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4月11日の宇治の世界遺産や史跡巡り-1

4月19日         4月11日の宇治の世界遺産や史跡巡り-1
                歴史探訪の会 特別企画 歩程約6Km
此の日は、朝は冷たい雨が少し降ったが、宇治市観光ボランティアガイド2名と参加者13名
がスタートする頃は雨もやんでいたがスタート直後に又も雨、源氏物語ミュージアムで雨宿
り後、斎スタートし世界遺産に登録の宇治上神社~宇治神社~宇治十帖へ・・・
此の日の私の万歩計は、17466歩で約10.4kmあるいた事に・・・
コース   京阪宇治駅 10時集合 
京阪宇治駅(受付・スタート)~源氏物語ミュージアム~宇治上神社~宇治神社~与謝野晶
子歌碑~宇治十帖~恵心院~宇治発電所~興聖寺~中之島公園(昼食・集合写真)~十
三重の石搭~平等院~香りの道~宇治橋(解散)~JR宇治駅又は京阪宇治駅へ
京阪宇治駅(受付・スタート)
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源氏物語ミュージアム~宇治上神社
※源氏物語ミュージアム・・・宇治市観光HPより
平成10年に開館した、源氏物語ミュージアムでは、模型や映像により光源氏や「宇治十帖」
の世界を分かりやすく紹介するほか、テーマごとに分かれた展示ゾーンは、当時の面影、
文化と伝えるとともに、源氏物語の魅力を様々な映像で紹介しています。3000冊以上もの
蔵書をとりそろえ、見るだけではなく、実際に文章を読んで楽しむこともできます。
定期的に講座が開かれ、源氏物語・平安時代をより深く学んでもらうための取組もなされて
います。
千年の時を超えて、いまだなお愛され続ける源氏物語。現代にも普遍ともいえる、男女の愛
憎劇。当時のきらびやかな世界に思いを馳せながら、源氏物語の魅力に是非触れてみてく
ださい。

宇治上神社へ向う
※与謝野晶子歌碑
与謝野晶子の没後50年と宇治市制40周年にあたる平成4年10月、「みだれ髪の会」によっ
て歌碑が建てられました。
晶子は、幼い頃から古典文学に親しみ、紫式部を終生の師と仰ぎ、「源氏物語」の現代語
訳に力を注ぎました。
昭和13年(1938年)61歳のときに、「新新訳源氏物語」全6巻を完成させ、それに加え源氏
物語五十四帖を五十四首の歌で再編成した「源氏物語礼讃」を著しました。
「さわらびの道」の歌碑には、そのうちの宇治十帖の「橋姫」から「夢浮橋」までの十首が
晶子の真筆で刻まれています。
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宇治上神社(うじがみじんじゃ/うじかみじんじゃ)
宇治上神社は、京都府宇治市宇治山田にある神社。式内社で、旧社格は村社。隣接す
る宇治神社とは対をなす。世界遺産に「古都京都の文化財」の構成資産の1つとして登
録されている。
祭神は次の3柱。
左殿:菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと) 『日本書紀』では「菟道稚郎子」、『古
事記』では「宇遅之和紀郎子」と表記される。応神天皇皇子。天皇に寵愛され皇太子に
立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊(のちの仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したと
いう美談で知られる。
中殿:応神天皇 第15代天皇。菟道稚郎子命の父。
右殿:仁徳天皇 第16代天皇。菟道稚郎子命の異母兄。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳で「宇治神社二座」と見える2座のうち1座に比
定される。この「二座」を祭神と見た場合、菟道稚郎子を1座とすることは動かないものの、
もう1座については父の応神天皇・異母兄の仁徳天皇・母の矢河枝比売とする諸説があ
る。創建年代などの起源は明らかではない。宇治上神社のすぐ近くには宇治神社がある
が、宇治上神社とは二社一体の存在であった。宇治上神社の境内は『山城国風土記』に
見える菟道稚郎子の離宮「桐原日桁宮」の旧跡であると伝え、両社旧称の「離宮明神」も
それに因むといわれる。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では山城国宇治郡に「宇治神社二座 鍬靫」の
記載があるが、その2座はそれぞれ宇治神社・宇治上神社に比定される。なお、宇治上
神社の本殿は本来左右2棟であるとして、「宇治神社二座」は宇治上神社のみを指すと
いう説もある。神名帳の「鍬靫」の記載は、祈年祭の際に朝廷から鍬・靫の奉献があった
ことを意味する。近くに平等院ができると、両社はその鎮守社とされたという。
明治以前は宇治上神社は「上社」・「本宮」、宇治神社は「下社」・「若宮」と呼ばれたほか、
両社を合わせて「宇治離宮明神(八幡宮)」と総称された。明治に入って宇治上神社とは
分離し、近代社格制度では村社に列した。
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宇治神社(うじじんじゃ)
宇治神社は、京都府宇治市宇治山田にある神社。式内社で、旧社格は府社。隣接す
る宇治上神社とは対をなす。
祭神は次の1柱。
菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと) 『日本書紀』では「菟道稚郎子」、『古事記』
では「宇遅之和紀郎子」と表記される。第15代応神天皇の皇子。天皇に寵愛され皇太子
に立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊(のちの仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したと
いう美談で知られる。本殿には、菟道稚郎子像と伝える神像(国の重要文化財)が祀られ
ている。延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳で「宇治神社二座」と見える2座のうち
1座に比定される。この「二座」を祭神と見た場合、菟道稚郎子を1座とすることは動かな
いものの、もう1座については父の応神天皇・異母兄の仁徳天皇・母の矢河枝比売とす
る諸説がある。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では山城国宇治郡に「宇治神社二座 鍬靫」の
記載があるが、その2座はそれぞれ宇治神社・宇治上神社に比定される[1]。神名帳の
「鍬靫」の記載は、祈年祭の際に朝廷から鍬・靫の奉献があったことを意味する。のちに
近くに平等院ができると、両社はその鎮守社とされたという。
明治以前は宇治神社は「下社」・「若宮」、宇治上神社は「上社」・「本宮」と呼ばれたほか、
両社を合わせて「宇治離宮明神(八幡宮)」と総称された。
明治に入って宇治上神社とは分離し、明治44年(1911年)府社に昇格した。
2018年(平成30年)台風第21号で大鳥居が土台部分から折れ倒壊する被害に遭った。
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大鳥居が無いと寂しい?
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宇治十帖モニュメント
古跡ではないが、宇治十帖古跡全体を象徴するモニュメントで、ヒロイン「浮舟」と
「匂宮」が小舟で宇治川に漕ぎ出す場面をモチーフとしている。宇治神社の前、朝
霧橋東詰にある。
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朝霧橋東詰
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恵心院(えしんいん)
恵心院は、京都府宇治市にある真言宗智山派の寺院。山号を朝日山と称する。宇治
川宇治橋の上流に位置する。本尊は十一面観音、開基は空海(弘法大師)である。
弘法大師によって開山され、唐の青龍寺に似ているため、龍泉寺と名付けられた。寺
伝によれば、寛弘2年(1005)、恵心僧都源信により再興されたが、中世には兵火によ
り衰退した。
恵心院本堂は、秋篠兵庫により、延宝四年(1676)に建立。建物は、須弥壇室と護摩
壇室とが左右非対称で建てられた和様仏堂である。多くの改造がなされている。
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花筏(はないかだ)・・・葉の真ん中に花が咲く珍しい花だがぶれて見えない
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※恵心僧都源信
浄土真宗七高僧の第6祖源信和尚。源信和尚は、942年に奈良でお生まれになり9歳
で出家、比叡山にのぼられました。その後比叡山横川の恵心院に住んで学問されまし
た。源信和尚が、恵心僧都(えしんそうず)と呼ばれる所以です。
幼少のころからのすぐれた才能で多くの逸話がありますが、特に15歳のときその才智
ゆえ帝から賞をもらったときの話は有名です。
賞に喜んだ源信僧都は、それを郷里の母親に送りました。しかし、母はそれを受け取ら
ずに「後の世を導く僧とたのみしに、世渡る僧となるぞ悲しき」と賞に浮かれている源信
僧都を戒められたということです。
源信僧都は、そのことがあってから名利を離れ、一層仏道精進されたそうです。
その後、源信僧都は母の死とあい、より浄土願生に目覚められ『往生要集(おうじょうよ
うしゅう)』3巻を著述されました。そして、76歳横川で亡くなられました。
『往生要集』は、広く諸経論から往生極楽の要文を集めたものですが、その釈尊一代の
仏教の中から、往生への道は念仏しかないと、特に念仏門を開いていかれました。
そして、安養(浄土)に往生して仏の悟りをひらく浄土の教えに帰依して、一切の人々に
それを勧められたのでした。

花の多い恵心院
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宇治発電所の放水流
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※宇治発電所
大正初期に全長約11kmの導水路とともに建設された、国内最大規模の発電量を誇
る電力飛躍時代の水路式水力発電施設である。
銀座に我が国で初めての電灯がともされたのは明治15(1882)年。そして20年には東
京電燈が日本橋茅場町に石炭を燃料とする火力発電所(出力25kw)を建設している。
これからもわかるように出力も少なく送電技術も未熟な当時にあっては、需要地に近い
ところに火力発電所を建設するのがふつうであり、水力発電は補助的な手段と思われ
ていた。しかし、石炭の高騰などにより水力発電が次第に注目され、24年には琵琶湖
疏水を利用した蹴上発電所が運用を開始し、我が国初の営業用水力発電所として周
辺の工場に電力を供給している。その後、電力需要の増大に伴って、次第に山間部
に大規模的な水力発電所が計画されるようになっていった。
琵琶湖から流れ出す唯一の河川である瀬田川は、瀬田の唐橋から鹿跳橋付近の急
流を経て曽束を過ぎたあたりから宇治川と名を変えるが、琵琶湖から宇治までの間の
落差は70m。その豊富な水量と水位差を利用して電力を得ようとする動きは早くから
あった。27年に京都の有志が発起人となって発電用水路の掘削を出願、水路工事は
明治41(1908)年に12月に着手した。
工事に並行して仮設の水力発電所を建設し(一部は京都電燈から供 給)、43年11月
からは坑内の照明は電灯に変わり、工事用電話も敷設された。4年にわたる水路工事
においては不慮の事故もあった。こうしてできあがった水路トンネルは2.2万kwの発電
を可能にした。
宇治発電所の電力は宇治市内に電灯をともし、京阪電車を動かし、ユニチカなど多く
の工場を誘致して、宇治市の近代化と発展に寄与し続けた。

興聖寺(こうしょうじ)
興聖寺は京都府宇治市にある曹洞宗の寺院。日本曹洞宗最初の寺院である。道元が
興聖宝林寺を建立したことにはじまる。断絶のあと、慶安元年(1648年)永井尚政によ
って再興された。山号は仏徳山(ぶっとくさん)。本尊は釈迦三尊。参道は「琴坂」と称し、
宇治十二景の1つに数えられている。
道元は宋から安貞元年(1227年)に帰国、しばらく建仁寺に身を寄せた後、同寺を去っ
て深草(現在の京都市伏見区深草)の安養院に閑居した。寛喜元年(1229年)頃のこと
とされる。安養院はかつて深草にあった藤原氏ゆかりの大寺院極楽寺の跡で、現在の
京都市伏見区深草宝塔寺山町付近にあったと推定されている。天福元年(1233年)、
道元は深草に興聖寺を開創する。『永平広録』によれば嘉禎2年(1236年)に開堂式が
行われ、観音導利院興聖宝林禅寺と号した。なお、その前年の嘉禎元年(1235年)の
「宇治観音導利院僧堂建立勧進之疏」(『建撕記』所収)によると、当時の興聖寺には仏
堂はあったが法堂と僧堂はまだなく、道元は僧堂建立のための勧進を呼びかけていた。
建築史家の太田博太郎は、この時点(嘉禎元年)からわずか1年足らずの嘉禎2年に伽
藍が完成していたとは考えられないとしている。
興聖寺は、比叡山延暦寺の弾圧を受け、寛元元年(1243年)、道元が越前に下向して
以降荒廃し、住持4代で廃絶した。その後慶安2年(1649年)、淀城主の永井尚政が万
安英種を招聘して5世住持とし、朝日茶園のあった現在地に復興したのが今ある興聖
寺である。
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参道
宇治川右岸に面した総門より本堂に通じるまでの200m程の緩やかな勾配参道は、
「琴坂」と呼ばれている。
琴坂の参道沿いに流れる湧き水は、本堂脇の貯水槽に一旦貯められた朝日山の山水
が流れており、その水の流れがあたかも琴の音色に聞こえ、長い参道が琴の形状に似
ていることから、今日まで琴坂と呼ばれるようになった。
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此の続きは、
4月11日の宇治の世界遺産や史跡巡り-2 として
        下記のメインブログへ詳細を投稿します。
       https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、興聖寺の門前へ出て~
門前へ出て
茶筅塚、茶筅を燃やして供養する穴も・・・
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平等院へ向かう
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宇治発電所の放水流に架る
観流橋を渡り朝霧橋へ向かう
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朝霧橋から
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中之島公園(橘島と搭の島)・・・昼食・集合写真
橘島
先陣の碑
「宇治川先陣之碑」は、宇治川の中州の橘島に建っています。
先陣を遂げるとは、味方の先頭に立って敵陣へ突き進むことをいいます。武士にとって
戦場での功名が出世を約束する時代、恩賞の対象となるのは先陣を勤めるか、名ある
敵将の首を取って手柄を立てることでした。主人の側からいうと家臣の功名心をあおり
たて、互いに競わせるように仕向けるのが勝利のための策です。
「宇治川先陣之碑」昭和6年(1931年)に建てられたものであるが、実際には現在の宇
治橋よりもさらに下流であった出来事であるとされている。
寿永3年(1184年)1月に起こった宇治川の戦いは、木曽義仲と源頼朝という源氏同士
の戦いであった。この戦いの約半年前の7月に大挙して上洛した木曽義仲であるが、後
白河法皇との不和などから信望を失い、この時点で付き従う者は1000騎余りとなってい
た。一方、源頼朝は法皇の命を受けて、木曽軍追討のために範頼・義経の2人の弟に
数万の大軍を預けて京へ上っていた。結局、宇治川の合戦は木曽側400に対して義経
率いる25000の兵という、圧倒的な兵力差となったのである。
この合戦の白眉は、義経側の先陣争いであった。流れが急な宇治川を競って渡ったの
は、池月に乗った佐々木高綱と磨墨に乗った梶原景季の両名である。池月・磨墨とも頼
朝秘蔵の名馬であったが、先に池月を所望した景季に対して頼朝は代わりに磨墨を与
え、後から所望した高綱に池月を与えた。さらに上洛の途上、高綱が池月に騎乗してい
るのを見た景季は憤激するが、高綱の「盗んできた」との嘘の言い訳を受け入れていた。
両者とも先陣の功名を得ようと必死になるだけの理由があった。
先に進み出たのは景季である。負けじと高綱が追いすがる。ここで高綱「馬の腹帯が緩
んでおるぞ」と景季に声を掛けた。慌てて腹帯を確かめる景季を尻目に、高綱の乗る池
月は宇治川に入っていく。そして池月は急流をものともせず、高綱も川底に仕掛けられ
た大綱を太刀で切り裂き、とうとう川を渡りきって先陣の名乗りを上げたのである。
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搭の島へ
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搭の島
十三重の石搭(じゅうさんじゅうせきとう)
十三重石塔は、宇治市宇治塔川(京都府立宇治公園塔の島)にあって「浮島」「浮舟
ノ島」などと呼ばれてきた人工島の一つである「塔の島」に所在する石塔である。「十
三重石塔」とは、「石造りで十三重構造の層塔」もしくは「石造りで十三層構造の塔婆」
を意味する。アジア各地に同様の塔が数多く存在し、日本国内だけでもかなりの数に
上るため、他の同種の石塔と区別して浮島十三重石塔(うきしま じゅうさんじゅうせき
とう)ともいう。塔高15.2メートルの石造・十三重の層塔で、石塔婆(石造供養塔)。
1953年(昭和28年)3月31日、国の重要文化財に指定された(指定名称:浮島十三重
塔)。2003年(平成15年)3月14日に塔内納置品が京都府指定有形文化財となった。
浮島十三重石塔は、現存する近世以前の石塔としては日本最大(塔高15.2m)である。
なお、観光案内などで浮島十三重石塔を「日本最古の石塔」とするものがあるが、これ
は事実ではない。石造の層塔では、奈良時代前期の石塔寺三重塔(伝・阿育王塔。滋
賀県東近江市石塔町所在)が日本最古である。石造の十三重層塔としては、奈良市
長谷町の塔の森十三重石塔(奈良時代後期)が、破損は甚だしいが現存する。
勝宝山西大寺(南都西大寺)の再興などで知られる僧・叡尊は、鎌倉時代後期にあた
る弘安7年(1284年)、宇治橋の大掛かりな修造を手がけたが、橋が完成する弘安9
年(1286年)に合わせて、宇治川の川中島として大橋の南方に舟を模した形の人工
島を築き、放生会を修する祈祷道場とした。そして、宇治川で漁撈される魚霊の供養
と橋の安全の祈念を旨に、同年11月19日(ユリウス暦換算:1286年12月6日)、島の
中央に大塔婆を造立した。
大塔の建っていた島は、頻発する宇治川の氾濫にもよく耐え、激流に浚われること
がなかった為、いつの頃からか島を指して「浮島」「浮舟ノ島」などと呼ぶようなった。
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鵜の小屋
海鵜のウッティー達の小屋
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喜撰橋
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あじろぎの道
平等院へ向かう
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平等院・鳳凰堂
平等院(びょうどういん)は、京都府宇治市にある藤原氏ゆかりの寺院。平安時代後期
11世紀の建築、仏像、絵画、庭園等を今日に伝え、「古都京都の文化財」として世界遺
産に登録されている。
山号を朝日山と称する。宗派は17世紀以来天台宗と浄土宗を兼ね、現在は特定の宗
派に属さない単立の仏教寺院となっている。本尊は阿弥陀如来、開基は藤原頼通、開
山は明尊である。琵琶湖国定公園エリア内に位置している。
京都南郊の宇治の地は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、平安時代初期から
貴族の別荘が営まれていた。現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルとも
いわれる左大臣で嵯峨源氏の源融が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇
の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったも
のである。道長は万寿4年(1027年)に没し、その子の関白・藤原頼通は永承7年(10
52年)、宇治殿を寺院に改めた。これが平等院の始まりである。開山(初代執印)は小
野道風の孫にあたり、園城寺長吏を務めた明尊である。創建時の本堂は、鳳凰堂の
北方、宇治川の岸辺近くにあり大日如来を本尊としていた。翌天喜元年(1053年)に
は、西方極楽浄土をこの世に出現させたかのような阿弥陀堂(現・鳳凰堂)が建立さ
れた。
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鳳翔館見学
平等院ミュージアム鳳翔館とは
平等院ミュージアム鳳翔館は平等院の敷地内にある博物館である。2001年3月1日
に開館し、宗教法人としては初となる総合登録博物館となっている。世界遺産である
平等院の景観に配慮し、施設の大半が地下に埋められていることが特徴である。10
円硬貨にもデザインされている平等院の鳳凰堂の建築要素を現代的に表現した建
物は周囲の景観に見事に溶け込んでいる。
平等院ミュージアム鳳翔館では国宝に指定されている梵鐘や重要文化財に指定され
ている十一面観音立像、宇治市指定文化財に指定されている帝釈天像、地蔵菩薩像
などが展示されている他、平安時代(794年–1185年)の鬼瓦などの発掘出土品も多く
展示されている。 また、最新のデジタル技術を用いたCG映像で、かつての平等院
鳳凰堂内の彩色復元映像も見ることができ、平等院の歴史と価値を知る事が出来る。
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見学を終えて
平等院鳳凰堂を後ろから見る
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扇の芝
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平等院を出て~香りの道
香りの道
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紫式部像
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宇治橋(解散)
宇治橋の南側の欄干上流に面して「三の間」といわれる張出は、のちの信長や秀吉時代、
ここから宇治川の水を汲みあげ茶をたてたといわれています。
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