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10月14日の秋を探し安倍王子神社「みのり市」満喫ー1

10月20日          10月14日の秋を探し安倍王子神社「みのり市」満喫ー1
                       近鉄駅フリーハイキング 約9㎞
此の日は・K場さん・M吉さん・I 田さん・O村さん・私の5名でスタート、途中で1名増えて
6名で歩いたが途中の安倍王子神社でM吉さんが帰り、此処からまた5名でゴール迄・・・
コース 近鉄駅フリーハイキング 大阪阿部野橋駅 地下東改札口前受付9時半~11時
大阪阿部野橋駅(受付)~安倍寺跡~童謡さっちゃん碑~松虫塚~安倍晴明神社~安
倍王子神社「みのり市」~万代池公園~神須牟地神社~長居公園(昼食)~鷹合神社~
湯里住吉神社~針中野駅(ゴール)  一緒に歩いてくれた方のお名前が出て来ない?
万代池公園も長居公園も台風でかなりの大木が倒木、改めて台風被害の大きさを実感。
此の日の私の万歩計は、23471歩で約17.2km歩いたことに・・・
志都美駅
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大阪阿部野橋駅スタート
阿倍野ハルカス
地上300m、日本一の高さを誇る超高層複合ビル「あべのハルカス」は、近鉄大阪阿
部野橋駅、天王寺駅各線と直結。 日本最大級の百貨店や展望台、美術館、ホテルな
ど多彩な店舗が出店しており、1日中お楽しみいただけます。 大阪随一の絶景ととも
に堪能できるランチやスイーツなど、絶品グルメも充実。
大阪観光なら日本一高いビル「あべのハルカス」へ!  ほんまでっせ!
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安倍寺跡
阿部氏の氏寺と考えられている。一族には藤原鎌足(かまたり)らと大化の改新を推
進した、左大臣阿部内麻呂がいる。当寺の塔心礎(現在、石の鳥居をもつ松長大明
神(松崎町三丁目6-50)があり、その北側にあった。)から、相当規模の堂塔伽藍が
存在していたと思われ、かつてこの付近から白鳳、奈良時代の重弧文軒瓦(じゅうこ
もんのきがわら)や鬼瓦が出土している。
大阪市阿倍野区松崎町にある「松長大明神」の境内に「阿倍寺推定地」の石碑が建っ
ている。現地の解説版によると、当寺の塔心礎から、相当規模の堂塔伽藍が存在して
いた推測され、この付近からは白鳳、奈良時代の重弧文軒瓦や鬼瓦が出土したとの
ことである。
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※阿倍寺の礎石
大阪市西成区岸里東「天下茶屋公園」内にある「阿倍寺」の礎石。礎石は花崗岩で出
来ており、白鳳時代の五重ノ塔のものと思われ、中央に柱穴を彫り、その穴の中央に
舎利穴がある。
なぜ、松崎町からこの地に礎石が運ばれてきたのかは説明されていない。と言う。

※阿倍野の由来
阿倍野は古来、安倍野若しくは安部野とも書き、現在の「阿倍野」と書く地名は既に
鎌倉時代の文献に見えるが、その地名の起こりについては諸説がある。
① 「余戸説」 東生郡余戸郷(ひがしなりぐんあまるべごう)に関係がある。
② 「阿部島(阿閇島)説」 万葉歌人山辺赤人の歌(万葉集巻3-359)『阿倍の島
鵜の住む磯に寄する波間なく このころ大和し思ほゆ』の「阿倍島」は当地にあった。
③ 「痾免寺説」 弘法大師が当地で、疫難退散の祈祷を修し、淳和天皇より「痾免
寺(あめんじ)」の勅額を賜ったのに由来する。
④ 「阿倍寺説」 この地の豪族阿倍氏の氏寺「阿倍寺」に由来する。
⑤ 「阿倍王子説」 ⑥ 「安倍晴明説」 
などがある。どれも確証はないが、この中で④の「阿倍寺説」が最も有力な説である
とされている。

辻調理師学園ビル?
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童謡さっちゃんの歌碑
童謡「サッちゃん」の作詞をした芥川賞作家の故・阪田寛夫氏が通っていた幼稚園
に歌碑が建てられています。作詞の阪田と作曲の大中は従兄弟である。
2006年10月14日に阪田の通った大阪市阿倍野区の幼稚園にこの歌の碑が建立
され、阪田の次女大浦みずきが建立イベントに立ち会った。
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※作詞の阪田寛夫は、この歌は「近所に住んでいた少女サッちゃんのことを歌って
いる」と語っており、サッちゃんのモデルとなった少女は、阿川佐和子であるとされ
ている。阪田寛夫と、佐和子の父・阿川弘之とが知り合いで、互いの自宅も近かっ
た為で、このことは週刊文春で阿川が連載していた対談「この人に会いたい」の中
で阿川が阪田と対談した際に判明した。しかし、2011年3月18日放送のTBS系
『ぴったんこカン・カン』に阿川が出演した際には、「『実は阿川は関係無く、幼馴染
の少し影のある少女が幼稚園を転園したときの思い出を書いた曲』と言われた」と
発言している。

寄り道して松虫塚へ向かう
チンチン電車の踏切
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松虫塚
松虫塚の由来については、いくつかの説があり、古書「芦分船(あしわけぶね)」
には後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)に仕えた松虫、鈴虫の2人の官女が法然の念
仏に発心し、庵を結び隠棲(いんせい)した所であると伝えられています。
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熊野街道石碑
熊野街道は、京から大坂を経て熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野
那智大社)への参詣に利用された街道の総称。
紀伊路とも呼ばれ、当初は、渡辺津から熊野までが一体として扱われたが、近世
以後は紀伊田辺を境に紀伊路・中辺路と区分されるようになった。後者の中辺路
はユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録されている。
説教浄瑠璃の小栗判官にちなみ小栗街道(おぐりかいどう)とも呼ばれ、大阪市
街(上町)では御祓筋(おはらいすじ)とも呼ばれる。
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※渡辺津・・・現在の八軒家浜 

安倍寺跡を
出た辺りから6名で歩いている
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阿倍晴明神社
安倍晴明公は天文を見てあらゆる事を占い、花山天皇の退位を予知したり、大
江山の鬼退治を指導した事は有名で、百占奇中神の如しと称せられました。
また職神(一種の精霊)を自在に駆使したといわれ、そうして説話が「今昔物語」
等に伝えられています。子孫は土御門家を称し、代々陰陽頭となり江戸時代で
も幕末で造られた暦は一旦朝廷に送られ、土御門家が暦注吉凶を加算した上
で領布された。 
晴明公は寛弘2年(西暦1005年)、9月26年京都の堀川邸で亡くなり、(享年
62歳、系図では85歳)。 堀川邸跡(京都市上京区堀川通一条上ル)は現在晴
明神社と成っている。
もうひとつ、忘れてはいけない安部安部晴明神社が大阪の阿倍野区にあるんで
す。こちらは、安倍晴明の生誕の地といわれ、晴明誕生の秘話が伝えられていま
す。 一条天皇の命により 寛弘2年(1005年)安倍晴明生誕の地に創建された
と伝えれております。現在は大阪市阿倍野の住宅街のど真ん中にある神社です。
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※「安倍晴明説」の地、大阪市阿倍野区阿倍野元町にある「安倍晴明神社」。
この地は安倍晴明の生誕地と伝わり、晴明は奈良時代の豪族阿倍氏の一族に
つながっていたとも言われている。

安倍王子神社(あべおうじじんじゃ)
阿倍王子神社とは大阪府大阪市阿倍野区にある神社。かつては阿倍王子
(あべのおうじ)といい熊野神社の分霊社である九十九王子のひとつであった。
『摂州東成郡阿倍権現縁記』によれば、仁徳天皇の夢の中に熊野三山の使い
である3つの足の烏が現れ、仁徳天皇がそれを捜させると、同じものが当地
(阿倍島という島があったとされる)にいたので、現所在地に神社を創建した。
これとは別に、この地域を本拠した古代豪族の阿倍氏が建立したという説も
ある。
当地は四天王寺と住吉大社のほぼ中間の位置にあり、熊野参詣の街道筋の
九十九王子のひとつ「阿倍王子」として、後鳥羽天皇が熊野御幸を行った平安
時代には、窪津王子(大阪市中央区)、坂口王子(同)、郡戸王子(同)に次ぐ
4番目の王子とされていた(「後鳥羽院熊野御幸記」)。後に郡戸王子と当王子
の間に上野王子(天王寺区)が設置され、5番目の王子となるが、戦国時代の
戦乱により途中の坂口、郡戸、上野の各王子が焼失。安土桃山時代には2番
目の王子となっている。
現在、大阪府内の九十九王子で唯一、旧地に現存している王子である。
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※「痾免寺説」及び「阿倍王子説」の地である、大阪市阿倍野区阿倍野本町に
ある「阿倍王子神社」。この地で弘法大師が疫難退散の祈祷を修したと伝わる。

経塚跡
「摂陽郡談(せつようぐんだん)」の聖徳太子が、諸経の文字を一石に書いて此処
に納めたとする説と、「阿倍権現縁記(あべごんげんえんぎ)」の疫病流行に際し
空海(弘法大師)が1000部の薬師経を書写し、この塚に納めたとする2つの説が
あります。
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阪堺電気軌道上町線の横を
万代池公園へ向かう
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此の続きは、
10月14日の秋を探し安倍王子神社「みのり市」満喫-2 として
           下記のメインブログへ詳細を投稿します。
          https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、万代池公園の入口~
此処にも熊野街道石碑が有る
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万代池公園
聖徳太子の魔物退治の伝説がその名に残る万代池。渡り鳥も人間もほっと寛げる
のどかな公園。
阪堺電気軌道上町線の帝塚山3丁目駅から東へ歩いて数分。周囲約700メートルの
万代池を中心に広がる総面積4.3haの公園。昭和2年(1927)に発行された住吉村誌
によると、その昔、万代池には不思議な魔物が住み、人々を悩ませていたが、聖徳太
子が四天王寺から人を遣わし、お経をあげさせたところ、魔物は現れなくなった。その
時、あげた経が曼陀羅(まんだら)経だったことから、当初は曼陀羅池と呼ばれていた
が、いつの間にかその名が訛り、萬代池(まんだいいけ)になったという。現在の万代
池公園は子供向けの遊具などが置かれ、ラジオ体操やウォーキングなどを楽しむ市
民の憩いの場。桜の時期には地元の花見客でにぎわい、冬はやってくる渡り鳥めあ
てに野鳥ファンが集う。
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台風被害の巨大な倒木も見られる
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神須牟地神社
御祭神は神産霊大神(カミムスビノオオカミ)、天日鷲命(アメノヒワシノミコト)、少名彦
命(スクナヒコノミコト)。
由緒書には「延喜式内の古社であって三の宮と称され遠く二千年昔の御創建である」
とある。
住吉大社が摂津国一の宮と呼ばれたのに対し、当社が三の宮とされた。江戸時代、大
名が参勤交代の途中で住吉大社に参拝する際、当社で旅装から定められた装束に着
替えてから参拝したと言われている。住吉大社の神官が当社の神職を兼任する事が
多かったが、第二次世界大戦後、敗戦の混乱で存亡の危機に立たされ、八尾市の古
社の神官が当社の土地を無償で譲り受け、初代宮司となる。
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※創建年代は不詳なるも、社伝には「2000年前に創建された」と記されている。2000
年前といえば、紀元前後となろう。延喜式神名帳に掲載されているのだから900年頃
には存在していたことは明らかだろう。
神社明細書に「はじめは住吉大社の北方住道に鎮座していたが、729年に楯原に遷
移、その後、現鎮座に三遷した」とある。
これは700年代には存在していたことを示す資料と言えよう。
そして、前述の磯歯津路が雄略天皇の御代のものであるとする日本書紀を信用し、
須牟地神が磯歯津路の道の神として祀られたとすれば、それでも400年代。

長居商店街
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長居公園(昼食)
1928年(昭和3年)5月29日に、大阪市が住吉区東長居町[注 1]の一帯66.12haを
「臨南寺公園」(りんなんじこうえん)として造営計画を決定。ちなみに「臨南寺」は東
長居町に存在した曹洞宗の寺院で、現在も園内の一角に寺院が存在する。1934
年(昭和9年)に「長居公園」に改称後、1944年(昭和19年)4月1日に開園した。
太平洋戦争後の1948年(昭和23年)には園内に市営競馬場として「大阪競馬場」が
開場、1950年には市営競輪場として「大阪中央競輪場」が開場した。しかし大阪競
馬場は開場から11年後の1959年に閉場、大阪中央競輪場もその3年後の1962年
に閉場した。
その後長居公園は本格的な運動公園としての整備開始。競輪場跡に長居陸上競
技場が完成したのを皮切りに、複数のスポーツ施設・文化施設が整備され、1993
年(平成5年)の長居第2陸上競技場の完成をもって整備完了となった。
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鷹合神社
地名にちなんで鷹合神社と呼ばれ、牛頭天王とも称した。古は鷹合村の東方の神所
にあったのを、後に現在地に遷座したという。正式名称は素盞嗚尊神社。
天正年中に武田信玄の臣沼田重光がこの地に来り、村民の信頼を得て当社に奉仕
していたが数年足らずで大坂に移去した際、当社の旧記全部を持ち去ったため、由
緒は不明であるが、住吉神社の旧神官青蓮寺という家の記録の内に、延徳元年
(1489年)八月云々と記録されているので、当社の創祀はその以前であろう。
 
『日本書紀仁徳紀四十三年』依網の屯倉の阿珥古が変わった鳥を捕らえて天皇に奉
り、「私はいつも網を張って鳥を捕っていますが、まだこんな鳥を捕ったことはありませ
ん。 珍しいので献上いたします。」といった。天皇が酒君をよんで、これは何の鳥かと
尋ねられた。酒君が答えて、「この鳥の類は百済には沢山います。 馴らすと人によく
従います。また速く飛んでいろいろの鳥を取ります。百済の人はこの鳥を倶知(くち)と
いいます。」といった。 これは今の鷹である。酒君に授けて養わせた。いくらも経たぬう
ちに馴れた。酒君はなめし革のひもをその足につけ、小鈴をその尾につけ、腕の上に
とまらせ天皇に奉った。 この日百舌鳥野におでましになって狩りをされた。その時雌
雉が沢山飛び立った。そこで鷹を放って捕らせると、たちまち数十の雉を得た。 この月
はじめて鷹甘部を定めた。時の人はその鷹を飼うところを名付けて鷹飼邑といった。
注:酒君は百済王の王族
当神社との関連は不明だが『摂津国名所図絵』には鷹飼邑は今の鷹合村としている。
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湯里住吉神社
天神山に鎮座する須牟地神社が富田荘の氏神であったが、富田荘が分割されて河
内国丹比郡に編入されたため、祭神住吉三神のうちの一座をこの地に勧請して須牟
地神社と称した。住吉二の宮、湯屋島住吉などと呼ばれた。
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針中野駅へむかう
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針中野駅(ゴール)  
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おまけ
家の近所・高速道路の裏道で
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