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10月26日の馬見丘陵公園のダリア&コスモス

10月28日        10月26日の馬見丘陵公園のダリア&コスモス
                   午後~家内と公園散歩に・・・
馬見丘陵公園北エリア駐車場へ車を入れ、公園散歩スタートしたが、ダリア園と北エリアの
花々に見とれている間に急に太陽が雲に覆われて薄暗くなり、中央エリアへの散歩を止め、
帰る羽目になった。ダリア園の前のコスモスとダリア園の大輪のダリアを撮っただけで・・・
馬見丘陵公園北エリアは夏の花と秋の花が咲き乱れて一面が花畑、丁度花の多い時期?
南エリアもきっとバラが咲いていただろうに ” 残念 ” だった
ダリア園前のコスモス
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ダリア園
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10月23日の歩こう会は上町台地を散策ー1

10月28日          10月23日の歩こう会は上町台地を散策ー1
                    歩こう会 10月度例会  6km
前日の天気予報で降水確率 30/40%だったので予定していた歩こう会10月度例会を
開催、参加者69名で大川の八軒家浜~四天王寺迄の5km更にあべのハルカス迄6km
大川べりの受付場所ではスタート前には少し小雨が降ったり止んだりしてたがスタートの
10時には雨もやんで順調なスタート、昼食場所の生國魂神社前迄雨降らず、昼食休憩も
も無事に終わり、四天王寺へ向かう途中で小雨がポツリポツリ、四天王寺で中締め解散、
あべのハルカスへ向かうグループと天王寺駅から帰るグループに分かれて・・・・
京阪電車天満橋駅(受付)大川べりスタート~八軒家浜~中大江公園~太閤下水見学所
~南大江公園(集合写真)~榎大明神~空堀商店街を横切り~高津宮~真言坂~生國
魂神社~生玉公園(昼食休憩)~四天王寺(中締め・解散)~あべのハルカス(ゴール)
私は中締め解散後アベ地下へ反省会、此の日の私の万歩計は、17399歩で約12.8km。
志都美駅
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大川べり
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八軒家浜
かつて旧淀川(大川)左岸に設けられた船着場・八軒家浜(はちけんやはま)の歴史及び、
その歴史にちなんで2008年(平成20年)に開設された観光用岸壁・八軒家浜船着場。
上町台地北端の西麓、天満橋と天神橋の間において、平安時代までに渡辺津(わたなべ
のつ)と呼ばれる外港が成立した。大江、国府津、窪津、楼津などとも呼ばれ、摂津国の
政治の中心であった渡辺の地はまた、四天王寺、住吉大社、高野山、そして熊野三山へ
の参詣道である熊野街道の起点として駅楼が置かれ、海陸交通の要地として栄えた。
大阪平野の形成にともなって西へ移動した河口と離れて河港に姿を変えたことや、遷都
等の要因によって外港としての役割は縮小したが、同地における寄港地としての機能は
近世以降も残ることになる。
江戸時代には、同地は船宿などが8軒並んでいたことから「八軒家浜」と呼ばれるように
なり、京(伏見)と大坂を結ぶ「三十石船」と呼ばれる過書船のターミナルとなるなど、淀
川舟運の要衝として栄えた。
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中大江公園へ向かう
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中大江公園
12名ずつ班編成して10分間隔で太閤下水見学施設へ向かう。
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太閤下水見学施設
豊臣秀吉による大坂城築城の際に原型が造られたと言われている石積の下水溝です。
豊臣秀吉が大坂城築城に着手したのは、天正11年(1583年)のことでした。
町づくりにあたっては、大阪が、淀川・大和川のデルタ地帯にできた低湿な土地であった
ので、道路整備と同時に町屋から出る下水を排水するための下水溝が建設されました。
東西の横堀川に囲まれた城下町は、大坂城に向かう東西道を軸に碁盤の目に区切られ、
その道路に面した建物の背中どうしのところ(裏口)に下水溝が掘られました。この下水
溝は「背割下水」、あるいは太閤秀吉にちなんで「太閤下水」と呼ばれています。当時の
大阪は、この太閤(背割)下水に挟まれた約40間(72m)四方の区画が町割りの基本と
なっていました。
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南大江公園(班毎の集合写真撮影)
先に太閤下水を見学した班は此処で後続の班を待ち、全員揃って~次の場所へ向かう

榎大明神
第二次世界大戦の大阪大空襲の際、この榎木大明神のところにも猛火が迫ってきた。
しかし不思議なことに火は榎木大明神の前でぴたりと止まり、そこより東側一帯は焼失
を免れた。御神木が立っている。樹齢約650年。楠木正成(くすのきまさしげ)が植えた
ともいわれる。白蛇さんを祀っている。
榎木大明神ですから榎(えのき)の木があると思いますが、実は、槐(えんじゅ)です。
槐(えんじゅ)は、マメ科の落葉高木で、中国が原産。古くから台湾、日本、韓国などで
植栽されている樹木です。
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此の続きは、
10月23日の歩こう会は上町台地を散策ー2 として
        下記のメインブログへ詳細を投稿します。
       https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、空堀商店街へ向かう~
空堀商店街へ向かう
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空堀商店街(からほりしょうてんがい)を横切る
空堀商店街は、大阪市中央区南東部にある商店街。
大坂冬の陣後に埋め立てられた大坂城南惣構(みなみそうがまえ)堀の遺構である
空堀通の西半分、松屋町筋から上町筋に至る中央区側の東西約800mのアーケー
ド商店街。
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高津宮へ向かう
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高津宮
高津宮(こうづぐう)の縁起は、平安初期の(貞観8年)清和天皇の勅命により、仁徳
天皇の旧都の遺跡を探索し、現在の大阪城付近を社地と定め社殿を築き、仁徳天
皇を主神として祭ったのを創始としている。
以後皇室を始め時の幕府等の度々の造営寄進を受け、浪速津の守護神として信仰
を集めてきた。1583年(天正11年)豊臣秀吉の大阪城築城に際し、「比売古曽社」
があった現在地に遷座し今日に至っている。
1945年(昭和20年)3月の空襲により、神輿庫を一つ残して社殿ことごとく焼失した
が、1961年(昭和36年)復興完成を見た。
仁徳天皇の御製『高き屋にのぼりて見れば 煙立つ 民のかまどは賑わいにけり』は、
1922年(大正10年)に制定された大阪市歌にも「高津宮の昔より代々栄えをかさね
きて民のかまどに立つけむりのにぎわいにまさる大阪市・・・」と歌われておるのはご
承知の通りであるが、このシーンを絵馬にしたものが絵馬堂に飾られている。
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報恩院(ほうおんいん)
報恩院は大阪市中央区にある真言宗醍醐派の仏教寺院。山号は高津山。
良遍上人が大阪の上町台地の佳き地を選び、現世利益の不動明王の世相にあった
北向不動明王(きたむきふどうみょうおう)を造立したことが、始まりと伝えられている。
また、北向不動明王と同時期に植えられたという樟(くす)は、相生の樟(あいおいの
くす)として有名で、戦前までは、繁茂していたという。
商売繁盛と家内安全の所願成就のご利益を求め、多くの人々で報恩院は香煙の絶
え間がなかったという。
明治に入って、廃仏毀釈により、報恩院は無住に近い状態になり荒れ寺になり、報恩
院第12世の孝教和上が明治・大正にかけて中興した。しかし、太平洋戦争による大
阪大空襲で、北向不動尊を残して灰燼に帰した。被災後 わずか数日が立ったぐらい
から、住職・壇信徒により焼跡整理が始まった。その後、諸堂の再建がなった。
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生國魂神社へ向かう
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真言坂(しんごんざか)・・・真言坂は大阪府大阪市天王寺区にある坂。
天王寺七坂と呼ばれる坂の一つで、一番北に位置し、かつ唯一南北に通る。北側の上
り口は千日前通の南(阪神高速高津入口付近)に通じ、上り口に真言坂の顕彰碑があ
り、正式名称は真言坂。南向きに坂を上ると生國魂神社の北の鳥居・石段の前へ至る。
坂の名の由来は、このあたりに生國魂神社の神宮寺だった法案寺をはじめとした真言
宗の仏教寺院が十坊(「生玉十坊」と呼ばれた)あったことに由来する。これらの寺院は
明治時代初頭の神仏分離により撤去され、現在は周辺はマンションやラブホテルが建
ち並んでいる。
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生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)
生國魂神社は、大阪府大阪市天王寺区生玉町にある神社。式内社(名神大社)。
旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。別名、難波大社。
大阪市中心部、難波宮跡や大坂城から南西方の生玉町に鎮座する。かつては現在
の大坂城の地に鎮座し、中世にはその社地に近接して石山本願寺も建立され繁栄
したが、石山合戦後の豊臣秀吉による大坂城築城の際に現在地に遷座されている。
この生國魂神社が祭神とする生島神(いくしまのかみ)・足島神(たるしまのかみ)は、
国土の神霊とされる。両神は平安時代に宮中でも常時奉斎されたほか、新天皇の即
位儀礼の1つである難波での八十島祭(やそしままつり)の際にも主神に祀られた重
要な神々で、生國魂神社自体もそれら宮中祭祀と深い関わりを持つとされる。また、
同様に大坂城地から遷座されたという久太郎町の坐摩神社とともに、難波宮との関
わりも推測されている。その後中世・近世を通じても崇敬を受け、戦前の近代社格制
度においては最高位の官幣大社に位置づけられ大阪の代表的な古社の1つである。
社伝では、神武天皇(初代天皇)の東征の際、天皇が摂津国石山碕(現在の大坂城
付近)に生島神・足島神を鎮祭したのが創建という。
史実としての創建時期は明らかでないが、孝徳天皇の時に難波宮の資材になる大き
さの樹木が伐られていることから、それ以前の鎮座は確実とされる。旧鎮座地につい
て史書に詳しい記述はなく、正確な位置は明らかでない。
文献上初見は『日本書紀』孝徳天皇(在位:645年-654年)即位前紀で、その分注に孝
徳天皇が神道を軽んじた例として「生国魂社」の樹を伐ったことが記されている。この
伐採は、難波宮造営のためであったと考えられている。なお、それに先立つ『日本書
紀』推古天皇6年(598年)条では、難波吉士磐金が新羅から持ち帰った鵲2羽を「難波
杜」で飼わせたと見え、これを生國魂神社に比定する説もある。
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生玉公園(昼食休憩)
源聖寺坂入口の近くの生魂山 齢延寺 (レイエンジ)境内のチャイニーズイエローバナナ
が咲いていたら見せて貰おうと覗いて見たが既に花季は終わって見る事が出来なかった。

四天王寺(中締め・解散
四天王寺(してんのうじ)は、大阪市天王寺区四天王寺にある寺院。聖徳太子建立七
大寺の一つとされている。山号は荒陵山(あらはかさん)、本尊は救世観音菩薩(ぐぜ
かんのんぼさつ)である。「金光明四天王大護国寺」(こんこうみょうしてんのうだいごこ
くのてら)ともいう。
『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されたという。当寺周辺の
区名、駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称である。また、荒陵寺(あ
らはかでら)・難波大寺(なにわだいじ)・御津寺(みとでら)・堀江寺(ほりえでら)などの
別称が伝えられている。
宗派は天台宗に属していた時期もあったが、元来は特定宗派に偏しない八宗兼学の
寺であった。日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派
にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年に「和宗」の総本山として独立している。
四天王寺は蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並び日本における本格的な仏教寺院として
は最古のものである。
四天王寺の草創については『日本書紀』に次のように記されている。
用明天皇2年(587年)、かねてより対立していた崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の間
に武力闘争が発生した。蘇我軍は物部氏の本拠地であった河内国渋河へ攻め込んだが、
敵の物部守屋は稲城(稲を積んだ砦)を築き、自らは朴(えのき)の上から矢を放って防戦
するので、蘇我軍は三たび退却した。聖徳太子こと厩戸皇子(当時14歳)は蘇我氏の軍
の後方にいたが、この戦況を見て、白膠木(ぬるで)という木を伐って、四天王の形を作り、
「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺塔(てら)を建てる」という誓願をし
た。その甲斐あって、味方の矢が敵の物部守屋に命中し、彼は「えのき」の木から落ち、戦
いは崇仏派の蘇我氏の勝利に終わった。その6年後、推古天皇元年(593年)、聖徳太子
は摂津難波の荒陵(あらはか)で四天王寺の建立に取りかかった。寺の基盤を支えるため
には、物部氏から没収した奴婢と土地が用いられたという(なお、蘇我馬子の法興寺は上
記の戦いの翌年から造営が始まっており、四天王寺の造営開始はそれから数年後であっ
た)。以上が『書紀』の記載のあらましである。聖徳太子の草創を伝える寺は近畿地方一円
に多数あるが、実際に太子が創建に関わったと考えられるのは四天王寺と法隆寺のみで、
その他は「太子ゆかりの寺」とするのが妥当である。
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あべのハルカスへ向かう
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私は中締め解散後ハルカスへは向かう途中で8名でアベ地下へ反省会に・・・

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