1月30日の唐古・鍵考古学ミュージアム~遺跡史跡公園-1
2月4日 1月30日の唐古・鍵考古学ミュージアム~遺跡史跡公園-1
歴史探訪の会の3月コース下見
此の日は、素晴らしいハイキング日和で知人のM吉さん・K場さんと3名で田原本町のボラン
ティアガイドさんと事前に申し込んんで有ったコースを巡った・・・
コースは
田原本駅(観光ステーション)~浄照寺~本誓寺~田原本聖救主教会~平野氏陣屋跡(稲荷
大神)~唐古・鍵考古学ミュージアム~池神社・千万院~眺めの丘・展望台~唐子・鍵遺跡史
跡公園・情報展示館~道の駅(レスティー唐古・鍵)~今里の蛇巻(杵築神社・正福寺)~安養
寺~首切地蔵尊~八尾鏡作神社(鏡作坐天照御魂神社)~豊雛稲荷~田原本駅
此の日の私の万歩計は、20441歩で約15.1km歩いたことに・・・
本番のコースは、雨天中止 田原本駅東口広場(集合・10時スタート)
田原本駅東口広場~浄照寺~本誓寺~田原本聖救主教会~平野氏陣屋跡(稲荷大神)~
唐古・鍵考古学ミュージアムへ1.4km~唐子・鍵考古学ミュージアム~池神社・千万院~眺め
の丘へ1.4km~眺めの丘(昼食)~唐古・鍵遺跡史跡公園・情報展示館~道の駅へ1.2km
~道の駅(レスティー唐古・鍵)~石見駅へ1.5km・・・・・合計 5.5km →6kmコース
志都美駅9:14 王寺9:21 新王寺駅9:35 西田原本駅9:54 田原本駅東口広場9:56
8:14 8:21 8:35 8:54 8:56
志都美駅
西田原本駅
田原本駅、東改札前広場
浄照寺(じょうしょうじ)
浄照寺は、奈良県磯城郡田原本町にある浄土真宗本願寺派の寺院。
山号は松慶山。本尊は阿弥陀如来。田原本御坊とも称される。
天正11年4月(1583年)、織田信長の後継者の地位を争って、羽柴秀吉と柴田勝家が
賤ヶ岳の戦いを起こした。この戦いで秀吉子飼いの7人の武将が活躍し、「賤ヶ岳の七
本槍」と呼ばれる勇名を馳せたが。その一人平野長泰は軍功により、田原本他6か村
を与えられ5千石の領主となる。しかし、長泰は生涯、田原本の地に居住することはな
かった。
正保4年(1647年)、長泰より田原本地領(寺内町)の経営を任されていた真宗寺院の
真宗大谷派教行寺は、2代目領主長勝との間に支配権のことで対立し、広陵町箸尾へ
立ち退かせられる。慶安元年(1648年)、領主長勝は田原本に陣屋を築造する。
慶安4年(1651年)、長勝は教行寺の跡地を二分し、北側に平野家の菩提寺である浄
土宗本誓寺を招請建立し、南側に浄土真宗の寺院「円城寺」(淨照寺の前身)を建立
した。領主は円城寺と地域末寺8か寺を加えて浄土真宗本願寺第13世門主良如上人
に寄進した。住職は本願寺門主が務め、御門跡兼帯所(御坊・別院)として、筋壁(表
塀の五本の筋)が使用される。
その後、本願寺御坊として、72か寺の末寺や配下を有した。大和には5か所の御坊が
存在しており、今井・称念寺、御所・円照寺、高田・専立寺、畝傍・信光寺と併せて大
和五ヶ所御坊と称せられた。御坊は、本願寺と地方寺院及び地域を取り次ぐ役割を担
うための格式と権威を有し、中本山としての機能を果たしていた。
寛延2年(1749年)、円城寺は寺号を浄照寺に改める。
明治10年 (1877年)、明治天皇行幸の行在所となる。
明治23年 (1890年)、昭憲皇太后行啓、宿泊所となる。
本誓寺(ほんせいじ)・・・田原本町HPより
本誓寺は、浄土宗の寺。開基は、鎌倉時代の伝承もあるが不明。江戸時代の田原本
領主であった平野氏の菩提寺。田原本二代領主平野長勝は、正保四年(1647)に浄
土真宗教行寺を著尾に転座させ、その跡地に円城寺(現在の浄照寺)と本誓寺を建立
した。 本堂は度々の火災を受け、現在は昭和58年に再建された鉄筋コンクリート建物
である。
本尊は、阿弥陀如来立像で鎌倉時代後期の作。他に、元は楽田寺にあったとされる
平安時代中期の十一面観音立像が安置されている。
平野氏陣屋跡へ向かう
田原本聖救主教会・・・田原本町HPより
日本聖公会の田原本布教の歴史は、明治16年(1883)の説教会に始まり、明治28年
(1895)には最初の会堂を建築し、伝道を本格化した。現会堂は、昭和8年(1933)に建
てられ、木造平屋、切妻造り。屋根は桟瓦葺(さんかわらぶき)、鬼瓦の紋には十字架が
ついている。玄関妻側の窓も色ガラスがはめ込まれ、桟は十字架をかたどっており、昭
和初期当時の面影を留めている。 NHK連続テレビ小説「芋たこなんきん」、「マッサン」
のロケ地としても使用された。
平野氏陣屋跡
田原本は、賤ヶ岳七本槍の一人に数えられる平野長泰が、文禄4年に豊臣秀吉から
5,000石を与えられたところ。
寛永12年に2代長勝がこの地に陣屋を構え、以後旗本交代寄合として8代続いた。
明治元年に9代長裕は、5,000石を加増され大名に列した。
平野氏陣屋跡・稲荷大神
通称「屋敷のお稲荷さん」と呼ばれ、境内社に大神神社も祀り、社前に田原本藩最後
の藩主平野長裕が明治元年(1868)寄進の石燈篭が建つ。
唐古・鍵考古学ミュージアム
唐古・鍵遺跡(国史跡)は、日本を代表する弥生時代の遺跡として知られ、発見から100
年以上にわたって調査が続けられてきました。
唐古・鍵考古学ミュージアムは、これまでに出土した膨大な資料の一部を展示しており、
2018年6月にリニューアルオープンしました。
何?
ただのといの水受けらしい・・・
学芸員さんの説明を聞いた・・・
池神社・千万院
池神社
池神社は、初瀬川沿いに鎮座する。祭神は天万栲幡千千比売命・菅原道真で、明治初年
ごろまでは天満宮と称されていた。現在は延喜式内大社「池坐朝霧黄幡比売神社」に比定
されている。中世の天満宮は、在地豪族長谷川党の鎮守であった。近世以降も 法貴寺の
実相院が社僧として社務全般を支配した。この関係は神仏分離により法貴寺から池神社
が切り離されるまで続いた。
千万院
法貴寺は、「法起寺」ともいい、聖徳太子が創建し秦河勝に賜ったという。千万院はこの
法貴寺の塔頭の子院だった。法貴寺の本坊を実相院といい、中世には法貴寺天満宮
(池坐朝霧黄幡比売神社)の別当職を担うなど、在地豪族長谷川党とのつよい結びつ
きで大きな勢力を誇った。しかし、江戸時代半ばには実相院と千万院の2坊のみとなり、
神仏分離で実相院にかわって法貴寺薬師堂を受け継いだのは千万院だけとなった。
現在、千万院の僧坊はすでになく、薬師堂を千万院と呼ぶ習わしとなっている。
眺めの丘・展望台
展望台から・・・
昼食
此の続きは、
1月30日の唐古・鍵考古学ミュージアム~遺跡史跡公園-2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿します。
https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、唐古池~
唐古池
唐古・鍵遺跡史跡公園・遺構展示館
およそ2,000年前に栄えた、弥生時代の代表的な集落です。奈良盆地のほぼ中央、奈
良県磯城郡田原本町大字唐古および大字鍵に位置します。遺跡面積の約42ヘクター
ルは近畿地方最大です。直径約400mの範囲が居住区で、その周りには幾重にも「環
濠」が巡っていました。遺跡は弥生時代前期(約2,300年前)に成立し、古墳時代前期
(1,700年前)までの約600年間続きました。昭和11年の第1次調査では多量の土器・
石器・木器が出土し、その成果は弥生時代研究の基礎となりました。昭和52年の第3
次調査以来継続的な調査が行われ、多数の絵画土器や青銅器鋳造施設の発見など
重要な成果が相次ぎました。その重要性から、1999年1月27日、国の史跡に指定さ
れました。
唐古・鍵遺跡(国史跡)は、日本を代表する弥生時代の遺跡として知られ、発見から
100年以上にわたって調査が続けられてきました。特に末永雅雄氏らによる、唐古池
の発掘調査(第1次調査)は、弥生集落の様相が初めて明らかとなり、その後の弥生
時代研究の確固たる基礎を築きました。その後も、奈良県立橿原考古学研究所・田
原本町教育委員会によって調査が続けられ、日本最大級の環濠集落であることが明
らかとなりました。また楼閣を描いた絵画土器や、勾玉を入れた褐鉄鉱容器、大型建
物跡など重要な発見も多く、今なお唐古・鍵遺跡は、弥生文化を考える上で重要な位
置を占めています。
遺構展示館
道の駅(レスティー唐古・鍵)・・・田原本町HPより
唐古・鍵遺跡史跡公園と隣接し、さまざまな観光サービスを提供する交流施設「道の
駅」が、平成30年4月20日に誕生しました。駐車場から史跡公園へと向かう主要動線
には、唐古・鍵遺跡や町及び県中南和地域の観光案内と地場産品の買い物・食事を
提供する「此処でこそのもてなしの場」があり、史跡公園への期待感を高める施設と
なります。
1階のベーカリーでは「黄金の生食パン極」を製造直売するとともに、各種ジェラートを
販売し、2階のカフェではバラエティー豊かな12種類の「オリジナルドッグサンド」をメイ
ンに、ドリンクメニューや軽食メニューをご用意いたします。
「黄金の生食パン 極」
高級カナダ産小麦粉を100%使用し、バター、生クリーム、はちみつを加えて施設内
で焼き上げた高級食パンです。しっとりとした食感と優しい甘さが特徴、そのまま生で
お召し上がりいただくのがおすすめ。もちろん焼いても美味しいです。
今里の蛇巻(杵築神社・正福寺)
今里の杵築神社と鍵の八坂神社で、蛇巻きの行事がおこなわれます。
今里の杵築神社で、午後1時過ぎに中学生以上の男子が麦藁を束ねて蛇を作り、撚り
をかけた長い綱に、麦藁を束ね「せーの」の掛け声とともに蛇体を編み上げていく。全
長18mの蛇が出来上がると、ここで一旦休息となり、行事参加者が拝殿でお神酒を飲
む間、藁の先にくくられた「わかめの味噌煮」が村の参拝者に配られる。あまれば、観
光客にもおすそ分けがある。甘く美味。
その後、中学生(本来は数えで15から17歳)の男子が蛇頭を抱え、今里の各戸を「おめ
でとう」といいながら練り歩く。広い道に至れば、「それ」との掛け声とともに、蛇体に人
を巻き込む。子供達の笑い声が上がり、実に楽しい。蛇は再び杵築神社に戻り、神社
南側にある大樹に頭を上に巻き付けられる。今里では、蛇の巻き付けられた大樹の根
元の祠に、絵馬や農具のミニチュアが祭られることから、田植え時の降雨を祈願したも
のと考えられる。蛇巻きは、その構成員が男子であり、旧暦の5月5日に行われる端午
の節句にちなんだ行事である。
※鍵の蛇は、北中学校の前の「はったはん」という場所の大樹の根元に頭がおかれ、
胴体が樹に吊るされる。
寺川
安養寺
安養寺は、寛永10年(1633)、源蓮社宝誉上人の開山と伝えられる。
木造阿弥陀如来立像は、大字八尾の安養寺に安置されている。像は、玉眼・粉溜塗
の特徴をもつ。粉溜とは、白土を下地にその上に金泥を塗ったものである。快慶が好
んで用いた手法。X線写真によると、眼の奥に蛇腹状の文様が映っている。これは玉
眼を入れるための工法によるもので、快慶仏には時々この手法が認められるという。
足ほぞには快慶作を示す「巧匠安阿弥陀佛」の墨書が認められるが、これは後世に
書き改められたものと考えられている。
首切地蔵尊
八尾の薬師堂の入り口、中(なか)街道に面した所に「首切地蔵尊」がまつられてい
ます。むかしむかし、この地は罪人の首切り場であったことから、村人はここに地蔵
をまつり、以降「首切り地蔵」と呼ぶようになったということです。
八尾鏡作神社(鏡作坐天照御魂神社)
鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにますあまてるみたまじんじゃ)は、奈良県磯城郡
田原本町八尾にある神社である。式内大社で、旧社格は県社。
4~5世紀にかけて、鏡類を製作鋳造していた鏡作部がこの地一体に居住し、御鏡(天
照国照彦火明命)並びに遠祖(石凝姥命)を氏神として開いた神社であるとされる。
記紀によると、崇神天皇6年、皇居内の天照大御神を畏れ多いとして笠縫の地に遷座
せしめたとある。社伝によると、「崇神天皇6年9月3日、この地において日御像の鏡を
鋳造し、天照大神の御魂となす。今の内侍所の神鏡是なり。」とあり、この際に作られ
た神鏡を御神体として祭祀したのが当社の起源とされる。『和名抄』には大和国城下郡
の条に「鏡作郷」と記載があり、この地には仿製鏡の製作に従事した鏡作部(かがみつ
くりべ)が居住していたとされることから、当社の創建には鏡作部との関係が強いもの
と考えられる。更に近辺には鏡作伊多神社、鏡作麻気神社といった神社があり、当社
との関連が指摘されている。
豊雛大明神
鏡作神社の鳥居の南側に西を向いて豊雛大明神 豊受大神を祭る神社。
長顕寺
寺伝によると当時創建以前は既に妙見信仰が盛んでしたが、領主平野家の武運長久
の祈願寺として、京都から招かれたと伝えられています。
寺地は平野家のもと蔵屋敷跡を寄進され建立したと云われています。平野家は日蓮宗
でしたが、田原本に陣屋を置くようになって浄土宗に改宗した為、日蓮宗信者の家臣の
ために長顕寺を建立したとも伝えられています。
西田原本駅、シャリョウが100年前のカラーに・・・
歴史探訪の会の3月コース下見
此の日は、素晴らしいハイキング日和で知人のM吉さん・K場さんと3名で田原本町のボラン
ティアガイドさんと事前に申し込んんで有ったコースを巡った・・・
コースは
田原本駅(観光ステーション)~浄照寺~本誓寺~田原本聖救主教会~平野氏陣屋跡(稲荷
大神)~唐古・鍵考古学ミュージアム~池神社・千万院~眺めの丘・展望台~唐子・鍵遺跡史
跡公園・情報展示館~道の駅(レスティー唐古・鍵)~今里の蛇巻(杵築神社・正福寺)~安養
寺~首切地蔵尊~八尾鏡作神社(鏡作坐天照御魂神社)~豊雛稲荷~田原本駅
此の日の私の万歩計は、20441歩で約15.1km歩いたことに・・・
本番のコースは、雨天中止 田原本駅東口広場(集合・10時スタート)
田原本駅東口広場~浄照寺~本誓寺~田原本聖救主教会~平野氏陣屋跡(稲荷大神)~
唐古・鍵考古学ミュージアムへ1.4km~唐子・鍵考古学ミュージアム~池神社・千万院~眺め
の丘へ1.4km~眺めの丘(昼食)~唐古・鍵遺跡史跡公園・情報展示館~道の駅へ1.2km
~道の駅(レスティー唐古・鍵)~石見駅へ1.5km・・・・・合計 5.5km →6kmコース
志都美駅9:14 王寺9:21 新王寺駅9:35 西田原本駅9:54 田原本駅東口広場9:56
8:14 8:21 8:35 8:54 8:56
志都美駅
西田原本駅
田原本駅、東改札前広場
浄照寺(じょうしょうじ)
浄照寺は、奈良県磯城郡田原本町にある浄土真宗本願寺派の寺院。
山号は松慶山。本尊は阿弥陀如来。田原本御坊とも称される。
天正11年4月(1583年)、織田信長の後継者の地位を争って、羽柴秀吉と柴田勝家が
賤ヶ岳の戦いを起こした。この戦いで秀吉子飼いの7人の武将が活躍し、「賤ヶ岳の七
本槍」と呼ばれる勇名を馳せたが。その一人平野長泰は軍功により、田原本他6か村
を与えられ5千石の領主となる。しかし、長泰は生涯、田原本の地に居住することはな
かった。
正保4年(1647年)、長泰より田原本地領(寺内町)の経営を任されていた真宗寺院の
真宗大谷派教行寺は、2代目領主長勝との間に支配権のことで対立し、広陵町箸尾へ
立ち退かせられる。慶安元年(1648年)、領主長勝は田原本に陣屋を築造する。
慶安4年(1651年)、長勝は教行寺の跡地を二分し、北側に平野家の菩提寺である浄
土宗本誓寺を招請建立し、南側に浄土真宗の寺院「円城寺」(淨照寺の前身)を建立
した。領主は円城寺と地域末寺8か寺を加えて浄土真宗本願寺第13世門主良如上人
に寄進した。住職は本願寺門主が務め、御門跡兼帯所(御坊・別院)として、筋壁(表
塀の五本の筋)が使用される。
その後、本願寺御坊として、72か寺の末寺や配下を有した。大和には5か所の御坊が
存在しており、今井・称念寺、御所・円照寺、高田・専立寺、畝傍・信光寺と併せて大
和五ヶ所御坊と称せられた。御坊は、本願寺と地方寺院及び地域を取り次ぐ役割を担
うための格式と権威を有し、中本山としての機能を果たしていた。
寛延2年(1749年)、円城寺は寺号を浄照寺に改める。
明治10年 (1877年)、明治天皇行幸の行在所となる。
明治23年 (1890年)、昭憲皇太后行啓、宿泊所となる。
本誓寺(ほんせいじ)・・・田原本町HPより
本誓寺は、浄土宗の寺。開基は、鎌倉時代の伝承もあるが不明。江戸時代の田原本
領主であった平野氏の菩提寺。田原本二代領主平野長勝は、正保四年(1647)に浄
土真宗教行寺を著尾に転座させ、その跡地に円城寺(現在の浄照寺)と本誓寺を建立
した。 本堂は度々の火災を受け、現在は昭和58年に再建された鉄筋コンクリート建物
である。
本尊は、阿弥陀如来立像で鎌倉時代後期の作。他に、元は楽田寺にあったとされる
平安時代中期の十一面観音立像が安置されている。
平野氏陣屋跡へ向かう
田原本聖救主教会・・・田原本町HPより
日本聖公会の田原本布教の歴史は、明治16年(1883)の説教会に始まり、明治28年
(1895)には最初の会堂を建築し、伝道を本格化した。現会堂は、昭和8年(1933)に建
てられ、木造平屋、切妻造り。屋根は桟瓦葺(さんかわらぶき)、鬼瓦の紋には十字架が
ついている。玄関妻側の窓も色ガラスがはめ込まれ、桟は十字架をかたどっており、昭
和初期当時の面影を留めている。 NHK連続テレビ小説「芋たこなんきん」、「マッサン」
のロケ地としても使用された。
平野氏陣屋跡
田原本は、賤ヶ岳七本槍の一人に数えられる平野長泰が、文禄4年に豊臣秀吉から
5,000石を与えられたところ。
寛永12年に2代長勝がこの地に陣屋を構え、以後旗本交代寄合として8代続いた。
明治元年に9代長裕は、5,000石を加増され大名に列した。
平野氏陣屋跡・稲荷大神
通称「屋敷のお稲荷さん」と呼ばれ、境内社に大神神社も祀り、社前に田原本藩最後
の藩主平野長裕が明治元年(1868)寄進の石燈篭が建つ。
唐古・鍵考古学ミュージアム
唐古・鍵遺跡(国史跡)は、日本を代表する弥生時代の遺跡として知られ、発見から100
年以上にわたって調査が続けられてきました。
唐古・鍵考古学ミュージアムは、これまでに出土した膨大な資料の一部を展示しており、
2018年6月にリニューアルオープンしました。
何?
ただのといの水受けらしい・・・
学芸員さんの説明を聞いた・・・
池神社・千万院
池神社
池神社は、初瀬川沿いに鎮座する。祭神は天万栲幡千千比売命・菅原道真で、明治初年
ごろまでは天満宮と称されていた。現在は延喜式内大社「池坐朝霧黄幡比売神社」に比定
されている。中世の天満宮は、在地豪族長谷川党の鎮守であった。近世以降も 法貴寺の
実相院が社僧として社務全般を支配した。この関係は神仏分離により法貴寺から池神社
が切り離されるまで続いた。
千万院
法貴寺は、「法起寺」ともいい、聖徳太子が創建し秦河勝に賜ったという。千万院はこの
法貴寺の塔頭の子院だった。法貴寺の本坊を実相院といい、中世には法貴寺天満宮
(池坐朝霧黄幡比売神社)の別当職を担うなど、在地豪族長谷川党とのつよい結びつ
きで大きな勢力を誇った。しかし、江戸時代半ばには実相院と千万院の2坊のみとなり、
神仏分離で実相院にかわって法貴寺薬師堂を受け継いだのは千万院だけとなった。
現在、千万院の僧坊はすでになく、薬師堂を千万院と呼ぶ習わしとなっている。
眺めの丘・展望台
展望台から・・・
昼食
此の続きは、
1月30日の唐古・鍵考古学ミュージアム~遺跡史跡公園-2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿します。
https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、唐古池~
唐古池
唐古・鍵遺跡史跡公園・遺構展示館
およそ2,000年前に栄えた、弥生時代の代表的な集落です。奈良盆地のほぼ中央、奈
良県磯城郡田原本町大字唐古および大字鍵に位置します。遺跡面積の約42ヘクター
ルは近畿地方最大です。直径約400mの範囲が居住区で、その周りには幾重にも「環
濠」が巡っていました。遺跡は弥生時代前期(約2,300年前)に成立し、古墳時代前期
(1,700年前)までの約600年間続きました。昭和11年の第1次調査では多量の土器・
石器・木器が出土し、その成果は弥生時代研究の基礎となりました。昭和52年の第3
次調査以来継続的な調査が行われ、多数の絵画土器や青銅器鋳造施設の発見など
重要な成果が相次ぎました。その重要性から、1999年1月27日、国の史跡に指定さ
れました。
唐古・鍵遺跡(国史跡)は、日本を代表する弥生時代の遺跡として知られ、発見から
100年以上にわたって調査が続けられてきました。特に末永雅雄氏らによる、唐古池
の発掘調査(第1次調査)は、弥生集落の様相が初めて明らかとなり、その後の弥生
時代研究の確固たる基礎を築きました。その後も、奈良県立橿原考古学研究所・田
原本町教育委員会によって調査が続けられ、日本最大級の環濠集落であることが明
らかとなりました。また楼閣を描いた絵画土器や、勾玉を入れた褐鉄鉱容器、大型建
物跡など重要な発見も多く、今なお唐古・鍵遺跡は、弥生文化を考える上で重要な位
置を占めています。
遺構展示館
道の駅(レスティー唐古・鍵)・・・田原本町HPより
唐古・鍵遺跡史跡公園と隣接し、さまざまな観光サービスを提供する交流施設「道の
駅」が、平成30年4月20日に誕生しました。駐車場から史跡公園へと向かう主要動線
には、唐古・鍵遺跡や町及び県中南和地域の観光案内と地場産品の買い物・食事を
提供する「此処でこそのもてなしの場」があり、史跡公園への期待感を高める施設と
なります。
1階のベーカリーでは「黄金の生食パン極」を製造直売するとともに、各種ジェラートを
販売し、2階のカフェではバラエティー豊かな12種類の「オリジナルドッグサンド」をメイ
ンに、ドリンクメニューや軽食メニューをご用意いたします。
「黄金の生食パン 極」
高級カナダ産小麦粉を100%使用し、バター、生クリーム、はちみつを加えて施設内
で焼き上げた高級食パンです。しっとりとした食感と優しい甘さが特徴、そのまま生で
お召し上がりいただくのがおすすめ。もちろん焼いても美味しいです。
今里の蛇巻(杵築神社・正福寺)
今里の杵築神社と鍵の八坂神社で、蛇巻きの行事がおこなわれます。
今里の杵築神社で、午後1時過ぎに中学生以上の男子が麦藁を束ねて蛇を作り、撚り
をかけた長い綱に、麦藁を束ね「せーの」の掛け声とともに蛇体を編み上げていく。全
長18mの蛇が出来上がると、ここで一旦休息となり、行事参加者が拝殿でお神酒を飲
む間、藁の先にくくられた「わかめの味噌煮」が村の参拝者に配られる。あまれば、観
光客にもおすそ分けがある。甘く美味。
その後、中学生(本来は数えで15から17歳)の男子が蛇頭を抱え、今里の各戸を「おめ
でとう」といいながら練り歩く。広い道に至れば、「それ」との掛け声とともに、蛇体に人
を巻き込む。子供達の笑い声が上がり、実に楽しい。蛇は再び杵築神社に戻り、神社
南側にある大樹に頭を上に巻き付けられる。今里では、蛇の巻き付けられた大樹の根
元の祠に、絵馬や農具のミニチュアが祭られることから、田植え時の降雨を祈願したも
のと考えられる。蛇巻きは、その構成員が男子であり、旧暦の5月5日に行われる端午
の節句にちなんだ行事である。
※鍵の蛇は、北中学校の前の「はったはん」という場所の大樹の根元に頭がおかれ、
胴体が樹に吊るされる。
寺川
安養寺
安養寺は、寛永10年(1633)、源蓮社宝誉上人の開山と伝えられる。
木造阿弥陀如来立像は、大字八尾の安養寺に安置されている。像は、玉眼・粉溜塗
の特徴をもつ。粉溜とは、白土を下地にその上に金泥を塗ったものである。快慶が好
んで用いた手法。X線写真によると、眼の奥に蛇腹状の文様が映っている。これは玉
眼を入れるための工法によるもので、快慶仏には時々この手法が認められるという。
足ほぞには快慶作を示す「巧匠安阿弥陀佛」の墨書が認められるが、これは後世に
書き改められたものと考えられている。
首切地蔵尊
八尾の薬師堂の入り口、中(なか)街道に面した所に「首切地蔵尊」がまつられてい
ます。むかしむかし、この地は罪人の首切り場であったことから、村人はここに地蔵
をまつり、以降「首切り地蔵」と呼ぶようになったということです。
八尾鏡作神社(鏡作坐天照御魂神社)
鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにますあまてるみたまじんじゃ)は、奈良県磯城郡
田原本町八尾にある神社である。式内大社で、旧社格は県社。
4~5世紀にかけて、鏡類を製作鋳造していた鏡作部がこの地一体に居住し、御鏡(天
照国照彦火明命)並びに遠祖(石凝姥命)を氏神として開いた神社であるとされる。
記紀によると、崇神天皇6年、皇居内の天照大御神を畏れ多いとして笠縫の地に遷座
せしめたとある。社伝によると、「崇神天皇6年9月3日、この地において日御像の鏡を
鋳造し、天照大神の御魂となす。今の内侍所の神鏡是なり。」とあり、この際に作られ
た神鏡を御神体として祭祀したのが当社の起源とされる。『和名抄』には大和国城下郡
の条に「鏡作郷」と記載があり、この地には仿製鏡の製作に従事した鏡作部(かがみつ
くりべ)が居住していたとされることから、当社の創建には鏡作部との関係が強いもの
と考えられる。更に近辺には鏡作伊多神社、鏡作麻気神社といった神社があり、当社
との関連が指摘されている。
豊雛大明神
鏡作神社の鳥居の南側に西を向いて豊雛大明神 豊受大神を祭る神社。
長顕寺
寺伝によると当時創建以前は既に妙見信仰が盛んでしたが、領主平野家の武運長久
の祈願寺として、京都から招かれたと伝えられています。
寺地は平野家のもと蔵屋敷跡を寄進され建立したと云われています。平野家は日蓮宗
でしたが、田原本に陣屋を置くようになって浄土宗に改宗した為、日蓮宗信者の家臣の
ために長顕寺を建立したとも伝えられています。
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