11月16日の山田川駅~幻の大仏鉄道遺構散策-1
11月29日 11月16日の山田川駅~幻の大仏鉄道遺構散策-1
近鉄駅フリーハイキング 歩程約13㎞
此の日は、久し振りに参加のY田さん、何時ものK場さんM吉さんと私の4名で歩いた・・・
近鉄駅フリーハイキング 山田川駅受付9:30~11:00 10時集合
山田川駅~藤原百川公墓~善修寺~木津川堤防道~和泉式部の墓~JR木津線ガード
~御霊神社~JR加茂線踏切~京大農場~大仏鉄道公園~大仏鉄道遺構・梶ヶ谷隧道・
赤橋~大仏鉄道公園(昼食)~梅谷観光案内所~大仏鉄道社章~松谷川隧道~タツタ
タワー(木津南配水池)~鹿川隧道~元正天皇陵~元明天皇陵~黒髪山トンネル跡(黒
髪橋)~黒髪山神社~聖武天皇陵~光明皇后陵~~大仏鉄道記念公園~称名寺~西
方寺~奈良観光案内所・JR奈良駅
迄、此の日は鹿川隧道を見た帰りに以前JRハイキングで知り合った方に出会い、帰り道
を寄り道して3つの天皇陵と黒髪橋を通るルートを案内して貰う事になって、此の日の私
の万歩計は、3万歩越えで34074歩となり約25.2km歩いたことに・・・疲れた!疲れた!
加茂駅~C57機関車の展示~.観音寺橋脚~.観音寺橋脚~鹿背山橋台~大仏戦廃線
レール 利用の橋は通らず、大仏鉄道公園・梶ヶ谷隧道以降の遺構を散策して来た・・・
志都美駅
畝傍駅~八木西口駅で乗換
山田川駅で知人と合流
藤原百川公の墓
公園のように遊具(滑り台)が有りますが、玉垣で囲まれ双丘(二つの円墳)の有る墓所。
藤原百川と夫人の藤原諸姉(藤原良継の娘) の墓とされています。
藤原百川(雄田麻呂)は、藤原式家の始祖・宇合の八男で、藤原鎌足の曾孫にあたる人
物です。宝亀元年(770)に称徳天皇没後、道鏡を追放して光仁天皇を擁立、山部親王
(後の桓武天皇)を皇太子に立て、藤原氏を復権させました。宝亀10年(779)7月、参議
中衛大将兼式部卿従三位の地位で没しました(47歳)
百川と夫人の墓所は、一時所在が分からなくなっていたが、明治27年に、伝承や江戸
時代の文献から当地に比定されました。
※藤原式家(ふじわらしきけ)
藤原式家とは、右大臣藤原不比等の三男藤原宇合を祖とする家系。宇合が式部卿を
兼ねたことから式家と称した。
※祖の宇合は長屋王の変の後参議に昇進し、他の兄弟たちと共に聖武朝で政権を主導
したが、天平9年(737年)の天然痘蔓延により病没してしまう。さらに直後に大宰少弐に
左遷された宇合の長男広嗣は天平12年(740年)九州にて反乱を起こしたが、敗死してし
まった(藤原広嗣の乱)。この為孝謙 ~ 称徳朝にかけて、南家(豊成・仲麻呂)や北家
(永手)の後塵を拝する時期がしばらく続いた。
広嗣の弟である良継や百川は称徳天皇の後継に光仁天皇を擁立することに成功し、道
鏡・吉備真備に代わって政権の中枢に躍り出た。また、彼らはそれぞれ自分の娘(乙牟
漏・旅子)を皇太子山部親王(のちの桓武天皇)の妃とし後宮政策も行った。彼ら兄弟は
いずれも桓武天皇の即位を見ないまま亡くなったが、乙牟漏は皇后となり平城・嵯峨の
両天皇を、旅子は淳和天皇を産み、平安初期の式家繁栄の礎を築いた。桓武朝では式
家一族は重用され、宇合四男の田麻呂は右大臣ながら廟堂の首班を務め、三男清成の
子である種継は長岡京造営の事業を一任されるなどした。
和泉式部の墓へ向かう
善修寺・・・浄土宗のお寺
和泉式部の墓へ向かう
木津川堤防道
和泉式部の墓
「あらざらむ 此世の外の思い出に 今ひとたびの逢う事もがな」
この歌の詠み手は、平安時代の女流歌人で、木津で生まれ宮仕えの後、木津に戻って
余生を送ったと伝えられている和泉式部です。三十六歌仙のひとりで、一条天皇の中宮
彰子に紫式部らとともに仕え「和泉式部日記」・「和泉式部集」などの歌集を残し、恋多き
歌人といわれています。
和泉式部は幼少の頃より詩歌に親しみ、「和泉守橘道貞」という人物と結婚し、夫の官名
をとって「和泉式部」と呼ばれるようになったといわれています。その夫と離別した後、何
人かの人物と付き合いましたが、みな若くして亡くなってしまいます。その後、中宮彰子の
もとに仕えたことが縁となって、丹後守藤原保昌に嫁入りし、夫の地方への赴任について
いったそうです。和泉式部が美人であったかどうかはわかりませんが、多くの男性を引き
つける魅力を備えていたことは確かなようです。地方へ行った後の消息はよくわかってい
ないことから、お墓といわれるものは全国に多く存在し、それぞれ伝説が残されています。
JR木津線ガード~御霊神社へ向う
御霊神社
木津三社(ほかに岡田国神社、田中神社)の一つ御霊神社(ごりょう じんじゃ)は、木津川
河岸の南に位置している。「木津の御霊」ともいわれ木津郷の産土神として祀られてきた。
祭神は、天穂日命(あまのほひのみこと) 、天津彦根命(あまつひこねのみこと) 、活津彦
根命(いくつひこねのみこと)。アマテラスとスサノオの誓約(うけい)により生まれた男児の
うちの次男、三男、四男を祀る。
創建、変遷の詳細は不明。平安時代、876年、創建されたという。かつては、大路村(木
津川市)にあり、その後移転したという。江戸時代、1730年、現在の社殿が建立された。
JR加茂線踏切
木津駅前~大仏鉄道公園へ向かう
京大農場前~大仏鉄道公園へ向かう
大仏鉄道公園・・・2015年7月開園
京都府木津川市城山台に開園した「大仏鉄道公園」。明治期に9年間だけ開業し、幻の
鉄道とも言われる「大仏鉄道」(約10キロ)の代表的な遺構見学に好アクセスの公園と
なっており、大仏鉄道の遺構保存や研究を行っている「大仏鉄道研究会」も「貴重な遺
構の魅力を感じてほしい」と話している。
大仏鉄道は、明治31年、当時の鉄道会社「関西鉄道」が、現在のJR加茂駅と奈良市の
「大仏駅」間を結んだ路線の愛称。翌年には奈良駅まで路線を延長し、東大寺の大仏拝
観などに名古屋方面などから多くの人が利用したという。
しかし、急坂を走るルートに敷かれた大仏鉄道は、明治40年に加茂駅から木津駅を経
て奈良駅に至る平坦(へいたん)な路線が開通したことなどから廃線となり、わずか9年
で営業を終えた。
大仏鉄道公園~梶ケ谷隧道へ向かう
大仏鉄道遺構・梶ヶ谷隧道・赤橋
「赤橋」と「梶ケ谷隧道(ずいどう)」
赤橋は御影石とレンガを組み合わせて造り、レンガの積み方は長短のレンガを交互に
積むイギリス式。梶ケ谷隧道も御影石、レンガを用いており、レンガのアーチ部分が美
しく残っている。
この2つの遺構は、もともと城山台の開発に伴い撤去される予定だったが、地元住民や
同研究会などの要望もあり現地保存が決定。100年以上前の貴重な鉄道遺構が残さ
れることになった。
梶ケ谷隧道
大仏線築堤を造る際、農道や水路を通すために築堤下部に設けられた隧道です。
壁は煉瓦、側壁は御影石と豪華な作りです。アーチ部分の煉瓦は長手積み坑門は
イギリス積みで当時の技術の高さが良く分かります。保存状態は極めて良く、大仏
鉄道の代表的遺構の一つです。
赤橋
御影石と煉瓦を組み合わせて造られています。長短の赤煉瓦を交互に積むイギリス
式です。大仏鉄道の遺構の中でも最も代表的なもので、今も現役で上を車道が通って
います。
大仏鉄道公園へ戻り(昼食)
大仏鉄道社章モニュメントへ向かう
梅谷観光案内所
大仏鉄道社章モニュメント
松谷川隧道
交差点下の畑地へ下ると松谷川トンネルの遺構が残っています。
松谷川トンネルの上が軌道跡で現在は市道44号線が走っています。
鹿川隧道へ向かう
此の続きは、
11月16日の山田川駅~幻の大仏鉄道遺構散策-2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿します。
https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、タツタタワー(木津南配水池の給水塔)~
タツタタワー(木津南配水池の給水塔)
奈良との県境近く、京都府木津川市にある『木津南配水池』。重要なインフラである
「給水塔」ですが、外壁がレンガで螺旋状に階段が続いて…と、真っ先に「バベルの
塔」を連想させる不思議物件です。残念ながら建物の近くへは行けません。
此処の塀にも幻の大仏鉄道の由緒が描かれていました。
※すぐ横には
タツタ電線(株)の「タツタテクニカルセンター」が有り、タツタタワー(木津南配水池の
給水塔)と混同する
鹿川隧道へ向かう
鹿川隧道
奈良市内で唯一、当時の姿を今に伝える遺構。農業用水路のために造られた細い
トンネルです。現在も水路として利用されています。トンネルの上が大仏鉄道の軌
道跡で 、現在は市道44号線となっています。
元の道路へ戻る
元正天皇陵~元明天皇陵
母と娘の陵墓が、近い位置に並んでいる
黒髪山にある第43代と第44代の天皇陵。被葬者は、文武天皇から聖武天皇へ皇位をつ
なぐために、相次いで皇位に即いた母と娘の女帝として知られる。いずれの陵も、自然丘
陵を利用して造られていて、その大きさは、元明天皇陵が東西約88m・南北約104m、元
正天皇陵が東西約104m・南北約120mとなっている。2つは近い位置に東西に並んでい
て、どちらも南側に拝所がある。なお、宮内庁管轄につき、内部の見学はできない。
元正天皇陵
元正天皇(げんしょうてんのう、680年(天武天皇9年) - 748年5月22日(天平20年4月
21日))は日本(奈良時代)の第44代天皇。女帝(在位:715年10月3日(霊亀元年9月
2日) - 724年3月3日(養老8年2月4日))。父は天武天皇と持統天皇の子である草壁皇
子、母は元明天皇。文武天皇の姉。諱は氷高(ひたか)・日高、又は新家(にいのみ)。
和風諱号は日本根子高瑞浄足姫天皇(やまとねこたまみずきよたらしひめのすめらみ
こと)である。日本の女帝としては5人目であるが、それまでの女帝が皇后や皇太子妃
であったのに対し、結婚経験は無く、独身で即位した初めての女性天皇である。
慶雲4年(707年)に文武天皇が崩御し、その遺児である首皇子(のちの聖武天皇)がま
だ幼かったため、母の阿閉皇女が即位、元明天皇となった。和銅3年(710年)、平城京
に遷都。和銅7年(714年)1月20日、二品氷高内親王に食封一千戸が与えられる。和
銅8年/霊亀元年(715年)1月10日に一品に昇叙。
霊亀元年9月2日、皇太子である甥の首皇子(聖武天皇)がまだ若いため、母・元明天皇
から譲位を受け即位。「続日本紀」にある元明天皇譲位の際の詔には「天の縦せる寛仁、
沈静婉レンにして、華夏載せ佇り」とあり「慈悲深く落ち着いた人柄であり、あでやかで美
しい」と記されている。歴代天皇の中で唯一、母から娘への皇位継承が行われた。これを
女系継承とする考えもあるが、父は草壁皇子であるため男系の血筋をひく女性皇族間の
皇位継承である。
養老元年(717年)から藤原不比等らが中心となって養老律令の編纂を始める。
養老4年(720年)に、日本書紀が完成した。またこの年、藤原不比等が病に倒れ亡くなっ
た。翌年長屋王が右大臣に任命され、事実上政務を任される。長屋王は元正天皇のいと
こにあたり、また妹・吉備内親王の夫であった。不比等の長男・武智麻呂は中納言、次男・
房前は、未だ参議(その後内臣になる)であった。
養老7年(723年)、田地の不足を解消するために三世一身法が制定された。これにより
律令制は崩れ始めていく。
養老8年/神亀元年(724年)2月4日、皇太子(聖武天皇)に譲位した。譲位の詔では新帝
を「我子」と呼んで譲位後も後見人としての立場で聖武天皇を補佐した。
天平15年(743年)、聖武天皇が病気がちで職務がとれなくなると、上皇は改めて「我子」
と呼んで天皇を擁護する詔を出し、翌年には病気の天皇の名代として難波京遷都の勅を
発している。晩年期の上皇は、病気がちで政務が行えずに仏教信仰に傾きがちであった
聖武天皇に代わって、橘諸兄・藤原仲麻呂らと政務を遂行していたと見られている。
元明天皇陵
元明天皇(げんめいてんのう、661年(斉明天皇7年) - 721年12月29日(養老5年12月
7日))は、日本(飛鳥時代 - 奈良時代)の第43代天皇。女帝(在位:707年8月18日(慶
雲4年7月17日) - 715年10月3日(和銅8年9月2日))。名は阿閇皇女(あへのひめみこ)
阿部皇女とも。和風諡号は「日本根子天津御代豊国成姫天皇」(やまと ねこ あまつみよ
(みしろ) とよくに なりひめの すめらみこと、旧字体:−豐國成姬−)である。
天智天皇の皇女で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘(めいのいらつめ)。持統天皇
は父方では異母姉、母方では従姉で、夫の母であるため姑にもあたる。大友皇子(弘文
天皇)は異母兄。天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子の正妃であり、文武天皇と元正天
皇の母。藤原京から平城京へ遷都、『風土記』編纂の詔勅、先帝から編纂が続いていた
『古事記』を完成させ、和同開珎の鋳造等を行った。
黒髪橋へ向かう
黒髪山トンネル跡(黒髪橋)
明治41年大仏鉄道が廃止されたその後も残っていましたが,昭和39年の道路拡張
に伴い、山を切り開きトンネルは取り壊されました。トンネル入口にあった関西鉄道
の社章は大阪の交通科学博物館(平成26年4月6日閉館)に保存されています。
黒髪山神社・・・黒髪山伝説
本殿の横にこの神社の社史があり、黒髪山の名前の由来についても書いてあった。
垂仁天皇の皇后狭穂姫は、兄の狭穂彦王が謀反を起こした時に兄の陣営で皇子を
産んだ。皇子を天皇方に渡そうとするが、その時に捕まらないよう黒髪を切った。そし
てその黒髪を埋めた地がこの「黒髪山」であるという。
「史蹟奈保山西陵7ツ石」という看板があり、隣の建物の壁には「史蹟 黒髪山」の文
字と万葉集が一首書かれている。ここが黒髪山である。
「ぬば玉の 黒髪山の 山草に 小雨ふりしき しくしく 思ほゆ」 柿本人麻呂の作。
聖武天皇陵・光明皇后陵
聖武天皇陵
聖武天皇(しょうむ てんのう) - 756年6月4日は、日本(奈良時代)の第45代天皇。文武
天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。
文武天皇の第一皇子として生まれたが、慶雲4年6月15日(707年7月18日)に7歳で父
と死別、母の宮子も心的障害に陥ったため、その後は長く会うことはなかった。物心が
ついて以後の天皇が病気の平癒した母との対面を果たしたのは齢37のときであった。
このため、同年7月17日(707年8月18日、文武天皇の母である元明天皇(天智天皇皇
女)が中継ぎの天皇として即位した。和銅7年6月25日(714年8月9日)には首皇子の
元服が行われて同日正式に立太子されるも、病弱であったこと、皇親勢力と外戚であ
る藤原氏との対立もあり、即位は先延ばしにされ、翌霊亀元年9月2日(715年10月3
日)に文武天皇の姉である元正天皇が「中継ぎの中継ぎ」として皇位を継ぐことになっ
た。24歳のときに元正天皇より皇位を譲られて即位することになる。
聖武天皇の治世の初期は、皇親勢力を代表する長屋王が政権を担当していた。この
当時、藤原氏は自家出身の光明子(父:藤原不比等、母:県犬養三千代)の立后を願っ
ていた。しかし、皇后は夫の天皇亡き後に中継ぎの天皇として即位する可能性がある
ため皇族しか立后されないのが当時の慣習であったことから、長屋王は光明子の立后
に反対していた。ところが神亀6年(729年)に長屋王の変が起き、長屋王は自害、反対
勢力がなくなったため、光明子は非皇族として初めて立后された。長屋王の変は、長屋
王を取り除き光明子を皇后にするために、不比等の息子で光明子の異母兄である藤原
四兄弟が仕組んだものといわれている。なお、最終的に聖武天皇の後宮には他に4人
の夫人が入ったが、光明皇后を含めた5人全員が藤原不比等・県犬養三千代のいずれ
か、または両人の血縁の者である。
天平9年(737年)に疫病が流行し、藤原四兄弟を始めとする政府高官のほとんどが病死
するという惨事に見舞われ、急遽、長屋王の実弟である鈴鹿王を知太政官事に任じて辛
うじて政府の体裁を整える。さらに、天平12年(740年)には藤原広嗣の乱が起こっている。
乱の最中に、突然関東(伊勢国、美濃国)への行幸を始め、平城京に戻らないまま恭仁京
へ遷都を行う。その後、約10年間の間に目まぐるしく行われた遷都(平城京から恭仁京、
難波京、紫香楽京を経て平城京に戻る)の経過は、『続日本紀』で多くが触れられている。
詳しい動機付けは定かではないが、遷都を頻繁に行った期間中には、前述の藤原広嗣の
乱を始め、先々で火災や大地震[4]など社会不安をもたらす要因に遭遇している。
天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、天平13
年(741年)には国分寺建立の詔を、天平15年(743年)には東大寺盧舎那仏像の建立の詔
を出している。これに加えてたびたび遷都を行って災いから脱却しようとしたものの、官民の
反発が強く、最終的には平城京に復帰した。また、藤原氏の重鎮が相次いで亡くなったため、
国政は橘諸兄(光明皇后の異父兄にあたる)が執り仕切った。天平15年(743年)には、耕さ
れない荒れ地が多いため、新たに墾田永年私財法を制定した。しかし、これによって律令制
の根幹の一部が崩れることとなった。天平16年閏1月13日(744年3月7日)には安積親王が
脚気のため急死した。これは藤原仲麻呂による毒殺と見る説がある。
天平勝宝元年7月2日(749年8月19日)、娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位した(一説には
自らを「三宝の奴」と称した天皇が独断で出家してしまい、それを受けた朝廷が慌てて手続を
執ったともいわれる)。譲位して太上天皇となった初の男性天皇となる。
光明皇后陵
光明皇后(こうみょうこうごう、大宝元年(701年) - 天平宝字4年6月7日(760年7月27日))
は、奈良時代の聖武天皇の皇后。藤原不比等と県犬養橘三千代の女子で、聖武天皇の母
である藤原宮子は異母姉。諱は安宿媛(あすかべひめ)。通称に光明子(こうみょうし)、藤
三娘(とうさんじょう)。 正式な尊号は天平応真仁正皇太后(てんぴょう おうしん にんしょう
こうたいごう)。皇族以外から立后する先例を開いた。
聖武天皇の皇太子時代に結婚し、養老2年(718年)、阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)を
出産。神亀元年(724年)、夫の即位とともに後宮の位階である夫人号を得る。神亀4年(72
7年)、基王を生んだ。
神亀5年(728年)、皇太子に立てられた基王が夭折したため後継を争って長屋王の変が起
こるなど紛糾した。長屋王の変後、天平元年(729年)に皇后にするとの詔が発せられた。こ
れは王族以外から立后された初例である。以後、藤原氏の子女が皇后になる先例となった。
娘である阿倍内親王の立太子、およびその後の孝謙天皇としての即位(天平勝宝元年(74
9年))後、皇后宮職を紫微中台と改称し、甥の藤原仲麻呂を長官に任じてさまざまな施策を
行った。天平勝宝8年(756年)、夫の聖武太上天皇が崩御。その2年後には皇太后号が贈ら
れた。天平宝字4年(760年)に崩御、佐保山東陵に葬られた。
光明皇后は仏教に篤く帰依し、東大寺、国分寺の設立を夫に進言したと伝えられる。また貧し
い人に施しをするための施設「悲田院」、医療施設である「施薬院」を設置して慈善を行った。
夫の死後四十九日に遺品などを東大寺に寄進、その宝物を収めるために正倉院が創設され
た。さらに、興福寺、法華寺、新薬師寺など多くの寺院の創建や整備に関わった。
大仏鉄道記念公園
大仏駅跡を記念する公園「大佛鐵道記念公園」です。機関車の動輪モニュメントと説明
碑があります。
【関西鉄道大仏駅について】
明治28年、草津・名古屋間を全通した関西鉄道は、柘植(つげ)から大阪方面への進出を
計り、2年後の30年11月に加茂まで開通した。ここから梅谷を経由して黒髪山トンネルを
下り31年4月、この地の北側法蓬の交番所の南あたりに大仏駅を設置した。この鉄道は
市民、観光客にも親しまれ大仏詣での人たちもこの駅で下車し、一条通りを通って東大
寺に参拝していた。奈良駅にはその年の12月到達したが乗り入れが実現したのは翌32
年5月であった。その後線路が木津経由に変更となり明治40年8月までの約9年間で廃
止された。昭和39年頃まではトンネルも残っていたが、現在は取り壊されて当時の面影
は今は見られない。 平成4年4月 奈良市(モニュメント横の碑文より)
称名寺
称名寺は、南都興福寺の学僧であった専英、琳英の兄弟が、法相学を修めた後、弥陀本
願の法に触れ念佛の教えを乞うた京都西山三鈷寺の澄忍上人と力をあわせて建立した
常行念佛の道場を創始とし、その創建は、文永2年(1265・鎌倉時代)と伝えられる。
当初は興福寺の北に位置していた為、興北寺とも呼ばれていたが、室町時代に現在の地
に移転された。
開創以来興福寺の別院とし、四宗(浄土宗、法相宗、天台宗、律宗)兼学の寺として、毎年
八講が執行されていたが、明治7年(1874)の廃宗の令により興福寺を離れ現在に至って
いる。
西方寺
西方寺(さいほうじ)は、近鉄奈良駅・JR奈良駅のいずれからも近い奈良のメインストリート
の一つ「大宮通り」沿いに建つ浄土宗の寺院です。
奈良時代の神亀年間(724年~729年)に大仏建立にも貢献した「行基菩薩」が現在のきた
まちエリアの北側にあたる「多聞山(佐保山)」にお寺を創建したことをその由来とするとされ
ています。しかしながら戦国時代になると有名な戦国武将である松永久秀が「多聞城」を築
城することになり、永禄二年(1559年)には現在の地に移転され、その後東大寺の勧進職に
就いていた「祐全上人」によって再興が図られることになったと言われています。
なお、このお寺は戦国期以降は「南都総墓所」とも呼ばれる存在となっており、浄土宗の寺
院であるにも関わらず、万人を救済するという理念のもと阿弥陀仏への信仰を有するすべて
の人々に開かれたお寺とされてきたという歴史も持っているほか、剣豪宮本武蔵がしばらく
滞在したというユニークな伝説も残されています。現在の本堂は焼失後、宝暦7年(1757年)
の再建となっています。
奈良観光案内所・奈良駅
近鉄駅フリーハイキング 歩程約13㎞
此の日は、久し振りに参加のY田さん、何時ものK場さんM吉さんと私の4名で歩いた・・・
近鉄駅フリーハイキング 山田川駅受付9:30~11:00 10時集合
山田川駅~藤原百川公墓~善修寺~木津川堤防道~和泉式部の墓~JR木津線ガード
~御霊神社~JR加茂線踏切~京大農場~大仏鉄道公園~大仏鉄道遺構・梶ヶ谷隧道・
赤橋~大仏鉄道公園(昼食)~梅谷観光案内所~大仏鉄道社章~松谷川隧道~タツタ
タワー(木津南配水池)~鹿川隧道~元正天皇陵~元明天皇陵~黒髪山トンネル跡(黒
髪橋)~黒髪山神社~聖武天皇陵~光明皇后陵~~大仏鉄道記念公園~称名寺~西
方寺~奈良観光案内所・JR奈良駅
迄、此の日は鹿川隧道を見た帰りに以前JRハイキングで知り合った方に出会い、帰り道
を寄り道して3つの天皇陵と黒髪橋を通るルートを案内して貰う事になって、此の日の私
の万歩計は、3万歩越えで34074歩となり約25.2km歩いたことに・・・疲れた!疲れた!
加茂駅~C57機関車の展示~.観音寺橋脚~.観音寺橋脚~鹿背山橋台~大仏戦廃線
レール 利用の橋は通らず、大仏鉄道公園・梶ヶ谷隧道以降の遺構を散策して来た・・・
志都美駅
畝傍駅~八木西口駅で乗換
山田川駅で知人と合流
藤原百川公の墓
公園のように遊具(滑り台)が有りますが、玉垣で囲まれ双丘(二つの円墳)の有る墓所。
藤原百川と夫人の藤原諸姉(藤原良継の娘) の墓とされています。
藤原百川(雄田麻呂)は、藤原式家の始祖・宇合の八男で、藤原鎌足の曾孫にあたる人
物です。宝亀元年(770)に称徳天皇没後、道鏡を追放して光仁天皇を擁立、山部親王
(後の桓武天皇)を皇太子に立て、藤原氏を復権させました。宝亀10年(779)7月、参議
中衛大将兼式部卿従三位の地位で没しました(47歳)
百川と夫人の墓所は、一時所在が分からなくなっていたが、明治27年に、伝承や江戸
時代の文献から当地に比定されました。
※藤原式家(ふじわらしきけ)
藤原式家とは、右大臣藤原不比等の三男藤原宇合を祖とする家系。宇合が式部卿を
兼ねたことから式家と称した。
※祖の宇合は長屋王の変の後参議に昇進し、他の兄弟たちと共に聖武朝で政権を主導
したが、天平9年(737年)の天然痘蔓延により病没してしまう。さらに直後に大宰少弐に
左遷された宇合の長男広嗣は天平12年(740年)九州にて反乱を起こしたが、敗死してし
まった(藤原広嗣の乱)。この為孝謙 ~ 称徳朝にかけて、南家(豊成・仲麻呂)や北家
(永手)の後塵を拝する時期がしばらく続いた。
広嗣の弟である良継や百川は称徳天皇の後継に光仁天皇を擁立することに成功し、道
鏡・吉備真備に代わって政権の中枢に躍り出た。また、彼らはそれぞれ自分の娘(乙牟
漏・旅子)を皇太子山部親王(のちの桓武天皇)の妃とし後宮政策も行った。彼ら兄弟は
いずれも桓武天皇の即位を見ないまま亡くなったが、乙牟漏は皇后となり平城・嵯峨の
両天皇を、旅子は淳和天皇を産み、平安初期の式家繁栄の礎を築いた。桓武朝では式
家一族は重用され、宇合四男の田麻呂は右大臣ながら廟堂の首班を務め、三男清成の
子である種継は長岡京造営の事業を一任されるなどした。
和泉式部の墓へ向かう
善修寺・・・浄土宗のお寺
和泉式部の墓へ向かう
木津川堤防道
和泉式部の墓
「あらざらむ 此世の外の思い出に 今ひとたびの逢う事もがな」
この歌の詠み手は、平安時代の女流歌人で、木津で生まれ宮仕えの後、木津に戻って
余生を送ったと伝えられている和泉式部です。三十六歌仙のひとりで、一条天皇の中宮
彰子に紫式部らとともに仕え「和泉式部日記」・「和泉式部集」などの歌集を残し、恋多き
歌人といわれています。
和泉式部は幼少の頃より詩歌に親しみ、「和泉守橘道貞」という人物と結婚し、夫の官名
をとって「和泉式部」と呼ばれるようになったといわれています。その夫と離別した後、何
人かの人物と付き合いましたが、みな若くして亡くなってしまいます。その後、中宮彰子の
もとに仕えたことが縁となって、丹後守藤原保昌に嫁入りし、夫の地方への赴任について
いったそうです。和泉式部が美人であったかどうかはわかりませんが、多くの男性を引き
つける魅力を備えていたことは確かなようです。地方へ行った後の消息はよくわかってい
ないことから、お墓といわれるものは全国に多く存在し、それぞれ伝説が残されています。
JR木津線ガード~御霊神社へ向う
御霊神社
木津三社(ほかに岡田国神社、田中神社)の一つ御霊神社(ごりょう じんじゃ)は、木津川
河岸の南に位置している。「木津の御霊」ともいわれ木津郷の産土神として祀られてきた。
祭神は、天穂日命(あまのほひのみこと) 、天津彦根命(あまつひこねのみこと) 、活津彦
根命(いくつひこねのみこと)。アマテラスとスサノオの誓約(うけい)により生まれた男児の
うちの次男、三男、四男を祀る。
創建、変遷の詳細は不明。平安時代、876年、創建されたという。かつては、大路村(木
津川市)にあり、その後移転したという。江戸時代、1730年、現在の社殿が建立された。
JR加茂線踏切
木津駅前~大仏鉄道公園へ向かう
京大農場前~大仏鉄道公園へ向かう
大仏鉄道公園・・・2015年7月開園
京都府木津川市城山台に開園した「大仏鉄道公園」。明治期に9年間だけ開業し、幻の
鉄道とも言われる「大仏鉄道」(約10キロ)の代表的な遺構見学に好アクセスの公園と
なっており、大仏鉄道の遺構保存や研究を行っている「大仏鉄道研究会」も「貴重な遺
構の魅力を感じてほしい」と話している。
大仏鉄道は、明治31年、当時の鉄道会社「関西鉄道」が、現在のJR加茂駅と奈良市の
「大仏駅」間を結んだ路線の愛称。翌年には奈良駅まで路線を延長し、東大寺の大仏拝
観などに名古屋方面などから多くの人が利用したという。
しかし、急坂を走るルートに敷かれた大仏鉄道は、明治40年に加茂駅から木津駅を経
て奈良駅に至る平坦(へいたん)な路線が開通したことなどから廃線となり、わずか9年
で営業を終えた。
大仏鉄道公園~梶ケ谷隧道へ向かう
大仏鉄道遺構・梶ヶ谷隧道・赤橋
「赤橋」と「梶ケ谷隧道(ずいどう)」
赤橋は御影石とレンガを組み合わせて造り、レンガの積み方は長短のレンガを交互に
積むイギリス式。梶ケ谷隧道も御影石、レンガを用いており、レンガのアーチ部分が美
しく残っている。
この2つの遺構は、もともと城山台の開発に伴い撤去される予定だったが、地元住民や
同研究会などの要望もあり現地保存が決定。100年以上前の貴重な鉄道遺構が残さ
れることになった。
梶ケ谷隧道
大仏線築堤を造る際、農道や水路を通すために築堤下部に設けられた隧道です。
壁は煉瓦、側壁は御影石と豪華な作りです。アーチ部分の煉瓦は長手積み坑門は
イギリス積みで当時の技術の高さが良く分かります。保存状態は極めて良く、大仏
鉄道の代表的遺構の一つです。
赤橋
御影石と煉瓦を組み合わせて造られています。長短の赤煉瓦を交互に積むイギリス
式です。大仏鉄道の遺構の中でも最も代表的なもので、今も現役で上を車道が通って
います。
大仏鉄道公園へ戻り(昼食)
大仏鉄道社章モニュメントへ向かう
梅谷観光案内所
大仏鉄道社章モニュメント
松谷川隧道
交差点下の畑地へ下ると松谷川トンネルの遺構が残っています。
松谷川トンネルの上が軌道跡で現在は市道44号線が走っています。
鹿川隧道へ向かう
此の続きは、
11月16日の山田川駅~幻の大仏鉄道遺構散策-2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿します。
https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、タツタタワー(木津南配水池の給水塔)~
タツタタワー(木津南配水池の給水塔)
奈良との県境近く、京都府木津川市にある『木津南配水池』。重要なインフラである
「給水塔」ですが、外壁がレンガで螺旋状に階段が続いて…と、真っ先に「バベルの
塔」を連想させる不思議物件です。残念ながら建物の近くへは行けません。
此処の塀にも幻の大仏鉄道の由緒が描かれていました。
※すぐ横には
タツタ電線(株)の「タツタテクニカルセンター」が有り、タツタタワー(木津南配水池の
給水塔)と混同する
鹿川隧道へ向かう
鹿川隧道
奈良市内で唯一、当時の姿を今に伝える遺構。農業用水路のために造られた細い
トンネルです。現在も水路として利用されています。トンネルの上が大仏鉄道の軌
道跡で 、現在は市道44号線となっています。
元の道路へ戻る
元正天皇陵~元明天皇陵
母と娘の陵墓が、近い位置に並んでいる
黒髪山にある第43代と第44代の天皇陵。被葬者は、文武天皇から聖武天皇へ皇位をつ
なぐために、相次いで皇位に即いた母と娘の女帝として知られる。いずれの陵も、自然丘
陵を利用して造られていて、その大きさは、元明天皇陵が東西約88m・南北約104m、元
正天皇陵が東西約104m・南北約120mとなっている。2つは近い位置に東西に並んでい
て、どちらも南側に拝所がある。なお、宮内庁管轄につき、内部の見学はできない。
元正天皇陵
元正天皇(げんしょうてんのう、680年(天武天皇9年) - 748年5月22日(天平20年4月
21日))は日本(奈良時代)の第44代天皇。女帝(在位:715年10月3日(霊亀元年9月
2日) - 724年3月3日(養老8年2月4日))。父は天武天皇と持統天皇の子である草壁皇
子、母は元明天皇。文武天皇の姉。諱は氷高(ひたか)・日高、又は新家(にいのみ)。
和風諱号は日本根子高瑞浄足姫天皇(やまとねこたまみずきよたらしひめのすめらみ
こと)である。日本の女帝としては5人目であるが、それまでの女帝が皇后や皇太子妃
であったのに対し、結婚経験は無く、独身で即位した初めての女性天皇である。
慶雲4年(707年)に文武天皇が崩御し、その遺児である首皇子(のちの聖武天皇)がま
だ幼かったため、母の阿閉皇女が即位、元明天皇となった。和銅3年(710年)、平城京
に遷都。和銅7年(714年)1月20日、二品氷高内親王に食封一千戸が与えられる。和
銅8年/霊亀元年(715年)1月10日に一品に昇叙。
霊亀元年9月2日、皇太子である甥の首皇子(聖武天皇)がまだ若いため、母・元明天皇
から譲位を受け即位。「続日本紀」にある元明天皇譲位の際の詔には「天の縦せる寛仁、
沈静婉レンにして、華夏載せ佇り」とあり「慈悲深く落ち着いた人柄であり、あでやかで美
しい」と記されている。歴代天皇の中で唯一、母から娘への皇位継承が行われた。これを
女系継承とする考えもあるが、父は草壁皇子であるため男系の血筋をひく女性皇族間の
皇位継承である。
養老元年(717年)から藤原不比等らが中心となって養老律令の編纂を始める。
養老4年(720年)に、日本書紀が完成した。またこの年、藤原不比等が病に倒れ亡くなっ
た。翌年長屋王が右大臣に任命され、事実上政務を任される。長屋王は元正天皇のいと
こにあたり、また妹・吉備内親王の夫であった。不比等の長男・武智麻呂は中納言、次男・
房前は、未だ参議(その後内臣になる)であった。
養老7年(723年)、田地の不足を解消するために三世一身法が制定された。これにより
律令制は崩れ始めていく。
養老8年/神亀元年(724年)2月4日、皇太子(聖武天皇)に譲位した。譲位の詔では新帝
を「我子」と呼んで譲位後も後見人としての立場で聖武天皇を補佐した。
天平15年(743年)、聖武天皇が病気がちで職務がとれなくなると、上皇は改めて「我子」
と呼んで天皇を擁護する詔を出し、翌年には病気の天皇の名代として難波京遷都の勅を
発している。晩年期の上皇は、病気がちで政務が行えずに仏教信仰に傾きがちであった
聖武天皇に代わって、橘諸兄・藤原仲麻呂らと政務を遂行していたと見られている。
元明天皇陵
元明天皇(げんめいてんのう、661年(斉明天皇7年) - 721年12月29日(養老5年12月
7日))は、日本(飛鳥時代 - 奈良時代)の第43代天皇。女帝(在位:707年8月18日(慶
雲4年7月17日) - 715年10月3日(和銅8年9月2日))。名は阿閇皇女(あへのひめみこ)
阿部皇女とも。和風諡号は「日本根子天津御代豊国成姫天皇」(やまと ねこ あまつみよ
(みしろ) とよくに なりひめの すめらみこと、旧字体:−豐國成姬−)である。
天智天皇の皇女で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘(めいのいらつめ)。持統天皇
は父方では異母姉、母方では従姉で、夫の母であるため姑にもあたる。大友皇子(弘文
天皇)は異母兄。天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子の正妃であり、文武天皇と元正天
皇の母。藤原京から平城京へ遷都、『風土記』編纂の詔勅、先帝から編纂が続いていた
『古事記』を完成させ、和同開珎の鋳造等を行った。
黒髪橋へ向かう
黒髪山トンネル跡(黒髪橋)
明治41年大仏鉄道が廃止されたその後も残っていましたが,昭和39年の道路拡張
に伴い、山を切り開きトンネルは取り壊されました。トンネル入口にあった関西鉄道
の社章は大阪の交通科学博物館(平成26年4月6日閉館)に保存されています。
黒髪山神社・・・黒髪山伝説
本殿の横にこの神社の社史があり、黒髪山の名前の由来についても書いてあった。
垂仁天皇の皇后狭穂姫は、兄の狭穂彦王が謀反を起こした時に兄の陣営で皇子を
産んだ。皇子を天皇方に渡そうとするが、その時に捕まらないよう黒髪を切った。そし
てその黒髪を埋めた地がこの「黒髪山」であるという。
「史蹟奈保山西陵7ツ石」という看板があり、隣の建物の壁には「史蹟 黒髪山」の文
字と万葉集が一首書かれている。ここが黒髪山である。
「ぬば玉の 黒髪山の 山草に 小雨ふりしき しくしく 思ほゆ」 柿本人麻呂の作。
聖武天皇陵・光明皇后陵
聖武天皇陵
聖武天皇(しょうむ てんのう) - 756年6月4日は、日本(奈良時代)の第45代天皇。文武
天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。
文武天皇の第一皇子として生まれたが、慶雲4年6月15日(707年7月18日)に7歳で父
と死別、母の宮子も心的障害に陥ったため、その後は長く会うことはなかった。物心が
ついて以後の天皇が病気の平癒した母との対面を果たしたのは齢37のときであった。
このため、同年7月17日(707年8月18日、文武天皇の母である元明天皇(天智天皇皇
女)が中継ぎの天皇として即位した。和銅7年6月25日(714年8月9日)には首皇子の
元服が行われて同日正式に立太子されるも、病弱であったこと、皇親勢力と外戚であ
る藤原氏との対立もあり、即位は先延ばしにされ、翌霊亀元年9月2日(715年10月3
日)に文武天皇の姉である元正天皇が「中継ぎの中継ぎ」として皇位を継ぐことになっ
た。24歳のときに元正天皇より皇位を譲られて即位することになる。
聖武天皇の治世の初期は、皇親勢力を代表する長屋王が政権を担当していた。この
当時、藤原氏は自家出身の光明子(父:藤原不比等、母:県犬養三千代)の立后を願っ
ていた。しかし、皇后は夫の天皇亡き後に中継ぎの天皇として即位する可能性がある
ため皇族しか立后されないのが当時の慣習であったことから、長屋王は光明子の立后
に反対していた。ところが神亀6年(729年)に長屋王の変が起き、長屋王は自害、反対
勢力がなくなったため、光明子は非皇族として初めて立后された。長屋王の変は、長屋
王を取り除き光明子を皇后にするために、不比等の息子で光明子の異母兄である藤原
四兄弟が仕組んだものといわれている。なお、最終的に聖武天皇の後宮には他に4人
の夫人が入ったが、光明皇后を含めた5人全員が藤原不比等・県犬養三千代のいずれ
か、または両人の血縁の者である。
天平9年(737年)に疫病が流行し、藤原四兄弟を始めとする政府高官のほとんどが病死
するという惨事に見舞われ、急遽、長屋王の実弟である鈴鹿王を知太政官事に任じて辛
うじて政府の体裁を整える。さらに、天平12年(740年)には藤原広嗣の乱が起こっている。
乱の最中に、突然関東(伊勢国、美濃国)への行幸を始め、平城京に戻らないまま恭仁京
へ遷都を行う。その後、約10年間の間に目まぐるしく行われた遷都(平城京から恭仁京、
難波京、紫香楽京を経て平城京に戻る)の経過は、『続日本紀』で多くが触れられている。
詳しい動機付けは定かではないが、遷都を頻繁に行った期間中には、前述の藤原広嗣の
乱を始め、先々で火災や大地震[4]など社会不安をもたらす要因に遭遇している。
天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、天平13
年(741年)には国分寺建立の詔を、天平15年(743年)には東大寺盧舎那仏像の建立の詔
を出している。これに加えてたびたび遷都を行って災いから脱却しようとしたものの、官民の
反発が強く、最終的には平城京に復帰した。また、藤原氏の重鎮が相次いで亡くなったため、
国政は橘諸兄(光明皇后の異父兄にあたる)が執り仕切った。天平15年(743年)には、耕さ
れない荒れ地が多いため、新たに墾田永年私財法を制定した。しかし、これによって律令制
の根幹の一部が崩れることとなった。天平16年閏1月13日(744年3月7日)には安積親王が
脚気のため急死した。これは藤原仲麻呂による毒殺と見る説がある。
天平勝宝元年7月2日(749年8月19日)、娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位した(一説には
自らを「三宝の奴」と称した天皇が独断で出家してしまい、それを受けた朝廷が慌てて手続を
執ったともいわれる)。譲位して太上天皇となった初の男性天皇となる。
光明皇后陵
光明皇后(こうみょうこうごう、大宝元年(701年) - 天平宝字4年6月7日(760年7月27日))
は、奈良時代の聖武天皇の皇后。藤原不比等と県犬養橘三千代の女子で、聖武天皇の母
である藤原宮子は異母姉。諱は安宿媛(あすかべひめ)。通称に光明子(こうみょうし)、藤
三娘(とうさんじょう)。 正式な尊号は天平応真仁正皇太后(てんぴょう おうしん にんしょう
こうたいごう)。皇族以外から立后する先例を開いた。
聖武天皇の皇太子時代に結婚し、養老2年(718年)、阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)を
出産。神亀元年(724年)、夫の即位とともに後宮の位階である夫人号を得る。神亀4年(72
7年)、基王を生んだ。
神亀5年(728年)、皇太子に立てられた基王が夭折したため後継を争って長屋王の変が起
こるなど紛糾した。長屋王の変後、天平元年(729年)に皇后にするとの詔が発せられた。こ
れは王族以外から立后された初例である。以後、藤原氏の子女が皇后になる先例となった。
娘である阿倍内親王の立太子、およびその後の孝謙天皇としての即位(天平勝宝元年(74
9年))後、皇后宮職を紫微中台と改称し、甥の藤原仲麻呂を長官に任じてさまざまな施策を
行った。天平勝宝8年(756年)、夫の聖武太上天皇が崩御。その2年後には皇太后号が贈ら
れた。天平宝字4年(760年)に崩御、佐保山東陵に葬られた。
光明皇后は仏教に篤く帰依し、東大寺、国分寺の設立を夫に進言したと伝えられる。また貧し
い人に施しをするための施設「悲田院」、医療施設である「施薬院」を設置して慈善を行った。
夫の死後四十九日に遺品などを東大寺に寄進、その宝物を収めるために正倉院が創設され
た。さらに、興福寺、法華寺、新薬師寺など多くの寺院の創建や整備に関わった。
大仏鉄道記念公園
大仏駅跡を記念する公園「大佛鐵道記念公園」です。機関車の動輪モニュメントと説明
碑があります。
【関西鉄道大仏駅について】
明治28年、草津・名古屋間を全通した関西鉄道は、柘植(つげ)から大阪方面への進出を
計り、2年後の30年11月に加茂まで開通した。ここから梅谷を経由して黒髪山トンネルを
下り31年4月、この地の北側法蓬の交番所の南あたりに大仏駅を設置した。この鉄道は
市民、観光客にも親しまれ大仏詣での人たちもこの駅で下車し、一条通りを通って東大
寺に参拝していた。奈良駅にはその年の12月到達したが乗り入れが実現したのは翌32
年5月であった。その後線路が木津経由に変更となり明治40年8月までの約9年間で廃
止された。昭和39年頃まではトンネルも残っていたが、現在は取り壊されて当時の面影
は今は見られない。 平成4年4月 奈良市(モニュメント横の碑文より)
称名寺
称名寺は、南都興福寺の学僧であった専英、琳英の兄弟が、法相学を修めた後、弥陀本
願の法に触れ念佛の教えを乞うた京都西山三鈷寺の澄忍上人と力をあわせて建立した
常行念佛の道場を創始とし、その創建は、文永2年(1265・鎌倉時代)と伝えられる。
当初は興福寺の北に位置していた為、興北寺とも呼ばれていたが、室町時代に現在の地
に移転された。
開創以来興福寺の別院とし、四宗(浄土宗、法相宗、天台宗、律宗)兼学の寺として、毎年
八講が執行されていたが、明治7年(1874)の廃宗の令により興福寺を離れ現在に至って
いる。
西方寺
西方寺(さいほうじ)は、近鉄奈良駅・JR奈良駅のいずれからも近い奈良のメインストリート
の一つ「大宮通り」沿いに建つ浄土宗の寺院です。
奈良時代の神亀年間(724年~729年)に大仏建立にも貢献した「行基菩薩」が現在のきた
まちエリアの北側にあたる「多聞山(佐保山)」にお寺を創建したことをその由来とするとされ
ています。しかしながら戦国時代になると有名な戦国武将である松永久秀が「多聞城」を築
城することになり、永禄二年(1559年)には現在の地に移転され、その後東大寺の勧進職に
就いていた「祐全上人」によって再興が図られることになったと言われています。
なお、このお寺は戦国期以降は「南都総墓所」とも呼ばれる存在となっており、浄土宗の寺
院であるにも関わらず、万人を救済するという理念のもと阿弥陀仏への信仰を有するすべて
の人々に開かれたお寺とされてきたという歴史も持っているほか、剣豪宮本武蔵がしばらく
滞在したというユニークな伝説も残されています。現在の本堂は焼失後、宝暦7年(1757年)
の再建となっています。
奈良観光案内所・奈良駅
2018-11-29 01:29
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