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5月27日・奥吉野 大滝ダム大雨体験へ

6月7日        5月27日・奥吉野 大滝ダム大雨体験へ
               自治会 防災訓練(大雨体験)
自治会の会長、副会長含む19名8:50に服部消防支部前に集合して大滝ダムへ向かう、
町のマイクロバスで出発、途中の道の駅、大淀センターでトイレ休憩、
1時間半のバス旅で大滝ダムに到着
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高齢者に交じって
若いお母さんと小学生が2組参加
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大滝ダム ミズモリノヤカタ
メインエベントは、此処で大雨体験をする事
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長靴に履きかえて
カッパを着て、大雨体験
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大雨体験の後は
大滝ダムのビデオを見て、館長さんの話を聞く
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ミズモリヤカタを後にして
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ホテル杉の湯で昼食&温泉
自由時間に大滝ダム周辺散策
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全ての行事?を終えてバスに乗り、演歌を聞きながら帰る
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途中の道の駅出トイレ休憩、約1時間半のバス旅でした。

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5月26日の西大寺・秋篠寺~平城宮跡へ-1

6月7日      5月26日の西大寺・秋篠寺~平城宮跡へ-1
             近鉄駅フリーハイキング 歩程約8㎞
此の日は、K場さんS藤さんと3名で参加、おまけとして歩いた平城宮跡朱雀門前広場
で大先輩のN山さん(ボランティアガイドをしている)に偶然に?バッタリ出会った。
コース  近鉄駅フリーハイキング  大和西大寺駅受 付9時半~11時
大和西大寺駅(受付)~西大寺~八幡神社~八所御霊神社~秋篠寺~山稜八幡神社
~神功皇后陵~福松大神~称徳(孝謙)天皇陵~成務天皇陵~日葉酢媛命陵~佐紀
瓢箪山古墳~山上八幡神社~横田福栄堂~平城宮跡・第一次大極殿~コースを変え
て~平城宮跡・東院庭園~朱雀門~朱雀門前広場・いざない館・遣唐使船展示~バス
でJR奈良駅へ。 此の日の私の万歩計は、27154歩で約20km歩いたことに・・・
大和西大寺駅(受付)
知人2名と合流、3名でスタート
西大寺(さいだいじ)
西大寺は、奈良市西大寺芝町にある真言律宗総本山の寺院。奈良時代に孝謙上皇(重
祚して称徳天皇)の発願により、僧・常騰を開山(初代住職)として建立された。南都七大
寺の1つとして奈良時代には壮大な伽藍を誇ったが、平安時代に一時衰退し、鎌倉時代
に叡尊によって復興された。山号は勝宝山[1]。現在の本尊は釈迦如来である。
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八幡神社
もとは、西大寺の鎮守で明治維新の神仏分離によって独立。長承三年(1134)の南寺敷
地図帳案(西大寺文書)には、一条四坊四坪に「西大寺八幡宮供田西小一反山」、五坪に
「八幡宮敷地」とあるので、それ以前から祀られていた。叡尊入寺後の弘安八年(1285)
11月17日に神体を安置(感身学正記)。本殿は室町時代の建物で、国指定重要文化財。
三間社流造。本殿内部の前机三脚にはそれぞれ阿弥陀仏三尊の種子を記し、永禄九年
(1566)の墨書銘がある。
西大寺の行事として知られる大茶盛は延応元年(1239)の正月修正会後に鎮守の八幡
社で叡尊が献茶を参詣人にも振舞ったことに始まるといわれる。
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八所御霊神社へ向う
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八所御霊神社
御祭神:御霊八柱(崇道天皇、伊豫親王、藤原吉子、橘逸勢、文屋宮田麻呂、藤原広嗣、
            吉備大臣、火雷神)
宝亀11年(780)に創建と伝わります。秋篠寺南門の外にあり、早良親王など八柱を祀る。
本殿は宝亀十一年(780)に創建され、保延元年(1135)類焼の厄にあったが、同年再
建された。当初御霊神社と称したが、貞観年間(859~877)八所御霊神社と改称した。
秋篠寺は、称徳天皇の崩御によって即位した光仁天皇によって創建されました。
そしてその後、桓武天皇の手によって七堂伽藍を整えた官寺・秋篠寺が完成されたと考
えられています。
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※「扶桑略記」
「秋篠寺の僧・善珠が、早良親王の亡霊が安殿親王を悩ました時に、般若を転読して其
の病を除いた。善珠はこの功によって延暦16年(797)に僧正に任じられた」
そして、善珠が、この4カ月後の4月に没した時に「皇太子安殿親王後の平城天皇)は善
珠の像を秋篠寺に安置した」という。

光仁天皇が終生、悩まされ続けたのではないかと思える井上内親王と他戸親王の怨霊
の存在です。晩年を向かえ、ますます膨張する祟りへの恐怖、これが秋篠寺建立に駆り
立てたのではないかというものです。
光仁天皇が創建した秋篠寺は桓武天皇に引き継がれますが、引き継いだ桓武天皇も光
仁天皇と同じように怨霊に悩まされ秋篠寺に頼ることになります。
秋篠寺が桓武天皇の怨霊鎮魂に重要な役割を果たしていることが伺え、延暦13年(794)
に平安京遷都が行われ桓武天皇が主導した秋篠寺の伽藍整備がこの頃に完了している。

秋篠寺(あきしのでら)
秋篠寺は、奈良市秋篠町にある寺院。本尊は薬師如来。開基(創立者)は奈良時代の
法相宗の僧・善珠とされている。山号はなし。宗派はもと法相宗と真言宗を兼学し、浄土
宗に属した時期もあるが、現在は単立である。伎芸天像と国宝の本堂で知られる。
寺は奈良市街地の北西、西大寺の北方に位置する。奈良時代の法相宗の僧・善珠の創
建とされ、地元の豪族秋篠氏の氏寺とも言われているが、創建の正確な時期や事情は
わかっていない。宝亀7年(776年)、光仁天皇の勅願により善珠が創建したともいう。
『日本後紀』によれば、延暦25年(806年)に崩御した桓武天皇の五七忌が秋篠寺で行
われたことが見え、天皇家とも関連の深い寺院であったことがわかる。
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山稜八幡神社
御祭神は気長足媛命、品陀和気命、玉依媛命。つまり、神功皇后、応神天皇、玉依媛命。
創建やご由緒は不明ですが、もちろん、明らかに神功皇后陵を意識して創設された神社
です。ここでは、神功皇后は武芸の神、応神天皇は厄除け開運の神、玉依媛命は育児の
神と明確に規定されています。
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神功皇后陵(じんぐうこうごうりょう)・・・五社神古墳(ごさしこふん)
五社神古墳は、奈良市山陵町(みささぎちょう)にある古墳。形状は前方後円墳。佐紀盾
列古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「狭城盾列池上陵(さきのたたなみのいけ
のえのみささぎ、狹城盾列池上陵)」として第14代仲哀天皇皇后の神功皇后の陵に治定
されている。
全国では第12位の規模の古墳で、4世紀末(古墳時代中期初頭)頃の築造と推定される。
文久3-4年(1863-1864年)、文久の修陵および神功皇后陵に治定(それ以前は主に日葉
酢媛命陵と伝承)
※盾列陵で奇異
承和10年(843年)、盾列陵で奇異があり、調査の結果、神功皇后陵と成務天皇陵を混同
していたことがわかったという記事が『続日本後紀』にある。後に、「御陵山」と呼ばれてい
た佐紀陵山古墳(現 日葉酢媛陵)が神功皇后陵とみなされるようになり、神功皇后の神話
での事績から安産祈願に霊験ありとして多くの人が参拝していた。
その後、西大寺で「京北班田図」が発見され、これにより神功皇后陵が五社神古墳とされ、
文久3年(1863年)に五社神古墳が神功皇后陵に治定され、現在に踏襲されている。
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※神功皇后(じんぐうこうごう)
神功皇后は、仲哀天皇の皇后。『日本書紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこ
と)・『古事記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたら
しひめのみこと)・大足姫命皇后。父は開化天皇玄孫・息長宿禰王で、母は天日矛(あめ
のひぼこ)裔・葛城高顙媛。応神天皇の母であり、この事から聖母(しょうも)とも呼ばれる。
弟に息長日子王、妹に虚空津比売、豊姫あり。三韓征伐を指揮した逸話で知られる。

福松大神
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称徳(孝謙)天皇陵・・・佐紀高塚古墳(さきたかつかこふん)
佐紀高塚古墳は、奈良市山陵町(みささぎちょう)にある古墳。形状は前方後円墳。佐紀
盾列古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「高野陵(たかののみささぎ)」として第48
代称徳天皇(第46代孝謙天皇重祚)の陵に治定されている。
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※第48代称徳天皇(第46代孝謙天皇)
孝謙天皇は、大仏建立に関わった聖武天皇と光明皇后の皇女であり、天平勝宝元年(7
49年)に「孝謙天皇」として即位した後、天平宝字2年(758年)に一度母である光明皇后
の看病を理由に退位して上皇となりますが、その後は藤原仲麻呂の乱に伴い流刑となっ
た淳仁天皇に代わりに重祚することになり、天平宝字8年(764年)から6年程再び「称徳
天皇」として二度在位した経歴を持つ女帝として知られています。
在位中には孝謙天皇時代には藤原仲麻呂を重用しつつ、上皇となって以降、仲麻呂との
対立に伴い道鏡らを重用するようになったことで知られるほか、再び称徳天皇として即位
するきっかけとなった藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)の際には四天王像の造立を発願、
また現在も一大観光スポットとして知られる「西大寺」を創建し、仏教重視の政策を推し進
めたしても知られています。

成務天皇陵(せいむてんのうりょう)・・・佐紀石塚山古墳(さきいしづかやまこふん)
佐紀石塚山古墳は、奈良市山陵町字御陵前にある古墳。形状は前方後円墳。佐紀
盾列古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「狭城盾列池後陵(さきのたたなみの
いけじりのみささぎ、狹城盾列池後陵)」として第13代成務天皇の陵に治定されている。
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※成務天皇(せいむてんのう)、
成務天皇は、『古事記』『日本書紀』に伝えられる第13代天皇。和風諡号は稚足彦尊
(わかたらしひこのみこと)、『古事記』は若帯日子天皇(わかたらしひこのすめらのみ
こと)とする。『日本書紀』にはこの天皇の事績として、日本全国に数多くの国造を任命
したり、稲城を設置したり、国や郡の境を定めたりしたことが記されている。

日葉酢媛命陵(ひばすひめのみことりょう)・・・佐紀陵山古墳(さきみささぎやまこふん)
佐紀陵山古墳は、奈良市山陵町にある古墳。形状は前方後円墳。佐紀盾列古墳群を
構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「狭木之寺間陵(さきのてらまのみささ
ぎ、狹木之寺間陵)」として第11代垂仁天皇皇后の日葉酢媛命の陵に治定されている。
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※日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)
日葉酢媛命は垂仁天皇の皇后である。「日葉酢媛」は『日本書紀』での記述であるが、
同書は「日葉酢根命」、「日葉洲媛命」にも作り、また『古事記』は「氷羽州比売命」、
「比婆須比売命」に作る。父は丹波道主王、母は丹波之河上之麻須郎女。垂仁天皇
との間に景行天皇のほか2皇子・2皇女を産む。
『日本書紀』によれば、垂仁天皇の皇后狭穂姫命が同天皇5年に薨じた後、その遺
志により同15年2月甲子(10日)に丹波(後の丹後国を含む広義の丹波国)から後宮
に迎えられ、同年8月壬午(1日)に立后、同32年7月己卯(6日)に薨じたとされる。
またその葬儀に際しては、それまで行われていた殉死を悪習と嘆じていた天皇が群
卿に葬儀の方法を問うと、野見宿禰が生きた人間の代わりに埴輪を埋納するように
進言したため、その陵墓に初めて人や馬に見立てた埴輪が埋納され、以後も踏襲さ
れるようになったという。

瓢箪山古墳へ向かう
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佐紀瓢箪山古墳
4世紀後半~5世紀初頭築造の全長96mの前方後円墳。 国指定史跡。佐紀盾列
古墳群に属する。前方部に粘土槨が発見され、琴柱形石製品が出土した。 後円部
の埋葬施設は不明。
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古墳を一周して
此処で昼食を済ませる
此の続きは、
5月26日の西大寺・秋篠寺~平城宮跡へ-2 として
        下記のメインブログへ詳細を投稿します。
       http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、山上八幡神社へ向う~
山上八幡神社へ向う
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山上八幡神社
御祭神は天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)・八幡大明神(やはたのだいみょう
じん)・春日大明神(かすがのだいみょうじん)
神社の創建自体は、江戸時代に入ってからの延宝5年(1677年)とも言われています
が、その詳しい由来については不詳となっています。しかしながら神社の周辺には中
世に反映した寺院である「超昇寺」、またその周辺を戦国時代にかけて陣地とした藤
原鎌足の末裔とも言われる超昇寺氏の城郭があったことで知られており、超昇寺氏
の信仰を受けていた神社としても知られています。
また境内の北側、社殿左後方にそびえる杉の木は、神社の創建時期とは前後します
が、 天正19年(1591年)に豊臣秀吉が朝鮮出兵に際してその成功を祈り手植えした
実に由緒ある神木であるとされています。
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横田福栄堂
奈良時代に中国から奈良の都に伝えられた味噌。儒教で言う五徳と言う言葉にな
ぞらえ名付けられた五徳味噌を使い、丁寧に手造りされた奈良銘菓 みそせんべ
いや奈良特産の吉野葛を利用した葛餅など、奈良の素材にこだわった和菓子を作
り続けています。
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平城宮跡へ向かう
此れは佐紀池、この奥、北側に御前池あり・・・さきいけ!おまえいけ!!と話題に?
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平城宮跡(第一次大極殿正殿)
朱雀門の真北約800mに堂々とそびえる「大極殿」。正面約44m、側面約20m、地面
より高さ約27m。直径70cmの朱色の柱44本、屋根瓦約9万7000枚を使った平城宮
最大の宮殿であり、その建物は奈良時代の中頃に、一時都とした恭仁(くに)宮に移
築され、山城国の国分寺金堂になりました。当時、天皇の即位式や外国使節との面
会など、国のもっとも重要な儀式のために使われていました。
大極殿復原に際して大きなハードルだったのが、当時の設計図や参考になるような
絵画などが残っていないことでした。そのため、発掘調査で判明している基壇や恭
仁宮の大極殿(国分寺金堂)の跡に残る礎石の状態などから大極殿の大きさ、形を
推定しました。わずかに残る文献や法隆寺金堂、薬師寺東塔など、同時代の寺院建
築も参考にされています。
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コースを変えて
平城宮跡・東院庭園
平城宮は他の日本古代都城の宮殿地区には例のない東の張出し部を持ちます。この
南半は皇太子の宮殿があった場所で、「東宮」あるいは「東院」と呼ばれていました。
その南東端に東西60m、南北60mの池があり、これを中心に構成されている区画が東
院庭園です。
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※朱雀門
平城宮の正門・朱雀門。その前では外国使節の送迎を行ったり、大勢の人達が集まっ
て歌垣などを行ったりし、正月には天皇がこの門まで出向き、新年のお祝いをすること
もありました。朱雀門の左右には高さ5.5mの築地がめぐり、130haの広さの宮城を取り
囲んでいました。

棚田嘉十郎像・・・朱雀門近くに銅像が、旧跡を見守るようにして立っている。
棚田 嘉十郎(たなだ かじゅうろう)
日本の植木職人。文化財保護運動家。明治時代から大正時代にかけて平城宮の保存
活動を行った。植木職人として奈良公園などの植栽を手がけていた。
江戸時代に幕府の役人北浦定政の調査で研究が始まった平城宮は、1897年に奈良県
技官で東京大学名誉教授の関野貞・同奈良県技官の塚本慶爾らによって発見された。
棚田は、観光客に平城宮跡の場所を尋ねられたが、場所を知らず答えることが出来な
かった。これを奈良の人間として恥ずかしいと思った棚田は、平城宮跡の保存と顕彰に
一生をかけることを決意した。
1896年、知人に連れられて大極殿跡を訪れた棚田は、放牧地となり堆肥が山積みに
なっている有様を見て、次のように言って涙を流したという。

「 実に見る影もなき有様。之れを皇居の址と云はれ様か。 」

これ以降、棚田は憑かれたように保存運動へのめり込んでいった。平城宮の啓発のため
に宮跡の図面を観光客らに配り、宮跡で掘り出された瓦を高名な人らに贈るなどした。
また、1906年には自ら発起人となり「平城宮阯保存会」を組織したほか、1912年3月には
当時の国鉄奈良駅前に大極殿跡への道標を建立した。
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朱雀門前広場・いざない館で涼みながら見学・・・
ボランティアガイドをしてる大先輩に出会った。

展示されている遣唐使船を縁覚してバスでJR奈良駅へ向かった
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