4月14日の歴史ある當麻の里を巡り練供養へ-1
4月20日 4月14日の歴史ある當麻の里を巡り練供養へ-1
近鉄駅フリーハイキング 8㎞
此の日は、午前中は知人のK場さんと大和高田駅~約3.5km、長尾迄歩いて木戸池
公園で昼食を済ませて、近鉄ハイキングの尺土駅~の12時~13時30分受付の駅フ
リーハイキングへO村さんと知人3名のパーティーと一緒に参加、6名で歩きました・・・
先ず午前中のハイキング・・・尺土駅へ行くのが目的
大和高田駅10時集合・スタート~高田橋~高田川沿い桜並木~大中公園(トイレ休
憩)~竹内街道・横大路を歩く~長尾・木戸池公園(昼食・トイレ休憩)~長尾神社~
尺土駅へ
午後からのハイキング・・・中将餅を食べてPM4時から當麻寺のお練りを見に
尺土駅(12:00~13:30受付・スタート)~長尾神社~綿弓塚~中将堂で中将餅とお茶
を~相撲館・けはや座前~首子塚・史跡首子古墳群(當麻寺の東塔と西塔が見える
ビューポイント)~石光寺~中将姫墓塔~當麻寺・黒門・本堂前(5名と此処で別れて)
東大門~当麻寺駅 → 橿原神宮前駅 → 大和八木駅 → 五位堂駅
へ私だけ先に帰らせて貰った。
午前中のハイキング・・・尺土駅へ行くのが目的
大和高田駅10時集合・スタート~高田橋~高田川沿い桜並木~大中公園(トイレ休憩)
~竹内街道・横大路を歩く~長尾へ
竹内街道・横大路(大道)
春分と秋分の日、太陽は三輪山から昇り、二上山を超えて大阪湾に沈む。このこと
から、推古天皇21年(613年)に東西の直線で敷設された幅20mを越える大道(竹内
街道・横大路)は、太陽の道と言われる。
古代には、大陸からの使節団が難波宮から飛鳥京を訪れ、先進技術や仏教文化を
伝えた。中世には経済都市を結び、近世には伊勢参りの宿場町としての賑わいを見
せ、場所ごとに様々な表情を浮かべる。1400年の歴史の移り変わりを周辺の歴史遺
産を通して感じさせる日本最古の国道。それが竹内街道・横大路(大道)なのである。
葛城市 市場の三ツ池
木戸池公園(昼食・トイレ休憩)
このため池が出来たのは、江戸時代。200年以上にわたって田畑をうるおしてきたが、
最近になって池の水がよごれてきて、「人が近づけない池」と呼ばれる様になった。
子供の為の遊具も有り、桜の花も綺麗・・・
木戸池公園の遊具
池のほとりの東屋(昼食場所)
近所の子供連れが鯉にエサを・・・
二上山も見える
桜の花びら
公園の小高い丘からの眺め
丘の上の桜
スミレの花
長尾神社~尺土駅へ
長尾神社(ながおじんじゃ)・・・午後のハイキングコースになってるが事前に
長尾神社は、奈良県葛城市に鎮座する葛下郡の総社。旧大和国葛下郡の式内大
社で、旧社格は郷社。
長尾の森の広大な神域に鎮座し、『延喜式神名帳』に「葛下郡長尾神社、大、月次、新
嘗」と記されている式内の古社。このあたりを支配していた長尾氏の氏神とされるが定
かでない。また吉野連との関係があるとされる。『日本三代実録』に、「貞観元年己卯
(875年)正月二十七 日大和国従五位下、長尾神社従五位上」とあり、9世紀にはこの
地に鎮座していた。社伝によると、寛平9年(897年)より弘安4年(1281年)までの間に
九階進昇。弘安4年には正二位、江戸時代には正一位にまで昇進した。『放光寺古今
縁起』(1302年)や『大和志』(1736年)によると祭神は伊勢の神宮の内宮及び外宮の
大神天照大神、豊受大神である。伊勢の神宮の真西に鎮座していることから、古くから
人々の篤い信仰を得た神社であった。また住吉・熱田・諏訪の神々も祀られている。江
戸期の文献では水光姫命、白雲別命も祀られたとある。また『放光寺古今縁起』には
「長尾神社は葛下郡全体の総社である天武天皇が壬申の乱(672年)で勝利した後に
感謝の気持ちから葛下郡一郡を当社に献じられた」と記されている。
鎮座地は竹内街道、長尾街道、横大路が交差する交通の要衝であり、古来より交通安
全、旅行安全の神として篤く信仰されている。参道は拝殿に向かって東西に長く伸びて
おり一の鳥居は近年新たに竣工した。 二の鳥居の両脇には「なで蛙」が配されて、参
拝者を見守っており、安産祈願の神としても名高い。 また水光姫命は古事記や日本書
紀に体が光って尾が生じていたと記されており、神様の化身が白蛇であると言われると
ころから蛇の頭が大神神社で尾が長尾神社という伝承がある。
又、桜井の大神神社(三輪明神)を龍の頭、高田の石園座多久虫玉神社(竜王宮)を龍
の胴、葛城の長尾神社を龍の尾とする伝承もあるようです。
午後からのハイキングへ向けて尺土駅で受付
午後からのハイキング・・・中将餅を食べてPM4時から當麻寺のお練りを見に行く
尺土駅(12:00~13:30受付・スタート)
長尾神社
大鳥居の前に狛犬ならぬなで蛙が鎮座
長尾神社を出て
竹内街道を歩く、長尾街道への分岐点
竹内街道を綿弓塚へ向かう
166号線と並行に
綿弓塚休憩所(松尾芭蕉 ゆかりの地)
綿弓塚は、「野ざらし紀行」で松尾芭蕉が門人千里をつれて、千里の旧里竹内に
宿ったときに詠んだ句を記念し文化年間に建てられた句碑が「綿弓塚」として残っ
ています。いまは休憩所「綿弓広場」として整備されています。
「 綿弓や 琵琶になぐさむ 竹の奥 松尾芭蕉 」
此の続きは、
4月14日の歴史ある當麻の里を巡り練供養へ-2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿します。
https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、午後からのハイキング最大の楽しみ、中将餅屋へ向う~
中将餅屋へ向う
中将堂で
中将餅とお茶のセットで休憩して出発
相撲館・けはや座前
思わず撮った
トイレの張り紙(注意事項)
葛城市相撲館横
當麻蹶速塚(たいまのけはやづか)
相撲の始祖として知られる當麻蹶速(たいまのけはや)の塚と伝えられている五輪塔
です。垂仁天皇(すいにんてんのう)の時代に當麻蹶速と野見宿禰(のみのすくね)と
が力比べをし、これが日本で最初の天覧相撲と伝えられています。
石光寺へ向かう
首子塚
首子塚・史跡首子古墳群(當麻寺の東塔と西塔が見えるビュー点)
史跡首子古墳群
古くから「首子七塚」として知られている。現在、現地で確認できるのは4基。
首子4・5号墳の前に説明板がある。残っているこの4基も削平や改変がかなり
されている。1・4・5・8号墳が県指定史跡となっている。
説明板から
昭和28・51・52年の調査で帆立貝形前方後円墳1基・円墳6基・方墳3基 計10基
が確認されている。
多くの古墳は横穴式石室で内部に組合式石棺が納められていた。
副葬品には、刀、装身具、須恵器などがある。
5号墳 首子塚ともよばれ、埋葬部は未確認だが、木棺を直葬したものと考えられ
ている。墳丘部には円筒埴輪があった。
1号墳 櫟山古墳、
2号墳の墳丘は削平されていたが、丘尾を切断する形で溝が半円形にめぐり、溝内
から多数の円筒埴輪・家形埴輪・須恵器が出土
3・4号墳は方墳で、3号墳では、木棺直葬。4号墳は竪穴式石室
5号墳は群中最大で、帆立貝式前方後円墳で円筒埴輪がある。
7号墳は未調査だが一辺18mの方墳
8号墳は径25mの円墳で、横穴式石室の中に凝灰岩製の石棺の底石が残っていた。 この石室は中世に再利用されている。
石光寺へ向かう
石光寺(せっこうじ)
天智天皇の勅願によって創建された。
石光寺は、奈良県葛城市にある浄土宗の寺院である。山号は慈雲山。本尊は阿弥陀
如来。出土遺物等から飛鳥時代後期(白鳳期)の創建とみられる古寺で、中将姫伝説
ゆかりの寺院である。境内には中将姫が蓮糸曼荼羅を織成する際に蓮糸を染めたと
いう井戸「染めの井」と、糸を干したという「糸掛桜」があり、「染寺」と通称されている。
観光的にはボタンの寺として知られ、境内にはボタン、シャクヤク、アジサイ、サクラ、
サルスベリなどが植えられている。関西花の寺二十五霊場20番札所である。
役小角の開山と伝えられる。『元亨釈書』等に記載される縁起によれば、天智天皇(在
位668〜671年)の時代、霊光を放つ大石が見つかり、天皇の勅命を受けてこの石に
弥勒如来を彫らせ、堂宇を建立したのが始まりとされる。1991年(平成3年)には弥勒
堂改築に伴う発掘調査の結果、飛鳥時代後期(白鳳期)の石造如来坐像、瓦、塼仏が
出土した。この時の発掘調査で、平面五間x四間の堂跡が検出され、前述の石仏はこ
の堂に安置されていたものとみられる。また、境内に飛鳥時代後期といわれる塔の心
礎がある。
お堂の下を潜って
石光寺を後に
中将姫墓塔~當麻寺へ向かう、又、雨が降って本降りに・・・
※中将姫墓塔・・・當麻北共同墓地内にあります。
花崗岩で造られた十三重塔で、高さ・285cm。初重の四方仏は、軸部に縁をとった
中に舟形を造って、そこに厚肉に彫出。屋根は軒反りが強く、鎌倉時代末期の様式
です。横に建つ石造三重塔は平安時代後期の作で、高さ・156cmです
當麻寺・黒門・本堂前(5名と此処で別れて)
當麻寺・黒門
当麻寺・本堂前
當麻寺
當麻寺は、古代大和の“西方”に位置し、白鳳・天平様式の大伽藍を有する古刹。金堂
の弥勒仏や四天王、梵鐘などの白鳳美術を今に伝えるほか、古代の三重塔が東西一
対で残る全国唯一の寺としても知られています。
本尊として祀られる「當麻曼荼羅(たいま・まんだら)」は、奈良時代、藤原家の郎女・中
将姫さまが写経の功徳によって目の当たりにした極楽浄土の光景を壮大な規模で表し
たもので、中将姫さまを常に守護し、導いた守り本尊「導き観音さま」とともに今も多くの
人々のよりどころになっています。
推古天皇20年(612)、用明天皇の第3皇子である麻呂古(麻呂子・まろこ)という親王さ
まが、兄である聖徳太子さまの教えによって「万法蔵院(まんぽうぞういん)」を建立した
のがはじまりとされています。いくつか異説がありますが、現在、大阪府太子町に「万法
蔵院跡」と伝承される場所があります。万法蔵院のご本尊は弥勒さまとする史料と、救
世観音さまとする史料があります。
さて、親王さまはある時、万法蔵院を二上山の東麓に移すようにという夢を見られたそう
です。二上山は大和では落陽を象徴する山ですから、山の東側こそ祈りの地として相応
しいということだったのでしょう。しかし、壬申の乱の混乱で寺の遷造は遅れ、親王の存
命中には実現せず、その夢を実現したのは親王の孫に当たる当麻国見でした。
二上山の東麓は当時、役行者さまの私領でした。役行者さまは大和の修験者ですが、
その最初の修行地が當麻だったのです。万法蔵院の遷造に際し、行者さまはその領地
を寄進し、天武天皇10年(白鳳9年・681)、金堂にご本尊として弥勒仏さまがお祀りされ、
現在の當麻寺がはじまったのです。
東大門へ~東大門を出て当麻寺駅へ私だけ先に帰らせて貰った。
此れ以上居たら風邪をひいてしまう
当麻寺駅 → 橿原神宮前駅 → 大和八木駅 → 五位堂駅 経由でバスで帰った。
近鉄駅フリーハイキング 8㎞
此の日は、午前中は知人のK場さんと大和高田駅~約3.5km、長尾迄歩いて木戸池
公園で昼食を済ませて、近鉄ハイキングの尺土駅~の12時~13時30分受付の駅フ
リーハイキングへO村さんと知人3名のパーティーと一緒に参加、6名で歩きました・・・
先ず午前中のハイキング・・・尺土駅へ行くのが目的
大和高田駅10時集合・スタート~高田橋~高田川沿い桜並木~大中公園(トイレ休
憩)~竹内街道・横大路を歩く~長尾・木戸池公園(昼食・トイレ休憩)~長尾神社~
尺土駅へ
午後からのハイキング・・・中将餅を食べてPM4時から當麻寺のお練りを見に
尺土駅(12:00~13:30受付・スタート)~長尾神社~綿弓塚~中将堂で中将餅とお茶
を~相撲館・けはや座前~首子塚・史跡首子古墳群(當麻寺の東塔と西塔が見える
ビューポイント)~石光寺~中将姫墓塔~當麻寺・黒門・本堂前(5名と此処で別れて)
東大門~当麻寺駅 → 橿原神宮前駅 → 大和八木駅 → 五位堂駅
へ私だけ先に帰らせて貰った。
午前中のハイキング・・・尺土駅へ行くのが目的
大和高田駅10時集合・スタート~高田橋~高田川沿い桜並木~大中公園(トイレ休憩)
~竹内街道・横大路を歩く~長尾へ
竹内街道・横大路(大道)
春分と秋分の日、太陽は三輪山から昇り、二上山を超えて大阪湾に沈む。このこと
から、推古天皇21年(613年)に東西の直線で敷設された幅20mを越える大道(竹内
街道・横大路)は、太陽の道と言われる。
古代には、大陸からの使節団が難波宮から飛鳥京を訪れ、先進技術や仏教文化を
伝えた。中世には経済都市を結び、近世には伊勢参りの宿場町としての賑わいを見
せ、場所ごとに様々な表情を浮かべる。1400年の歴史の移り変わりを周辺の歴史遺
産を通して感じさせる日本最古の国道。それが竹内街道・横大路(大道)なのである。
葛城市 市場の三ツ池
木戸池公園(昼食・トイレ休憩)
このため池が出来たのは、江戸時代。200年以上にわたって田畑をうるおしてきたが、
最近になって池の水がよごれてきて、「人が近づけない池」と呼ばれる様になった。
子供の為の遊具も有り、桜の花も綺麗・・・
木戸池公園の遊具
池のほとりの東屋(昼食場所)
近所の子供連れが鯉にエサを・・・
二上山も見える
桜の花びら
公園の小高い丘からの眺め
丘の上の桜
スミレの花
長尾神社~尺土駅へ
長尾神社(ながおじんじゃ)・・・午後のハイキングコースになってるが事前に
長尾神社は、奈良県葛城市に鎮座する葛下郡の総社。旧大和国葛下郡の式内大
社で、旧社格は郷社。
長尾の森の広大な神域に鎮座し、『延喜式神名帳』に「葛下郡長尾神社、大、月次、新
嘗」と記されている式内の古社。このあたりを支配していた長尾氏の氏神とされるが定
かでない。また吉野連との関係があるとされる。『日本三代実録』に、「貞観元年己卯
(875年)正月二十七 日大和国従五位下、長尾神社従五位上」とあり、9世紀にはこの
地に鎮座していた。社伝によると、寛平9年(897年)より弘安4年(1281年)までの間に
九階進昇。弘安4年には正二位、江戸時代には正一位にまで昇進した。『放光寺古今
縁起』(1302年)や『大和志』(1736年)によると祭神は伊勢の神宮の内宮及び外宮の
大神天照大神、豊受大神である。伊勢の神宮の真西に鎮座していることから、古くから
人々の篤い信仰を得た神社であった。また住吉・熱田・諏訪の神々も祀られている。江
戸期の文献では水光姫命、白雲別命も祀られたとある。また『放光寺古今縁起』には
「長尾神社は葛下郡全体の総社である天武天皇が壬申の乱(672年)で勝利した後に
感謝の気持ちから葛下郡一郡を当社に献じられた」と記されている。
鎮座地は竹内街道、長尾街道、横大路が交差する交通の要衝であり、古来より交通安
全、旅行安全の神として篤く信仰されている。参道は拝殿に向かって東西に長く伸びて
おり一の鳥居は近年新たに竣工した。 二の鳥居の両脇には「なで蛙」が配されて、参
拝者を見守っており、安産祈願の神としても名高い。 また水光姫命は古事記や日本書
紀に体が光って尾が生じていたと記されており、神様の化身が白蛇であると言われると
ころから蛇の頭が大神神社で尾が長尾神社という伝承がある。
又、桜井の大神神社(三輪明神)を龍の頭、高田の石園座多久虫玉神社(竜王宮)を龍
の胴、葛城の長尾神社を龍の尾とする伝承もあるようです。
午後からのハイキングへ向けて尺土駅で受付
午後からのハイキング・・・中将餅を食べてPM4時から當麻寺のお練りを見に行く
尺土駅(12:00~13:30受付・スタート)
長尾神社
大鳥居の前に狛犬ならぬなで蛙が鎮座
長尾神社を出て
竹内街道を歩く、長尾街道への分岐点
竹内街道を綿弓塚へ向かう
166号線と並行に
綿弓塚休憩所(松尾芭蕉 ゆかりの地)
綿弓塚は、「野ざらし紀行」で松尾芭蕉が門人千里をつれて、千里の旧里竹内に
宿ったときに詠んだ句を記念し文化年間に建てられた句碑が「綿弓塚」として残っ
ています。いまは休憩所「綿弓広場」として整備されています。
「 綿弓や 琵琶になぐさむ 竹の奥 松尾芭蕉 」
此の続きは、
4月14日の歴史ある當麻の里を巡り練供養へ-2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿します。
https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、午後からのハイキング最大の楽しみ、中将餅屋へ向う~
中将餅屋へ向う
中将堂で
中将餅とお茶のセットで休憩して出発
相撲館・けはや座前
思わず撮った
トイレの張り紙(注意事項)
葛城市相撲館横
當麻蹶速塚(たいまのけはやづか)
相撲の始祖として知られる當麻蹶速(たいまのけはや)の塚と伝えられている五輪塔
です。垂仁天皇(すいにんてんのう)の時代に當麻蹶速と野見宿禰(のみのすくね)と
が力比べをし、これが日本で最初の天覧相撲と伝えられています。
石光寺へ向かう
首子塚
首子塚・史跡首子古墳群(當麻寺の東塔と西塔が見えるビュー点)
史跡首子古墳群
古くから「首子七塚」として知られている。現在、現地で確認できるのは4基。
首子4・5号墳の前に説明板がある。残っているこの4基も削平や改変がかなり
されている。1・4・5・8号墳が県指定史跡となっている。
説明板から
昭和28・51・52年の調査で帆立貝形前方後円墳1基・円墳6基・方墳3基 計10基
が確認されている。
多くの古墳は横穴式石室で内部に組合式石棺が納められていた。
副葬品には、刀、装身具、須恵器などがある。
5号墳 首子塚ともよばれ、埋葬部は未確認だが、木棺を直葬したものと考えられ
ている。墳丘部には円筒埴輪があった。
1号墳 櫟山古墳、
2号墳の墳丘は削平されていたが、丘尾を切断する形で溝が半円形にめぐり、溝内
から多数の円筒埴輪・家形埴輪・須恵器が出土
3・4号墳は方墳で、3号墳では、木棺直葬。4号墳は竪穴式石室
5号墳は群中最大で、帆立貝式前方後円墳で円筒埴輪がある。
7号墳は未調査だが一辺18mの方墳
8号墳は径25mの円墳で、横穴式石室の中に凝灰岩製の石棺の底石が残っていた。 この石室は中世に再利用されている。
石光寺へ向かう
石光寺(せっこうじ)
天智天皇の勅願によって創建された。
石光寺は、奈良県葛城市にある浄土宗の寺院である。山号は慈雲山。本尊は阿弥陀
如来。出土遺物等から飛鳥時代後期(白鳳期)の創建とみられる古寺で、中将姫伝説
ゆかりの寺院である。境内には中将姫が蓮糸曼荼羅を織成する際に蓮糸を染めたと
いう井戸「染めの井」と、糸を干したという「糸掛桜」があり、「染寺」と通称されている。
観光的にはボタンの寺として知られ、境内にはボタン、シャクヤク、アジサイ、サクラ、
サルスベリなどが植えられている。関西花の寺二十五霊場20番札所である。
役小角の開山と伝えられる。『元亨釈書』等に記載される縁起によれば、天智天皇(在
位668〜671年)の時代、霊光を放つ大石が見つかり、天皇の勅命を受けてこの石に
弥勒如来を彫らせ、堂宇を建立したのが始まりとされる。1991年(平成3年)には弥勒
堂改築に伴う発掘調査の結果、飛鳥時代後期(白鳳期)の石造如来坐像、瓦、塼仏が
出土した。この時の発掘調査で、平面五間x四間の堂跡が検出され、前述の石仏はこ
の堂に安置されていたものとみられる。また、境内に飛鳥時代後期といわれる塔の心
礎がある。
お堂の下を潜って
石光寺を後に
中将姫墓塔~當麻寺へ向かう、又、雨が降って本降りに・・・
※中将姫墓塔・・・當麻北共同墓地内にあります。
花崗岩で造られた十三重塔で、高さ・285cm。初重の四方仏は、軸部に縁をとった
中に舟形を造って、そこに厚肉に彫出。屋根は軒反りが強く、鎌倉時代末期の様式
です。横に建つ石造三重塔は平安時代後期の作で、高さ・156cmです
當麻寺・黒門・本堂前(5名と此処で別れて)
當麻寺・黒門
当麻寺・本堂前
當麻寺
當麻寺は、古代大和の“西方”に位置し、白鳳・天平様式の大伽藍を有する古刹。金堂
の弥勒仏や四天王、梵鐘などの白鳳美術を今に伝えるほか、古代の三重塔が東西一
対で残る全国唯一の寺としても知られています。
本尊として祀られる「當麻曼荼羅(たいま・まんだら)」は、奈良時代、藤原家の郎女・中
将姫さまが写経の功徳によって目の当たりにした極楽浄土の光景を壮大な規模で表し
たもので、中将姫さまを常に守護し、導いた守り本尊「導き観音さま」とともに今も多くの
人々のよりどころになっています。
推古天皇20年(612)、用明天皇の第3皇子である麻呂古(麻呂子・まろこ)という親王さ
まが、兄である聖徳太子さまの教えによって「万法蔵院(まんぽうぞういん)」を建立した
のがはじまりとされています。いくつか異説がありますが、現在、大阪府太子町に「万法
蔵院跡」と伝承される場所があります。万法蔵院のご本尊は弥勒さまとする史料と、救
世観音さまとする史料があります。
さて、親王さまはある時、万法蔵院を二上山の東麓に移すようにという夢を見られたそう
です。二上山は大和では落陽を象徴する山ですから、山の東側こそ祈りの地として相応
しいということだったのでしょう。しかし、壬申の乱の混乱で寺の遷造は遅れ、親王の存
命中には実現せず、その夢を実現したのは親王の孫に当たる当麻国見でした。
二上山の東麓は当時、役行者さまの私領でした。役行者さまは大和の修験者ですが、
その最初の修行地が當麻だったのです。万法蔵院の遷造に際し、行者さまはその領地
を寄進し、天武天皇10年(白鳳9年・681)、金堂にご本尊として弥勒仏さまがお祀りされ、
現在の當麻寺がはじまったのです。
東大門へ~東大門を出て当麻寺駅へ私だけ先に帰らせて貰った。
此れ以上居たら風邪をひいてしまう
当麻寺駅 → 橿原神宮前駅 → 大和八木駅 → 五位堂駅 経由でバスで帰った。