3月9日の春!城南宮「しだれ梅と椿祭り」-1
3月21日 3月9日の春!城南宮「しだれ梅と椿祭り」-1
春の訪れを体験 歩程約7㎞
此の日の近鉄ハイキングには、知人と二人で参加、春うららのハイキング日和にうかれつつ。
コース 近鉄駅フリーハイキング 十条駅受付 9時半~11時 歩程約7㎞
十条駅(受付)~吉祥院天満宮~鳥羽伏見の戦い勃発地碑~鳥羽離宮跡~城南宮~白河
天皇陵~竹田駅
後半の竹田駅周辺、白河天皇陵~武田駅以外は初めて訪れるところばかりだったので新鮮。
此の日の私の万歩計は、22220歩で約16.4km歩いたことに・・・
吉祥院天満宮(きっしょういんてんまんぐう)
吉祥院天満宮は京都市南区にある神社で、主祭神は菅原道真公であり、由来によると京都市
上京区の北野天満宮より早い934年(承平4年)に創建された初の天満宮である。菅原家が信
仰する吉祥天を祀る吉祥院を邸内に建立し氏寺としており、菅原道真公生誕の地とされる(生
誕の地には異説もあり)
菅原道真の曽祖父・土師古人(はぜのふるひと)が平安遷都に際し天皇の供として入京し賜っ
た地でここに邸を構えた。祖父の代に菅原へ改姓。祖父・菅原清公が遣唐使として唐へ向かう
途上(もしくは帰国時)、嵐に遭遇しながらも吉祥天女の霊験により難を逃れ、以降菅原家では
吉祥天信仰となる。
清公が帰国後もしくは道真の父・菅原是善が、この地の自邸内に祀り吉祥院とした。これが地
名の由来ともなる。
菅原道真はこの地で845年(承和12年)に誕生し、18歳で転居するまでこの地で過ごしたとされ
る。903年(延喜3年)に道真が大宰府の地で没した後、この地で吉祥院聖廟をおきその霊を祀
る。その後、怨霊鎮魂のために朱雀天皇勅願により、934年(承平4年)この地に社殿を築くなど
して道真公の霊を祀ったことが始まりとなる。
※北野天満宮
北野天満宮(きたのてんまんぐう)は、京都市上京区にある神社。旧称は北野神社。通称として
天神さん・北野さんとも呼ばれる。福岡県太宰府市の太宰府天満宮とともに天神信仰の中心で、
当社から全国各地に勧請が行われている。学問の神として受験生らの信仰を集めている。
延喜3年(903年)、菅原道真が無実の罪で配流された大宰府で没した後、都では落雷などの災
害が相次いだ。これが道真の祟りだとする噂が広まり、御霊信仰と結びついて恐れられた。そこ
で、没後20年目、朝廷は道真の左遷を撤回して官位を復し、正二位を贈った。天慶5年(942年)、
右京七条に住む多治比文子(たじひのあやこ)という少女に託宣があり、5年後にも近江国の神
官の幼児である太郎丸に同様の託宣があった。それに基づいて天暦元年6月9日(947年)、現
在地の北野の地に朝廷によって道真を祀る社殿が造営された。
永延元年(987年)に初めて勅祭が行われ、一条天皇から「北野天満宮天神」の称が贈られた。
鳥羽伏見の戦い勃発地碑へむかう
せせらぎ広場
西高瀬川を渡る
西高瀬川
京都市右京区嵯峨天竜寺角倉町(渡月橋の東、数百メートル)の桂川から取水し、京都市伏
見区下鳥羽上向島町で鴨川に注ぐ。 流路は直線的で、直角に流れる方角を変える。
江戸時代初期に角倉了以により大堰川が開削され、丹波地方と京都の間の水運が確保され、
その大堰川によって運ばれた丹波地方の木材などを、京都側の終点である渡月橋上流から、
市中心部に直接引き込むための運河として、文久3年(1863年)に嵯峨(渡月橋上流)~千本
三条が開削された。 のちの、明治3年(1870年)、当時の京都府が引き継ぐ形で伏見の鴨川
まで開通。運河以外にも、京友禅などの染物の工場から出る排水を流すための下水路として
の役割も担っており、川の色が日によってさまざまな色に変わったといわれている。しかし、鉄
道や道路などの陸運網が発達していくにつれ、利用価値が次第に薄れていき、運河としての
機能を失っていった。
鳥羽離宮跡
伏見区竹田・中島・下鳥羽。平安時代後期に白河・鳥羽・後白河上皇が造営の離宮があり院政
を行ったところ。鳥羽殿とも。東西1.5キロ、南北1キロの広大な敷地に苑池・各殿舎・堂塔が建
ち並んでいた。今は安楽寿院、白河・鳥羽・近衛各天皇陵、城南宮、秋の山(築山)を残すのみ。
史跡公園。市バス城南宮道すぐ。
鳥羽伏見の戦い勃発地碑
大政奉還し大坂城にいた徳川慶喜(1837~1913)は薩摩を討つため上洛を決意、慶応4
(1868)年正月3日,幕府軍本隊を鳥羽街道と伏見街道に分けて京都に進軍した。鳥羽街
道を北上する幕府軍と,これを阻止しようと竹田・城南宮周辺に布陣した官軍は,この地
小枝橋で衝突した。
幕府軍1万5千人と官軍6千人の激しい戦いであった。この石碑は,翌年夏まで続いた戊
辰戦争の発端となった鳥羽伏見戦の勃発地を示すものである。
城南宮
城南宮は、平安遷都(794年)の際に都の南の守護神として創建されたのが始まりとされる。
他にも、かつて、この地にあった城南寺の鎮守社として創建されたのが始まりという説も有る。
祭神は、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、八千矛神(やちほこのかみ)、息長帯比売命
(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)である。
応徳3年(1086年)には、白河上皇が城南離宮を造営し、その鎮守社となる。また、この頃より、
熊野詣の精進所となり方除けの信仰が高まった。
なお、城南宮の神紋は神功皇后の旗印にちなんだ日・月・星を表す三光紋で、方除けの神徳
を表している。そのため、城南宮は、方除け、交通安全、旅行安全の神として信仰されている。
その後、14世紀の南北朝の争乱や応仁の乱(1467年)で荒廃するが、江戸時代に復興された。
水路にも・・・
コケの上にも・・・
此の続きは、
3月9日の春!城南宮「しだれ梅と椿祭り」-2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿します。
http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、未だ未だ城南宮の神苑 梅祭り
椿祭り
曲水の宴も此処で・・・
※曲水の宴
毎年4月29日と11月3日に城南宮の神苑にある平安の庭で曲水の宴が行われる。
平安装束をまとった歌人が庭を流れるせせらぎに座り、川上から流れる盃が目の前
に来るまでに歌を詠み、酒を飲むという平安時代の貴族達の遊びが再現される。
場所を変えて庭園の美・・・
絵で見る明治元年展も・・・
城南宮を後にして
白河天皇陵(しらかわ てんのう)
白河天皇は、第72代天皇(在位:延久4年12月8日(1073年1月18日) - 応徳3年11月26日
(1087年1月3日))。諱を貞仁(さだひと)という。後三条天皇の第一皇子。母は藤原氏閑院
流藤原公成の娘で、藤原能信の養女である藤原茂子。
後冷泉天皇の東宮・尊仁親王(後三条天皇)の第一王子として生まれる。母茂子、外祖父の
能信ともに幼少時に死別し、父尊仁親王は関白の藤原頼通に冷遇されていた。治暦元年
(1065年)に13歳で元服。治暦4年(1068年)、父帝即位とともに親王宣下を受け、貞仁親王
となる。翌延久元年(1069年)立太子。同3年(1071年)に関白藤原師実の養女・藤原賢子が
参入した。延久4年(1072年)、後三条から譲位され、20歳で即位する。関白は置いたが、延
久5年(1073年)の後三条上皇の病没後も、父同様に親政を目指し、荘園整理などに力を入
れ、永保元年(1081年)宇佐神宮境内地に神宝塔院を建立する等、摂関家の権勢を弱める
ことに努める。
北向山不動院
山号は北向山。開山は覚鑁。本尊は重要文化財で康助作の不動明王像。
大治5年(1130年)、病にかかった鳥羽天皇は、その病気平癒の祈祷を自らが帰依している
真言宗の僧覚鑁に行わせたところ、不動明王が出現するなどして天皇は回復した。その後、
天皇は勅命により覚鑁を開山として当寺院を建立し、勅願寺とした。
不動明王を本尊とし、平安京を鎮護する意味もあって不動明王像は北の平安京に向けられ
ている。それによって「北向山」の名が付けられた。
現在の本堂は正徳2年(1712年)に霊元天皇によって東山天皇の御殿を移築したものである。
鐘楼にかかる梵鐘には済深親王の銘があり、元禄7年(1694年)に名越浄味によって鋳造さ
れたものである。
「一願の護摩」といい、不動明王にその願いを聞いていただける、といわれている。
鳥羽天皇陵
鳥羽天皇(とばてんのう、康和5年1月16日(1103年2月24日) - 保元元年7月2日(1156年
7月20日))は平安時代後期の第74代天皇(在位嘉承2年7月19日(1107年8月9日) - 保
安4年正月28日(1123年2月25日))。諱は宗仁(むねひと)。
堀河天皇の皇子。母は贈皇太后・藤原苡子。子の崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の3代
28年に渡り院政を敷いた。
生後間もなく母・苡子が没し、祖父の白河法皇の下に引き取られて養育された。誕生から
7ヶ月で立太子され、父・堀河天皇の死後、5歳で即位する。
幼い鳥羽天皇は政務を執る事ができず、また当時の摂関の藤原忠実は立場が弱く白河法皇
の風下にあり、実際の政務は白河法皇が執った。永久5年(1117年)、白河法皇の養女である
藤原璋子(待賢門院)が入内、翌年には中宮となり5男2女を儲ける。保安4年(1123年)1月
23日、第一皇子・崇徳天皇に譲位、その後も実権は白河法皇が握り続けた。父親の堀河天皇
の在位中は、摂関家や天皇が実権を全て、あるいはある程度は握っていたが、このように鳥
羽天皇の治世において白河院政が本格化した。
冠石(かむりいし)
鳥羽天皇(1103~56)は譲位後,白河上皇(1053~1129)が創建した鳥羽離宮に入り、
殿舎や仏殿を増築した。その際この石の上に冠を置き、これを中心に造営したと伝える。
この石標は、鳥羽離宮の冠石を示すものである。
此処も鳥羽離宮跡
伏見区竹田・中島・下鳥羽。平安時代後期に白河・鳥羽・後白河上皇が造営の離宮があり院政
を行ったところ。鳥羽殿とも。東西1.5キロ、南北1キロの広大な敷地に苑池・各殿舎・堂塔が建
ち並んでいた。今は安楽寿院、白河・鳥羽・近衛各天皇陵、城南宮、秋の山(築山)を残すのみ。
近衛天皇陵
近衛天皇(このえてんのう、保延5年5月18日(1139年6月16日)- 久寿2年7月23日(1155年
8月22日))は、日本の第76代天皇(在位:永治元年12月7日(1142年1月5日) - 久寿2年7月
23日(1155年8月22日))。諱は躰仁(なりひと)。
鳥羽天皇の第九皇子。母は藤原得子(美福門院)。
治天の君であった鳥羽上皇と、寵妃の得子(美福門院)の皇子として生まれる。父の鳥羽上
皇に即位を望まれ、生後1か月余りの6月27日、異母兄の崇徳天皇と中宮・藤原聖子の養子
となり、天皇の御所・小六条殿に参入。同年7月16日に親王宣下され、8月17日に立太子。
翌々年の永治元年(1141年)12月、わずか3歳(満2歳)で崇徳天皇の譲位を受けて即位した。
在位中は鳥羽法皇が院政を敷いた。
安楽寿院
真言宗智山派。1137年(保延3)鳥羽上皇が鳥羽殿に御堂を建立、阿弥陀三尊像を安置した
のに始まる。慶長年間(1596-1615)、豊臣秀頼が復興したが、再び荒廃。
現在の庫裡は塔頭前松院であった建物。本尊阿弥陀如来坐像(重文)、石造五輪塔(重文)、
絹本着色孔雀明王像(重文)などの文化財を所蔵。建立:1137(保延3)年
竹田駅~帰る
春の訪れを体験 歩程約7㎞
此の日の近鉄ハイキングには、知人と二人で参加、春うららのハイキング日和にうかれつつ。
コース 近鉄駅フリーハイキング 十条駅受付 9時半~11時 歩程約7㎞
十条駅(受付)~吉祥院天満宮~鳥羽伏見の戦い勃発地碑~鳥羽離宮跡~城南宮~白河
天皇陵~竹田駅
後半の竹田駅周辺、白河天皇陵~武田駅以外は初めて訪れるところばかりだったので新鮮。
此の日の私の万歩計は、22220歩で約16.4km歩いたことに・・・
吉祥院天満宮(きっしょういんてんまんぐう)
吉祥院天満宮は京都市南区にある神社で、主祭神は菅原道真公であり、由来によると京都市
上京区の北野天満宮より早い934年(承平4年)に創建された初の天満宮である。菅原家が信
仰する吉祥天を祀る吉祥院を邸内に建立し氏寺としており、菅原道真公生誕の地とされる(生
誕の地には異説もあり)
菅原道真の曽祖父・土師古人(はぜのふるひと)が平安遷都に際し天皇の供として入京し賜っ
た地でここに邸を構えた。祖父の代に菅原へ改姓。祖父・菅原清公が遣唐使として唐へ向かう
途上(もしくは帰国時)、嵐に遭遇しながらも吉祥天女の霊験により難を逃れ、以降菅原家では
吉祥天信仰となる。
清公が帰国後もしくは道真の父・菅原是善が、この地の自邸内に祀り吉祥院とした。これが地
名の由来ともなる。
菅原道真はこの地で845年(承和12年)に誕生し、18歳で転居するまでこの地で過ごしたとされ
る。903年(延喜3年)に道真が大宰府の地で没した後、この地で吉祥院聖廟をおきその霊を祀
る。その後、怨霊鎮魂のために朱雀天皇勅願により、934年(承平4年)この地に社殿を築くなど
して道真公の霊を祀ったことが始まりとなる。
※北野天満宮
北野天満宮(きたのてんまんぐう)は、京都市上京区にある神社。旧称は北野神社。通称として
天神さん・北野さんとも呼ばれる。福岡県太宰府市の太宰府天満宮とともに天神信仰の中心で、
当社から全国各地に勧請が行われている。学問の神として受験生らの信仰を集めている。
延喜3年(903年)、菅原道真が無実の罪で配流された大宰府で没した後、都では落雷などの災
害が相次いだ。これが道真の祟りだとする噂が広まり、御霊信仰と結びついて恐れられた。そこ
で、没後20年目、朝廷は道真の左遷を撤回して官位を復し、正二位を贈った。天慶5年(942年)、
右京七条に住む多治比文子(たじひのあやこ)という少女に託宣があり、5年後にも近江国の神
官の幼児である太郎丸に同様の託宣があった。それに基づいて天暦元年6月9日(947年)、現
在地の北野の地に朝廷によって道真を祀る社殿が造営された。
永延元年(987年)に初めて勅祭が行われ、一条天皇から「北野天満宮天神」の称が贈られた。
鳥羽伏見の戦い勃発地碑へむかう
せせらぎ広場
西高瀬川を渡る
西高瀬川
京都市右京区嵯峨天竜寺角倉町(渡月橋の東、数百メートル)の桂川から取水し、京都市伏
見区下鳥羽上向島町で鴨川に注ぐ。 流路は直線的で、直角に流れる方角を変える。
江戸時代初期に角倉了以により大堰川が開削され、丹波地方と京都の間の水運が確保され、
その大堰川によって運ばれた丹波地方の木材などを、京都側の終点である渡月橋上流から、
市中心部に直接引き込むための運河として、文久3年(1863年)に嵯峨(渡月橋上流)~千本
三条が開削された。 のちの、明治3年(1870年)、当時の京都府が引き継ぐ形で伏見の鴨川
まで開通。運河以外にも、京友禅などの染物の工場から出る排水を流すための下水路として
の役割も担っており、川の色が日によってさまざまな色に変わったといわれている。しかし、鉄
道や道路などの陸運網が発達していくにつれ、利用価値が次第に薄れていき、運河としての
機能を失っていった。
鳥羽離宮跡
伏見区竹田・中島・下鳥羽。平安時代後期に白河・鳥羽・後白河上皇が造営の離宮があり院政
を行ったところ。鳥羽殿とも。東西1.5キロ、南北1キロの広大な敷地に苑池・各殿舎・堂塔が建
ち並んでいた。今は安楽寿院、白河・鳥羽・近衛各天皇陵、城南宮、秋の山(築山)を残すのみ。
史跡公園。市バス城南宮道すぐ。
鳥羽伏見の戦い勃発地碑
大政奉還し大坂城にいた徳川慶喜(1837~1913)は薩摩を討つため上洛を決意、慶応4
(1868)年正月3日,幕府軍本隊を鳥羽街道と伏見街道に分けて京都に進軍した。鳥羽街
道を北上する幕府軍と,これを阻止しようと竹田・城南宮周辺に布陣した官軍は,この地
小枝橋で衝突した。
幕府軍1万5千人と官軍6千人の激しい戦いであった。この石碑は,翌年夏まで続いた戊
辰戦争の発端となった鳥羽伏見戦の勃発地を示すものである。
城南宮
城南宮は、平安遷都(794年)の際に都の南の守護神として創建されたのが始まりとされる。
他にも、かつて、この地にあった城南寺の鎮守社として創建されたのが始まりという説も有る。
祭神は、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、八千矛神(やちほこのかみ)、息長帯比売命
(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)である。
応徳3年(1086年)には、白河上皇が城南離宮を造営し、その鎮守社となる。また、この頃より、
熊野詣の精進所となり方除けの信仰が高まった。
なお、城南宮の神紋は神功皇后の旗印にちなんだ日・月・星を表す三光紋で、方除けの神徳
を表している。そのため、城南宮は、方除け、交通安全、旅行安全の神として信仰されている。
その後、14世紀の南北朝の争乱や応仁の乱(1467年)で荒廃するが、江戸時代に復興された。
水路にも・・・
コケの上にも・・・
此の続きは、
3月9日の春!城南宮「しだれ梅と椿祭り」-2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿します。
http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、未だ未だ城南宮の神苑 梅祭り
椿祭り
曲水の宴も此処で・・・
※曲水の宴
毎年4月29日と11月3日に城南宮の神苑にある平安の庭で曲水の宴が行われる。
平安装束をまとった歌人が庭を流れるせせらぎに座り、川上から流れる盃が目の前
に来るまでに歌を詠み、酒を飲むという平安時代の貴族達の遊びが再現される。
場所を変えて庭園の美・・・
絵で見る明治元年展も・・・
城南宮を後にして
白河天皇陵(しらかわ てんのう)
白河天皇は、第72代天皇(在位:延久4年12月8日(1073年1月18日) - 応徳3年11月26日
(1087年1月3日))。諱を貞仁(さだひと)という。後三条天皇の第一皇子。母は藤原氏閑院
流藤原公成の娘で、藤原能信の養女である藤原茂子。
後冷泉天皇の東宮・尊仁親王(後三条天皇)の第一王子として生まれる。母茂子、外祖父の
能信ともに幼少時に死別し、父尊仁親王は関白の藤原頼通に冷遇されていた。治暦元年
(1065年)に13歳で元服。治暦4年(1068年)、父帝即位とともに親王宣下を受け、貞仁親王
となる。翌延久元年(1069年)立太子。同3年(1071年)に関白藤原師実の養女・藤原賢子が
参入した。延久4年(1072年)、後三条から譲位され、20歳で即位する。関白は置いたが、延
久5年(1073年)の後三条上皇の病没後も、父同様に親政を目指し、荘園整理などに力を入
れ、永保元年(1081年)宇佐神宮境内地に神宝塔院を建立する等、摂関家の権勢を弱める
ことに努める。
北向山不動院
山号は北向山。開山は覚鑁。本尊は重要文化財で康助作の不動明王像。
大治5年(1130年)、病にかかった鳥羽天皇は、その病気平癒の祈祷を自らが帰依している
真言宗の僧覚鑁に行わせたところ、不動明王が出現するなどして天皇は回復した。その後、
天皇は勅命により覚鑁を開山として当寺院を建立し、勅願寺とした。
不動明王を本尊とし、平安京を鎮護する意味もあって不動明王像は北の平安京に向けられ
ている。それによって「北向山」の名が付けられた。
現在の本堂は正徳2年(1712年)に霊元天皇によって東山天皇の御殿を移築したものである。
鐘楼にかかる梵鐘には済深親王の銘があり、元禄7年(1694年)に名越浄味によって鋳造さ
れたものである。
「一願の護摩」といい、不動明王にその願いを聞いていただける、といわれている。
鳥羽天皇陵
鳥羽天皇(とばてんのう、康和5年1月16日(1103年2月24日) - 保元元年7月2日(1156年
7月20日))は平安時代後期の第74代天皇(在位嘉承2年7月19日(1107年8月9日) - 保
安4年正月28日(1123年2月25日))。諱は宗仁(むねひと)。
堀河天皇の皇子。母は贈皇太后・藤原苡子。子の崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の3代
28年に渡り院政を敷いた。
生後間もなく母・苡子が没し、祖父の白河法皇の下に引き取られて養育された。誕生から
7ヶ月で立太子され、父・堀河天皇の死後、5歳で即位する。
幼い鳥羽天皇は政務を執る事ができず、また当時の摂関の藤原忠実は立場が弱く白河法皇
の風下にあり、実際の政務は白河法皇が執った。永久5年(1117年)、白河法皇の養女である
藤原璋子(待賢門院)が入内、翌年には中宮となり5男2女を儲ける。保安4年(1123年)1月
23日、第一皇子・崇徳天皇に譲位、その後も実権は白河法皇が握り続けた。父親の堀河天皇
の在位中は、摂関家や天皇が実権を全て、あるいはある程度は握っていたが、このように鳥
羽天皇の治世において白河院政が本格化した。
冠石(かむりいし)
鳥羽天皇(1103~56)は譲位後,白河上皇(1053~1129)が創建した鳥羽離宮に入り、
殿舎や仏殿を増築した。その際この石の上に冠を置き、これを中心に造営したと伝える。
この石標は、鳥羽離宮の冠石を示すものである。
此処も鳥羽離宮跡
伏見区竹田・中島・下鳥羽。平安時代後期に白河・鳥羽・後白河上皇が造営の離宮があり院政
を行ったところ。鳥羽殿とも。東西1.5キロ、南北1キロの広大な敷地に苑池・各殿舎・堂塔が建
ち並んでいた。今は安楽寿院、白河・鳥羽・近衛各天皇陵、城南宮、秋の山(築山)を残すのみ。
近衛天皇陵
近衛天皇(このえてんのう、保延5年5月18日(1139年6月16日)- 久寿2年7月23日(1155年
8月22日))は、日本の第76代天皇(在位:永治元年12月7日(1142年1月5日) - 久寿2年7月
23日(1155年8月22日))。諱は躰仁(なりひと)。
鳥羽天皇の第九皇子。母は藤原得子(美福門院)。
治天の君であった鳥羽上皇と、寵妃の得子(美福門院)の皇子として生まれる。父の鳥羽上
皇に即位を望まれ、生後1か月余りの6月27日、異母兄の崇徳天皇と中宮・藤原聖子の養子
となり、天皇の御所・小六条殿に参入。同年7月16日に親王宣下され、8月17日に立太子。
翌々年の永治元年(1141年)12月、わずか3歳(満2歳)で崇徳天皇の譲位を受けて即位した。
在位中は鳥羽法皇が院政を敷いた。
安楽寿院
真言宗智山派。1137年(保延3)鳥羽上皇が鳥羽殿に御堂を建立、阿弥陀三尊像を安置した
のに始まる。慶長年間(1596-1615)、豊臣秀頼が復興したが、再び荒廃。
現在の庫裡は塔頭前松院であった建物。本尊阿弥陀如来坐像(重文)、石造五輪塔(重文)、
絹本着色孔雀明王像(重文)などの文化財を所蔵。建立:1137(保延3)年
竹田駅~帰る