10月12日のならまち~帯解~天理へー1
10月18日 10月12日のならまち~帯解~天理へー1
近鉄てくてくマップハイキング 伊本4
近鉄てくてくマップハイキング、ならまちから帯解~天理へのコースを・M吉さん・K場
さんと3名で歩いた、残暑厳しい場合は帯解~櫟本駅迄のショートカットも考えたが、
割と過ごし易い天気だったのでゴールの天理駅まで完歩・・・
コース 近鉄奈良駅スタート(私はJR奈良駅~近鉄奈良駅迄も徒歩で)
近鉄奈良駅(スタンプ)ふたりと合流~高札・手力雄神社~南円堂・額塚・中金堂・五重
塔~猿沢池・率川橋(いさがわばし)地蔵尊~ならまち・道祖神(猿田彦神社)・元興寺・
にぎわいの家・庚申堂・元興寺塔址・・御霊神社~椚神社~常夜灯2灯~青井神社~
地蔵尊~帯解寺~龍象寺~大王松~菩提仙川・蔵之庄大橋~稲荷神社~楢神社~
大阪府奈良警察署櫟本分署跡~在原神社~浄土院~稲田酒造~天理本通り商店街
~天理駅(ゴール) ビールセットで乾杯!
此の日の私の万歩計は、30798歩で約22.7km歩いたことに・・・・よう歩いたわ・・・
志都美駅
左に信貴山、右に生駒山
JR奈良駅前
旧駅舎・・・観光案内所
近鉄奈良駅(スタンプ貰う)知人と合流
商店街を通り、高札へ向かう
高札
奈良市三条通は平城京の時代からの道です。東六坊大路の餅飯殿通と交わる所は
江戸時代、札の辻でした。幕府のお触れや命令を高札で広めた「橋本町御高札場」
があり、興福寺や春日大社に近く、当時もにぎわっていた場所です。歴史を見直そう
と、1984年に地元の人たちによって元の場所の近くに復元されました。
また、明治時代に奈良県が設置された時、街道の起点を表す「奈良県里程元標」が
建てられ、戦後は基礎の石積みだけが残っていましたが、2010年に現在の高札場
のそばに復元されました。今は多くの人に注目され、記念撮影のスポットです。
手力雄神社(たぢからおじんじゃ)
手力雄神社は、奈良県奈良市橋本町にある神社。春日大社境外末社。三条通北側
東端築地の上にあり、後方は築地塀を挟んで興福寺会館となる。
祭神は天手力雄神(アメノタジカラオ)
※天手力雄神(アメノタジカラオ)
岩戸隠れの際は岩戸の脇に控えており、アマテラスが岩戸から顔をのぞかせた時、
アマテラスを引きずり出して(『日本書紀』の一書や『古語拾遺』では「引き開けて」)、
それにより世界に明るさが戻った。
天孫降臨の際、アマテラスが三種の神器にオモイカネ、タヂカラオ、天石別神を副
えたとあり、その後伊勢の佐那県(三重県多気町佐奈)に鎮座したとしている。
南円堂
西国三十三所観音霊場の第九番札所です。
弘仁4年(813)に藤原冬嗣(ふゆつぐ)が父内麻呂(うちまろ)の冥福を願ってお建てに
なった八角円堂です。基壇(きだん)築造の際に地神を鎮めるために、和同開珎(わど
うかいちん)や隆平永宝(りゅうへいえいほう)をまきながら築き上げたことが発掘調査
であきらかになりました。この儀式には弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)が深く
係わったことが伝えられます。
興福寺は藤原氏の氏寺でしたが、藤原氏の中でも摂関家北家の力が強くなり、その祖
である内麻呂・冬嗣親子ゆかりの南円堂は興福寺の中でも特殊な位置を占めます。
そのうえ本尊不空羂索観音菩薩(ふくうけんさくかんのん)像が身にまとう鹿皮は、氏
神春日社(かすがしゃ)との関係から、特に藤原氏の信仰を集めました。
創建以来4度目の建物で、寛政元年(1789)頃に再建されました。堂内には本尊不空
羂索観音菩薩像、法相六祖坐像(ほっそうろくそざぞう)、四天王(してんのう)像(以上
いずれも国宝)が安置されます。
右近の橘
額塚・・・興福寺の「額塚(茶臼山)」
「南大門跡」から北側の石段を下りて、西の「南円堂」の方へ向かう途中、売店と「不動
堂」の間に高さ2m芝生の「茶臼山」が在ります。奈良時代天平宝宇の始め頃、興福寺
南大門にも月輪山(がちりんざん)の山号額を掲げていましたが、何故か、しばしば魔
障が起こり、風も無いのに樹木が倒伏し、水が突然噴出して大穴を開け、石垣を崩壊
したので、山内大いに困惑していると、ある僧の霊夢に「月の字は水に縁ある為なり」
とお告げがあり、困り果てて額を取り下げると、不思議にその後何も起こらず事なきを
得ました。それで、額を埋めた所が「額塚」で、以後は、法相宗大本山「興福寺」では、
山号を用いておりません。
興福寺中金堂・・・2018/10/08 に公開 一般公開は10月20日より
「天平回帰」を目指す世界遺産・興福寺(奈良市)で、焼失後約300年ぶりに再建された
伽藍(がらん)中核である中金堂(ちゅうこんどう)の落慶奉告(ぶこく)法要が7日、営ま
れた。焼失を繰り返しながらも再びよみがえった、平城宮大極殿(だいごくでん)に匹敵
する巨大木造建築の威容に見入る参列者約3千人が悲願の実現を祝った。
興福寺五重塔
古都奈良を象徴する塔です。塔は仏教の祖釈迦の舎利(しゃり)(遺骨)をおさめる墓
標です。天平2年(730)に興福寺の創建者藤原不比等(ふひと)の娘光明(こうみょう)
皇后がお建てになりました。初層の東に薬師浄土変(やくしじょうどへん)、南に釈迦
浄土変(しゃかじょうどへん)、西に阿弥陀浄土変(あみだじょうどへん)、北に弥勒浄
土変(みろくじょうどへん)を安置し、また各層に水晶の小塔と垢浄光陀羅尼経(くじょ
うこうだらにきょう)を安置していたと伝えられます。
その後5回の被災・再建をへて、応永33年(1426)頃に再建されました。高さ50.1m、
初層は方三間で8.7m、本瓦(ほんがわら)葺きの塔です。軒の出が深く、奈良時代の
特徴を随所に残していますが、中世的で豪快な手法も大胆に取り入れた、大変に力強
い塔です。
初層の四方には、創建当初の伝統を受け継ぐ薬師三尊像、釈迦三尊像、阿弥陀三尊
像、弥勒三尊像を安置します。
猿沢池(さるさわいけ、さるさわのいけ)
猿沢池は、奈良県奈良市の奈良公園にある周囲360メートルの池。興福寺五重塔が
周囲の柳と一緒に水面に映る風景はとても美しく、「猿沢池月」 は南都八景のひとつ
となっている。興福寺が行う「放生会」の放生池として、天平21年(749年)に造られた
人工池である。放生会とは、万物の生命をいつくしみ、捕らえられた生き物を野に放
つ宗教儀式である。
率川橋(いさがわばし)地蔵尊・・・・(率川暗渠工事で発見されて集めた石仏)
猿沢池のすぐ南側部分の率川橋(いさがわばし)の下に目をやると、不思議な舟型の
台座に何体かの石仏が集められた一角があります。これは『率川地蔵尊』(または「尾
花谷地蔵尊」「舟地蔵」とも)と呼ばれるもの。幕末のころ、この辺りの河川工事をした
際に、埋もれていた約40体の石仏が見つかり、ここに集められて祀られるようになっ
たのだそうです。
ならまち
道祖神(猿田彦神社)
猿田彦神社(さるたひこじんじゃ)は、奈良県奈良市今御門町にある神社。道祖神社
とも呼ばれる。
平城天皇の御代に元興寺境内に創祀されたと伝わる。宝徳2年(1450年)元興寺の
大火後、再々の火難に類焼し、現在の小祠となった。
一説には、橘奈良麻呂の乱で無実の罪で獄死した道祖王の怨霊を恐れ、祀られた
のが始めともいう。
往古より道祖神、賽神・妻神、開運の神として近在の信仰を集め、商売繁盛、開運
招福、良縁・安産の神として名高い。
元興寺(がんごうじ)
元興寺は、奈良県奈良市にある寺院。南都七大寺の1つ。蘇我馬子が飛鳥に建立
した日本最古の本格的仏教寺院である法興寺(飛鳥寺)が、平城京内に移転した
寺院である。
広大な寺域には、金堂・講堂・塔・僧房などが立ち並んでいましたが、平安時代半ば、
その勢威も衰えてしまいました。現在では僧坊の一画が唯一現存しています。極楽
坊はかつての元興寺僧坊の一部で、鎌倉時代に極楽堂〔国宝〕と禅室〔国宝〕に改築
されました。中世以来庶民の信仰を集め、境内から無数の石仏と民俗資料が発見さ
れています。法輪館には奈良時代の木造五重小塔〔国宝〕木造阿弥陀如来坐像・智
光曼陀羅図・庶民信仰資料〔各重文〕などが多数保存されています。
にぎわいの家
大正6年(1917年)に古物商によって建てられた町家(蔵は江戸期)で、茶室や15帖も
ある広い座敷、金箔の貼られた仏間ほか、襖絵や装飾など、その空間構成や意匠は
見応えがあります。現在は、二十四節気をテーマに、四季を感じる町家の良さや生活
文化を発信する町家として、奈良町のにぎわいの場となっています(登録有形文化財)
吉祥堂
「庚申さん」とよばれる青面(しょうめん)金剛像がまつられています。この「庚申」さんの
お使いの猿を型どったお守りは、魔除けとして、よく奈良町の家の軒先にぶらさがって
います。災いを代わりに受けていただけることから、「身代わり猿」と呼ばれています。
また、背中に願い事を書いてつるすと願いが叶うといわれ、「願い猿」ともいいます。
元興寺塔址
門前に『史跡 元興寺塔跡』の碑が立ち、民家に囲まれた小さな空間に仮堂と塔跡があ
ります。元興寺は、現在の明日香村にあった日本最古の本格的仏教寺院・法興寺(飛
鳥寺)が平城遷都のときに移設されたものです。
現在奈良町と呼ばれる広大なエリア全体が元興寺の境内でしたが、一揆や火災による
消失のあと衰退し、現在は「極楽坊」「塔跡」「小塔院」の3つ別のお寺に分かれて残って
います。後者の二つはそれぞれ東塔と西塔にあたりますが、小塔院にあったとされる高
さ5.5mの室内型の五重塔は、現在「極楽坊」の収蔵庫に保管されていて、常時見学が
可能です。
一方「塔跡」にあった五重塔は、江戸時代末期(1859年)に焼失するまでは、奈良の名所
として知られ、伝承では72mですが、少なくとも興福寺の五重塔(約51m)をしのぐ高い塔
であったことは間違いなさそうです。実際、現存する興福寺の五重塔も鎌倉時代に再建さ
れるときは、この元興寺の五重塔を参考に奈良時代の技法で再現されたのだそうです。
同時に焼失した観音堂(仮堂)は再建されましたが、塔は再建されていません。塔跡には、
ほんの150年ほど前まで巨大な塔が立っていたと言うだけあって、綺麗な状態で基壇と
礎石が残っています。
御霊神社
創祀は800年(延暦19年)、桓武天皇の勅願によると伝えられています。
本殿に祀られているのは、無実の罪で幽閉されたあげく亡くなった井上内親王とその子、
他戸親王の二座。さらに東側社殿・西側社殿にはそれぞれ三座を、また境内末社には
開運出世、衣食住、縁結びとご利益の広大な出世稲荷神社と学問の神様・若宮社も祀
られています。
椚神社へ向う
民家の軒先に咲く花
椚神社(くぬぎじんじゃ)
椚神社は、奈良県奈良市にある神社である。神木として櫟(くぬぎ)の木を祀っている。
空海伝承
空海(弘法大師)が大柳生から奈良へ来た際に、この地で休息し、出立にあたり櫟の杖
を挿して置いていかれたものが芽を出し、神木となったという。一説には杖は春日明神
の杖であったとも伝わる。椚大明神と呼ばれ、この椚を切ると罰が当たると言われてい
る。文政年間に一度枯れて植え替えられ、現在は3代目の神木にあたるとされる。
神社の周囲は、現在は肘塚(かいのつか)町と呼ばれるが、古くは椚(くぬぎ)町と呼ばれ
た。明治16年合併前の旧肘塚町の南に位置し、「椚木町 十三ヶ寺の下」と「奈良曝」に
記されたように、南都十三ヶ寺の地子がかけられた。 肘塚町と同様、肘塚村内に形成
された町の一つで、「大乗院寺社雑事記」では長禄2年(1458年)11月2日の条に、「カ
ヰノツカノ郷事者、依守神木(クノキ)所役皆免ノ在所也」との記述があり、神木を守る役
が肘塚郷にあったとみられ、町名、神社もこれに関連するものと考えられる。 また「奈
良坊目拙解」では、南都南口惣門がこの地にあり、その傍らにクヌギの大樹があった
のが地名の由来とも記されている。同書では「椚」に「モンノ」と振仮名が打たれている。
寛文初年以前の作成になる奈良絵図(東大寺図書館蔵)では、奈良町南端に「くのき道」
との記述はみられるが、町名は認められない。
文政13年の常夜灯 2灯
青井神社へ向う
此の続きは、
10月12日のならまち~帯解~天理へー2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿します。
https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、青井神社~
青井神社
『大和の伝説』
「奈良から桜井に通じる上街道にそって登坂町がある。この町の中ほどに青井明神
という社があるが、俗にくさ神さんと呼んでいる。
昔、小野小町が宮中で歌の競詠会があった時、全国からたくさんの歌人たちが集まっ
たが、だれも小町に勝つものはなかった。紀州から出て来た某は小町に負けたのを
残念に思い、朝廷にざん言して、小町を宮中から追い出してしまった。小町は途方に
くれ、あちこち歩き回っている間に、瘡毒にかかり困っていると、ある夜の夢に翁があ
らわれ、『前世の悪因によって、そのようになったのである。奈良から一里はなれたと
ころに、ホウソウ神をまつる神社がある。そこへ詣り、一心に拝むがよい』と告げた。
小町はそこで、二十一日間、行水して祈願すると、満願の日に瘡毒はすっかりなおっ
た。小町は、はるさめは今ひと時にはれてゆく
ここにぬぎおくおのがみのかさ の歌を残して、伊勢に去ったという」
この伝承からすると、この社は平安時代にはあったということになります。灯篭には
「疱瘡神社」と記されていて、この神社の信仰が、純粋な疱瘡除け、疱瘡治しであっ
たことを思わせます。
地蔵尊
帯解寺へ向かう
帯解寺
帯解寺縁起
当山は弘法大師の師である勤操大徳の開基巖渕千坊の一院で霊松庵と申しました。
そして、今から約1100年前、人皇55代文徳天皇の御妃染殿皇后(藤原明子)が永い
間お子様が生まれず、大変お悩みの折、祖神春日明神のお告げによって、早速勅使
をたてられて帯解子安地蔵菩薩にお祈り遊ばされたところ、まもなく御懐妊、月満ちて
惟仁親王(のちの清和天皇)を御安産になられました。
文徳天皇はお喜びのあまり、天安二年(858年)春、更に伽藍を建立になり寺号を改
められ、無事帯が解けた寺、帯解寺(おびとけでら)と勅命せられました。
帯解の名称はここから始まりました。
昭和34年7月美智子妃殿下御懐妊に際して安産祈願法要を厳修し奉り、同年9月30
日安産岩田帯、御守、御祈祷札を献納致しました。
昭和40年8月、昭和43年10月にも御安産祈願法要を修し、岩田帯、御守を献納致し
まして、時の東宮御所より御礼状を賜っております。
そして平成3年5月、及び平成6年8月には、秋篠宮妃紀子殿下に安産岩田帯、御守、
御祈祷札を献納、また平成13年6月には皇太子妃雅子殿下にも安産岩田帯、御守、
御祈祷札を献納いたしており、東宮御所より御礼状を賜っております。
龍象寺(りゅうぞうじ)
龍象寺は、帯解寺などがある上街道沿いに広がる「帯解エリア」の古い町並みの一角
にある高野山真言宗の小さな寺院です。
その歴史は大変古いもので、天平2年(730年)に、光明皇后の安産祈願をする中で、
行基菩薩により創建されたと言われています。なお、当時は近くにある「広大寺池」の
そばにあった大きなお寺「広大寺」の奥之院として設置されたともされています。なお、
このお寺はあくまでもかつて存在した広大寺に由来するものであるため、現在有名な
お寺として知られている近くにある「帯解寺」の「奥の院」ではありません。
ちなみにこのお寺の「龍象」という名は「広大寺」に生息したとされる「巨大な龍」に由
来するものとされ、お寺にある龍の絵から龍が抜け出して広大寺池で遊ぶといったユ
ニークな伝説も残されています。
櫟本へ向かう
高井病院の大王松
菩提仙川・蔵之庄大橋
稲荷神社
楢神社(ならじんじゃ)
五十狭芹彦命(いさりせりひこのみこと)を祭神とし、鬼子母神を合祀する。鬼子母神像
は手にザクロを持っていることから、子授けの神として有名。御利益を受けて授かった
子どもの名前には、「奈良」や「楢」の字を頂いて命名するという習わしがあった。境内
には8代目市川団十郎の奉納による「実増井の井筒(みますいのいづつ)」があり、子
授けの霊水が湧くともいわれている。本殿は文久2年(1862)、春日大社の式年造替に
より払い下げられたもの。氏子が春日大社から神社まで、担いで運んだと伝えられる。
大阪府奈良警察署櫟本分署跡
明治19年ごろ、大阪府奈良警察署櫟本(いちのもと)分署として使用されていました。
なぜココが有名になったかと言うと、天理教教祖中山みき(89歳)が、明治19年(1886)
2月18日から12日間、軍国主義に反対したために拘留されていたからです。天理教
信者にとって重要な聖地というべき所でしょうか。古い町並み(馬出しの町並み)の一
角に有り、格子戸のある町家です。やや薄暗い内部は教祖が座っていたとされる所を
再現されていした。
在原神社(在原寺跡)
標石が示すとおり、元々は在原寺と業平神社がありましたが、明治時代の廃仏毀釈
で在原寺が廃され、業平神社は在原神社になりました。
在原神社-在原業平と父を祀る神社-
「伊勢物語」の作者とも、モデルとも伝えられる在原業平とその父・阿保親王(あぼしん
のう・平城天皇の皇子)が祀られています。
中将・在原業平は有名な歌人の一人で、絶世の美男子だったと伝えられ、紀有常の娘
とこの地に居を構えていました。
在原寺跡-在原氏の氏寺-
和州在原寺の縁起によると、東の平尾山には光明皇后が開かれた補陀落山観音院本
光明寺(現在の姫丸神社近辺)があり(本尊・聖武天皇御縁仏の十一面観音)、阿保親
王(第51代平城天皇の子)はこの観音を信心したおかげで在原業平が生れたと信じ、
承和2(835)年、光明寺をこの地に移して、本光明山補陀落院在原寺と称したそうです。
その後に書かれた「寛文寺社記」には、元慶4(880)年5月28日に業平が病没したので、
邸を寺にしたとあります。
天文23(1554)年の『吉野詣記』や、延宝9(1681)年の『和州旧跡幽考』には、寺領はわ
ずかに五石だが、本堂、庫裡、楼門などがあり、近在は在原千軒と呼ばれるほど人家
が建ち並んでいた、と記されています。
その後、在原寺は廃寺となり、本堂は明治初年に大和郡山市若槻の西融寺に移された。
在原神社
参拝紀念にA4カードが・・・
浄土院
勢至丸さま像・・・法念上人の幼名
法然(ほうねん、長承2年(1133年) - 建暦2年(1212年))は、平安時代末期から鎌倉
時代初期の日本の僧である。はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、承安5年
(1175年)、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平
等に往生できるという専修念仏の教えを説き、のちに浄土宗の開祖と仰がれた。法然
は房号で、諱は源空(げんくう)。幼名を勢至丸。通称は黒谷上人・吉水上人とも。
浄土宗では、善導を高祖とし、法然を元祖と崇めている。
※浄土真宗
浄土真宗では、法然を七高僧の第七祖とし、法然上人・源空上人と称し、元祖と位置
付ける[注釈。親鸞は、『正信念仏偈』や『高僧和讃』などにおいて、法然を「本師源空」
や「源空聖人」と称し、師事できたことを生涯の喜びとした。
稲田酒造・・・HPより
稲田酒造合名会社はJR・近鉄天理駅から東西に伸びる三島本通り商店街にある創業
130年余りの酒蔵です。 小さな蔵元ですが造り手、売り手、飲み手が一本の糸で結ば
れ、それぞれの顔が見える状況にあること、人と人との繋がりを大切にすることをモット
ーに営業しております。
また昭和45年より造り酒屋のおいしい奈良漬けとして白瓜、きゅうり、スイカ、守口大根、
生姜等の奈良漬けを製造・販売させていただいております。
年末に歩こう会の歩き納め、稲田酒造様で納会を予定しています。
天理本通り商店街
天理ステーションストア?
信華摟? 生ビールセットにつられて・・・
近鉄てくてくマップハイキング 伊本4
近鉄てくてくマップハイキング、ならまちから帯解~天理へのコースを・M吉さん・K場
さんと3名で歩いた、残暑厳しい場合は帯解~櫟本駅迄のショートカットも考えたが、
割と過ごし易い天気だったのでゴールの天理駅まで完歩・・・
コース 近鉄奈良駅スタート(私はJR奈良駅~近鉄奈良駅迄も徒歩で)
近鉄奈良駅(スタンプ)ふたりと合流~高札・手力雄神社~南円堂・額塚・中金堂・五重
塔~猿沢池・率川橋(いさがわばし)地蔵尊~ならまち・道祖神(猿田彦神社)・元興寺・
にぎわいの家・庚申堂・元興寺塔址・・御霊神社~椚神社~常夜灯2灯~青井神社~
地蔵尊~帯解寺~龍象寺~大王松~菩提仙川・蔵之庄大橋~稲荷神社~楢神社~
大阪府奈良警察署櫟本分署跡~在原神社~浄土院~稲田酒造~天理本通り商店街
~天理駅(ゴール) ビールセットで乾杯!
此の日の私の万歩計は、30798歩で約22.7km歩いたことに・・・・よう歩いたわ・・・
志都美駅
左に信貴山、右に生駒山
JR奈良駅前
旧駅舎・・・観光案内所
近鉄奈良駅(スタンプ貰う)知人と合流
商店街を通り、高札へ向かう
高札
奈良市三条通は平城京の時代からの道です。東六坊大路の餅飯殿通と交わる所は
江戸時代、札の辻でした。幕府のお触れや命令を高札で広めた「橋本町御高札場」
があり、興福寺や春日大社に近く、当時もにぎわっていた場所です。歴史を見直そう
と、1984年に地元の人たちによって元の場所の近くに復元されました。
また、明治時代に奈良県が設置された時、街道の起点を表す「奈良県里程元標」が
建てられ、戦後は基礎の石積みだけが残っていましたが、2010年に現在の高札場
のそばに復元されました。今は多くの人に注目され、記念撮影のスポットです。
手力雄神社(たぢからおじんじゃ)
手力雄神社は、奈良県奈良市橋本町にある神社。春日大社境外末社。三条通北側
東端築地の上にあり、後方は築地塀を挟んで興福寺会館となる。
祭神は天手力雄神(アメノタジカラオ)
※天手力雄神(アメノタジカラオ)
岩戸隠れの際は岩戸の脇に控えており、アマテラスが岩戸から顔をのぞかせた時、
アマテラスを引きずり出して(『日本書紀』の一書や『古語拾遺』では「引き開けて」)、
それにより世界に明るさが戻った。
天孫降臨の際、アマテラスが三種の神器にオモイカネ、タヂカラオ、天石別神を副
えたとあり、その後伊勢の佐那県(三重県多気町佐奈)に鎮座したとしている。
南円堂
西国三十三所観音霊場の第九番札所です。
弘仁4年(813)に藤原冬嗣(ふゆつぐ)が父内麻呂(うちまろ)の冥福を願ってお建てに
なった八角円堂です。基壇(きだん)築造の際に地神を鎮めるために、和同開珎(わど
うかいちん)や隆平永宝(りゅうへいえいほう)をまきながら築き上げたことが発掘調査
であきらかになりました。この儀式には弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)が深く
係わったことが伝えられます。
興福寺は藤原氏の氏寺でしたが、藤原氏の中でも摂関家北家の力が強くなり、その祖
である内麻呂・冬嗣親子ゆかりの南円堂は興福寺の中でも特殊な位置を占めます。
そのうえ本尊不空羂索観音菩薩(ふくうけんさくかんのん)像が身にまとう鹿皮は、氏
神春日社(かすがしゃ)との関係から、特に藤原氏の信仰を集めました。
創建以来4度目の建物で、寛政元年(1789)頃に再建されました。堂内には本尊不空
羂索観音菩薩像、法相六祖坐像(ほっそうろくそざぞう)、四天王(してんのう)像(以上
いずれも国宝)が安置されます。
右近の橘
額塚・・・興福寺の「額塚(茶臼山)」
「南大門跡」から北側の石段を下りて、西の「南円堂」の方へ向かう途中、売店と「不動
堂」の間に高さ2m芝生の「茶臼山」が在ります。奈良時代天平宝宇の始め頃、興福寺
南大門にも月輪山(がちりんざん)の山号額を掲げていましたが、何故か、しばしば魔
障が起こり、風も無いのに樹木が倒伏し、水が突然噴出して大穴を開け、石垣を崩壊
したので、山内大いに困惑していると、ある僧の霊夢に「月の字は水に縁ある為なり」
とお告げがあり、困り果てて額を取り下げると、不思議にその後何も起こらず事なきを
得ました。それで、額を埋めた所が「額塚」で、以後は、法相宗大本山「興福寺」では、
山号を用いておりません。
興福寺中金堂・・・2018/10/08 に公開 一般公開は10月20日より
「天平回帰」を目指す世界遺産・興福寺(奈良市)で、焼失後約300年ぶりに再建された
伽藍(がらん)中核である中金堂(ちゅうこんどう)の落慶奉告(ぶこく)法要が7日、営ま
れた。焼失を繰り返しながらも再びよみがえった、平城宮大極殿(だいごくでん)に匹敵
する巨大木造建築の威容に見入る参列者約3千人が悲願の実現を祝った。
興福寺五重塔
古都奈良を象徴する塔です。塔は仏教の祖釈迦の舎利(しゃり)(遺骨)をおさめる墓
標です。天平2年(730)に興福寺の創建者藤原不比等(ふひと)の娘光明(こうみょう)
皇后がお建てになりました。初層の東に薬師浄土変(やくしじょうどへん)、南に釈迦
浄土変(しゃかじょうどへん)、西に阿弥陀浄土変(あみだじょうどへん)、北に弥勒浄
土変(みろくじょうどへん)を安置し、また各層に水晶の小塔と垢浄光陀羅尼経(くじょ
うこうだらにきょう)を安置していたと伝えられます。
その後5回の被災・再建をへて、応永33年(1426)頃に再建されました。高さ50.1m、
初層は方三間で8.7m、本瓦(ほんがわら)葺きの塔です。軒の出が深く、奈良時代の
特徴を随所に残していますが、中世的で豪快な手法も大胆に取り入れた、大変に力強
い塔です。
初層の四方には、創建当初の伝統を受け継ぐ薬師三尊像、釈迦三尊像、阿弥陀三尊
像、弥勒三尊像を安置します。
猿沢池(さるさわいけ、さるさわのいけ)
猿沢池は、奈良県奈良市の奈良公園にある周囲360メートルの池。興福寺五重塔が
周囲の柳と一緒に水面に映る風景はとても美しく、「猿沢池月」 は南都八景のひとつ
となっている。興福寺が行う「放生会」の放生池として、天平21年(749年)に造られた
人工池である。放生会とは、万物の生命をいつくしみ、捕らえられた生き物を野に放
つ宗教儀式である。
率川橋(いさがわばし)地蔵尊・・・・(率川暗渠工事で発見されて集めた石仏)
猿沢池のすぐ南側部分の率川橋(いさがわばし)の下に目をやると、不思議な舟型の
台座に何体かの石仏が集められた一角があります。これは『率川地蔵尊』(または「尾
花谷地蔵尊」「舟地蔵」とも)と呼ばれるもの。幕末のころ、この辺りの河川工事をした
際に、埋もれていた約40体の石仏が見つかり、ここに集められて祀られるようになっ
たのだそうです。
ならまち
道祖神(猿田彦神社)
猿田彦神社(さるたひこじんじゃ)は、奈良県奈良市今御門町にある神社。道祖神社
とも呼ばれる。
平城天皇の御代に元興寺境内に創祀されたと伝わる。宝徳2年(1450年)元興寺の
大火後、再々の火難に類焼し、現在の小祠となった。
一説には、橘奈良麻呂の乱で無実の罪で獄死した道祖王の怨霊を恐れ、祀られた
のが始めともいう。
往古より道祖神、賽神・妻神、開運の神として近在の信仰を集め、商売繁盛、開運
招福、良縁・安産の神として名高い。
元興寺(がんごうじ)
元興寺は、奈良県奈良市にある寺院。南都七大寺の1つ。蘇我馬子が飛鳥に建立
した日本最古の本格的仏教寺院である法興寺(飛鳥寺)が、平城京内に移転した
寺院である。
広大な寺域には、金堂・講堂・塔・僧房などが立ち並んでいましたが、平安時代半ば、
その勢威も衰えてしまいました。現在では僧坊の一画が唯一現存しています。極楽
坊はかつての元興寺僧坊の一部で、鎌倉時代に極楽堂〔国宝〕と禅室〔国宝〕に改築
されました。中世以来庶民の信仰を集め、境内から無数の石仏と民俗資料が発見さ
れています。法輪館には奈良時代の木造五重小塔〔国宝〕木造阿弥陀如来坐像・智
光曼陀羅図・庶民信仰資料〔各重文〕などが多数保存されています。
にぎわいの家
大正6年(1917年)に古物商によって建てられた町家(蔵は江戸期)で、茶室や15帖も
ある広い座敷、金箔の貼られた仏間ほか、襖絵や装飾など、その空間構成や意匠は
見応えがあります。現在は、二十四節気をテーマに、四季を感じる町家の良さや生活
文化を発信する町家として、奈良町のにぎわいの場となっています(登録有形文化財)
吉祥堂
「庚申さん」とよばれる青面(しょうめん)金剛像がまつられています。この「庚申」さんの
お使いの猿を型どったお守りは、魔除けとして、よく奈良町の家の軒先にぶらさがって
います。災いを代わりに受けていただけることから、「身代わり猿」と呼ばれています。
また、背中に願い事を書いてつるすと願いが叶うといわれ、「願い猿」ともいいます。
元興寺塔址
門前に『史跡 元興寺塔跡』の碑が立ち、民家に囲まれた小さな空間に仮堂と塔跡があ
ります。元興寺は、現在の明日香村にあった日本最古の本格的仏教寺院・法興寺(飛
鳥寺)が平城遷都のときに移設されたものです。
現在奈良町と呼ばれる広大なエリア全体が元興寺の境内でしたが、一揆や火災による
消失のあと衰退し、現在は「極楽坊」「塔跡」「小塔院」の3つ別のお寺に分かれて残って
います。後者の二つはそれぞれ東塔と西塔にあたりますが、小塔院にあったとされる高
さ5.5mの室内型の五重塔は、現在「極楽坊」の収蔵庫に保管されていて、常時見学が
可能です。
一方「塔跡」にあった五重塔は、江戸時代末期(1859年)に焼失するまでは、奈良の名所
として知られ、伝承では72mですが、少なくとも興福寺の五重塔(約51m)をしのぐ高い塔
であったことは間違いなさそうです。実際、現存する興福寺の五重塔も鎌倉時代に再建さ
れるときは、この元興寺の五重塔を参考に奈良時代の技法で再現されたのだそうです。
同時に焼失した観音堂(仮堂)は再建されましたが、塔は再建されていません。塔跡には、
ほんの150年ほど前まで巨大な塔が立っていたと言うだけあって、綺麗な状態で基壇と
礎石が残っています。
御霊神社
創祀は800年(延暦19年)、桓武天皇の勅願によると伝えられています。
本殿に祀られているのは、無実の罪で幽閉されたあげく亡くなった井上内親王とその子、
他戸親王の二座。さらに東側社殿・西側社殿にはそれぞれ三座を、また境内末社には
開運出世、衣食住、縁結びとご利益の広大な出世稲荷神社と学問の神様・若宮社も祀
られています。
椚神社へ向う
民家の軒先に咲く花
椚神社(くぬぎじんじゃ)
椚神社は、奈良県奈良市にある神社である。神木として櫟(くぬぎ)の木を祀っている。
空海伝承
空海(弘法大師)が大柳生から奈良へ来た際に、この地で休息し、出立にあたり櫟の杖
を挿して置いていかれたものが芽を出し、神木となったという。一説には杖は春日明神
の杖であったとも伝わる。椚大明神と呼ばれ、この椚を切ると罰が当たると言われてい
る。文政年間に一度枯れて植え替えられ、現在は3代目の神木にあたるとされる。
神社の周囲は、現在は肘塚(かいのつか)町と呼ばれるが、古くは椚(くぬぎ)町と呼ばれ
た。明治16年合併前の旧肘塚町の南に位置し、「椚木町 十三ヶ寺の下」と「奈良曝」に
記されたように、南都十三ヶ寺の地子がかけられた。 肘塚町と同様、肘塚村内に形成
された町の一つで、「大乗院寺社雑事記」では長禄2年(1458年)11月2日の条に、「カ
ヰノツカノ郷事者、依守神木(クノキ)所役皆免ノ在所也」との記述があり、神木を守る役
が肘塚郷にあったとみられ、町名、神社もこれに関連するものと考えられる。 また「奈
良坊目拙解」では、南都南口惣門がこの地にあり、その傍らにクヌギの大樹があった
のが地名の由来とも記されている。同書では「椚」に「モンノ」と振仮名が打たれている。
寛文初年以前の作成になる奈良絵図(東大寺図書館蔵)では、奈良町南端に「くのき道」
との記述はみられるが、町名は認められない。
文政13年の常夜灯 2灯
青井神社へ向う
此の続きは、
10月12日のならまち~帯解~天理へー2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿します。
https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、青井神社~
青井神社
『大和の伝説』
「奈良から桜井に通じる上街道にそって登坂町がある。この町の中ほどに青井明神
という社があるが、俗にくさ神さんと呼んでいる。
昔、小野小町が宮中で歌の競詠会があった時、全国からたくさんの歌人たちが集まっ
たが、だれも小町に勝つものはなかった。紀州から出て来た某は小町に負けたのを
残念に思い、朝廷にざん言して、小町を宮中から追い出してしまった。小町は途方に
くれ、あちこち歩き回っている間に、瘡毒にかかり困っていると、ある夜の夢に翁があ
らわれ、『前世の悪因によって、そのようになったのである。奈良から一里はなれたと
ころに、ホウソウ神をまつる神社がある。そこへ詣り、一心に拝むがよい』と告げた。
小町はそこで、二十一日間、行水して祈願すると、満願の日に瘡毒はすっかりなおっ
た。小町は、はるさめは今ひと時にはれてゆく
ここにぬぎおくおのがみのかさ の歌を残して、伊勢に去ったという」
この伝承からすると、この社は平安時代にはあったということになります。灯篭には
「疱瘡神社」と記されていて、この神社の信仰が、純粋な疱瘡除け、疱瘡治しであっ
たことを思わせます。
地蔵尊
帯解寺へ向かう
帯解寺
帯解寺縁起
当山は弘法大師の師である勤操大徳の開基巖渕千坊の一院で霊松庵と申しました。
そして、今から約1100年前、人皇55代文徳天皇の御妃染殿皇后(藤原明子)が永い
間お子様が生まれず、大変お悩みの折、祖神春日明神のお告げによって、早速勅使
をたてられて帯解子安地蔵菩薩にお祈り遊ばされたところ、まもなく御懐妊、月満ちて
惟仁親王(のちの清和天皇)を御安産になられました。
文徳天皇はお喜びのあまり、天安二年(858年)春、更に伽藍を建立になり寺号を改
められ、無事帯が解けた寺、帯解寺(おびとけでら)と勅命せられました。
帯解の名称はここから始まりました。
昭和34年7月美智子妃殿下御懐妊に際して安産祈願法要を厳修し奉り、同年9月30
日安産岩田帯、御守、御祈祷札を献納致しました。
昭和40年8月、昭和43年10月にも御安産祈願法要を修し、岩田帯、御守を献納致し
まして、時の東宮御所より御礼状を賜っております。
そして平成3年5月、及び平成6年8月には、秋篠宮妃紀子殿下に安産岩田帯、御守、
御祈祷札を献納、また平成13年6月には皇太子妃雅子殿下にも安産岩田帯、御守、
御祈祷札を献納いたしており、東宮御所より御礼状を賜っております。
龍象寺(りゅうぞうじ)
龍象寺は、帯解寺などがある上街道沿いに広がる「帯解エリア」の古い町並みの一角
にある高野山真言宗の小さな寺院です。
その歴史は大変古いもので、天平2年(730年)に、光明皇后の安産祈願をする中で、
行基菩薩により創建されたと言われています。なお、当時は近くにある「広大寺池」の
そばにあった大きなお寺「広大寺」の奥之院として設置されたともされています。なお、
このお寺はあくまでもかつて存在した広大寺に由来するものであるため、現在有名な
お寺として知られている近くにある「帯解寺」の「奥の院」ではありません。
ちなみにこのお寺の「龍象」という名は「広大寺」に生息したとされる「巨大な龍」に由
来するものとされ、お寺にある龍の絵から龍が抜け出して広大寺池で遊ぶといったユ
ニークな伝説も残されています。
櫟本へ向かう
高井病院の大王松
菩提仙川・蔵之庄大橋
稲荷神社
楢神社(ならじんじゃ)
五十狭芹彦命(いさりせりひこのみこと)を祭神とし、鬼子母神を合祀する。鬼子母神像
は手にザクロを持っていることから、子授けの神として有名。御利益を受けて授かった
子どもの名前には、「奈良」や「楢」の字を頂いて命名するという習わしがあった。境内
には8代目市川団十郎の奉納による「実増井の井筒(みますいのいづつ)」があり、子
授けの霊水が湧くともいわれている。本殿は文久2年(1862)、春日大社の式年造替に
より払い下げられたもの。氏子が春日大社から神社まで、担いで運んだと伝えられる。
大阪府奈良警察署櫟本分署跡
明治19年ごろ、大阪府奈良警察署櫟本(いちのもと)分署として使用されていました。
なぜココが有名になったかと言うと、天理教教祖中山みき(89歳)が、明治19年(1886)
2月18日から12日間、軍国主義に反対したために拘留されていたからです。天理教
信者にとって重要な聖地というべき所でしょうか。古い町並み(馬出しの町並み)の一
角に有り、格子戸のある町家です。やや薄暗い内部は教祖が座っていたとされる所を
再現されていした。
在原神社(在原寺跡)
標石が示すとおり、元々は在原寺と業平神社がありましたが、明治時代の廃仏毀釈
で在原寺が廃され、業平神社は在原神社になりました。
在原神社-在原業平と父を祀る神社-
「伊勢物語」の作者とも、モデルとも伝えられる在原業平とその父・阿保親王(あぼしん
のう・平城天皇の皇子)が祀られています。
中将・在原業平は有名な歌人の一人で、絶世の美男子だったと伝えられ、紀有常の娘
とこの地に居を構えていました。
在原寺跡-在原氏の氏寺-
和州在原寺の縁起によると、東の平尾山には光明皇后が開かれた補陀落山観音院本
光明寺(現在の姫丸神社近辺)があり(本尊・聖武天皇御縁仏の十一面観音)、阿保親
王(第51代平城天皇の子)はこの観音を信心したおかげで在原業平が生れたと信じ、
承和2(835)年、光明寺をこの地に移して、本光明山補陀落院在原寺と称したそうです。
その後に書かれた「寛文寺社記」には、元慶4(880)年5月28日に業平が病没したので、
邸を寺にしたとあります。
天文23(1554)年の『吉野詣記』や、延宝9(1681)年の『和州旧跡幽考』には、寺領はわ
ずかに五石だが、本堂、庫裡、楼門などがあり、近在は在原千軒と呼ばれるほど人家
が建ち並んでいた、と記されています。
その後、在原寺は廃寺となり、本堂は明治初年に大和郡山市若槻の西融寺に移された。
在原神社
参拝紀念にA4カードが・・・
浄土院
勢至丸さま像・・・法念上人の幼名
法然(ほうねん、長承2年(1133年) - 建暦2年(1212年))は、平安時代末期から鎌倉
時代初期の日本の僧である。はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、承安5年
(1175年)、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平
等に往生できるという専修念仏の教えを説き、のちに浄土宗の開祖と仰がれた。法然
は房号で、諱は源空(げんくう)。幼名を勢至丸。通称は黒谷上人・吉水上人とも。
浄土宗では、善導を高祖とし、法然を元祖と崇めている。
※浄土真宗
浄土真宗では、法然を七高僧の第七祖とし、法然上人・源空上人と称し、元祖と位置
付ける[注釈。親鸞は、『正信念仏偈』や『高僧和讃』などにおいて、法然を「本師源空」
や「源空聖人」と称し、師事できたことを生涯の喜びとした。
稲田酒造・・・HPより
稲田酒造合名会社はJR・近鉄天理駅から東西に伸びる三島本通り商店街にある創業
130年余りの酒蔵です。 小さな蔵元ですが造り手、売り手、飲み手が一本の糸で結ば
れ、それぞれの顔が見える状況にあること、人と人との繋がりを大切にすることをモット
ーに営業しております。
また昭和45年より造り酒屋のおいしい奈良漬けとして白瓜、きゅうり、スイカ、守口大根、
生姜等の奈良漬けを製造・販売させていただいております。
年末に歩こう会の歩き納め、稲田酒造様で納会を予定しています。
天理本通り商店街
天理ステーションストア?
信華摟? 生ビールセットにつられて・・・