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2月27日の堺市「利晶の杜」&史跡を散策-1

3月3日       2月27日の堺市「利晶の杜」&史跡を散策-1
                  2月度の歩こう会例会
此の日は、風も無く陽もさして最高のハイキング日和となり、参加者89名となった。
コース  雨天決行  南海本線堺駅 10時集合 参加費@300円
南海本線堺駅(受付・スタート)~与謝野晶子生家跡~千利休生家跡~利晶の杜~
南宗寺~大安寺~堺市人権ふれあいセンター(昼食+資料館)~堺市役所21階展
望ロビー(解散)~南海堺東駅 → 新今宮駅 → 王寺駅
新今宮駅に着いた頃、大和路線の東部市場前駅で人身事故、大和路線がストップ、
復旧したのは約1時間後の3時25分、3時30分の快速を待つも10分遅れて40分に
到着、20分乗ってたら到着予定が45分も要して到着、長い時間かかってクタクタ・・・
此の日の私の万歩計は、17795歩で約13.1km歩いたことに・・・
志都美駅
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新今宮駅で乗換
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南海本線堺駅(受付・スタート)
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与謝野晶子生家跡へ向かう
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与謝野晶子生家跡
与謝野 晶子(よさのあきこ)
(正字: 與謝野 晶子、1878年(明治11年)12月7日 - 1942年(昭和17年)5月29日)は、
日本の歌人、作家、思想家。夫は与謝野鉄幹(与謝野寛)。
雑誌『明星』に短歌を発表しロマン主義文学の中心的人物となった。
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千利休生家跡へ向かう
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千利休生家跡
千利休(せん の りきゅう、せん りきゅう)
千利休(大永2年(1522年) - 天正19年2月28日(1591年4月21日))は、戦国時代から
安土桃山時代にかけての商人、茶人。
わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称せられる。また、今井宗久・津田
宗及と共に茶湯の天下三宗匠と称せられ、「利休七哲」に代表される数多くの弟子を抱
えた。子孫は茶道の三千家として続いている。天下人・豊臣秀吉の側近という一面もあり、
秀吉が旧主・織田信長から継承した「御茶湯御政道」のなかで多くの大名にも影響力を
もった。しかしやがて秀吉との関係に不和が生じ、最後は切腹へと追い込まれた。
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此の続きは、
2月27日の堺市「利晶の杜」&史跡を散策-2 として
        下記のメインブログへ詳細を投稿します。 
      http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、利晶の杜~
利昌の杜
さかい利晶の杜は、堺の偉大な先人、千利休と与謝野晶子の生涯や功績にふれながら、
茶の湯体験ができたり、市内の観光情報を入手できたりと、いろいろな楽しみ方ができる
施設です。
此の日は、織田作之助(おだ さくのすけ)展が・・・
織田 作之助、1913年(大正2年)10月26日 - 1947年(昭和22年)1月10日)は、日本の
小説家。終戦後太宰治、坂口安吾、石川淳らと共に無頼派、新戯作派と呼ばれ「織田作
(おださく)」の愛称で親しまれる。 夫婦善哉 (小説)
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南宗寺
南宗寺(なんしゅうじ)は大阪府堺市堺区にある臨済宗大徳寺派の寺院で三好氏の菩
提寺。山号は龍興山。開山は大林宗套、中興は沢庵宗彭、本尊は釈迦三尊である。
茶人の武野紹鴎、千利休が修行をした縁の寺であり、堺の町衆文化の発展に寄与し
た寺院である。古田織部作と伝わる枯山水庭園は、国の名勝に指定されている。
丙戌8月(1526年)に古岳宗亘が堺南荘にあった庵を南宗庵と名付けた。宗亘はこの
庵を法嗣の伝庵宗器に継がせたが、宗器が早世したため、もうひとりの法嗣だった大
林宗套が南宗庵3代目となった。弘治3年(1557年)当時、畿内随一の実力者に上り詰
めた河内飯盛山城主・三好長慶が非業の死を遂げた父・三好元長の菩提を弔うべく、
大林宗套に開山を依頼して、南宗寺を創建した。創建当時は堺市宿院町付近にあった
と伝える。境内には他に、徳川家康のものと伝えられる墓・武野紹鴎の供養塔・千利休
一門の供養塔・三好一族の墓所・津田宗及一門の供養塔・中井芳滝の墓などがある。
徳川家康 墓標 - 「大坂夏の陣で茶臼山の激戦に敗れた徳川家康は、駕籠で逃げる途
中で後藤又兵衛の槍に突かれ、辛くも堺まで落ち延びるも、駕籠を開けると既に事切れ
ていた。ひとまず遺骸を南宗寺の開山堂下に隠し、後に改葬した」との異伝[5]がある
(『南宗寺史』)。墓標近くには山岡鉄舟筆と伝わる「この無名塔を家康の墓と認める」と
の碑文が残っている。当地にはかつて東照宮があったが現在の墓標は水戸徳川家家
老裔の三木啓次郎が昭和42年に(1967年)に再建したもの。碑石の銘には「東照宮徳
川家康墓」とある。
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堺市人権ふれあいセンターへ向かう
ユーカリの木?
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堺市人権ふれあいセンター(昼食+資料館)
舳松人権歴史館(へのまつじんけんれきしかん)& 阪田三吉記念室
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阪田 三吉(さかた さんきち)
阪田 三吉(1870年7月1日(明治3年6月3日) - 1946年(昭和21年)7月23日)は76才没。
明治から昭和初期にかけて活動した将棋棋士。贈名人・王将。堺県大鳥郡舳松村字塩
穴(現在の大阪府堺市堺区協和町)出身。姓については「坂田」との表記もあり。
堺県大鳥郡舳松村塩穴(現在の大阪府堺市堺区協和町5丁)の生まれ。生業の草履表づ
くりを手伝いながら、将棋を覚える。
1886年(明治19年)ごろ、日本橋の履き物問屋に丁稚奉公、町角の縁台将棋によく顔を
出し大人を負かせるなど早熟の天才振りを見せていた。だが、将棋に夢中になるあまり背
負っていた奉公先の子供を負傷させ、暇を出されたといわれている。
その後は実家に帰り家業を手伝いながら賭け将棋で腕を磨き、素人(アマチュア)の将棋
指しとして大阪で有名になる。この頃、当時「大阪名人」と呼ばれていた小林東伯斎(天野
宗歩四天王の一人)に教えを乞う。
1891年(明治24年)頃、関根金次郎と堺の料亭一力で初対決し、惨敗。このことで阪田は
プロの道を決意したとされる。
1917年(大正6年)に八段となり、柳沢保恵伯爵の後援の下で翌年にかけて関根と平手で
6局の対局をし4勝2敗と勝ち越す。だが、関根の一番弟子の土居市太郎(七段)には敗れ
ており、土居の八段昇段を許すこととなる。等々 関根名人との数々の名勝負?
終戦直後、1946年(昭和21年)7月23日に自宅で死去。没後まもなく製作された戯曲北条
秀司原作『王将』が好評を得たため、阪田の名は将棋指しとして不朽なものとなった。
通天閣に建立された王将碑。
1955年(昭和30年)、日本将棋連盟から名人・王将の称号が贈られた。大阪市浪速区の
新世界の通天閣下には「王将」の碑がある。また生家跡にも1989年(平成元年)11月、
「王将阪田三吉顕彰碑」が堺市によって建立された。

舳松(へのまつ)集会所(旧堺市人権ふれあいセンター)
「王将阪田三吉顕彰碑」
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堺市役所へ向かう
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堺市役所
堺市役所21階展望ロビー(解散)
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南海堺東駅~新今宮駅~JR天王寺駅
JR天王寺駅
東部市場駅で人身事故があり1時間以上天王寺駅で足止め
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