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6月21日の今城塚古墳~ハニワ工場へ-1 他

6月28日           6月21日の今城塚古墳~ハニワ工場へ-1 他
                  7月度歩こう会 特別企画コース下見
JR摂津富田駅に9時半集合で 7月度歩こう会 特別企画コースの下見に行った・・・
18日の大坂北部を震源とする関西大地震で被害の大きかった地域と言う事も有り、
行く先々で処所に被害の爪痕が見られた・・・
コース
JR摂津富田駅~今城塚古墳前で高槻文化財スタッフの会(I籐様)と待ち合わせ~今日
のコースの打ち合わせ(今城塚古代歴史館)後~今城塚古墳~前塚古墳~郡家車塚古
墳~弁天池・弁財天~観音寺跡地~闘鶏野(つげの)神社~八幡神社~蕃山古墳~土
室(はむろ)遺跡~新池ハニワ工場公園~継体天皇陵~JR摂津富田駅
JR摂津富田駅・・・9時11分着
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今城塚古墳前へ向かう
此の女瀬川沿いを妙見橋迄・・・
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今城塚古墳
今城塚古墳(いましろづかこふん)は、大阪府高槻市郡家新町(ぐんげしんまち)にある
前方後円墳。国の史跡に指定されている。
造営時の6世紀前半では最大級の古墳である。宮内庁の治定は受けていないが第26
代継体天皇の真の陵とする説が有力で、発掘調査が可能な大王陵になる。
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今城塚古墳前で高槻文化財スタッフの会(I籐様)と出会い
今城塚古代歴史館でコースの打ち合わせ
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今城塚古墳からスタート
摂津北部、三島(みしま)平野の中央部に位置し、古墳時代後期の6世紀前半に築造さ
れた前方後円墳である。三島野古墳群に属する。墳丘の長さ190メートル、二重の濠が
めぐっており、内濠、外濠を含めた兆域(ちょういき)は340メートル×350メートルの釣鐘
状の区画を呈し、淀川流域では最大規模の墳墓となっている。
古墳の被葬者は、形状や埴輪等の年代的特徴、また『古事記』『日本書紀』『延喜式』な
ど文献資料の検討から、6世紀のヤマト政権の大王墓と推定され、6世紀前半に没した
継体天皇とするのが学界の定説になっている。また、埴輪工房跡と目される生産遺跡新
池遺跡との深い関連が指摘される古墳である。
真の継体天皇陵である可能性が高いことから、戦前《1935年-1944年(昭和10年-昭和
19年)》に設けられた臨時陵墓調査委員会においても、この古墳を「陵墓参考地に編入
すべし」との答申が行われた。しかし、宮内庁は今城塚古墳の陵墓参考地指定について
は現在も難色を示しており、今城塚古墳から1.3キロメートル西にある大阪府茨木市の
太田茶臼山古墳を継体天皇陵に治定している。太田茶臼山古墳の築造は5世紀中葉と
考えられており、継体天皇が没したとされる年代よりも古い時代の古墳と考えられる。
この大王墓が、6世紀にいたって畿内北部の淀川水系にはじめて出現することは、それ
までずっと南部の大和川水系の大和・河内にあった勢力から王権の主導権が移ったこと
を意味するとも考えられる。
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墳丘に上がり散策
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堀も立派
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今城塚古墳を後に
前塚古墳へ向かう
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前塚古墳
前塚古墳(まえづかこふん)は、大阪府高槻市岡本町にある古墳。形状は帆立貝形古
墳。史跡指定はされていない。
前塚古墳は、出土埴輪・出土石棺から古墳時代中期の5世紀頃(5世紀初頭頃または
5世紀中葉-後半頃)の築造と推定される。かつては近在の今城塚古墳の陪塚とする
説もあったが、現在は先行古墳に位置づけられる。
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※三島古墳群(みしまこふんぐん)
淀川北岸、桧尾川流域から茨木川流域にあり、大阪府高槻市と茨木市(旧三島郡)に
かけて広がる古墳と遺跡の総称。
淀川右岸地域、北摂山地の山腹部から丘陵部にかけて広がり、古墳だけでも大小500
基以上を数える。古代三島地方の中心地であったこの地には、古墳時代初期から終末
期までの各時代を代表する古墳が含まれ、羽曳野・藤井寺周辺の古市古墳群、堺周辺
の百舌鳥古墳群と並ぶ規模を誇る、日本有数の古墳地帯である。

郡家車塚古墳
4世紀末、古墳時代前期の古墳。三島地方の王墓。全長が約85.6m、後円部径約51.3m
の前方後円墳。
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観音寺跡地へ向かう
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弁天池・弁財天
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此の続きは、
6月21日の今城塚古墳~ハニワ工場公園へ-2 として
          下記のメインブログへ詳細を投稿します。
        http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、観音寺跡地~
観音寺跡地
観音寺は氷室山と号し、真言宗の高野山金剛頂院の末寺で、元禄二(1689)年には高槻
藩永井家三代藩主直種が護摩堂、法具などを寄進し、ながらく永井家の祈祷所でした。
ところが明治初年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の動きのなかで廃寺となり、氷室の人々
が護摩堂と堂内の仏像・仏具を守ってきました。
その後平成26年になって、これらの貴重な仏像は本市しろあと歴史館に寄贈されて恒久
的保存が図られることとなり、翌年、老朽化した護摩堂は解体され、荒れていた境内は広
場となりました。その整地作業に際して、繁茂していた背丈を超える草木が一掃され、ピン
ク石が露見したということです。
ピンク石の正式名称は阿蘇溶結凝灰岩といい、熊本県の宇土半島で産出するもので、古
代歴史館では今城塚古墳出土の同種の石棺材をもとに復元した石棺を展示しています。
※氷室町の古老のお話によると、石材は氷室集落の共同井戸の脇を流れる水路に架け
てあった石橋だったが、井戸の洗い場へ行く村のおばさんたちがしょっちゅう足を滑らせ
て怪我をするので、かつて石材を運びだしてきた古墳の祟りではないかと、昭和30年頃
になって観音寺に祀ることにした、ということでした。じっさいに寺の境内では石碑のごと
く立て置かれ、賽銭があげられていました。
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闘鶏野(つげの)神社
鳥居に地震被害有り横の観音寺跡地から入る
本殿横の燈籠や狛犬に地震被害
氷室地区の氏神。闘鶏を「ツゲ」と読むのは、鶏鳴が神託を「告げる」ことに由来するとい
われる。名神高速道路にかかる陸橋が参道となっており、北面の丘陵には闘鶏山古墳と
呼ばれている前方後円墳がある。
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※闘鶏山古墳
北面の丘陵には闘鶏山古墳(全長86.4m/前方後円墳)があり、平成14年(2002年)の
確認調査では後円部から未盗掘の竪穴式石室2基が発見され話題となりました。石室内
部のファイバースコープ調査では三角縁神獣鏡や石製の腕飾り、木棺の一部などが確認
され、4世紀前半の三島の王墓と考えられています。

八幡大神宮
地震被害で鳥居が見えない
創建は不詳だが、洪水により応神天皇の像と白羽矢がこの地に流れ着き、それを祀った
のが起こりという。江戸時代初期の高槻城主・松平家信は、社領を寄進するほど厚く敬い、
その後も高槻城の守護神として歴代城主の信仰が厚かった。戦国期にはキリシタンの高
山氏の兵火で焼失したこともある。
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蕃山古墳
後円部と外堤の輪郭のみが確認される。5世紀末頃の築造と考えられているが、
内部構造は不明。
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土室(はむろ)遺跡
高槻市の西部、土室(はむろ)の丘陵上に、古代の埴輪工場(はにわこうば)跡・新池埴輪
製作遺跡があります。この工場が操業していたのは、5世紀中ごろから6世紀中ごろまで
の約100年間。発掘調査によって、埴輪窯18基、大形工房3棟、さらに竪穴住居14棟か
らなる工人集落などがあったことも明らかになっています。
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新池ハニワ工場公園
ハニワ工場が開かれたきっかけは、太田茶臼山古墳(茨木市)の造営とみられています。
大量の埴輪を古墳に立て並べるため、古墳の近くで埴輪づくりに適した場所、窯を築く斜
面地があり、材料の粘土と砂と水、そして燃料にする薪が手近にある場所を探し、ここを
埴輪工場と定めたのでしょう。 工人集落からは東海地方の土器が出土しており、工人の
なかには遠方から来た研修生?もいたようです。
その後、530年ごろに新たに6基ほどの窯が築かれ、今城塚古墳の埴輪が大量につくら
れました。この時期の埴輪づくりは、以前のような畳80畳敷きもの広さの大形工房ではな
く、一辺が5~6メートルの竪穴住居でつくっていたことがわかっています。まさに職住一致、
寝てもさめても埴輪をつくっていたのかもしれません。
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継体天皇陵へ向かう
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継体天皇陵
陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府茨木市太田3丁目にある三嶋藍野陵(みしまのあ
いののみささぎ:三島藍野陵)に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名
は「太田茶臼山古墳」で、墳丘長227メートルの前方後円墳である。
本古墳の築造時期は5世紀の中頃とみられている。一方、大阪府高槻市郡家新町の今
城塚古墳(前方後円墳、墳丘長190m)から埴輪群が発掘され、6世紀前半の築造と考え
られることから、同古墳を真の継体天皇陵とするのが定説になっている。宮内庁による
治定の変更は行われていないため、今城塚古墳には一般市民も立ち入ることができる。
2011年4月1日に高槻市教育委員会にて史跡公園として整備され、埴輪祭祀場等には
埴輪がレプリカにて復元された。隣接する今城塚古代歴史館では、日本最大級の家型
埴輪等が復元展示されている。
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※継体天皇(けいたいてんのう)
継体天皇(允恭天皇39年(450年?) - 継体天皇25年2月7日(531年3月10日?))は、
日本の第26代天皇。在位は507年3月3日? - 531年3月10日?。
戦後、現皇室は継体天皇を初代として樹立されたとする新王朝論が盛んになった。
それ以前のヤマト王権との血縁関係については現在も議論が続いている。
『日本書紀』によれば、506年に武烈天皇が後嗣定めずして崩御したため、大連・大伴
金村、物部麁鹿火、大臣巨勢男人らが協議した。まず丹波国にいた仲哀天皇の5世の
孫である倭彦王(やまとひこおおきみ)を抜擢したが、迎えの兵士をみて恐れをなして、
倭彦王は山の中に隠れて行方不明となってしまった。そこで、次に越前にいた応神天
皇の5世の孫の男大迹王にお迎えを出した。男大迹王は心の中で疑いを抱き、河内馬
飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)に使いを出し、大連大臣らの本意を確か
めて即位の決心をした。翌年58歳にして河内国樟葉宮(くすばのみや)において即位し、
武烈天皇の姉(妹との説もある)にあたる手白香皇女を皇后とした。
継体は、ようやく即位19年後の526年、大倭(後の大和国)に都を定めることができたが、
その直後に百済から請われて救援の軍を九州北部に送った。しかし新羅と結んだ磐井
によって九州北部で磐井の乱が勃発して、その平定に苦心している(磐井の乱について
は諸説ある)。日本書紀の記述では継体が507年に即位してから大和に都をおくまで約
20年もかかっており、皇室(実態はヤマト王権)内部もしくは地域国家間との大王位をめ
ぐる混乱があったこと、また、継体(ヤマト王権)は九州北部の地域国家の豪族を掌握で
きていなかったことを示唆している。

JR摂津富田駅へ戻る

おまけ 6月22日
社友会の旅行会の打ち合わせの後、あべのベルタへ
志都美駅~久宝寺駅
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あべの
キューズモール~ベルタへ、知人の楽画喜展を鑑賞に・・・
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