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12月22日の昼飲み会ハイキング上本町駅~布施駅-1

12月31日     12月22日のハイキング上本町駅~布施駅-1
            昼飲み会ハイキング・てくてくマップ 約11㎞
知人と4人で「てくてくマップ」の初めてのコースに挑戦してみた・M吉・K場・S藤・田原
コース  本来なら上本町駅~枚岡駅への16kmコースだが途中でUターンを考え・・・
上本町駅(駅改札印)~鎌八幡~東雲稲荷神社~玉造稲荷神社~八阪神社~熊野
大神宮~法明寺~深江稲荷神社~天神社~法観寺~植田家住宅~新御厨北大橋
~八釼神社~Uターンして若江岩田駅 約11kmに挑することに挑戦した・・・
しかし、深江稲荷神社迄でUターンして布施駅へ戻る事に、銭湯から居酒屋へ仲間が
待つ天王寺へ。此の日の私の万歩計は、23826歩で約17.6km歩いたことに・・・
上本町駅(駅改札印)~鎌八幡
鎌八幡(円珠庵)
円珠庵(えんじゅあん)は、大阪市天王寺区空清町にある真言宗豊山派の寺院。
天和元年(1681年)6月百姓太郎左衛門が契沖に深く帰依して所有地を寄付したのが
当庵の起こり。元禄14年(1701年)1月25日に契沖は当庵にて62歳で亡くなり、墓所は
境内にある。
鎌八幡(かまはちまん)
元和の大坂冬の陣の時真田信繁(幸村)が、陣所内にて当時信仰を集めていた御神木
に、「鎌八幡大菩薩」と称して慣例に習い鎌を打ち込み、必勝を祈願したところ、大いに
戦勝をあげたと伝承されている。江戸時代以降は、真言宗の祈祷と結びつき、現在の形
の「悪縁を断つ鎌八幡」として信仰を集め、現在に至っている。
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※契沖(けいちゅう
寛永17年(1640年) - 元禄14年1月25日(1701年3月4日))は、江戸時代中期の真言宗
の僧であり、古典学者(国学者)。
摂津国川辺郡尼崎(現在の兵庫県尼崎市北城内)で生まれた。釈契沖とも。俗姓は下川
氏、字は空心。祖父・下川元宜は加藤清正の家臣であったが、父・元全(もとたけ)は尼崎
藩士から浪人となったため、8人の子は長男を除いて出家したり養子として家を離れざる
を得なかった。契沖は、幼くして摂津国東成郡大今里村(現在の大阪市東成区大今里)の
妙法寺の丯定(かいじょう)に学んだ後、高野山で東宝院快賢に師事し、五部灌頂を受け
阿闍梨の位を得る。

東雲稲荷神社・・・玉造稲荷神社分社(旧社名 東雲稲荷神社)
現在、玉造稲荷神社分社の地は江戸時代に玉造を代表する町人である松屋甚四郎、そ
の手代源助が「浪花講」を設立した場所にあたる。甚四郎は唐弓弦師として全国を行商
した経験から、当時の旅は安全性が乏しく、旅人に安全で信頼のおける旅を提供しようと
この組織を設立した。
この「浪花講」は、現在の協定旅館・旅行斡旋業の祖とされ全国へと広がった。全国各地
の旅籠などの軒先には「大坂・浪花講」の看板が掲げられ、旅人らはそれを目印に安心な
宿をとる事が出来た。
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カトリック教会
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玉造稲荷神社
社伝によれば垂仁天皇18年(紀元前12年)に創建され、当時は比売社と称していた。
蘇我氏と物部氏の戦いの際、蘇我氏方の聖徳太子がこの地に布陣して戦勝を祈願し、
戦勝後当地に観音堂を建てたという伝承がある。
大坂城の南東にあり、大坂城三ノ丸に位置した当神社。西向きに建てられている本
殿は比較的に少なく大坂の経済を見守るため、西を向いていたとも言われている。
大坂の町を造った豊臣秀吉公は稲荷神を崇敬し当神社を大坂城の鎮守神として祀っ
た。また、大坂城における神事の多くは当神社神職が執り行い、慶長八年には豊臣
家より五百石の水田(現・大阪市天王寺区玉造本町)が当神社へ朱印地として寄進
された。
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玉造二軒茶屋跡道標
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暗越奈良街道道標
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八阪神社
当神社の創建は古く、およそ1000年前の寛仁元年(1017年)までさかのぼります。
平安貴族の中でも栄華を極めた関白藤原道長が東成郡中道法性寺なるところに別
邸を建てスサノオノミコト、ククリヒメノミコトの同一神とされる牛頭天皇白山権現を鎮
守の神として奉祀されたのが始まりです。その後、仁安元年 (1166年)に社殿を再
し、天正12年(1584年)には現在の地に遷座。社殿を東向きに配し、牛頭天王白山
権現社と称せられました。そして、明治5年。八阪神社と改め、この地の産土神社と
なります。明治42年には境内より暗越奈良街道参詣道を開拓し、街道筋に大鳥居を
建てましたが、大正6年、玉垣を新設するとともにこの大鳥居を移動し、その跡に社
名標石を建てています。
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※暗越奈良街道(くらがりごえならかいどう)
大阪から奈良へ通じる旧街道として、5百年程度前に開けた街道である。江戸時代、
奈良への最短コースをとる街道として大変賑わったといわれています。
この暗越奈良街道が開けていなかった頃、難波から大和に行くには日本最古の国
道といわれる竹内街道が利用され、また奈良時代には、難波から大和(平城京)に
通じる最短の道があり「日下の直越(ただごえ)道」といわれていたが、後の暗越奈良
街道と一部重複する箇所もあると考えられています。近世になって、豊臣秀吉の天下
統一と、弟、秀長の郡山城での大和支配など奈良との関係で重視されたと伝えられ
ています。
起点は高麗橋とされ、東成区の玉造より西から東へと通じ、暗越と呼ばれるように生
駒山系の暗峠を越えて奈良に往っていたので、この名称の由来があります。
現在も大今里辺りは、昔の街道を偲ばせるところがあります。江戸時代中頃から、全
国的にお伊勢参りが盛んとなり、多いときで一日7~8万人の旅人で賑わったといわれ
ています。
明治時代に入ると交通機関の発達に伴い、この街道は殆ど利用されなくなりました。

玉津橋~東成警察署
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熊野大神宮
由緒書きによると、創立年代は1400年以上前になり詳らかではないとのことですが、
「用明天皇2年、厩戸皇子が四天王寺を浪速玉造の岸に創立せられたとき、拾弐坊
の伽藍を建立せられ、当社社務を司らしめられました」とあり、この神社の創建に聖
徳太子が関わっているという伝承があったようです。もとは熊野権現と称していまし
たが明治8年権現号を廃し、熊野大神宮と改称した旨が記されています。 由緒書き
には紀伊熊野との関わりは明記されていない。
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妙法寺
聖徳太子の創建と伝えられ、近世国学の祖と言われる契沖(けいちゅう)が、延宝
7年(1679年)から元禄3年(1690年)まで住職をし、また修学の道場としても有名
で、現在大阪府顕彰史跡に指定されています。
契沖は、妙法寺住職となってから本格的に国学研究の学問に専念し、徳川光圀公
の委嘱により、有名な「万葉代匠記」やその他多くの著作を完成させました。
現在妙法寺境内には契沖の供養塔と慈母の墓があります。
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※契沖遺跡
昭和24年(1949年)に妙法寺境内は、僧契沖遺跡として大阪府顕彰史跡に指定
されています。近世国学の祖といわれる契沖は、延宝7年(1679年)から元禄3年
(1690年)までの11年間、この妙法寺住職をし、国学の勉強に尽力した。

法明寺
当地で生まれた法明上人(弘安(こうあん)2年、1279-正平(しょうへい)4年、1349)
の創建(文保(ぶんぽう)2年、1318)と伝えられる。平和な家庭をもったが、不幸が
つづき無常を感じ若くして出家した。高野山・比叡山で修行し、平野の大念仏寺の
中興の祖として尊敬された。
境内には弘長(こうちょう)2年(1262)、暦応(りゃくおう)2年(1339)在銘の2基の石塔
があり、雁(がん)塚とよばれている。ある猟師が雁を射落としたところ首がなく、後日
射た雁はしっかりと別の首を抱いていた。夫婦か親子の雁とあわれみ供養したという
伝説がある。また龕(がん)(仏像などをおさめる物入れ)を埋めたものともいう。
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※雁(がん)塚
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深江稲荷神社
宇賀御魂神(うがのみたまのかみ)ほか二柱を奉斉する旧深江村の氏神で、和銅年
間(8世紀前期)の創建といわれ、慶長8年(1603年)豊臣秀頼が社殿を改造したとも
伝えられます。笠縫部(かさぬいべ)との関係が深く、現在境内が「笠縫邑跡(かさぬ
いむらあと)」「深江菅笠ゆかりの地」として大阪府、大阪市から史跡に指定されてい
ます。
深江稲荷神社は垂仁天皇の御代、笠縫氏の祖が摂津国東生郡笠縫島の宮浦の地
(今の深江南3丁目の地)に居を定め、下照姫命を奉祀したのが始まりとされ、その
後、元明天皇和銅年間に山城国稲荷神社の御分霊を勧請したと伝えられています。
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桜川公園で昼食
時間が無いので布施駅へ戻り、天王寺へ向かう
あべのハルカス&キューズモール
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銭湯
湯処・あべの橋
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居酒屋 甘太郎
15時~17時 9名で昼飲み会の忘年会で盛り上がった
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天神社~法観寺~以降は股の機会に・・・・
天神社
奈良街道から北に向かい、参道がのびる天神社(あまつかむやしろ)は集落の中央
にあり、古くは御厨神社と呼ばれ、近世以後に現在の社名(通称:てんじんしゃ)が使
われるようになりました。第二寝屋川南東岸近く、街中のやや微高地に鎮座。
明治以來、現在の東大阪市御厨地区と長田地区とで、どちらの地区の神社が式内の
意支部神社であるかで争つている。御厨は天神社といい、長田は長田神社という。
裁判にもなつたこともあり、現在もまだ解決されていない、論社となったままである。
意支部という社名の難解さが、この神社をわからなくしている一因である。社名の意味
やこの神社を祀つた氏族がはつきりしないので、神社の創建その他の由緒はわから
ない。延喜式神名帳だけにみえる神社である。
この地の奥方・置方の地名が意支部に通ずるということから論社とされているが、御厨
天神社は古くは御厨神社と呼ばれていたことから、式内社からもれていたとの伝もある。
※天神社
旧御厨村の中央に位置し、大名持命、少彦名命の二神をおまつりしています。創建年
代は文献が無く解りませんが、延喜式神名帳にみえる意岐部神社がこの神社であると
も伝えられています。古くは御厨神社と呼ばれ、近世以後に現在の社名が使われるよ
うになりました。また、大正4年には新家村の菅原神社と菱屋東の稲荷神社と山科神社、
荒本の荒本神社の4社が合祀されました。
境内には、市の天然記念物に指定されている「くすの木」があるほか、本殿東側にある
小さな四社の殿前の元禄10年(1697)銘の石燈篭や拝殿西側にある奈良秋篠寺の石
燈篭と同形の八角形の石燈篭や寛成9年(1797)銘の狛犬、正徳元年銘の手水鉢など
の石造物があります。また、枚岡神社から移築された能舞台や村相撲が盛んであった
ことを示す番付表も保存されています。ところで、御厨という地名は、朝廷にお供えする
魚介類を獲るため、平安時代の延喜5年(908)、付近に拡がる湖沼一体を「大江御厨」と
定めたことに由来する。 平成15年3月 東大阪市

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