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2月26日の寿宝寺十一面千手観音~酬恩庵-1

3月4日       2月26日の寿宝寺十一面千手観音~酬恩庵-1
               歩こう会 玉露の町京田辺の史跡散策
此の日は素晴らしいハイキング日和、参加者79名(内オープン参加1名)で楽しく歩いた。
此の日の私の万歩計は、19360歩で約11.6km歩いたことに・・・
コース   近鉄三山木駅に10時集合
近鉄三山木駅~壽寶寺・十一面千手千眼観音~同志社大構内・筒城宮址~酒屋神社~
花見山公園(昼食)~酬恩庵(一休寺)・解散~薪神社~とんちロードを新田辺駅へ
とんちロードの途中で「ずいき神輿」で有名な棚倉孫神社に立ち寄って新田辺駅へ・・・・
志都美駅
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近鉄三山木駅~壽寶寺へ向かう
玉露のまち
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壽寶寺・十一面千手千眼観音
寿宝寺(じゅほうじ)
寿宝寺は、文武天皇慶雲元年(704)に創建したと伝えています。
古くは山本の大寺と呼ばれ大寺院であったが、度重なる木津川の氾濫により移転を繰
り返していました。享保17年(1732)江戸時代中期に現在地に移転し、明治初めに近隣
の寺々を合併しました。平成9年(1997)の大造営で260年ぶりに本堂、客殿、庫裏等が
改築されました。本寺のハイライトは観音堂内に国の重要文化財十一面千手千眼観世
音菩薩立像です。
平安時代後期の作で 像高181cm、頭上に十一面をいただき、左右にそれぞれ五百手
をもち、持ち物の無い手には墨で目が印されている。大阪の葛井寺、奈良の唐招提寺
の千手観音と共に三大名作とされている。この仏様は明るいところと暗いところで 見せ
る表情は全く異なります。昼の太陽の光で見る表情は「眼は半眼、唇の朱色が鮮やか
に見え、厳しいお顔をしている」、入り口の戸を閉めて月の灯りで見る表情は「眼を閉じ、
唇の朱は目立たず、ふっくらとやさしいお顔をしている」という素晴らしい表情を解説と
共に鑑賞させて頂きました。
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同志社大構内・筒城宮址
511年10月、継体天皇は樟葉宮跡(現、貴船神社)から筒城宮(つつきのみや)、現在の
京都府京田辺市多々羅附近に遷宮します。
正確な場所はわかっていませんが、多々羅地区には「都谷」という地名があり、ちょうど
同志社大学のキャンパスにあたるところです。ここを「筒城宮」の推定地とする説はこれを
根拠にしています。
「筒城宮址」碑は、京田辺市郷土史会が1961年に筒城宮跡を顕彰するために建てた石
碑で、当初は現在の同志社国際高校の敷地内に建てられましたが、後にこの場所に移
設されたものです。もう一つの「継体天皇皇居故跡」碑は1928年に建立された「安兵衛意
志碑」で、これも移設されたものです。遷宮の理由はもちろんわかっていません。
当時朝鮮半島は動乱の様相にあり、軍事力の強化は倭国にとって最大の課題となって
いたと考えることができます。
筒城宮が置かれた多々羅という地名は鉄を意味しており、この附近が鉄の産地又は鉄の
精製に関わりがあったことが推測されます。またこの地域は木津川に面し、その水利権を
押さえ、かつ軍事面でも継体天皇にとって欠かせない要地であったのかもしれません。
この地はまた継体の出自とされる息長氏や神功皇后伝説と関係の深い場所でもあります。
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その他
※第16代仁徳天皇皇后「磐之媛(いわのひめ)」も、この地に住んだという。
「磐之媛(いわのひめ)」は葛城山系の東麓、大和側に勢力を誇っていた葛城氏の娘で、四
王子を生み、うち三人(履中、反正、允恭)が天皇になった。
日本書紀巻第十一・仁徳天皇に、淀川流域を舞台にした物語が載っている。
仁徳30年の秋、「磐之媛(いわのひめ)」は紀国においでになり、熊野岬で祭祠用に御綱葉
(みつなかしば:三角葉)を採取して帰ってこられた。皇后の留守中に天皇はついに、八田皇
女を娶って宮に入れられた。皇后は難波(なにわ)の渡りまで帰ってこられたところで、この
ことを聞かれて、大変お恨みになった。
そして、持ち帰られた御綱葉を海に投げ入れて、岸に船を着けようとされなかった。天皇は
皇后が怒っているのを知らず、自ら難波津に出て、皇后の船をお待ちになった。皇后は難
波津に船を着けず、更に川をさかのぼって山背(やましろ)より廻って倭(やまと)に出られた。
翌日、天皇は舎人(とねり)を遣わして、皇后を連れ帰らせようとされた。皇后は帰ろうとせず
奈良の山を越えて葛城を望んで、難波の宮を通り過ぎ、山背川をさかのぼると奈良を過ぎ、
倭を過ぎ、私の見たいと思う国は葛城の高宮の我が家のあたり、とお詠みになった。
そして山背に戻り、筒城岡の南に宮を造って住まわれた。
天皇は臣を遣わして、皇后に帰るよう申し上げさせたが、黙って返答されなかった。臣は雨に
ぬれ、一晩中、御殿の前に伏して退出しようとしなかった。その妹で、皇后の側に侍す国依姫
は、兄が雨にぬれるのを見て涙を流して、「筒城宮で、皇后に物を申し上げようとしている兄
を見ると、かわいそうで涙ぐんでしまう」と詠んだ。
皇后が、おまえはなぜ泣くのかと問われたので、「今、庭に伏して居りますのは、私の兄です。
雨にぬれても下がらず、伏したまま、お目にかかろうとしています。ですから私は泣いている
のです」と申し上げた。
皇后は、「おまえの兄に言って、早く帰らせなさい。私は金輪際、帰らない」とおっしゃった。
臣は帰って、天皇にその旨を申し上げた。十一月に、天皇は川をさかのぼり、山背に行幸さ
れた。時に、桑の枝が水に従って流れているのご覧になって、磐之姫は並大抵のことでは
お聞き入れにならない私の心恋(うらごひ)の木、その末桑(うらぐわ)の木が近寄ることの出
来ない河の曲り角にあちこち寄っては 流れ、寄っては流れて行くその末桑の木が とお詠
みになった。翌日、筒城宮に参られたが、皇后は会おうとされなかった。その時、天皇は次
の歌をお詠みになった。山背女が木の鍬で掘り起こした大根、その大根の葉がざわつくよ
うにざわざわとあれこれ貴女が言われるからこそ、見渡すむこうにある木の茂るように大
勢の人を引き連れて貴女に会いに来たものを皇后は人を介して、「陛下は八田皇女を入
れて妃とされました。私はその皇女に副って、皇后で居りたくありません」と申し上げた。
天皇は、皇后が大変立腹されているのをお恨みになった。仁徳35年夏、磐乃媛は筒城宮
で亡くなった。御陵は、奈良市佐紀町の佐紀ヒシアゲ古墳である。

酒屋神社へ向う
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酒屋神社(さかやじんじゃ)
創建年月など不詳だが、かつて神功皇后(じんぐうこうごう)が三韓遠征の際、神社背後
の山に酒壺を三個安置して出立、帰国後その霊験に感謝して建てられたとも。本殿は明
治9(1876)年の再建で一間社流造り、屋根に特徴があり、千鳥破風(ちどりはふ)と軒唐
破風(のきからはふ)を配した姿は山城地域では県(あがた)神社(宇治市)本殿など、限
られたところにしか見られない。神功皇后が朝鮮より持ち帰った“九山八海の石”が今もこ
こにあるという。 また、河内国の酒造りを業とする中臣酒屋連(なかとみのさかやのむら
じ)の一族が来往して、酒造りを伝え、祖神を祭ったものともいわれる。 佐牙神社とともに
酒造りに縁のある神社である。祭神は、津速魂神(つはやむすびのかみ)と応神天皇。
近くには興戸の大池があり、初夏の青葉、秋の紅葉と季節によって様々な美しい姿を見
せてくれる。
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花見山公園へ向かう
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花見山公園(昼食)
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此の続きは、
2月26日の寿宝寺十一面千手観音~酬恩庵-2 として
          下記のメインブログへ詳細を投稿します。
         https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、とんちロードを一休寺へ向かう~
とんちロードを一休寺へ向かう
近鉄新田辺駅西口の一休像横、JR京田辺駅西口の一休像横、一休寺山門横に一休と
んちロードを紹介する看板を設置しています。
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酬恩庵しゅうおんあん)一休寺・解散
酬恩庵は、京都府京田辺市にある臨済宗大徳寺派の寺院である。山号は霊瑞山。
本尊は釈迦如来。一休寺(いっきゅうじ)、薪(たきぎ)の一休寺とも称される。枯山
水の石庭や一休宗純の木像のほか、納豆の一種である「一休寺納豆」でも有名。
正応年間(1288 - 1293年)に南浦紹明が開いた妙勝寺が前身である。元弘年間
(1331 - 1334年)に兵火にあって衰退していたのを、康正2年(1456年)に一休宗
純が草庵を結んで中興し、宗祖の遺風を慕い師恩に酬いる意味で酬恩庵と号した。
その後、一休は文明13年11月21日(1481年12月12日)、88歳で亡くなるまでをここ
で過ごし臨終の際には「死にとうない」と述べたと伝わる。なお、金春禅竹が総門の
まえで一休のために能を演じたという。

一休禅師の墓
禅師は文明13年(1481)11/21に88歳で示寂されたがこれに先立って文明7年(1475)
ここに寿塔を立て慈楊塔と名付けられた。前面の庭は禅院式枯山水の様式で室町の
古風を存している。現在墓所は宮内庁が御陵墓として管理をされており門扉に菊花の
紋があるのもそのためである。
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本堂
本堂は仏殿ともいい内部には本尊釈迦如来坐像、文殊普賢菩薩像が安置されてい
ます。当本堂は山城・大和地方の唐様建築中で最も古い建造物であります。1429年
から1441年の永享年間に室町幕府六代目将軍足利義教公の帰依により建立されま
した。
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方丈・他
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三本杉
元は一休禅師、蓮如上人、蜷川新衛門の三人によるお手植えの杉として500年の
緑を湛えていたが寿命となり今は昭和40年に植えられた2代目である。
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薪神社(たきぎじんじゃ)・能楽発祥の地碑
能役者金春禅竹(こんぱるぜんちく1405−1570年)が一休禅師のために猿楽を演
じたと伝えられる場所で、「薪能(たきぎのう)」の名称はこの地で野外能を演じたこと
から起こったと云われている。
境内社殿前には薪能発祥の碑があり、「能楽は薪能即ち金春流に初まり、次に宝生
能観世能は大住に、金剛能は大和に発祥」 と彫られている。
一休寺山門前の「薪能金春芝旧跡」という碑文はやはりこの付近で金春禅竹が一休
禅師に猿楽の能を演じ観覧に供したことを伝えている。金春禅竹(1405~1471年)は
室町時代の能役者・能作者で, 大和四座のひとつ円満井座(えんまいざ=金春座)の
太夫金春弥三郎の子。能楽の大成者世阿弥(ぜあみ1363−1443年)の娘婿となり,
世阿弥の能を発展させ, 金春流隆盛の基礎を固めたとされる。応仁の乱(1467−14
77年)の際, 一休が酬恩庵に難を避けていた間禅竹も薪の多福庵に移り 二人の間に
交流があったとされる。一休も禅竹の影響で能に関心を示し, 謡曲の「山姥(やまうば
)」」「江口(えぐち)」は一休の作との説もある。一休禅師は応仁の乱で荒れる世の中
で薪能という日本の大切な文化を育成した功労者でもある。
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とんちロードを新田辺駅へ
2018年7月・・・京田辺市
市民のみなさんがまちの歴史を再認識し、京田辺市に愛着を持つことができるようにす
るため、また、来訪者が一休寺までの道中を楽しみながら歩くことができ、京田辺市を訪
れてよかったと思えるようにするために、区間内15カ所の電柱に、一休禅師生誕600年
を記念して製作された「一休かるた」を使った22種類の案内板を取り付けました。
「屏風の虎退治」などのとんち話や一休さんにまつわる言い伝えなどを、和やかな絵と共
に紹介しています。府道八幡木津線から一休寺の方面へ、一休さんが誕生したときから、
晩年を薪で過ごされるようすの順にかるたが並んでいます。

棚倉孫神社(たなくらひこじんじゃ)・・・「ずいき神輿」
御祭神は、大永6年(1526年)の棚倉孫神社紀によると、推古(すいこ)天皇31年(623年)
9月に相楽郡の棚倉ノ庄より高倉下命(たかくらじのみこと)を勧請するとある。別名を天
香古山命(あめのかごやまのみこと)、また手栗彦彦命(たぐりひこのみこと)とも申しあげ、
天照大御神(あまてらすおおみかみ)の曾孫(ひこ)で、天神(あまつかみ)の直系である。
『古事記』や『日本書紀』によると天孫降臨(てんそんこうりん)に父命(饒速日命)と共に降
り紀州熊野に住み、神武天皇の東征の時、布都御魂(ふつのみたま)の神剣を奉り大功
をたてられたとある。『日本三代実録』の清和(せいわ)天皇、貞観元年(859年)正月27日
に畿内七道諸神進階及び新叙があり、267社の中に「棚倉孫神」が従五位下から従五位
上の神位を賜った。延喜式内の棚倉孫神社 旧社格は郷社(昭和6年2月に列せられる)
延喜5年(905年)に着手し、延長5年(927年)に完成の『延喜式神名帳』に掲載されている
神社であり、創建が延喜以前であることがわかる。
※畿内七道は大宝律令で大宝元年(701年)制定。・山城国・大和国・河内国・摂津国・和
泉国(京都付近の五か国)・東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道
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「ずいき神輿」
京田辺市文化財2号。明治の中頃から民俗神事瑞饋神輿(ずいきみこし)が伝えられてい
たが昭和4年(1929年)中断。昭和51年10月秋祭りに47年ぶりに制作技術の復興を見る。
昭和53年(1978年)2月に瑞饋神輿保存会が結成され、同年10月に文化財2号として指定
される。瑞饋神輿は2基あり、大人用は隔年、こども用は毎年制作している。
ずいき御輿は、屋根を赤ずいきで葺かれ、千日紅やトウガラシなど、多くの野菜や穀類
を使い色鮮やかに仕上げられています。御輿は、五穀豊穣を願い2年に一度保存会の
みなさんの手で作られるもので、ずいきや千日紅など保存会で育てられたものが使われ
ているそうです。
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JR京田辺駅
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新田辺駅から帰途に
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