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6月16日の万葉ゆかりの地 磐余の宮跡を訪ねる-1

6月21日        6月16日の万葉ゆかりの地 磐余の宮跡を訪ねる-1
                   JRふれあいハイキング 5.7㎞
此の日は知人のK場さんと参加、参加者40名に桜井市観光協会のガイドさん2名で2班に
分かれて史跡の案内をして貰った。此の日の私の万歩計は、15541歩で約9.3kmだった。
此の日は雨上がりの爽やかなハイキング日和、ガイドさんお二人有難う御座いました・・・
昼食休憩は無く、お腹を空かして13時頃に桜井駅に帰着、駅前のスーパーマーケットの
フードコートに立ち寄り、軽めにカレーライスを食べてから帰途に着いた。
コース   桜井駅南口広場  桜井市観光協会主催 参加費無料  9時半集合
JR桜井駅南口広場(集合)~若櫻神社~土舞台~安倍文殊院~上之宮遺跡~等彌神社
~魚市場跡~保田興重朗生家~桜井駅  12時半頃解散 ※近鉄駅改札スタンプ貰った
志都美駅
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桜井駅南口広場(集合)~スタート
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若櫻神社へ向う
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若櫻神社(わかざくらじんじゃ)
若桜神社は、『延喜式神名帳』にある「若櫻神社(大和国・城上郡)」に比定される式内社
(小社)の論社。近代社格では村社。
谷集落西方の丘上に鎮座しする。第17代履中天皇が皇妃と磐余市磯池で遊んだ時、時
ならぬ桜の花が杯に散り、物部長真膽連に花を探させた。
物部長真膽連は、ひとり掖上の室山で、桜を見つけて献上した。この桜を清水湧き出る
泉のそばに植え、宮の名前も磐余稚櫻宮にしたという。
現在まで続く桜井という地名は、この故事からきている。この井戸といわれるものは、当
社のすぐ近くにあったが、近年、当社境内にも復元された。
磐余稚櫻宮が定まった後、稚櫻部造と稚櫻部臣が置かれた。御祭神は伊波我加利命。
伊波我牟都加利命の後裔で、若櫻部朝臣、阿部朝臣などの祖である。
式内社「若櫻神社」の論社は他に市内池之内の稚桜神社がある。ただし、両社地とも近
世には十市郡に属していた。
式内社「若櫻神社」は、磐余稚櫻宮に関連したものととらえられており、当社の鎮座地は
前方後円墳の後円部が残った地、ともされる。
本殿内には、大正(1912年-1926年)まで当社東の小祠に祀られていた初代神武天皇
を祀る多神社が合祀されている。
この多神社はもとはワラビ塚に鎮座していた。田原本町多の多坐彌志理都比古神社は、
寺川の洪水で、そのワラビ塚から流されていったという伝説があるという。
本殿の隣にある摂社が高屋安倍神社で、式内社「高屋安倍神社」に比定されている。
もとは、南方400メートルの松本山東方の字狐山に鎮座していた。
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土舞台へ向かう
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安倍山城跡
小規模な曲輪跡が残り現在は「桜井公園」となっています。
暦応4年(1341)、北朝方の細川顕氏が陣を構えた所。南朝方の戒重西阿の戒重城
攻めを行ったそうです。永禄8年(1565)には、松永久秀もここで布陣し、鳥見山城
(外山)の筒井順慶と戦いました。すぐ南側に、芸能発祥の地「土舞台」が有ります。
「土舞台」のまわりには小規模な円墳がいくつか有ります(桜井公園古墳群)
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土舞台
「日本書紀」推古20年(西暦612年)に百済の人、味摩之(みまし)が呉で「伎楽舞(くれの
うたまい)」を学び、これを聖徳太子がご覧になって、この地で少年を集めて習わしめた
という。土舞台は、初の国立演劇研究所がつくられた所であると伝えられている。
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安倍文殊院へ向かう
二上山が見えるビューポイント
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安倍文殊院
安倍文殊院は西暦645年に創建された寺院です。京都・天橋立の切戸文殊、山形の
亀岡文殊と共に日本三文殊のひとつです。入試合格祈願や学業成就、厄除け魔除け
祈願を願う人々のお参りが多く見られます。御本尊は「三人寄れば文殊の智恵」の格
言で有名な文殊菩薩で、日本最大(7m)、鎌倉時代・1203年に仏師・快慶によって造
立されました。獅子に乗り4人の脇侍を伴う、渡海文殊群像【5像全てが国宝】です。
また、開運弁才天、安倍仲麻呂公、安倍晴明公の御尊像、方位災難除けの九曜星が
安置される境内の金閣浮御堂は、霊宝館として内陣参拝でき、季節によって様々な寺
宝を見ることもできます。
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晴明堂
陰陽師・安倍晴明が陰陽道の修行をした場所ともいわれ、平成16年(2004年)には
安倍晴明堂が建立されている。
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※安倍晴明
晴明の系譜は明らかでないが、大膳大夫・安倍益材(あべのますき)あるいは淡路守・
安倍春材の子とされる。921年(延喜21年)に摂津国阿倍野(現・大阪市阿倍野区)に
生まれたとされる。また、生地については、奈良県桜井市安倍とする伝承もある。幼少
の頃については確かな記録がないが、陰陽師賀茂忠行・保憲父子に陰陽道を学び、
天文道を伝授されたという。加茂氏の門下生であり、のちに両家は二大陰陽家となる。
948年(天暦2年)大舎人。960年(天徳4年)40歳で天文得業生(陰陽寮に所属し天文
博士から天文道を学ぶ学生の職)であった晴明は村上天皇に占いを命ぜられており、
出世は遅れていたが占いの才能は既に貴族社会で認められていたことが伺える。50
歳頃、天文博士に任ぜられる。貞元2年(977年)、保憲が没した頃から陰陽道内で頭
角を現す。陰陽寮を束ねる陰陽頭に就任することは無かったが、位階はその頭よりも
上位にあった。979年(天元2年)、59歳の晴明は当時の皇太子師貞親王(後の花山天
皇)の命で那智山の天狗を封ずる儀式を行う。
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ウオーナー博士供養塔
安倍文殊院の境内に、アメリカ美術史家・ラングドン・ウォーナー博士の供養塔が建っ
ています。奈良や京都の文化財を戦時中の空爆から救った人物とされるラングドン・
ウォーナー博士。その功績を称えるために安倍文殊院の他にも、法隆寺西円堂の西
側や鎌倉駅西口に、それぞれ供養塔や顕彰碑が建てられています。
奈良や京都や鎌倉といった、日本の古都の文化財が守られたのはウォーナー博士の
お蔭である。そんな感謝の気持ちから、このウォーナー塔は建てられました。
しかし、当のご本人のウォーナー博士はそのことを否定しておられました。単に謙虚な
気持ちから否定なさったのでしょうか。あるいは本当に、博士が古都への攻撃を回避
するよう、米軍に働きかけたという伝説は偽りだったのでしょうか。後に作られたストー
リーだったのだろうか。一連のウォーナー伝説は、日本人に親米感情を持たせるため
に作り上げられた「GHQ占領政策」の一環だったのでしょうか。
そんな事はさておき、日米間の本当の歴史を知る上でも貴重な記念碑であると言える
ウォーナー塔です。
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金閣浮御堂(仲麻呂堂)
昭和60年(1985年)に建立された文殊池の中に建つ金色の六角堂で、安倍仲麻呂像、
安倍晴明像などを祀る。
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此の続きは、
6月16日の万葉ゆかりの地 磐余の宮跡を訪ねる-2 として
             下記のメインブログへ詳細を投稿します。
          https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、文殊院西古墳~
文殊院西古墳
本堂近くにある7世紀中頃の古墳で、豪族安倍(阿倍)氏一族の墓であることはほぼ確
実視され、安倍倉梯麻呂の墓であるともいわれる。古墳の原状は不明だが、径25mほ
どの円墳であったと見られる。横穴式石室が露出しており、切石造石室の代表的なも
のとされている。
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安倍文殊院 本堂
寛文5年(1665年)に建立された建物で、快慶作の木造騎獅文殊菩薩及び脇侍像が
安置されている。
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上之宮遺跡へ向かう
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上之宮遺跡
一辺が50メートル以上の柵や溝に囲まれた方形の区画の中に建物が規則的に配置さ
れており、西側から園池遺構が出土した。木簡、琴柱、ベッコウ等の貴重品や、地名か
ら聖徳太子が20年間居所した宮跡と推定される。
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等彌神社へ向う
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等彌神社(とみじんじゃ)
等彌神社は、奈良県桜井市桜井にある神社。『延喜式神名帳』に掲載されている大和
国城上郡等彌神社に比定されている。明治時代までは能登宮と呼ばれていた。
本社にあたる上社「上津尾社」の祭神は大日霊貴命とされるが、饒速日命とする説も存
在する。下社「下津尾社」には八幡大神・春日大神が祀られ、その他稲荷、猿田彦、金
比羅、愛宕、恵比寿等の境内社と桜井市護国神社が鎮座する。
創建年月は不詳であるが、社伝によると当社は古より鳥見山に鎮座していたとされる。
鳥見山は初代天皇とされる神武天皇が皇祖神を祀った場所(霊畤)と伝えられる。天永
3年(1112年)、山崩れにより社殿を現在地に移した。
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魚市場跡
市場跡に碑が建立されている。有名な「日本橋の魚河岸」開設に当たり、桜井の人、
大和屋助五郎が大いに貢献したということです。(東京史稿から)
旧桜井町の本町通りと立小路町とのT字路あたりは魚市場のあったところで、かつては
藤堂藩の宿場として栄え、市場としては古いものの一つである。吉野から多武峰をへて
かついできた熊野鯖は名物のひとつであった。
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※森孫右衛門と大和屋助五郎
森孫右衛門は江戸前期,江戸日本橋魚市場の祖形をつくったとされる,摂州西成郡佃村
(大阪市)の漁民。伝承多く考証未詳につき,いまは父子2人説に従う。父の孫右衛門(初
め見一姓)は,天正年中(1573~92)に徳川家康の知遇をえて森姓を与えられ,同18年一
族と共に江戸に入り,白魚漁に着手。天正18年江戸日本橋魚河岸創設説は,この事績を
指したもの。その後慶長8(1603)年までに次男九左衛門ら7名を江戸に移住させ,白魚
漁のかたわら道三堀に魚問屋を開業させる。九左衛門らは,慶長12年までに本小田原
町に進出し,ここに日本橋魚河岸が成る。森一族は,こののち旧来手法を墨守して問屋
業は先細りとなるが,元和2(1616)年ごろ本小田原町に魚問屋を興した大和桜井出身の
大和屋助五郎は,森一族と対抗しながら,駿州各浦に鮮魚の仕込金をもって敷浦(浜方
〈浦方〉への敷金〈前貸金〉にもとづく問屋の集荷専有権)を設け,産地独占的な魚河岸
の流通機構を作出した。
<参考文献>『東京都中央卸売市場史』上,中村勝『増補・改定 市場の語る日本の近代』

保田興重朗生家
保田 與重郎(保田 与重郎、やすだ よじゅうろう、1910年(明治43年)4月15日 - 1981年
(昭和56年)10月4日)は、日本の文芸評論家で多数の著作を刊行した。湯原冬美の筆
名も用いた。
奈良県十市郡桜井町(現桜井市)生まれ。旧制奈良県立畝傍中学校、大阪市阿倍野区
にあった旧制大阪高校から東京帝国大学美学科美術史学科卒業。大阪高校時代には
マルクス主義にも触れ、蔵原惟人や中条百合子の作品を評価していた。また、高校時代
の同級に竹内好がおり、後に保田が中国を訪れたときに、竹内が案内をしたことがある。
在学中より、『コギト』、亀井勝一郎らとともに『日本浪曼派』創刊同人として活躍。高校時
代のマルクス主義から後に、ヘルダーリンやシュレーゲルを軸としたドイツロマン派に傾
倒して、近代文明批判と日本古典主義を展開。1936年(昭和11年)に、処女作である
「日本の橋」で第一回池谷信三郎賞を受賞、批評家としての地位を確立する。以後、日
本浪曼派の中心人物として、太平洋戦争(大東亜戦争)終了まで、時代を代表する評論
家となる。
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桜井駅へ向かう 
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その他
・6月15日は、6月12日~16日開催の「楽画喜展」の受付当番
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