2月9日の酒蔵みてある記 長龍酒造「長龍」-1
2月14日 2月9日の酒蔵みてある記 長龍酒造「長龍」-1
近鉄駅フリーハイキング 6㎞
此の日は知人のY田さん・M吉さん・O村さん・I 田さんと5名でコースを大半飛ばして酒
蔵へ何とか時間内に辿り着きました。此の日の私の万歩計は22775歩で約16.8kmに・・
コース 昼飯を食べる時間も取れず駆け足で酒蔵へ向かうという強硬軍となった
五位堂駅(北口ロータリー11時迄)~牧野古墳~三吉石塚古墳~新木山古墳~竹取公
園~馬見丘陵公園・ナガレ山古墳・北エリア~長龍酒造・長龍・試飲・甘酒・抽選会・解散
~箸尾駅への予定が酒蔵が10時半~12時半と指定されておりコースを辿れなかった・・・
五位堂駅(北口ロータリー11時迄)~牧野古墳~直接竹取り公園へ入り三吉石塚古墳~
新木山古墳をパスして~馬見丘陵公園・梅林を通り、北エリアをパスして直接長龍酒造へ
向かいなんとか12時20分に到着、試飲・甘酒振舞い・抽選会・解散の後で馬見丘陵公園
北エリアへ行き昼食、北エリア~平城宮遷都1300年ロードを通り池部駅へ、池部駅で皆
さんと別れて1人で昔よく歩いた散歩コースの川合町を歩いて40分かけて帰りました。
志都美駅
香芝駅~近鉄下田駅へ乗り換え
鹿島神社・・・平安末期の勧請伝承を持つ由緒ある鹿島神社。
河内源氏当主源義朝の腹心に、鎌田左兵衛尉政清という者がいた。相模の出身で、母
が義朝の乳母であり、乳兄弟として義朝が最も信頼を置く男だった。平治の乱で平清盛
に敗れ京都を逐われた義朝は、勢力を立て直すべく東国へ向かった。道中落武者狩り
に遭い、多くの一族郎等を失いながら、尾張国野間の長田忠致の許に身を寄せた。忠致
は政清の舅にあたる。この時義朝は馬を失い、しかも裸足だったという。
忠致は義朝一行を快く迎え入れ歓待したが、その夜異変は起こる。忠致が恩賞目当てに
裏切り、入浴中の義朝を暗殺。政清も酒を呑まされて忠致の子景致に殺害される。平治
二年(1160)が明けて間もなくのことだった。
父政清とともに義朝に従っていた鎌田小次郎政光は難を逃れ、常陸国鹿島神宮に辿り着
いた。鹿島はかつて少しの期間ながら居住したことのある地だった。政光は鹿島大明神に
源氏再興と鎌田家繁栄を祈願し、百日の参籠を行った。満願を迎えた夜、夢に老翁が現
れてこう告げた。 「庚子の年に源氏栄えん。汝の福は西にあらん」
政光は鹿島の神の分霊を奉じて西方を目指し旅立った。長い年月が過ぎた。時に承安二
年(1172)三月、大和国下田に到った頃、日が沈んだため松の木の下で野宿をした。翌朝
目を覚ました政光は、この地の風景が鹿島に似ているように思い懐かしむ。そこでこの地
こそが我が安住の地と思い定め、小祠を建てて鹿島大明神を祀ったという。
政光とその子孫は下田の南の鎌田に代代住して鹿島神社に奉仕し、また鎌田村の名主と
して長く栄えた。そして庚子にあたる治承四年(1180)、源義朝の遺児頼朝が平氏を打倒し、
源氏の世が到来する。又、香芝市の市名由来は間接的に鹿島神社とされている。
近鉄下田駅
五位堂駅(北口ロータリー11時迄)
かつらぎの道を牧野古墳へ向かう
かつらぎの道
五位堂駅北側から住宅地の中央に約2kmにわたって続く歩行者・自転車専用道。
途中大型ショッピングセンターのエコール・マミや畿央大学横などを通り、利便性抜
群。北詰めから東へ向かうと馬見丘陵公園も近く、ハイキングコースとしても手頃。
牧野古墳
牧野古墳(ばくやこふん)は、奈良県北葛城郡広陵町に所在する古墳時代後期の
円墳である。1957年に国の史跡に指定されている。
本古墳は、奈良盆地の西側に拡がる馬見丘陵の尾根先端部に位置し、馬見古墳群の
中央群に属する。築造は石室や石棺、出土遺物から6世紀末と見られている。この頃か
ら7世紀初頭にかけて、列島各地で大王墓や首長墓として造り続けられてきた前方後円
墳が築造されなくなる。代わって採用されたのは方墳や円墳でる。このことは前方後円
墳祭祀が終焉を迎えたことを示しており、古墳の形態で力を誇示する時代[ではなくなっ
た。埋葬施設は墳丘の中ほどに造られており、南面に開口した両袖式の全長17.1mの
横穴式石室である。この石室は巨石を積んでおり、明日香村の石舞台古墳に次ぐ規模
である。本古墳は、この時期では墳丘規模が最大級であることから、被葬者は大王に
近い支配者層の墓と考えられ、敏達天皇の皇子押坂彦人大兄皇子であると推定されて
いる。
※三吉石塚古墳~新木山古墳をパス
新木山古墳(全長200m、陵墓参考地)の外提西側付近に作られた帆立貝式古墳。
周囲に馬蹄型の周濠が巡っている。後円部は2段に作られ、1段目には円筒埴輪列
に朝顔形埴輪を置いた列が巡り、墳頂には蓋(きぬがさ)、短甲、家などの形象埴輪
が置かれていた。 (復元されているのは円筒、朝顔形のみ)
墳丘と周濠内側に10~30cmの葺石が施されており、後円部では葺石が一列に並
べられている箇所があり、作業単位を示す基準であったと考えられる。後円部の葺
石は二上山麓の輝石安山岩が、前方部の葺石は当麻町西に分布する黒雲母花崗
岩が使われている。 前方部南東隅には他に例を見ない張り出し部が設けられ、外
提部に埴輪列が巡り、周濠部の幅も極端に狭いことから、墓道として作られたと考え
られる。埋葬施設は未調査であるが、5世紀後半の築造と考えられる。
直接竹取り公園へ入り
竹取公園
奈良県北葛城郡広陵町にある入園無料の公園施設です。 公園内には散策 路や木
製の大型遊具、そり遊びのできる施設もあり、小さなお子様連れの方からお 年寄り
まで楽しくすごせる公園です。
馬見丘陵公園・梅林を通り公園外へ
北エリアをパスして直接長龍酒造へ向かう
馬見丘陵公園
県営馬見丘陵公園は、広陵町と河合町の両町にまたがる、わが国でも有数の古墳群
と 、良好な自然環境が残された地域にあります。 この歴史と文化の遺産やすばらしい
自然 環境を、県民の憩いの空間として、奈良公園に次いで県下2番目 の広域公園と
して広く活用してもらうことを目的に整備されました。
梅林
梅林の梅もそこそこに
公道へ出て直接酒蔵へ向かう
なんとか12時20分に到着
長龍酒造到着大勢の人が列を作って
長龍酒造
昇道無窮極(しょうどうむきゅうきょく)この言葉を胸に日々精進しています。
社名 長龍酒造株式会社 創業 1923年(大正12年)
1923年 飯田弟一、生家の飯田酒造場(1868年創業 現在の奈良県天理市㈱飯田
本店)より独立し、八尾に酒の小売店開業。間口二間の店に店員一人、生家の清酒
「長龍」120本を元手とする。
1941年 戦時体制により酒類販売を中断。飯田木工株式会社設立。 樽・木製ドラム・
バケツ等の製造販売を行う。
1963年 長龍酒造株式会社設立。八尾工場を竣工して共同びん詰場の免許を取得、
原酒の貯蔵と「長龍」のびん詰作業を始める。
1964年 画期的新商品、樽酒のびん詰「吉野杉の樽酒」の開発に成功。 「吉野杉の
樽酒」の販路を全国に拡げる。1968年 「慶雲長龍」発売
1971年 長龍酒造株式会社第二貯蔵庫竣工。炎暑の夏も高品質を保つ完璧な温度
管理を実現。 1979年 広陵酒造株式会社 設立 広陵蔵で醸造開始
試飲・甘酒振舞い・抽選会
此の続きは、
2月9日の酒蔵みてある記 長龍酒造「長龍」-2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿します。
https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、試飲・甘酒振舞い・抽選会・解散の後で
馬見丘陵公園北エリアへ向かう~
馬見丘陵公園北エリアへ行き昼食
北エリア~平城遷都1300年の道を通り池部駅へ
(710年~2009年の歴史的な出来事を年表にして道路上にマッピングされている)
河合町役場庭園(旧豆山荘)
河合町役場の庭園は、大正末年、大和鉄道建設の森本千吉氏が、馬見丘陵の大
自然を取り入れ、広大な邸宅と庭園を構築されました。そして「豆山荘」と名づけら
れたことに始まります。
森本氏が逝去された後は、財界の第一人者、新庄町(現 葛城市)出身の吉川京松
氏が譲り受け、豆山荘の維持保存に努められました。
吉川氏は河合村役場を豆山荘に移転したいという当時村長の木下氏からの要望に
応え、昭和23年、豆山荘を河合村に譲られました。
その後、河合町発足とともにここに庁舎を新築し、現在に至ります。馬見丘陵の自然
を生かして造られているため、ここに繁茂する樹木のほとんどは馬見丘陵に自生す
る自然木です。
由緒あるこの庭園を憩いの空間として、ぜひ足を運んでください。庭園は近鉄池部駅
すぐの役場入口左にあり、役場休業日も自由に散策することができます。
池部駅
池部駅で皆さんと別れて1人で
昔よく歩いた散歩コースの川合町を歩いて40分かけて帰りました。
河合町とお別れして
近鉄駅フリーハイキング 6㎞
此の日は知人のY田さん・M吉さん・O村さん・I 田さんと5名でコースを大半飛ばして酒
蔵へ何とか時間内に辿り着きました。此の日の私の万歩計は22775歩で約16.8kmに・・
コース 昼飯を食べる時間も取れず駆け足で酒蔵へ向かうという強硬軍となった
五位堂駅(北口ロータリー11時迄)~牧野古墳~三吉石塚古墳~新木山古墳~竹取公
園~馬見丘陵公園・ナガレ山古墳・北エリア~長龍酒造・長龍・試飲・甘酒・抽選会・解散
~箸尾駅への予定が酒蔵が10時半~12時半と指定されておりコースを辿れなかった・・・
五位堂駅(北口ロータリー11時迄)~牧野古墳~直接竹取り公園へ入り三吉石塚古墳~
新木山古墳をパスして~馬見丘陵公園・梅林を通り、北エリアをパスして直接長龍酒造へ
向かいなんとか12時20分に到着、試飲・甘酒振舞い・抽選会・解散の後で馬見丘陵公園
北エリアへ行き昼食、北エリア~平城宮遷都1300年ロードを通り池部駅へ、池部駅で皆
さんと別れて1人で昔よく歩いた散歩コースの川合町を歩いて40分かけて帰りました。
志都美駅
香芝駅~近鉄下田駅へ乗り換え
鹿島神社・・・平安末期の勧請伝承を持つ由緒ある鹿島神社。
河内源氏当主源義朝の腹心に、鎌田左兵衛尉政清という者がいた。相模の出身で、母
が義朝の乳母であり、乳兄弟として義朝が最も信頼を置く男だった。平治の乱で平清盛
に敗れ京都を逐われた義朝は、勢力を立て直すべく東国へ向かった。道中落武者狩り
に遭い、多くの一族郎等を失いながら、尾張国野間の長田忠致の許に身を寄せた。忠致
は政清の舅にあたる。この時義朝は馬を失い、しかも裸足だったという。
忠致は義朝一行を快く迎え入れ歓待したが、その夜異変は起こる。忠致が恩賞目当てに
裏切り、入浴中の義朝を暗殺。政清も酒を呑まされて忠致の子景致に殺害される。平治
二年(1160)が明けて間もなくのことだった。
父政清とともに義朝に従っていた鎌田小次郎政光は難を逃れ、常陸国鹿島神宮に辿り着
いた。鹿島はかつて少しの期間ながら居住したことのある地だった。政光は鹿島大明神に
源氏再興と鎌田家繁栄を祈願し、百日の参籠を行った。満願を迎えた夜、夢に老翁が現
れてこう告げた。 「庚子の年に源氏栄えん。汝の福は西にあらん」
政光は鹿島の神の分霊を奉じて西方を目指し旅立った。長い年月が過ぎた。時に承安二
年(1172)三月、大和国下田に到った頃、日が沈んだため松の木の下で野宿をした。翌朝
目を覚ました政光は、この地の風景が鹿島に似ているように思い懐かしむ。そこでこの地
こそが我が安住の地と思い定め、小祠を建てて鹿島大明神を祀ったという。
政光とその子孫は下田の南の鎌田に代代住して鹿島神社に奉仕し、また鎌田村の名主と
して長く栄えた。そして庚子にあたる治承四年(1180)、源義朝の遺児頼朝が平氏を打倒し、
源氏の世が到来する。又、香芝市の市名由来は間接的に鹿島神社とされている。
近鉄下田駅
五位堂駅(北口ロータリー11時迄)
かつらぎの道を牧野古墳へ向かう
かつらぎの道
五位堂駅北側から住宅地の中央に約2kmにわたって続く歩行者・自転車専用道。
途中大型ショッピングセンターのエコール・マミや畿央大学横などを通り、利便性抜
群。北詰めから東へ向かうと馬見丘陵公園も近く、ハイキングコースとしても手頃。
牧野古墳
牧野古墳(ばくやこふん)は、奈良県北葛城郡広陵町に所在する古墳時代後期の
円墳である。1957年に国の史跡に指定されている。
本古墳は、奈良盆地の西側に拡がる馬見丘陵の尾根先端部に位置し、馬見古墳群の
中央群に属する。築造は石室や石棺、出土遺物から6世紀末と見られている。この頃か
ら7世紀初頭にかけて、列島各地で大王墓や首長墓として造り続けられてきた前方後円
墳が築造されなくなる。代わって採用されたのは方墳や円墳でる。このことは前方後円
墳祭祀が終焉を迎えたことを示しており、古墳の形態で力を誇示する時代[ではなくなっ
た。埋葬施設は墳丘の中ほどに造られており、南面に開口した両袖式の全長17.1mの
横穴式石室である。この石室は巨石を積んでおり、明日香村の石舞台古墳に次ぐ規模
である。本古墳は、この時期では墳丘規模が最大級であることから、被葬者は大王に
近い支配者層の墓と考えられ、敏達天皇の皇子押坂彦人大兄皇子であると推定されて
いる。
※三吉石塚古墳~新木山古墳をパス
新木山古墳(全長200m、陵墓参考地)の外提西側付近に作られた帆立貝式古墳。
周囲に馬蹄型の周濠が巡っている。後円部は2段に作られ、1段目には円筒埴輪列
に朝顔形埴輪を置いた列が巡り、墳頂には蓋(きぬがさ)、短甲、家などの形象埴輪
が置かれていた。 (復元されているのは円筒、朝顔形のみ)
墳丘と周濠内側に10~30cmの葺石が施されており、後円部では葺石が一列に並
べられている箇所があり、作業単位を示す基準であったと考えられる。後円部の葺
石は二上山麓の輝石安山岩が、前方部の葺石は当麻町西に分布する黒雲母花崗
岩が使われている。 前方部南東隅には他に例を見ない張り出し部が設けられ、外
提部に埴輪列が巡り、周濠部の幅も極端に狭いことから、墓道として作られたと考え
られる。埋葬施設は未調査であるが、5世紀後半の築造と考えられる。
直接竹取り公園へ入り
竹取公園
奈良県北葛城郡広陵町にある入園無料の公園施設です。 公園内には散策 路や木
製の大型遊具、そり遊びのできる施設もあり、小さなお子様連れの方からお 年寄り
まで楽しくすごせる公園です。
馬見丘陵公園・梅林を通り公園外へ
北エリアをパスして直接長龍酒造へ向かう
馬見丘陵公園
県営馬見丘陵公園は、広陵町と河合町の両町にまたがる、わが国でも有数の古墳群
と 、良好な自然環境が残された地域にあります。 この歴史と文化の遺産やすばらしい
自然 環境を、県民の憩いの空間として、奈良公園に次いで県下2番目 の広域公園と
して広く活用してもらうことを目的に整備されました。
梅林
梅林の梅もそこそこに
公道へ出て直接酒蔵へ向かう
なんとか12時20分に到着
長龍酒造到着大勢の人が列を作って
長龍酒造
昇道無窮極(しょうどうむきゅうきょく)この言葉を胸に日々精進しています。
社名 長龍酒造株式会社 創業 1923年(大正12年)
1923年 飯田弟一、生家の飯田酒造場(1868年創業 現在の奈良県天理市㈱飯田
本店)より独立し、八尾に酒の小売店開業。間口二間の店に店員一人、生家の清酒
「長龍」120本を元手とする。
1941年 戦時体制により酒類販売を中断。飯田木工株式会社設立。 樽・木製ドラム・
バケツ等の製造販売を行う。
1963年 長龍酒造株式会社設立。八尾工場を竣工して共同びん詰場の免許を取得、
原酒の貯蔵と「長龍」のびん詰作業を始める。
1964年 画期的新商品、樽酒のびん詰「吉野杉の樽酒」の開発に成功。 「吉野杉の
樽酒」の販路を全国に拡げる。1968年 「慶雲長龍」発売
1971年 長龍酒造株式会社第二貯蔵庫竣工。炎暑の夏も高品質を保つ完璧な温度
管理を実現。 1979年 広陵酒造株式会社 設立 広陵蔵で醸造開始
試飲・甘酒振舞い・抽選会
此の続きは、
2月9日の酒蔵みてある記 長龍酒造「長龍」-2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿します。
https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、試飲・甘酒振舞い・抽選会・解散の後で
馬見丘陵公園北エリアへ向かう~
馬見丘陵公園北エリアへ行き昼食
北エリア~平城遷都1300年の道を通り池部駅へ
(710年~2009年の歴史的な出来事を年表にして道路上にマッピングされている)
河合町役場庭園(旧豆山荘)
河合町役場の庭園は、大正末年、大和鉄道建設の森本千吉氏が、馬見丘陵の大
自然を取り入れ、広大な邸宅と庭園を構築されました。そして「豆山荘」と名づけら
れたことに始まります。
森本氏が逝去された後は、財界の第一人者、新庄町(現 葛城市)出身の吉川京松
氏が譲り受け、豆山荘の維持保存に努められました。
吉川氏は河合村役場を豆山荘に移転したいという当時村長の木下氏からの要望に
応え、昭和23年、豆山荘を河合村に譲られました。
その後、河合町発足とともにここに庁舎を新築し、現在に至ります。馬見丘陵の自然
を生かして造られているため、ここに繁茂する樹木のほとんどは馬見丘陵に自生す
る自然木です。
由緒あるこの庭園を憩いの空間として、ぜひ足を運んでください。庭園は近鉄池部駅
すぐの役場入口左にあり、役場休業日も自由に散策することができます。
池部駅
池部駅で皆さんと別れて1人で
昔よく歩いた散歩コースの川合町を歩いて40分かけて帰りました。
河合町とお別れして