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12月22日の昼飲み会ハイキング上本町駅~布施駅-1

12月31日     12月22日のハイキング上本町駅~布施駅-1
            昼飲み会ハイキング・てくてくマップ 約11㎞
知人と4人で「てくてくマップ」の初めてのコースに挑戦してみた・M吉・K場・S藤・田原
コース  本来なら上本町駅~枚岡駅への16kmコースだが途中でUターンを考え・・・
上本町駅(駅改札印)~鎌八幡~東雲稲荷神社~玉造稲荷神社~八阪神社~熊野
大神宮~法明寺~深江稲荷神社~天神社~法観寺~植田家住宅~新御厨北大橋
~八釼神社~Uターンして若江岩田駅 約11kmに挑することに挑戦した・・・
しかし、深江稲荷神社迄でUターンして布施駅へ戻る事に、銭湯から居酒屋へ仲間が
待つ天王寺へ。此の日の私の万歩計は、23826歩で約17.6km歩いたことに・・・
上本町駅(駅改札印)~鎌八幡
鎌八幡(円珠庵)
円珠庵(えんじゅあん)は、大阪市天王寺区空清町にある真言宗豊山派の寺院。
天和元年(1681年)6月百姓太郎左衛門が契沖に深く帰依して所有地を寄付したのが
当庵の起こり。元禄14年(1701年)1月25日に契沖は当庵にて62歳で亡くなり、墓所は
境内にある。
鎌八幡(かまはちまん)
元和の大坂冬の陣の時真田信繁(幸村)が、陣所内にて当時信仰を集めていた御神木
に、「鎌八幡大菩薩」と称して慣例に習い鎌を打ち込み、必勝を祈願したところ、大いに
戦勝をあげたと伝承されている。江戸時代以降は、真言宗の祈祷と結びつき、現在の形
の「悪縁を断つ鎌八幡」として信仰を集め、現在に至っている。
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※契沖(けいちゅう
寛永17年(1640年) - 元禄14年1月25日(1701年3月4日))は、江戸時代中期の真言宗
の僧であり、古典学者(国学者)。
摂津国川辺郡尼崎(現在の兵庫県尼崎市北城内)で生まれた。釈契沖とも。俗姓は下川
氏、字は空心。祖父・下川元宜は加藤清正の家臣であったが、父・元全(もとたけ)は尼崎
藩士から浪人となったため、8人の子は長男を除いて出家したり養子として家を離れざる
を得なかった。契沖は、幼くして摂津国東成郡大今里村(現在の大阪市東成区大今里)の
妙法寺の丯定(かいじょう)に学んだ後、高野山で東宝院快賢に師事し、五部灌頂を受け
阿闍梨の位を得る。

東雲稲荷神社・・・玉造稲荷神社分社(旧社名 東雲稲荷神社)
現在、玉造稲荷神社分社の地は江戸時代に玉造を代表する町人である松屋甚四郎、そ
の手代源助が「浪花講」を設立した場所にあたる。甚四郎は唐弓弦師として全国を行商
した経験から、当時の旅は安全性が乏しく、旅人に安全で信頼のおける旅を提供しようと
この組織を設立した。
この「浪花講」は、現在の協定旅館・旅行斡旋業の祖とされ全国へと広がった。全国各地
の旅籠などの軒先には「大坂・浪花講」の看板が掲げられ、旅人らはそれを目印に安心な
宿をとる事が出来た。
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カトリック教会
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玉造稲荷神社
社伝によれば垂仁天皇18年(紀元前12年)に創建され、当時は比売社と称していた。
蘇我氏と物部氏の戦いの際、蘇我氏方の聖徳太子がこの地に布陣して戦勝を祈願し、
戦勝後当地に観音堂を建てたという伝承がある。
大坂城の南東にあり、大坂城三ノ丸に位置した当神社。西向きに建てられている本
殿は比較的に少なく大坂の経済を見守るため、西を向いていたとも言われている。
大坂の町を造った豊臣秀吉公は稲荷神を崇敬し当神社を大坂城の鎮守神として祀っ
た。また、大坂城における神事の多くは当神社神職が執り行い、慶長八年には豊臣
家より五百石の水田(現・大阪市天王寺区玉造本町)が当神社へ朱印地として寄進
された。
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玉造二軒茶屋跡道標
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暗越奈良街道道標
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八阪神社
当神社の創建は古く、およそ1000年前の寛仁元年(1017年)までさかのぼります。
平安貴族の中でも栄華を極めた関白藤原道長が東成郡中道法性寺なるところに別
邸を建てスサノオノミコト、ククリヒメノミコトの同一神とされる牛頭天皇白山権現を鎮
守の神として奉祀されたのが始まりです。その後、仁安元年 (1166年)に社殿を再
し、天正12年(1584年)には現在の地に遷座。社殿を東向きに配し、牛頭天王白山
権現社と称せられました。そして、明治5年。八阪神社と改め、この地の産土神社と
なります。明治42年には境内より暗越奈良街道参詣道を開拓し、街道筋に大鳥居を
建てましたが、大正6年、玉垣を新設するとともにこの大鳥居を移動し、その跡に社
名標石を建てています。
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※暗越奈良街道(くらがりごえならかいどう)
大阪から奈良へ通じる旧街道として、5百年程度前に開けた街道である。江戸時代、
奈良への最短コースをとる街道として大変賑わったといわれています。
この暗越奈良街道が開けていなかった頃、難波から大和に行くには日本最古の国
道といわれる竹内街道が利用され、また奈良時代には、難波から大和(平城京)に
通じる最短の道があり「日下の直越(ただごえ)道」といわれていたが、後の暗越奈良
街道と一部重複する箇所もあると考えられています。近世になって、豊臣秀吉の天下
統一と、弟、秀長の郡山城での大和支配など奈良との関係で重視されたと伝えられ
ています。
起点は高麗橋とされ、東成区の玉造より西から東へと通じ、暗越と呼ばれるように生
駒山系の暗峠を越えて奈良に往っていたので、この名称の由来があります。
現在も大今里辺りは、昔の街道を偲ばせるところがあります。江戸時代中頃から、全
国的にお伊勢参りが盛んとなり、多いときで一日7~8万人の旅人で賑わったといわれ
ています。
明治時代に入ると交通機関の発達に伴い、この街道は殆ど利用されなくなりました。

玉津橋~東成警察署
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熊野大神宮
由緒書きによると、創立年代は1400年以上前になり詳らかではないとのことですが、
「用明天皇2年、厩戸皇子が四天王寺を浪速玉造の岸に創立せられたとき、拾弐坊
の伽藍を建立せられ、当社社務を司らしめられました」とあり、この神社の創建に聖
徳太子が関わっているという伝承があったようです。もとは熊野権現と称していまし
たが明治8年権現号を廃し、熊野大神宮と改称した旨が記されています。 由緒書き
には紀伊熊野との関わりは明記されていない。
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妙法寺
聖徳太子の創建と伝えられ、近世国学の祖と言われる契沖(けいちゅう)が、延宝
7年(1679年)から元禄3年(1690年)まで住職をし、また修学の道場としても有名
で、現在大阪府顕彰史跡に指定されています。
契沖は、妙法寺住職となってから本格的に国学研究の学問に専念し、徳川光圀公
の委嘱により、有名な「万葉代匠記」やその他多くの著作を完成させました。
現在妙法寺境内には契沖の供養塔と慈母の墓があります。
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※契沖遺跡
昭和24年(1949年)に妙法寺境内は、僧契沖遺跡として大阪府顕彰史跡に指定
されています。近世国学の祖といわれる契沖は、延宝7年(1679年)から元禄3年
(1690年)までの11年間、この妙法寺住職をし、国学の勉強に尽力した。

法明寺
当地で生まれた法明上人(弘安(こうあん)2年、1279-正平(しょうへい)4年、1349)
の創建(文保(ぶんぽう)2年、1318)と伝えられる。平和な家庭をもったが、不幸が
つづき無常を感じ若くして出家した。高野山・比叡山で修行し、平野の大念仏寺の
中興の祖として尊敬された。
境内には弘長(こうちょう)2年(1262)、暦応(りゃくおう)2年(1339)在銘の2基の石塔
があり、雁(がん)塚とよばれている。ある猟師が雁を射落としたところ首がなく、後日
射た雁はしっかりと別の首を抱いていた。夫婦か親子の雁とあわれみ供養したという
伝説がある。また龕(がん)(仏像などをおさめる物入れ)を埋めたものともいう。
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※雁(がん)塚
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深江稲荷神社
宇賀御魂神(うがのみたまのかみ)ほか二柱を奉斉する旧深江村の氏神で、和銅年
間(8世紀前期)の創建といわれ、慶長8年(1603年)豊臣秀頼が社殿を改造したとも
伝えられます。笠縫部(かさぬいべ)との関係が深く、現在境内が「笠縫邑跡(かさぬ
いむらあと)」「深江菅笠ゆかりの地」として大阪府、大阪市から史跡に指定されてい
ます。
深江稲荷神社は垂仁天皇の御代、笠縫氏の祖が摂津国東生郡笠縫島の宮浦の地
(今の深江南3丁目の地)に居を定め、下照姫命を奉祀したのが始まりとされ、その
後、元明天皇和銅年間に山城国稲荷神社の御分霊を勧請したと伝えられています。
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桜川公園で昼食
時間が無いので布施駅へ戻り、天王寺へ向かう
あべのハルカス&キューズモール
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銭湯
湯処・あべの橋
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居酒屋 甘太郎
15時~17時 9名で昼飲み会の忘年会で盛り上がった
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天神社~法観寺~以降は股の機会に・・・・
天神社
奈良街道から北に向かい、参道がのびる天神社(あまつかむやしろ)は集落の中央
にあり、古くは御厨神社と呼ばれ、近世以後に現在の社名(通称:てんじんしゃ)が使
われるようになりました。第二寝屋川南東岸近く、街中のやや微高地に鎮座。
明治以來、現在の東大阪市御厨地区と長田地区とで、どちらの地区の神社が式内の
意支部神社であるかで争つている。御厨は天神社といい、長田は長田神社という。
裁判にもなつたこともあり、現在もまだ解決されていない、論社となったままである。
意支部という社名の難解さが、この神社をわからなくしている一因である。社名の意味
やこの神社を祀つた氏族がはつきりしないので、神社の創建その他の由緒はわから
ない。延喜式神名帳だけにみえる神社である。
この地の奥方・置方の地名が意支部に通ずるということから論社とされているが、御厨
天神社は古くは御厨神社と呼ばれていたことから、式内社からもれていたとの伝もある。
※天神社
旧御厨村の中央に位置し、大名持命、少彦名命の二神をおまつりしています。創建年
代は文献が無く解りませんが、延喜式神名帳にみえる意岐部神社がこの神社であると
も伝えられています。古くは御厨神社と呼ばれ、近世以後に現在の社名が使われるよ
うになりました。また、大正4年には新家村の菅原神社と菱屋東の稲荷神社と山科神社、
荒本の荒本神社の4社が合祀されました。
境内には、市の天然記念物に指定されている「くすの木」があるほか、本殿東側にある
小さな四社の殿前の元禄10年(1697)銘の石燈篭や拝殿西側にある奈良秋篠寺の石
燈篭と同形の八角形の石燈篭や寛成9年(1797)銘の狛犬、正徳元年銘の手水鉢など
の石造物があります。また、枚岡神社から移築された能舞台や村相撲が盛んであった
ことを示す番付表も保存されています。ところで、御厨という地名は、朝廷にお供えする
魚介類を獲るため、平安時代の延喜5年(908)、付近に拡がる湖沼一体を「大江御厨」と
定めたことに由来する。 平成15年3月 東大阪市

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12月19日の歩こう会〆は泉佐野の酒蔵で乾杯-1

12月28日     12月19日の歩こう会納会〆は泉佐野の酒蔵で乾杯-1
             納会ハイキング 〆は泉佐野の酒蔵で乾杯 約6㎞
コースは、
日根野駅(受付・スタート)~日根神社~北庄司酒造・昼食・試飲~買い物~日根野駅
北庄司酒蔵の2階「蔵しっくホール」で昼食、利き酒、振舞い酒他でほろ酔い気分になり、
お土産に利き酒のあてについていた「酒粕入りネギ味噌」@600円を購入して帰った。
今年最後の歩こう会参加者は79人と少な目?だったが、〆に相応しいハイキング・・・
此の日の私の万歩計は、16349歩で約12km歩いたことに・・・
日根野駅(受付・スタート)
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日根神社へ向う
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日根神社
日根神社(ひねじんじゃ)は大阪府泉佐野市日根野にある神社。和泉国日根郡
の式内社で、和泉五社の一つ(和泉国五宮)。
日本で唯一の枕と寝室の守護神。不眠でお悩みの方(健康, 安眠祈願)や子宝を
願う方(子授け,安産祈願)に特別なご利益があります。
日根神社の創建は明らかではない。霊亀二年(716年)に制定された和泉五社の
うちに数えられており、 延喜式内社日根郡十座のうちに列せられていることから、
1200年以上前であると考えられる。 聖武天皇の御代、天平十四年の大旱魃の
際には五百石を賜っている。
現在の本殿は、社伝によれば天正年間(1573年-1593年)に兵火によって焼失
したものを、豊臣秀頼が再建したものと言われている。
明治6年(1873年)には郷社定則により郷社に指定され、大正13年(1924年)に
は府社に昇格した。
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此の続きは、
12月19日の歩こう会〆は泉佐野の酒蔵で乾杯-2 として
            下記のメインブログへ詳細を投稿します。
          http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、日根神社本殿~
日根神社本殿
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北庄司酒造へ向かう
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北庄司酒造・昼食・試飲&利き酒等
北庄司酒造店の酒造り・・・HPより
佳い酒を少しずつ
泉佐野市日根野地区は古くから農耕の地として栄え、平安時代には「日根野荘」
という荘園が営まれていた歴史とその名残の風景が残されています。北庄司酒
造店は、この地で昔ながらの伝統を受け継ぎながら、手間暇を惜しむことなく高
品質の酒造りを行っています。
当酒蔵が目指すものは、淡麗に流されず、辛口に過ぎない日本酒本来の旨味
です。良質の酒米を高精白し、南部流の「軽ろ味」の技で醸し上げた奥行きの深
い味わい、キレが良く、ふくよかな旨さをお楽しみください。

酒蔵の2階「蔵しっくホール」で昼食、利き酒、振舞い酒他でほろ酔い気分になり、
土産に利き酒のあてについていた「酒粕入りネギ味噌」@600円を購入して帰った。
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日根野駅へ向かう
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12月16日の梅田の街中~心癒される公園巡り-1

12月26日    12月16日の賑やかな梅田の街中~心癒される大阪の公園巡り-1
               阪神TRYあんぐるウオーク  歩程約11㎞
知人と3人で参加、参加者数1076人、私の万歩計は、26431歩で約19.5km歩いた事に・・
TRY阪神  近鉄・南海・阪神 TRYあんぐるウオーク 鷺州中公園 受付9時半~10時
阪神・野田駅~10分~鷺州中公園(受付9時半~10時)~大和田街道・梅田街道碑~
福島~梅田・大阪駅前~曽根崎・お初天神~太融寺町・太融寺~扇町公園~天神橋筋
商店街~大阪天満宮~天神橋~中之島公園・バラ園(昼食)~北浜証券取引所~少彦
名神社~御霊神社~大阪科学技術館~靭公園・バラ園・楠永大神・靭海産物市場跡~
津波・高潮ステーション~木津川沿い遊歩道~阪神・ドーム前駅(ゴール)
鷺州中公園(受付9時半~10時)
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大和田街道・梅田街道碑
碑文
この街道は 北区西天満一丁目を起点とし福島区 西淀川区を経由して尼崎に通じる明
治期の物資流通道路であった。起点から西進し堂島 梅田出入橋を経由し かきつばた
で有名な浦江の聖天の南を通り珍しい神事が残る海老江の八坂神社のかたわら 国道
2 号沿いを北に進み 淀川を渡る 姫島神社を右にみて大和田を通り佃漁民ゆかりの地
の佃を経して尼崎市大物町に至る 街道は 古くから阪神間を直結する重要路線の一つ
として西国往来の人や 尼崎 西宮 兵庫の商人など行き来する人が多かった。
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梅田・大阪駅前
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曽根崎
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曽根崎・お初天神(露天神社(つゆのてんじんじゃ))
露天神社(つゆのてんじんじゃ)とは、大阪府大阪市北区曽根崎二丁目にある神社。
通称:お初天神。概ね摂津国西成郡曾根崎村(キタの西半)を氏地とする。
祭神は大己貴大神、少彦名大神、天照皇大神、豊受姫大神、菅原道真の五柱の神を
祀る。社伝によれば、この地はかつて曾根崎洲という大阪湾に浮ぶ孤島で、そこに「住
吉住地曾根神」と祀っていたとされる。創建は西暦700年頃とされ、「難波八十島祭」旧
跡の一社とされている。
天照皇大神を祭神として祀ることから、かつては難波神明社とも呼ばれ、日本七神明
(東京芝神明宮、京都松原神明宮、京都東山神明宮、大阪難波神明宮、加賀金沢神
明宮、信濃安曇神明宮、出羽湯殿山神明宮)の一つにも挙げられた。 社名は、「梅雨
のころに神社の前の井戸から水がわき出たため」ともいうもののほか、菅原道真が太
宰府へ左遷される途中、ここで都を偲んで、
[露とちる 涙に袖は朽ちにけり 都のことを思い出づれば]との一首を詠んで涙を
流したからとも伝えられている。
近松門左衛門のいたころの天神の境内は560余坪の広さがあり、木が鬱蒼と茂ってい
た。近松は当時、天神を「影暗く風しんしんたる曽根崎の森」、「天神の森」と書き記して
いる。太平洋戦争による戦火と、その後の社殿復興のための境内の切り売りが行われ
た結果、現在の広さとなったものである。
元禄16年(1703年)に堂島新地天満屋の遊女「お初」と内本町平野屋の手代「徳兵衛」
が「天神の森(現在の社の裏手)」にて心中を遂げた。一月後近松門左衛門はこの二人
の悲恋を人形浄瑠璃『曽根崎心中』として発表したところ、当時の大きな話題となった。
事件の神社は一躍有名となり、そのヒロインである「お初」の名前から以後今日に至る
まで「お初天神」と通称されている。
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太融寺へ向かう
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太融寺町・太融寺
太融寺(たいゆうじ)は、嵯峨源氏の祖で左大臣・大納言の源融(みなもと・の・とおる)
ゆかりの寺で、大阪市北区太融寺町に伽藍を構える真言宗(高野山真言宗・準別格
本山)の寺院。山号は「佳木山」、院号は「宝樹院」。
821年(弘仁12年)に弘法大師が嵯峨天皇の勅願により創建。1615年(元和元年)5月
の大坂夏の陣の兵火で全焼後、元禄時代に本堂など25の諸堂を再建したが、1945年
(昭和20年)6月に大阪大空襲より再び全焼、戦後になって20余り再建した。
境内には本堂の他に空海(弘法大師)を祀る大師堂、不動明王(一願不動尊)を祀る不
動堂、多くの女性の信仰を集める淀殿の墓所が有る。
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扇町公園・カンテレ
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天神橋筋商店街
天神橋一丁目から天神橋六 丁目まで南北2.6 km、600の店舗が軒を連ねる日本一
長いアーケード商店街である。
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大阪天満宮(おおさかてんまんぐう)
大阪天満宮は、大阪府大阪市北区天神橋に鎮座する神社(天満宮)。別名に天満天神・
浪華菅廟・中島天満宮がある。大阪市民からは「天満(てんま)の天神さん」と呼ばれ親し
まれている。毎年7月24日から25日にかけて行われる天神祭は日本三大祭、大阪三大
夏祭りの一つとして知られている。
901年に菅原道真が、藤原時平により九州大宰府へ配転(左遷)させられた際、同地に
あった大将軍社に参詣した。903年に菅原道真が没した後、天神信仰が始まる。949年
に大将軍社の前に7本の松が生え、霊光を放ったという奇譚が都に伝わった。そのため
村上天皇の勅命によって天満宮を建立させたのが始まりである。
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天神橋(てんじんばし)
天神橋は、大川に架かる天神橋筋(大阪市道天神橋天王寺線)の橋で、大阪市北区天
神橋と大阪市中央区北浜東の間を結んでいる。
1594年(文禄3年)の架橋とされ、当初は大阪天満宮が管理していたが、1634年(寛永
11年)に他の主要橋とともに幕府が管理する公儀橋となった。難波橋、天満橋と共に浪
華三大橋と称され、真ん中に位置する。
浪華三大橋の中で全長が最も長い。また、1832年(天保3年)の天神祭において、橋上
からだんじりが大川へ転落して溺死者13名を出す事故があり、「天神橋長いな、落ちた
らこわいな」と童歌に歌われた。現在は、全長219.7メートルの3連アーチ橋である。
此の続きは、
12月16日の梅田の街中~心癒される公園巡り-2 として
           下記のメインブログへ詳細を投稿します。
         http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、中之島公園・バラ園(昼食)~
中之島公園・バラ園(昼食)
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難波橋(なにわばし)・・・通称らいおん橋とも言われる
難波橋は、大阪市の大川に架かる橋。浪速の名橋50選選定橋。大阪弁では「ナン
ニャバシ」と発音する。
大阪市中央区北浜~北区西天満の堺筋にかかる、全長189.7m、幅21.8mの橋であ
る。中之島を挟んで土佐堀川と堂島川の2つの川を渡る。橋の中央で下流側に中之
島通を分岐させ、上流側に中之島公園へ降りる階段が設けられている。
難波橋辺りの最初の橋は、元をたどると704年ごろに行基によって架けられたといわれ
ている。天神橋、天満橋と共に浪華三大橋と称され、最も西(下流)に位置する。「浪華
橋」とも表記され、明治末期まで堺筋の一筋西の難波橋筋に架かっており、橋の長さが
108間(約207m)もの大型の反り橋だったという。1661年(寛文元年)天神橋とともに幕
府が管理する公儀橋とされた。
1912年(明治45年)に大阪市電が天神橋筋六丁目まで延伸される際、市電敷設の反対
運動が起こったため、1915年(大正4年)に一筋東の堺筋に新橋が架けられた。パリの
セーヌ川に架かるヌフ橋とアレクサンドル3世橋を参考にして製作されたと言われるこの
新橋が現在の難波橋である。
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大阪証券取引所・五代友厚像
五代 友厚(ごだい ともあつ)は、江戸時代末期から明治時代中期にかけての日本の武
士(薩摩藩士)、実業家。薩摩国鹿児島城下長田町城ヶ谷(現鹿児島市長田町)生まれ。
大阪経済界の重鎮の一人。当時、「まさに瓦解に及ばんとする萌し」(五代)のあった大
阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用秩序の再構築を図った。
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少彦名神社
少彦名神社(すくなひこなじんじゃ)は、大阪市中央区道修町二丁目にある神社。旧社格
は無格社。別称として、道修町の神農(しんのう)さんとして親しまれている。
祭神は、少彦名命(すくなひこのみこと)と神農氏(しんのうし)
祭神は薬・医療・温泉・国土開発・醸造・交易の神であるが、少彦名神社では、薬の神とし
て健康増進、交易の神として商売繁盛の神徳があるとされている。
医薬にゆかりのある祭神を祀っていることから、医薬業に携わる会社・関係者などの信仰
を集めている。病気平癒・健康祈願や医薬業関連の資格試験合格を願う参詣者も多い。
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御霊神社
当社は圓江(つぶらえ:現在の靱)にあった圓神祠(つぶらしんし)が創起で、850年(嘉
祥3年)の「文徳実録」に八十嶋祭の祭場が圓江で行われたとあり、800年代後半の創
建とされる。文禄三年(1594年)に、石州津和野藩主亀井候が邸宅を割いて寄進し、圓
江から現在地の北船場に移され、寛文年中に御霊神社と改称された。頂いた資料による
と、商業金融の中心地の鎮守として商家の崇敬はもとより、山片蟠桃、緒方洪庵、福沢
諭吉を始め、懐徳堂や適塾の塾生もよく参拝したとのことである。
紅葉が残ってて綺麗だった
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大阪科学技術館
津波・高潮ステーションを体験
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靭公園・バラ園
バラが残っていた
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靭公園・楠永大神・靭海産物市場跡
楠永大神
楠永神社は東西に延びる靭公園の中央・西園のなわて筋側にあります。
祭神:楠永大神、楠玉大神。ご神木は、樹齢は約300年になる2本の楠木です。
御霊神社の祭神である摂津津村郷の産土神(うぶす)である津布良彦(つぶらひこ)
と津布良媛(つぶらひめ)の二神は、元々この場所で祀られていました。2柱が淡路
へ遷座されてから、楠永大神、楠玉大神として、この2本の楠を祀っているようです。
楠永神社のある場所は、淡路に遷座した御霊神社(ごりょう)があった場所で、御霊
宮旧跡碑が建っています。
御霊神社(ごりょう)は平安時代初期の創建で、靱の地にあり、圓神祠(つぶら・しん
し)と呼ばれ八十嶋祭が行われた由緒ある神社です。
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靭海産物市場跡
楠永神社の裏に永代濱跡碑があります。大坂の魚市場は、江戸時代の初めには
生魚を扱う雑喉場魚市場(大阪市西区・江之子島1丁目)と、干物などを扱う靭海
産物市場に分かれて、発展していきました。この付近一帯の靭(うつぼ)の地は、
江戸時代には永代濱(えいたいはま)と呼ばれ、昆布、塩干魚、鰹節などの靭海
産物市場として栄えました。隣に靭海産物市場跡の碑もあります。
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木津川沿い遊歩道
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阪神・ドーム前駅(ゴール)

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12月10日の健康ささゆりウオーク 片岡城跡-1 

12月14日        12月10日の健康ささゆりウオーク 片岡城跡-1
                落ち葉の感触を楽しみ、片岡城跡に立つ
此の日は、健康上牧21事業ささゆりウオーク、片岡城跡に立つに参加 歩程約5.5㎞
健康上牧21事業スタッフ15人、参加者40人の合計55人で”町内の史跡 片岡城跡”へ。
コース    歩程約5.5km
2000年会館前(受付・スタート)~中央公民館~滝川遊歩道~まきのは郵便局~下牧
~上牧大橋~瓔珞山(ようらくやま)・片岡城跡~下牧金冨間峠道・伊邪那岐神社・即
得寺~三輪街道~下牧~まきのは郵便局~滝川遊歩道~2000年会館(ゴール)
2000年会館へ向かう
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※神の牧温泉
神の牧温泉は少し塩辛い味がするナトリウムー塩化物温泉でさらに、溶けている成分
が人体への浸透圧が高い高張泉で、湯治に適していま す。
泉質は、ナトリウムー塩化物温泉
適応症は
神経痛・筋肉痛・関節痛・五十肩・運動麻痺・間接のこわばり・うちみ・くじき・慢性消化器
病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進・きりきず・やけど・慢性皮膚病・虚弱
児童・慢性婦人病
現在、スーパー銭湯形式で大野天風呂が魅力の「虹の湯」が営業しています。

2000年会館前(受付・スタート)
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ラジオ体操をして
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中央公民館前
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滝川遊歩道
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まきのは郵便局
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下牧~上牧大橋~瓔珞山
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瓔珞山(ようらくやま)へ
・・・今回は此処から登らず、もう一つ下の旧セメント工場?から
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※瓔珞(ようらく)
瓔珞(ようらく)とは、装身具または仏堂・仏壇の荘厳具のひとつ。古くはインドの貴族
の装身具として用いられていたものが、仏教に取り入れられたもので、菩薩以下の仏
像に首飾り、胸飾りとしてもちいられている。

此処から瓔珞山へ入る
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瓔珞山・片岡城跡へ向かう
登り始めると王寺霊園や其の向うの信貴山が見えるi
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此処は民間の土地で
普段は入れない場所だそうです
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ツリーハウス?等の在る
この場所で片岡城についての説明が・・・
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片岡城跡へ向かいます
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此の続きは、
12月10日の健康ささゆりウオーク 片岡城跡-2 として
          下記のメインブログへ詳細を投稿します。 
        http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
此の続きは、片岡城跡~
片岡城跡です、此処でも説明を聞きます。
此処へは此れから下るルートで何時でも来れます
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片岡城跡・・・中世の山城「片岡城」
片岡城を築いたのは片岡国春。上牧町内の下牧地区から金富地区へ抜ける峠道
の頂部分に中世の山城と伝えられる片岡城跡があります。片岡城は1550年頃に
片岡国春によって築かれたとされています。
下牧に片岡城を築く前は、隣町の王寺町と香芝市の境界あたりにある小高い山
送迎(ひるめ)山の標高262メートルのところにありました。この頃の葛城地方は片
岡氏に続いて南のほうへ順に岡・万歳・布施・倶志羅・楢原・吐田の六人が勢力を
伸ばし、倶志羅氏以外の五氏はいずれも山城を築いており、片岡国春の送迎山城
も地理的に良く似たところにあります。
片岡国春が上牧町内に新たに築いた片岡城は高さ80メートルの丘城で、他の山城
とは地形的に異なり、要害性には劣りますが、片岡谷を見下ろす位置にあり、政治
・経済の中枢としての機能は送迎山城より優れていたと考えられます。
片岡城は葛下川を望む上牧第二中学校から葛下川と滝川との合流点へ続く丘陵地
帯に築かれた山城です。
城の西すそを流れる葛下川から見ますと48メートルの高さの位置にありますが、急
な崖で迫り、当時、すそを覆うように流れていた葛下川がたびたび氾濫を繰り返し、
あたり一面は湿地帯になっていました。また、城の東側にも滝川が流れそれが城の
北側で葛下川と合流、三方を自然の水濠で囲まれた、この近辺では屈指の要害に
適した地形になっていました。
片岡氏から松永久秀に変わって・・・松永時代に完成した片岡城
別々に機能していた曲輪(1)・(2)と曲輪(3)・(4)を共通に防御できるようになり、
このときに片岡城が完成したと考えられます。この年代は永禄12年から天正5年
の8年間と限定できます。

※細川忠興15歳、その弟の頓五郎(細川興元)14歳
天正5年(1577)の、松永久秀による信長への反乱に従い、松永久秀の与力である
海老名某も、河内国片岡城に立て籠もった。これに対し信長は、長岡(細川)藤孝父
子、惟任(明智)光秀、筒井順慶に「3人で押し寄せ、蹴散らせ」と命じた。
これにより十月朔日未明に、この3名による片岡城攻めが始まった。
ここで、長岡藤孝の嫡男與一郎(細川忠興)15歳、その弟の頓五郎(細川興元)14歳、
この兄弟が真っ先に駆け入った。
織田勢は新手を入れ代わり立ち代わりに攻め立てさせたため、死傷者多く出て残り少
なくなると、「今や叶わじ」と思ったか、城主の海老名は腹を十文字に掻っ切って伏せ、
残る兵たちも、みな思い思いに自害して、同じ枕に臥した。
細川忠興・興元兄弟は、この戦いでの働きにより信長から直筆の感状をもらっている。

※片岡城笹ゆり姫物語があります
初夏の風が貴船(きふね)の社の木立を通り抜け竹林をそよがせている。楽士の
奏でる音色に合わせて一人神楽を舞う幼い巫女は、ササユリを両手にかざし得も
言われぬ愛らしさを辺りに漂わせていた。 「あの子は誰だろう」
景頼が、その姫を初めて心に留めたのは、まばゆい光が射し込む御祭礼の日で
あった。
永禄七年、木辻城の嫡男、景頼は数えて十一歳。片岡城の一人娘佐葦姫はまだ
十歳であった。それから五年、歳月は幼い二人を美しい姫と逞しい若者へと変え
ていった。
・・・・・・・・・・・・・・・1章~6章迄あり、途中の話を割愛して
「景頼さま」と、駆け寄る。 「今、確かに景頼さまが・・・これは」そこには白いササ
ユリの中に、一際美しく淡く紅を染めた一輪のササユリが咲いていた。
「これは狭井川の辺に咲くという幻の紅いササユリでは・・・景頼さまがこれを」
「景頼さま,小百合ですよ。佐葦はもう泣きません。この上の牧で強く生きて行き
ます。どうぞこの城山から私達を見守っていてください」
瓔珞山の大王杉から一部始終を見守っていた白い梟は、やがて金色に染まった
黄昏の空いっぱいに羽を広げると、飯盛山の彼方へと消えていった。

下牧金冨間峠道へ下る
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空堀跡を目の前にして説明を聞く
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お地蔵さんの前
此処を真っ直ぐ行くと即得寺
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此処を真っ直ぐ行くと
伊邪那岐神社への道
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※伊邪那岐神社
下牧と金富との間に横たわる山の頂にあり、祭神は伊邪那岐命です。
主神の伊邪那岐命を中央にして、相殿とし春日、八幡、住吉、稲荷の神をまつって
います。もと指定村社で、町内の神社では格式が高いとも言われていました。神殿
は流れ造りで明治12年(1879)の造営で昭和43年(1968)に改築されています。
もと東田口の忍山(しのんやま)にありましたが疫病が流行したので静寂の聖地を
もとめて現在の地に移したといわれています。
旧地は現在住宅化している丘陵の中央で頂上が平地になっていました。そのころ
は五社神社と言われていたようです。
また足利の末期に片岡国春がここに片岡城を築いたときに春日、八幡の両神を守
護神としてまつったという言い伝えもあります。
『延書式巻九』の神名帳には、「葛下郡伊邪奈岐神社」と書かれている神社がこれ
ではないかといわれています。

※松永久秀
松永久秀が謀反を起こし多聞山城で自爆した際に、息子の松永久通もこのときに
自害している。さらに久通の息子二人は織田信長の人質にでていたので、処刑さ
れてしまった。しかし、松永久秀の子孫は絶えず、久通の子の一人は博多に逃れ
て豪商となり、その子孫から陸軍中将の松永貞市やバンダイ社外取締役松永真
理が出ている。
また、爆笑問題の太田光の妻で太田プロ社長、太田光代(旧姓・松永)も系統不明
ながら松永久秀の子孫だという。・・・達磨寺のお墓に墓参りに来ると言う・・・・

我々は真ん中の細い道を下る
此処は三輪街道だ・・・
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下牧へ降りて来た
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まきのは郵便局~滝川遊歩道
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中央k公民館
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2000年会館(ゴール)

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12月9日の酒蔵みてある記 稲田酒造「稲天」-1 

12月12日       12月9日の酒蔵みてある記 稲田酒造「稲天」-1 
                近鉄 酒蔵みてある記ハイキング
いよいよ始まる近鉄の酒蔵みてある記ウオーク、甘酒の飲める季節になりました。
此の日はひとりで参加、416番・・・先着1000人様に甘酒ふるまい有り
近鉄駅フリーハイキング 天理駅受付10時~11時  10時集合  歩程約10㎞
天理駅(受付)~市座神社~西山古墳~西乗鞍古墳~東乗鞍古墳~夜都岐神社
(やつぎじんじゃ)~天理観光農園~内山永久寺~石上神宮~天理参考館~稲田
酒造・甘酒ふるまい・試飲・抽選会(解散)~天理駅
日本酒の苦手な私が唯一飲める日本酒、天理の稲田酒造「稲天」、正月のお屠蘇
用に「稲天」純米吟醸酒を購入して帰った。何時もの事ながら甘酒も美味しかった。
此の日の私の万歩計は、19127歩で約14.1km歩いた事に・・・
志都美駅から葛城山二上山
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天理駅(受付)
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市座神社へ向う
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市座神社
参道の入口左側には丹波から遷されたという恵美須神社、また本殿の右側には妙
見社があります。創祀は不明ですが、事代主命を祀り、今も丹波市の名にふさわし
く市場の守護神として尊崇されています。
奧の境内は広く、一角には明治時代まで橋として使われていた大きな石が立てかけ
られており、この石は緑色をしており、もともとは古墳に収められた石棺の蓋でした。
橋として近代まで転用されていただけあって、とても大きなものです。今では面影が
ありませんが、近くには古墳がたくさんあったそうです。この石もその中の一つの古
墳で使われたものと考えられます。
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西乗鞍古墳へ向かう
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※西山古墳
杣之内町に所在する全長約190メートルの前方後方墳で、墳丘は3段築成だが、上段
を前方後円形、下段を前方後方形に築く独特な墳形である。前方後方形の古墳として
は、全国でも最大の墳丘規模である。年代は、4世紀に築造された古墳時代前期後半
の古墳である。国指定史跡。

西乗鞍古墳
杣之内町に所在する全長約118メートルの前方後円墳である。1981年の発掘調査で
は、古墳南側の濠が発見され、多量の埴輪が出土している。年代は、6世紀前半に築
造された古墳時代後期の古墳である。
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夜都岐神社の鳥居へ向かう(鳥居で左折)
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※東乗鞍古墳
杣之内町に所在する全長約75メートルの前方後円墳です。後円部には長さ9メートル
ほどの横穴式石室があり、内部には石棺が遺存しています。6世紀前半に築造された
古墳時代後期の古墳です。

夜都岐神社(やつぎじんじゃ)
夜都岐神社は、奈良県天理市にある神社である。旧社格は村社。夜都伎神社とも書
かれ、「やつき」「やとぎ」などとも読まれる。乙木(おとぎ)集落の北端に鎮座する。式
内小社「大和国山辺郡 夜都伎神社」の論社である(他の論社は同市竹之内町の十
二神社と田井庄町の八剣神社)。夜都岐は、於都岐(乙木)の誤写とする説もある。
全国にある八剣神社との関係の可能性も考えられる。
祭神は、武甕槌命・姫大神・経津主命・天児屋根命。
乙木には元は夜都伎神社と春日神社の2社があったが、夜都伎神社の社地を約400
m東南の竹之内の三間塚池(現在の十二神社の社地)と交換し、乙木は春日神社1
社のみとして社名を夜都伎神社に改めたものと伝えられる。
乙木村は、古くは興福寺大乗院及び春日大社領の乙木荘で、そのため春日大神を当
地に勧請したものとみられる。約200m北に東乗鞍古墳、約300m北西に西乗鞍古墳
があり、当地も宮山(たいこ山)と呼ばれ、古墳を削平して神社を造営したと言われて
いる。春日大社との関係が深く、江戸時代末期まで「蓮の御供」という神饌を献上して
いた。春日大社からは、古くなった社殿・鳥居を60年毎に夜都岐神社に下賜して使用
させる伝統があり、応永13年(1406年)には春日大社の第四殿を下賜されている(春
日大社文書)。また、寛正2年(1461年)4月6日には大乗院の尋尊が参詣に訪れてい
る(大乗院寺社雑事記)。現在の本殿は明治39年に春日大社から移された建物。拝殿
はこの地方では珍しい萱葺である。
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天理観光農園へ向かう
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正月桜?
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天理観光農園
天理市の観光名所「山の辺の道」沿いに立地。約1ヘクタールの園内に早生温州みかん
約800本が植林。みかん狩りがたっぷり楽しめます。カフェ、あわ餅つき、バーベキュー、
部屋の貸し出し等。利用方法は自由自在。ご相談下さい。
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内山永久寺跡へ向かう
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此の続きは、
12月9日の酒蔵みてある記 稲田酒造「稲天」-2 として 
           下記のメインブログへ詳細を投稿します。
          http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、内山永久寺跡~
内山永久寺跡展望台
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内山永久寺跡
内山永久寺(うちやまえいきゅうじ)は天理市杣之内町にかつて存在した廃寺です。平安
時代後期の永久2(1114)年に鳥羽天皇の勅願により興福寺僧頼実が創建したと伝えら
れ、往時は壮麗な大伽藍を誇ったといわれます。しかし、明治年間の廃仏毀釈より徹底
的な破壊を受け、いまは境内の池などにわずかに面影を残すに過ぎません。
内山永久寺は院号を金剛乗院といい、真言宗(古義派)に属し、阿弥陀如来を安置して
いたとされます。創建時の年号によって永久寺と称し、その地が五鈷杵(ごこしょ)の形を
して内に一つの山があったので内山と号したといわれています。
鎌倉時代の古文書によって寺運の隆盛が偲ばれ、延元元(1336)年には後醍醐天皇も
吉野に行幸する際に当寺に立ち寄っています。室町時代には「大乗院寺社雑事記」にし
ばしば金剛乗院または内山永久寺のことが記載されています。寺領は最盛期には971
石に達し、境内は五町四方の広大な地域をしめたといわれます。江戸時代末期まで40
有余坊の伽藍があり、上街道の浄国寺北側より永久寺西門に至る間に石畳を敷き、参
詣者が常に絶えなかったといいます。元治元(1864)年には勤王派の絵師冷泉為恭(れ
いぜいためちか)も一時この寺に身を寄せた記録が残っています。
明治維新後に寺領の返還、境内の土地や伽藍の売却などの変事があり、明治9(1877)
年までに「大和の日光」ともうたわれた豪華な堂坊が礎石から瓦一枚に至るまでとりのぞ
かれました。現在は本堂池がわずかに当時の面影を残すのみとなっています。貴重な仏
像、障壁画、仏画等は散逸し、一部は国外にも流出しています。
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石上神宮へ向かう
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石上神宮
当神宮は、日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏の総氏神として古代
信仰の中でも特に異彩を放ち、健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の守護神
として信仰されてきました。
総称して石上大神(いそのかみのおおかみ)と仰がれる御祭神は、第10代崇神天皇7
年に現地、石上布留(ふる)の高庭(たかにわ)に祀られました。古典には「石上神宮」
「石上振神宮(いそのかみふるじんぐう)」「石上坐布都御魂神社(いそのかみにますふ
つのみたまじんじゃ)」等と記され、この他「石上社」「布留社」とも呼ばれていました。
平安時代後期、白河天皇は当神宮を殊に崇敬され、現在の拝殿(国宝)は天皇が宮
中の神嘉殿(しんかでん)を寄進されたものと伝えています。
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天理参考館へ向かう
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天理参考館
当館は世界各地の生活文化資料・考古美術資料を収集・研究・展示する博物館です。
各地の資料を通して、それぞれの地域に住む人々の生活や歴史を知り、お互いのここ
ろを理解することを目的としています。
当館は、1930年(昭和5年)、天理外国語学校(天理大学の前身)の中に設けられた海外
事情参考品室を活動のはじめとします。創設者の中山正善・天理教二代真柱は、天理
教を海外に広める人材を育てるためには言葉の習得だけではなく、現地の風俗・習慣
もあわせて学ぶことが必要だと考えられたのです。
そして現在では、約30万点にも及ぶ資料を収蔵する博物館となり、一般に広く公開して
います。2001年(平成13年)11月、当館は新築の建物が完成し、装い新たに再オープン
しました。収蔵資料の中から約3000点を「世界の生活文化」・「世界の考古美術」の2部
門にわけて展示しています。
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天理教本部
天理教(てんりきょう)は、日本で江戸時代末に成立した新宗教の一つ。中山みきを教祖
とする宗教団体である。狭義には奈良県天理市に本拠地を置く包括宗教法人(宗教法人
天理教)およびその傘下の被包括宗教法人(教会本部及び一般教会)を指すが、広義に
は中山みきが伝えた教義そのものを指す場合があり、信仰する単立の宗教法人もある。
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稲田酒造へ向かう
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稲田酒造・試飲・抽選会
稲田酒造合名会社はJR・近鉄天理駅から東西に伸びる三島本通り商店街にある創業
130年余りの酒蔵です。 小さな蔵元ですが造り手、売り手、飲み手が一本の糸で結ば
れ、それぞれの顔が見える状況にあること、人と人との繋がりを大切にすることをモット
ーに営業しております。
また昭和45年より造り酒屋のおいしい奈良漬けとして白瓜、きゅうり、スイカ、守口大根、
生姜等の奈良漬けを製造・販売させていただいております。
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天理駅へ向かう
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正月のお屠蘇用に購入
「稲天」純米吟醸酒 720mL
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12月7日の心和む寺社巡りと大阪城を目指して-1

12月10日        12月7日の心和む寺社巡りと大阪城を目指して-1
                  近鉄 駅フリーハイキング 
コース  近鉄 駅フリーハイキング 今里駅受付9時半~11時  9:40集合
今里駅(受付)~熊野大神宮~妙法寺~玉造稲荷神社~大阪城~難波宮跡~
三光神社~心眼寺~真田山公園~鶴橋駅(ゴール)
此の日野私の万歩計は、21418歩で約15.8km歩いたことに・・・
今里駅(受付)~熊野大神宮へ向かう
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熊野大神宮(くまのだいじんぐう)
伊弉冊尊(いざなみのみこと)ほか五柱を奉斉する旧大今里村の氏神で、用明天皇
2年の創建と伝えられます。石山合戦の際、兵火にあいましたが再建され、元和(17
世紀前期)以降大坂城代就任と領内巡視の時は、必ず社参することを恒例とした社
で、熊野権現と称し、明治5年(1872)に現社号に改め、同44年(1911)旧東今里村
氏神八剣神社を合祀しました。
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妙法寺(みょうほうじ)
妙法寺は、正保2年(1645年)に日嚴上人(本興寺第二十二世)を開基と仰ぎ開創
されております。現住職日優まで三十一世代を連綿と法燈を継承して、実に350年
の歴史を有する法華宗の寺院であります。当山は他宗寺院のように山川に囲まれた
中にあるのではなく民衆の中にあり、市井において正しい教えである法華経を弘め
ねばならないという立場から山号は用いておりません。
創建当時には幹の周り1丈2尺、東西に張った枝の長さ10丈7尺、高さ3丈9尺とい
う「妙法寺の松」と呼ばれる名高い松の木があり、天保年間(1830年頃)には庶民
に通称「松の寺」と呼ばれて親しまれていたようです。
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今里一番街
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振り返って
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玉造稲荷神社へ向う
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玉造稲荷神社(たまつくりいなりじんじゃ)
垂仁天皇18年(西暦 紀元前12年)の秋に創祀されたと伝えられ用明天皇3年に
改築。聖徳太子が仏教受容問題で物部守屋公と争われた際、この玉作岡に陣を
敷き「我に勝を与えるならこの栗の白木の箸に枝葉を生じさせ給え」と祈願された
ところ、のちに枝葉が生じ、この戦いも無事に終わったといわれています。
その後、天正4年の兵乱により本・末社、旧記等ことごとく焼失しましたが、慶長8
年に豊臣秀頼公により社殿、高殿(舞台)が再建されました。
大坂の陣で、当地は再び戦地となり被害をうけましたが、元和5年に徳川幕府の
大坂城代内藤紀伊守を始め、氏子・崇敬者の寄進を以って再建。別称は豊津稲
荷神社とも呼ばれ豊臣・徳川時代を通じ「大坂城の鎮守神」として崇敬されたこと
が、史料に残っています。しかし、文久3年11月の大坂大火(新町焼)を経て、明
治4年氏子・崇敬者により再建。国家管理時代の社格は府社となり、その後昭和
20年6月1日の大東亜戦争(第二次世界大戦)の戦禍を受けましたが、戦後は新
憲法のもと宗教法人(神社本庁)玉造稲荷神社となりました。
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森ノ宮 キューズモール
大阪府中央区にある「もりのみやキューズモールBASE」は、スポーツをテーマに
したエアトラックのあるとても珍しいショッピングモールです。
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大阪城公園
大坂城特別史跡地に所在する広大な歴史公園である。
公園内には樹木が多く植えられ、二の丸市正曲輪の梅林、北外曲輪の桃園、西
の丸庭園の桜など、花見シーズンには梅・桃・桜の名所となっている。また、杉山
地区は森林公園となっており、外濠の水辺に集まる野鳥を眺めて家族連れが憩
う姿も見られ、都会のオアシスとして市民から愛されている。
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此の続きは、
12月7日の心和む寺社巡りと大阪城を目指して-2 として
           下記のメインブログへ詳細を投稿します。
         http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、豊国神社~
豊国神社(ほうこくじんじゃ)
豊國神社は、大阪府大阪市中央区大阪城に鎮座する神社。
京都府京都市東山区に鎮座する豊国神社の大阪別社として創建された。のちに京
都・豊国神社から独立して豊國神社に改称。京都・豊国神社が訓読み(とよくに)で、
豊臣秀吉のみを主祭神とするのに対して、当社は音読み(ほうこく)で、豊臣秀頼、豊
臣秀長も配祀する。
現在の鎮座地である大坂城二の丸は陸軍省の所管だったため、現在の大阪市北区
中之島においての創建となったが、のちに城内(現・大阪城公園)へ遷座された。
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大阪城(おおさかじょう)
大阪城は、安土桃山時代に摂津国東成郡生玉荘大坂に築かれ、江戸時代に修築
された日本の城。現在の大阪府大阪市中央区大阪城に所在する。別称は錦城(き
んじょう。金城とも表記)。「大坂城跡」として国の特別史跡に指定されている。
「太閤はんのお城」と親しみを込めて呼ばれることもあるが、1583年(天正11年)か
ら1598年(慶長3年)にかけて豊臣秀吉が築いた大坂城(豊臣氏大坂城)の遺構は、
現在全て埋没している。現在地表に見ることのできる大坂城の遺構は、1620年(元
和6年)から1629年(寛永6年)にかけて徳川氏が実質的な新築に相当する修築を
施した大坂城(徳川氏大坂城)の遺構である。1959年(昭和34年)の大阪城総合学
術調査において、城跡に現存する櫓や石垣などもすべて徳川氏、江戸幕府による
ものであることが確認された。
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大坂城は、上町台地の北端に位置する。かつて、この地のすぐ北の台地下には淀川の
本流が流れる天然の要害であり、またこの淀川を上ると京都に繋がる交通の要衝でも
あった。元々は古墳時代の古墳があったと言われ、戦国時代末期から安土桃山時代初
期には石山本願寺があったが、1580年(天正8年)に石山合戦で焼失した。『信長公記』
によると信長はこの立地を高く評価しており、跡地にさらに大きな城を築く予定であったと
いう。石山合戦終結後は織田信長の命令で丹羽長秀に預けられた後、四国攻めを準備
していた津田信澄が布陣し「千貫矢倉」もあった(『細川忠興軍功記』)が信澄は本能寺の
変の際に、丹羽長秀に討たれた。その後、清州会議で池田恒興に与えられるも、ただち
に美濃へ国替えとなり、秀吉によって領有された。そして秀吉によって大坂城が築かれ、
豊臣氏の居城および豊臣政権の本拠地となったが、大坂夏の陣で豊臣氏の滅亡ととも
に焼失した。徳川政権は豊臣氏築造のものに高さ数メートルの盛り土をして縄張を改め
再建した。その後、江戸幕府が大坂城代を置くなど近畿地方、および西日本支配の拠
点となった。文献等にもよるが、日本三名城のひとつに数えられる場合もある。
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極楽橋から
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京橋口から
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西外堀
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難波宮跡へ向かう
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難波宮跡(なにわのみやあと) 昼食休憩
大阪市中央区法円坂の一帯に広がっている史跡公園。昭和36年(1961)、大阪市立大
学教授の山根徳太郎博士の発掘調査により、飛鳥から奈良時代にかけて前後2期の難
波宮跡が確認された。現在では、宮殿の中心部とされる約9万平方メートル余りの範囲
が国の史跡に指定され、史跡公園として整備がすすめられている。史跡は2種類の方法
で示されていて、地表面より一段高くして、石造りで基壇を示すものが神亀3年(726)か
ら造営された後期難波宮、一段低くして赤いタイルを敷き、赤い御影石で柱位置を示し、
サザンカの生け垣をめぐらせているものが「大化改新」による難波遷都の後、白雉(びゃ
くち)元年(650)から造営が始められた難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)
=前期難波宮となっている。また、公園の中央北寄りには、天皇が国家の公式行事をお
こなう際に使用したとされる大極殿も復元されており、その上からは大阪城を眺望するこ
とができる。
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三光神社(さんこうじんじゃ)
大阪城東南の丘陵(上町台)真田山に鎮座し昔は姫山神社(大昔の姫の松原の遺称)
と称したが、全国的には真田山の三光の名称の方がよく知られ今では三光神社となっ
た。創立は仁徳天皇から三代後人皇十八代反正天皇の御宇と言い伝えられ創建以後
神職として奉仕された武内宿弥の末裔武川氏(八十六代)にして今に至ると言う。当神
社は古来より日本全国で唯一の中風除の神として広く知られ毎年恒例の神事として六
月一日を祈願の初日と定め七日間往古より今に至るまで変わることなくとり行われ全
国各地からの参拝者が絶えない。
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善福寺・・・どんどろ大師
どんどろ大師 善福寺は、大阪市天王寺区にある真言宗の寺院である。 どんどろ大師は、
鏡如庵大師堂として江戸時代の宝暦年間(1751-1764)に開創されたもので、弘法 大師
を祀っている。 天保5年(1834年)、大坂城代として赴任した土井利位(としつぐ)が 弘法
大師を深く信仰し参拝していたことから、「土井様のお大師様」とよばれ、それが訛っ て
「どんどろ大師」となった。 明治42年(1909年)に、摂津国能勢郡木代(大阪府豊能町 )
から善福寺が当地に移転してきた。
「お弓 おつる 歌舞伎[傾城阿波の鳴門]どんどろ大師 門前の場」。 歌舞伎の演目の場
面となった場所。
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心眼寺(しんがんじ)
元和8年(1622)4月、白牟和尚が戦国武将真田幸村父子の冥福を祈り堂宇を建立した
のを嚆矢(こうし)とする。境内地は幸村が戦捷(せんしょう)をおさめた大坂冬の陣の大
阪城出丸城郭跡で、幸村鎧掛けの松の木もあったが、昭和20年(1945)の大阪大空襲
により堂宇ともども焼失した。創建から寺の定紋は真田家家紋の六文銭とされ、山号は
真田山と称する。復興をみた現在の山門扉にも、定紋の浮彫が鮮やかである。
山門前に立つまんなおし地蔵尊が開運を導く地蔵として古来信仰を集めてきた。幕末
見廻組の武士で坂本龍馬らを襲撃した桂早之助・渡邊吉太郎の墓がある。
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真田丸顕彰碑
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興徳寺・・・ 隆法山 興徳寺  高野山 真言宗
聖徳太子存世中に今の法円坂付近に「薬師院」として創建され、天平年間(729~749)
に行基菩薩によって再建された畿内49ケ院のひとつと言われていますが、第二次世界
大戦の大阪大空襲にて現在の山門以外の諸堂を焼失したため詳細は不明です。元禄
年間(1688~1704)に作製された「大坂三郷町絵図」(大坂城天守閣蔵)では現在地にお
寺が存在していた事が確認できます。現在の本堂は昭和27年に再建。たくさんの方々
のご協力により、今に至っています。
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真田山公園
真田山公園は、1939年(昭和14年)大日本帝国陸軍騎兵第4連隊跡地を整備して開園
した。1889年(明治22年)から1932年(昭和7年)の南河内郡金岡村移転まで、当地には
騎兵第4連隊の兵営が置かれていた。現在は大阪府立天王寺スポーツセンター(真田山
プール・アイススケート場)、大阪市立真田山野球場、真田山庭球場が設置されている。
公園周辺は、1614年の大坂冬の陣で真田信繁(幸村)が活躍した古戦場として知られ、
公園の北側には旧真田山陸軍墓地がある。
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鶴橋駅(ゴール)

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12月2日の紅葉の甘南備山の樹木観察と史跡を巡る-1

12月5日       12月2日の紅葉の甘南備山の樹木観察と史跡を巡る-1
                   JRふれあいハイキング 歩程約10㎞
コース JRふれあいハイキング 京田辺市観光ボランティアガイド協会主催 参加費300円
京田辺駅(9:35集合)~棚倉孫神社~甘南備寺~一休寺(酬恩庵)~薪神社・能楽発祥碑~
甘南備山・展望台(昼食)・神南備神社・白石・三角点~青少年野外活動センター~そよか
ぜ幼稚園~観世座発祥の碑~松井山手駅(解散)
此の日はまさに秋の素晴らしいハイキング日和に素晴らしい紅葉の森と史跡を散策出来て、
楽しい一日となりました。今日田辺市観光ボランティアガイドの皆さん、有難う御座いました。
此の日の私の万歩計は、23354歩で約17.2km歩いたことに・・・

棚倉孫神社(たなくらひこじんじゃ)
「棚倉」とは穀物を収蔵するに当たり、湿気をさけるための床を設けた倉庫をいい、養蚕に
も用いられた。筒城(綴喜)は古来から渡来人による養蚕の盛んな地域であり、その蚕は
貴重で「天の虫」ともいわれ、蚕が棲む倉を崇め神格化して祀ったのが神社としての興り
ではないかとも考察されている。 境内には、本殿のほか、拝殿、絵馬殿、社務所、式場な
どの建物が並び、本殿手前右手にある石造燈篭は桃山時代の作である。 2年に1度の例
祭では、秋の収穫を祝って約30種の穀物や野菜などで飾られた「ずいきみこし」がくりださ
れる。高さ3m、1.5m四方、重さ約1トン、屋根に赤ズイキ、鳥居に青ズイキ、壁に大豆、
三度豆、玄米、小豆、頂上の鳳凰には南瓜や百日紅の花、他にも赤、青の唐辛子、赤な
す、たかのつめ、菊の花など全部で30種類ほどの野菜や穀物、乾物が飾りつけられ、神
々に五穀豊穣を祈願する。天香古山命(あまのかごやまのみこと)を祭神とする旧天神ノ
森の産土神で、元は天神社または天満宮とも称していたが、明治になって式内棚倉孫神
社と改めた。 本殿0は、一間社流造り桧皮葺であり、桃山時代の建築である。拝殿は入母
屋造りで、前後に軒唐破風を設けた桧皮葺の江戸時代中期を代表する建築である。 社務
所は元の神宮司であった旧松寿院で、現存する江戸末期の貴重な建物である。その他本
殿の右側にある四角形石灯籠は天正2年(1574年)刻銘があり、桃山時代の傑作である。
絵馬舎には白川芝山筆の「猛虎図」のほか絵馬十数面を掲げている。境内全域はクスノキ
やシイの常緑広葉樹が繁茂しており、文化財環境保全地区となっている。
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甘南備寺へ向かう
天井川の堤防を歩いて・・・
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甘南備寺(かんなびでら)
奈良時代に僧行基(ぎょうき)によって開創されたといわれている。甘南備山にあった甘南
備寺は、交通不便で保護も困難であったため元禄2(1668)年に現在の地に移された。もと
もと真言宗だったが、移転の際、黄檗宗に変わった。ご本尊である薬師瑠璃光如来坐像は、
比叡山の僧・慈覚大師の作と伝えられ、高さ86?、一木造り、重厚味のある藤原前期のもの
である。「耳石」といわれる穴のあいた石を備えて病魔を退散させる風習がある。今昔物語
の「山城の国神奈比寺の聖人、法華を誦して前世の報いを知りたる話」 綴喜郡の飯岡の西
北に甘奈比寺という山寺があり、一人の僧が住んでいた。この僧は日頃からこの寺を去って、
都の大寺に行きたいと思っていた。ついに行こうと決心した夜の夢に、この寺の薬師如来が
老僧となって現れ、「汝の前世は、この寺の土中に住んでいたみみずで、法華経を毎日聞い
た功徳によって、人間に生まれ代ってこの寺で法華経を誦している。この寺に縁のある身で
ある」ことを諭された。そこでこの僧は、生涯この寺に留まったという言い伝えが残っている。
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一休寺へ向かう
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一休寺(酬恩庵)
とんちの一休さんのお寺として知られている酬恩庵(通称、一休寺)は、もとは妙勝寺といい、
大応国師によって正応年中(1288-1293)に禅の道場として草創されたのが始まりである。そ
の後、元弘の戦火にかかり荒廃していたものを六代の法孫にあたる一休禅師が康生2(145
6)年に再興し、師恩に報いる意味で「酬恩庵(しゅうおんあん)」と命名された。禅師は88歳
で自寂されるまでの晩年、ここを居とされた。  現在みられる本堂は、室町幕府6代将軍足
利義教により建立され、方丈や庫裏、唐門、東司、鐘楼、浴室は加賀藩主前田利常により
復興されている(いずれも重要文化財)。 四季それぞれに風情があるが、秋の紅葉の時期
は格別の趣がある。本堂 京都最古の唐様建築 足利義教(室町幕府第6代将軍)の帰依
により、1400年代に建立された。 内部に釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩が安置されている、
室町時代の代表的な禅宗建築で重要文化財に指定されている。
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薪神社へ向かう
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薪神社(たきぎじんじゃ)・能楽発祥碑
本殿に残された棟札によると、薪神社の星野天神・住吉・武氏の三社は、天正年間(1573~
92年)に再興された。寛永6(1629)年には、薪村と大住村の山論を板文にして奉納。明暦元
(1655)年、薪村八幡宮・天満宮の縁起と宮座の定めをあらため、寛政6(1794)年に神社を
造営、明治40(1907)年、天神社と八幡社を合祀して、薪神社とした。境内には、もともと甘
南備山頂にあり、月読神が仮の姿をとって現れたと伝わる石も祀られている。また、『能楽
発祥の碑』と刻まれた石碑も建てられている。
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能楽発祥碑
「能楽は薪能即ち金春能に始まり、次に宝生能 観世能は大住に、金剛能は大和に発祥
した。昭和61年11月文学博士志賀剛」との碑文。
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甘南備山へ向かう
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此の続きは、
12月2日の紅葉の甘南備山の樹木観察と史跡を巡る-2 として
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続きは、甘南備山~
甘南備山
この山は、いわば京田辺の主峰であり、「神南備」「神無火」などともいわれ、「神が隠れ
る場所」という意味を持つ山である。 甘南備山は山頂が二上形式になっており、東の「
雄山」が221.0m、西の「雌山」が201.6mである。山頂にある展望台からは京田辺
市が一望できる。 かつて平安京が定められるとき、この山の白石を南の基点として、
北の船岡山と結ぶ直線を都の中心軸に、大極殿、朱雀門、朱雀大路、羅生門などを建
設したといわれている。現在では、ハイキングコースも設置され、山歩きをする人々が
四季折々の自然を楽しむ場となっている。
PC026662.JPGPC026664.JPGPC026666.JPGPC026681.JPG
コシアブラ 「こしあぶら」・・・山菜の女王?
秋の紅葉時には、葉の色が黄色から透明な白色に変り、 その姿は秋の紅葉の中でも
ひときわ美しく映えます。
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ソヨゴ
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イロハカエデ
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ラクウショウ
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展望台(昼食)
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神南備神社
神南備神社(かんなび じんじゃ)は、神の山とされた甘南備山(かんなべやま/かんな
びやま、標高221m/217m)の頂上付近に祀られている。 
甘南備山全体を神として祀る。祭神は、天照大神(あまてらすおおみかみ)、また、月
読神ともいう。地神として、鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)、相殿に大国
主命(おおくにぬしのみこと)、天兒屋根命(あめのこやねのみこと)。また、天神(あま
つかみ)として高皇産霊尊(たかむすびのみこと)、天照大神、瓊瓊杵尊(ににぎのみこ
と)の三神を祀るともいう。
式内社。平安時代、『延喜式神名式(延喜式神名帳)』(927)中「綴喜郡 十四座 大三座
小十一座」の「甘南備神社」に比定されている。  
創建、変遷の詳細は不明。
古来より、甘南備山は「神の依りつく山」とされ、山全体を神として信仰された。
弥生時代、甘南備山と呼ばれる。豊穣と雨乞いの祈祷の場として信仰されていたという。
平安時代、天平年間(729-749)、行基は神宮寺の甘南備寺を開創したともいう。
771年、第49代・光仁天皇の時、神封(しんぷう)一戸を寄進される。
794年、第50代・桓武天皇による平安京造営に際して、甘南備山は京都の中軸線として
朱雀大路建設の目印にされたという。
927年、平安時代、『延喜式神名式(延喜式神名帳)』中「綴喜郡 十四座 大三座 小十一
座」に、「甘南備神社」とある。
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白石・三角点
794年、第50代・桓武天皇による平安京造営に際して、甘南備山の白石が京都の中軸線
として朱雀大路建設の目印にされたという。
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青少年野外活動センターへ向かう
青少年野外活動センターでトイレ休憩
そよかぜ幼稚園
七棟の園舎に造形作家の新宮晋さんの制作した風見がある 雑創の森学園 そよかぜ
幼稚園(京田辺市)
※風をテーマに建築された風車と風見がまわる学園施設は、昭和54年’79年の「吉田
五十八賞」を頂きました。
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能楽・観世座発祥の碑
観世座発祥の碑
松井山手駅から 南西に1km。 田辺市役所方面から松井山手駅方面 に抜ける“山手幹
線”の南側に 消防署(田辺市消防署北部出張所)があるが、その裏(南) 側の道が 虚空
蔵谷川を越える付近に,30cmほどの距離で向かい合っている2つの 石碑がある。
一つは「観世座発祥の碑」と書かれた新しい碑、もう一つは「山神」という 古い石碑。
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松井山手駅(解散)
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11月28日の近代学研都市のけいはんな記念公園-1

12月1日       11月28日の近代学研都市のけいはんな記念公園-1
                11月度歩こう会 例会  紅葉散策 約7㎞
今月は歩こう会ハイキングを2回、何れも紅葉散策、28日は今月2回目の歩こう会で、
京都精華町のけいはんな記念公園紅葉散策をメインに周辺の歴史ある寺社を巡る。
好天に恵まれた素晴らしいハイキング日和、私の万歩計は、23377歩で約17.2km・・・
コース 
祝園(ほうその)駅(10時・スタート)~来迎寺(らいこうじ)・お千代と半兵衛の墓~釈
迦の池~稲植神社~畑の前公園遺跡の杜~精華大通り~けいはんな記念公園(昼
食・紅葉散策)~蓮台寺~祝園駅(解散)
祝園(ほうその)駅
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祝園(ほうその)駅~来迎寺(らいこうじ)へ向かう
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来迎寺(らいこうじ)
天平勝宝元年(749)、行基の開基といわれていますが、創建の古さを伝えるものは残って
いません。近松門左衛門の「心中宵庚申」(しんじゅうよいごうしん)で知られるお千代・半兵
衛の墓があります。
同寺は、京都の自然200選・植物部門に選ばれています。来迎寺のクスノキは丘陵地状の
境内に生育し、樹齢は不明ですが、幹周4.6メートルという巨木で、寺のシンボル的存在で
もあり、ここを訪れる住民に古くから愛されています。
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お千代と半兵衛の墓&供養塔
近松門左衛門の最晩年の世話物である「心中宵庚申」(しんじゅうよいごうしん)は1722年
(享保7年)に大坂で実際に起きた心中事件を題材にしたものだが、この物語の一方の主
人公であるお千代は山城国相楽郡上田村(現京都府相楽郡精華町植田)の大百姓島田
平右衛門の二女であったと伝わる。父平右衛門は娘夫婦の非業の死を悼み、菩提寺であ
る来迎寺に墓石を建て、永代供養を行った。この墓は来迎寺に現存する。
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※大阪に有るお千代と半兵衛の墓(宝樹山銀山寺)
墓石には「一蓮托生 声応貞現信女/通月融心信士/離身童子」と刻まれている。この「離
身童子」は身ごもっていた子供のことであろう。
1722年(享保7年)4月6日、大坂油掛町の八百屋半兵衛と妻お千代が生玉の大仏勧進
所で心中した。この心中事件は、直後に紀海音が「心中二つ腹帯」、近松門左衛門が「心
中宵庚申」(いずれも浄瑠璃)に、又「新板宵庚申」(歌舞伎)に脚色した。特に「新板宵庚
申」は大当たりし、そのため、世上に広く知られた心中事件となった。お千代は24歳で身
ごもっていた。
・近松門左衛門の世話物最後の作品
1722年(享保7年) 「心中宵庚申」(しんじゅうよいこうしん)
八百屋の養子半兵衛は、もと武士の子。姑と折り合い悪い女房おちよが夫の留守中、勝
手に離婚されたことを知り、連れ帰るが、姑の手前、家に入れられず。板挟みになって夫
婦で心中する。

釈迦の池
過去帳などが残っていないので、詳しいことは解かりません。
今の来迎寺の前当たりも池の東側にあたり、大きく広がっていたと思われます。
池には、橋が架かっていたり、水辺には御堂なども建っていて、水面に映えていたので
はないでしょうか。
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稲植神社へ向かう
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稲植神社
稲植神社は今より、約550 年前の、室町時代中期に春日神社を勧請(かんじょう)され
たと伝えられております。(神仏の分身・分霊を他の地に移して祭ること)元来『上田の
社(やしろ)』という名の神社で、上田村のみの氏神であったのですが、その内南稲村
にも氏子が出来て、南稲村の『稲』と上田村の上を『植』に変えそれを合せて 『稲植神
社』と命名されたようです。
この神社は「元祇園」(京都八坂神社の元)と呼ばれて、明治以前は神仏習合の神宮
寺でしたが明治維新政府が祭政一致の方針に基づき神仏習合を廃止し、明治二年に
新たに神社を再建した際にその寺(東福寺)を取壊したと云われています、それ以後、
水害や数々の災害に遭遇し、現在の社は昭和28 年から再建されたのです。
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畑の前公園遺跡の杜へむかう
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畑の前公園遺跡の杜
発掘調査は昭和59 年~60 年度(1984~85)に実施され、弥生時代中期の集落跡に
奈良時代の邸宅跡が重なるという複合遺跡が発見された。同時に、周辺部から古墳時
代後期の円墳も見つかった。
調査後、遺跡跡は埋め戻され、畑ノ前公園(2 万平方m)として整備された。遺跡部分
は約3千平方m。
①弥生時代中期(西暦前100 年~西暦100 年)の集落跡
10 棟の竪穴式住居跡(半円形の点線)が見つかったが、同時期には3~5 棟の住居
が建っていたと想定されている。
②古墳時代後期(6 世紀前半~7 世紀前半)の古墳群
7基の横穴式石室を持つ小規模な円墳(図面右の楕円形点線)が確認された。石室に
河原の石を使っており、長良川下流域で多数発見されている様式と類似している。
しかも同地は古代、美濃の国安八(あんはち)郡と呼ばれ、姉妹間郡とも表記された。
精華町には北稲ハ間、南稲ハ妻という集落があり、その類似性が注目されている。
③奈良時代(710~794)の建物跡
23棟分の柱跡(サイコロ状の黒点)が見つかった。何度か建て替えられ、規模が拡大
されていったようだ。 宅地東南隅からは深さ7m の井戸の跡が発見された。井戸枠の
下部に高さ3.5m、直径1.1mのヒノキの木をくりぬいた井筒が据え付けられていた。
柱跡が、奈良の都と同様に東西南北の方向に正確に並んでいること、他に類を見な
い1級の井戸を備えていることなどから、都に関係する身分の高い人の屋敷とみられ
ている。古文書には、当時このあたりに稲蜂間(いなはちま)という豪族が住んでいた
と記録されており、孝謙天皇(752~757)に使えていた稲蜂間宿禰仲村女(いなはち
まのすくねなかむらめ)に関係した屋敷ではないかと見られている。
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此の続きは、
11月28日の近代学研都市のけいはんな記念公園-2 として
             下記のメインブログへ詳細を投稿します。
            http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、けいはんな記念公園(昼食・紅葉散策)~
けいはんな記念公園(昼食・紅葉散策)
1 自然を大切にした水と緑のあふれる公園
●この公園は、自然との調和・共生を基本テーマに設計されました。
●南山城の代表的な自然林や池(永谷池)を保全した「自然保全区城」と、多くの人々
が語らい、憩い、ふれあう場としての芝生広場、里山を表す谷間と伝統的日本庭園(水
景園)の交流施設区域から成っています。
2 水景園については
●特に伝統的な庭園技法を駆使し、斬新な様式美を備えた平安建都1200年の記念
となる新しい池泉回遊式日本庭園です。
●池泉回遊式の水景園は、鯉の泳ぐ緩やかな水景棚に囲まれ、会議室やギャラリー
を備えた複合施設「観月楼」とそれにつながる「観月橋」があります。秋の紅葉は特に
美しく、岩礁を背景に見事に赤く染まる葉色が見どころです。
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蓮台寺へ向かう
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蓮台寺・・・西山浄土宗のお寺です。
文禄2年(1593)、寺号を青蓮奄から蓮台寺に変えたといわれています。その後、寛文
10年(1670)、本空弓覚が復興しました。近くにあった願成寺の仏像などが移されまし
た。南稲八妻地区にある蓮台寺。明治時代の記録には、かつて近くに願成寺(がんじょ
うじ)という寺があり、その寺が閉じられた際に仏像や仏画がうつされたとあります。
れんだいじ/やくしにょらいりゅうぞう・・・愛らしい、かわいい仏様
有形文化財である薬師如来立像も、もとは願成寺にあったようです。この像の高さは、
わずか52センチ。ふっくらとした身体つきで、微笑んでいるような表情をうかべた、なん
とも愛らしい仏像です。左の手のひらに小さな薬壺を載せています。制作時期は平安
時代前期の9世紀後半と推定され、町内でもっとも古い仏像のひとつです。
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