真田幸村と伊達正宗が激突した誉田・道明寺を巡る-1
12月15日 真田幸村と伊達正宗が激突した誉田・道明寺を巡る-1
12月12日の昼飲み会忘年会ハイキング
昼飲み会に参加する知人・S藤さん・M吉さん・K場さんと4名で湯処・あべの橋温泉~居
酒屋での昼宴を目指して歩いた、雨にも会わず、まーまーのハイキング日和でした。
コース 真田幸村 大坂の陣 ゆかりの地を訪ねて 古市駅10時スタートで歩きました。
古市駅(10時スタート)~白鳥神社~白鳥陵古墳~墓山古墳~向墓山古墳~誉田八幡
宮~応神天皇陵~大鳥塚古墳・縦走~小室山古墳・縦走・昼食~仲姫命陵古墳~古室
八幡神社~澤田八幡神社~鍋塚古墳~道明寺~道明寺天満宮~道明寺駅(ゴール)
道明寺駅 → 大阪阿部野橋駅 湯処・あべの橋温泉 ~ 居酒屋
此の日の私の万歩計は、20599歩で約15.2kmあるいたことに・・・
志都美駅
柏原駅で近鉄線に乗り換え
道明寺駅で橿原神宮前行に乗り換え、道明寺駅ホーム
※道明寺駅の歴史・・・近鉄電車発祥の駅として知られる? 近畿日本鉄道(近鉄)の駅。
駅番号は南大阪線がF15、道明寺線がN15。柏原駅や古市駅と並び、現在の近鉄に属
する駅の中では最古の歴史を有する。
1898年(明治31年)3月24日 - 河陽鉄道として柏原 - 当駅 - 古市間が開業に設置。
1899年(明治32年)5月11日 - 河陽鉄道の路線を河南鉄道が承継。同社の駅に。
1919年(大正8年)3月8日 - 社名変更により大阪鉄道の駅となる。1922年(大正11年)
4月18日 - 当駅から布忍駅までが開通。分岐駅となる。1943年(昭和18年)2月1日 - 関
西急行鉄道が大阪鉄道を合併、関西急行鉄道駅。1944年(昭和19年)6月1日 - 戦時統
合により関西急行鉄道が南海鉄道(現在の南海電気鉄道の前身。後に再独立)と合併、
近畿日本鉄道の駅となる。
※駅周辺のシンボルでもあったサントリー道明寺工場は2004年10月末で操業を停止し、
解体された。
古市駅(10時スタート)
※古市駅の歴史・・・近鉄電車発祥の駅として知られる?
近畿日本鉄道(近鉄)の駅。
道明寺駅、柏原駅と並び、現在の近鉄に属する駅の中では最古の歴史を有する。
白鳥神社
日本武尊、素戔嗚命、稲田姫命を祀る。明治時代に近隣の高屋神社を合祀し、その
祭神である饒速日命、広国押武金日命(安閑天皇)を合せ祀る。
元は軽里の西方の伊岐谷にある白鳥陵の頂に鎮座し、「伊岐宮(いきのみや)」と呼ば
れていた。南北朝・戦国の兵火により衰微し、峯ケ塚古墳の頂の小祠として祀られてき
たが、1596年(慶長9年)の慶長の大地震で倒壊し、そのまま放置されていた。1784年
(天明4年)に古市の氏神として現在地に移された。
日本武尊(ヤマトタケル)御陵参道
※「日本武尊」
ヤマトタケル(生年不詳 - 景行天皇43年)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族(王族)。
『日本書紀』では主に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、『古事記』では主に「倭建命
(やまとたけるのみこと)」と表記される。現在では、漢字表記の場合に一般には「日本
武尊」の用字が通用される。第12代景行天皇皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。
熊襲征討・東国征討を行なったとされる、日本古代史上の伝説的英雄である。
草薙剣
記紀日本武尊が帯びた剣は、草薙剣(草那芸剣)といわれる。出雲でスサノオ尊がヤマ
タノオロチを倒した際にその尾から出てきたもので、天照大神に献上され、天孫降臨に
伴い三種の神器の一つとして、再び地上に戻ってきたものである。
日本書紀の注記によると、元は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)という名で、日本武
尊が駿河で野火攻めに遭った時、この剣が独りでに鞘から抜けて草を薙ぎ払い、難を
逃れたことにより草薙剣(くさなぎのつるぎ)と名付けられたとする。ただし、これは挿入
された異伝であり、正式な伝承とは見なされていない。本文では一貫して草薙剣と表記
され、途中で名称が変わることはない。古事記でも草那芸剣(大刀)とのみ記される。
白鳥陵古墳・・・白鳥陵(しらとりのみささぎ)
公式形式は前方後円。考古学名は「軽里大塚古墳」または「前の山古墳」。墳丘長190m
の前方後円墳で、5世紀後半の築造と推定される。河内の白鳥陵は明治8年(1875年)
に教部省により伊岐宮(現・白鳥神社)の白鳥神社古墳に考定されたが、明治13年(18
80年)に現陵(軽里大塚古墳/前の山古墳)に改定された。現陵は、『河内国陵墓図』では
木梨軽太子の「軽之墓」と記されている。かつては西方の峯ヶ塚古墳に比定する説もあっ
たという。
墓山古墳
墓山古墳は古市古墳群のほぼ中央にある大形の前方後円墳です。三段に築かれた墳
丘は長さ225m、くびれ部両側に造出しを備え、深い濠と幅広い堤をめぐらせます。墳丘
部は「応神天皇陵陪塚」として宮内庁が管理されていますので、内部の詳しい様子は不
明です。だた、これまでに多量の滑石製勾玉や各種の形象埴輪の出土が知られていま
す。また、後円部には亀甲紋を陰刻した長持形石棺が納置されていた報告もあります。
これらの情報から墓山古墳は5世紀の前半に築造されたと考えられます。墓山古墳の
周囲には浄元寺山、向墓山、野中、西墓山という4基の陪塚が配されていて、典型的な
中期大型古墳の様相をみせています。
向墓山古墳
墓山古墳の陪塚
誉田八幡宮へ向かう
誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)
大阪夏の陣の際、豊臣方の武将・薄田隼人が陣を布いた近くに鎮座しています。豊臣
秀頼による社殿の再建中に大阪の陣が勃発してしまった為、社殿の天井板は未だに
未完成のままとなっています。
誉田八幡宮は、大阪府羽曳野市にある神社で、旧社格は府社。主祭神は応神天皇で、
誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の直ぐ南に鎮座する。
社伝によると、欽明天皇20年(559年)に任那の復興を目指した欽明天皇によって、応神
天皇陵前に神廟が設置されたことをもって創建としている。このことから最古の八幡宮を
称している。奈良時代には行基によって神宮寺の長野山護国寺も創建された。永承6年
(1051年)の後冷泉天皇行幸の際に、元の鎮座地から1町ほど南の現在地に遷座した。
八幡神が源氏の氏神とされることから、源氏姓を名乗る歴代の将軍をはじめ、武家の信
仰を受けた。南北朝時代から戦国時代にかけては、別当職の誉田三河入道一族によって
保護されたが、享徳3年(1454年)より始まった河内守護・畠山氏の内輪争いにより社殿・
伽藍を焼失し荒廃した。三好氏により滅ぼされた応神天皇末裔の誉田氏の一部は、四国
や九州に逃れ、また、江戸期には、関西一円の香具師(やし)(露天商)の元締めとして君
臨したといわれている。河内国を支配下に置いた織田信長により、社領をすべて奪われ、
その後、豊臣秀吉は社領200石を寄進し、社殿を再建した。天正14年(1586年)に社殿が
焼失したため、豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行に任命して社殿再建を行ったが、拝殿の
建造中に大坂夏の陣・豊臣氏滅亡があり、建物の内部が未完成のままとなっている。
江戸幕府も200石の社領を安堵し、数度にわたり社殿の修復を行った。 神宮寺の長野山
護国寺は、明治の廃仏毀釈により大半の建物が取り壊され、現在は南大門のみが残る。
東高野街道(ひがしこうやかいどう)
・・・羽曳野市HPより
東高野街道は高野詣でのための京から高野山に至る道で、江戸時代には東高野街
道の他、西高野街道、下高野街道、中高野街道などいくつかの経路がありました。東
高野街道は、 京都九条の教王護国寺(東寺)から大阪平野の東縁を南下し、羽曳野
市域を通って紀見峠を越え高野山に至っています。
※ 東高野街道とは、かつて京都から高野山への参詣道として用いられた街道。
数ある高野街道のうち、いちばん東側に位置する道筋。八幡(京都府八幡市)で京街
道(大坂街道) と別れ、河内国の東部を通り、長野(大阪府河内長野市)で西高野街道
と合流し、 以南は高野街道として紀見峠、橋本、高野山へ至る。いつ頃に形成された
かは定かでない。既存の集落を経ず、出来るだけ直線になるように通されており、自
然発生的に形成された道ではなく、計画に基づいて建設された古代道路であると言わ
れている。 淀川水系の河川や、かつて存在した巨大な河内湖(深野池)周辺の湿地
帯を避けて生駒山地の麓を通り、河内国府(現在の藤井寺市)付近で大和川を越え
ると石川の左岸に沿って通った。 平安時代には、京と河内国府を結ぶ官道としても重
要であったとされる。その後は官道としての重要性は薄れたものの、仏教信仰の一般
化に伴い、高野山参りが盛んになると参拝道として賑わうようになった。
現在では、府道長尾八幡線、枚方バイパス、府道枚方交野寝屋川線、府道枚方富田
林泉佐野線と国道170号(旧道)各道の大半に相当または平行する。
応神天皇陵(誉田山古墳とも言う)
誉田御廟山古墳 (こんだごびょうやまこふん)又は誉田山古墳(こんだやまこふん)は、大
阪府羽曳野市誉田にある古墳。形状は前方後円墳。古市古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「惠我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみ
ささぎ)」として第15代応神天皇の陵に治定されている。また外濠と外堤は1978年(昭和5
3年)に国の史跡に指定されている。 名称は「応神天皇陵」とも呼ばれ。全国で大仙陵古
墳(大阪府堺市)に次ぐ第2位の規模の巨大古墳である。
事務所でトイレを貸して貰った
大鳥塚古墳(おおとりづかこふん)・縦走
大鳥塚古墳は、大阪府藤井寺市古室にある古墳。形状は前方後円墳。古市古墳群を構
成する古墳の1つ。国の史跡に指定されている(史跡「古市古墳群」のうち)。
大阪府東部、藤井寺市・羽曳野市・松原市にまたがる大古墳群である古市古墳群のうち、
中位段丘(国府台地)上に築造された大型前方後円墳である。墳形は前方後円形で、前
方部を南方に向ける。墳丘は後円部で3段築成、前方部で2段築成。墳丘表面では葺石・
円筒埴輪列や、形象埴輪(家形・蓋形・盾形・靫形・冑形埴輪など)が認められる。墳丘く
びれ部両側には造出を付すほか、墳丘周囲には馬蹄形の周濠が巡らされる(空濠、現在
は埋設保存)。大鳥塚古墳は、古墳時代中期の5世紀前葉頃の築造と推定される(赤面山
古墳も同時期)。古市古墳群では大王墓の仲津山古墳(藤井寺市沢田)と同時期とされ、
巨大前方後円墳(大王墓)に次ぐ大型前方後円墳として、当時のヤマト王権の政治階層を
示す古墳になる。
小室山古墳(こむろやまこふん)・縦走・頂上・昼食
古室山古墳は、大阪府藤井寺市古室にある古墳。形状は前方後円墳。古市古墳群を構
成する古墳の1つ。国の史跡に指定されている(史跡「古市古墳群」のうち)。
大阪府東部、藤井寺市・羽曳野市・松原市にまたがる大古墳群である古市古墳群のうち、
中位段丘(国府台地)上に築造された大型前方後円墳である。
墳形は前方後円形で、前方部を北東方に向ける。墳丘は3段築成。墳丘長は150メートル
を測り、古市古墳群では中規模になる。
古室山古墳は、古墳時代中期の4世紀末-5世紀初頭頃の築造と推定される。古市古墳群
では最初の大王墓と目される津堂城山古墳(藤井寺市津堂)と同時期とされ、巨大前方後
円墳(大王墓)に次ぐ大型前方後円墳として、当時のヤマト王権の政治階層を示す古墳。
昼食を済ませて
この続きは、
真田幸村と伊達正宗が激突した誉田・道明寺を巡る-2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿します。
https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、仲姫命陵古墳から
仲姫命陵古墳・・・仲津山古墳(なかつやまこふん)
仲ツ山古墳(仲津山古墳)は、大阪府藤井寺市沢田にある古墳。形状は前方後円墳。古市
古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「仲津山陵(なかつやまのみささぎ)」として
第15代応神天皇皇后の仲姫命の陵に治定されている。
古市古墳群の北部、誉田御廟山古墳の北東に位置する。全長290m、後円部径170m、高
さ26.2m、前方部幅193m、高さ23.3mで、古市古墳群で2番目、全国でも9番目の大きさを
誇る。国府台地の最高所にあるため、周濠は空濠に近い湿地帯になっている。 出土した埴
輪の特徴から、古市古墳群の巨大前方後円墳では、津堂城山古墳に次いで古く、5世紀前
半の築造と推定されている。
古室八幡神社
神社に由緒書きはありませんが、國府八幡神社由緒に「藤井寺市内には、江戸時代初期
の頃に誕生した八幡神社が五社あり、国府八幡神社以外の八幡神社 は、誉田八幡宮(羽
曳野市)の分霊を勧請したものとされています。沢田八幡神社、古室八幡神社、土師里八
幡神社、津堂八幡神社の四社です。」とあり、江戸時代の初め頃、誉田八幡宮の分霊を勧
請した古室地区の氏神様のようです。
国府八幡神社は、壺井八幡宮(羽曳野市)の分霊を勧請して始まっ たとされています。
※壺井八幡宮
武家棟梁・河内源氏の氏神である。八幡神として誉田別尊(応神天皇)・仲哀天皇・神功皇
后を主祭神とし、玉織姫・武内宿禰を配祀する。一帯は河内源氏の本拠地で、寛仁4年(10
20年)に源頼信が河内国国司に任じられて以降、頼信・頼義・義家の3代にわたって当地に
居住し、河内源氏と呼ばれるようになった。康平7年(1064年)5月15日、前九年の役に戦
勝して凱旋した源頼義が、現在地である河内国香呂峰の私邸の東側に社殿を造営し、河
内源氏の氏神である石清水八幡宮(京都府八幡市)を勧請したのが当社の始りである。こ
の時に地名を香呂峰から壺井と改め、壺井八幡宮を武家源氏棟梁の河内源氏の総氏神と
した。近くには河内源氏の氏寺・通法寺がある。その後、源頼義は、河内源氏の東国進出の
拠点として、鎌倉にも石清水八幡宮を勧請した(鶴岡若宮。後の鶴岡八幡宮)。頼義の5世孫
である源頼朝が鎌倉幕府を開いた後は、河内源氏の総氏神は壺井八幡宮から鶴岡八幡宮
に移り、壺井八幡宮は河内源氏の祖廟にして当地に土着した河内源氏である石川源氏の氏
神となる。
澤田八幡神社・・・境内を電車が通る神社としても有名
境内には近鉄南大阪線が横切っており、踏切が設けられている。これは1922年大阪鉄道が
布忍駅 - 道明寺駅間を開通した際、町内の中を通ることを避け、仲姫皇后陵の堤に沿って
走らせることにした結果、陵の堤に続く斜面にあった神社を横切ることになったものと考えら
れる。同じように境内に鉄道の線路が横切っている神社の一つに坂田神明宮がある。
当時の住民は線路敷設に肯定的であり、公有地の一部が無償提供されている。
国府八幡神社由緒書によると、国府八幡神社を除く近隣の八幡神社(古室八幡神社、土師
里八幡神社、津堂八幡神社)と同じく、江戸時代初期に誉田八幡宮から勧請されたものとさ
れている。拝殿の棟札には、1655年(明暦元年)11月に旧地の一町西へ遷宮したと伝えられ、
次いで1777年(安永6年)の棟札からこれらの時期に建直しが行われている。沢田の氏神と
して機能し、かつては「先度社」という宮座も存在した。明治5年に村社に列せられる。
鍋塚古墳
4世紀末葉築造、古墳の形は方墳、墳丘一辺の長さ 63m、2段築成。出土したものは、
円筒埴輪、家、衣蓋、盾、靭形といった形象埴輪。
現状は一辺40m前後ですが、周辺の調査成果により一辺63mに復元することができます。
仲姫命陵古墳外堤に食い込むような位置に築かれています。
道明寺寺(どうみょうじ)・・・真言宗御室派の尼寺。山号は蓮土山。
道明寺周辺は、菅原道真の祖先にあたる豪族、土師(はじ)氏の根拠地であった。
聖徳太子が尼寺を発願され、7世紀中葉に土師氏の氏寺として建立された土師寺が起源。
当初は天満宮の南側参道付近に位置し七堂伽藍や五重塔のある大規模なものであった。
石川の洪水で天満宮の境内に移り、さらに明治の神仏分離令によって現在地に移りまし
た。 本尊は国宝「十一面観音立像」で、毎月18日と25日に拝観で きます。
901年(延喜元年)、大宰府に左遷される道真がこの寺にいた叔母の覚寿尼を訪ね「鳴けば
こそ別れも憂けれ鶏の音のなからん里の暁もかな」と詠み、別れを惜しんだと伝えられる。
この故事は、後に人形浄瑠璃・歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』「道明寺」の場にも描かれてい
る。道真の死後、寺名は道明寺と改められるが、これは道真の号である「道明」に由来する。
道明寺天満宮
祭神は菅原道真公、天穂日命、菅原道真公のおばに当たる覚寿尼公である。隣接して道
明寺という真言宗の尼寺がある。この地は、菅原氏・土師氏の祖先に当たる野見宿禰の所
領地と伝え、野見宿禰の遠祖である天穂日命を祀る土師神社があった。仏教伝来後、土師
氏の氏寺である土師寺が建立された。伝承では聖徳太子の発願により土師八島がその邸
を寄進して寺としたという。平安時代、土師寺に は菅原道真公のおばに当たる覚寿尼公が
住んでおり、道真公も時々この寺を訪れ、この寺のことを「故郷」と詠んだ詩もある。延喜元
年(901年)、大宰府に左遷される途中にも立ち寄って、覚寿尼公との別れを惜しんだ。道真
公遺愛の品と伝える硯、鏡等が神宝として伝わり、6点が国宝の指定を受けている。
展示の修羅
土師社
道明寺駅 → 大阪阿部野橋駅 ~ 湯処・あべの橋温泉 ~ 居酒屋 甘太郎
道明寺駅前
道明寺合戦記念碑
道明寺駅前に2014年11月、大坂夏の陣 道明寺合戦の史実を後世に伝えるために建立され
た記念碑です。道明寺合戦は、真田幸村軍と伊達政宗軍が激突し、戦国の歴史が大きく動い
た戦いとして有名で、片倉小十郎、後藤又兵衛、薄田隼人など名だたる武将が戦いました。
地元では、合戦の歴史を後世に伝えるため、「道明寺合戦祭り」などを毎年開催しています。
阿倍野キューズモール
湯処・あべの橋温泉・・・4名
天然温泉・・・大阪市港区の『天然温泉テルメ龍宮』から毎日搬送しています。
源泉名 龍宮温泉 1号 阪市港区2丁目3番33号 深さ 1,500m
泉質 ナトリウム塩化物強塩温泉 泉温 摂氏53.9度(浴槽温度40~42℃)
効能 ・神経痛・筋肉痛・関節・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・打ち身・くじき
・慢性消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進・切り傷
・やけど・慢性皮膚病・虚弱体質・慢性婦人病
居酒屋へ向かう
あべのハルカス
地上300m、日本一の高さを誇る超高層複合ビル「あべのハルカス」は、近鉄大阪阿
部野橋駅、天王寺駅各線と直結。 日本最大級の百貨店や展望台、美術館、ホテルな
ど多彩な店舗が出店しており、1日中お楽しみいただけます。 大阪随一の絶景ととも
に堪能できるランチやスイーツなど、絶品グルメも充実。
大阪観光なら日本一高いビル「あべのハルカス」へ! ほんまでっせ!
居酒屋・・・今日は6名で
おまけ
帰りの王寺駅で・・・
12月12日の昼飲み会忘年会ハイキング
昼飲み会に参加する知人・S藤さん・M吉さん・K場さんと4名で湯処・あべの橋温泉~居
酒屋での昼宴を目指して歩いた、雨にも会わず、まーまーのハイキング日和でした。
コース 真田幸村 大坂の陣 ゆかりの地を訪ねて 古市駅10時スタートで歩きました。
古市駅(10時スタート)~白鳥神社~白鳥陵古墳~墓山古墳~向墓山古墳~誉田八幡
宮~応神天皇陵~大鳥塚古墳・縦走~小室山古墳・縦走・昼食~仲姫命陵古墳~古室
八幡神社~澤田八幡神社~鍋塚古墳~道明寺~道明寺天満宮~道明寺駅(ゴール)
道明寺駅 → 大阪阿部野橋駅 湯処・あべの橋温泉 ~ 居酒屋
此の日の私の万歩計は、20599歩で約15.2kmあるいたことに・・・
志都美駅
柏原駅で近鉄線に乗り換え
道明寺駅で橿原神宮前行に乗り換え、道明寺駅ホーム
※道明寺駅の歴史・・・近鉄電車発祥の駅として知られる? 近畿日本鉄道(近鉄)の駅。
駅番号は南大阪線がF15、道明寺線がN15。柏原駅や古市駅と並び、現在の近鉄に属
する駅の中では最古の歴史を有する。
1898年(明治31年)3月24日 - 河陽鉄道として柏原 - 当駅 - 古市間が開業に設置。
1899年(明治32年)5月11日 - 河陽鉄道の路線を河南鉄道が承継。同社の駅に。
1919年(大正8年)3月8日 - 社名変更により大阪鉄道の駅となる。1922年(大正11年)
4月18日 - 当駅から布忍駅までが開通。分岐駅となる。1943年(昭和18年)2月1日 - 関
西急行鉄道が大阪鉄道を合併、関西急行鉄道駅。1944年(昭和19年)6月1日 - 戦時統
合により関西急行鉄道が南海鉄道(現在の南海電気鉄道の前身。後に再独立)と合併、
近畿日本鉄道の駅となる。
※駅周辺のシンボルでもあったサントリー道明寺工場は2004年10月末で操業を停止し、
解体された。
古市駅(10時スタート)
※古市駅の歴史・・・近鉄電車発祥の駅として知られる?
近畿日本鉄道(近鉄)の駅。
道明寺駅、柏原駅と並び、現在の近鉄に属する駅の中では最古の歴史を有する。
白鳥神社
日本武尊、素戔嗚命、稲田姫命を祀る。明治時代に近隣の高屋神社を合祀し、その
祭神である饒速日命、広国押武金日命(安閑天皇)を合せ祀る。
元は軽里の西方の伊岐谷にある白鳥陵の頂に鎮座し、「伊岐宮(いきのみや)」と呼ば
れていた。南北朝・戦国の兵火により衰微し、峯ケ塚古墳の頂の小祠として祀られてき
たが、1596年(慶長9年)の慶長の大地震で倒壊し、そのまま放置されていた。1784年
(天明4年)に古市の氏神として現在地に移された。
日本武尊(ヤマトタケル)御陵参道
※「日本武尊」
ヤマトタケル(生年不詳 - 景行天皇43年)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族(王族)。
『日本書紀』では主に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、『古事記』では主に「倭建命
(やまとたけるのみこと)」と表記される。現在では、漢字表記の場合に一般には「日本
武尊」の用字が通用される。第12代景行天皇皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。
熊襲征討・東国征討を行なったとされる、日本古代史上の伝説的英雄である。
草薙剣
記紀日本武尊が帯びた剣は、草薙剣(草那芸剣)といわれる。出雲でスサノオ尊がヤマ
タノオロチを倒した際にその尾から出てきたもので、天照大神に献上され、天孫降臨に
伴い三種の神器の一つとして、再び地上に戻ってきたものである。
日本書紀の注記によると、元は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)という名で、日本武
尊が駿河で野火攻めに遭った時、この剣が独りでに鞘から抜けて草を薙ぎ払い、難を
逃れたことにより草薙剣(くさなぎのつるぎ)と名付けられたとする。ただし、これは挿入
された異伝であり、正式な伝承とは見なされていない。本文では一貫して草薙剣と表記
され、途中で名称が変わることはない。古事記でも草那芸剣(大刀)とのみ記される。
白鳥陵古墳・・・白鳥陵(しらとりのみささぎ)
公式形式は前方後円。考古学名は「軽里大塚古墳」または「前の山古墳」。墳丘長190m
の前方後円墳で、5世紀後半の築造と推定される。河内の白鳥陵は明治8年(1875年)
に教部省により伊岐宮(現・白鳥神社)の白鳥神社古墳に考定されたが、明治13年(18
80年)に現陵(軽里大塚古墳/前の山古墳)に改定された。現陵は、『河内国陵墓図』では
木梨軽太子の「軽之墓」と記されている。かつては西方の峯ヶ塚古墳に比定する説もあっ
たという。
墓山古墳
墓山古墳は古市古墳群のほぼ中央にある大形の前方後円墳です。三段に築かれた墳
丘は長さ225m、くびれ部両側に造出しを備え、深い濠と幅広い堤をめぐらせます。墳丘
部は「応神天皇陵陪塚」として宮内庁が管理されていますので、内部の詳しい様子は不
明です。だた、これまでに多量の滑石製勾玉や各種の形象埴輪の出土が知られていま
す。また、後円部には亀甲紋を陰刻した長持形石棺が納置されていた報告もあります。
これらの情報から墓山古墳は5世紀の前半に築造されたと考えられます。墓山古墳の
周囲には浄元寺山、向墓山、野中、西墓山という4基の陪塚が配されていて、典型的な
中期大型古墳の様相をみせています。
向墓山古墳
墓山古墳の陪塚
誉田八幡宮へ向かう
誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)
大阪夏の陣の際、豊臣方の武将・薄田隼人が陣を布いた近くに鎮座しています。豊臣
秀頼による社殿の再建中に大阪の陣が勃発してしまった為、社殿の天井板は未だに
未完成のままとなっています。
誉田八幡宮は、大阪府羽曳野市にある神社で、旧社格は府社。主祭神は応神天皇で、
誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の直ぐ南に鎮座する。
社伝によると、欽明天皇20年(559年)に任那の復興を目指した欽明天皇によって、応神
天皇陵前に神廟が設置されたことをもって創建としている。このことから最古の八幡宮を
称している。奈良時代には行基によって神宮寺の長野山護国寺も創建された。永承6年
(1051年)の後冷泉天皇行幸の際に、元の鎮座地から1町ほど南の現在地に遷座した。
八幡神が源氏の氏神とされることから、源氏姓を名乗る歴代の将軍をはじめ、武家の信
仰を受けた。南北朝時代から戦国時代にかけては、別当職の誉田三河入道一族によって
保護されたが、享徳3年(1454年)より始まった河内守護・畠山氏の内輪争いにより社殿・
伽藍を焼失し荒廃した。三好氏により滅ぼされた応神天皇末裔の誉田氏の一部は、四国
や九州に逃れ、また、江戸期には、関西一円の香具師(やし)(露天商)の元締めとして君
臨したといわれている。河内国を支配下に置いた織田信長により、社領をすべて奪われ、
その後、豊臣秀吉は社領200石を寄進し、社殿を再建した。天正14年(1586年)に社殿が
焼失したため、豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行に任命して社殿再建を行ったが、拝殿の
建造中に大坂夏の陣・豊臣氏滅亡があり、建物の内部が未完成のままとなっている。
江戸幕府も200石の社領を安堵し、数度にわたり社殿の修復を行った。 神宮寺の長野山
護国寺は、明治の廃仏毀釈により大半の建物が取り壊され、現在は南大門のみが残る。
東高野街道(ひがしこうやかいどう)
・・・羽曳野市HPより
東高野街道は高野詣でのための京から高野山に至る道で、江戸時代には東高野街
道の他、西高野街道、下高野街道、中高野街道などいくつかの経路がありました。東
高野街道は、 京都九条の教王護国寺(東寺)から大阪平野の東縁を南下し、羽曳野
市域を通って紀見峠を越え高野山に至っています。
※ 東高野街道とは、かつて京都から高野山への参詣道として用いられた街道。
数ある高野街道のうち、いちばん東側に位置する道筋。八幡(京都府八幡市)で京街
道(大坂街道) と別れ、河内国の東部を通り、長野(大阪府河内長野市)で西高野街道
と合流し、 以南は高野街道として紀見峠、橋本、高野山へ至る。いつ頃に形成された
かは定かでない。既存の集落を経ず、出来るだけ直線になるように通されており、自
然発生的に形成された道ではなく、計画に基づいて建設された古代道路であると言わ
れている。 淀川水系の河川や、かつて存在した巨大な河内湖(深野池)周辺の湿地
帯を避けて生駒山地の麓を通り、河内国府(現在の藤井寺市)付近で大和川を越え
ると石川の左岸に沿って通った。 平安時代には、京と河内国府を結ぶ官道としても重
要であったとされる。その後は官道としての重要性は薄れたものの、仏教信仰の一般
化に伴い、高野山参りが盛んになると参拝道として賑わうようになった。
現在では、府道長尾八幡線、枚方バイパス、府道枚方交野寝屋川線、府道枚方富田
林泉佐野線と国道170号(旧道)各道の大半に相当または平行する。
応神天皇陵(誉田山古墳とも言う)
誉田御廟山古墳 (こんだごびょうやまこふん)又は誉田山古墳(こんだやまこふん)は、大
阪府羽曳野市誉田にある古墳。形状は前方後円墳。古市古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「惠我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみ
ささぎ)」として第15代応神天皇の陵に治定されている。また外濠と外堤は1978年(昭和5
3年)に国の史跡に指定されている。 名称は「応神天皇陵」とも呼ばれ。全国で大仙陵古
墳(大阪府堺市)に次ぐ第2位の規模の巨大古墳である。
事務所でトイレを貸して貰った
大鳥塚古墳(おおとりづかこふん)・縦走
大鳥塚古墳は、大阪府藤井寺市古室にある古墳。形状は前方後円墳。古市古墳群を構
成する古墳の1つ。国の史跡に指定されている(史跡「古市古墳群」のうち)。
大阪府東部、藤井寺市・羽曳野市・松原市にまたがる大古墳群である古市古墳群のうち、
中位段丘(国府台地)上に築造された大型前方後円墳である。墳形は前方後円形で、前
方部を南方に向ける。墳丘は後円部で3段築成、前方部で2段築成。墳丘表面では葺石・
円筒埴輪列や、形象埴輪(家形・蓋形・盾形・靫形・冑形埴輪など)が認められる。墳丘く
びれ部両側には造出を付すほか、墳丘周囲には馬蹄形の周濠が巡らされる(空濠、現在
は埋設保存)。大鳥塚古墳は、古墳時代中期の5世紀前葉頃の築造と推定される(赤面山
古墳も同時期)。古市古墳群では大王墓の仲津山古墳(藤井寺市沢田)と同時期とされ、
巨大前方後円墳(大王墓)に次ぐ大型前方後円墳として、当時のヤマト王権の政治階層を
示す古墳になる。
小室山古墳(こむろやまこふん)・縦走・頂上・昼食
古室山古墳は、大阪府藤井寺市古室にある古墳。形状は前方後円墳。古市古墳群を構
成する古墳の1つ。国の史跡に指定されている(史跡「古市古墳群」のうち)。
大阪府東部、藤井寺市・羽曳野市・松原市にまたがる大古墳群である古市古墳群のうち、
中位段丘(国府台地)上に築造された大型前方後円墳である。
墳形は前方後円形で、前方部を北東方に向ける。墳丘は3段築成。墳丘長は150メートル
を測り、古市古墳群では中規模になる。
古室山古墳は、古墳時代中期の4世紀末-5世紀初頭頃の築造と推定される。古市古墳群
では最初の大王墓と目される津堂城山古墳(藤井寺市津堂)と同時期とされ、巨大前方後
円墳(大王墓)に次ぐ大型前方後円墳として、当時のヤマト王権の政治階層を示す古墳。
昼食を済ませて
この続きは、
真田幸村と伊達正宗が激突した誉田・道明寺を巡る-2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿します。
https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、仲姫命陵古墳から
仲姫命陵古墳・・・仲津山古墳(なかつやまこふん)
仲ツ山古墳(仲津山古墳)は、大阪府藤井寺市沢田にある古墳。形状は前方後円墳。古市
古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「仲津山陵(なかつやまのみささぎ)」として
第15代応神天皇皇后の仲姫命の陵に治定されている。
古市古墳群の北部、誉田御廟山古墳の北東に位置する。全長290m、後円部径170m、高
さ26.2m、前方部幅193m、高さ23.3mで、古市古墳群で2番目、全国でも9番目の大きさを
誇る。国府台地の最高所にあるため、周濠は空濠に近い湿地帯になっている。 出土した埴
輪の特徴から、古市古墳群の巨大前方後円墳では、津堂城山古墳に次いで古く、5世紀前
半の築造と推定されている。
古室八幡神社
神社に由緒書きはありませんが、國府八幡神社由緒に「藤井寺市内には、江戸時代初期
の頃に誕生した八幡神社が五社あり、国府八幡神社以外の八幡神社 は、誉田八幡宮(羽
曳野市)の分霊を勧請したものとされています。沢田八幡神社、古室八幡神社、土師里八
幡神社、津堂八幡神社の四社です。」とあり、江戸時代の初め頃、誉田八幡宮の分霊を勧
請した古室地区の氏神様のようです。
国府八幡神社は、壺井八幡宮(羽曳野市)の分霊を勧請して始まっ たとされています。
※壺井八幡宮
武家棟梁・河内源氏の氏神である。八幡神として誉田別尊(応神天皇)・仲哀天皇・神功皇
后を主祭神とし、玉織姫・武内宿禰を配祀する。一帯は河内源氏の本拠地で、寛仁4年(10
20年)に源頼信が河内国国司に任じられて以降、頼信・頼義・義家の3代にわたって当地に
居住し、河内源氏と呼ばれるようになった。康平7年(1064年)5月15日、前九年の役に戦
勝して凱旋した源頼義が、現在地である河内国香呂峰の私邸の東側に社殿を造営し、河
内源氏の氏神である石清水八幡宮(京都府八幡市)を勧請したのが当社の始りである。こ
の時に地名を香呂峰から壺井と改め、壺井八幡宮を武家源氏棟梁の河内源氏の総氏神と
した。近くには河内源氏の氏寺・通法寺がある。その後、源頼義は、河内源氏の東国進出の
拠点として、鎌倉にも石清水八幡宮を勧請した(鶴岡若宮。後の鶴岡八幡宮)。頼義の5世孫
である源頼朝が鎌倉幕府を開いた後は、河内源氏の総氏神は壺井八幡宮から鶴岡八幡宮
に移り、壺井八幡宮は河内源氏の祖廟にして当地に土着した河内源氏である石川源氏の氏
神となる。
澤田八幡神社・・・境内を電車が通る神社としても有名
境内には近鉄南大阪線が横切っており、踏切が設けられている。これは1922年大阪鉄道が
布忍駅 - 道明寺駅間を開通した際、町内の中を通ることを避け、仲姫皇后陵の堤に沿って
走らせることにした結果、陵の堤に続く斜面にあった神社を横切ることになったものと考えら
れる。同じように境内に鉄道の線路が横切っている神社の一つに坂田神明宮がある。
当時の住民は線路敷設に肯定的であり、公有地の一部が無償提供されている。
国府八幡神社由緒書によると、国府八幡神社を除く近隣の八幡神社(古室八幡神社、土師
里八幡神社、津堂八幡神社)と同じく、江戸時代初期に誉田八幡宮から勧請されたものとさ
れている。拝殿の棟札には、1655年(明暦元年)11月に旧地の一町西へ遷宮したと伝えられ、
次いで1777年(安永6年)の棟札からこれらの時期に建直しが行われている。沢田の氏神と
して機能し、かつては「先度社」という宮座も存在した。明治5年に村社に列せられる。
鍋塚古墳
4世紀末葉築造、古墳の形は方墳、墳丘一辺の長さ 63m、2段築成。出土したものは、
円筒埴輪、家、衣蓋、盾、靭形といった形象埴輪。
現状は一辺40m前後ですが、周辺の調査成果により一辺63mに復元することができます。
仲姫命陵古墳外堤に食い込むような位置に築かれています。
道明寺寺(どうみょうじ)・・・真言宗御室派の尼寺。山号は蓮土山。
道明寺周辺は、菅原道真の祖先にあたる豪族、土師(はじ)氏の根拠地であった。
聖徳太子が尼寺を発願され、7世紀中葉に土師氏の氏寺として建立された土師寺が起源。
当初は天満宮の南側参道付近に位置し七堂伽藍や五重塔のある大規模なものであった。
石川の洪水で天満宮の境内に移り、さらに明治の神仏分離令によって現在地に移りまし
た。 本尊は国宝「十一面観音立像」で、毎月18日と25日に拝観で きます。
901年(延喜元年)、大宰府に左遷される道真がこの寺にいた叔母の覚寿尼を訪ね「鳴けば
こそ別れも憂けれ鶏の音のなからん里の暁もかな」と詠み、別れを惜しんだと伝えられる。
この故事は、後に人形浄瑠璃・歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』「道明寺」の場にも描かれてい
る。道真の死後、寺名は道明寺と改められるが、これは道真の号である「道明」に由来する。
道明寺天満宮
祭神は菅原道真公、天穂日命、菅原道真公のおばに当たる覚寿尼公である。隣接して道
明寺という真言宗の尼寺がある。この地は、菅原氏・土師氏の祖先に当たる野見宿禰の所
領地と伝え、野見宿禰の遠祖である天穂日命を祀る土師神社があった。仏教伝来後、土師
氏の氏寺である土師寺が建立された。伝承では聖徳太子の発願により土師八島がその邸
を寄進して寺としたという。平安時代、土師寺に は菅原道真公のおばに当たる覚寿尼公が
住んでおり、道真公も時々この寺を訪れ、この寺のことを「故郷」と詠んだ詩もある。延喜元
年(901年)、大宰府に左遷される途中にも立ち寄って、覚寿尼公との別れを惜しんだ。道真
公遺愛の品と伝える硯、鏡等が神宝として伝わり、6点が国宝の指定を受けている。
展示の修羅
土師社
道明寺駅 → 大阪阿部野橋駅 ~ 湯処・あべの橋温泉 ~ 居酒屋 甘太郎
道明寺駅前
道明寺合戦記念碑
道明寺駅前に2014年11月、大坂夏の陣 道明寺合戦の史実を後世に伝えるために建立され
た記念碑です。道明寺合戦は、真田幸村軍と伊達政宗軍が激突し、戦国の歴史が大きく動い
た戦いとして有名で、片倉小十郎、後藤又兵衛、薄田隼人など名だたる武将が戦いました。
地元では、合戦の歴史を後世に伝えるため、「道明寺合戦祭り」などを毎年開催しています。
阿倍野キューズモール
湯処・あべの橋温泉・・・4名
天然温泉・・・大阪市港区の『天然温泉テルメ龍宮』から毎日搬送しています。
源泉名 龍宮温泉 1号 阪市港区2丁目3番33号 深さ 1,500m
泉質 ナトリウム塩化物強塩温泉 泉温 摂氏53.9度(浴槽温度40~42℃)
効能 ・神経痛・筋肉痛・関節・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・打ち身・くじき
・慢性消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進・切り傷
・やけど・慢性皮膚病・虚弱体質・慢性婦人病
居酒屋へ向かう
あべのハルカス
地上300m、日本一の高さを誇る超高層複合ビル「あべのハルカス」は、近鉄大阪阿
部野橋駅、天王寺駅各線と直結。 日本最大級の百貨店や展望台、美術館、ホテルな
ど多彩な店舗が出店しており、1日中お楽しみいただけます。 大阪随一の絶景ととも
に堪能できるランチやスイーツなど、絶品グルメも充実。
大阪観光なら日本一高いビル「あべのハルカス」へ! ほんまでっせ!
居酒屋・・・今日は6名で
おまけ
帰りの王寺駅で・・・