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2月26日の寿宝寺十一面千手観音~酬恩庵-1

3月4日       2月26日の寿宝寺十一面千手観音~酬恩庵-1
               歩こう会 玉露の町京田辺の史跡散策
此の日は素晴らしいハイキング日和、参加者79名(内オープン参加1名)で楽しく歩いた。
此の日の私の万歩計は、19360歩で約11.6km歩いたことに・・・
コース   近鉄三山木駅に10時集合
近鉄三山木駅~壽寶寺・十一面千手千眼観音~同志社大構内・筒城宮址~酒屋神社~
花見山公園(昼食)~酬恩庵(一休寺)・解散~薪神社~とんちロードを新田辺駅へ
とんちロードの途中で「ずいき神輿」で有名な棚倉孫神社に立ち寄って新田辺駅へ・・・・
志都美駅
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近鉄三山木駅~壽寶寺へ向かう
玉露のまち
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壽寶寺・十一面千手千眼観音
寿宝寺(じゅほうじ)
寿宝寺は、文武天皇慶雲元年(704)に創建したと伝えています。
古くは山本の大寺と呼ばれ大寺院であったが、度重なる木津川の氾濫により移転を繰
り返していました。享保17年(1732)江戸時代中期に現在地に移転し、明治初めに近隣
の寺々を合併しました。平成9年(1997)の大造営で260年ぶりに本堂、客殿、庫裏等が
改築されました。本寺のハイライトは観音堂内に国の重要文化財十一面千手千眼観世
音菩薩立像です。
平安時代後期の作で 像高181cm、頭上に十一面をいただき、左右にそれぞれ五百手
をもち、持ち物の無い手には墨で目が印されている。大阪の葛井寺、奈良の唐招提寺
の千手観音と共に三大名作とされている。この仏様は明るいところと暗いところで 見せ
る表情は全く異なります。昼の太陽の光で見る表情は「眼は半眼、唇の朱色が鮮やか
に見え、厳しいお顔をしている」、入り口の戸を閉めて月の灯りで見る表情は「眼を閉じ、
唇の朱は目立たず、ふっくらとやさしいお顔をしている」という素晴らしい表情を解説と
共に鑑賞させて頂きました。
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同志社大構内・筒城宮址
511年10月、継体天皇は樟葉宮跡(現、貴船神社)から筒城宮(つつきのみや)、現在の
京都府京田辺市多々羅附近に遷宮します。
正確な場所はわかっていませんが、多々羅地区には「都谷」という地名があり、ちょうど
同志社大学のキャンパスにあたるところです。ここを「筒城宮」の推定地とする説はこれを
根拠にしています。
「筒城宮址」碑は、京田辺市郷土史会が1961年に筒城宮跡を顕彰するために建てた石
碑で、当初は現在の同志社国際高校の敷地内に建てられましたが、後にこの場所に移
設されたものです。もう一つの「継体天皇皇居故跡」碑は1928年に建立された「安兵衛意
志碑」で、これも移設されたものです。遷宮の理由はもちろんわかっていません。
当時朝鮮半島は動乱の様相にあり、軍事力の強化は倭国にとって最大の課題となって
いたと考えることができます。
筒城宮が置かれた多々羅という地名は鉄を意味しており、この附近が鉄の産地又は鉄の
精製に関わりがあったことが推測されます。またこの地域は木津川に面し、その水利権を
押さえ、かつ軍事面でも継体天皇にとって欠かせない要地であったのかもしれません。
この地はまた継体の出自とされる息長氏や神功皇后伝説と関係の深い場所でもあります。
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その他
※第16代仁徳天皇皇后「磐之媛(いわのひめ)」も、この地に住んだという。
「磐之媛(いわのひめ)」は葛城山系の東麓、大和側に勢力を誇っていた葛城氏の娘で、四
王子を生み、うち三人(履中、反正、允恭)が天皇になった。
日本書紀巻第十一・仁徳天皇に、淀川流域を舞台にした物語が載っている。
仁徳30年の秋、「磐之媛(いわのひめ)」は紀国においでになり、熊野岬で祭祠用に御綱葉
(みつなかしば:三角葉)を採取して帰ってこられた。皇后の留守中に天皇はついに、八田皇
女を娶って宮に入れられた。皇后は難波(なにわ)の渡りまで帰ってこられたところで、この
ことを聞かれて、大変お恨みになった。
そして、持ち帰られた御綱葉を海に投げ入れて、岸に船を着けようとされなかった。天皇は
皇后が怒っているのを知らず、自ら難波津に出て、皇后の船をお待ちになった。皇后は難
波津に船を着けず、更に川をさかのぼって山背(やましろ)より廻って倭(やまと)に出られた。
翌日、天皇は舎人(とねり)を遣わして、皇后を連れ帰らせようとされた。皇后は帰ろうとせず
奈良の山を越えて葛城を望んで、難波の宮を通り過ぎ、山背川をさかのぼると奈良を過ぎ、
倭を過ぎ、私の見たいと思う国は葛城の高宮の我が家のあたり、とお詠みになった。
そして山背に戻り、筒城岡の南に宮を造って住まわれた。
天皇は臣を遣わして、皇后に帰るよう申し上げさせたが、黙って返答されなかった。臣は雨に
ぬれ、一晩中、御殿の前に伏して退出しようとしなかった。その妹で、皇后の側に侍す国依姫
は、兄が雨にぬれるのを見て涙を流して、「筒城宮で、皇后に物を申し上げようとしている兄
を見ると、かわいそうで涙ぐんでしまう」と詠んだ。
皇后が、おまえはなぜ泣くのかと問われたので、「今、庭に伏して居りますのは、私の兄です。
雨にぬれても下がらず、伏したまま、お目にかかろうとしています。ですから私は泣いている
のです」と申し上げた。
皇后は、「おまえの兄に言って、早く帰らせなさい。私は金輪際、帰らない」とおっしゃった。
臣は帰って、天皇にその旨を申し上げた。十一月に、天皇は川をさかのぼり、山背に行幸さ
れた。時に、桑の枝が水に従って流れているのご覧になって、磐之姫は並大抵のことでは
お聞き入れにならない私の心恋(うらごひ)の木、その末桑(うらぐわ)の木が近寄ることの出
来ない河の曲り角にあちこち寄っては 流れ、寄っては流れて行くその末桑の木が とお詠
みになった。翌日、筒城宮に参られたが、皇后は会おうとされなかった。その時、天皇は次
の歌をお詠みになった。山背女が木の鍬で掘り起こした大根、その大根の葉がざわつくよ
うにざわざわとあれこれ貴女が言われるからこそ、見渡すむこうにある木の茂るように大
勢の人を引き連れて貴女に会いに来たものを皇后は人を介して、「陛下は八田皇女を入
れて妃とされました。私はその皇女に副って、皇后で居りたくありません」と申し上げた。
天皇は、皇后が大変立腹されているのをお恨みになった。仁徳35年夏、磐乃媛は筒城宮
で亡くなった。御陵は、奈良市佐紀町の佐紀ヒシアゲ古墳である。

酒屋神社へ向う
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酒屋神社(さかやじんじゃ)
創建年月など不詳だが、かつて神功皇后(じんぐうこうごう)が三韓遠征の際、神社背後
の山に酒壺を三個安置して出立、帰国後その霊験に感謝して建てられたとも。本殿は明
治9(1876)年の再建で一間社流造り、屋根に特徴があり、千鳥破風(ちどりはふ)と軒唐
破風(のきからはふ)を配した姿は山城地域では県(あがた)神社(宇治市)本殿など、限
られたところにしか見られない。神功皇后が朝鮮より持ち帰った“九山八海の石”が今もこ
こにあるという。 また、河内国の酒造りを業とする中臣酒屋連(なかとみのさかやのむら
じ)の一族が来往して、酒造りを伝え、祖神を祭ったものともいわれる。 佐牙神社とともに
酒造りに縁のある神社である。祭神は、津速魂神(つはやむすびのかみ)と応神天皇。
近くには興戸の大池があり、初夏の青葉、秋の紅葉と季節によって様々な美しい姿を見
せてくれる。
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花見山公園へ向かう
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花見山公園(昼食)
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此の続きは、
2月26日の寿宝寺十一面千手観音~酬恩庵-2 として
          下記のメインブログへ詳細を投稿します。
         https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、とんちロードを一休寺へ向かう~
とんちロードを一休寺へ向かう
近鉄新田辺駅西口の一休像横、JR京田辺駅西口の一休像横、一休寺山門横に一休と
んちロードを紹介する看板を設置しています。
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酬恩庵しゅうおんあん)一休寺・解散
酬恩庵は、京都府京田辺市にある臨済宗大徳寺派の寺院である。山号は霊瑞山。
本尊は釈迦如来。一休寺(いっきゅうじ)、薪(たきぎ)の一休寺とも称される。枯山
水の石庭や一休宗純の木像のほか、納豆の一種である「一休寺納豆」でも有名。
正応年間(1288 - 1293年)に南浦紹明が開いた妙勝寺が前身である。元弘年間
(1331 - 1334年)に兵火にあって衰退していたのを、康正2年(1456年)に一休宗
純が草庵を結んで中興し、宗祖の遺風を慕い師恩に酬いる意味で酬恩庵と号した。
その後、一休は文明13年11月21日(1481年12月12日)、88歳で亡くなるまでをここ
で過ごし臨終の際には「死にとうない」と述べたと伝わる。なお、金春禅竹が総門の
まえで一休のために能を演じたという。

一休禅師の墓
禅師は文明13年(1481)11/21に88歳で示寂されたがこれに先立って文明7年(1475)
ここに寿塔を立て慈楊塔と名付けられた。前面の庭は禅院式枯山水の様式で室町の
古風を存している。現在墓所は宮内庁が御陵墓として管理をされており門扉に菊花の
紋があるのもそのためである。
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本堂
本堂は仏殿ともいい内部には本尊釈迦如来坐像、文殊普賢菩薩像が安置されてい
ます。当本堂は山城・大和地方の唐様建築中で最も古い建造物であります。1429年
から1441年の永享年間に室町幕府六代目将軍足利義教公の帰依により建立されま
した。
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方丈・他
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三本杉
元は一休禅師、蓮如上人、蜷川新衛門の三人によるお手植えの杉として500年の
緑を湛えていたが寿命となり今は昭和40年に植えられた2代目である。
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薪神社(たきぎじんじゃ)・能楽発祥の地碑
能役者金春禅竹(こんぱるぜんちく1405−1570年)が一休禅師のために猿楽を演
じたと伝えられる場所で、「薪能(たきぎのう)」の名称はこの地で野外能を演じたこと
から起こったと云われている。
境内社殿前には薪能発祥の碑があり、「能楽は薪能即ち金春流に初まり、次に宝生
能観世能は大住に、金剛能は大和に発祥」 と彫られている。
一休寺山門前の「薪能金春芝旧跡」という碑文はやはりこの付近で金春禅竹が一休
禅師に猿楽の能を演じ観覧に供したことを伝えている。金春禅竹(1405~1471年)は
室町時代の能役者・能作者で, 大和四座のひとつ円満井座(えんまいざ=金春座)の
太夫金春弥三郎の子。能楽の大成者世阿弥(ぜあみ1363−1443年)の娘婿となり,
世阿弥の能を発展させ, 金春流隆盛の基礎を固めたとされる。応仁の乱(1467−14
77年)の際, 一休が酬恩庵に難を避けていた間禅竹も薪の多福庵に移り 二人の間に
交流があったとされる。一休も禅竹の影響で能に関心を示し, 謡曲の「山姥(やまうば
)」」「江口(えぐち)」は一休の作との説もある。一休禅師は応仁の乱で荒れる世の中
で薪能という日本の大切な文化を育成した功労者でもある。
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とんちロードを新田辺駅へ
2018年7月・・・京田辺市
市民のみなさんがまちの歴史を再認識し、京田辺市に愛着を持つことができるようにす
るため、また、来訪者が一休寺までの道中を楽しみながら歩くことができ、京田辺市を訪
れてよかったと思えるようにするために、区間内15カ所の電柱に、一休禅師生誕600年
を記念して製作された「一休かるた」を使った22種類の案内板を取り付けました。
「屏風の虎退治」などのとんち話や一休さんにまつわる言い伝えなどを、和やかな絵と共
に紹介しています。府道八幡木津線から一休寺の方面へ、一休さんが誕生したときから、
晩年を薪で過ごされるようすの順にかるたが並んでいます。

棚倉孫神社(たなくらひこじんじゃ)・・・「ずいき神輿」
御祭神は、大永6年(1526年)の棚倉孫神社紀によると、推古(すいこ)天皇31年(623年)
9月に相楽郡の棚倉ノ庄より高倉下命(たかくらじのみこと)を勧請するとある。別名を天
香古山命(あめのかごやまのみこと)、また手栗彦彦命(たぐりひこのみこと)とも申しあげ、
天照大御神(あまてらすおおみかみ)の曾孫(ひこ)で、天神(あまつかみ)の直系である。
『古事記』や『日本書紀』によると天孫降臨(てんそんこうりん)に父命(饒速日命)と共に降
り紀州熊野に住み、神武天皇の東征の時、布都御魂(ふつのみたま)の神剣を奉り大功
をたてられたとある。『日本三代実録』の清和(せいわ)天皇、貞観元年(859年)正月27日
に畿内七道諸神進階及び新叙があり、267社の中に「棚倉孫神」が従五位下から従五位
上の神位を賜った。延喜式内の棚倉孫神社 旧社格は郷社(昭和6年2月に列せられる)
延喜5年(905年)に着手し、延長5年(927年)に完成の『延喜式神名帳』に掲載されている
神社であり、創建が延喜以前であることがわかる。
※畿内七道は大宝律令で大宝元年(701年)制定。・山城国・大和国・河内国・摂津国・和
泉国(京都付近の五か国)・東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道
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「ずいき神輿」
京田辺市文化財2号。明治の中頃から民俗神事瑞饋神輿(ずいきみこし)が伝えられてい
たが昭和4年(1929年)中断。昭和51年10月秋祭りに47年ぶりに制作技術の復興を見る。
昭和53年(1978年)2月に瑞饋神輿保存会が結成され、同年10月に文化財2号として指定
される。瑞饋神輿は2基あり、大人用は隔年、こども用は毎年制作している。
ずいき御輿は、屋根を赤ずいきで葺かれ、千日紅やトウガラシなど、多くの野菜や穀類
を使い色鮮やかに仕上げられています。御輿は、五穀豊穣を願い2年に一度保存会の
みなさんの手で作られるもので、ずいきや千日紅など保存会で育てられたものが使われ
ているそうです。
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JR京田辺駅
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新田辺駅から帰途に
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2月24日の南河内 竹内街道と古市古墳群を歩く-1

3月4日       2月24日の南河内 竹内街道と古市古墳群を歩く-1
南河内歴史ウオーク 歩程13km
此の日は、知人M村さんと二人で参加した、参加者784名だったかな?M村さんとは
当初からわかって他事だが、午後から別の用事が有るとの事で12時半に分かれて、
此の日の私の万歩計は、27204歩で約16.3km歩いたことに・・・
コース   華やいで大阪・南河内観光キャンペーン協議会主催 布忍神社受付
布忍駅~10分~大林寺~布忍神社受付(9時半~10時)~西除川遊歩道~王仁の聖
堂址~竹内街道(大師堂)~竹内街道・緑の一里塚~竹内街道・緑の一里塚~丹治は
やプラザ(昼食)~八王神神社~高燈籠(竹内街道モニュメント)~仁賢天皇陵古墳~
峰塚公園・峯ケ塚古墳~清寧天皇陵古墳~白鳥陵古墳~向墓山古墳~墓山古墳~
誉田八幡宮~東高野街道~応神天皇陵古墳~大鳥塚古墳~古室山古墳~仲姫命陵
古墳~小室八幡神社(ゴ―ル・解散)~鍋塚古墳~土師ノ里駅
布忍駅~10分~大林寺
大林寺・・・融通念仏宗の布忍山大林寺(ふにんざんだいりんじ)
当山はもとは東大饗村(東おわい村:現堺市美原町)にあったが、1878年 (明治11年)
当地に移転した。寺院の西側を流れる西除川の西岸にあった永興寺(ようこうじ:明治6
年に廃寺)の本尊であった十一面観音像や「布忍山永興寺略縁起」、「大般若経600巻」
を蔵する。この「布忍山永興寺略縁起」によると、永興寺は1069年(寛治3年)永興律師
により創建され、弘安年中(1278~88年)に大和西大寺の叡尊が中興したと伝える。
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布忍神社受付
長蛇の列で受付迄随分待たされた
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※布忍神社
本社の鎮座する「布忍」の地名の由来は日本書紀にもある布忍入姫命(ぬのしいりびめの
みこと、日本武尊の娘のひとり)にあると言われている。本社の創建年については明確で
ない。本殿は府指定有形文化財にも指定されている。主祭神は速須佐男之命(はやすさ
のおのみこと) 厄除け・病気平癒・交通安全の宮、恋みくじが若者に人気・・・

西除川遊歩道
西除川遊歩道は松原市西部の西除川に沿って、北は天美西公園から南は松原市民運動
広場までを結ぶ約4kmの遊歩道です。四季折々の花や緑を眺めながら、ウォーキング等
を楽しめます。今回は、布忍神社~松原市民運動広場迄の約2.5kmを歩いた
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王仁の聖堂址
出岡弁財天 同社は元禄5年(1692)の「寺社改帳」に、慶長年間の焼失後、寛永年間に再
建された。
聖堂は、孔子を祀る堂です。わが国で孔子を祀ることが始まったのは大宝元年(701)のこ
とですので、王仁が聖堂を建てた事実は不確かです。ししかし、ここに聖堂があったと江戸
時代以後、伝えられてきた背景には、当地の人々が河内に教育者王仁を顕彰し、学問を広
めたいという願望があったからではないでしょうか。
清堂池から西南一帯は清堂遺跡とよばれる旧石器時代から近世に至る複合遺跡です。市
内でも、最も古くから開けた土地柄なのです。
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※学者の王仁
『日本書紀』によると、応神が大王のころ、朝鮮半島の百済から学者の王仁が大和王権に
招かれました。王仁は応神の太子である菟道稚郎子の師となって、太子に典籍を教えたと
あります(応神16年条)。一方、『古事記』では、王仁は和邇吉師と記され、孔子の『論語』
十巻、『千字文』一巻を貢進したと記されています(応神段)。
王仁の渡来は4世紀後半ごろと思われますが、『日本書紀』『古事記』とも王仁は西文氏の
祖と伝えています。西文氏は5~6世紀半ばにかけて大和王権内で文筆専門の氏族として
活躍しました。現在の羽曳野市古市に居住し、いまも法灯を続ける西琳寺(古市2丁目)を
氏寺としていました。
こうしたことから、江戸時代以後、儒学が盛んになるにつれ、王仁はわが国学問の祖とし
てあがめられるようになりました。とくに、大阪は王仁に関する伝承が多く、枚方市藤阪に
は王仁墓が建てられています。また、大阪市北区大淀北には王仁を祭神とする八坂神社
が鎮座していましたし、高石市の高石神社も元来は王仁を祀っていました。

竹内街道(大師堂)
竹内街道
春分と秋分の日、太陽は三輪山から昇り、二上山を超えて大阪湾に沈む。
このことから、推古天皇21年(613年)に東西の直線で敷設された幅20mを越える大道
(竹内街道・横大路)は、太陽の道と言われる。
古代には、大陸からの使節団が難波宮から飛鳥京を訪れ、先進技術や仏教文化を伝
えた。中世には経済都市を結び、近世には伊勢参りの宿場町としての賑わいを見せ、
場所ごとに様々な表情を浮かべる。
1400年の歴史の移り変わりを周辺の歴史遺産を通して感じさせる日本最古の国道。
それが竹内街道・横大路(大道)なのである。
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大師堂
空海を祀る大師堂(岡5丁目)が建っています。もともとは増池の東畔にありましたが、
池の半分は埋められ、岡公園となっています。
大師堂の創建は未詳ですが、高野山大円院より招請したという空海坐像・不動明王立
像・板彫千手十一面観音立像が安置されています。密教様式の厳しい表情が特徴で
す。境内には、室町時代の阿弥陀如来坐像2体も祀られています。
大円院と関わりがあるのは、大師堂に長く住持した神田覚栄師が大円院で修行をされ
たからです。覚栄師は、幕末の嘉永5年(1852)生まれ。昭和18年(1943)に亡くなるま
で、地域の大師信仰を支えてきました。
戦後以降、大師堂は岡の観音講によって守られています。
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竹内街道・緑の一里塚・・・第1号(松原市)
2013年3月29日(金曜日)に、「緑の一里塚」の第1号を大阪府、松原市、(財)国際花
と緑の博覧会記念協会及び地元自治会が協働で、松原市立部に設置しました。
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丹治はやプラザへ向かう
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竹内街道・緑の一里塚・・・第6号(羽曳野市野地区)
2013年11月24日(日曜日)に、「緑の一里塚」の第6号を大阪府、羽曳野市(公財)国際
花と緑の博覧会記念協会、北野木材、地元町会が協働で、羽曳野市野に設置しました。
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丹治はやプラザ(昼食)
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八王神神社
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仁賢天皇陵古墳へ向かう
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高燈籠(竹内街道モニュメント)
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仁賢天皇陵古墳
仁賢天皇(にんけんてんのう、允恭天皇38年 - 仁賢天皇11年8月8日)は、第24代天皇
(在位:仁賢天皇元年1月5日 - 同11年8月8日)。名は億計天皇(おけのすめらみこと)・
大石尊(おおしのみこと)、意祁命・意富祁王(おおけのみこ)。諱は大脚(おおし)または
大為(おおす)、字は嶋郎(しまのいらつこ)。
安康天皇3年、天皇が暗殺された後に父の市辺押磐皇子が大泊瀬皇子(後の雄略天皇)
に殺されると、弟の弘計王(後の顕宗天皇)と共に逃亡して身を隠した。まず丹波国与謝
郡(丹後半島東半)に逃げ、後には播磨国明石や三木の志染の石室に隠れ住む。兄弟
共に名を変えて丹波小子(たにわのわらわ)と称した。縮見屯倉首(しじみのみやけのお
びと)に雇われて牛馬の飼育に携わっていたが、清寧天皇2年に、弟王が宴の席で王族
の身分を明かした。清寧天皇は、子がなかったため喜んで迎えを遣わし、翌年に2王を宮
中に迎え入れた。4月に億計王が皇太子となった。
同5年に清寧天皇が崩じたときに皇位(王位)を弟王と譲り合い、その間は飯豊青皇女が
執政した。『古事記』では、2王が身分を明かして宮中に戻ったのは清寧天皇の崩御後、
飯豊王の執政中のことであるとする。翌年、弟王が即位(顕宗天皇)したが、わずか在位
3年(『古事記』では8年)で崩御した。
これを受けて、億計王が仁賢天皇元年1月に即位した。3年2月に石上部(いそのかみべ)
舎人を、5年に佐伯造(さえきのみやつこ)を置いた。また、6年9月に高麗(こま)へ日鷹吉
士(ひたかのきし)を遣わし、皮の工匠などの手工業者を招いたという。仁賢天皇の時代は
国中が良く治まり、人民から「天下は仁に帰し、民はその生業に安んじている」と評された。
7年1月には皇子の小泊瀬稚鷦鷯尊を皇太子に定め、11年8月に崩御。『水鏡』に50歳、
『帝王編年記』には51歳とある。
皇后は雄略天皇の皇女である春日大娘皇女であるが、父を殺した雄略天皇の皇女を皇后
とした理由として、仁賢天皇自身が傍系の出身であるため、直系の皇女を皇后に迎え入れ
正当性を強めたと考えられている。これは娘の手白香皇女も、傍系出身の継体天皇の皇后
となった事で繰り返されている。
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峰塚公園へ向かう
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峰塚公園・峯ケ塚古墳
峯ヶ塚古墳(みねがづかこふん)は、大阪府羽曳野市軽里2丁目に存在する古墳時代後期
の前方後円墳。古市古墳群の南西部に位置する。国の史跡に指定されている。
峯ヶ塚古墳は、墳丘の長さ96m、前方部の幅74.4m・高さ10.5m、後円部は直径56m・高さ
9mの前方後円墳である。
江戸時代には、日本武尊白鳥陵に比定されていた(現在は、軽里大塚古墳を比定)。また、
允恭天皇皇子の木梨軽皇子の墓との伝承もあった。
墳丘は二段に築かれており、二段目斜面の裾部分のみに数段の角礫が葺いてあるほか
は、表面に葺石はみられない。 1992年(平成4年)の発掘調査で、後円部墳頂中央部の盗
掘壙(とうくつこう)を掘り進めた結果、竪穴式石室が現れた。 石室や盗掘壙から、大刀・鉄
鏃などの武器、挂甲小札(けいこうこざね)などの武具、轡(くつわ)・鐙(あぶみ)などの馬具、
装身具、玉類などが大量に出土した。また、成人男性の骨や歯なども出土している。 出土し
た埴輪や横穴式石室の特徴から、6世紀初頃(古墳時代後期)の築造と考えられている。
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此の続きは、
2月24日の南河内 竹内街道と古市古墳群を歩く-2 として
            下記のメインブログへ詳細を投稿します。
          https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、清寧天皇陵古墳~
清寧天皇陵古墳
陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府羽曳野市西浦6丁目にある河内坂門原陵(こうちの
さかどのはらのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「白
髪山古墳」で、墳丘長112メートルの前方後円墳である。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が
祀られている。
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※清寧天皇(せいねいてんのう、允恭天皇33年? - 清寧天皇5年1月16日)は、第22代天
皇(在位:清寧天皇元年1月15日 - 同5年1月16日)。御名は白髪皇子(しらかのみこ)。
和風諡号は白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこの
すめらみこと)、白髪大倭根子命(古事記)。
御名の「白髪皇子」の通り、生来白髪(アルビノの可能性もある)であったため、父帝の雄
略天皇は霊異を感じて皇太子としたという。
雄略天皇23年8月、雄略天皇崩御。吉備氏の母を持つ星川稚宮皇子が大蔵を占拠し、
権勢を縦(ほしいまま)にしたため、大伴室屋・東漢直掬らにこれを焼き殺させる。翌年正
月に即位。 皇子がいないことを気に病んでいたが、清寧天皇2年、市辺押磐皇子の子で
ある億計王(後の仁賢天皇)・弘計王(後の顕宗天皇)の兄弟を播磨で発見したとの情報
を得、勅使を立てて明石に迎えさせる。翌年2王を宮中に迎え入れ、億計王を東宮に、弘
計王を皇子とした。
5年正月に崩御した。『水鏡』に41歳、『神皇正統記』に39歳という。なお、『古事記』では2
王の発見は天皇崩御後の出来事としている。

白鳥陵古墳へ向かう
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白鳥陵古墳・・・白鳥陵(しらとりのみささぎ)
公式形式は前方後円。考古学名は「軽里大塚古墳」または「前の山古墳」。墳丘長190m
の前方後円墳で、5世紀後半の築造と推定される。河内の白鳥陵は明治8年(1875年)
に教部省により伊岐宮(現・白鳥神社)の白鳥神社古墳に考定されたが、明治13年(18
80年)に現陵(軽里大塚古墳/前の山古墳)に改定された。現陵は、『河内国陵墓図』では
木梨軽太子の「軽之墓」と記されている。かつては西方の峯ヶ塚古墳に比定する説もあっ
たという。
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※「日本武尊」
ヤマトタケル(生年不詳 - 景行天皇43年)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族(王族)。
『日本書紀』では主に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、『古事記』では主に「倭建命
(やまとたけるのみこと)」と表記される。現在では、漢字表記の場合に一般には「日本
武尊」の用字が通用される。第12代景行天皇皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。
熊襲征討・東国征討を行なったとされる、日本古代史上の伝説的英雄である。
草薙剣
記紀日本武尊が帯びた剣は、草薙剣(草那芸剣)といわれる。出雲でスサノオ尊がヤマ
タノオロチを倒した際にその尾から出てきたもので、天照大神に献上され、天孫降臨に
伴い三種の神器の一つとして、再び地上に戻ってきたものである。
日本書紀の注記によると、元は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)という名で、日本武
尊が駿河で野火攻めに遭った時、この剣が独りでに鞘から抜けて草を薙ぎ払い、難を
逃れたことにより草薙剣(くさなぎのつるぎ)と名付けられたとする。ただし、これは挿入
された異伝であり、正式な伝承とは見なされていない。本文では一貫して草薙剣と表記
され、途中で名称が変わることはない。古事記でも草那芸剣(大刀)とのみ記される。
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西馬塚古墳
西馬塚古墳は、墳長45m、高さ9.4mの方墳で、五世紀後半に築造されたと考えら
れています。後世に削られているため墳丘は原型をとどめていません。
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向墓山古墳へ向かう
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向墓山古墳
墓山古墳の陪塚
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墓山古墳
墓山古墳は古市古墳群のほぼ中央にある大形の前方後円墳です。三段に築かれた墳
丘は長さ225m、くびれ部両側に造出しを備え、深い濠と幅広い堤をめぐらせます。墳丘
部は「応神天皇陵陪塚」として宮内庁が管理されていますので、内部の詳しい様子は不
明です。だた、これまでに多量の滑石製勾玉や各種の形象埴輪の出土が知られていま
す。また、後円部には亀甲紋を陰刻した長持形石棺が納置されていた報告もあります。
これらの情報から墓山古墳は5世紀の前半に築造されたと考えられます。墓山古墳の
周囲には浄元寺山、向墓山、野中、西墓山という4基の陪塚が配されていて、典型的な
中期大型古墳の様相をみせています。
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誉田八幡宮へ向かう
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誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)
大阪夏の陣の際、豊臣方の武将・薄田隼人が陣を布いた近くに鎮座しています。豊臣
秀頼による社殿の再建中に大阪の陣が勃発してしまった為、社殿の天井板は未だに
未完成のままとなっています。
誉田八幡宮は、大阪府羽曳野市にある神社で、旧社格は府社。主祭神は応神天皇で、
誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の直ぐ南に鎮座する。
社伝によると、欽明天皇20年(559年)に任那の復興を目指した欽明天皇によって、応神
天皇陵前に神廟が設置されたことをもって創建としている。このことから最古の八幡宮を
称している。奈良時代には行基によって神宮寺の長野山護国寺も創建された。永承6年
(1051年)の後冷泉天皇行幸の際に、元の鎮座地から1町ほど南の現在地に遷座した。
八幡神が源氏の氏神とされることから、源氏姓を名乗る歴代の将軍をはじめ、武家の信
仰を受けた。南北朝時代から戦国時代にかけては、別当職の誉田三河入道一族によって
保護されたが、享徳3年(1454年)より始まった河内守護・畠山氏の内輪争いにより社殿・
伽藍を焼失し荒廃した。三好氏により滅ぼされた応神天皇末裔の誉田氏の一部は、四国
や九州に逃れ、また、江戸期には、関西一円の香具師(やし)(露天商)の元締めとして君
臨したといわれている。河内国を支配下に置いた織田信長により、社領をすべて奪われ、
その後、豊臣秀吉は社領200石を寄進し、社殿を再建した。天正14年(1586年)に社殿が
焼失したため、豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行に任命して社殿再建を行ったが、拝殿の
建造中に大坂夏の陣・豊臣氏滅亡があり、建物の内部が未完成のままとなっている。
江戸幕府も200石の社領を安堵し、数度にわたり社殿の修復を行った。 神宮寺の長野山
護国寺は、明治の廃仏毀釈により大半の建物が取り壊され、現在は南大門のみが残る。
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応神天皇陵古墳へ向かう
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東高野街道(ひがしこうやかいどう)・・・羽曳野市HPより
東高野街道は高野詣でのための京から高野山に至る道で、江戸時代には東高野街
道の他、西高野街道、下高野街道、中高野街道などいくつかの経路がありました。東
高野街道は、 京都九条の教王護国寺(東寺)から大阪平野の東縁を南下し、羽曳野
市域を通って紀見峠を越え高野山に至っています。
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※ 東高野街道とは、かつて京都から高野山への参詣道として用いられた街道。
数ある高野街道のうち、いちばん東側に位置する道筋。八幡(京都府八幡市)で京街
道(大坂街道) と別れ、河内国の東部を通り、長野(大阪府河内長野市)で西高野街道
と合流し、 以南は高野街道として紀見峠、橋本、高野山へ至る。いつ頃に形成された
かは定かでない。既存の集落を経ず、出来るだけ直線になるように通されており、自
然発生的に形成された道ではなく、計画に基づいて建設された古代道路であると言わ
れている。 淀川水系の河川や、かつて存在した巨大な河内湖(深野池)周辺の湿地
帯を避けて生駒山地の麓を通り、河内国府(現在の藤井寺市)付近で大和川を越え
ると石川の左岸に沿って通った。 平安時代には、京と河内国府を結ぶ官道としても重
要であったとされる。その後は官道としての重要性は薄れたものの、仏教信仰の一般
化に伴い、高野山参りが盛んになると参拝道として賑わうようになった。
現在では、府道長尾八幡線、枚方バイパス、府道枚方交野寝屋川線、府道枚方富田
林泉佐野線と国道170号(旧道)各道の大半に相当または平行する。

応神天皇陵古墳(誉田山古墳とも言う)
誉田御廟山古墳 (こんだごびょうやまこふん)又は誉田山古墳(こんだやまこふん)は、大
阪府羽曳野市誉田にある古墳。形状は前方後円墳。古市古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「惠我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみ
ささぎ)」として第15代応神天皇の陵に治定されている。また外濠と外堤は1978年(昭和5
3年)に国の史跡に指定されている。 名称は「応神天皇陵」とも呼ばれ。全国で大仙陵古
墳(大阪府堺市)に次ぐ第2位の規模の巨大古墳である。
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大鳥塚古墳(おおとりづかこふん)
大鳥塚古墳は、大阪府藤井寺市古室にある古墳。形状は前方後円墳。古市古墳群を構
成する古墳の1つ。国の史跡に指定されている(史跡「古市古墳群」のうち)。
大阪府東部、藤井寺市・羽曳野市・松原市にまたがる大古墳群である古市古墳群のうち、
中位段丘(国府台地)上に築造された大型前方後円墳である。墳形は前方後円形で、前
方部を南方に向ける。墳丘は後円部で3段築成、前方部で2段築成。墳丘表面では葺石・
円筒埴輪列や、形象埴輪(家形・蓋形・盾形・靫形・冑形埴輪など)が認められる。墳丘く
びれ部両側には造出を付すほか、墳丘周囲には馬蹄形の周濠が巡らされる(空濠、現在
は埋設保存)。大鳥塚古墳は、古墳時代中期の5世紀前葉頃の築造と推定される(赤面山
古墳も同時期)。古市古墳群では大王墓の仲津山古墳(藤井寺市沢田)と同時期とされ、
巨大前方後円墳(大王墓)に次ぐ大型前方後円墳として、当時のヤマト王権の政治階層を
示す古墳になる。
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古室山古墳(こむろやまこふん)
古室山古墳は、大阪府藤井寺市古室にある古墳。形状は前方後円墳。古市古墳群を構
成する古墳の1つ。国の史跡に指定されている(史跡「古市古墳群」のうち)。
大阪府東部、藤井寺市・羽曳野市・松原市にまたがる大古墳群である古市古墳群のうち、
中位段丘(国府台地)上に築造された大型前方後円墳である。
墳形は前方後円形で、前方部を北東方に向ける。墳丘は3段築成。墳丘長は150メートル
を測り、古市古墳群では中規模になる。
古室山古墳は、古墳時代中期の4世紀末-5世紀初頭頃の築造と推定される。古市古墳群
では最初の大王墓と目される津堂城山古墳(藤井寺市津堂)と同時期とされ、巨大前方後
円墳(大王墓)に次ぐ大型前方後円墳として、当時のヤマト王権の政治階層を示す古墳。
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仲姫命陵古墳・・・仲津山古墳(なかつやまこふん)
仲ツ山古墳(仲津山古墳)は、大阪府藤井寺市沢田にある古墳。形状は前方後円墳。古市
古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「仲津山陵(なかつやまのみささぎ)」として
第15代応神天皇皇后の仲姫命の陵に治定されている。
古市古墳群の北部、誉田御廟山古墳の北東に位置する。全長290m、後円部径170m、高
さ26.2m、前方部幅193m、高さ23.3mで、古市古墳群で2番目、全国でも9番目の大きさを
誇る。国府台地の最高所にあるため、周濠は空濠に近い湿地帯になっている。 出土した埴
輪の特徴から、古市古墳群の巨大前方後円墳では、津堂城山古墳に次いで古く、5世紀前
半の築造と推定されている。
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小室八幡神社(ゴ―ル・解散)
神社に由緒書きはありませんが、國府八幡神社由緒に「藤井寺市内には、江戸時代初期
の頃に誕生した八幡神社が五社あり、国府八幡神社以外の八幡神社 は、誉田八幡宮(羽
曳野市)の分霊を勧請したものとされています。沢田八幡神社、古室八幡神社、土師里八
幡神社、津堂八幡神社の四社です。」とあり、江戸時代の初め頃、誉田八幡宮の分霊を勧
請した古室地区の氏神様のようです。
国府八幡神社は、壺井八幡宮(羽曳野市)の分霊を勧請して始まっ たとされています。
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※壺井八幡宮
武家棟梁・河内源氏の氏神である。八幡神として誉田別尊(応神天皇)・仲哀天皇・神功皇
后を主祭神とし、玉織姫・武内宿禰を配祀する。一帯は河内源氏の本拠地で、寛仁4年(10
20年)に源頼信が河内国国司に任じられて以降、頼信・頼義・義家の3代にわたって当地に
居住し、河内源氏と呼ばれるようになった。康平7年(1064年)5月15日、前九年の役に戦
勝して凱旋した源頼義が、現在地である河内国香呂峰の私邸の東側に社殿を造営し、河
内源氏の氏神である石清水八幡宮(京都府八幡市)を勧請したのが当社の始りである。こ
の時に地名を香呂峰から壺井と改め、壺井八幡宮を武家源氏棟梁の河内源氏の総氏神と
した。近くには河内源氏の氏寺・通法寺がある。その後、源頼義は、河内源氏の東国進出の
拠点として、鎌倉にも石清水八幡宮を勧請した(鶴岡若宮。後の鶴岡八幡宮)。頼義の5世孫
である源頼朝が鎌倉幕府を開いた後は、河内源氏の総氏神は壺井八幡宮から鶴岡八幡宮
に移り、壺井八幡宮は河内源氏の祖廟にして当地に土着した河内源氏である石川源氏の氏
神となる。

鍋塚古墳
4世紀末葉築造、古墳の形は方墳、墳丘一辺の長さ 63m、2段築成。出土したものは、
円筒埴輪、家、衣蓋、盾、靭形といった形象埴輪。
現状は一辺40m前後ですが、周辺の調査成果により一辺63mに復元することができます。
仲姫命陵古墳外堤に食い込むような位置に築かれています。
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土師ノ里駅
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