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12月23日の相撲発祥の伝承地とゆかりの地を訪ねて-1

12月29日     12月23日の相撲発祥の伝承地とゆかりの地を訪ねて-1
               近鉄駅フリーハイキング 歩程約10㎞ 
此の日は知人・K場さん・I 田さんと3名で参加した。此の日の私の万歩計は、24118歩
で17.8km歩いたことに。此のハイキングガ今年締め括りのハイキングでした・・・・
コース  近鉄駅フリーハイキング  五位堂駅(受付)10時~11時   10j過ぎ集合で
五位堂駅(受付・スタート)~福応寺~杵築神社~狐井城山古墳~阿日寺~相撲発祥
の伝承地・良福寺腰折田~道の駅當麻~二上山ふるさと公園(昼食)~石光寺~當麻
寺~相撲館けはや座~中将餅屋(お茶休憩)~領家山古墳~大和高田駅
志都美駅
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香芝駅~下田駅へ
鹿島神社・・・平安末期の勧請伝承を持つ由緒ある鹿島神社。
河内源氏当主源義朝の腹心に、鎌田左兵衛尉政清という者がいた。相模の出身で、母
が義朝の乳母であり、乳兄弟として義朝が最も信頼を置く男だった。平治の乱で平清盛
に敗れ京都を逐われた義朝は、勢力を立て直すべく東国へ向かった。道中落武者狩り
に遭い、多くの一族郎等を失いながら、尾張国野間の長田忠致の許に身を寄せた。忠致
は政清の舅にあたる。この時義朝は馬を失い、しかも裸足だったという。
忠致は義朝一行を快く迎え入れ歓待したが、その夜異変は起こる。忠致が恩賞目当てに
裏切り、入浴中の義朝を暗殺。政清も酒を呑まされて忠致の子景致に殺害される。平治
二年(1160)が明けて間もなくのことだった。
父政清とともに義朝に従っていた鎌田小次郎政光は難を逃れ、常陸国鹿島神宮に辿り着
いた。鹿島はかつて少しの期間ながら居住したことのある地だった。政光は鹿島大明神に
源氏再興と鎌田家繁栄を祈願し、百日の参籠を行った。満願を迎えた夜、夢に老翁が現
れてこう告げた。 「庚子の年に源氏栄えん。汝の福は西にあらん」
政光は鹿島の神の分霊を奉じて西方を目指し旅立った。長い年月が過ぎた。時に承安二
年(1172)三月、大和国下田に到った頃、日が沈んだため松の木の下で野宿をした。翌朝
目を覚ました政光は、この地の風景が鹿島に似ているように思い懐かしむ。そこでこの地
こそが我が安住の地と思い定め、小祠を建てて鹿島大明神を祀ったという。
政光とその子孫は下田の南の鎌田に代代住して鹿島神社に奉仕し、また鎌田村の名主と
して長く栄えた。そして庚子にあたる治承四年(1180)、源義朝の遺児頼朝が平氏を打倒し、
源氏の世が到来する。又、香芝市の市名由来は冠雪的に鹿島神社とされている。
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近鉄下田駅
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五位堂駅(受付・スタート)
福応寺(ふくおうじ)
恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)の創建と伝える福應寺(ふくおうじ)がある。
ご本尊は恵心僧都真筆とされる板絵(いたえ)「阿弥陀三尊来迎図」(あみだ さんぞん
らいごうず)。このご本尊が毎年7月9日に開扉される。
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※福応寺の板仏
狐井城山古墳の北側に隣接する福応寺の本尊で、板に描かれた珍しい阿弥陀来迎
図(高133.8cm、幅69.5cm、厚4.5cm)です。3枚の檜材を縦に接いで構成され、板
地に薄紙を横方向に5枚貼り、さらに板の接ぎ目には紙を貼り重ねて接ぎ目を隠して
います。朱・えんじ・黄土・緑青・藍・金泥・墨などで極彩色に描かれています。制作は
室町時代末期から江戸時代初期頃と推定されます。
香芝市狐井・良福寺に生誕地伝承を有する平安時代の学僧恵心僧都源信(942-10
17年)の真筆との伝があります。

杵築(きつき)神社
狐井に大樹が繁る杵築神社、境内に「きつねの井戸」といわれる古井戸が今も残る。
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奈良県の北西、香芝市にある狐井(きつい)というところの昔話。
昔、この村は水に恵まれず、村人は鎮守のお宮さんに、「どうぞよい水をお与え下さい」
と祈っていた。鎮守の森には狐の家族が住み、人なつっこい姿をよく見せた。村人は
「ひょっとしたら、神様のお使いかもしれん」と、暑い日には、大切な水を少し子狐に与
え、貴重な油揚げをそっと置いたりした。さて、その年はとりわけ、水不足が深刻であっ
た。ある日、村人が「お宮さんの奥で、何やら水の音がする」と言った。大急ぎで皆が
駆けつけてみると、なんと井戸からきれいな水がこんこんと湧きだしているではないか。
村人は喜び、水を両手ですくい、押し頂いて飲んだ。井戸のそばに狐の親子がいて、
母狐の前足は泥にまみれ、爪の間にはうっすらと血がにじんでいた。村人は口々にお
礼を言い、狐の足をきれいな水で洗ってやった。狐が掘り当てたこの井戸は、どんな日
照り続きにも、水が涸(か)れることはなかった。近くの村人にも快く井戸の水を汲ませ
た。それで、この村を「狐井」と呼ぶようになったそうな。
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狐井城山古墳(きついしろやまこふん)
全長約150mの前方後円墳で墳丘は中世に城郭として使用された為、改変を受けていま
すが、前方部が大きく開く形態で、築造年代を6世紀前半代に位置付ける事ができるとさ
れています。盾型の周濠と幅広の外堤をめぐらしており、埋葬施設は不明ですが、かつて
は古墳東側で用水の桶として利用されていた石材が竜山石製の長持型石棺の蓋石で、
元々は此の古墳のものであった可能性が有ると言われています。位置夜やその威容から
武烈天皇陵とする説も有ります。
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阿日寺へ向かう、二上山が見える
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阿日寺(あにちじ)
浄土宗阿日寺は、平安時代中期の天台宗の高僧・恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)
ゆかりの寺としてしられています。恵心僧都は此の寺で誕生したと伝えられ、其のため誕
生院阿日時と号しています。恵心僧都は、寛和元年(985)9月、母親の臨終に際してとも
に念仏をし、母の安楽往生を助けたと言い、更にその忌中には阿弥陀如来像を刻み、母
の身代わりとして良く仕えたと言われています。以来此の像は、下の世話をかけずに往生
できるとして、阿日寺の本尊として祀られて来ました、其の為、阿日寺は斑鳩の吉田寺と
並ぶ「ぽっくり寺」として、全国から年配の参拝者が後を絶ちません。親孝行の恵心僧都
は、更に父の為にも大日如来を彫ったと言われており、寺の名前は此の2像の名前から
「阿日寺」と付けられました。
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相撲発祥の伝承地へ向かう、正面に二上山
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相撲発祥の伝承地・良福寺「腰折田」(こしおれた)
香芝市良福寺付近にある「腰折田伝承地」です。初めての展覧相撲で腰の骨を折られて
撒けてしまった當麻蹴速(たいまのけはや)の領地が、勝者の野見宿禰(のみのすくね)に
与えられました。後の時代に、此処が決闘の場所だと伝わっています。現在は説明看板と
力士像?画建立されて土俵が描かれています。
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道の駅當麻
辛子付きのコンニャクを食べて小休止・・・
二上山ふるさと公園(昼食)
二上山のふもとに広がる自然公園で、昼食やピクニックに最適な広い芝生広場が有りま
す。夏になると水遊び場に変身する水辺のテラスや、木製の遊具、ログハウス調のおも
ちゃ館等子供達が大喜びする自然遊びが沢山有ります。又、奈良盆地が一望出来る展
望台が、456段の石段を上った所に有ります。体力に自信のある方は是非、挑戦してみ
てください。
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石光寺へ向かう
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石光寺(せっこうじ)
大和路の二上山のふもとにあり、日本最古の石仏、中将姫伝説、ボタン・芍薬の花で知
られています。草創は約1300年前、天智天皇の勅願で建てられ、境内には四千本以上、
五百二十種類の色とりどりのボタン・芍薬が有ります。別名「染寺 そめでら」とも呼ばれ、
中将姫ゆかりの「染の井」と「糸掛桜」があっります。
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此の続きは、
12月23日の相撲発祥の伝承地とゆかりの地を訪ねて-2 として
             下記のメインブログへ詳細を投稿します。
           https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
此の続きは、當麻寺へ向かう~
當麻寺へ向かう
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中将姫墓塔
中将姫の墓塔は、奈良県葛城市にある史跡である。
當麻寺の北側共同墓地内にあり、石造十三重塔花崗岩製、高さは285cm。初重四方
仏は、軸部に縁をとった中に舟形を作って、そこに厚肉に彫り出し、屋根は軒反り強く、
鎌倉時代末期の様式である。横に建つ石造三重塔は、平安時代後期の作で、高さは
156cm。當麻北共同墓地の東側入口通路に、慕塔の案内標柱が建てられている。
中将姫の墓は、ならまちの徳融寺の境内にもある。
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當麻寺(たいまでら)
奈良県葛城市にある7世紀・白鳳時代に創建された名刹です。二上山(にじょうさん、
古くはふたがみやまとも)の麓にあって、自然に囲まれた静かな佇まいの寺です。當
麻寺が人々に知られるのは、奈良時代の右大臣藤原豊成の娘、中将姫が一夜で織
り上げたと言う西方極楽浄土を描いた「當麻曼荼羅」にまつわる中将姫の物語です。
其の他にも、広い境内には東塔や西塔等の国宝や、日本最古の石燈籠、日本最古
の梵鐘など重要文化財が沢山あります。
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相撲館へ向かう
天満宮
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相撲開祖 當麻蹴速の塚・・・當麻蹶速物語
第十一代垂仁天皇が世の中を治めておられた時代の出来事です。緑豊かな當麻
の里に、當麻蹴速(たいまのけはや)という男がおりました。心根のたいへん優しい
男でしたが、素手で角をへし折り、曲がった釘も伸ばしてしまうほどの怪力の持ち主
で、「まわりを見ても自分と力を比べられる者がいない。なんとかして力の強い者と
めぐりあい、ひたすら力比べをしたいものだ。」といつも思っていました。蹴速は里の
人の誰からも慕われ、當麻の里では蹴速を知らない者はいませんでした。そんな當
麻の里に天皇様のお使いがやってきたことからこの物語は始まります。
ある日、天皇様は従者に命じて、ご自分の治めておられる當麻の里の様子を見てく
るようにとおっしゃいました。さっそく、従者が當麻の里に行ってみると、河原に里の
人が集まって何やらにぎやかな様子です。
「私は天皇様の使いの者である。このたび天皇様より、その方たちの暮らすこの當麻
の里で何か変わったことはないか、とのお尋ねじゃ。」お使いは集まった人々に向かっ
て言いました。「はい、お蔭さまでこの當麻の里には當麻蹴速という頼もしいお方がお
られますので、私たちは平穏無事に暮らしております。」「當麻蹴速?それはいったい
何者じゃ?」お使いが聞き返すと「気は優しくて力持ち、我らの誇りとするお方です。」
「あの方なら、この国の領地すべてを治めることができるでしょう。」
「日本一の力持ち!この国広しと言えども、蹴速様にかなう者はありますまい。」
里の人は口々にこう答えるのです。「當麻蹴速・・・そのような男がこの里にいたとは知
らなかった。帰ってさっそく天皇様にご報告せねば・・・」お使いは慌てて天皇様の元へ
と帰って行きました。さて、お使いの報告にじっと聞き入っておられた天皇様は、
「うーむ。當麻蹴速に勝る怪力はおらぬものか。ぜひとも探して出して、その蹴速やらと
相撲をとらせてみたいものだ。」とおっしゃいました。すると一人の従者がうやうやしく進
み出て、「なんでも、出雲の国(奈良県桜井市出雲と伝えられている)には、野見宿禰と
いう怪力者がおりまして、どんな大岩でも持ち上げるとの評判にございます。この者を
當麻蹴速と戦わせてみてはいかがでしょう?」この言葉をお聞きになられた天皇様は、
直ちに祖長尾市を使者に立てて出雲に向かわせ、野見宿禰を呼び寄せました。そして、
二人の相撲決戦の日を七月七日とお決めになりました。
七月七日、いよいよ天皇様の御前で蹴速と宿禰は顔を合わせました。「どちらかが降参
するか、精魂尽き果て倒れるまで相撲を取り続けるよ!」従者の声が辺りに響き渡ると、
それを合図に二人の豪傑のすさまじい死闘が始まりました。どちらも日本一を誇る勇者
ですからお互い一歩も譲らず、決着は容易に着きそうにもありません。命をかけた二人
の相撲は七日間にも及び、長い戦いがようやく決着したのは、七日目も暮(く)れようとし
ていたころでした。蹴速の応援に夢中になったのでしょう、幼子が土俵に飛び出し、それ
に気をとられた蹴速の一瞬の隙をつく宿禰の攻撃が、勝敗を決めたのです。宿禰の蹴り
を背中に受けた蹴速は、その場に倒れ込み、再び起き上がることはできませんでした。
二人の相撲をご覧になった天皇様は大いに満足されて、勝った宿禰にはご褒美として蹴
速の領地のすべてをお与えになりました。一方蹴速は、相撲対決にこそ負けはしましたが、
里の人々は以前と変わらず蹴速を里の誇りとしてたたえ続けました。
蹴速と宿禰、二人の命がけの戦いは、日本最初の天覧相撲であり、日本の国技相撲の
原点となりました。
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相撲館けはや座
平成2年5月に開館された相撲館は全国でも珍しい相撲の資料館です。1回中央に
は本場所と同サイズの土俵が有り、相撲の歴史や郷土力士に関する資料が展示さ
れています。(料金 大人300円 子供150円)。
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併設の観光休憩所は無料です。
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中将餅屋(お茶休憩)
知人と3名で当麻から大和高田へ向かう当麻寺駅前の中将餅屋でお茶休憩、
中将餅とお茶のセット(@300円)でくつろぐ・・・
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領家山古墳へ向かう
当麻寺駅
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領家山古墳(りょうけやまこふん)
この小高い丘は、領家山と呼ばれ、元々立派な古墳で有ったが、崩壊が著しく原型
を留めておらず、昭和30年11月、陵西小学校の二人の児童が、此の古墳から大き
な鶏頭(けいとう)埴輪や他の埴輪の破片と共に発見した。この鶏頭埴輪はまれに見
る大きもので、頭部は殆ど完全で有るが、胴体は失っていた。
この埴輪は、現在、橿原考古学研究所の博物館に保管されている。
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大和高田駅(ゴール)
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大和高田駅→五位堂駅
五位堂駅
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