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1月7日(日)新春ご利益「開運松原六社巡り」-1

1月11日      1月7日(日)新春ご利益「開運松原六社巡り」-1
              近鉄駅フリーハイキング 歩程約10km
此の日の参加者は8人、歩こう会のK池M吉・K場・M村・Y田・他O村さん・I田さんと田原
コース  近鉄駅フリーハイキング  南大阪線 布忍駅受付9時半~11時  19時半集合
布忍駅(受付)~布忍神社~我堂八幡宮~阿麻美許曽神社~屯倉神社~阿保神社~
柴籬神社~河内松原駅(ゴール)・・・2人が先に帰って、残った6人でコーヒータイム 
最初の布忍神社で絵馬を購入(500円)して各神社の参拝印を集めて最後の神社で「開運
干支張子」を授かった、今年で4つ目、4年連続で授かった事になる。
今年は、我堂八幡宮で「お神酒」のふるまいが有ったのと松原市の消防出初式あとの
ふれあい広場でのぜんざいの振舞いに会った。
此の日の私の万歩計は、23053歩で約17km歩いたことに・・・
布忍駅(受付)~布忍神社
大林寺・・・布忍山 大林寺
当山はもとは東大饗村(東おわい村:現堺市美原町)にあったが、1878年(明治11年)当
地に移転した。寺院の西側を流れる西除川の西岸にあった永興寺(ようこうじ:明治6年に
廃寺)の本尊であった十一面観音像や「布忍山永興寺略縁起」、「大般若経600巻」を蔵す
る。この「布忍山永興寺略縁起」によると、永興寺は1069年(寛治3年)永興律師により創
建され、弘安年中(1278~88年)に大和西大寺の叡尊が中興したと伝える。又、近くにあ
る布忍山布忍寺は、この永興寺の塔頭と伝えられ、布忍寺に伝わる「布忍山東坊縁起」に
は、東之坊は聖徳太子が薬師如来を本尊として創建。814年(弘仁5年)空海が再建したが
荒廃し、寛治3年に永興律師が再興し、永興寺と名付けたとあり、平安後期には大伽藍を
誇った寺院が存在していたと思われる。なお、この永興寺の本堂は1887年(明治20年)、
現柏原市にある壺井寺に移築され、現存する。
大林寺は、旧長尾街道に面してある。長尾街道は飛鳥時代の7世紀頃に創られた難波・河
内と飛鳥を結ぶ官道であったといわれる。西除川を挟んで永興寺の鬼門の守宮であったと
考えられる布忍神社がある。
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布忍神社
布忍神社は速須佐男之尊、八重事代主之尊、武甕槌雄之尊の三神を祀っています。社伝
によると十八町北方の天見丘から、この地に勧請したとき道中に白布を敷いて迎えたため、
この地を布忍といい、村里を向井といいます。
本社の鎮座する「布忍」の地名の由来は日本書紀にもある布忍入姫命(ぬのしいりびめのみ
こと、日本武尊の娘のひとり)にあると言われている。本社の創建年については明確でない。
古来より布にまつわる言い伝えがあり、病気平癒、毒虫の退治の神と称えられ、近世では
病気平癒、厄除け、交通安全、商売繁盛のご利益で知られる神社。
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我堂八幡宮・・・振舞いお神酒があり温まりました
我堂八幡宮は厄除宮として有名です。江戸時代の延宝8年(1680)の「我堂村検地絵図」で
は社名がなく、鳥居マークだけですが、延享元年(1744)の「両我堂村明細帳」には「十五社
明神」、享和2年(1802)の「東我堂村明細書上帳」にも「氏神十五社神」と記されています。
江戸時代の延宝8年(1680)の「我堂村検地絵図」では社名がなく、鳥居マークだけですが、
延享元年(1744)の「両我堂村明細帳」には「十五社明神」、享和2年(1802)の「東我堂村
明細書上帳」にも「氏神十五社神」と記されています。明治初年に八幡神社と称した後、大
正2年(1913)に産土神社と改めましたが、いまでは我堂八幡宮の名で信仰されています。
堺市の百舌鳥八幡宮の分霊を勧請したもので、品陀別命が祭神です。境内には、江戸時
代から昭和初期にかけて若者が力競べをした力石・八幡石・明治石・龍王石・金剛石が残
っており、貴重な民俗資料といえるでしょう。
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善正寺・・・真宗大谷派
大阪市平野区にあった真言宗・金剛乗院が、室町時代・明応年間(1492〜1500)に改宗し
現在の最勝寺の地に移転し、浄蓮寺と称するようになりました。安土・桃山時代・文禄2年
(1593)僧順欽の時に「善正寺」と改号。その後、江戸時代・元和2年(1616)に砂村へ移り、
寛永18年(1641)に現在の地に移ったと言われています。
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阿麻美許曽神社へ向う
今池水みらいセンター
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※久多美神社(関西出雲大社)
昨年は、寄り道して久多美神社(関西出雲大社)も参拝したが、今年は行かなかった・・・
この神社は河内天美駅の北西約800mに鎮座しています。鳥居には「久多美大神」、境内
の「記」には「関西出雲大社」という社名が記されています。参道や境内等が綺麗に整備さ
れ社殿は出雲大社そっくりの大きさや造りです。御祭神:久多美大神。

阿麻美許曽神社(あまみこそじんじゃ)
阿麻美許曾神社は、大阪市東住吉区矢田にある神社。延喜式神名帳に記載されている
河内国丹比郡の式内社で、旧社格は郷社。阿麻美許曾神社は式内社であり、社伝によれ
ば、大同年間(大同元年=806年頃)の創建とされているが、おそらくそれより古いであろう
とされている。「許曽」は新羅の言葉に由来するとされ、朝鮮半島からの渡来人が先祖を
祀ったのが起こりではないかとされている。
この神社を含む一帯はもともと(後に大阪市の一部となる)矢田村の一部であったが、江戸
時代に大和川の付け替えにより川が矢田村を分断し、神社は大和川の南岸に切り離され
てしまうことになった。この際に、南岸に残された矢田村の大半は後の松原市となる側に編
入されることになったが、神社は矢田村の氏神であったことから、神社の周囲と参道のみは
矢田村に残留した。このために、神社周辺は大和川の南岸にありながら大阪市に属してお
り、参道に相当する部分(下高野街道)が細長く松原市に食い込んで大阪市として存在して
いる。
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大和川河川敷で松原市消防出初式&ふれあい広場
丁度「ふれあい広場」が始まり、お持ち入りのぜんざいが振る舞われて温まりました。
おまけに抗菌マスク入れやホカホカカイロも貰いました。嬉しいー!(^^)!
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大和川の河川敷を歩いて
昼食場所を探す
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此の続きは、
1月7日(日)新春ご利益「開運松原六社巡り」-2 として
          下記のメインブログへ詳細を投稿します。
        http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/ 
此の続きは、大和川河川敷で昼食~
大和川河川敷で昼食
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屯倉神社へ向う
昼食を終えて大和川堤防道路~中高野街道
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屯倉神社(みやけじんじゃ)
屯倉神社は、天慶5年(942)に菅原道真を祭神として創祀されたと伝えられています。当地
にはもともと、土師氏(のち菅原氏に改姓)の祖神である天穂日命を祀る穂日の社があり、
同社は、のち依羅三宅天満宮ともよばれるようになりました。本殿には神像として菅原道真
像が安置されています。今年は梅は?未だ咲いていなかった・・・・
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阿保神社(あおじんじゃ)
道真公が、大宰府に流されていく途中、道明寺の覚寿尼に一 夜のいとまごいをされた時
に、この地で休息されたことから、 この地に阿保神社 が建てられた。
阿保神社は菅原道真を祭神とします。境内には「史跡阿保親王住居址」の石碑が建てら
れています。樹齢1000年と云われる楠木がある。楠木の前で8名並んで集合写真を・・・ 
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※阿保親王(あぼしんのう)・・・在原行平・業平の父
延暦11年(792年) - 承和9年10月22日(842年12月1日)は、平安時代初期の皇族。平城
天皇の第一皇子。
大同4年(809年)に四品に叙せられるが、翌弘仁元年(810年)に発生した薬子の変で出家
した父・平城上皇と皇太子を廃された弟・高岳親王に連座して大宰権帥に左遷される。弘仁
15年(824年)平城上皇の崩御後、叔父の嵯峨天皇によってようやく入京を許される。
天長3年(826年)子息の行平・業平等に在原朝臣姓を賜与され臣籍降下させている。翌天
長4年(827年)上総太守に任ぜられる。天長10年(833年)仁明天皇の即位後まもなく三品
に叙せられると、仁明朝では上野太守や治部卿・兵部卿・弾正尹等を歴任した。
柴籬神社へ向かう
海泉池(かいずみいけ)~松原商店街
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柴籬神社(しばがきじんじゃ)
御祭神反正天皇(別名瑞歯別命){正殿}菅原真公(相殿)依羅宿弥(相殿)当社は24代
仁賢天皇の勅命により創建され後世慶長年中に兵火により焼失、その後寛永年中に宮
代代宮寺 観念寺2代目住持覚夢(寛永田年没)によって再建され今日に至っております。
柴籬の宮跡、当跡は大津道(長尾街道)と丹比道(竹内街道)のほぼ中央に位置し、古の
松原荘の内にて大和政権の第18代反正天皇の皇居跡で、五年間この地に都を置き河内
王朝最後の都として、また古事記、日本書紀に丹比柴離宮とあるは即ち本宮であります。
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河内松原駅(ゴール)
2名が先に帰り、残りの6名で駅前のコメダコーヒーで反省会??
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久し振りに通った家の近所、高速道路の裏道で・・・
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