3月9日の酒蔵みてある記 河合酒造「出世男」ー1
3月12日 3月9日の酒蔵みてある記 河合酒造「出世男」ー1
近鉄駅フリーハイキング
此の日は、知人の・K場さん・O村さん・I 田さん・M村さん・M吉さんと6名で近鉄ハイキング
に参加、素晴らしいハイキング日和、と言うよりも初夏の様な暖かさの中を今井町の酒蔵へ
藤原宮跡で昼食を終えてショートカットしておふさ観音~酒蔵へ早目の13時過ぎに到着した
が又しても甘酒には有り着けなかった、残念・・・前日に頼んでおいた胡瓜の奈良漬を購入。
甘酒以外は、楽しいハイキングでした。此の日の私の万歩計は、24077歩で約14.4km・・・
コースは 大和八木駅受付・スタート 10時12分
大和八木駅受付~耳成山~山之坊山口神社~八釣山地蔵尊~畝尾健土安神社~畝尾都
多本神社~資料館(トイレ休憩)~藤原宮跡(昼食休憩)~おふさ観音~飛鳥川~今井町~
河合酒造・試飲~今井町田村商店(胡瓜奈良漬)~今井町・喫茶大川~八木西口駅
志都美駅へ向かう
西名阪自動車道沿い~香芝SAを撮る?
志都美駅
高田駅~大和高田駅へ
大和高田駅
大和八木駅受付~耳成山
耳成山へ向かう
耳成山~山口神社
耳成山(みみなしやま)
耳成山は、奈良盆地の南部に位置する奈良県橿原市にある山。山の標高は139.6m
だが、山頂にある三角点の標高は139.2mで、天香久山、畝傍山とならんで大和三山
の一つをなし、最も北に位置する。歴史的風土特別保存地区と国の名勝に指定され
ている。この山は第三紀に噴出した火山岩が侵食されてその一部のみが残存した侵
食地形である。瀬戸内火山帯に属する独立峰であり、安山岩より形成される。
天然の山ではなく、古代に造営された上円下方墳との説がある。大和三山が二等辺
三角形をなし、かつその事実が古くより知られていた事、古事記や日本書紀において
古い時代の記述が無く、ようやく日本書紀において允恭天皇の時代以降に記述が見
られる事が根拠として提示される。その規模の大きさから全くのゼロから造営された
古墳でなく、既存の天然山を改造したという説もあり、火山と見られるのに噴火口が
無い事から、噴火口を埋めるなどの造成をした(その際に大和三山の山頂が二等辺
三角形をなすように調整された)とも考えられている(もちろん上述の通り、火山岩が
侵食された侵食地形というのが通説である)。かつては天神山とも呼ばれ天神山城
があったとされる。南麓の池は木原古池遺跡、北西には木原環濠がある。
耳成山口神社(みみなしやまぐちじんじゃ)
耳成山口神社は、奈良県橿原市の耳成山(大和三山)にある神社。「山口神社」とある
が山麓ではなく山の八合目程の位置にある。大和国の山口社六社(飛鳥・石村・畝火・
忍坂・長谷・耳成)のうちの1社で、皇室の舎殿用材を切り出す山の神として祀られてい
た。また、同境内には金刀比羅神社・稲荷神社・白龍大神も祀られている。祭神は、高
皇産霊神(高御産巣日神、たかみむすびのかみ)、大山祗神(おおやまみつのかみ)
創建は定かではないが、古くは『正倉院文書』の正税帳の730年(天平2年)に天皇より
稲を給わったことや、『延喜式神名帳』に大社として月次祭・新嘗祭を仰せつかったと
の記載がある。また、806年(大同元年)や859年(貞観元年)9月などに、天皇の遣使
によって雨乞いの神事が行われたと記録が残っている。
1651年(慶安4年)、山之坊の村民が神木を伐り荒らしたことを切っ掛けに神社を中心
にした山の管理や所有争論が起こり、1702年(元禄15年)、「耳無山天神ハ式内之社
耳無山口神社」とすることで決着した。その後、山之坊の村民は神霊を山之坊山口神
社に遷座している。 この間、建物が焼失するなど荒廃していたが、1748年(寛延元年)
8月、耳成村の氏子らが現在に残る本殿と拝殿を再建し、石原田・木原・葛本・新賀・常
磐・山之坊地区の氏神として祀られている。
木原古池
山之坊山口神社へ向う
山之坊山口神社
本社は昭和四十二年に創建された神社であり、これを主 張する説は存しない。それを論
社としてあげたのは、耳成山口神社 との関係からである。
本社は、その由緒として山之坊町の氏神は古く耳成山上に奉祀されていたが 徳川の中
期享保年間境界訴訟の結果耳成山が木原町の 領地と定められた当町の宮司佐伯丹後
守が神霊を奉じ て下山、その子孫の宅に奉仕して今日に至る。と登記明細帳に記してを
り、享保と寛延と時代は前後する が、耳成山口神社が目原坐高御魂神社とした場合には、
本来の耳成 山口神社が山の上に移り、本来の目原坐高御魂神社は現在の 山之坊山口
神社に連なる。
八釣山地蔵尊へ向かう
畝傍山
平成17年に名勝指定された大和三山(やまとさんざん)と呼ばれる香具山(かぐやま)・畝
傍山(うねびやま)・耳成山(みみなしやま)のうちの1つです。
標高199.2m。大和三山では一番高い山です。橿原市の中心部に位置します。周囲には、
橿原神宮や神武天皇陵など名所旧跡が点在しています。
瀬戸内火山帯に属する死火山で、噴火時はいまよりも2倍以上大きかったそうです。それ
が長い年月をかけて侵食され、現在のような形になりました。
地質は、花崗岩質の丘陵がのびてきた上に火山が噴出したもので、中腹以上は黒雲母
安山岩からなります。
畝傍山という名前は、田の畝のようにくねくねした尾根を多く持つところからつけられたそ
うです。「古事記」「日本書紀」「万葉集」では、「畝火山」「雲根火山」「宇禰縻夜摩」「慈明
寺山」「御峯山」「瑞山」と記されました。万葉集では、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)
が大和三山のことを詠んだ歌があります。
「香具山は 畝火ををしと 耳梨と 相あらそひき 神代より 斯くにあるらし 古昔も 然に
あれこそ うつせみも 妻をあらそふらしき」
二上山(にじょうさん)
二上山は、奈良県葛城市と大阪府南河内郡太子町にまたがる山。かつては大和言葉に
よる読みで「ふたかみやま」と呼ばれた。
金剛山地北部に位置し、北方の雄岳(517m)と南方の雌岳(474m)の2つの山頂がある
双耳峰である。 また、石器に使われた讃岐岩(サヌカイト)の産地である。二上山の北側
の春日山付近の地域で遺跡が多く発見されていることから二上山北麓遺跡群とも呼称さ
れている。後期旧石器時代から弥生時代にかけての多量の剥片・砕片・石核・くさび形石
器・敲石類が採集されており、遺構としての採掘坑も確認されている。大阪みどりの百選
に選定されている。
畝傍山
八釣山地蔵尊への案内標石
八釣山地蔵尊
興福寺(八釣山地蔵尊)(こうふくじ やつりやまじぞうぞん)
585年に、物部守屋(もののべのもりや)が仏法を嫌い、飛鳥の「橘寺」(たちばなでら)に
火を放って焼いたとき、金堂に安置してあった地蔵菩薩が、火から香具山(かぐやま)の
頂上に逃れて行き、それを知った聖徳太子が香具山の山麓に寺を建立して地蔵を祀っ
たと言われています。また、聖徳太子が夢のお告げで御体顕されたいう御夢想の名灸
があり、リュウマチや神経痛などに良く効くそうです。「八釣」の地名は、中世まで「やと
り」と呼んでいたことが文献に残っているとされています。この「やとり」は古代の職業名
の漢織(あやはとり)を簡略したものだという説があります。香久山の南北に「八釣」と呼
ぶ地域があり、朝廷の衣裳を縫っていた人々が住んでいたことがわかっており、この地
域の北を「下八釣」と呼んでいたとのことです。・・・ (「かしはら町名考」より)
畝尾坐健土安神社(うねおにますたけはにやすじんじゃ)
『日本書紀』神武天皇即位前紀己未年二月二十日の条に「天皇、前年の秋九月を以て、
潜に天香山の埴土を取りて、八十平瓮を造りて、躬自ら斎戒して諸神を祭りたまふ。遂
に区宇を安定むること得たまふ。故、土を取りし処を号けて、埴土と白ふ」という埴安の
地に祀られた土霊が当社であるという。
『大和志』では「今称天照大神」とあり、近世に天照大神社と称していた。
祭神は、伊邪那美が火の神の迦具土命を産んで陰部に火傷を負い、亡くなった。この
時に、尿や糞、嘔吐物から新たな神々を産んだ。その糞から産まれた神が祭神の健土
安比売命である。
※迦具土命
カグツチとは、記紀神話における火の神。『古事記』では、火之夜藝速男神(ひのやぎは
やをのかみ)・火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ)・火之迦具土神(ひのかぐつちのか
み;加具土命)と表記される。また、『日本書紀』では、軻遇突智(かぐつち)、火産霊(ほ
むすび)と表記される。
畝尾都多本神社(うねおつたもとじんじゃ)
祭神は、泣沢女神(なきさわめのかみ)、泣沢という井戸があり、その井戸が御神体として
祀られている。畝尾都多本神社は、「哭澤の神社」(なきさわのもり)とも言います。祭神の
哭澤女神(なきさわめのかみ)は、「古事記」によると国生みの最後の段階で、伊邪那美神
(いざなみのかみ)が火の神である火之迦具土神(ひのかぐちのかみ)を生み亡くなったの
を、父の伊邪那岐神(いざなぎのかみ)が悲しんで泣いた涙から生まれた女神だと言われ
ています。神殿はなく玉垣で囲んだ空井戸をご神体とし、境内には末社の八幡(はちまん)
神社が鎮座しています。
桧隈女王(ひのくまのおおきみ)が、「哭澤の 神社(もり)に神酒据(みわす)ゑ 祈れども
我が大君は 高日(たかひ)知らしぬ」と詠んだと言われる万葉歌碑が境内にあります。
創建は不明だが、『万葉集』巻第二の二〇二に、哭沢の神社に神酒すゑいのれどもわご
玉は高日知らぬ(泣沢神社の女神に神酒を捧げて薨じられた皇子の延命を祈っているの
に、皇子はついに天を治めになってしまわれた。)その左注に、「右一首、類聚歌林に曰は
桧隈女王の泣沢女神を怨むる歌といへり。日本紀を案ふるに云はく、十年丙申(696)の秋
七月辛丑の朔の庚戌、後皇子命薨りましぬといへり」と記されている。これは、持統天皇
十年(696)に、松隈女王が再生の神に神酒を捧げ高市皇子の延命を祈ったのに、蘇るこ
となかったという、泣沢女神を恨む和歌である。この事から畝尾都多本神社は、飛鳥時代
には既に存在していると考えられる。延喜式内社の畝尾都多本神社と比定され、同じく式
内社の畝尾坐健土安神社が隣接して鎮座。奈良時代の正税を収納管理する役所「香山
正倉」の遺構が周辺から発掘されている。明治時代に社殿が再建された。
資料館(トイレ休憩)
藤原宮跡へ向かう 振り返ると天香久山が・・・
天香久山、天香具山(あまのかぐやま、あめのかぐやま)、
天香久山、天香具山、または香久山、香具山(かぐやま)は、奈良県橿原市にある山。畝
傍山、耳成山とともに大和三山と呼ばれる。標高は152.4mと三山の中では標高は2番目
である。他の二山が単独峰であることに比して多武峰から続く竜門山地の端にあたる。
歴史的風土特別保存地区[2]と国の名勝に指定されている。太古の時代には多武峰から
続く山裾の部分にあたり、その後の浸食作用で失われなかった残り部分といわれている。
山というよりは小高い丘の印象であるが、古代から「天」という尊称が付くほど三山のうち
最も神聖視された。天から山が2つに分かれて落ち、1つが伊予国(愛媛県)「天山(あめ
やま)」となり1つが大和国「天加具山」になったと『伊予国風土記』逸文に記されている。
また『阿波国風土記』逸文では「アマノモト(またはアマノリト)山」という大きな山が阿波国
(徳島県)に落ち、それが砕けて大和に降りつき天香具山と呼ばれたと記されている、と
される。藤原京の東にあることにより太陽信仰の地であったともいわれる。現在、山頂か
らは畝傍山を望むことができ、その山頂には國常立命を祭神とする國常立(くにとこたち)
神社があって、2つの小さな祠のうちの1つには高靇神が祀られている。山の北麓には櫛
真智命神(くしまちのみことのかみ)を祭神とする天香山(あまのかぐやま)神社、南麓に
は天照大神の岩戸隠れの伝承地とされる岩穴や巨石を神体とした天岩戸(あまのいわ
と)神社がある。
藤原宮跡(昼食休憩)
中国の都城にならい、日本で初めて建設された本格的都城。持統8(694)年遷都。平城
京遷都までの16年間、この地で持統、文武、元明の天皇三代が律令国家体制を強力に
押し進めた。藤原京の規模は東西5.3km、南北4.8kmで、その中心部には藤原宮があっ
た。天皇の住まいである内裏や、天皇が儀式や政治を行った大極殿跡が残る。最近の
調査研究によると、平城京や平安京を上回る規模だったとも考えられている。現在、宮
跡には原野が広がり、大極殿跡には基壇が残る。宮跡からは東に天香具山、西に畝傍
山、北に耳成山を望める。
※藤原京
694年(持統8年)から710年(和銅3年)までの16年間、都城制を敷いた初めての都で、
日本で初めて国家体制が確立された大化の改新(645年)以後、その新しい国家の首
都として造営された日本で最初の都市である。
史料には、持統天皇4年(690年)に着工し、4年後に飛鳥浄御原宮から宮を遷した、と
ある。それまで、天皇ごと、あるいは一代の天皇に数度の遷宮が行われていた慣例か
ら3代の天皇に続けて使用された宮となったことは大きな特徴としてあげられる。この
時代は、刑罰規定の律、行政規定の令という日本における古代国家の基本法を、飛
鳥浄御原(あすかきよみはら)令、さらに大宝律令で初めて敷いた重要な時期と重なっ
ている。政治機構の拡充とともに壮麗な都城の建設は、国の内外に律令国家の成立
を宣するために必要だったと考えられ、この宮を中心に据え条坊を備えた最初の宮都
建設となった。
実際の建設は、その後の研究により、すでに676年(天武天皇5年)には開始され(これ
を倭京と呼ぶ)、宮都が完成したのは遷宮から10年も経った704年(慶雲元年)とも言
われ、着工から28年が経過したことになる。以来、宮には持統・文武・元明の三代にわ
たって居住したが、完成から4年後の708年(和銅元年)に元明天皇より遷都の勅が下
り、710年(和銅3年)に平城京に遷都された。その翌年の711年(和銅4年)に、宮が焼
けたとされている(『扶桑略記』、藤原宮焼亡説参照)。
おふさ観音
通称おふさ観音。正式名は高野山真言宗別格本山観音寺。通称名は、江戸時代に地
元の娘「おふさ」さんが、この地で観音様を奉りはじめたのが後にお寺に発展したとい
われています。本尊は十一面観音。大和七福神(信貴山朝護孫子寺、久米寺、長谷寺、
おふさ観音、談山神社、當麻寺中之坊、安倍文殊院)に大神神社が加わり、大和七福
神八宝霊場会を発足。
※今年の春のバラまつり
開催日時2019年5月15日(水)~2019年6月30日(日)(07:00~16:30 ※開門は17:00迄)
境内を埋め尽くす4,000株、約3,800種類のバラを無料でお楽しみ頂けます。花の女王と
呼ばれる、バラの濃厚な香りと様々な花色が織り成すファンタジックな光景は、華やかな
感動を与えてくれます。また、本堂では寺宝を特別公開します。
此の続きは、
3月9日の酒蔵みてある記 河合酒造「出世男」ー2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿します。
https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、飛鳥川沿いを今井町へ向かう~
飛鳥川沿いを今井町へ向かう
今井町 河合酒造・試飲・・・今年も甘酒に間に合わず残念
河合酒造は、江戸時代から続く蔵元です。この蔵元のある橿原市の今井町は、国の“重要
伝統的建造物群保存地区”に指定されていて、昔ながらの街並みが保存されています。
また、この河合酒造は、その中でも国の重要文化財に指定されているほどの歴史ある蔵
元です。今では毎年造る酒の量も少なくなりましたが、昔ながらの味わいを現在も造り続
けています。
今井町 田村商店へ向かう
今井町 田村商店(胡瓜奈良漬)
頼んでおいた胡瓜の奈良漬を購入・・・
この後、1名は奈良医大病院へお見舞いにいき残り5名で喫茶へ
今井町・喫茶大川
八木西口駅へ向かう
八木西口駅
五位堂駅~バス~馬見九丁目~徒歩で・・・
馬見九丁目~徒歩で自宅へ向う
上牧町の繁華街??はま寿司、赤屋、コメリ、上新、青山、松の屋、魚輝、等々
水菜が美味しそう?
近鉄駅フリーハイキング
此の日は、知人の・K場さん・O村さん・I 田さん・M村さん・M吉さんと6名で近鉄ハイキング
に参加、素晴らしいハイキング日和、と言うよりも初夏の様な暖かさの中を今井町の酒蔵へ
藤原宮跡で昼食を終えてショートカットしておふさ観音~酒蔵へ早目の13時過ぎに到着した
が又しても甘酒には有り着けなかった、残念・・・前日に頼んでおいた胡瓜の奈良漬を購入。
甘酒以外は、楽しいハイキングでした。此の日の私の万歩計は、24077歩で約14.4km・・・
コースは 大和八木駅受付・スタート 10時12分
大和八木駅受付~耳成山~山之坊山口神社~八釣山地蔵尊~畝尾健土安神社~畝尾都
多本神社~資料館(トイレ休憩)~藤原宮跡(昼食休憩)~おふさ観音~飛鳥川~今井町~
河合酒造・試飲~今井町田村商店(胡瓜奈良漬)~今井町・喫茶大川~八木西口駅
志都美駅へ向かう
西名阪自動車道沿い~香芝SAを撮る?
志都美駅
高田駅~大和高田駅へ
大和高田駅
大和八木駅受付~耳成山
耳成山へ向かう
耳成山~山口神社
耳成山(みみなしやま)
耳成山は、奈良盆地の南部に位置する奈良県橿原市にある山。山の標高は139.6m
だが、山頂にある三角点の標高は139.2mで、天香久山、畝傍山とならんで大和三山
の一つをなし、最も北に位置する。歴史的風土特別保存地区と国の名勝に指定され
ている。この山は第三紀に噴出した火山岩が侵食されてその一部のみが残存した侵
食地形である。瀬戸内火山帯に属する独立峰であり、安山岩より形成される。
天然の山ではなく、古代に造営された上円下方墳との説がある。大和三山が二等辺
三角形をなし、かつその事実が古くより知られていた事、古事記や日本書紀において
古い時代の記述が無く、ようやく日本書紀において允恭天皇の時代以降に記述が見
られる事が根拠として提示される。その規模の大きさから全くのゼロから造営された
古墳でなく、既存の天然山を改造したという説もあり、火山と見られるのに噴火口が
無い事から、噴火口を埋めるなどの造成をした(その際に大和三山の山頂が二等辺
三角形をなすように調整された)とも考えられている(もちろん上述の通り、火山岩が
侵食された侵食地形というのが通説である)。かつては天神山とも呼ばれ天神山城
があったとされる。南麓の池は木原古池遺跡、北西には木原環濠がある。
耳成山口神社(みみなしやまぐちじんじゃ)
耳成山口神社は、奈良県橿原市の耳成山(大和三山)にある神社。「山口神社」とある
が山麓ではなく山の八合目程の位置にある。大和国の山口社六社(飛鳥・石村・畝火・
忍坂・長谷・耳成)のうちの1社で、皇室の舎殿用材を切り出す山の神として祀られてい
た。また、同境内には金刀比羅神社・稲荷神社・白龍大神も祀られている。祭神は、高
皇産霊神(高御産巣日神、たかみむすびのかみ)、大山祗神(おおやまみつのかみ)
創建は定かではないが、古くは『正倉院文書』の正税帳の730年(天平2年)に天皇より
稲を給わったことや、『延喜式神名帳』に大社として月次祭・新嘗祭を仰せつかったと
の記載がある。また、806年(大同元年)や859年(貞観元年)9月などに、天皇の遣使
によって雨乞いの神事が行われたと記録が残っている。
1651年(慶安4年)、山之坊の村民が神木を伐り荒らしたことを切っ掛けに神社を中心
にした山の管理や所有争論が起こり、1702年(元禄15年)、「耳無山天神ハ式内之社
耳無山口神社」とすることで決着した。その後、山之坊の村民は神霊を山之坊山口神
社に遷座している。 この間、建物が焼失するなど荒廃していたが、1748年(寛延元年)
8月、耳成村の氏子らが現在に残る本殿と拝殿を再建し、石原田・木原・葛本・新賀・常
磐・山之坊地区の氏神として祀られている。
木原古池
山之坊山口神社へ向う
山之坊山口神社
本社は昭和四十二年に創建された神社であり、これを主 張する説は存しない。それを論
社としてあげたのは、耳成山口神社 との関係からである。
本社は、その由緒として山之坊町の氏神は古く耳成山上に奉祀されていたが 徳川の中
期享保年間境界訴訟の結果耳成山が木原町の 領地と定められた当町の宮司佐伯丹後
守が神霊を奉じ て下山、その子孫の宅に奉仕して今日に至る。と登記明細帳に記してを
り、享保と寛延と時代は前後する が、耳成山口神社が目原坐高御魂神社とした場合には、
本来の耳成 山口神社が山の上に移り、本来の目原坐高御魂神社は現在の 山之坊山口
神社に連なる。
八釣山地蔵尊へ向かう
畝傍山
平成17年に名勝指定された大和三山(やまとさんざん)と呼ばれる香具山(かぐやま)・畝
傍山(うねびやま)・耳成山(みみなしやま)のうちの1つです。
標高199.2m。大和三山では一番高い山です。橿原市の中心部に位置します。周囲には、
橿原神宮や神武天皇陵など名所旧跡が点在しています。
瀬戸内火山帯に属する死火山で、噴火時はいまよりも2倍以上大きかったそうです。それ
が長い年月をかけて侵食され、現在のような形になりました。
地質は、花崗岩質の丘陵がのびてきた上に火山が噴出したもので、中腹以上は黒雲母
安山岩からなります。
畝傍山という名前は、田の畝のようにくねくねした尾根を多く持つところからつけられたそ
うです。「古事記」「日本書紀」「万葉集」では、「畝火山」「雲根火山」「宇禰縻夜摩」「慈明
寺山」「御峯山」「瑞山」と記されました。万葉集では、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)
が大和三山のことを詠んだ歌があります。
「香具山は 畝火ををしと 耳梨と 相あらそひき 神代より 斯くにあるらし 古昔も 然に
あれこそ うつせみも 妻をあらそふらしき」
二上山(にじょうさん)
二上山は、奈良県葛城市と大阪府南河内郡太子町にまたがる山。かつては大和言葉に
よる読みで「ふたかみやま」と呼ばれた。
金剛山地北部に位置し、北方の雄岳(517m)と南方の雌岳(474m)の2つの山頂がある
双耳峰である。 また、石器に使われた讃岐岩(サヌカイト)の産地である。二上山の北側
の春日山付近の地域で遺跡が多く発見されていることから二上山北麓遺跡群とも呼称さ
れている。後期旧石器時代から弥生時代にかけての多量の剥片・砕片・石核・くさび形石
器・敲石類が採集されており、遺構としての採掘坑も確認されている。大阪みどりの百選
に選定されている。
畝傍山
八釣山地蔵尊への案内標石
八釣山地蔵尊
興福寺(八釣山地蔵尊)(こうふくじ やつりやまじぞうぞん)
585年に、物部守屋(もののべのもりや)が仏法を嫌い、飛鳥の「橘寺」(たちばなでら)に
火を放って焼いたとき、金堂に安置してあった地蔵菩薩が、火から香具山(かぐやま)の
頂上に逃れて行き、それを知った聖徳太子が香具山の山麓に寺を建立して地蔵を祀っ
たと言われています。また、聖徳太子が夢のお告げで御体顕されたいう御夢想の名灸
があり、リュウマチや神経痛などに良く効くそうです。「八釣」の地名は、中世まで「やと
り」と呼んでいたことが文献に残っているとされています。この「やとり」は古代の職業名
の漢織(あやはとり)を簡略したものだという説があります。香久山の南北に「八釣」と呼
ぶ地域があり、朝廷の衣裳を縫っていた人々が住んでいたことがわかっており、この地
域の北を「下八釣」と呼んでいたとのことです。・・・ (「かしはら町名考」より)
畝尾坐健土安神社(うねおにますたけはにやすじんじゃ)
『日本書紀』神武天皇即位前紀己未年二月二十日の条に「天皇、前年の秋九月を以て、
潜に天香山の埴土を取りて、八十平瓮を造りて、躬自ら斎戒して諸神を祭りたまふ。遂
に区宇を安定むること得たまふ。故、土を取りし処を号けて、埴土と白ふ」という埴安の
地に祀られた土霊が当社であるという。
『大和志』では「今称天照大神」とあり、近世に天照大神社と称していた。
祭神は、伊邪那美が火の神の迦具土命を産んで陰部に火傷を負い、亡くなった。この
時に、尿や糞、嘔吐物から新たな神々を産んだ。その糞から産まれた神が祭神の健土
安比売命である。
※迦具土命
カグツチとは、記紀神話における火の神。『古事記』では、火之夜藝速男神(ひのやぎは
やをのかみ)・火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ)・火之迦具土神(ひのかぐつちのか
み;加具土命)と表記される。また、『日本書紀』では、軻遇突智(かぐつち)、火産霊(ほ
むすび)と表記される。
畝尾都多本神社(うねおつたもとじんじゃ)
祭神は、泣沢女神(なきさわめのかみ)、泣沢という井戸があり、その井戸が御神体として
祀られている。畝尾都多本神社は、「哭澤の神社」(なきさわのもり)とも言います。祭神の
哭澤女神(なきさわめのかみ)は、「古事記」によると国生みの最後の段階で、伊邪那美神
(いざなみのかみ)が火の神である火之迦具土神(ひのかぐちのかみ)を生み亡くなったの
を、父の伊邪那岐神(いざなぎのかみ)が悲しんで泣いた涙から生まれた女神だと言われ
ています。神殿はなく玉垣で囲んだ空井戸をご神体とし、境内には末社の八幡(はちまん)
神社が鎮座しています。
桧隈女王(ひのくまのおおきみ)が、「哭澤の 神社(もり)に神酒据(みわす)ゑ 祈れども
我が大君は 高日(たかひ)知らしぬ」と詠んだと言われる万葉歌碑が境内にあります。
創建は不明だが、『万葉集』巻第二の二〇二に、哭沢の神社に神酒すゑいのれどもわご
玉は高日知らぬ(泣沢神社の女神に神酒を捧げて薨じられた皇子の延命を祈っているの
に、皇子はついに天を治めになってしまわれた。)その左注に、「右一首、類聚歌林に曰は
桧隈女王の泣沢女神を怨むる歌といへり。日本紀を案ふるに云はく、十年丙申(696)の秋
七月辛丑の朔の庚戌、後皇子命薨りましぬといへり」と記されている。これは、持統天皇
十年(696)に、松隈女王が再生の神に神酒を捧げ高市皇子の延命を祈ったのに、蘇るこ
となかったという、泣沢女神を恨む和歌である。この事から畝尾都多本神社は、飛鳥時代
には既に存在していると考えられる。延喜式内社の畝尾都多本神社と比定され、同じく式
内社の畝尾坐健土安神社が隣接して鎮座。奈良時代の正税を収納管理する役所「香山
正倉」の遺構が周辺から発掘されている。明治時代に社殿が再建された。
資料館(トイレ休憩)
藤原宮跡へ向かう 振り返ると天香久山が・・・
天香久山、天香具山(あまのかぐやま、あめのかぐやま)、
天香久山、天香具山、または香久山、香具山(かぐやま)は、奈良県橿原市にある山。畝
傍山、耳成山とともに大和三山と呼ばれる。標高は152.4mと三山の中では標高は2番目
である。他の二山が単独峰であることに比して多武峰から続く竜門山地の端にあたる。
歴史的風土特別保存地区[2]と国の名勝に指定されている。太古の時代には多武峰から
続く山裾の部分にあたり、その後の浸食作用で失われなかった残り部分といわれている。
山というよりは小高い丘の印象であるが、古代から「天」という尊称が付くほど三山のうち
最も神聖視された。天から山が2つに分かれて落ち、1つが伊予国(愛媛県)「天山(あめ
やま)」となり1つが大和国「天加具山」になったと『伊予国風土記』逸文に記されている。
また『阿波国風土記』逸文では「アマノモト(またはアマノリト)山」という大きな山が阿波国
(徳島県)に落ち、それが砕けて大和に降りつき天香具山と呼ばれたと記されている、と
される。藤原京の東にあることにより太陽信仰の地であったともいわれる。現在、山頂か
らは畝傍山を望むことができ、その山頂には國常立命を祭神とする國常立(くにとこたち)
神社があって、2つの小さな祠のうちの1つには高靇神が祀られている。山の北麓には櫛
真智命神(くしまちのみことのかみ)を祭神とする天香山(あまのかぐやま)神社、南麓に
は天照大神の岩戸隠れの伝承地とされる岩穴や巨石を神体とした天岩戸(あまのいわ
と)神社がある。
藤原宮跡(昼食休憩)
中国の都城にならい、日本で初めて建設された本格的都城。持統8(694)年遷都。平城
京遷都までの16年間、この地で持統、文武、元明の天皇三代が律令国家体制を強力に
押し進めた。藤原京の規模は東西5.3km、南北4.8kmで、その中心部には藤原宮があっ
た。天皇の住まいである内裏や、天皇が儀式や政治を行った大極殿跡が残る。最近の
調査研究によると、平城京や平安京を上回る規模だったとも考えられている。現在、宮
跡には原野が広がり、大極殿跡には基壇が残る。宮跡からは東に天香具山、西に畝傍
山、北に耳成山を望める。
※藤原京
694年(持統8年)から710年(和銅3年)までの16年間、都城制を敷いた初めての都で、
日本で初めて国家体制が確立された大化の改新(645年)以後、その新しい国家の首
都として造営された日本で最初の都市である。
史料には、持統天皇4年(690年)に着工し、4年後に飛鳥浄御原宮から宮を遷した、と
ある。それまで、天皇ごと、あるいは一代の天皇に数度の遷宮が行われていた慣例か
ら3代の天皇に続けて使用された宮となったことは大きな特徴としてあげられる。この
時代は、刑罰規定の律、行政規定の令という日本における古代国家の基本法を、飛
鳥浄御原(あすかきよみはら)令、さらに大宝律令で初めて敷いた重要な時期と重なっ
ている。政治機構の拡充とともに壮麗な都城の建設は、国の内外に律令国家の成立
を宣するために必要だったと考えられ、この宮を中心に据え条坊を備えた最初の宮都
建設となった。
実際の建設は、その後の研究により、すでに676年(天武天皇5年)には開始され(これ
を倭京と呼ぶ)、宮都が完成したのは遷宮から10年も経った704年(慶雲元年)とも言
われ、着工から28年が経過したことになる。以来、宮には持統・文武・元明の三代にわ
たって居住したが、完成から4年後の708年(和銅元年)に元明天皇より遷都の勅が下
り、710年(和銅3年)に平城京に遷都された。その翌年の711年(和銅4年)に、宮が焼
けたとされている(『扶桑略記』、藤原宮焼亡説参照)。
おふさ観音
通称おふさ観音。正式名は高野山真言宗別格本山観音寺。通称名は、江戸時代に地
元の娘「おふさ」さんが、この地で観音様を奉りはじめたのが後にお寺に発展したとい
われています。本尊は十一面観音。大和七福神(信貴山朝護孫子寺、久米寺、長谷寺、
おふさ観音、談山神社、當麻寺中之坊、安倍文殊院)に大神神社が加わり、大和七福
神八宝霊場会を発足。
※今年の春のバラまつり
開催日時2019年5月15日(水)~2019年6月30日(日)(07:00~16:30 ※開門は17:00迄)
境内を埋め尽くす4,000株、約3,800種類のバラを無料でお楽しみ頂けます。花の女王と
呼ばれる、バラの濃厚な香りと様々な花色が織り成すファンタジックな光景は、華やかな
感動を与えてくれます。また、本堂では寺宝を特別公開します。
此の続きは、
3月9日の酒蔵みてある記 河合酒造「出世男」ー2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿します。
https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、飛鳥川沿いを今井町へ向かう~
飛鳥川沿いを今井町へ向かう
今井町 河合酒造・試飲・・・今年も甘酒に間に合わず残念
河合酒造は、江戸時代から続く蔵元です。この蔵元のある橿原市の今井町は、国の“重要
伝統的建造物群保存地区”に指定されていて、昔ながらの街並みが保存されています。
また、この河合酒造は、その中でも国の重要文化財に指定されているほどの歴史ある蔵
元です。今では毎年造る酒の量も少なくなりましたが、昔ながらの味わいを現在も造り続
けています。
今井町 田村商店へ向かう
今井町 田村商店(胡瓜奈良漬)
頼んでおいた胡瓜の奈良漬を購入・・・
この後、1名は奈良医大病院へお見舞いにいき残り5名で喫茶へ
今井町・喫茶大川
八木西口駅へ向かう
八木西口駅
五位堂駅~バス~馬見九丁目~徒歩で・・・
馬見九丁目~徒歩で自宅へ向う
上牧町の繁華街??はま寿司、赤屋、コメリ、上新、青山、松の屋、魚輝、等々
水菜が美味しそう?
2019-03-12 16:05
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