3月14日の日本最古の官道と当麻寺&大倉本家-1
3月25日 3月14日の日本最古の官道と当麻寺&大倉本家ー1
歴史探訪の会 例会 歩程約7㎞
第61回歴史探訪の会(3月度例会) 近鉄磐城駅(受付) 10時集合
近鉄磐城駅(受付)~竹之内街道・長尾神社~竹之内街道~長尾街道~当麻寺~
石光寺~高雄寺~ゆうあいステーション(昼食)~田園地帯~大倉本家(利き酒 有
料)・集合写真撮影~当麻寺駅(2時半頃)
石光寺 拝観料@300円 JAFカード割引@270円 大倉本家 利き酒3種@500円
此の日の私の万歩計は、2446歩で約15.1km歩いたことに・・・
近鉄磐城駅(受付)
竹之内街道
大阪府堺市から東へ向かい、二上山の南麓・竹内峠を越えて、長尾神社付近に至る
約26kmの街道で、推古天皇21年に開通した飛鳥の都と難波を結ぶ、最古の官道で
す。沿道には古社寺や旧跡が多く、かつては旅人を泊めるための宿場町として栄え
ました。松尾芭蕉が訪れた地として有名で、沿道の綿弓塚には芭蕉の歌碑が建立さ
れており、俳人の憩いの場となっています。また司馬遼太郎(しばりょうたろう)氏の母
の実家が竹内にあったため、氏は幼少期をこの地で過ごしました。その著書『街道を
ゆく』の中でも竹内街道のことを語っています。
長尾神社
葛城市長尾に鎮座する長尾神社では、御祭神は水光姫命(みひかひめのみこと)と
白雲別命(しらくもわけのみこと)が祀られています。
当社の創建は明らかではありませんが、平安時代の書物である「三代実録」や「延喜
式(えんぎしき)」神名帳にも記載される葛下郡の式内社で、とても古い歴史を持つ神
社です。また放光寺古今縁起(ほうこうじここんえんぎ)(1443年)には、飛鳥時代に
天武天皇が壬申の乱で勝利したことから、その報賽(ほうさい)としてこの地を神地と
定められたと記されています。古代においてこの長尾神社の場所は、大阪方面から
竹内街道を通って大和へ入り、飛鳥の藤原京に至る古代の大道「横大路」の西側の
入口となる所であり、重要な場所に社地を構えていました。そして現代に至っても、こ
の長尾の地は竹内街道や長尾街道などの主要な街道が集まり交差する、交通の要
衝であることから、この街道を行き交う人々の守護神、いわゆる交通安全の神様とし
ても、厚く信仰されています。
竹之内街道&長尾街道
長尾街道
長尾街道は紀州街道の堺戎之町を起点とする「日本書紀」の天武天皇元年(672年)
7月条の壬申の乱における戦いの記述中に見える「大津道」であるといわれる古道
です。長尾神社の手前で竹之内街道に合流する。
当麻寺へ向かう
此の続きは、
3月14日の日本最古の官道と当麻寺&大倉本家-2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿します。
http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、当麻寺~
当麻寺
當麻寺(たいまでら、常用漢字体:当麻寺)は、奈良県葛城市にある7世紀創建の寺院。
法号は「禅林寺」。山号は「二上山」。創建時の本尊は弥勒仏(金堂)であるが、現在信
仰の中心となっているのは当麻曼荼羅(本堂)である。宗派は高野山真言宗と浄土宗の
並立となっている。開基(創立者)は聖徳太子の異母弟・麻呂古王とされるが、草創につ
いては不明な点が多い。
西方極楽浄土の様子を表した「当麻曼荼羅」の信仰と、曼荼羅にまつわる中将姫伝説で
知られる古寺である。毎年5月14日に行われる練供養会式(ねりくようえしき)には多くの
見物人が集まるが、この行事も当麻曼荼羅と中将姫にかかわるものである。奈良時代 -
平安時代初期建立の2基の三重塔(東塔・西塔)があり、近世以前建立の東西両搭が残
る日本唯一の寺としても知られる
※中将姫伝説
今は昔、藤原鎌足の曽孫である藤原豊成には美しい姫があった。後に中将姫と呼ばれる
ようになる、この美しく聡明な姫は、幼い時に実の母を亡くし、意地悪な継母に育てられた。
中将姫はこの継母から執拗ないじめを受け、ついには無実の罪で殺されかける。ところが、
姫の殺害を命じられていた藤原豊成家の従者は、極楽往生を願い一心に読経する姫の姿
を見て、どうしても刀を振り下ろすことができず、姫を「ひばり山」というところに置き去りにし
てきた。その後、改心した父・豊成と再会した中将姫はいったんは都に戻るものの、やがて
當麻寺で出家し、ひたすら極楽往生を願うのであった。姫が五色の蓮糸を用い、一夜にし
て織り上げたのが、名高い「当麻曼荼羅」である。姫が蓮の茎から取った糸を井戸に浸すと、
たちまち五色に染め上がった。當麻寺の近くの石光寺に残る「染の井」がその井戸である。
姫が29歳の時、生身の阿弥陀仏と二十五菩薩が現れ、姫は西方極楽浄土へと旅立ったの
であった。
石光寺
別名「染寺(そめでら)」とも呼ばれ、中将姫(747〜775)ゆかりの「染の井」と「糸掛桜」がある。
右大臣藤原豊成(704〜765)の娘、中将姫は美貌で知られたが、 17歳で出家、当麻寺にこ
もるうち霊感を得て蓮の茎を集め、糸を採り出した。 そして石光寺の庭に 井戸を掘り、糸を
浸したところ五色に染まった。 それが染の井で、傍らの桜の枝にかけ たのが糸掛け桜。中
将姫はその蓮糸で一夜のうちに当麻曼茶羅を織りあげたという伝説がある。 境内には牡丹、
芍薬、アジサイ、桜、さるすべりなど、四季おりおりの花が あります。
※ミツマタ
ミツマタは、中国・ヒマラヤ地方が原産地とされていて、ジンチョウゲ科ミツマタ属の冬に葉
を落とす落葉低木です。新芽が芽吹く前の2月~4月にかけて枝先に花だけが開花し、早
春を告げる花として親しまれてきました。その小さい花の姿は、びらはなく銀色の綿毛に覆
われており、かわいらしい黄色の花がボンボンのように丸く密集した状態で咲きます。
蜂の巣をぶらさげたように下を向いて咲く花には芳香があり、その香りは春の訪れを連想
させるような、甘酸っぱい可憐な香りです。
高雄寺
役行者が開創し、院政時代には御願寺であったとされるが不詳。また、「高尾千軒」といった
ほど大きなお寺だったと伝わるが、今は収蔵庫と鐘楼を残すのみである。 かつては真言系
のお寺だったらしいが、現在は浄土真宗。 本堂が平成11年に焼失して以来、再建されてい
ないお寺です。
ゆうあいステーション(昼食)
田園地帯~大倉本家へ
大倉本家(利き酒 有料)
明治29年(1896年) 大倉勝治商店として創業。
以来、吟醸酒には「速醸酒母」も用いますが、それ以外は普通酒に至るまで、すべて
山廃酒母で仕込んでいます。昭和7年頃より 奈良県神社庁の委託を受け、「御神酒」
造りが始まりました。3代目勝彦のときに 特定名称酒醸造を開始しました。
地元で強い地盤を持たさせていただけ、最盛期は年間6000石近い販売量がありまし
た。この間 全国新酒品評会で金賞をいただいたこと数回。しかし、諸々の事情で平成
12年秋の濁酒の仕込みを最後に、休造を決断します。
平成15年度原料米申し込み期限の前日でした。11月中旬、長年「金鼓」で指揮をとっ
て下さっていた杜氏の皆さんが蔵入り。3年ぶりに酒造りを再開させて頂くことになり
ました。
当麻寺駅
歴史探訪の会 例会 歩程約7㎞
第61回歴史探訪の会(3月度例会) 近鉄磐城駅(受付) 10時集合
近鉄磐城駅(受付)~竹之内街道・長尾神社~竹之内街道~長尾街道~当麻寺~
石光寺~高雄寺~ゆうあいステーション(昼食)~田園地帯~大倉本家(利き酒 有
料)・集合写真撮影~当麻寺駅(2時半頃)
石光寺 拝観料@300円 JAFカード割引@270円 大倉本家 利き酒3種@500円
此の日の私の万歩計は、2446歩で約15.1km歩いたことに・・・
近鉄磐城駅(受付)
竹之内街道
大阪府堺市から東へ向かい、二上山の南麓・竹内峠を越えて、長尾神社付近に至る
約26kmの街道で、推古天皇21年に開通した飛鳥の都と難波を結ぶ、最古の官道で
す。沿道には古社寺や旧跡が多く、かつては旅人を泊めるための宿場町として栄え
ました。松尾芭蕉が訪れた地として有名で、沿道の綿弓塚には芭蕉の歌碑が建立さ
れており、俳人の憩いの場となっています。また司馬遼太郎(しばりょうたろう)氏の母
の実家が竹内にあったため、氏は幼少期をこの地で過ごしました。その著書『街道を
ゆく』の中でも竹内街道のことを語っています。
長尾神社
葛城市長尾に鎮座する長尾神社では、御祭神は水光姫命(みひかひめのみこと)と
白雲別命(しらくもわけのみこと)が祀られています。
当社の創建は明らかではありませんが、平安時代の書物である「三代実録」や「延喜
式(えんぎしき)」神名帳にも記載される葛下郡の式内社で、とても古い歴史を持つ神
社です。また放光寺古今縁起(ほうこうじここんえんぎ)(1443年)には、飛鳥時代に
天武天皇が壬申の乱で勝利したことから、その報賽(ほうさい)としてこの地を神地と
定められたと記されています。古代においてこの長尾神社の場所は、大阪方面から
竹内街道を通って大和へ入り、飛鳥の藤原京に至る古代の大道「横大路」の西側の
入口となる所であり、重要な場所に社地を構えていました。そして現代に至っても、こ
の長尾の地は竹内街道や長尾街道などの主要な街道が集まり交差する、交通の要
衝であることから、この街道を行き交う人々の守護神、いわゆる交通安全の神様とし
ても、厚く信仰されています。
竹之内街道&長尾街道
長尾街道
長尾街道は紀州街道の堺戎之町を起点とする「日本書紀」の天武天皇元年(672年)
7月条の壬申の乱における戦いの記述中に見える「大津道」であるといわれる古道
です。長尾神社の手前で竹之内街道に合流する。
当麻寺へ向かう
此の続きは、
3月14日の日本最古の官道と当麻寺&大倉本家-2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿します。
http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、当麻寺~
当麻寺
當麻寺(たいまでら、常用漢字体:当麻寺)は、奈良県葛城市にある7世紀創建の寺院。
法号は「禅林寺」。山号は「二上山」。創建時の本尊は弥勒仏(金堂)であるが、現在信
仰の中心となっているのは当麻曼荼羅(本堂)である。宗派は高野山真言宗と浄土宗の
並立となっている。開基(創立者)は聖徳太子の異母弟・麻呂古王とされるが、草創につ
いては不明な点が多い。
西方極楽浄土の様子を表した「当麻曼荼羅」の信仰と、曼荼羅にまつわる中将姫伝説で
知られる古寺である。毎年5月14日に行われる練供養会式(ねりくようえしき)には多くの
見物人が集まるが、この行事も当麻曼荼羅と中将姫にかかわるものである。奈良時代 -
平安時代初期建立の2基の三重塔(東塔・西塔)があり、近世以前建立の東西両搭が残
る日本唯一の寺としても知られる
※中将姫伝説
今は昔、藤原鎌足の曽孫である藤原豊成には美しい姫があった。後に中将姫と呼ばれる
ようになる、この美しく聡明な姫は、幼い時に実の母を亡くし、意地悪な継母に育てられた。
中将姫はこの継母から執拗ないじめを受け、ついには無実の罪で殺されかける。ところが、
姫の殺害を命じられていた藤原豊成家の従者は、極楽往生を願い一心に読経する姫の姿
を見て、どうしても刀を振り下ろすことができず、姫を「ひばり山」というところに置き去りにし
てきた。その後、改心した父・豊成と再会した中将姫はいったんは都に戻るものの、やがて
當麻寺で出家し、ひたすら極楽往生を願うのであった。姫が五色の蓮糸を用い、一夜にし
て織り上げたのが、名高い「当麻曼荼羅」である。姫が蓮の茎から取った糸を井戸に浸すと、
たちまち五色に染め上がった。當麻寺の近くの石光寺に残る「染の井」がその井戸である。
姫が29歳の時、生身の阿弥陀仏と二十五菩薩が現れ、姫は西方極楽浄土へと旅立ったの
であった。
石光寺
別名「染寺(そめでら)」とも呼ばれ、中将姫(747〜775)ゆかりの「染の井」と「糸掛桜」がある。
右大臣藤原豊成(704〜765)の娘、中将姫は美貌で知られたが、 17歳で出家、当麻寺にこ
もるうち霊感を得て蓮の茎を集め、糸を採り出した。 そして石光寺の庭に 井戸を掘り、糸を
浸したところ五色に染まった。 それが染の井で、傍らの桜の枝にかけ たのが糸掛け桜。中
将姫はその蓮糸で一夜のうちに当麻曼茶羅を織りあげたという伝説がある。 境内には牡丹、
芍薬、アジサイ、桜、さるすべりなど、四季おりおりの花が あります。
※ミツマタ
ミツマタは、中国・ヒマラヤ地方が原産地とされていて、ジンチョウゲ科ミツマタ属の冬に葉
を落とす落葉低木です。新芽が芽吹く前の2月~4月にかけて枝先に花だけが開花し、早
春を告げる花として親しまれてきました。その小さい花の姿は、びらはなく銀色の綿毛に覆
われており、かわいらしい黄色の花がボンボンのように丸く密集した状態で咲きます。
蜂の巣をぶらさげたように下を向いて咲く花には芳香があり、その香りは春の訪れを連想
させるような、甘酸っぱい可憐な香りです。
高雄寺
役行者が開創し、院政時代には御願寺であったとされるが不詳。また、「高尾千軒」といった
ほど大きなお寺だったと伝わるが、今は収蔵庫と鐘楼を残すのみである。 かつては真言系
のお寺だったらしいが、現在は浄土真宗。 本堂が平成11年に焼失して以来、再建されてい
ないお寺です。
ゆうあいステーション(昼食)
田園地帯~大倉本家へ
大倉本家(利き酒 有料)
明治29年(1896年) 大倉勝治商店として創業。
以来、吟醸酒には「速醸酒母」も用いますが、それ以外は普通酒に至るまで、すべて
山廃酒母で仕込んでいます。昭和7年頃より 奈良県神社庁の委託を受け、「御神酒」
造りが始まりました。3代目勝彦のときに 特定名称酒醸造を開始しました。
地元で強い地盤を持たさせていただけ、最盛期は年間6000石近い販売量がありまし
た。この間 全国新酒品評会で金賞をいただいたこと数回。しかし、諸々の事情で平成
12年秋の濁酒の仕込みを最後に、休造を決断します。
平成15年度原料米申し込み期限の前日でした。11月中旬、長年「金鼓」で指揮をとっ
て下さっていた杜氏の皆さんが蔵入り。3年ぶりに酒造りを再開させて頂くことになり
ました。
当麻寺駅