19日の堺市の三陵巡り&ステーキハウスで会食ー1
9月24日 19日の堺市の三陵巡り&ステーキハウスで会食ー1
9月度の歴史探訪の会例会
9月19日の歴史探訪の会は、ステーキハウスでの会食が有る為、事前に申し込んで、
当日は弁当を持たないで参加の為、リュックを背負わない方々も半数、天気も良く・・・
コース JR上野芝駅 受付・10時スタート 此の日の参加者は 25名
上野芝駅(受付・スタート)~履中天皇陵~大仙公園~仁徳天皇陵~ステーキハウス
「徳庵」(昼食)~反正天皇陵~方違神社(解散)・・・南海堺東駅 or JR堺市駅
自宅近くのバス停
バス停前のレジャービル
上野芝駅で受付・スタート
地下道を潜って履中天皇陵側へ
履中天皇陵
履中天皇(りちゅうてんのう)
履中天皇は、第17代天皇(在位:履中天皇元年2月1日 - 同6年3月15日)。名は大兄
去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと)、大江之伊邪本和気命。中国の『宋書』
に見える「倭の五王」中の倭王讃に比定する説がある(応神天皇もしくは仁徳天皇と
する説もあり)。また古事記には「壬申年正月三日」に64歳で崩ずとの記事が見える
が、定かではない。
仁徳天皇87年1月、仁徳天皇崩御。住吉仲皇子が皇位を奪おうとして叛するが、弟の
瑞歯別皇子(後の反正天皇)に命じてこれを誅殺させ、履中天皇元年2月に即位。同2
年、蘇我満智(まち)・物部伊莒弗(いこふつ)・平群木菟(つく)・円大使主(つぶらのお
おおみ)らを国政に参画させた。同4年8月、諸国に国史(ふみひと)と呼ばれる書記官
を設置し、国内の情勢を報告させた。同6年正月に蔵職(くらのつかさ)と蔵部を興し(『
古語拾遺』には内蔵を興すとある)、3月に病気のため稚桜宮で崩御した。『書紀』に
70歳、『古事記』に64歳、『神皇正統記』に67歳。
後円墳の方へまわり
履中天皇陵を見る為の展望所から
大仙公園へ入って
大仙公園
仁徳天皇陵古墳に隣接する38万㎡の緑と歴史に包まれた市のシンボルパーク。
どら池、芝生広場、児童の森など自然との触れ合い空間や、博物館、茶室、日本
庭園などがあり「日本の歴史公園100選」の一つです。
七観音山古墳(しちかんやまこふん)
七観山古墳とは、大阪府堺市堺区旭ヶ丘中町4丁にかつて存在した古墳(円墳)で
七観古墳(しちかんこふん)ともいう。百舌鳥古墳群に属しており、大正時代と太平
洋戦争後に発掘され、大量の鉄製武器と甲冑が出土している。
出土した遺物は、鉄製甲冑(衝角付冑7、短甲6以上など)、鉄製素環頭大刀、鉄刀
(130前後)、蛇行状鉄剣、鉄剣、鉄鉾、鉄鏃(百数十)などの大量の武器、武具
が出土している。このうち衝角付冑の中には、鉢の部分が動物の毛皮で作られたと
見られる珍しいものも含まれている。また鉄斧、手斧、やりがんな、金銅製帯金具、
それに鐙などの馬具も出土している。そのほかに、滑石製勾玉、剣形鉄製品が採
集されている。
大仙公園
戦没者慰霊塔の前を通り仁徳天皇陵へ向かう
大仙公園内の
聖の帝と称された仁徳天皇の詠んだ歌碑
「百姓富めるは則ち朕が富めるなり」 仁徳天皇
ご慈悲を偲んで詠んだ歌
「高き屋に登りて見れば煙立つ民のかまどはにぎはいにけり」 新古今和歌集
仁徳天皇陵へ向かう
青空が綺麗
仁徳天皇陵
拝所へ向かう
仁徳天皇陵 拝所
大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)または大山古墳(だいせんこふん)は、大阪府堺
市堺区大仙町にある古墳。形状は前方後円墳。百舌鳥古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらの
なかのみささぎ)」として第16代仁徳天皇の陵に治定されている。名称は「仁徳天皇陵
(にんとくてんのうりょう)」や「仁徳陵古墳」とも。
全国で第1位の規模の巨大古墳であり、同古墳を擁する堺市は、クフ王ピラミッド及び
秦の始皇帝墓陵に並ぶ「世界三大墳墓」と称している。
採集されている円筒埴輪や須恵器の特徴から5世紀前半から半ばに築造されたものと
考えられている。前方部埋葬施設の副葬品は5世紀後期のものと考えられるが、前方
部に存在する副次的な埋葬施設の年代として問題ないとされる。
『記紀』『延喜式』などの記述によれば、百舌鳥の地には仁徳天皇、反正天皇、履中天
皇の3陵が築造されたことになっている。しかし、それぞれの3陵として現在宮内庁が治
定している古墳は、考古学的には履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)→仁徳天皇陵
(大仙陵古墳)→反正天皇陵(田出井山古墳)の順で築造されたと想定されており、大き
く矛盾が生じている。このことから、百舌鳥の巨大古墳の中で最も古く位置づけられる
伝履中天皇陵を伝仁徳天皇陵にあてる見解もある。しかし、この場合は後述する『延喜
式』の記述と大きく食い違うことになる。
此の続きは、
19日の堺市の三陵巡り&ステーキハウスで会食ー2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿します。
https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、昼食のステーキハウスへ向かう~
ステーキハウスへ向かう
銅亀山古墳
銅亀山古墳(どうがめやまこふん)は、大阪府堺市堺区大仙町に所在する古墳である。
百舌鳥古墳群の中では数少ない方墳の一つで、大山古墳(大仙陵古墳・仁徳天皇陵
古墳)の陪塚とされる。墳丘は、宮内庁によって「仁徳天皇陵に号飛地」として管理され
ている。大山古墳の前方部南西隅の外堀に隣接している一辺26m、高さ5.4m、二段
築成の方墳とされている。築造は出土された円筒埴輪の年代から、大山古墳の築造最
終段階の5世紀中頃にあわせて完成されたと推測される。
ステーキハウス「徳庵」到着
昼食はコース料理の会食
食事を終えて
反正天皇陵へ向かう
永山古墳
永山古墳(ながやまこふん)は、大阪府堺市堺区東永山園に所在する前方後円墳。百
舌鳥古墳群を構成する古墳の1つ。
宮内庁により第16代仁徳天皇の陵の「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみさ
さぎ)」の陪冢に治定されているほか、周濠は堺市指定史跡に指定されている。
大仙古墳の周濠の北側に接して、前方部を南南西に向けて立地している前方後円墳
である。大仙陵古墳の陪塚の可能性がある。墳丘は段築によって築かれ、全長104m、
後円部は径約63m、高さ9m、前方部幅67m、高さ約8mを測る。西側くびれ部に造出
しが認められ、馬蹄形の周濠がめぐる。内部主体、副葬品は不明である。現在、宮内
庁より大仙陵古墳(百舌鳥耳原中陵)の陪塚として管理されている。
登録有形文化財
旧天王貯水場
天王貯水池(てんおうちょすいち)とは、かつて大阪府堺市堺区中三国ケ丘町にあった
貯水池。現在は遺構が保存され、旧天王貯水池として国の登録有形文化財に登録さ
れている。
明治43年(1910年)に堺市街地としては初めての上水道施設として建設された煉瓦及
びコンクリート造の貯水池である。創設当時、通常時の堺市への配水は、浅香山浄水
場からポンプで送水していたが、堺市の需要量が多く、余裕がある場合に貯水し、不足
する場合や非常時に十分に配水できる量を貯水する能力をもった構造の貯水池として
建設された。全国では12番目として建設されている。人口6万人規模の給水を行うため、
総面積662m2の貯水規模だった。直射日光を遮り雑菌の繁殖を抑えるために貯水槽
の周囲に土が盛り上げられている。点検用の通路を挟んで2つの貯水槽が設けられた。
それぞれの貯水槽は5つの区画に区切られ、スパン約3.6mの煉瓦造のヴォールト架構
で覆われている。凱旋門風のデザインが施された点検用の出入口がある。このデザイ
ンと施工技術は建築学的価値が高いとされ、上水道の歴史上でも貴重なものと考えら
れている 。設計には大阪府が指導にあたったと考えられている。
昭和37年(1962年)に使用が停止された。
反正天皇陵へ向かう
反正天皇陵
反正天皇(はんぜいてんのう)は、第18代天皇。多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわ
けのみこと)・水歯別命(古事記)。
『宋書』・『梁書』に記される「倭の五王」のうち珍(彌)に比定する説が有力視される。
仁徳天皇の第三皇子。母は葛城襲津彦の女・皇后磐之媛命(いわのひめのみこと)。
履中天皇・住吉仲皇子の同母弟、允恭天皇の同母兄に当たる。
淡路宮(不詳、淡路島?)で生まれ、容姿美麗であった。生まれながらにして綺麗な歯
並びであったので、「瑞歯別」の名があるという。
『古事記』によれば、身長は9尺2寸半(約3.04m)、水歯別命の名は、歯の長さが1寸、
広さ(厚さ)は2分(4ミリ)で、上下等しく整っており、歯を褒め称えて、「水歯」と名付け
られたことによる。
仁徳天皇87年、父仁徳天皇の崩後、叛乱を起こした同母兄の住吉仲皇子をその近習
である曽婆訶理(隼人)を利用して誅殺した(従って、直接手は下していない)。履中天
皇2年1月4日に立太子(皇太弟)。同6年3月15日に履中天皇が崩御し、翌反正天皇元
年1月に即位。兄弟継承はここに始まる。同年8月6日、共に和珥木事の娘である和珥
津野媛を皇夫人に、和珥弟媛を妃に立てる。同母兄弟の2天皇と異なり皇族の妻を娶
ることはなく、皇太子も立てず、子孫が即位することもなかった。
反正天皇陵前で集合写真撮影
方違神社へ向う
方違神社
方違神社(ほうちがいじんじゃ)は、大阪府堺市堺区北三国ヶ丘町2丁2-1にある神社。
近郷では「ほうちがいさん」と称され、方違え、方災除けの神として知られる。
社伝では、応神天皇の時代に天神地祇ほか三座を祀り、方違大依羅神と号し、この
社を方違宮と称したとされる。
社地は摂津、河内、和泉の境の三国山(現在は三国ヶ丘と称される)にあり、三令制
国のいずれにも属さない地、方位のない地であるとして、古くから方位、地相、家相な
どの方災除けの神社として信仰を集めてきた。現在でも、転勤、結婚などでの転宅や
海外旅行などの際に祈願する参拝者が多い。自分の在所からでかけていく先の方位
についてのお祓いをしてもらい、清めの御砂を頂いて、自分の家の四方に撒く。
古くから方除けには当地の埴土を包んだちまきを奉ったことから、厄除守に御札のほ
か御砂、ちまきがある。神宮寺の向泉寺は永正年間に焼失し、のち堺市街地に再建
された。1907年(明治40年)に泉北郡向井村の氏神社である向井神社を合祀。
平成30年1月に社殿が建て替えられた。
御祭神は、方違幸大神(かたたがえさちおおかみ) 天神地祇
素盞嗚尊(すさのおのみこと)、住吉大神、神功皇后
方違神社(解散)
南海堺東駅へ帰るGrとJR堺市駅へ帰るGrに分かれて
JR堺市駅から帰る
9月度の歴史探訪の会例会
9月19日の歴史探訪の会は、ステーキハウスでの会食が有る為、事前に申し込んで、
当日は弁当を持たないで参加の為、リュックを背負わない方々も半数、天気も良く・・・
コース JR上野芝駅 受付・10時スタート 此の日の参加者は 25名
上野芝駅(受付・スタート)~履中天皇陵~大仙公園~仁徳天皇陵~ステーキハウス
「徳庵」(昼食)~反正天皇陵~方違神社(解散)・・・南海堺東駅 or JR堺市駅
自宅近くのバス停
バス停前のレジャービル
上野芝駅で受付・スタート
地下道を潜って履中天皇陵側へ
履中天皇陵
履中天皇(りちゅうてんのう)
履中天皇は、第17代天皇(在位:履中天皇元年2月1日 - 同6年3月15日)。名は大兄
去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと)、大江之伊邪本和気命。中国の『宋書』
に見える「倭の五王」中の倭王讃に比定する説がある(応神天皇もしくは仁徳天皇と
する説もあり)。また古事記には「壬申年正月三日」に64歳で崩ずとの記事が見える
が、定かではない。
仁徳天皇87年1月、仁徳天皇崩御。住吉仲皇子が皇位を奪おうとして叛するが、弟の
瑞歯別皇子(後の反正天皇)に命じてこれを誅殺させ、履中天皇元年2月に即位。同2
年、蘇我満智(まち)・物部伊莒弗(いこふつ)・平群木菟(つく)・円大使主(つぶらのお
おおみ)らを国政に参画させた。同4年8月、諸国に国史(ふみひと)と呼ばれる書記官
を設置し、国内の情勢を報告させた。同6年正月に蔵職(くらのつかさ)と蔵部を興し(『
古語拾遺』には内蔵を興すとある)、3月に病気のため稚桜宮で崩御した。『書紀』に
70歳、『古事記』に64歳、『神皇正統記』に67歳。
後円墳の方へまわり
履中天皇陵を見る為の展望所から
大仙公園へ入って
大仙公園
仁徳天皇陵古墳に隣接する38万㎡の緑と歴史に包まれた市のシンボルパーク。
どら池、芝生広場、児童の森など自然との触れ合い空間や、博物館、茶室、日本
庭園などがあり「日本の歴史公園100選」の一つです。
七観音山古墳(しちかんやまこふん)
七観山古墳とは、大阪府堺市堺区旭ヶ丘中町4丁にかつて存在した古墳(円墳)で
七観古墳(しちかんこふん)ともいう。百舌鳥古墳群に属しており、大正時代と太平
洋戦争後に発掘され、大量の鉄製武器と甲冑が出土している。
出土した遺物は、鉄製甲冑(衝角付冑7、短甲6以上など)、鉄製素環頭大刀、鉄刀
(130前後)、蛇行状鉄剣、鉄剣、鉄鉾、鉄鏃(百数十)などの大量の武器、武具
が出土している。このうち衝角付冑の中には、鉢の部分が動物の毛皮で作られたと
見られる珍しいものも含まれている。また鉄斧、手斧、やりがんな、金銅製帯金具、
それに鐙などの馬具も出土している。そのほかに、滑石製勾玉、剣形鉄製品が採
集されている。
大仙公園
戦没者慰霊塔の前を通り仁徳天皇陵へ向かう
大仙公園内の
聖の帝と称された仁徳天皇の詠んだ歌碑
「百姓富めるは則ち朕が富めるなり」 仁徳天皇
ご慈悲を偲んで詠んだ歌
「高き屋に登りて見れば煙立つ民のかまどはにぎはいにけり」 新古今和歌集
仁徳天皇陵へ向かう
青空が綺麗
仁徳天皇陵
拝所へ向かう
仁徳天皇陵 拝所
大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)または大山古墳(だいせんこふん)は、大阪府堺
市堺区大仙町にある古墳。形状は前方後円墳。百舌鳥古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらの
なかのみささぎ)」として第16代仁徳天皇の陵に治定されている。名称は「仁徳天皇陵
(にんとくてんのうりょう)」や「仁徳陵古墳」とも。
全国で第1位の規模の巨大古墳であり、同古墳を擁する堺市は、クフ王ピラミッド及び
秦の始皇帝墓陵に並ぶ「世界三大墳墓」と称している。
採集されている円筒埴輪や須恵器の特徴から5世紀前半から半ばに築造されたものと
考えられている。前方部埋葬施設の副葬品は5世紀後期のものと考えられるが、前方
部に存在する副次的な埋葬施設の年代として問題ないとされる。
『記紀』『延喜式』などの記述によれば、百舌鳥の地には仁徳天皇、反正天皇、履中天
皇の3陵が築造されたことになっている。しかし、それぞれの3陵として現在宮内庁が治
定している古墳は、考古学的には履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)→仁徳天皇陵
(大仙陵古墳)→反正天皇陵(田出井山古墳)の順で築造されたと想定されており、大き
く矛盾が生じている。このことから、百舌鳥の巨大古墳の中で最も古く位置づけられる
伝履中天皇陵を伝仁徳天皇陵にあてる見解もある。しかし、この場合は後述する『延喜
式』の記述と大きく食い違うことになる。
此の続きは、
19日の堺市の三陵巡り&ステーキハウスで会食ー2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿します。
https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、昼食のステーキハウスへ向かう~
ステーキハウスへ向かう
銅亀山古墳
銅亀山古墳(どうがめやまこふん)は、大阪府堺市堺区大仙町に所在する古墳である。
百舌鳥古墳群の中では数少ない方墳の一つで、大山古墳(大仙陵古墳・仁徳天皇陵
古墳)の陪塚とされる。墳丘は、宮内庁によって「仁徳天皇陵に号飛地」として管理され
ている。大山古墳の前方部南西隅の外堀に隣接している一辺26m、高さ5.4m、二段
築成の方墳とされている。築造は出土された円筒埴輪の年代から、大山古墳の築造最
終段階の5世紀中頃にあわせて完成されたと推測される。
ステーキハウス「徳庵」到着
昼食はコース料理の会食
食事を終えて
反正天皇陵へ向かう
永山古墳
永山古墳(ながやまこふん)は、大阪府堺市堺区東永山園に所在する前方後円墳。百
舌鳥古墳群を構成する古墳の1つ。
宮内庁により第16代仁徳天皇の陵の「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみさ
さぎ)」の陪冢に治定されているほか、周濠は堺市指定史跡に指定されている。
大仙古墳の周濠の北側に接して、前方部を南南西に向けて立地している前方後円墳
である。大仙陵古墳の陪塚の可能性がある。墳丘は段築によって築かれ、全長104m、
後円部は径約63m、高さ9m、前方部幅67m、高さ約8mを測る。西側くびれ部に造出
しが認められ、馬蹄形の周濠がめぐる。内部主体、副葬品は不明である。現在、宮内
庁より大仙陵古墳(百舌鳥耳原中陵)の陪塚として管理されている。
登録有形文化財
旧天王貯水場
天王貯水池(てんおうちょすいち)とは、かつて大阪府堺市堺区中三国ケ丘町にあった
貯水池。現在は遺構が保存され、旧天王貯水池として国の登録有形文化財に登録さ
れている。
明治43年(1910年)に堺市街地としては初めての上水道施設として建設された煉瓦及
びコンクリート造の貯水池である。創設当時、通常時の堺市への配水は、浅香山浄水
場からポンプで送水していたが、堺市の需要量が多く、余裕がある場合に貯水し、不足
する場合や非常時に十分に配水できる量を貯水する能力をもった構造の貯水池として
建設された。全国では12番目として建設されている。人口6万人規模の給水を行うため、
総面積662m2の貯水規模だった。直射日光を遮り雑菌の繁殖を抑えるために貯水槽
の周囲に土が盛り上げられている。点検用の通路を挟んで2つの貯水槽が設けられた。
それぞれの貯水槽は5つの区画に区切られ、スパン約3.6mの煉瓦造のヴォールト架構
で覆われている。凱旋門風のデザインが施された点検用の出入口がある。このデザイ
ンと施工技術は建築学的価値が高いとされ、上水道の歴史上でも貴重なものと考えら
れている 。設計には大阪府が指導にあたったと考えられている。
昭和37年(1962年)に使用が停止された。
反正天皇陵へ向かう
反正天皇陵
反正天皇(はんぜいてんのう)は、第18代天皇。多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわ
けのみこと)・水歯別命(古事記)。
『宋書』・『梁書』に記される「倭の五王」のうち珍(彌)に比定する説が有力視される。
仁徳天皇の第三皇子。母は葛城襲津彦の女・皇后磐之媛命(いわのひめのみこと)。
履中天皇・住吉仲皇子の同母弟、允恭天皇の同母兄に当たる。
淡路宮(不詳、淡路島?)で生まれ、容姿美麗であった。生まれながらにして綺麗な歯
並びであったので、「瑞歯別」の名があるという。
『古事記』によれば、身長は9尺2寸半(約3.04m)、水歯別命の名は、歯の長さが1寸、
広さ(厚さ)は2分(4ミリ)で、上下等しく整っており、歯を褒め称えて、「水歯」と名付け
られたことによる。
仁徳天皇87年、父仁徳天皇の崩後、叛乱を起こした同母兄の住吉仲皇子をその近習
である曽婆訶理(隼人)を利用して誅殺した(従って、直接手は下していない)。履中天
皇2年1月4日に立太子(皇太弟)。同6年3月15日に履中天皇が崩御し、翌反正天皇元
年1月に即位。兄弟継承はここに始まる。同年8月6日、共に和珥木事の娘である和珥
津野媛を皇夫人に、和珥弟媛を妃に立てる。同母兄弟の2天皇と異なり皇族の妻を娶
ることはなく、皇太子も立てず、子孫が即位することもなかった。
反正天皇陵前で集合写真撮影
方違神社へ向う
方違神社
方違神社(ほうちがいじんじゃ)は、大阪府堺市堺区北三国ヶ丘町2丁2-1にある神社。
近郷では「ほうちがいさん」と称され、方違え、方災除けの神として知られる。
社伝では、応神天皇の時代に天神地祇ほか三座を祀り、方違大依羅神と号し、この
社を方違宮と称したとされる。
社地は摂津、河内、和泉の境の三国山(現在は三国ヶ丘と称される)にあり、三令制
国のいずれにも属さない地、方位のない地であるとして、古くから方位、地相、家相な
どの方災除けの神社として信仰を集めてきた。現在でも、転勤、結婚などでの転宅や
海外旅行などの際に祈願する参拝者が多い。自分の在所からでかけていく先の方位
についてのお祓いをしてもらい、清めの御砂を頂いて、自分の家の四方に撒く。
古くから方除けには当地の埴土を包んだちまきを奉ったことから、厄除守に御札のほ
か御砂、ちまきがある。神宮寺の向泉寺は永正年間に焼失し、のち堺市街地に再建
された。1907年(明治40年)に泉北郡向井村の氏神社である向井神社を合祀。
平成30年1月に社殿が建て替えられた。
御祭神は、方違幸大神(かたたがえさちおおかみ) 天神地祇
素盞嗚尊(すさのおのみこと)、住吉大神、神功皇后
方違神社(解散)
南海堺東駅へ帰るGrとJR堺市駅へ帰るGrに分かれて
JR堺市駅から帰る
2018-09-24 17:17
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