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12月16日の梅田の街中~心癒される公園巡り-1

12月26日    12月16日の賑やかな梅田の街中~心癒される大阪の公園巡り-1
               阪神TRYあんぐるウオーク  歩程約11㎞
知人と3人で参加、参加者数1076人、私の万歩計は、26431歩で約19.5km歩いた事に・・
TRY阪神  近鉄・南海・阪神 TRYあんぐるウオーク 鷺州中公園 受付9時半~10時
阪神・野田駅~10分~鷺州中公園(受付9時半~10時)~大和田街道・梅田街道碑~
福島~梅田・大阪駅前~曽根崎・お初天神~太融寺町・太融寺~扇町公園~天神橋筋
商店街~大阪天満宮~天神橋~中之島公園・バラ園(昼食)~北浜証券取引所~少彦
名神社~御霊神社~大阪科学技術館~靭公園・バラ園・楠永大神・靭海産物市場跡~
津波・高潮ステーション~木津川沿い遊歩道~阪神・ドーム前駅(ゴール)
鷺州中公園(受付9時半~10時)
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大和田街道・梅田街道碑
碑文
この街道は 北区西天満一丁目を起点とし福島区 西淀川区を経由して尼崎に通じる明
治期の物資流通道路であった。起点から西進し堂島 梅田出入橋を経由し かきつばた
で有名な浦江の聖天の南を通り珍しい神事が残る海老江の八坂神社のかたわら 国道
2 号沿いを北に進み 淀川を渡る 姫島神社を右にみて大和田を通り佃漁民ゆかりの地
の佃を経して尼崎市大物町に至る 街道は 古くから阪神間を直結する重要路線の一つ
として西国往来の人や 尼崎 西宮 兵庫の商人など行き来する人が多かった。
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梅田・大阪駅前
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曽根崎
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曽根崎・お初天神(露天神社(つゆのてんじんじゃ))
露天神社(つゆのてんじんじゃ)とは、大阪府大阪市北区曽根崎二丁目にある神社。
通称:お初天神。概ね摂津国西成郡曾根崎村(キタの西半)を氏地とする。
祭神は大己貴大神、少彦名大神、天照皇大神、豊受姫大神、菅原道真の五柱の神を
祀る。社伝によれば、この地はかつて曾根崎洲という大阪湾に浮ぶ孤島で、そこに「住
吉住地曾根神」と祀っていたとされる。創建は西暦700年頃とされ、「難波八十島祭」旧
跡の一社とされている。
天照皇大神を祭神として祀ることから、かつては難波神明社とも呼ばれ、日本七神明
(東京芝神明宮、京都松原神明宮、京都東山神明宮、大阪難波神明宮、加賀金沢神
明宮、信濃安曇神明宮、出羽湯殿山神明宮)の一つにも挙げられた。 社名は、「梅雨
のころに神社の前の井戸から水がわき出たため」ともいうもののほか、菅原道真が太
宰府へ左遷される途中、ここで都を偲んで、
[露とちる 涙に袖は朽ちにけり 都のことを思い出づれば]との一首を詠んで涙を
流したからとも伝えられている。
近松門左衛門のいたころの天神の境内は560余坪の広さがあり、木が鬱蒼と茂ってい
た。近松は当時、天神を「影暗く風しんしんたる曽根崎の森」、「天神の森」と書き記して
いる。太平洋戦争による戦火と、その後の社殿復興のための境内の切り売りが行われ
た結果、現在の広さとなったものである。
元禄16年(1703年)に堂島新地天満屋の遊女「お初」と内本町平野屋の手代「徳兵衛」
が「天神の森(現在の社の裏手)」にて心中を遂げた。一月後近松門左衛門はこの二人
の悲恋を人形浄瑠璃『曽根崎心中』として発表したところ、当時の大きな話題となった。
事件の神社は一躍有名となり、そのヒロインである「お初」の名前から以後今日に至る
まで「お初天神」と通称されている。
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太融寺へ向かう
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太融寺町・太融寺
太融寺(たいゆうじ)は、嵯峨源氏の祖で左大臣・大納言の源融(みなもと・の・とおる)
ゆかりの寺で、大阪市北区太融寺町に伽藍を構える真言宗(高野山真言宗・準別格
本山)の寺院。山号は「佳木山」、院号は「宝樹院」。
821年(弘仁12年)に弘法大師が嵯峨天皇の勅願により創建。1615年(元和元年)5月
の大坂夏の陣の兵火で全焼後、元禄時代に本堂など25の諸堂を再建したが、1945年
(昭和20年)6月に大阪大空襲より再び全焼、戦後になって20余り再建した。
境内には本堂の他に空海(弘法大師)を祀る大師堂、不動明王(一願不動尊)を祀る不
動堂、多くの女性の信仰を集める淀殿の墓所が有る。
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扇町公園・カンテレ
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天神橋筋商店街
天神橋一丁目から天神橋六 丁目まで南北2.6 km、600の店舗が軒を連ねる日本一
長いアーケード商店街である。
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大阪天満宮(おおさかてんまんぐう)
大阪天満宮は、大阪府大阪市北区天神橋に鎮座する神社(天満宮)。別名に天満天神・
浪華菅廟・中島天満宮がある。大阪市民からは「天満(てんま)の天神さん」と呼ばれ親し
まれている。毎年7月24日から25日にかけて行われる天神祭は日本三大祭、大阪三大
夏祭りの一つとして知られている。
901年に菅原道真が、藤原時平により九州大宰府へ配転(左遷)させられた際、同地に
あった大将軍社に参詣した。903年に菅原道真が没した後、天神信仰が始まる。949年
に大将軍社の前に7本の松が生え、霊光を放ったという奇譚が都に伝わった。そのため
村上天皇の勅命によって天満宮を建立させたのが始まりである。
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天神橋(てんじんばし)
天神橋は、大川に架かる天神橋筋(大阪市道天神橋天王寺線)の橋で、大阪市北区天
神橋と大阪市中央区北浜東の間を結んでいる。
1594年(文禄3年)の架橋とされ、当初は大阪天満宮が管理していたが、1634年(寛永
11年)に他の主要橋とともに幕府が管理する公儀橋となった。難波橋、天満橋と共に浪
華三大橋と称され、真ん中に位置する。
浪華三大橋の中で全長が最も長い。また、1832年(天保3年)の天神祭において、橋上
からだんじりが大川へ転落して溺死者13名を出す事故があり、「天神橋長いな、落ちた
らこわいな」と童歌に歌われた。現在は、全長219.7メートルの3連アーチ橋である。
此の続きは、
12月16日の梅田の街中~心癒される公園巡り-2 として
           下記のメインブログへ詳細を投稿します。
         http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、中之島公園・バラ園(昼食)~
中之島公園・バラ園(昼食)
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難波橋(なにわばし)・・・通称らいおん橋とも言われる
難波橋は、大阪市の大川に架かる橋。浪速の名橋50選選定橋。大阪弁では「ナン
ニャバシ」と発音する。
大阪市中央区北浜~北区西天満の堺筋にかかる、全長189.7m、幅21.8mの橋であ
る。中之島を挟んで土佐堀川と堂島川の2つの川を渡る。橋の中央で下流側に中之
島通を分岐させ、上流側に中之島公園へ降りる階段が設けられている。
難波橋辺りの最初の橋は、元をたどると704年ごろに行基によって架けられたといわれ
ている。天神橋、天満橋と共に浪華三大橋と称され、最も西(下流)に位置する。「浪華
橋」とも表記され、明治末期まで堺筋の一筋西の難波橋筋に架かっており、橋の長さが
108間(約207m)もの大型の反り橋だったという。1661年(寛文元年)天神橋とともに幕
府が管理する公儀橋とされた。
1912年(明治45年)に大阪市電が天神橋筋六丁目まで延伸される際、市電敷設の反対
運動が起こったため、1915年(大正4年)に一筋東の堺筋に新橋が架けられた。パリの
セーヌ川に架かるヌフ橋とアレクサンドル3世橋を参考にして製作されたと言われるこの
新橋が現在の難波橋である。
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大阪証券取引所・五代友厚像
五代 友厚(ごだい ともあつ)は、江戸時代末期から明治時代中期にかけての日本の武
士(薩摩藩士)、実業家。薩摩国鹿児島城下長田町城ヶ谷(現鹿児島市長田町)生まれ。
大阪経済界の重鎮の一人。当時、「まさに瓦解に及ばんとする萌し」(五代)のあった大
阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用秩序の再構築を図った。
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少彦名神社
少彦名神社(すくなひこなじんじゃ)は、大阪市中央区道修町二丁目にある神社。旧社格
は無格社。別称として、道修町の神農(しんのう)さんとして親しまれている。
祭神は、少彦名命(すくなひこのみこと)と神農氏(しんのうし)
祭神は薬・医療・温泉・国土開発・醸造・交易の神であるが、少彦名神社では、薬の神とし
て健康増進、交易の神として商売繁盛の神徳があるとされている。
医薬にゆかりのある祭神を祀っていることから、医薬業に携わる会社・関係者などの信仰
を集めている。病気平癒・健康祈願や医薬業関連の資格試験合格を願う参詣者も多い。
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御霊神社
当社は圓江(つぶらえ:現在の靱)にあった圓神祠(つぶらしんし)が創起で、850年(嘉
祥3年)の「文徳実録」に八十嶋祭の祭場が圓江で行われたとあり、800年代後半の創
建とされる。文禄三年(1594年)に、石州津和野藩主亀井候が邸宅を割いて寄進し、圓
江から現在地の北船場に移され、寛文年中に御霊神社と改称された。頂いた資料による
と、商業金融の中心地の鎮守として商家の崇敬はもとより、山片蟠桃、緒方洪庵、福沢
諭吉を始め、懐徳堂や適塾の塾生もよく参拝したとのことである。
紅葉が残ってて綺麗だった
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大阪科学技術館
津波・高潮ステーションを体験
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靭公園・バラ園
バラが残っていた
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靭公園・楠永大神・靭海産物市場跡
楠永大神
楠永神社は東西に延びる靭公園の中央・西園のなわて筋側にあります。
祭神:楠永大神、楠玉大神。ご神木は、樹齢は約300年になる2本の楠木です。
御霊神社の祭神である摂津津村郷の産土神(うぶす)である津布良彦(つぶらひこ)
と津布良媛(つぶらひめ)の二神は、元々この場所で祀られていました。2柱が淡路
へ遷座されてから、楠永大神、楠玉大神として、この2本の楠を祀っているようです。
楠永神社のある場所は、淡路に遷座した御霊神社(ごりょう)があった場所で、御霊
宮旧跡碑が建っています。
御霊神社(ごりょう)は平安時代初期の創建で、靱の地にあり、圓神祠(つぶら・しん
し)と呼ばれ八十嶋祭が行われた由緒ある神社です。
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靭海産物市場跡
楠永神社の裏に永代濱跡碑があります。大坂の魚市場は、江戸時代の初めには
生魚を扱う雑喉場魚市場(大阪市西区・江之子島1丁目)と、干物などを扱う靭海
産物市場に分かれて、発展していきました。この付近一帯の靭(うつぼ)の地は、
江戸時代には永代濱(えいたいはま)と呼ばれ、昆布、塩干魚、鰹節などの靭海
産物市場として栄えました。隣に靭海産物市場跡の碑もあります。
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木津川沿い遊歩道
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阪神・ドーム前駅(ゴール)

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