4月7日の街並みを眺め時代を感じる宇陀松山地区へ-1
4月10日 4月7日の街並みを眺め時代を感じる宇陀松山地区へ-1
4月7日の近鉄ハイキング 又兵衛桜
此の日は、知人と二人で参加、前回の此の辺りのハイキングで、行ってみたい神社が2社
有り、今回は此の2社(平尾の水分神社と野依の白山神社)も訪ねようと意気込んでたが、
野依白山神社は行けず、此の日の私の万歩計は、29730歩で約17.8km歩いたことに・・・
コース 榛原駅南出口階段下受付 9時半~11時
榛原駅(受付・スタート)~宇陀川沿いの桜・猟路の桜~水分神社~宇陀アニマルパーク
(昼食)~宇陀松山地区・黒門・寺社~天益寺~阿紀神社秋~又兵衛桜~柿本人丸像~
大願寺~道の駅宇陀路・大宇陀バス停→奈交バス→榛原駅(解散)→五位堂駅~自宅
榛原駅南出口階段下(受付・スタート)
宇陀川沿いの桜
宇陀川沿い・猟路の桜
下井足~篠楽~五津にかけての桜並木。篠楽では万葉歌にちなみに「猟路の桜」と
命名。ぼんぼりの夜桜も楽しむことができます。
宇陀川沿い
水分神社(みくまりじんじゃ)・・・(平尾水分神社)
いつも鳥居を見て通り過ぎるだけだったが思い切って寄り道して見た
水分神社本殿(みくまりじんじゃほんでん)
宇陀川の東岸に面した小高い丘陵の西斜面に鎮座する。本殿は境内の東寄りに石垣
を積み上げ、その上に一間社隅木入春日造(いっけんしゃすみぎいりかすがづくり)、桧
皮葺(ひわだぶき)の社殿を3棟並列で西面させて覆屋(おおいや)に納めている。社殿
によれば神社の創立は永徳元年(1381)と伝え、永徳9年(1566)書写『玉岡水分縁起』
の記載からもおそくとも中世末には存在していたと考えられ、近世では妙福寺は神宮寺
であった。祭神は向かって右から第一殿・天照大神、第二殿・水分大明神、第三殿・白山
大権現(だいごんげん)をまつる。水分神社本殿は3殿とも同規模で同時期に建立された
ことは明らかで、当初形式を踏襲しているものと考えられる。覆屋根は慶長4年に建てら
れていることから現社殿の桧皮葺や棟飾(むねかざり)はそれ以前のものと考えられるこ
とに注目に値する。宇太水分神社と同じ形式が見られ棟札から吉野の飯貝大工が携わ
り、大工集団としての活動範囲が宇陀地方にまでおよんでいたことがわかる。
夜に行われ 古式を残す平尾のオンダ(御田植祭)
平尾水分神社は江戸期に宇陀水分神社より水分神を勧請して祀られた末社。毎年1月
18日、本殿石段前に設けた板張り舞台で、五穀豊穣を祈る予祝の神事としてオンダが
行われます。
午後7時ころ、神職(墨坂神社宮司)と氏子代表らにより本殿前で厳かに神事が行われ
ます。次いで社務所で関係者のお祝いの宴(直会)が開かれたあと、「ショトメ(早乙女/
初乙女)」と呼ばれる子供5人が1人ずつおんぶ、あるいは抱っこされて舞台に上がりま
す。早乙女役を子供が演じるのは珍しく、最近は男児不足から女の子も加わるように
なったそうです。
午後8時ごろ、いよいよお田植えが始まります。太夫役の「大当(だいとう)」と神主役の
「小当(しょうとう)」が神前に向かって、江戸時代頃の旧い言葉で 「・・・吉日吉時をもっ
て正月18日に三社大明神の御前にて御田植仕り候・・・」 のような台詞が声高らかに
語られます。舞台外から合いの手が入り、素朴で暖かい雰囲気の中で進められます。
「鍬入れ」「苗代作り」「水入れ」「種籾まき」「お田植え」・・・などと一連の農作業が続き
ます。この中には現在の稲作では見られなくなった「芋つむぎ」や「鳥追い」など珍しい
ものが組まれており、注目されます。
ひと息入れるころ(間炊=ケンズイ)、「若宮さん」と呼ばれる全身にコヨリを巻きつけた
人形が「小当」によって運ばれます。病気平癒を祈願する人形で、自分の体の治した
い箇所と同じところのコヨリを貰い受け、患部をなでると治癒するとのことで、大勢の
氏子や参加者が嬉しそうにコヨリを戴いていました。全体を通して古風で味わい深い
ユニークなお祭りです。
宇陀川沿いに戻る
※白山神社(はくさんじんじゃ)・・・今回はパスしたので次回?
野依の白山神社(のよりのはくさんじんじゃ)
野依のオンダ(のよりのおんだ)
5月5日(もと旧暦)にセックオンダ(節句御田)と呼ばれる田植え行事が行われる。野依
には宇多川を挟んで東西53戸でそれぞれ組織されるトーヤ(頭家)講があり、ここから
選ばれた大頭小頭が氏神白山神社の年間の祭祀を司る。
白山神社 野依のオンダ(節句おんだ)・・・牛馬を使用しない珍しいおんだ祭
宇陀市の野依白山(のよりはくさん)神社で行われる、田植えの成功を前もって祝う(予
祝)神事。もともと旧暦5月5日の行事でしたが、古くからの伝承でこの日は神様の田植
えの日、村人は田植をしてはならない日とされていました。
そこで大正初め頃から新暦の5月5日に「おんだ」を田植え前の行事として行なわれるよ
うになり、俗に「節句おんだ」とも呼ばれています。奈良県の無形民俗文化財に指定。神
社の境内で10数名の神役たちが田植えの様子をユーモラスに演じます。加えて子供た
ちがふざけて神役の背中や尻を押し演技の邪魔をするなど、なごやかなお田植神事が
展開されます。神役は、大頭〔(だいとう)田主〕、小頭〔間炊*(ケンズイ)持ち〕、荒鍬持ち、
小鍬持ち、万鍬(まんぐわ)持ち、苗籠持ち、植女(ショトメ)3人、大太鼓役、荷い手2人、
小太鼓役、ケンズイ配りなどいずれも男性が務めます。* 昼食と夕食の間の飲食、おや
つ唄に合わせショトメが菅笠を上げ下げしつつ舞うのは「白山権現の舞」と「やよの舞」
と呼ばれています。
宇陀アニマルパーク
恒例のコンニャクを食べて昼食
宇陀松山地区
宇陀松山、聞き慣れない地名かもしれませんが、古くから城下町として発展し、その町並
みが今も生活の場としながらも景観を保ったまま残っている地区です。
2006年には「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。
保存地区に選定された古い町並みの散策はもちろん、町並みの隙間からふと顔を出す自
然の表情や、何年も姿を変えていないような店の軒先など、時間の止まったようなゆったり
した空気も魅力です。
宇陀松山が拓かれたのは戦国時代「宇陀三将」と呼ばれた一人、秋山氏の築いた城の城
下町として発展してきました。以後、様々な時代の変遷を経ながら、今の松山の町並みが
作られてきました。
宇陀は「吉野葛」の産地として全国的に有名で、昭和天皇が最後に口にされたのはここの
吉野本葛なのだそうです。他にも天然の良水を活かしたお酒や醤油なども特産品として有
名です。
松山西口関門
福島掃部孝治が城下町への出入口として、今から400年前に建築したものだ。昭和6年
(1931年)に国の史跡として指定された。壁以外は黒く塗られていることから、地元では
黒門と呼ばれて親しまれている。
恵比寿神社
黒門近くにある「恵比寿神社」。愛宕神社・恵毘須神社・愛宕寺の神仏混合社です。
愛宕神社は、城下町の火災防止のため、松山城主織田長頼が勧請奉祀させたといわ
れる。恵毘寿神社は町内の茶町から移され、江戸以来毎年2月8日には初えびすが行
われる。
春日神社参道
春日神社
祭神、武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比び大神。本殿、拝殿、神饌所、門、社務所
の施設が整い、石造灯籠新古を交え35基を奉建している。当社の旧祠宮と伝える佐々
岡家には祭礼記など数通の古文書を蔵している。
※慶恩寺・・・今回はパス
松谷山菩提院慶恩寺。開山は持統天皇九年に吾城行宮を賜って堂宇としたことに始まる。
その後文治2年に奈良の大仏殿再興にあたり、伽藍指図5分の1の試みとして建立された。
鐘楼には無銘であるが古い梵鐘が懸かる。
※光明寺・・・今回はパス
融通念仏宗の寺院。草創は宇多法皇の時代といわれ、天正14年に法俊上人が再興。光
明寺には本堂、山門のほかに小堂、書院、鐘楼がある。山門は入母屋造り、桧皮葺きの楼
門で、松山・神戸地区で最も古い建物の一つ。
※史跡宇陀松山城跡・・・今回もパス
宇陀松山城は、南北朝時代から宇陀に勢力をもつ秋山氏の本城であったが、天正13年
に豊臣家大名の居城となり、城下町が整備された。最後の城主福島氏が元和元年に改
易され、平成7年からは発掘調査が行われている。平成18年、国史跡に指定された。
松山地区を出て天益寺~阿紀神社へ向う
レンギョやミツマタが」綺麗
天益寺(てんやくじ)
元伊勢伝承の阿紀神社上手にあるお寺です。枝垂桜の名所です。
境内にある樹齢約350年といわれるしだれ桜。鎌倉末期から室町時代に創建された
本堂は火事で全焼し、現在は再建に向けての取り組みがされています。
此の続きは、
4月7日の街並みを眺め時代を感じる宇陀松山地区へ-2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿します。
https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、阿紀神社~
阿紀神社
(あきじんじゃ)は、奈良県宇陀市大宇陀迫間(おおうだはさま)にある神社。
式内社で、旧社格は県社。通称は神戸明神とも呼ばれる。
神代に神楽岡に創建され、崇神天皇の勅によって神戸大神宮の号を賜わる。あず地
桃山時代(天正年間)に本郷川西岸の現在地に遷座されたときに、現在の社名へと改
められた。江戸時代前期に能舞台が建設され、能が上演されるようになる。1902年
(明治35年)に郷社から昇格して県社に列格した。
又兵衛桜へ向かう
又兵衛桜
樹齢300年とも言われる枝垂れ桜。この地に伝わる後藤又兵衛の伝説と、この桜が
後藤家の屋敷跡にあることから「又兵衛桜」と呼ばれ親しまれています。
又兵衛桜の後ろへ回ると桃や菜の花畑
ぐるっと反対側から又兵衛桜
白モクレンやコブシ、他の桜も満開
川を挟んで帰り道から又兵衛桜を
阿騎野・人麻呂公園
柿本人麻呂像
平成7年の発掘調査により、弥生時代、飛鳥時代、中・近世の3時代にわたる遺構が
発見されました中ノ庄遺跡です、いにしえの生活の痕跡が残る重要な遺跡として公園
整備されています。周辺は飛鳥時代「阿騎野」と呼ばれ、大和朝廷の狩り場(薬猟)で
あったと伝えられています。園内には、故中山正實(なかやままさみ)画伯による壁画
「阿騎野の朝」を元にした柿本人麻呂像が建ち、掘立柱建物や竪穴式住居が復元され
ています。
大願寺・・・大願寺の創建は飛鳥時代と伝わります。
聖徳太子が蘇我馬子に命じて建立したと言われ、この狛寅の謎も解けたような気が
します。信貴山朝護孫子寺にも語り継がれる「寅年、寅日、寅刻」・・・聖徳太子が物
部守屋との戦いに際し、毘沙門天に助けられたのが「三寅」のタイミングでした。
そう、虎は毘沙門天の使いなのです。
大願寺沿革
薩埵山(さったさん)・成就院・大願寺と称し、真言宗御室派仁和寺末で、寺の創建は推古
時代(約1400年前)で聖徳太子が蘇我馬子に命じて建立させたと伝えられている。
御本尊十一面観世音菩薩は、弘仁式で弘法大師作または徳道上人作で、その御尊前に
長谷寺建立、大蔵寺建立の大願を誓われたと伝えられ、後観音様は火災に遭うも焼けず
に発見されたので「焼けずの観音」で、「災難除け」の観音様として信仰されている。
大願寺は歴代城主である織田信長の二男信雄(のぶかつ)より松山城主高長、長頼、信
武公に亘り、信仰厚く当寺で諸祈願されたと古文書に記載されている。
毘沙門堂は室生の大杉一本で建立され、毘沙門天は長頼公が鞍馬毘沙門天と同作の毘
沙門天を勧請し祀られた。
※白山権現社・・・・今回は登らず パス
毘沙門堂の左手奥へ上がって行くと、加賀の白山神社を勧請した白山権現社が祀ら
れています。
道の駅宇陀路・大宇陀バス停→奈交バス→榛原駅(解散)→五位堂駅~自宅
4月7日の近鉄ハイキング 又兵衛桜
此の日は、知人と二人で参加、前回の此の辺りのハイキングで、行ってみたい神社が2社
有り、今回は此の2社(平尾の水分神社と野依の白山神社)も訪ねようと意気込んでたが、
野依白山神社は行けず、此の日の私の万歩計は、29730歩で約17.8km歩いたことに・・・
コース 榛原駅南出口階段下受付 9時半~11時
榛原駅(受付・スタート)~宇陀川沿いの桜・猟路の桜~水分神社~宇陀アニマルパーク
(昼食)~宇陀松山地区・黒門・寺社~天益寺~阿紀神社秋~又兵衛桜~柿本人丸像~
大願寺~道の駅宇陀路・大宇陀バス停→奈交バス→榛原駅(解散)→五位堂駅~自宅
榛原駅南出口階段下(受付・スタート)
宇陀川沿いの桜
宇陀川沿い・猟路の桜
下井足~篠楽~五津にかけての桜並木。篠楽では万葉歌にちなみに「猟路の桜」と
命名。ぼんぼりの夜桜も楽しむことができます。
宇陀川沿い
水分神社(みくまりじんじゃ)・・・(平尾水分神社)
いつも鳥居を見て通り過ぎるだけだったが思い切って寄り道して見た
水分神社本殿(みくまりじんじゃほんでん)
宇陀川の東岸に面した小高い丘陵の西斜面に鎮座する。本殿は境内の東寄りに石垣
を積み上げ、その上に一間社隅木入春日造(いっけんしゃすみぎいりかすがづくり)、桧
皮葺(ひわだぶき)の社殿を3棟並列で西面させて覆屋(おおいや)に納めている。社殿
によれば神社の創立は永徳元年(1381)と伝え、永徳9年(1566)書写『玉岡水分縁起』
の記載からもおそくとも中世末には存在していたと考えられ、近世では妙福寺は神宮寺
であった。祭神は向かって右から第一殿・天照大神、第二殿・水分大明神、第三殿・白山
大権現(だいごんげん)をまつる。水分神社本殿は3殿とも同規模で同時期に建立された
ことは明らかで、当初形式を踏襲しているものと考えられる。覆屋根は慶長4年に建てら
れていることから現社殿の桧皮葺や棟飾(むねかざり)はそれ以前のものと考えられるこ
とに注目に値する。宇太水分神社と同じ形式が見られ棟札から吉野の飯貝大工が携わ
り、大工集団としての活動範囲が宇陀地方にまでおよんでいたことがわかる。
夜に行われ 古式を残す平尾のオンダ(御田植祭)
平尾水分神社は江戸期に宇陀水分神社より水分神を勧請して祀られた末社。毎年1月
18日、本殿石段前に設けた板張り舞台で、五穀豊穣を祈る予祝の神事としてオンダが
行われます。
午後7時ころ、神職(墨坂神社宮司)と氏子代表らにより本殿前で厳かに神事が行われ
ます。次いで社務所で関係者のお祝いの宴(直会)が開かれたあと、「ショトメ(早乙女/
初乙女)」と呼ばれる子供5人が1人ずつおんぶ、あるいは抱っこされて舞台に上がりま
す。早乙女役を子供が演じるのは珍しく、最近は男児不足から女の子も加わるように
なったそうです。
午後8時ごろ、いよいよお田植えが始まります。太夫役の「大当(だいとう)」と神主役の
「小当(しょうとう)」が神前に向かって、江戸時代頃の旧い言葉で 「・・・吉日吉時をもっ
て正月18日に三社大明神の御前にて御田植仕り候・・・」 のような台詞が声高らかに
語られます。舞台外から合いの手が入り、素朴で暖かい雰囲気の中で進められます。
「鍬入れ」「苗代作り」「水入れ」「種籾まき」「お田植え」・・・などと一連の農作業が続き
ます。この中には現在の稲作では見られなくなった「芋つむぎ」や「鳥追い」など珍しい
ものが組まれており、注目されます。
ひと息入れるころ(間炊=ケンズイ)、「若宮さん」と呼ばれる全身にコヨリを巻きつけた
人形が「小当」によって運ばれます。病気平癒を祈願する人形で、自分の体の治した
い箇所と同じところのコヨリを貰い受け、患部をなでると治癒するとのことで、大勢の
氏子や参加者が嬉しそうにコヨリを戴いていました。全体を通して古風で味わい深い
ユニークなお祭りです。
宇陀川沿いに戻る
※白山神社(はくさんじんじゃ)・・・今回はパスしたので次回?
野依の白山神社(のよりのはくさんじんじゃ)
野依のオンダ(のよりのおんだ)
5月5日(もと旧暦)にセックオンダ(節句御田)と呼ばれる田植え行事が行われる。野依
には宇多川を挟んで東西53戸でそれぞれ組織されるトーヤ(頭家)講があり、ここから
選ばれた大頭小頭が氏神白山神社の年間の祭祀を司る。
白山神社 野依のオンダ(節句おんだ)・・・牛馬を使用しない珍しいおんだ祭
宇陀市の野依白山(のよりはくさん)神社で行われる、田植えの成功を前もって祝う(予
祝)神事。もともと旧暦5月5日の行事でしたが、古くからの伝承でこの日は神様の田植
えの日、村人は田植をしてはならない日とされていました。
そこで大正初め頃から新暦の5月5日に「おんだ」を田植え前の行事として行なわれるよ
うになり、俗に「節句おんだ」とも呼ばれています。奈良県の無形民俗文化財に指定。神
社の境内で10数名の神役たちが田植えの様子をユーモラスに演じます。加えて子供た
ちがふざけて神役の背中や尻を押し演技の邪魔をするなど、なごやかなお田植神事が
展開されます。神役は、大頭〔(だいとう)田主〕、小頭〔間炊*(ケンズイ)持ち〕、荒鍬持ち、
小鍬持ち、万鍬(まんぐわ)持ち、苗籠持ち、植女(ショトメ)3人、大太鼓役、荷い手2人、
小太鼓役、ケンズイ配りなどいずれも男性が務めます。* 昼食と夕食の間の飲食、おや
つ唄に合わせショトメが菅笠を上げ下げしつつ舞うのは「白山権現の舞」と「やよの舞」
と呼ばれています。
宇陀アニマルパーク
恒例のコンニャクを食べて昼食
宇陀松山地区
宇陀松山、聞き慣れない地名かもしれませんが、古くから城下町として発展し、その町並
みが今も生活の場としながらも景観を保ったまま残っている地区です。
2006年には「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。
保存地区に選定された古い町並みの散策はもちろん、町並みの隙間からふと顔を出す自
然の表情や、何年も姿を変えていないような店の軒先など、時間の止まったようなゆったり
した空気も魅力です。
宇陀松山が拓かれたのは戦国時代「宇陀三将」と呼ばれた一人、秋山氏の築いた城の城
下町として発展してきました。以後、様々な時代の変遷を経ながら、今の松山の町並みが
作られてきました。
宇陀は「吉野葛」の産地として全国的に有名で、昭和天皇が最後に口にされたのはここの
吉野本葛なのだそうです。他にも天然の良水を活かしたお酒や醤油なども特産品として有
名です。
松山西口関門
福島掃部孝治が城下町への出入口として、今から400年前に建築したものだ。昭和6年
(1931年)に国の史跡として指定された。壁以外は黒く塗られていることから、地元では
黒門と呼ばれて親しまれている。
恵比寿神社
黒門近くにある「恵比寿神社」。愛宕神社・恵毘須神社・愛宕寺の神仏混合社です。
愛宕神社は、城下町の火災防止のため、松山城主織田長頼が勧請奉祀させたといわ
れる。恵毘寿神社は町内の茶町から移され、江戸以来毎年2月8日には初えびすが行
われる。
春日神社参道
春日神社
祭神、武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比び大神。本殿、拝殿、神饌所、門、社務所
の施設が整い、石造灯籠新古を交え35基を奉建している。当社の旧祠宮と伝える佐々
岡家には祭礼記など数通の古文書を蔵している。
※慶恩寺・・・今回はパス
松谷山菩提院慶恩寺。開山は持統天皇九年に吾城行宮を賜って堂宇としたことに始まる。
その後文治2年に奈良の大仏殿再興にあたり、伽藍指図5分の1の試みとして建立された。
鐘楼には無銘であるが古い梵鐘が懸かる。
※光明寺・・・今回はパス
融通念仏宗の寺院。草創は宇多法皇の時代といわれ、天正14年に法俊上人が再興。光
明寺には本堂、山門のほかに小堂、書院、鐘楼がある。山門は入母屋造り、桧皮葺きの楼
門で、松山・神戸地区で最も古い建物の一つ。
※史跡宇陀松山城跡・・・今回もパス
宇陀松山城は、南北朝時代から宇陀に勢力をもつ秋山氏の本城であったが、天正13年
に豊臣家大名の居城となり、城下町が整備された。最後の城主福島氏が元和元年に改
易され、平成7年からは発掘調査が行われている。平成18年、国史跡に指定された。
松山地区を出て天益寺~阿紀神社へ向う
レンギョやミツマタが」綺麗
天益寺(てんやくじ)
元伊勢伝承の阿紀神社上手にあるお寺です。枝垂桜の名所です。
境内にある樹齢約350年といわれるしだれ桜。鎌倉末期から室町時代に創建された
本堂は火事で全焼し、現在は再建に向けての取り組みがされています。
此の続きは、
4月7日の街並みを眺め時代を感じる宇陀松山地区へ-2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿します。
https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、阿紀神社~
阿紀神社
(あきじんじゃ)は、奈良県宇陀市大宇陀迫間(おおうだはさま)にある神社。
式内社で、旧社格は県社。通称は神戸明神とも呼ばれる。
神代に神楽岡に創建され、崇神天皇の勅によって神戸大神宮の号を賜わる。あず地
桃山時代(天正年間)に本郷川西岸の現在地に遷座されたときに、現在の社名へと改
められた。江戸時代前期に能舞台が建設され、能が上演されるようになる。1902年
(明治35年)に郷社から昇格して県社に列格した。
又兵衛桜へ向かう
又兵衛桜
樹齢300年とも言われる枝垂れ桜。この地に伝わる後藤又兵衛の伝説と、この桜が
後藤家の屋敷跡にあることから「又兵衛桜」と呼ばれ親しまれています。
又兵衛桜の後ろへ回ると桃や菜の花畑
ぐるっと反対側から又兵衛桜
白モクレンやコブシ、他の桜も満開
川を挟んで帰り道から又兵衛桜を
阿騎野・人麻呂公園
柿本人麻呂像
平成7年の発掘調査により、弥生時代、飛鳥時代、中・近世の3時代にわたる遺構が
発見されました中ノ庄遺跡です、いにしえの生活の痕跡が残る重要な遺跡として公園
整備されています。周辺は飛鳥時代「阿騎野」と呼ばれ、大和朝廷の狩り場(薬猟)で
あったと伝えられています。園内には、故中山正實(なかやままさみ)画伯による壁画
「阿騎野の朝」を元にした柿本人麻呂像が建ち、掘立柱建物や竪穴式住居が復元され
ています。
大願寺・・・大願寺の創建は飛鳥時代と伝わります。
聖徳太子が蘇我馬子に命じて建立したと言われ、この狛寅の謎も解けたような気が
します。信貴山朝護孫子寺にも語り継がれる「寅年、寅日、寅刻」・・・聖徳太子が物
部守屋との戦いに際し、毘沙門天に助けられたのが「三寅」のタイミングでした。
そう、虎は毘沙門天の使いなのです。
大願寺沿革
薩埵山(さったさん)・成就院・大願寺と称し、真言宗御室派仁和寺末で、寺の創建は推古
時代(約1400年前)で聖徳太子が蘇我馬子に命じて建立させたと伝えられている。
御本尊十一面観世音菩薩は、弘仁式で弘法大師作または徳道上人作で、その御尊前に
長谷寺建立、大蔵寺建立の大願を誓われたと伝えられ、後観音様は火災に遭うも焼けず
に発見されたので「焼けずの観音」で、「災難除け」の観音様として信仰されている。
大願寺は歴代城主である織田信長の二男信雄(のぶかつ)より松山城主高長、長頼、信
武公に亘り、信仰厚く当寺で諸祈願されたと古文書に記載されている。
毘沙門堂は室生の大杉一本で建立され、毘沙門天は長頼公が鞍馬毘沙門天と同作の毘
沙門天を勧請し祀られた。
※白山権現社・・・・今回は登らず パス
毘沙門堂の左手奥へ上がって行くと、加賀の白山神社を勧請した白山権現社が祀ら
れています。
道の駅宇陀路・大宇陀バス停→奈交バス→榛原駅(解散)→五位堂駅~自宅