4月14日の日本のはじまり唐古・鍵遺跡ウオークー1
4月18日 4月14日の日本のはじまり唐古・鍵遺跡ウオークー1
近鉄駅フリーハイキング 歩程約10㎞
此の日は知人と3名で、新しく整備された唐古・鍵遺跡へのハイキングに参加しyた。
コース 近鉄駅フリーハイキング 石見駅 受付 9時半~11時
石見駅(受付)~石見鏡作神社~白髭神社~唐古・鍵史跡公園~千万院~池坐神
社~鍵の蛇巻き~安養寺~笹鉾山古墳~法楽寺~黒田大塚古墳(昼食)~孝霊神
社~宮古薬師堂~鏡作神社~浄照寺~楽田寺~津島神社~田原本駅(ゴール)
此の日の私の万歩計は、27604歩で約20.4km歩いたことに・・・
志都美駅~石見駅(受付・スタート)
三宅町石見にある石見鏡作神社
祭神は石凝姥命、天照皇大神、 天児屋根命と思われますが詳細は不詳。
石見の集落は城郭作りの環濠、「石見環濠集落」、集落の北の端、環濠集落の北東の
角に位置する場所に白髭神社と並んで石見鏡作神社が有ります。この地より南、岩見
遺跡の発掘調査による以降は5世紀末から6世紀初めにこの一帯が湿地帯からようや
く顔を出したのが5世紀の終わり位からと考えられます。 主祭神の石凝姥命は天孫降
臨、天の岩戸に出てくる神様で、鏡作部の祖とされ、鉄工、鏡作りは1世紀頃から遅くと
も3世紀半ばには行われ銅鐸の鋳型の発掘が有った唐子鍵遺跡は前4世紀から3世紀
半ば。保津宮古遺跡は古墳時代初頭(3世紀後半=4世紀前半)。薬王寺、十六面遺跡
も3-4世紀~。石見を始め三宅町一帯が開発されたのは5世紀終わり頃からと考えられ、
一帯には、石見をはじめ、但馬、三河の地名が今も残ることから、崇仁天皇以降、湿地
帯から顔を出した一帯の開発の為各地から人足が移住させられたと考えられる。
三宅町石見にある白髭神社
寺川を渡り、唐古・鍵史跡公園へ向かう
唐古・鍵史跡公園
田原本町大字唐古から鍵にかけて所在する弥生時代の環濠集落遺跡である。奈
良盆地のほぼ中央、標高48〜51mの沖積地に立地する。集落は、多条環濠を有し、
大型建物や高床・竪穴住居、木器貯蔵穴、井戸、区画溝などの遺構で構成されてい
る。大環濠(内濠)は直径400mの範囲を囲み、外濠を含めた全体では約42万平方
mの面積を占める。出土遺物は土器、農工具・容器などの木製品、石鏃や石包丁
などの石器骨角器、卜骨などの祭祀遺物、炭化米、種子、獣骨類など多種多様な
遺物、さらには銅鐸の鋳型などの鋳造関係遺物、褐鉄鉱容器に入ったヒスイ製勾
玉、楼閣が描かれた絵画土器など特殊な遺物も出土している。これらの遺構・遺物
から本遺跡は、近畿地方の盟主的な集落と考えられている。
展示品は、唐古・鍵考古学ミュージアムに展示している。
300年前に作られた農業用溜池
楼閣
2000年前の楼閣を復元
大和川堤防に建つ展望台へ向かう
展望台
大和川沿いを歩く
千万院
法貴寺は、「法起寺」ともいい、聖徳太子が創建し秦河勝に賜ったという。千万院
はこの法貴寺の塔頭の子院だった。法貴寺の本坊を実相院といい、中世には法
貴寺天満宮(池坐朝霧黄幡比売神社)の別当職を担うなど、在地豪族長谷川党
とのつよい結びつきで大きな勢力を誇った。しかし、江戸時代半ばには実相院と
千万院の2坊のみとなり、神仏分離で実相院にかわって法貴寺薬師堂を受け継
いだのは千万院だけとなった。現在、千万院の僧坊はすでになく、薬師堂を千万
院と呼ぶ習わしとなっている。
池坐神社
池神社は、初瀬川沿いに鎮座する。祭神は天万栲幡千千比売命・菅原道真で、明治
初年ごろまでは天満宮と称されていた。現在は延喜式内大社「池坐朝霧黄幡比売神
社」に比定されている。中世の天満宮は、在地豪族長谷川党の鎮守であった。近世
以降も 法貴寺の実相院が社僧として社務全般を支配した。この関係は神仏分離に
より法貴寺から池神社が切り離されるまで続いた。
鍵の蛇巻きへ向かう、公園の藤棚
鍵の蛇巻き・・・(下り龍・降り龍)
鍵では、午前中八坂神社にて稲わらで蛇をつくる。午後からは1年の間に鍵大字内で
祝い事のあった家や、お祝いをしたい家に「おめでとう」と言いながら、蛇を担いで訪ね
る。300キロ近い頭を中学1年生から高校1年生までの男子が担ぎ、後ろの綱を参加し
た全少年が頭の前進を阻むよう引っ張り合いながら道を進んでいく。最後に、北中学
校の前の「はったはん」という場所の大樹の根元に頭がおかれ、胴体を上にして樹に
吊るされる。(下り龍・降り龍)
※今里の蛇巻き・・・(上り龍・昇り龍)
今里の杵築神社では、午後1時過ぎに中学生以上の男子が麦わらを束ねて、全長18
mにもなる蛇を作る。行事参加者が拝殿でお神酒を飲む間、村の参拝者にはわらの
先にくくられた「わかめの味噌煮」が配られる。余れば、観光客にもおすそ分けがある。
甘く美味。その後、中学1年生から高校1年生までの男子が蛇頭を抱え、今里の各戸を
「おめでとう」と言いながら練り歩く。広い道では、「それ」との掛け声とともに、蛇体に人
を巻き込む。蛇は再び杵築神社に戻り、神社南側にある大樹に頭を上に巻き付けられ
る。(上り龍・昇り龍)
安養寺へ向かう
安養寺
安養寺は、寛永10年(1633)、源蓮社宝誉上人の開山と伝えられる。
安養寺(あんようじ)は1633年に創建されたお寺です。
木造阿弥陀如来立像は鎌倉時代 12世紀末〜13世紀初頭の作品です。
像は、玉眼・粉溜塗の特徴をもつ。粉溜とは、白土を下地にその上に金泥を塗ったも
のである。快慶が好んで用いた手法。X線写真によると、眼の奥に蛇腹状の文様が
映っている。これは玉眼を入れるための工法によるもので、快慶仏には時々この手
法が認められるという。足ほぞには快慶作を示す「巧匠安阿弥陀佛」の墨書が認め
られるが、これは後世に書き改められたものと考えられている。
安養寺は、寛永10年(1633)、源蓮社
此の続きは、
4月14日の日本のはじまり唐古・鍵遺跡ウオークー2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿します。
http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、笹鉾山古墳へ向かう~
笹鉾山古墳へ向かう
笹鉾山古墳
笹鉾山古墳(1号墳)は、田原本町八尾字山本に所在する東向きの前方後円墳である。
全長88mの2重周濠をもつ6世紀前半の古墳である。墳頂には稲荷神社が祀られ前方
部に向かって参道が伸びている。主体部は明らかでないが、墳丘には埴輪が樹立され
ていた。 古墳時代後期(6世紀前半)に制作。1号墳の北側28mに直径約19.5mの円
墳(2号墳)が存在する。2号墳の周濠からは、ほぼ完全に復元できる馬子と飾り馬の
セットが2組出土している。馬子の1体の顔面には入れ墨を表現する線刻がみられる。
このほか、蓋形埴輪・円筒埴輪・朝顔形埴輪・笠形木製品などが出土している。
出土した埴輪の一部は、唐古・鍵考古学ミュージアムに展示されている。
法楽寺へ向かう
法楽寺
法楽寺は、由緒書によれば、孝霊天皇黒田廬戸宮跡に建立され、聖徳太子開基にかか
るものとされる。承元元年(1207年)、伽藍坊舎は残らず焼失したが、貞応元年(1222年)
に再建がなされた。長禄三年(1459年)八月の墨書銘をもつ板絵には、盛時の法楽寺の
伽藍坊院が描かれている。室町時代の盛期には堂宇25を数えたが、兵火で焼けて現在
残るのは1坊のみである。 本尊は子安地蔵菩薩立像。僧形地蔵菩薩坐像(室町時代後
期)などの古い仏像も所蔵する。
黒田大塚古墳
黒田大塚古墳は、古墳時代後期の前方後円墳である。周濠まで含めた本来の全長は
86mであるが、後世に周濠は埋め立てられ、墳丘の周囲が削り取られている。
周濠の発掘調査では埴輪や木製品が出土しており、墳丘上に立て並べられていたも
のと考えられる。葺石は認められない。
出土品の一部は、唐古・鍵考古学ミュージアムに展示されている。
孝霊神社
祭神は孝霊天皇(大倭根子日子賦斗迩命)御脇立 倭迹迹日百襲姫命、彦五十狭彦
命(吉備津彦命・桃太郎噺のモデル)、稚武彦命、他三神。もとは、法楽寺の鎮守社で
あったが、明治時代初期に現社地へ遷座をし、黒田村の氏神として引き継がれた。旧
地より移した物に、明和七年(1770)の石燈籠がある。岡山県や香川県など日本各
地に残る桃太郎の伝説地の多くは、『古事記』、『日本書紀』に記されている孝霊天皇
の皇子の彦五十狭彦命と稚武彦命兄弟の活躍に由来するものである。第七代孝霊天
皇の黒田廬戸宮(いおと)は、田原本町宮古(都の意)から、この黒田のあたりを指し、
この一帯は古代の地名を残した貴重な所である。
宮古薬師堂へ向かう
宮古薬師堂
鏡作神社(鏡作坐天照御魂神社)
鏡作坐天照御魂神社は、田原本町八尾に鎮座する延喜式内大社で、「和名抄」
鏡作郷に鎮座する。祭神は天照国照日子火明命、石凝姥命、天児屋根命で、
古来から鏡鋳造の神として信仰された。このうち石凝姥命は、天照大神の御魂
の神爾の鏡として内待所に祀る鏡を鋳造したとされる神で、社伝ではその試鋳
の鏡が鏡作神社のご神体であると伝える。
豊雛大明神
口碑によれば、江戸時代に豊受大神の小さな雛型の祠を奉祀していたそうで氏子は
これを豊雛大明神と称したと伝わります。本殿は、安政4年(1857)の改築だそうです。
浄照寺
天正十一年四月(1583年)豊臣秀吉が柴田勝家と織田信長の後継者の地位を
争って賎ヶ岳で合戦。このとき加藤清正・福島正則・片桐且元・秀吉ら七人の武将
が槍を振るって勇名をはせ、世にこれを「賎ヶ岳の七本槍」と称して名高い。
その内の一人、平野權平長泰は数々の軍功により、田原本他六ヶ村を賜り五千石
の領主となった。 その子長勝が二代目領主となり、田原本に陣屋を築造した。
先代の長泰より寺内町の経営を任されていた真宗寺院の教行寺との間に支配権
のことで対立し、教行寺を箸尾へ立ち退かせた。
慶安四年(1651年)、この跡地に長勝は一寺を建立し、本願寺第十三世門主良
如上人に寄付し、御門跡兼帯所(別院)として格式ある寺とした。 門跡寺院として
筋壁(表塀の五本の筋)を許された。
最初円城寺といい、寛延二年(1749年)寺号を改めて浄照寺と称した。
明治10年(1877)2月10日、明治天皇行幸、畝傍山陵参拝のみぎり、ご休憩ご昼
食。明治23年(1877)4月24日、昭憲皇太后行啓、ご宿泊所となる。
楽田寺
楽田寺は、天平年間の創建と伝えられますが、定かではありません。元は真言宗
の寺院でしたが、江戸時代に融通念仏宗に改宗しています。現在は無住となって
います。
※楽田寺の善女龍王図
室町時代に製作されたと伝わっています。龍王が雷神・雨神を伴い、上方には
十一面観音像、下方には弘法大師坐像を配しています。寺号の雨宝龍王院が
示すように、善女龍王図は雨乞い祈願に用いられました。
津島神社
津島神社は、田原本町旧町域の南側に鎮座する。神仏分離以前は祇園社といった。
現在も夏に盛大な祇園祭が催されることもあり、地元では「祇園さん」の愛称で親しま
れている。現在、祭神は素戔鳴命、櫛名田姫命、誉田別命、天児屋根命などとなって
いるが、本来は牛頭天王を祭神とする田原本村の産土神だったと考えられる。
近鉄駅フリーハイキング 歩程約10㎞
此の日は知人と3名で、新しく整備された唐古・鍵遺跡へのハイキングに参加しyた。
コース 近鉄駅フリーハイキング 石見駅 受付 9時半~11時
石見駅(受付)~石見鏡作神社~白髭神社~唐古・鍵史跡公園~千万院~池坐神
社~鍵の蛇巻き~安養寺~笹鉾山古墳~法楽寺~黒田大塚古墳(昼食)~孝霊神
社~宮古薬師堂~鏡作神社~浄照寺~楽田寺~津島神社~田原本駅(ゴール)
此の日の私の万歩計は、27604歩で約20.4km歩いたことに・・・
志都美駅~石見駅(受付・スタート)
三宅町石見にある石見鏡作神社
祭神は石凝姥命、天照皇大神、 天児屋根命と思われますが詳細は不詳。
石見の集落は城郭作りの環濠、「石見環濠集落」、集落の北の端、環濠集落の北東の
角に位置する場所に白髭神社と並んで石見鏡作神社が有ります。この地より南、岩見
遺跡の発掘調査による以降は5世紀末から6世紀初めにこの一帯が湿地帯からようや
く顔を出したのが5世紀の終わり位からと考えられます。 主祭神の石凝姥命は天孫降
臨、天の岩戸に出てくる神様で、鏡作部の祖とされ、鉄工、鏡作りは1世紀頃から遅くと
も3世紀半ばには行われ銅鐸の鋳型の発掘が有った唐子鍵遺跡は前4世紀から3世紀
半ば。保津宮古遺跡は古墳時代初頭(3世紀後半=4世紀前半)。薬王寺、十六面遺跡
も3-4世紀~。石見を始め三宅町一帯が開発されたのは5世紀終わり頃からと考えられ、
一帯には、石見をはじめ、但馬、三河の地名が今も残ることから、崇仁天皇以降、湿地
帯から顔を出した一帯の開発の為各地から人足が移住させられたと考えられる。
三宅町石見にある白髭神社
寺川を渡り、唐古・鍵史跡公園へ向かう
唐古・鍵史跡公園
田原本町大字唐古から鍵にかけて所在する弥生時代の環濠集落遺跡である。奈
良盆地のほぼ中央、標高48〜51mの沖積地に立地する。集落は、多条環濠を有し、
大型建物や高床・竪穴住居、木器貯蔵穴、井戸、区画溝などの遺構で構成されてい
る。大環濠(内濠)は直径400mの範囲を囲み、外濠を含めた全体では約42万平方
mの面積を占める。出土遺物は土器、農工具・容器などの木製品、石鏃や石包丁
などの石器骨角器、卜骨などの祭祀遺物、炭化米、種子、獣骨類など多種多様な
遺物、さらには銅鐸の鋳型などの鋳造関係遺物、褐鉄鉱容器に入ったヒスイ製勾
玉、楼閣が描かれた絵画土器など特殊な遺物も出土している。これらの遺構・遺物
から本遺跡は、近畿地方の盟主的な集落と考えられている。
展示品は、唐古・鍵考古学ミュージアムに展示している。
300年前に作られた農業用溜池
楼閣
2000年前の楼閣を復元
大和川堤防に建つ展望台へ向かう
展望台
大和川沿いを歩く
千万院
法貴寺は、「法起寺」ともいい、聖徳太子が創建し秦河勝に賜ったという。千万院
はこの法貴寺の塔頭の子院だった。法貴寺の本坊を実相院といい、中世には法
貴寺天満宮(池坐朝霧黄幡比売神社)の別当職を担うなど、在地豪族長谷川党
とのつよい結びつきで大きな勢力を誇った。しかし、江戸時代半ばには実相院と
千万院の2坊のみとなり、神仏分離で実相院にかわって法貴寺薬師堂を受け継
いだのは千万院だけとなった。現在、千万院の僧坊はすでになく、薬師堂を千万
院と呼ぶ習わしとなっている。
池坐神社
池神社は、初瀬川沿いに鎮座する。祭神は天万栲幡千千比売命・菅原道真で、明治
初年ごろまでは天満宮と称されていた。現在は延喜式内大社「池坐朝霧黄幡比売神
社」に比定されている。中世の天満宮は、在地豪族長谷川党の鎮守であった。近世
以降も 法貴寺の実相院が社僧として社務全般を支配した。この関係は神仏分離に
より法貴寺から池神社が切り離されるまで続いた。
鍵の蛇巻きへ向かう、公園の藤棚
鍵の蛇巻き・・・(下り龍・降り龍)
鍵では、午前中八坂神社にて稲わらで蛇をつくる。午後からは1年の間に鍵大字内で
祝い事のあった家や、お祝いをしたい家に「おめでとう」と言いながら、蛇を担いで訪ね
る。300キロ近い頭を中学1年生から高校1年生までの男子が担ぎ、後ろの綱を参加し
た全少年が頭の前進を阻むよう引っ張り合いながら道を進んでいく。最後に、北中学
校の前の「はったはん」という場所の大樹の根元に頭がおかれ、胴体を上にして樹に
吊るされる。(下り龍・降り龍)
※今里の蛇巻き・・・(上り龍・昇り龍)
今里の杵築神社では、午後1時過ぎに中学生以上の男子が麦わらを束ねて、全長18
mにもなる蛇を作る。行事参加者が拝殿でお神酒を飲む間、村の参拝者にはわらの
先にくくられた「わかめの味噌煮」が配られる。余れば、観光客にもおすそ分けがある。
甘く美味。その後、中学1年生から高校1年生までの男子が蛇頭を抱え、今里の各戸を
「おめでとう」と言いながら練り歩く。広い道では、「それ」との掛け声とともに、蛇体に人
を巻き込む。蛇は再び杵築神社に戻り、神社南側にある大樹に頭を上に巻き付けられ
る。(上り龍・昇り龍)
安養寺へ向かう
安養寺
安養寺は、寛永10年(1633)、源蓮社宝誉上人の開山と伝えられる。
安養寺(あんようじ)は1633年に創建されたお寺です。
木造阿弥陀如来立像は鎌倉時代 12世紀末〜13世紀初頭の作品です。
像は、玉眼・粉溜塗の特徴をもつ。粉溜とは、白土を下地にその上に金泥を塗ったも
のである。快慶が好んで用いた手法。X線写真によると、眼の奥に蛇腹状の文様が
映っている。これは玉眼を入れるための工法によるもので、快慶仏には時々この手
法が認められるという。足ほぞには快慶作を示す「巧匠安阿弥陀佛」の墨書が認め
られるが、これは後世に書き改められたものと考えられている。
安養寺は、寛永10年(1633)、源蓮社
此の続きは、
4月14日の日本のはじまり唐古・鍵遺跡ウオークー2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿します。
http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、笹鉾山古墳へ向かう~
笹鉾山古墳へ向かう
笹鉾山古墳
笹鉾山古墳(1号墳)は、田原本町八尾字山本に所在する東向きの前方後円墳である。
全長88mの2重周濠をもつ6世紀前半の古墳である。墳頂には稲荷神社が祀られ前方
部に向かって参道が伸びている。主体部は明らかでないが、墳丘には埴輪が樹立され
ていた。 古墳時代後期(6世紀前半)に制作。1号墳の北側28mに直径約19.5mの円
墳(2号墳)が存在する。2号墳の周濠からは、ほぼ完全に復元できる馬子と飾り馬の
セットが2組出土している。馬子の1体の顔面には入れ墨を表現する線刻がみられる。
このほか、蓋形埴輪・円筒埴輪・朝顔形埴輪・笠形木製品などが出土している。
出土した埴輪の一部は、唐古・鍵考古学ミュージアムに展示されている。
法楽寺へ向かう
法楽寺
法楽寺は、由緒書によれば、孝霊天皇黒田廬戸宮跡に建立され、聖徳太子開基にかか
るものとされる。承元元年(1207年)、伽藍坊舎は残らず焼失したが、貞応元年(1222年)
に再建がなされた。長禄三年(1459年)八月の墨書銘をもつ板絵には、盛時の法楽寺の
伽藍坊院が描かれている。室町時代の盛期には堂宇25を数えたが、兵火で焼けて現在
残るのは1坊のみである。 本尊は子安地蔵菩薩立像。僧形地蔵菩薩坐像(室町時代後
期)などの古い仏像も所蔵する。
黒田大塚古墳
黒田大塚古墳は、古墳時代後期の前方後円墳である。周濠まで含めた本来の全長は
86mであるが、後世に周濠は埋め立てられ、墳丘の周囲が削り取られている。
周濠の発掘調査では埴輪や木製品が出土しており、墳丘上に立て並べられていたも
のと考えられる。葺石は認められない。
出土品の一部は、唐古・鍵考古学ミュージアムに展示されている。
孝霊神社
祭神は孝霊天皇(大倭根子日子賦斗迩命)御脇立 倭迹迹日百襲姫命、彦五十狭彦
命(吉備津彦命・桃太郎噺のモデル)、稚武彦命、他三神。もとは、法楽寺の鎮守社で
あったが、明治時代初期に現社地へ遷座をし、黒田村の氏神として引き継がれた。旧
地より移した物に、明和七年(1770)の石燈籠がある。岡山県や香川県など日本各
地に残る桃太郎の伝説地の多くは、『古事記』、『日本書紀』に記されている孝霊天皇
の皇子の彦五十狭彦命と稚武彦命兄弟の活躍に由来するものである。第七代孝霊天
皇の黒田廬戸宮(いおと)は、田原本町宮古(都の意)から、この黒田のあたりを指し、
この一帯は古代の地名を残した貴重な所である。
宮古薬師堂へ向かう
宮古薬師堂
鏡作神社(鏡作坐天照御魂神社)
鏡作坐天照御魂神社は、田原本町八尾に鎮座する延喜式内大社で、「和名抄」
鏡作郷に鎮座する。祭神は天照国照日子火明命、石凝姥命、天児屋根命で、
古来から鏡鋳造の神として信仰された。このうち石凝姥命は、天照大神の御魂
の神爾の鏡として内待所に祀る鏡を鋳造したとされる神で、社伝ではその試鋳
の鏡が鏡作神社のご神体であると伝える。
豊雛大明神
口碑によれば、江戸時代に豊受大神の小さな雛型の祠を奉祀していたそうで氏子は
これを豊雛大明神と称したと伝わります。本殿は、安政4年(1857)の改築だそうです。
浄照寺
天正十一年四月(1583年)豊臣秀吉が柴田勝家と織田信長の後継者の地位を
争って賎ヶ岳で合戦。このとき加藤清正・福島正則・片桐且元・秀吉ら七人の武将
が槍を振るって勇名をはせ、世にこれを「賎ヶ岳の七本槍」と称して名高い。
その内の一人、平野權平長泰は数々の軍功により、田原本他六ヶ村を賜り五千石
の領主となった。 その子長勝が二代目領主となり、田原本に陣屋を築造した。
先代の長泰より寺内町の経営を任されていた真宗寺院の教行寺との間に支配権
のことで対立し、教行寺を箸尾へ立ち退かせた。
慶安四年(1651年)、この跡地に長勝は一寺を建立し、本願寺第十三世門主良
如上人に寄付し、御門跡兼帯所(別院)として格式ある寺とした。 門跡寺院として
筋壁(表塀の五本の筋)を許された。
最初円城寺といい、寛延二年(1749年)寺号を改めて浄照寺と称した。
明治10年(1877)2月10日、明治天皇行幸、畝傍山陵参拝のみぎり、ご休憩ご昼
食。明治23年(1877)4月24日、昭憲皇太后行啓、ご宿泊所となる。
楽田寺
楽田寺は、天平年間の創建と伝えられますが、定かではありません。元は真言宗
の寺院でしたが、江戸時代に融通念仏宗に改宗しています。現在は無住となって
います。
※楽田寺の善女龍王図
室町時代に製作されたと伝わっています。龍王が雷神・雨神を伴い、上方には
十一面観音像、下方には弘法大師坐像を配しています。寺号の雨宝龍王院が
示すように、善女龍王図は雨乞い祈願に用いられました。
津島神社
津島神社は、田原本町旧町域の南側に鎮座する。神仏分離以前は祇園社といった。
現在も夏に盛大な祇園祭が催されることもあり、地元では「祇園さん」の愛称で親しま
れている。現在、祭神は素戔鳴命、櫛名田姫命、誉田別命、天児屋根命などとなって
いるが、本来は牛頭天王を祭神とする田原本村の産土神だったと考えられる。