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12月9日の大阪探訪 大絶景!めがね橋を歩く-1

12月11日        12月9日の大阪探訪 大絶景!めがね橋を歩く-1
                  南海・近鉄・阪神 TRYあんぐるウオーク
此の日は、後で分かった事だが大阪の最高気温が8度と、この冬一番の寒さだった様で
確かに西成公園で昼食の時一気に手がかじかんだ事、其の後陽当たりの良い陽射しの
有る場所を選んで歩いた事を帰ってから思い出した。やっぱリ寒かったんだと・・・
コース  近鉄大阪上本町駅(受付9時半~10時)
大阪上本町駅(受付・スタート)~生国魂神社~大蓮寺・吉本芸人塚~新世界・通天閣~
~てんしば~あべのハルカス~新開筋商店街~鶴見橋商店街・津守商店街~西成公園
~津守神社~千本松渡船場・千本松大橋(めがね橋)~千島公園~阪神ドーム前駅
久し振りのハイキング、此の日の私の万歩計は、31946歩で約23.6km歩いたことに・・・
大阪上本町駅(受付・スタート)で知人と合流、生国魂神社へ向う
生国魂神社
式内社で、旧社格は官幣大社。難波大社(なにわのおおやしろ)ともいう。地元で
は生玉(いくたま)さんの通称で親しまれている。
伝承によれば、神武東征の際に、神武天皇が難波碕(現在の上町台地)の先端
に日本列島そのものの神である生島大神・足島大神を祀り、国家安泰を祈願した
ことに始まるという。『日本書紀』孝徳天皇即位前紀には、天皇が難波宮造営に際
して北隣する「生國魂社の樹(木)」を切ったとある。延喜式神名帳には「難波坐生
國咲國魂神社 二座」と記載され、名神大社に列している。
1496年(明応5年)に蓮如によって、のちに石山本願寺となる石山御坊の草庵が
神域の一角に結ばれた。石山本願寺は豊臣期の大坂城の詰之丸に存在したとさ
れ、当社の最初の鎮座地は豊臣期の詰之丸付近に相当する、現在の天守閣周
辺ということになる。1580年(天正8年)に石山合戦の戦火により焼失。1583年
(天正11年)には豊臣秀吉による大坂城築城に際して現在地への移転が決定さ
れた。
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既に来年の干支が・・・
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※大蓮寺
なにわの名刹・浄土宗大蓮寺は、いまから450 年前の天文19年(1550年)3月5日、
時の将軍足利義晴の三男坊・晴誉上人によって、足利家の大坂祈願所として創建さ
れました。正式な山号は「浄土宗如意珠應山極楽院大蓮寺」。
当時5千坪を有したといわれる大蓮寺は、その頃から大阪屈指の寺院として名高く、
近世には徳川家の祈願所として愛護され、浄土宗別格寺院としての威容を誇りまし
た。境内は東西五町南北四町、塔頭8ヶ寺、直末75ヶ寺を有したといわれます。
明治45年、大阪大火によって境内の一部を焼失。昭和20年3月14日大阪大空襲に
より伽藍を焼失して、戦後再建されました。寛永期造立された梵鐘は総高206cm、
市中第一といわれましたが、戦時中に供出されました。
また、大蓮寺では近世から大規模な寺子屋が開かれ、根来誠齋や石田梅岩とも縁
が深く、顕彰碑や門弟の墓碑が現存しています。広大な寺域ではしばしば出開帳や
勧進興行も催され、「摂津名所図会」に記録があります。また大坂三十三ヶ所観音
霊場巡礼の二十八番札所としても知られ、往時のにぎわいは近松門左衛門の名作
「曽根崎心中」にも描かれています。
明治29年には天王寺中学校(現高校)、高津小学校が当山で発祥、昭和28年には
境内に直営のパドマ幼稚園を開園、平成9年には塔頭・應典院を再建、社会教育や
芸術活動に取り組むなど、現代も地域文教の寺院として広く親しまれています。
吉本芸人塚
墓地西入り口に、平成5年秋には、吉本興行創業者吉本せいの遺児にあたる辻阪
邦子氏の発起により、無名芸人を偲ぶモニュメント「吉本芸人塚」が建立されました。
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新世界へ向かう
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新世界
1897年(明治30年)に大阪市へ編入される以前は西成郡今宮村の一部で、畑地や荒
地が広がっていた。市街化のきっかけとなったのが、1903年(明治36年)に開催された
第5回内国勧業博覧会で、東に隣接する旧東成郡天王寺村の一部とともに会場敷地と
なった。「内国」とあるが、国内外からの最新技術が披露された点では「万博」に近いも
のがあり、博覧会は5ヶ月間で入場者530万人という大盛況の内に幕を閉じた。
博覧会に合わせて日本橋筋の3丁目以南(現在のでんでんタウン)が整備された。会場
の西縁には既に1885年(明治18年)12月に南海鉄道(現・南海本線)が、南縁には188
9年(明治22年)5月に大阪鉄道(初代。関西鉄道を経て現・JR関西本線)が通じていた
が、会期中は南海鉄道が今宮戎駅南側に「博覧会会場門」駅を、関西鉄道が天王寺駅
西側に「博覧会」駅をそれぞれ開設。来場者の利便性を図った(博覧会終了後は両駅と
も廃止)。 1907年(明治40年)には片岡直輝ら大阪財界有志が恵美須町から浜寺まで
の鉄道敷設を申請。1910年に「阪堺電気軌道」(旧)が設立され、翌1911年に恵美須町
から市之町までが開業した。大阪財界は恵美須町がターミナル駅として発展することを
見越して、博覧会跡地を一大娯楽センターとする計画を立案する。
1908年(明治41年)には博覧会跡地北西角の恵美須交差点から大阪市電南北線が
難波を経由して梅田まで開通している。
博覧会跡地は日露戦争中に陸軍が使用したのち、1909年(明治42年)に東側の約5万
坪が大阪市によって天王寺公園となった。西側の約2万8千坪は大阪財界出資の大阪
土地建物会社に払い下げられ、1912年(明治45年)7月3日、「大阪の新名所」というふ
れこみで「新世界」が誕生。通天閣とルナパークが開業した。開発当初は「新巴里」「第
二千日」と仮称されていたが、開業の際、「新世界」と改められた。

福永大神・・・新世界稲荷神社
創建は明治45年、通天閣の近くにある比較的歴史の浅い神社です。 境内には、
石でできたルーレット形のおみくじ機?があり、円盤を回して出た数字を横の表に
照らし合わせて運勢を占うというもので無料です。正面の鳥居には福永大神とあ
りますが、中の鳥居には新世界稲荷神社とあり、こちらが正しいようです。
入り口の石標も鳥居の額も福永大神とあるが、中は新世界稲荷神社となっている。
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通天閣
通天閣(つうてんかく)は、大阪府大阪市浪速区の新世界中心部に建つ展望塔である。
2007年5月15日に、国の登録有形文化財となった。公式キャラクターは「ビリケン」。
大阪の観光名所として知られる。現在の通天閣は二代目で、1956年(昭和31年)に完
成した。通天閣観光株式会社(つうてんかくかんこう株)により運営されている。避雷針
を含めた高さは108m(塔自体の高さは100m。避雷針は2016年に3mのものから8mの
ものに更新している)。設計者は、ほぼ同時期にできた名古屋テレビ塔、東京タワーなど
を手がけた内藤多仲。建設を施工したのは奥村組である。「通天閣」とは、「天に通じる
高い建物」という意味で、命名したのは明治初期の儒学者、藤沢南岳である。
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新世界ラジウム温泉・・・HPから
大阪のシンボル通天閣の真下に、大阪新世界の銭湯・ラジウム温泉があります。ワン
コインセットで、手ぶらでブラッと入れます。通天閣を眺められる大きな露天風呂では、
本物のラジウム鉱石(人形峠産鉱石)を使い本格的なラジウム温泉を体験して頂けま
す。又、関西でも数少ない高濃度人工炭酸泉風呂設備のある銭湯です。優待駐車場
のサービスも完備しています。朝風呂年中AM6:00から営業。是非お越しください!
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ジャンジャン町・・・ジャンジャン横丁(ジャンジャンよこちょう)
「ジャンジャン横丁」は、新世界の南東部に位置しており、全長約180m。アーケード
はあるが、横幅は2.5mほどと非常に狭い。それがかえって活気を醸し出している。
「ジャンジャン横丁」は通称で、正式名称は「南陽通商店街」である。
した飛田遊廓(1958年廃業)と新世界をつなぐ道筋として1921年、橋本傳三郎の尽力
で開通した。当時の地名は橋本の出身地である島根県の旧国名に因み「石見町」と称
していた。開通当時は関西本線を地下道でくぐる計画であったが、地元の反対にあい、
踏切となった(紆余曲折の末、1923年ごろに地下道が開通)。 当時としては一級の歓
楽街であった新世界と花街をつなぐルートだったため、多くの酔客が出入りし、それを
目当てに飲食店や男娼店、淫売店が急ごしらえで造られた。当時は肩をよけないと通
れないほどの雑踏が、軍艦内の通路に似ていることから「軍艦横丁」と呼ばれていた。
戦前、商店街北側には、噴水を設置した円形浴場やサウナ風呂、演舞場、食堂などを
備えた「噴泉浴場」(通称・ラヂューム温泉)という総合娯楽施設があった。1945年の大
阪大空襲で焼失した後、1950年にストリップ主体の「温泉劇場」(通称・温劇)に業態変
更して復活。近隣の飛田遊廓へ向かう者やあいりん地区の労務者などが詰めかけ、新
世界名物として知られるようになった。
昭和初めには「両側から湧き起る三味線の喧騒、途方もない高い声を張り上げて、やけ
に喚き立てるサノサ節屋、串本節や、道頓堀行進曲。さういふものが一緒になって、道
行く人の心を沸き立たせる。「ジャンジャン横丁」はこの三味線の撥音に由来する。この
喧騒は戦後も続き、道沿いには飲み屋や射的の店が立ち並んでいた。
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てんしばへ向かう
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てんしば・・・大阪天王寺公園エントランスエリア
“てんしば”は、天王寺駅各線、近鉄大阪阿部野橋駅から徒歩すぐ。エリア内にはレスト
ランやカフェ、こどもの遊具場にフットサルコートなど、多彩なテナントが充実。
イベントスペースとして利用できる約7,000㎡の芝生広場を目の前に、自然を満喫しな
がらランチを お楽しみいただけます。
公園内の動物園や美術館の他、周辺施設に足をのばすのもおすすめ。
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あべのハルカス
地上300m、日本一の高さを誇る超高層複合ビル「あべのハルカス」は、近鉄大阪阿
部野橋駅、天王寺駅各線と直結。 日本最大級の百貨店や展望台、美術館、ホテルな
ど多彩な店舗が出店しており、1日中お楽しみいただけます。 大阪随一の絶景ととも
に堪能できるランチやスイーツなど、絶品グルメも充実。
大阪観光なら日本一高いビル「あべのハルカス」へ!  ほんまでっせ!
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新開筋商店街
飛田本通り商店街(動物園前二番街)に繋がるアーケード商店街、
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鶴見橋商店街へ向かう
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鶴見橋商店街(つるみばししょうてんがい)
鶴見橋商店街は大阪市西成区の国道26号線花園町付近から西の阪神高速道路
15号堺線津守出入口付近まで東西約1kmに延びる商店街。昔からの店舗が多い
が、店舗数は減少傾向にある。
鶴見橋商店街は約100mおきに区切りがあり、東の1番街から西の8番街まで続い
ている(旧町名・鶴見橋通1丁目~8丁目にちなむ)。以前は日本で2番目に長い商
店街として数えられていたこともある(一番長い商店街は大阪市北区の天神橋筋
商店街)。
鶴見橋とは、西端の8番街の先に流れていた十三間堀川(現在の阪神高速道路15
号堺線。阪神高速道路建設のため1960年代に埋め立てられた)に架かっていた橋
の名前。1909(明治42)年に大日本紡績(現・ユニチカ)木津川工場が建設された際
に工場近くに架けられ、当時は鶴の飛来がよく見られたことから、地元の住民が「鶴
見橋」と命名した。 1909(明治42)年に大日本紡績木津川工場が操業を開始し、鶴
見橋に従業員向け社宅が建てられたことに始まる。 昭和初期には商店街が形成さ
れ、木津川工場の従業員の通勤路、社交場となっていく。1927(昭和2)年に阪堺電
鉄(後に大阪市電三宝線)の鶴見橋通駅、1942(昭和17)年に大阪市営地下鉄四つ
橋線の花園町駅が開業するなど、交通の便がよくなったことで遠方からも買い物客が
増え、心斎橋筋商店街・天神橋筋商店街と並ぶ「大阪三橋」と称されるほど発展した。
かつては、その豊富な店舗構成から「横に長い百貨店」とも称された。
商店街の西は阪神高速道路を越えて津守商店街、東は国道26号線を越えて花園
本通商店会にそれぞれ繋がっている。
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此の続きは、
12月9日の大阪探訪 大絶景!めがね橋を歩く-2 として
           下記のメインブログへ詳細を投稿します。
         https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、未だ未だ続く鶴見橋商店街~
未だ続く鶴見橋商店街
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津守商店街
大阪市のリストに掲載されていない津守商店街が、広義では新開筋商店街から西
に伸びる長い長いアーケード商店街の西端部となります。
南海汐見線津守駅付近にある津守商店街の西端 (大阪市西成区)
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西成公園・・・昼食場所
南海汐見線津守駅付近にある西成公園、メタセコイヤ並木も有る緑豊かな公園だが、
フェンスで囲まれた中にフェンスで処所仕切られている未だ未だ異様な感じの公園・・・
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津守神社
津守神社(つもりじんじゃ)は、大阪市西成区に鎮座する神社である。
現在の大阪市西成区津守の一帯は、江戸時代に「津守新田」として開墾された歴史
がある。津守新田の開発の際に勧請されて創建された神社が、現在の津守神社に
あたる。江戸時代には、この神社は五所神社・五社大明神・稲荷神社などと称されて
いた。1871年(明治4年)に津守神社に改称。
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千本松渡船場
大正区南恩加島1丁目と西成区南津守二丁目を結ぶ(岸壁間230メートル)。
このあたりは木津川の川尻に近く、江戸時代には諸国廻船の出入りの激しいところで
あった。幕府は、舟運の安全のため水深を確保し、また防波堤のとしても役立つよう、
天保3年(1832)ここに大規模な石の堤を築いた。千本松の名は、この堤防の上に植
えられた松並木に由来する。「摂津名所図会大成」に「右塘(つつみ)に数株の松を植
列ぬるゆえに俗に木津川の千本松といふ洋々たる蒼海に築出せし松原の風景は彼
の名に高き天橋立三保の松原などもほかならず覚ゆ・・・」と述べている。
千本松の渡しが設けられた年代ははっきりしないが、大正時代の中頃に初めて設け
られたものと思われる。昭和48年に千本松大橋が完成し、それとともに渡しは廃止さ
れることになっていたが、地元住民の強い要望によって存続することになり、現在も
通勤通学の貴重な足として利用されている。
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千本松大橋・・・高さ39m
千本松大橋(せんぼんまつおおはし)は、大阪府道5号大阪港八尾線の大阪市大正区
南恩加島3丁目~大阪市西成区南津守2丁目間の木津川に架かるループ橋である。
大阪市の管理で、1973年(昭和48年)に架設された。両端部の2階式螺旋状坂路(720
度ループ)を含めて道路長は1228mあり、橋の形状をメガネに見立てることから、地元で
はめがね橋の愛称で呼ばれる。 「千本松大橋」の名称は、江戸時代にこの地の木津川
堤防に沿って多くの松が植えられていたことに由来している。 車道と歩道があり、自動
車・歩行者ともに通行可能。橋を通るバスも存在する。
木津川の両岸には工業地帯や造船所が広がり、大型船が頻繁に航行していた。そのた
め、船の運航に考慮して、通常の橋が架橋できなかった。
かつて自動車は上流の橋まで大きく迂回しなければならず、特に大正区南部の住民に
は交通面での不便を生じさせていた。交通の便を改善する目的で、桁下の高さを高く
とったループ橋・千本松大橋が建設された。
しかし、橋が完成した同年、第一次オイルショックやそれに伴う著しい景気の悪化などの
影響により、両岸にあった大型船を建造する造船所は一気に衰退し、またその他の工場
でも規模を縮小したために、皮肉にも、橋の完成と同時に航路高が33mも必要とする大
型船の航行はなくなってしまっていた。
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千島公園
※昭和山(しょうわざん)
昭和山は、大阪市大正区千島二丁目にある人工の山。標高33メートル。山の周囲は千島
公園(ちしまこうえん)として整備されている。
大正区千島の一帯には大正時代に貯木場や製材工場が建設され、木材工業の街を形成
していた。しかし地盤沈下の影響で貯木場の機能が低下したこともあり、貯木場や製材工
場は1960年代に住吉区(現・住之江区)平林に移転した。大阪市は1969年、貯木場跡地に
「港の見える丘」として人工山を中心とした公園を造成し、公園の周囲に公団住宅や官公庁
・公共施設を配置する「千島計画」を発表した。
大阪万博を控えて大阪市営地下鉄の路線整備が急速に進んでいたという建設当時の背景
から、地下鉄建設工事で出た残土約170万立方mを使用して山が建設された。1970年11月
30日に記念植樹式がおこなわれ、式典会場でこの山を「昭和山」と命名することが発表され
た。昭和山の名称は、昭和年間に建設された山ということに由来している。
その後山の周囲約11.2ヘクタールを整備し、1976年4月1日に千島公園が開園した。
昭和山は建設当時、大阪市では最も標高が高い場所となっていた。その後鶴見緑地内に
鶴見新山が建設されたことで、大阪市内最高峰は鶴見新山に譲り、昭和山は大阪市で2番
目に標高が高い場所となっている。
あの体操の金メダリスト、具志堅幸司氏の記念碑が・・・・
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阪神ドーム前駅へ向かう
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京セラドーム・・・今日はキスマイのコンサート?
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阪神ドーム前駅(ゴール・抽選会場)
3名ともハズレ・・・・本日のハイキング参加者は1248名だった

おまけは、我家のモミジ
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