることを避け、仲姫皇后陵の堤に沿って
走らせることにした結果、陵の堤に続く斜面にあった神社を横切ることになったものと考えら
れる。同じように境内に鉄道の線路が横切っている神社の一つに坂田神明宮がある。
当時の住民は線路敷設に肯定的であり、公有地の一部が無償提供されている。
国府八幡神社由緒書によると、国府八幡神社を除く近隣の八幡神社(古室八幡神社、土師
里八幡神社、津堂八幡神社)と同じく、江戸時代初期に誉田八幡宮から勧請されたものとさ
れている。拝殿の棟札には、1655年(明暦元年)11月に旧地の一町西へ遷宮したと伝えられ、
次いで1777年(安永6年)の棟札からこれらの時期に建直しが行われている。沢田の氏神と
して機能し、かつては「先度社」という宮座も存在した。明治5年に村社に列せられる。
此の続きは、
8月17日の羽曳野・藤井寺史跡古墳巡り-2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿します。
https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、市野山古墳へ向かう~
市野山古墳へ向かう
市野山古墳(允恭天皇陵)
市ノ山古墳(いちのやまこふん、市野山古墳)は、大阪府藤井寺市にある古墳。形状は
前方後円墳。古市古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「惠我長野北陵(えがのながののきたの
みささぎ)」として第19代允恭天皇の陵に治定されている。
墳丘長は227mで全国20位。前方部の高さ23.3m、後円部の高さ22.3m。允恭天皇陵とも。
出土した埴輪などから、築造年代は5世紀後半とされる。
大水川遊歩道を津堂城山古墳へ
大水川(おおずいがわ)
藤井寺市のほぼ中央部を南から北へ流れる1級河川・大水川(おおずいがわ)の堤防
上にある散策公園で、大阪外環状線を境に、北は翠花堤苑(すいかていえん)、南は
彩花堤苑(さいかていえん)と命名されています。
津堂城山古墳・津堂八幡神社
津堂城山古墳(つどうしろやまこふん)
津堂城山古墳は、大阪府藤井寺市にある古墳。形状は前方後円墳。古市古墳群を構成
する古墳の1つ。 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「藤井寺陵墓参考地」
(被葬候補者:第19代允恭天皇)として陵墓参考地に治定されている。
前方部は南東を向き、二重の周濠が墳丘を囲んでいる。外側の周濠は宅地や田畑となっ
ているが、これを含めると古墳の全長は400m以上になる。
これまでの発掘調査などから築造は4世紀後半とみられ、古市古墳群の中でも初期の古
墳であり、誉田山古墳よりも先行する。
古山産土神社
創建はさだかではないが、小山地区の氏神として、1590年代に創建されたものと推定さ
れる。その昔は、「辛国神社」を岡村と共有の氏神としていたが、祭礼の度毎に小山村の
氏子と岡村の氏子との間に争いが起こり、両村の間で紛争が絶えないので、豊臣秀吉が
全国統一後(1590年)に、高鷲地区の宮村(現在の羽曳野市高鷲八丁目)の大津神社よ
り「神霊」を分神して、小山地区独自の氏神として祭祀することとなった。
小山善光寺(こやまぜんこうじ)
小山善光寺は、大阪府藤井寺市にある浄土宗の寺院である。山号は南面山。詳しくは南
面山無量壽院善光寺と称する。別名に元善光寺。信濃善光寺の元祖。
天正年間まで城山古墳の後円部外側に接する小字名善光寺屋敷址といわれる位置に
あったが、天正年間織田信長の河内小山城攻めの折、小山城と共に戦火をうける。堂舎
焼失後、西誉宗珍によって慶長年間(江戸時代初期)になって現在地に移転再建される。
小山善光寺は南面山無量壽院善光寺と称し、本田善光の伝説を持っている。その内容と
しては、推古天皇の御代若使主東人(オカオミアズマビト)本田善光が信州に帰国する途
中、難波の堀江で一光三尊仏を拾ってこれを背負って小山の里の隆聖法師の庵に宿泊し
た。法師はその仏像をまつらせてほしいと善光に所望したが一体しかないので二人で三日
三晩にわたり念仏したところ第三日目に一光三尊仏が二体になったので隆聖法師はその
一体を入手して本尊とし河内小山に一寺を建立した。本田善光は他の一体を背負って信
濃に帰り信濃の善光寺の本尊とした。日本で最初に建立されたので日本最初の善光寺と
称するようになった。
藤井寺アーケード商店街
葛井寺
寺伝では神亀2年(725年)、聖武天皇の勅願で行基が創建し、古子山葛井寺(紫雲山金
剛琳寺)の勅号を得たとされ、平安時代になって平城天皇の皇子・阿保親王が再興した
とされている。近世の地誌類や再興勧進帳でも以上の寺伝を踏襲しているが、百済王族
の子孫である渡来人系氏族葛井(藤井)連(ふじいのむらじ)により8世紀中頃に創建され
たとも推定されている。なお、平安時代初期に寺を再興したと伝えられる阿保親王の母も
藤井氏である。
百済辰孫王の後裔氏族である、船氏、津氏とならぶ白猪氏の氏寺として7世紀中葉に建
立が開始された。奈良時代の720年に白猪氏は葛井氏に改姓している。一族からは大
安寺僧慶俊が出ている。
社伝では、大同元年(807)に葛井連道依娘の藤子と後の平城天皇との皇子である阿保
親王によって再建された。また阿保親王の皇子である在原業平が奥の院を造営した。
藤井寺駅
藤井寺駅 →大坂阿部野橋駅~湯処・あべの橋へ
湯処・あべの橋・・・4名
天然温泉・・・大阪市港区の『天然温泉テルメ龍宮』から毎日搬送しています。
源泉名 龍宮温泉 1号 阪市港区2丁目3番33号 深さ 1,500m
泉質 ナトリウム塩化物強塩温泉 泉温 摂氏53.9度(浴槽温度40~42℃)
効能 ・神経痛・筋肉痛・関節・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・打ち身・くじき
・慢性消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進・切り傷
・やけど・慢性皮膚病・虚弱体質・慢性婦人病
昼飲み会集合場所へ
JR天王寺駅中央改札
飲み会へ
二次回はカラオケへ 7名
2018-08-19 23:40
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