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4月29日のへぐり時代祭り 歴史ウオーク-1

5月9日         4月29日のへぐり時代祭り 歴史ウオーク-1
                近鉄駅フリーハイキング 歩程約10km
此の日は知人と5名で参加、私は次の日に魚釣り大会を控えており早朝3時起床
が待っており、しかも炎天下での魚釣りに備えて昼食を終えたら皆さんと別行動で
帰宅する旨をつたえてのハイキングとなった。
此の日の私の万歩計は、17934歩で約13.2km歩いたことに・・・
志都美駅
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平群駅(受付・スタート)
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長楽寺・・・勝出山 長楽寺(かちでさん ちょうらくじ)
長谷寺を総本山とする真言宗豊山派の寺院。ご本尊は聖観音立像(勝出山観音)
お寺自体は西暦586年に聖徳太子の創建とあり、相当な古刹である。
聖徳太子が物部氏との戦いに臨む際、当地に地塔を建立することを宣誓して戦勝
祈願を行い勝利したためその通りに建立し、聖徳太子自らが聖観音立像を刻んで
安置したと伝えられる。勝出山という山号に、いわれが残る。
境内に太子が腰をかけて戦略を練ったとされる「鑑石」(かんがみいし)があります。
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竜田川を渡り、つぼり山古墳へ向かう
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つぼり山古墳
生駒山地より東に延びる丘陵の南斜面に築造された古墳で、墳丘は造成工事で
削平され、当初の姿を留めていないが、一辺20m程の方墳の可能性が考えられ
ている。古くに開口し、石室の整備に伴う発掘調査では当初の副葬品は出土せ
ず、石室構造、石棺形態より7世紀初頭の築造と考えられている。
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藤田家住宅
藤田家は、系図によると武蔵国榛沢郡藤田庄(埼玉県本庄市藤田)に藤原氏の荘
園があり、その荘官出身。鎌倉期に武士化して上杉氏に仕え、藤田姓を名乗る。
その滅亡後は甲斐武田氏に仕え、室町期に武田氏が滅ぶと大和に移り、山辺郡
を本拠に筒井氏・藤堂氏に仕えた。元和(げんな)(1615~1624)の頃に平群に転
封され、帰農して庄屋を歴任した。
藤田家住宅は北福貴の高台にあり、南には灰田川の谷を見下ろす要地にある。
整った大和棟(やまとむね)の民家として指定され、昭和59、60年度に半解体修
理が行われた。修理の際の調査により、当初は元禄年間(1688~1703)に建て
られた萱葺(かやぶき)の入母屋造りで、三度の改修が確認された。第一次改造
は18世紀後半、第二次改造は文化4年(1807)、第三次改造は明治末年(1912)
に実施されている。修理後は、指定の趣旨から大和棟の形態が整った第一次改
造の姿に復元されている。茅葺き入母屋造り構造の前身建物の古図が伝わる。
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白山神社へ向う一の鳥居
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白山神社
法隆寺の高僧・道詮律師(どうぜんりっし)が引退後に住んだ富貴寺(ふきじ)跡に
建つ。 道詮律師は平安時代の僧侶で、弘法大師空海とも親交があり、荒れ果てた
法隆寺夢殿の復興に尽くした。
伊弉諾尊・伊弉諾冉尊を祀っていた福貴寺の神宮寺。明治初めに神仏分離で独立、
森垣内の小森神社と栗坪垣内の三十八社神(子守神社)を合祀して福貴大字全体
の氏神となる。明治25年(1892)の明細帳には「或云白山大神」とみえる。享保14
年(1729)奉納の慈尊山白山大明神の湯釜が伝わる。
白山神社周辺が福貴寺の跡で、慈尊山福貴寺と号し、法隆寺の高僧「道詮律師」
の隠居寺として栄え、盛時には六〇坊を数え、境内奥に、中ノ坊・西ノ坊等の塔頭
跡が残る。弘法大師とも親交があつく、伝燈大師と号して南都七大寺僧綱を兼ね、
荒廃した法隆寺夢殿の再建を果たした。その功績から律師像(塑像:国宝)が夢殿
の本尊脇に侍している。隠居後も、法隆寺の学僧等の請いを受けて毎年夏期に百
ヶ日間三経を講じに往来し、民衆からは「福貴の道詮」と呼ばれて厚く慕われた。
境内奥に近世の供養墓が祀られている
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白山神社 弥勒堂
白山神社(福貴寺)弥勒堂
法隆寺の高僧「道詮律師」の隠居寺として栄え、盛時には普門院他60坊を数えた。
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普門院跡
法隆寺の夢殿を再興した道詮律師が隠居寺として建てた福貴寺の塔頭の一つで、
日頃起居された住坊だと伝えられている。
脇仏で江戸時代の木造仏、3体が盗難にあったが、重要文化財に指定されている
木造聖観音立像は残されており、現在は法隆寺に保管されている。
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此の続きは、
4月29日のへぐり時代祭り 歴史ウオーク-2 として
        下記のメインブログへ詳細を投稿します。
       http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、吉備内親王の墓&長屋王墓へ向かう~
吉備内親王墓へ向かう
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吉備内親王墓
奈良時代初頭、藤原氏の陰謀に倒れた左大臣長屋王の夫人の墓である。
直径20m程の円墳。地元では「ウシヲ塚」と呼ばれている。
吉備内親王は、草壁皇子と阿倍皇女の娘で、文武天皇、元正天皇の妹である。
天武天皇の皇子である高市皇子の長子、長屋王の正妻となる。天皇家の血筋
が濃密な二人の組み合わせは、元明天皇・元正天皇と女帝が続く中で、重要な
位置にあったことが伺える。夫である長屋王の母は、元明天皇の姉、御名部皇
女であり、信頼関係の厚い姉妹の子供同士の結婚であった。
文武天皇を支える皇室一族として、持統天皇に期待されていた人物である。
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長屋王御陵公園
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長屋王墓
奈良時代の悲劇の宰相「長屋王」(ながやおう。正式には「ながやのおおきみ」)。
天武天皇を補佐した「高市皇子」の長子で、有能な左大臣として聖武天皇を補佐
していたが、藤原四兄弟の陰謀(と思われる)による「長屋王の変」の際に、妻と
四人の皇子とともども自刃に追い込まれてしまいます。その後、藤原四兄弟は
次々に疫病に倒れ、長屋王の祟りと恐れられる存在になった方です。
長屋王の邸宅跡だった「イトーヨーカドー奈良店」から、たくさんの木簡が発見さ
れ、長屋王一族が優雅な生活を送っていたことでも、より名前が知られるように
なりました。
「長屋王の変」
長屋王は、奈良時代初期の皇親政治家で、神亀元年(724)に最高職の左大臣に
就任し、聖武天皇を盛り立てて政治を行なっている。長屋王は、壬申の乱で活躍
した高市(たけち)皇子の長子で、夫人の吉備内親王とともに天武天皇の皇孫で
ある。神亀6年(729)2月10日、皇位継承にからみ、謀反の疑いで館を囲まれ、夫
妻と四人の皇子が自殺に追い込まれる。そして、8月に天平に改元、藤原不比等
の娘、光明子が皇后(従来は皇族のみ)に立てられる。
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三里古墳へ向かう
コンニャクの花
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三里(みさと)古墳
矢田丘陵より西に延びる尾根上に築かれた古墳で、墳丘は削平され周囲が耕作
地化しているが、発掘調査により全長35mの前方後円墳もしくは直径22mの円墳
と考えられている。 出土遺物より6世紀後半~末頃の築造と考えられている。
埴輪はみられないが、周溝埋土に礫が含まれ、墳丘の一部に葺石が施されていた
らしい。玄室奥壁の床よりに奥行き1.5mの板石による棚が架せられている。石棚
のある横穴式石室の古墳は紀ノ川下流域に多いが、奈良県下では三里古墳を含
めて3例のみであり、他の2基も吉野川(紀ノ川)流域に築造されている。
凝灰岩製の組合せ家形石棺の周囲から金銅装鐘形杏葉、(ぎょうよう)鏡板を(かが
みいた)用いた豪華な馬具や金銅装ハート形鏡板のやや実用的な馬具、土器類、
武器類、ガラス玉等が出土している。鐘形杏葉は9枚がまとまって出土しており、
古墳時代後期の馬具として優品であり、三里古墳の被被葬者は2セットの馬具を
使い分けていたと推定される。(出土遺物も一括で奈良県の指定文化財)
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三里古墳から谷の向うの信貴山を・・・
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平群神社へ向う
竜田川を渡り平群神社へ向う
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平群神社
境内に掲示する由緒には、「祭神大山祇神は山野を司る神で、平群氏の祖・武内
宿祢が神功皇后と共に朝鮮へ出兵の際、戦勝を祈願しこの地に祀ったと伝う。
のち五穀豊穣と武運長久・家内安全の守護神として信仰を集め、今日に至る。
延喜式神名帳に『平群神社五座並大 月次新嘗』とあり、神宮寺としても龍華山
西宮密寺があった古い社格の神社である」とある。
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西宮(にしのみや)古墳(昼食)
廿日山(はつかやま)丘陵の南側斜面、中段に築造された方墳。一辺約36mあり、
二段のテラスを配して三段に築成されている。墳丘の左右と後方の三方に堀割を
廻らし、周囲の地形を大きく取り込んだ墓域を有する。
石室は基本的に一石で積まれ、玄室は奥壁、側石、天井石がそれぞれ一枚石で
積み木のように組まれており、目地には漆喰(しっくい)が詰められている。
石室の床面には近世に礫石経((れきせききょう)法華経)が敷かれているが、この
下には90cm角ぐらいの花崗岩切石を敷きつめているらしい。
羨門部で須恵器坏蓋(つきふた)、高坏片が出土し、7世紀中葉から後半の築造と
考えられている。
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鳥土塚(うどつか)古墳へ向かう
釣り堀
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鳥土塚(うどつか)古墳
竜田川の西岸、南北方向の独立丘陵に築造された北面する前方後円墳。墳丘は
全長60.5m、後円部径35m、高さ約9m、前方部幅31mあり、平群谷最大規模の
古墳。墳丘は一段築成で葺石はなく、墳頂寄りに1.5~2m間隔で円筒埴輪を並べ
ていたらしい。墳丘西裾では幅約2mの小規模な周溝が確認されている。
古墳時代後期の築造と思われる。
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鳥土塚(うどつか)古墳から西宮古墳を・・・
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竜田川駅
皆さんは道の駅へ寄って宮山塚古墳へ
私は、竜田川駅で皆さんと別れて帰途へ・・・
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