3月23日の昼飲み会ハイキング 柏原・八尾史跡巡り-1
4月1日 3月23日の昼飲み会ハイキング 柏原・八尾史跡巡り-1
近鉄てくてマップ大阪⑬河内国分駅~
此の日は、K場さんS籐さんM吉さんと田原の4名で思ってたよりも登り坂を歩く羽目に。
コース 河内国分駅集合10時スタート 歩程約10km
近鉄てくてマップ大阪⑬柏原・八尾史跡巡り 河内国分駅でスタンプ~高安駅迄
河内国分駅(スタンプ)~高井田~歴史の丘展望台公園~鐸比古鐸比賣神社~恩地城
跡~安養寺~権現社~高安駅 ⇒鶴橋駅 ⇒天王寺駅 湯処・あべの橋
昼飲み会に参加メンバーと待ち合わせ6名で居酒屋へ 14:50 551蓬莱前 ⇒甘太郎
此の日の私の万歩計は、25214歩で約18.6km歩いたことに・・・
志都美駅
香芝駅~近鉄下田駅へ
香芝駅
鹿島神社
祭ってあるのは、「武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)」で、ふつう「鹿島大明神
(か しまだいみょうじん)」という。この神社は、承安(しょうあん)1(1172 )年に源義朝
(みなもとのよしとも)の家来であった鎌田小次郎政光が常陸国(ひたちのくに)(現茨
城県)の鹿島本宮の神を連れてきたのが始まりという記録がある。伝承ではその時村
人は塩餅 (しおもち)や押し飯(おしめし)を作り、大喜びでお祭りしたという。
鹿島神社には、昔から「結鎮座」(けいちんざ)と呼ばれる氏子(うじこ)の集団(宮座)
があり、鎌倉時代の初期から記録が残されている。これは、約800年間にわたる独特
の伝統をもって今も生き続けている。日本の古い神社や寺には貴重な古文書がたくさ
ん伝わっているが、民間の宮座記録としてはこの「鹿島神社文書」(かしまじんじゃもん
じょ)が最も古い。昭和37年には奈良県指定文化財となり、現在は奈良国立博物館で
保管されている。
下田駅~河内国分駅
下田駅
国豊橋を渡る
宿奈川田神社(すくなかわたじんじゃ)
大阪府柏原市にある式内社で、地元では通称 白坂神社(しらさかじんじゃ)と呼ば
れ、地図や看板でもそのように表記されている。
宿奈彦根命・高皇産霊命・級戸辺命を主祭神とする。『神社覈録』や『特選神名牒』
では「祭神不詳」となっている。
創建の由緒は不詳である。近くにある天湯川田神社(柏原市高井田89)とともに、
当地を拠点としていた鳥取連が祖神を祀ったものとみられる。弘仁式の時から官社
となっており、延喜式神名帳に「河内国大県郡 宿奈川田神社」と記載され、小社に
列している。中世には「白坂大明神」と称していた。
高井田横穴公園
JR高井田駅の北側にある国の史跡・高井田横穴群を保存・公開する公園。高井田横
穴は、凝灰岩の岩盤に洞窟を掘って築造された古代の墓で、6世紀中頃から7世紀前
半にかけて造られ、総数は200基以上にのぼると考えられている。大正時代、洞窟の
壁に人・鳥・馬などを刻んだ線刻壁画が発見され、一躍有名に。また近年では、平成
元年から始まった公園整備の調査中、高井田山古墳が発見され、古代のアイロン
「火熨斗(ひのし)」や鏡、冑、甲などが出土。この古墳は、5世紀の終わり頃に造られ
たと推定されている。公園の遊歩道に沿って歩くと、横穴や透明の屋根をかけた高井
田山古墳、出土品のレプリカが見学できる。園内には市立歴史資料館もある。
高井田山古墳
歴史資料館
観音寺へ向かう
あけび?
観音寺
観音寺は、かってこの地にあった智識寺の法灯を継ぐと伝え、その縁起は後鳥羽院
(在位:1183~ 98年)の時、源頼朝が勅を奉じて、2寺を合わせて1ヵ寺としたとい
う。智識寺は奈良時代の創建で、7堂伽藍を備えた河内6大寺の1つで、聖武天皇や
孝謙(称徳)天皇の行幸、礼仏で知られる。聖武天皇は740年(天平元年)に行幸、
当時としては日本最大であった丈六の大仏を見た感動から東大寺大仏の造立発願
の契機となったいわれる。智識寺は1086年(応徳3年)の落雷のため倒壊、以後再
建されることはなかった。
観音寺にはこの智識寺の経机が所蔵されている。経机の制作年代は不明であるが
奈良・平安を通し、河内における大寺として知られた智識寺の唯一の遺品ともいえる
だけに貴重な物といえる。
鐸比古鐸比賣神社へ向う
鐸比古鐸比賣神社
河内国大県郡(柏原市平野、大県地区)の氏神であり、背後にそびえる高尾山(標高:
278m)を神体山・磐座としている。 神社縁起によると創建は成務天皇二十一年(151
年)とされるが、実際の年代は不明。 祭神は「鐸比古命」「鐸比売命」。 鐸比古命は垂
仁天皇の子であり、「沼滞別命」「鐸石別命」と同人とされる。 和気清麻呂の遠祖であり
、鐸比古命を祭神とするのは日本全国でもここと岡山県の和気神社のみとされている。
此の続きは、
3月23日の昼飲み会ハイキング 柏原・八尾史跡巡り-2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿します。
http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、恩地城へ向かう~
若倭彦神社へ向う
若倭彦神社
柏原市平野地区の産土神で式内社です。
創建年代は不詳のようですが、6世紀頃この地で勢力を持っていた若倭部ノ連が、祖神
である若倭彦命を祀ったのが創始の様です。若倭姫神社も同様だそうです。
別名を「あかざ八幡」と言います。
古記録には「貞観2年(859)従五位下を授く」「延喜の制に小社に列せられ祈年祭並に鍬
一口を奉る」とあります。
若倭姫神社とともに、明治41年に鐸比古鐸比売神社に合祀されましたが、戦後独立し
現在地に復座しました。現社地は極狭い境内地となっていますが、昔は、境内も広大で
老松が境内の周囲を天を摩するごとく覆っていたようです。それが明治維新後に現在の
ように小さくなったと伝えられています。
瑠璃光禅寺へ向かう
瑠璃光禅寺(るりこうじ)
瑠璃光寺は、大阪府柏原市山ノ井町にある仏教寺院。曹洞宗永平寺の末寺で山号は
「医王山」。 正式には「医王山 薬師院 瑠璃光禅寺」と称する。
天平年間に行基が開創、本尊の薬師如来像は行基の作と伝わる。かつては『七堂伽藍
を具備せし巨刹なり』といわれ、大規模な寺院だったが、織田信長の信貴山城攻略の際
に兵火に遇い、その後慶安四年(1651年)に再建されるも往時のような規模にはならず、
境内は縮小して現在は敷地わずか123坪となり、本堂、庫裏、廊下および不動堂がある
のみとなっている。
本堂には本尊とともに、焼けただれた四体の四天王像が安置されている。一木添木式の
木像で、いずれも両腕と持仏が焼失しているものの高さは1mほどあり、平安時代の作。
境内奥に「日露戦勝記念碑」および「高田川音吉碑」がある。高田川は山ノ井出身で、碑
は昭和4年(1929年)に建立された。 境内南には式内社である若倭姫命神社がある。
若倭姫神社
創建は不詳ですが、「若倭彦神社」同様、6世紀頃この地で勢力を持っていた、若倭部
連氏の祖神である若倭姫命を祀ったのが創始であろうといわれています。式内社で、
若倭姫命を御祭神としています。「式内社調査報告」では、若倭姫神社は中世、醫王山
薬師寺(瑠璃光寺)の鎮守社となったと記されているそうです。若倭彦神社同様、明治
41年鐸比古鐸比売神社に合祀されましたが、昭和22年元地に復座しました。本殿裏の
岩壁は磐座ではないかという説があるようです。
山井寺
融通念仏宗 (ゆうずうねんぶつしゅう)
八王子神社
式内社で常世岐姫神社といったが地元では八王子神社として親しまれている。 古記録
によれば宝亀七年(七七六)の夏河内國大県郡の人正六位上、赤染人足ら十三人に常
世岐の姓を与えたという。 この赤染とは茜染のことでこのあたりの人々が茜染めをやっ
ていたことがわかりこの人々の祖神を祭ったものであろう。 今は安産の神として名高い。
※常世岐姫神社(とこよきひめじんじゃ)
常世岐姫神社は、燕王公孫淵を祖と称する常世氏が信奉する神(常世岐姫神)を祀る神
社であり、日本全国に数社ある。大阪府八尾市神宮寺にある神社が本宮であるとされる。
シュミイ地蔵
名前の由来はわからないが、地元恩智の有志が結集して菩提追善のため、彼岸の中
日に建立したものである。高さ136センチ、幅67センチ材質は花崗岩である。像の左右に次
の銘文がようやく読みとれる。良盛長盛道梁妙見也阿常助宗 父道善宗恩道明為脩門
道妙□阿妙法 天文十三年甲辰八月時正 河内国恩智□逆修一結衆 敬白
恩地城址(おんぢじょうし)
恩智城は中世この地の豪族恩智左近満一が築いた。自然の高地を利用した城郭で高
安連峰との間に堀をめくらせ前方に大阪平野を一望のもとにおさめた。堀の中にかつ
ては小島があったがそれはむかしの一の丸で現在の城址は二の丸の址という。
正平三年(一三四八)四條畷の戦いで楠木正行が戦死し恩智城も落ちた。学制領布
のときここに小学校が新築され、今では桜の名所として知られている。
安養寺へ向かう
安養寺(あんようじ)
この地は恩智字向谷といい、本寺裏山の通稱垣内山のすぐ裏手の山裾から大正10年
(1921)風雨のため山崩れが生じその赤土露出部より流水紋銅鐸が発見された。流水
紋様は弥生時代前期から中期にかけて近畿を中心に流行した流水紋土器に見られ、
この鐸もその影響を受け作られたものであろう。 銅鐸は現在東京博物館にありその
拓本が当寺にある。安養寺は浄土宗で本尊は阿弥陀如来である。【
権現社(ごんげんしゃ)
権現社の沿革
神社明細書には「慶長年間(1596~1614)に、熊野権現を勧請した」と書かれている。
寛政2年(1790)意満寺の南西端にあった愛宕神社を合祀した。境内にある古い灯籠
南部にある一基は元禄13年(1700) 拝殿前の二基は宝暦2年(1752)
権現社(ごんげんしゃ)
黒谷地区の氏神で、熊野神社とも言う。熊野権現を祀る。明治5年に教興寺村の天照
大神高座神社に合祀されたが、今はもどる。信貴山へ登る古道(信貴道)が神社の南
側を通って山道となる。今は、この古道はほとんど消えている。丁石は寛政13年
(1801)のものが、寺池そばの三丁石から始まって四、六、七丁石と残っている。
※信貴道道標と丁石
旧高野街道の教興寺四つ辻は、高安信貴山道の起点であり道標が2本建っている。南
西角の寺川家前の道標は、宝永5年(1708)のもので、市内の建設年次を記した道標と
しては一番古いものである。南東角の浅田家前の道標は、元治1年(1864)のもので、
いずれも信貴山案内のものである。参詣道には一丁毎に丁石が建てられ、今も十数本
の丁石が残っていて昔をしのばせる。
高安駅へ向かう
恩智川
高安駅
湯処・あべの橋
天然温泉・・・大阪市港区の『天然温泉テルメ龍宮』から毎日搬送しています。
源泉名 龍宮温泉 1号 阪市港区2丁目3番33号 深さ 1,500m
泉質 ナトリウム塩化物強塩温泉 泉温 摂氏53.9度(浴槽温度40~42℃)
効能 ・神経痛・筋肉痛・関節・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・打ち身・くじき
・慢性消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進・切り傷
・やけど・慢性皮膚病・虚弱体質・慢性婦人病
居酒屋へ
居酒屋
甘太郎
近鉄てくてマップ大阪⑬河内国分駅~
此の日は、K場さんS籐さんM吉さんと田原の4名で思ってたよりも登り坂を歩く羽目に。
コース 河内国分駅集合10時スタート 歩程約10km
近鉄てくてマップ大阪⑬柏原・八尾史跡巡り 河内国分駅でスタンプ~高安駅迄
河内国分駅(スタンプ)~高井田~歴史の丘展望台公園~鐸比古鐸比賣神社~恩地城
跡~安養寺~権現社~高安駅 ⇒鶴橋駅 ⇒天王寺駅 湯処・あべの橋
昼飲み会に参加メンバーと待ち合わせ6名で居酒屋へ 14:50 551蓬莱前 ⇒甘太郎
此の日の私の万歩計は、25214歩で約18.6km歩いたことに・・・
志都美駅
香芝駅~近鉄下田駅へ
香芝駅
鹿島神社
祭ってあるのは、「武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)」で、ふつう「鹿島大明神
(か しまだいみょうじん)」という。この神社は、承安(しょうあん)1(1172 )年に源義朝
(みなもとのよしとも)の家来であった鎌田小次郎政光が常陸国(ひたちのくに)(現茨
城県)の鹿島本宮の神を連れてきたのが始まりという記録がある。伝承ではその時村
人は塩餅 (しおもち)や押し飯(おしめし)を作り、大喜びでお祭りしたという。
鹿島神社には、昔から「結鎮座」(けいちんざ)と呼ばれる氏子(うじこ)の集団(宮座)
があり、鎌倉時代の初期から記録が残されている。これは、約800年間にわたる独特
の伝統をもって今も生き続けている。日本の古い神社や寺には貴重な古文書がたくさ
ん伝わっているが、民間の宮座記録としてはこの「鹿島神社文書」(かしまじんじゃもん
じょ)が最も古い。昭和37年には奈良県指定文化財となり、現在は奈良国立博物館で
保管されている。
下田駅~河内国分駅
下田駅
国豊橋を渡る
宿奈川田神社(すくなかわたじんじゃ)
大阪府柏原市にある式内社で、地元では通称 白坂神社(しらさかじんじゃ)と呼ば
れ、地図や看板でもそのように表記されている。
宿奈彦根命・高皇産霊命・級戸辺命を主祭神とする。『神社覈録』や『特選神名牒』
では「祭神不詳」となっている。
創建の由緒は不詳である。近くにある天湯川田神社(柏原市高井田89)とともに、
当地を拠点としていた鳥取連が祖神を祀ったものとみられる。弘仁式の時から官社
となっており、延喜式神名帳に「河内国大県郡 宿奈川田神社」と記載され、小社に
列している。中世には「白坂大明神」と称していた。
高井田横穴公園
JR高井田駅の北側にある国の史跡・高井田横穴群を保存・公開する公園。高井田横
穴は、凝灰岩の岩盤に洞窟を掘って築造された古代の墓で、6世紀中頃から7世紀前
半にかけて造られ、総数は200基以上にのぼると考えられている。大正時代、洞窟の
壁に人・鳥・馬などを刻んだ線刻壁画が発見され、一躍有名に。また近年では、平成
元年から始まった公園整備の調査中、高井田山古墳が発見され、古代のアイロン
「火熨斗(ひのし)」や鏡、冑、甲などが出土。この古墳は、5世紀の終わり頃に造られ
たと推定されている。公園の遊歩道に沿って歩くと、横穴や透明の屋根をかけた高井
田山古墳、出土品のレプリカが見学できる。園内には市立歴史資料館もある。
高井田山古墳
歴史資料館
観音寺へ向かう
あけび?
観音寺
観音寺は、かってこの地にあった智識寺の法灯を継ぐと伝え、その縁起は後鳥羽院
(在位:1183~ 98年)の時、源頼朝が勅を奉じて、2寺を合わせて1ヵ寺としたとい
う。智識寺は奈良時代の創建で、7堂伽藍を備えた河内6大寺の1つで、聖武天皇や
孝謙(称徳)天皇の行幸、礼仏で知られる。聖武天皇は740年(天平元年)に行幸、
当時としては日本最大であった丈六の大仏を見た感動から東大寺大仏の造立発願
の契機となったいわれる。智識寺は1086年(応徳3年)の落雷のため倒壊、以後再
建されることはなかった。
観音寺にはこの智識寺の経机が所蔵されている。経机の制作年代は不明であるが
奈良・平安を通し、河内における大寺として知られた智識寺の唯一の遺品ともいえる
だけに貴重な物といえる。
鐸比古鐸比賣神社へ向う
鐸比古鐸比賣神社
河内国大県郡(柏原市平野、大県地区)の氏神であり、背後にそびえる高尾山(標高:
278m)を神体山・磐座としている。 神社縁起によると創建は成務天皇二十一年(151
年)とされるが、実際の年代は不明。 祭神は「鐸比古命」「鐸比売命」。 鐸比古命は垂
仁天皇の子であり、「沼滞別命」「鐸石別命」と同人とされる。 和気清麻呂の遠祖であり
、鐸比古命を祭神とするのは日本全国でもここと岡山県の和気神社のみとされている。
此の続きは、
3月23日の昼飲み会ハイキング 柏原・八尾史跡巡り-2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿します。
http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、恩地城へ向かう~
若倭彦神社へ向う
若倭彦神社
柏原市平野地区の産土神で式内社です。
創建年代は不詳のようですが、6世紀頃この地で勢力を持っていた若倭部ノ連が、祖神
である若倭彦命を祀ったのが創始の様です。若倭姫神社も同様だそうです。
別名を「あかざ八幡」と言います。
古記録には「貞観2年(859)従五位下を授く」「延喜の制に小社に列せられ祈年祭並に鍬
一口を奉る」とあります。
若倭姫神社とともに、明治41年に鐸比古鐸比売神社に合祀されましたが、戦後独立し
現在地に復座しました。現社地は極狭い境内地となっていますが、昔は、境内も広大で
老松が境内の周囲を天を摩するごとく覆っていたようです。それが明治維新後に現在の
ように小さくなったと伝えられています。
瑠璃光禅寺へ向かう
瑠璃光禅寺(るりこうじ)
瑠璃光寺は、大阪府柏原市山ノ井町にある仏教寺院。曹洞宗永平寺の末寺で山号は
「医王山」。 正式には「医王山 薬師院 瑠璃光禅寺」と称する。
天平年間に行基が開創、本尊の薬師如来像は行基の作と伝わる。かつては『七堂伽藍
を具備せし巨刹なり』といわれ、大規模な寺院だったが、織田信長の信貴山城攻略の際
に兵火に遇い、その後慶安四年(1651年)に再建されるも往時のような規模にはならず、
境内は縮小して現在は敷地わずか123坪となり、本堂、庫裏、廊下および不動堂がある
のみとなっている。
本堂には本尊とともに、焼けただれた四体の四天王像が安置されている。一木添木式の
木像で、いずれも両腕と持仏が焼失しているものの高さは1mほどあり、平安時代の作。
境内奥に「日露戦勝記念碑」および「高田川音吉碑」がある。高田川は山ノ井出身で、碑
は昭和4年(1929年)に建立された。 境内南には式内社である若倭姫命神社がある。
若倭姫神社
創建は不詳ですが、「若倭彦神社」同様、6世紀頃この地で勢力を持っていた、若倭部
連氏の祖神である若倭姫命を祀ったのが創始であろうといわれています。式内社で、
若倭姫命を御祭神としています。「式内社調査報告」では、若倭姫神社は中世、醫王山
薬師寺(瑠璃光寺)の鎮守社となったと記されているそうです。若倭彦神社同様、明治
41年鐸比古鐸比売神社に合祀されましたが、昭和22年元地に復座しました。本殿裏の
岩壁は磐座ではないかという説があるようです。
山井寺
融通念仏宗 (ゆうずうねんぶつしゅう)
八王子神社
式内社で常世岐姫神社といったが地元では八王子神社として親しまれている。 古記録
によれば宝亀七年(七七六)の夏河内國大県郡の人正六位上、赤染人足ら十三人に常
世岐の姓を与えたという。 この赤染とは茜染のことでこのあたりの人々が茜染めをやっ
ていたことがわかりこの人々の祖神を祭ったものであろう。 今は安産の神として名高い。
※常世岐姫神社(とこよきひめじんじゃ)
常世岐姫神社は、燕王公孫淵を祖と称する常世氏が信奉する神(常世岐姫神)を祀る神
社であり、日本全国に数社ある。大阪府八尾市神宮寺にある神社が本宮であるとされる。
シュミイ地蔵
名前の由来はわからないが、地元恩智の有志が結集して菩提追善のため、彼岸の中
日に建立したものである。高さ136センチ、幅67センチ材質は花崗岩である。像の左右に次
の銘文がようやく読みとれる。良盛長盛道梁妙見也阿常助宗 父道善宗恩道明為脩門
道妙□阿妙法 天文十三年甲辰八月時正 河内国恩智□逆修一結衆 敬白
恩地城址(おんぢじょうし)
恩智城は中世この地の豪族恩智左近満一が築いた。自然の高地を利用した城郭で高
安連峰との間に堀をめくらせ前方に大阪平野を一望のもとにおさめた。堀の中にかつ
ては小島があったがそれはむかしの一の丸で現在の城址は二の丸の址という。
正平三年(一三四八)四條畷の戦いで楠木正行が戦死し恩智城も落ちた。学制領布
のときここに小学校が新築され、今では桜の名所として知られている。
安養寺へ向かう
安養寺(あんようじ)
この地は恩智字向谷といい、本寺裏山の通稱垣内山のすぐ裏手の山裾から大正10年
(1921)風雨のため山崩れが生じその赤土露出部より流水紋銅鐸が発見された。流水
紋様は弥生時代前期から中期にかけて近畿を中心に流行した流水紋土器に見られ、
この鐸もその影響を受け作られたものであろう。 銅鐸は現在東京博物館にありその
拓本が当寺にある。安養寺は浄土宗で本尊は阿弥陀如来である。【
権現社(ごんげんしゃ)
権現社の沿革
神社明細書には「慶長年間(1596~1614)に、熊野権現を勧請した」と書かれている。
寛政2年(1790)意満寺の南西端にあった愛宕神社を合祀した。境内にある古い灯籠
南部にある一基は元禄13年(1700) 拝殿前の二基は宝暦2年(1752)
権現社(ごんげんしゃ)
黒谷地区の氏神で、熊野神社とも言う。熊野権現を祀る。明治5年に教興寺村の天照
大神高座神社に合祀されたが、今はもどる。信貴山へ登る古道(信貴道)が神社の南
側を通って山道となる。今は、この古道はほとんど消えている。丁石は寛政13年
(1801)のものが、寺池そばの三丁石から始まって四、六、七丁石と残っている。
※信貴道道標と丁石
旧高野街道の教興寺四つ辻は、高安信貴山道の起点であり道標が2本建っている。南
西角の寺川家前の道標は、宝永5年(1708)のもので、市内の建設年次を記した道標と
しては一番古いものである。南東角の浅田家前の道標は、元治1年(1864)のもので、
いずれも信貴山案内のものである。参詣道には一丁毎に丁石が建てられ、今も十数本
の丁石が残っていて昔をしのばせる。
高安駅へ向かう
恩智川
高安駅
湯処・あべの橋
天然温泉・・・大阪市港区の『天然温泉テルメ龍宮』から毎日搬送しています。
源泉名 龍宮温泉 1号 阪市港区2丁目3番33号 深さ 1,500m
泉質 ナトリウム塩化物強塩温泉 泉温 摂氏53.9度(浴槽温度40~42℃)
効能 ・神経痛・筋肉痛・関節・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・打ち身・くじき
・慢性消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進・切り傷
・やけど・慢性皮膚病・虚弱体質・慢性婦人病
居酒屋へ
居酒屋
甘太郎