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6月4日の馬見丘陵公園、菖蒲園以外にも・・・抜粋編

6月5日          6月4日の馬見丘陵公園、菖蒲園以外にも・・・抜粋編
                    午後4時~の馬見丘陵公園
午前中の用事を済ませて、午後4時に馬見丘陵公園の花菖蒲を見に出かけてみた・・・
菖蒲園の花々は「6月4日の馬見丘陵公園(菖蒲園)」と題して既に投稿済みです。

菖蒲園の花菖蒲以外にも気になる花があり、汗をかき一回りして撮って来た花々を?
詳細に付いては、既に下記のメインブログへ投稿済みですが此処では抜粋編を・・・
https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/2019-06-0

此処では、抜粋編を・・・
シモツケ
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クリ
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アメリカデイゴ
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バラ園のバラ
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チャイニーズイエローバナナ
4株有るが近付けないのでアングルを色々変えて・・・
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帰り道もバラ園のバラ
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菖蒲園の横を通り
キンシバイと花菖蒲
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古墳の丘
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下池
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下池のクリの花
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公園館から駐車場へ
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6月4日の馬見丘陵公園(菖蒲園)抜粋編

6月4日          6月4日の馬見丘陵公園(菖蒲園)抜粋編
                   午後4時~菖蒲園
午前中に用事を済ませて午後から馬見丘陵公園へ花菖蒲を見に出かけてみた・・・
詳細は下記のメインブログへ投稿済みです。
        https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/2019-06-04-2
午後4時~菖蒲園
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まだまだ
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まだまだ
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5月31日の新発見!こんな所に有形文化財-1

6月4日        5月31日の新発見!こんな所に有形文化財-1
                近鉄駅フリーハイキング 6㎞
此の日は、知人の・K場さん・O村さん・M村さん・M吉さんと5名で近鉄ハイキングに
参加、前半少し迷って?此の日の私の万歩計は、19046歩で約11.4km歩いた事に。
コース   近鉄鶴橋駅東口受付
近鉄鶴橋駅東口(受付)~久本寺~藤次寺~生国魂神社~齢延寺~源聖寺坂~
源聖寺~金台寺~大江神社~愛染坂~愛染堂~四天王寺~一心寺~堀越神社
~統国寺大雄殿・ベルリンの壁~ファミレスで外食~JR天王寺駅・阿倍野橋駅
近鉄鶴橋駅東口(受付)~久本寺へ
久本寺へ向かう
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公園で水分補給休憩
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久本寺(くほんじ)
当寺は永禄5年(1562)に日理上人が大阪平野郷の塩谷新兵衛の寄進により平野に
寺を建立したことに始まり、後に開祖(日理上人)の久本但馬守重時(讃岐の戦国大
名)の名を取り「久本寺」となったと伝えられている。京都の本能寺・尼崎の本興寺の
両山は一体不可分の一寺をなすが、久本寺は両寺を本山としていた。明治42年(19
09)からは京都の妙蓮寺を本山とする本門法華宗に属しています。
江戸前期の大坂兩替商の創始者天王寺屋五兵衞等歴代の 天王寺屋一族の墓が
有ります。
久本寺は大阪城南側と四天王寺の間にある寺町のひとつである谷町筋八丁目寺町
の中ほどに位置する日蓮宗寺院である。番神堂は境内の除厄守護の諸神を祀る堂。
番神堂は,妻飾りの鬼面を彫刻した大瓶束や孔雀を彫刻した蟇股、龍・象・獅子・浪な
どの木鼻の彫刻、支輪の彫刻なども華やかさを演出している。多種多様な装飾を破
綻なくまとめた技量は極めて高いものであり、この時期における大阪大工の到達点を
しめすものということができる。
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境内の花々が綺麗
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藤次寺
藤次寺(とうじじ)は、大阪市天王寺区生玉町にある、高野山真言宗の寺院。山号は
如意山(にょいさん)。摂津国八十八箇所 第19番札所。大阪の融通さんと称される。
本尊・如意宝珠融通尊(にょいほうじゅゆうずうそん)=(宝生如来・ほうしょうにょらい)
藤次寺は弘仁年間(810年~824年)に藤原冬嗣の発願により、甥(おい)の、任瑞上
人を開基とする。藤原家の安泰を願い建立された。藤原家を治める寺であるでゆえ
に、藤冶寺と称していたが、明治初年には、生玉十坊の一つである地蔵院を合併し、
藤次寺と改称し、現在に至っている。
作家・山崎豊子の墓所も藤次寺にあり、墓石の右隣には山崎が生前執筆した
全28作の作品名が刻まれた石碑も存在する。
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生国魂神社
生國魂神社(いくくにたまじんじゃ、新字体:生国魂神社)は、大阪府大阪市天王寺区
生玉町にある神社。式内社(名神大社)。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の
別表神社。別称を「難波大社」とも云われる。
かつては現在の大坂城の地に鎮座し、中世にはその社地に近接して石山本願寺も
建立され繁栄したが、石山合戦後の豊臣秀吉による大坂城築城の際に現在地に遷
座されている。
この生國魂神社が祭神とする生島神(いくしまのかみ)・足島神(たるしまのかみ)は、
国土の神霊とされる。両神は平安時代に宮中でも常時奉斎されたほか、新天皇の
即位儀礼の1つである難波での八十島祭(やそしままつり)の際にも主神に祀られた
重要な神々で、生國魂神社自体もそれら宮中祭祀と深い関わりを持つとされる。
また、同様に大坂城地から遷座されたという久太郎町の坐摩神社とともに、難波宮
との関わりも推測されている。その後中世・近世を通じても崇敬を受け、戦前の近代
社格制度においては最高位の官幣大社に位置づけられた、大阪の代表的な古社
の1つである。
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齢延寺(れいえんじ)・・・生魂山 齢延寺
天王寺七坂のひとつ源聖寺坂の降り口に、銀山寺と向かい合って建つ寺院です。阿
吽2体の仁王像を納める楼門が見事な寺院で、藤田東湖らの墓所もあるようです。
本尊は大阪市の有形文化財に指定されている定朝様の聖観音像です。
曹洞宗のお寺です。立派な山門に驚きました。柱が何本もあるような門、彫刻も施さ
れていて見事な楼門に吸い込まれる様に入りました。以前訪問した時にバナナに似
た植物が気になり和尚さん に聞いたところバナナだと言う事でした。
今回、チャイニーズイエローバナナを見に行ったが花は無かった
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チャイニーズイエローバナナ咲いて無かった
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※以前見た(2018年5月18日の大阪七坂巡り)
花が上向きのバナナを初めて見た
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※地湧金蓮(チヨウキンレン)チャイニーズイエローバナナ
地湧金蓮(チヨウキンレン) はバショウ科ムセラ属の常緑多年草である。ムセラ属は
バショウ属から分離したもので、1属1種である。 中国の雲南省からインドシナ半島に
かけて分布し、高山に生える。 名は「地から湧き出た金色の蓮」という意味になる。
漢字では「地涌金蓮」とも書く。 読み方は「チユウキンレン」とするものもあるが、正式
名は「チヨウキンレン」である。 英名はチャイニーズイエローバナナである。
草丈は60~100センチくらいである。 葉は長い楕円形で、芭蕉(バショウ)やバナナ
に似ている。花の構造も芭蕉(バショウ)やバナナと同じだが、鮮やかな黄色い苞(花
序全体を包む葉の変形したもの)に特色がある。開花時期はは6~10月くらいである。
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源聖寺坂(げんしょうじざか)
天王寺七坂と呼ばれる坂の一つで、名称は坂下にある寺院名に由来する。
松屋町筋に面する坂下の源聖寺と金台寺の間から東へ石畳を登り、上町台地の急
崖に差し掛かると石段となり、少し東南東に向きを変える。再び石畳を登り、坂上の
齢延寺と銀山寺の間で水平となる。道は坂上からも東へ伸び、中寺筋を横断して谷
町筋・生玉南交差点の一つ南の辻へと至る。下寺町(25ヶ寺)・生玉寺町(14ヶ寺)を
横断し、坂上から東は生玉中寺町(12ヶ寺)を横断するため、周辺には寺院が多い。
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源聖寺(げんしょうじ)
源聖寺縁起によりますと、当寺を建立(こんりゅう)された初代は、深蓮社遠誉上人荷
公和尚(じんれんじゃおんよしょうにんかこうかしょう)とおっしゃって、奥州衣川(おうし
ゅうころもがわ)(岩手県)の出身で、継母の妬みにあい、父の勧めによって常陸国瓜
連(ひたちのくにうりづら)〈茨城県〉浄福寺にて出家し、六十歳の時、慶長元年春、諸
国行脚に出られ、西成郡寺嶋〈現在の大阪西区九条あたり〉に草庵を結ばれました。
従って、東国より来て行業(ぎょうごう)〈仏道の修行〉を西海の岸に営んだ故に、その
寺名を東営山西岸寺(とうえいざんさいがんじ)と名付けられました。
また、安阿弥(あんみ)が彫刻した二尺五寸の阿弥陀如来像をご本尊として祀っていま
したが、大坂の陣の際に、戦乱によって失われてしまうことを案じて、初代遠誉上人は
ご本尊像を寺地の前の浜辺から海に流されました。大坂の陣の後、徳川家康の治世
になって世の中が安定すると、浜辺で光明を放つものがあり、確認してみると海に流し
たはずのご本尊像でした。この像を拾い上げ、民家を譲り受けて寺観を整えて、そこで
お祀りされました。その際、初代遠誉上人は、源空上人(げんくうしょうにん)浄土宗開
祖法然上人(ほうねんしょうにん)のみ教えを源とし、吉水(法然上人がお念仏の教え
を説き広めた地、現在の知恩院付近)の流れを汲む聖ということから、寺名を「東営山
西岸院源聖寺」と改められました。
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金台寺(こんたいじ)
1656年(明暦2年)創建と云われる浄土宗の寺院で、浄土宗寺院の本堂としては大阪
市内では最古といわれ、本堂の天井には火事除けの水を司る龍の彫刻が祀られてお
り、現在迄度重なる戦火や大火を逃れ被害を受けずに当時のままの姿を残しています。
伽藍の建築群や平安~鎌倉時代の多数の仏像は大阪市の有形文化財に指定されて
います。
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此の続きは、
5月31日の新発見!こんな所に有形文化財-2 として
          下記のメインブログへ詳細を投稿します。
         https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、愛染坂~
愛染坂(あいぜんざか)
天王寺七坂の一つで、坂の上に勝鬘院(愛染堂)と大江神社がある。
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大江神社
大江神社・パワースポット
当大江神社は、上之宮、小儀、土塔、河堀、堀越、久保の各社と共に天王寺七宮と云
われ、四天王寺の鎮守として聖徳太子が祀られたものと伝えられています。当社は、
天王寺北村の産土神(うぶすながみ)で豊受大神を祭祀しています。いつの頃よりか
神仏を混淆して毘 沙門天を祀り、乾の社と称して四天王寺の所管となり、境内に神宮
寺を建て祭祀も僧徒(四天王寺東光院神宮寺の別当)が当っていましたが、明治維新
後神仏が分離され、慶應三年今の社名に改められました。社名は大江岸(おおえのき
し)に続いた社地であったところから大江神社となりました。先の戦争にて絵馬堂と神
器庫を残しすべて焼失しましたが、昭和三十八年、氏子崇敬者により本殿、拝殿が復
興されました。千八百坪の広い境内には約百三十本もの榎木、楠木等の樹木が覆い
繁り、大阪市の保存樹林の指定を受けています。
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愛染堂・・・勝鬘院(しょうまんいん)
山号は荒陵山。本尊は愛染明王で、愛染堂とも呼ばれる。四天王寺別院、西国愛染
十七霊場・第一番札所、聖徳太子霊跡・第二十九番札所。真言密教勝鬘流根本道場。
この寺は聖徳太子が開いた施薬院に始まると伝えられ、鎌倉時代には鎌倉幕府5代
執権・北条時頼から寺領を寄進されたという。
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愛染かつら
愛染堂の藥医門をくぐった右奥に「愛染かつらの木」があります。樹齢数百年といわ
れる巨大な桂の木に、ノウゼンカズラのツルが巻き付き、桂とカズラが一体となった
その姿は、まるで仲の良い男女が寄り添っているように見えることから、カップルの
縁を取り持ってくれる「恋愛成就・夫婦和合の霊木」として何百年もの間、この地で親
しまれています。
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大力金剛尊
藥医門のすぐ左には、スポーツや勝負事には特に霊験あらたかな勝利開運・善因
善果の仏様、大力金剛さまがいらっしゃいます。
愛染堂の大力金剛さまは、清王朝時代のもので、大正時代に活躍した大阪市天王
寺区出身の横綱(第26代)大錦が、満州巡業の折に自身の守護神として気に入っ
て中国から持ち帰り、初めは大阪国技館に奉安されていましたが、昭和25年に愛
染堂にやってこられました。
また、盗難・火災等の災難除けとしても篤く信仰されています。
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四天王寺
四天王寺(してんのうじ)は、大阪市天王寺区四天王寺にある寺院。聖徳太子建立七
大寺の一つとされている。山号は荒陵山(あらはかさん)、本尊は救世観音菩薩(ぐぜ
かんのんぼさつ)である。「金光明四天王大護国寺」(こんこうみょうしてんのうだいごこ
くのてら)ともいう。
『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されたという。当寺周辺の
区名、駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称である。また、
宗派は天台宗に属していた時期もあったが、元来は特定宗派に偏しない八宗兼学の
寺であった。日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派
にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年に「和宗」の総本山として独立している。
四天王寺は蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並び日本における本格的な仏教寺院として
は最古のものである。
四天王寺の草創については『日本書紀』に次のように記されている。
用明天皇2年(587年)、かねてより対立していた崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の間
に武力闘争が発生した。蘇我軍は物部氏の本拠地であった河内国渋河へ攻め込んだが、
敵の物部守屋は稲城(稲を積んだ砦)を築き、自らは朴(えのき)の上から矢を放って防戦
するので、蘇我軍は三たび退却した。聖徳太子こと厩戸皇子(当時14歳)は蘇我氏の軍
の後方にいたが、この戦況を見て、白膠木(ぬるで)という木を伐って、四天王の形を作り、
「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺塔(てら)を建てる」という誓願をし
た。その甲斐あって、味方の矢が敵の物部守屋に命中し、彼は「えのき」の木から落ち、戦
いは崇仏派の蘇我氏の勝利に終わった。その6年後、推古天皇元年(593年)、聖徳太子
は摂津難波の荒陵(あらはか)で四天王寺の建立に取りかかった。寺の基盤を支えるため
には、物部氏から没収した奴婢と土地が用いられたという(なお、蘇我馬子の法興寺は上
記の戦いの翌年から造営が始まっており、四天王寺の造営開始はそれから数年後であっ
た)。以上が『書紀』の記載のあらましである。聖徳太子の草創を伝える寺は近畿地方一円
に多数あるが、実際に太子が創建に関わったと考えられるのは四天王寺と法隆寺のみで、
その他は「太子ゆかりの寺」とするのが妥当である。
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一心寺へ向かう
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一心寺(いっしんじ)
一心寺は、大阪府大阪市天王寺区にある浄土宗の寺であり、正式名称は坂松山高岳
院一心寺(ばんしょうざん こうがくいん いっしんじ)。骨仏の寺としてよく知られている。
天王寺公園に隣接した上町台地の崖線上に建ち、緑の多い広い境内を有している。法
然上人二十五霊跡第七番札所。
1185年(文治元年)の春、四天王寺の別当であった慈円の要請によって、法然が四天王
寺の西門の坂のほとりに、四間四面の草庵を結び、「荒陵の新別所」後に「源空庵」と称し
て住んだという。後白河法皇が四天王寺参詣の際に訪れて法然と共に日想観を修した。
当時草庵の西は海を遠く見渡せ、極楽浄土の瑠璃の地のようであったという。1596年
(慶長元年)、三河の僧侶であった本誉存牟上人が法然の旧跡であるこの地で一千日の
念仏修法を行い、寺を再興した。彼の一心称名をもって寺ができたため、一心寺という名
になったといわれる。
又、大坂夏の陣の天王寺・岡山の戦いで最前線に立ち討ち死にした本多忠朝の墓所があ
るが、彼は酒を飲んでいたため冬の陣で敗退し家康に叱責され、見返そうと夏の陣で奮戦
したが討ち死にし、死の間際に「酒のために身をあやまる者を救おう」と遺言したといわれ
ることから「酒封じの神」とされるようになった。今でも墓所には禁酒を誓う人が詣でている。
ジャカランダが咲き始めて・・・
キリモドキ属は、ノウゼンカズラ科に属する中南米原産の低木または高木からなる属で、
ジャカランダ属とも呼ばれる。ジャカランダ と総称されるが、うち1種キリモドキ
Jacaranda mimosifolia の別名でもある。マメ科のブラジリアン・ローズウッドもジャカラン
ダと呼ばれることがあるのでこの属と混同されることもあるが、別目である。タルコ とも・・・
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茶臼山公園・・・茶臼山 茶臼山古墳
茶臼山古墳(ちゃうすやまこふん)は、大阪市天王寺区茶臼山町にある前方後円墳。
大阪府指定史跡に指定されている。
古墳の周囲一帯は天王寺公園となっており、この古墳も公園の一部として遊歩道が整備
されている。公園本体との間には河底池(かわぞこいけ・こそこいけ、通称ちゃぶいけとも
言う)があるが、これは788年(延暦7年)に和気清麻呂が、大和川や河内湖の排水と水運
のために上町台地をここで開削しようとして失敗した跡地とも言われる。和気橋もある。
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堀越神社
推古天皇の時代、四天王寺建立と同時期に、聖徳太子が叔父の崇峻(すしゅん)天皇を
偲んで茶臼山に建立したと伝えられ、四天王寺七宮の一つに数えられる神社です。
古くから明治時代の中頃まで境内の南沿いに美しい堀があり、此の堀を越えて参詣した
ので「堀越」と言う名を付けられたと言います。都会に有りながら樹齢数百年に及ぶ樹木
等ミドリが多く、境内は閑静な雰囲気で、雑誌等でパワースポットとして取り上げられてい
ます。大阪では、「堀越さんは、一生に一度の願いを聞いて下さる神さん」との言い伝え
が有り、古くから親しまれています。
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統国寺へ向かう
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統国寺・大雄殿・ベルリンの壁
統国寺は聖徳太子が開創し、百済の僧観勒(かんろく)が開山住持として招かれたと伝え
られています。全山が大阪夏の陣の兵火によって焼失しましたが、元禄16年(1703年)
法源和尚によって再建されました。寺は近代に入って衰退した時期も有りましたが、現在
は統国寺と命名され、境内の整備も進められています。大雄殿(本殿)は、質素な外観と
異なり、創意に満ちた空間で構成され大阪市の有形文化財に指定されています。
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ベルリンの壁・・・統国寺HPより
1998年9月、統国寺信徒さんより御喜捨。
このベルリンの壁は崩壊前の大きさそのままの実物です。写真の正面が西独側です。
これと同じものが逆Lのかたちで東独側に建っていたそうです。
御喜捨いただいた方いわく「民族の統一を願って統国寺に置くのが一番いいですよ」
いつの日か、ドイツのように南北統一の日が来ることを心より祈念して・・・・・。
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※ベルリンの壁
冷戦の真っ只中にあった1961年8月13日に東ドイツ政府によって建設された、東ベル
リンと西ベルリンを隔てる壁。1989年11月10日に破壊され、1990年10月3日に東西ド
イツが統一されるまで、この壁がドイツ分断や冷戦の象徴となっていた。

ファミレスで外食
JR天王寺駅・阿倍野橋駅へ向かう

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5月25日の初夏の天王寺区ぶらり名所旧跡巡り-1

5月30日         5月25日の初夏の天王寺区ぶらり名所旧跡巡り-1
                  近鉄駅フリーハイキング 歩程約6km
此の日は知人のK場さん・I 田さん・O村さんと4名で近鉄ハイキングに参加、暑い陽射し
の中、途中ショートカットしてコースを変えたりしながら熱中症に気を付けて歩いた。
此の日の私の万歩計は、12463歩で約7.4km歩いたことに・・・
コース  大阪上本町駅地上コンコース受付 9時30分~11時   10時集合で・・・
大阪上本町駅(受付)~大阪国際交流センター~吉祥寺(きっしょうじ)~安居神社~一
心寺~天王寺公園~堀越神社~四天王寺~大阪上本町駅
志都美駅~香芝駅~近鉄下田駅へ向かう 
鹿島神社
祀ってあるのは、「武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)」で、ふつう「鹿島大明神(か
しまだいみょうじん)」という。この神社は、承安(しょうあん)1(1172 )年に源義朝(みな
もとのよしとも)の家来であった鎌田小次郎政光が常陸国(ひたちのくに)(現茨城県)の
鹿島本宮の神を連れてきたのが始まりという記録がある。伝承ではその時村人は塩餅
(しおもち)や押し飯(おしめし)を作り、大喜びでお祭りしたという。
鹿島神社には、昔から「結鎮座」(けいちんざ)と呼ばれる氏子(うじこ)の集団(宮座)が
あり、鎌倉時代の初期から記録が残されている。これは、約800年間にわたる独特の伝
統をもって今も生き続けている。日本の古い神社や寺には貴重な古文書がたくさん伝わ
っているが、民間の宮座記録としてはこの「鹿島神社文書」(かしまじんじゃもんじょ)が
最も古い。昭和37年には奈良県指定文化財となり、現在は奈良国立博物館で保管され
ている。
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近鉄下田駅
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大阪上本町駅(受付)
大阪国際交流センター~吉祥寺へ向かう
上本町七交差点角に「水と緑と台地」をテーマに整備された小さな公園?
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大阪国際交流センターはパスして吉祥寺へ着いた
吉祥寺
寛永7年創建、禅僧洞宗の寺院。浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)は吉祥寺に「万松
山」の山号を与え、自ら心の拠り所とし、事有る度に訪れたと伝えられています。
元文4年(1739年)には江戸の泉岳寺にさきがけて赤穂義士の墓が建立された。義士
討入り当時の住職は赤穂の出身で、浅野長矩とも親交があったという。
寺は大正5年(1916年)、失火により全焼。大正14年(1925年)に再建されるが、昭和
20年(1945年)、空襲により壊滅的被害を受け、赤穂浪士の墓を残して全焼した。
吉祥寺が全国にその名を知られるのは、ここが大阪における浅野家の菩提寺だから
です。あざやかな朱色の山門をくぐると、正面には大石内蔵助の像が鎮座し、そしても
う少し中に入ると、躍動感に満ちた見事な細工の四十七士の姿が。そして境内右手に
は、戦火を奇跡的に逃れた義士たちの墓がひっそりとたたずんでいます。
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境内入口に大石内蔵助像
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境内に四十七士像
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境内に四十七士墓塔
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大江神社
大江神社は四天王寺の鎮守である四天王寺七宮のひとつとして聖徳太子によって
創建された。当初の祭神は天王寺北村の産土神である豊受大神である。後に神仏
習合して毘沙門堂が建立されて毘沙門天を祀るようになると、四天王寺の乾の方角
にあることから「乾の社」と呼ばれるようになった。そして境内には如意山神宮寺が
建立され、神社の祭祀も四天王寺の僧徒が行うようになっていった。
しかし、幕末になり神仏分離の動きが出てくると、慶応3年(1867年)に大江岸にち
なんで名称を大江神社と改めた。明治に入るとついに神宮寺を廃寺とし、毘沙門堂
も廃した。1907年(明治40年)、小儀神社、上之宮神社(上野王子)を合祀する。
太平洋戦争中の1945年(昭和20年) 3月に行われた第1回大阪大空襲によって絵
馬堂と神器庫以外のすべての建物が焼失するが、1963年(昭和38年)に本殿が再
建された。
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※狛虎
当神社には狛虎というものがある。狛虎の由来は不詳であるが、300年以上前の作
と考えられている。その昔、狛虎の奥に如意山神宮寺の毘沙門堂があった。虎は毘
沙門天を護るとされている所縁のある動物である。狛虎は元々は阿吽で1対をなして
いたが、吽形の方が明治初期に滋賀県の某寺に持ち出されてしまったと言われる。
一方、残った阿形であるが大阪大空襲の際に焼夷弾を受けて損傷をしたものの、戦
後もそのまままにされていた。そこに、阪神タイガースのファンから「狛虎を一対にし
たら阪神タイガースは優勝するのでは」との話になり、吽形は2003年(平成15年)に
新たに作られて奉納され、阿吽の狛虎が久しぶりにそろった。その同年、阪神は18
年ぶりにセ・リーグ優勝してしまう。これにより狛虎はマスコミに大きく取り上げられた。
しかし、2011年(平成23年)10月、阿形は老朽化のために、2003年(平成15年)に吽
形と共に作られて保管されていた新しい阿形と交換されることとなり、元の阿形の狛
虎は蔵に保管された。
狛虎には阪神タイガースのファンより、メガホン、虎の小さい置物やぬいぐるみなどが
供えられていることがある。また、狛虎付近には阪神タイガースの優勝を祈願する張
り紙や木札がある。なお、普通の狛犬も存在す
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愛染さん(愛染堂勝鬘院)
「愛染さん」と親しみを込めて呼ばれる愛染堂勝鬘院は縁結び・良縁成就・商売繁盛
にご利益あついパワースポットとして、また名作映画「愛染かつら」のモデルとなった
縁結びの霊木が境内に鎮座されています。
日本最初の社会福祉施設、施薬院(せやくいん)として建立
愛染堂の歴史は、今を遡ること1400年ほど昔の飛鳥時代、西暦593年(推古天皇元
年)、聖徳太子は、敬田院、施薬院、療病院、悲田院からなる四天王寺を建立されま
した。 その中の施薬院は、あらゆる薬草を植え、病に応じてあまねく人々に与えられ
るようにと四天王寺の北西の角(現在の愛染堂の場所)に建立されたのです。当時の
面積は現在より一層広大であり、また、建立の意味あいからいうと、我が国の社会福
祉事業発祥の地とも言えます。
施薬院が勝鬘院と呼ばれるようになったのは、このお寺で聖徳太子が勝鬘経というお
経を人々に講ぜられていたため、そして勝鬘経に語られるお姫様・シュリーマーラー
夫人(勝鬘夫人)の仏像が本堂に祀られているため、勝鬘院(しょうまんいん)と呼ばれ
るようになりました。
主な堂塔として、徳川秀忠(二代目)による再建の金堂(府の指定文化財)と、豊臣秀吉
による再建の多宝塔(国の重要文化財・旧国宝)があります。 
正式名称は勝鬘院ですが、平安時代以降は金堂に愛染明王が本尊として奉安され、
愛染明王信仰の普及とともに、勝鬘院全体が愛染堂と通称されるようになりました。
金堂に祀られる愛染明王は、主に縁結び・良縁成就・夫婦和合・愛嬌開運の功徳があ
ることと、境内にある「愛染めの霊水」は飲むと愛が叶うといわれ、女性参詣者が毎年
たくさん訪れます。
また、小説家の川口松太郎さんが、この近くに住んでいたこともあり、彼の代表作であ
り映画化もされた『愛染かつら』のモデルとなった縁結びの霊木「愛染かつら」が境内
にあることでも有名です。
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此の続きは、
5月25日の初夏の天王寺区ぶらり名所旧跡巡り-2 として
           下記のメインブログへ詳細を投稿します。
         https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、安居神社へ向う~
安居神社へ向う
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安居神社
創建年は不詳であるが、当社は少彦名神が祭られており、天慶5年(942年)から菅原
道真が祭られるようになったと伝えられている。菅原道真が大宰府に流されるときに、
風待ちのために休息をとった為にその名がついたという伝承がある。
明治に書かれた『大阪けんぶつ』では、当社は菅原道真ではなく少彦名神を祀る神社
であり、道真が休んだから「安居」となり、近くに天王寺三名水の井戸があることから
「安井」となったと伝えられるが、考証がないため信じられない、としている。
大丸の創業者の下村彦右衛門正啓がよく信仰していたので大丸天神と称される事も。
大坂夏の陣で真田信繁(幸村)が当神社境内で戦死したと伝えられ、境内に戦死跡之
碑が、他に古来、名水特に七名水として名を馳せた安居の清水(別名:かんしずめの
井)の址などがある。
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一心寺(いっしんじ)
一心寺は、大阪府大阪市天王寺区にある浄土宗の寺であり、正式名称は坂松山高岳
院一心寺(ばんしょうざん こうがくいん いっしんじ)。骨仏の寺としてよく知られている。
法然上人二十五霊跡第七番札所。
文治元年(1185年)の春、四天王寺の別当であった慈円の要請によって、法然が四天
王寺の西門の坂のほとりに、四間四面の草庵を結び、「荒陵の新別所」後に「源空庵」
と称して住んだという。後白河法皇が四天王寺参詣の際に訪れて法然と共に日想観を
修した。当時草庵の西は海を遠く見渡せ、極楽浄土の瑠璃の地のようであったという。
慶長元年(1596年)、三河の僧侶であった本誉存牟上人が法然の旧跡であるこの地で
一千日の念仏修法を行い、寿命山観称院一心寺として再興した。彼の一心称名をもっ
て寺ができたため、一心寺という名になったといわれる。

慶長5年(1600年)2月、徳川家康の8男仙千代が大坂で夭折し、その葬儀を一心寺で
行った。住持である存牟が家康と同郷の出身であり、また家康が浄土宗の信者であっ
たことによる。家康は境内の坂の孤松のすがたを讃えて、「坂松山」の山号とその寺額
を贈り、仙千代の戒名から「高岳院」の院号も贈った為、一心寺は坂松山高岳院一心
寺と改名した。
寺には大坂夏の陣の天王寺・岡山の戦いで最前線に立ち討ち死にした本多忠朝の墓
所があるが、彼は酒を飲んでいたため冬の陣で敗退し家康に叱責され、見返そうと夏
の陣で奮戦したが討ち死にし、死の間際に「酒のために身をあやまる者を救おう」と遺
言したといわれることから「酒封じの神」とされるようになった。今でも墓所には禁酒を誓
う人がよく詣でている。此の墓所にも6月にはジャカランダの花が綺麗に咲く。
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天王寺公園はパスして
茶臼山~堀越神社へ向う
茶臼山古墳(ちゃうすやまこふん)
茶臼山古墳は、大阪市天王寺区茶臼山町にある前方後円墳。大阪府指定史跡に指定
されている。
古墳自体は5世紀にこの地の豪族のために作られた墓といわれ、大阪市内でも最大級
の前方後円墳だが被葬者は不明である。1546年(天文15年)、細川晴元の家臣山中又
三郎が古墳の後円部に大塚城を築く。1614年(慶長19年)の大坂冬の陣では茶臼山一
帯が徳川家康の本陣となり、翌1615年(慶長20年)の大坂夏の陣では真田信繁(幸村)
の本陣となって「茶臼山の戦い(天王寺口の戦い)」の舞台となった。
大阪五低山のひとつ
茶臼山(標高26メートル)、帝塚山(標高20メートル)、聖天山(標高14メートル)
御勝山(岡山)(標高14メートル)、天保山(標高4.53メートル 日本で二番目低い山)
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堀越神社
聖徳太子が四天王寺を創建した際、崇峻天皇を祭神として風光明媚な茶臼山の地に
社殿を造営したのが最初と伝わり、四天王寺七宮の一つに数えられる。かつて創建当
初から明治時代中ごろまで境内の南沿いに堀があり、この堀を渡って参詣したことの
が社名の由来だとされている。
1615年(慶長20年)の大坂夏の陣の際、徳川家康が前年の冬の陣の時に茶臼山の山
頂に本陣を置いていた縁で、同じく茶臼山の山頂にあった茶臼山稲荷神社の使いであ
る白狐が家康を真田幸村の攻撃から救ってあげたことから、合戦後に家康がお礼とし
て現在地に社殿を建立させた、とされる故事から、江戸時代を通じて大坂城代が大坂
城に赴任した際は当神社と茶臼山の家康本陣跡に詣でることとなった。また、古くから
「一生に一度の願いを聞いてくださる」と、尊崇を集めている。
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外食&お茶は
天王寺公園のビックリドンキーで昼食&お茶
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以降のコース、四天王寺~上本町駅への2.8kmをパス(2kmショートカット)、
JR天王寺駅で解散
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5月24日の昼飲み会ハイキング(公園巡り)-1

5月29日         5月24日の昼飲み会ハイキング(公園巡り)-1
                    住吉公園&住之江公園 
此の日は知人のM吉さん・S籐三と3名で昼飲み会ハイキング、当初は住吉公園だけ
のつもりが、S籐さんの提案で次回予定の住之江公園迄足をのばしてしまいました。
此の日の私の万歩計は、11549歩で約6.8km歩いたことに・・・
ハイキング終了後の昼飲み会&情報交換会は12時半~14時半迄阿倍野の居酒屋
で参加者7名で開催し、楽しい昼飲み会&情報交換会となりました。
志都美駅
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南海本線住吉大社駅で待合せて
直ぐ目の前に住吉公園が・・・・
明治6年に開設された大阪府営住吉公園は、2023年に開設150年を迎えます。
ご存知ですか?住吉公園は日本最初の公園
住吉公園は、明治の新政府からの通達によって大阪で最初に指定された公園です。
草創期は住吉大社の境内を母体として誕生し、はじめは歓楽遊興の公園として、後
には都市型の府営公園として、今日まで府民に広く親しまれています。
近代日本の公園は、明治の初期に新政府からの通達によって設置が開始されまし
た。明治六年(一八七三)一月十五日に政府から各府県に対して公園設置に向けて
の通達がありました。(太政官布達第十六号)
これを受けて、大阪府下でも公園地が選定され、同年の八月二日、住吉大社の境内
全域をもって最初の公園地指定となりました。また、九月には『公園地規則』が制定
され、名実ともに住吉公園の開設となったのです。その後、十二月には浜寺公園も
開設されました。
源氏物語碑・・・説明銘板
真住吉(ますみよ)し 住吉の国」は 万葉の昔から数多くの和歌や文学作品にその
名をとどめている
源氏物語 澪標(みおつくし)に描かれた 明石上(あかしのうえ)の悲しい恋もこの地
が舞台である 船で訪れた明石上はなつかしい 光(ひかる)源氏の華やかな住吉詣
に出合ったが 再会することなくそのまま帰る
中世の住吉は王朝貴族の住吉詣が多く平安のみやびにつつまれていたこの碑はか
かる王朝をしのび 歴史を振り返り 郷土を愛するためのよすがである
昭和五十七年四月吉日   財団法人住吉名勝保存会 建之
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やたらとアオサギが多い?
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汐掛道を住吉大社方面へ
汐掛道
昔、住吉大社の参道でした。住吉公園の東西を走る石畳の情緒あふれる通りで、
四季折々の姿を楽しめます。この通りを歩くとゆるやかに時間が流れるような気が
します。汐掛道顕彰碑には昔の面影と名前の由来が記されています。
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公園案内看板
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芭蕉句碑・・・芭蕉の没後170回忌に建てられました。
芭蕉が住吉大社の「升の市」に訪れたときの句が刻まれています。
毎年9月に住吉公園で「升の市」が開かれています。
1864年江戸末期に建てられました。
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心字池へ向かう
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コデチアの花が綺麗
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心字池・・・真上から見ると心の字に似てます。
人工の池ですが、サギなどの鳥たちが羽を休めに来ます。静かな水面は季節ごと
にいろんな風景を写しだしているようです。公園事務所横からは川の流れのように
心字池に水が流れ、川の流れは周りの花や樹木の風景にリズムをつけています。
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汐掛道で
国道26号線を渡った所に高灯籠が有る
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此の続きは、
5月24日の昼飲み会ハイキング(公園巡り)-2 として
          下記のメインブログへ詳細を投稿します。
        https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/   
続きは、住吉高灯籠~
住吉高灯籠・・・日本最初の灯台だ! 今は、資料館になっています。
日本で最古とされる灯台。 夜はライトアップされます。 昭和49年12月復元。
資料館へは、第1第3日曜日 10:00~15:00入館できます。
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此処から急遽住之江公園へ行ってみる事に
住吉川堤防遊歩道を歩く
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姫松橋・・・橋下を通ったので風景を見る事はできなかったが・・・
かつてこの付近は美しい松原の続く海岸で、住吉浦とよばれていた。毎年春には、
潮干狩りで大いに賑わったといわれる。江戸時代の中頃には新田を開発する為、
両岸の入り江が埋め立てられ川として残されたものが現在の住吉川である。
姫松は、住吉大社社頭にある松の美称として知られ、当地の地名にも残っており
橋名もこれにちなむものである。
今の橋は昭和60年に架け替えられたもので常夜灯をイメージした親柱や簡素で
清潔感のある高欄など、この橋が当地のシンボルとなるよう工夫をこらしている。
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住吉川遊歩道を歩く
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橋を渡って
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住之江公園に到着
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此処の公園にも心字池が?大池でした、大池が有る
大池
水面に映る緑の木々、のんびりと泳ぐ水鳥たち…大池にかかる太鼓橋に立てば、
ここには自然が息づいていることが実感できることでしょう。ストレスもす~っと消
えていきます。
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公園案内看板
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此処の公園の一角に大阪護国神社が有る
大阪護国神社へ向う
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大阪護国神社
当地大阪府には戦没者の御霊を恒久的にお祀り申し上げる施設がなかった。
昭和12年「日支事変」が起こり、大阪府出身の多くの若者が戦場へ赴き、勝利は
したものの尊い命が異郷の地で散華された。
この事を契機に大阪府にも戦没者の御霊をお慰めする恒久的な施設が必要であ
ると、大阪府民から自発的な運動が起こり、昭和14年、時の府知事が奉賛会長
に就任し、当大阪護國神社が、内務大臣指定護國神社として創建された。いわば、
当時から大阪府民の神社として創建されたのである。
その後、戦争の激化、大東亜戦争の開戦、終戦等様々な苦難を経て、昭和38年
5月、現社殿が創建され、同時に境内整備が行われ現在に至っている。
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大阪護国神社を出て
大阪メトロで天王寺の居酒屋へ向かう
居酒屋 甘太郎
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5月15日の淀城跡と飛行神社&石清水八幡宮巡り-1

5月24日         5月15日の淀城跡と飛行神社&石清水八幡宮巡り-1
                   5月度歴史探訪の会 オープン企画                  
此の日は、素晴らしいハイキング日和で参加者19名。淀城跡と平安京の門戸を鎮守
する石清水八幡宮を訪れました。淀駅の前には、昔、淀川から淀城内部に水を供給
した大きな“水車”が復元されており、駅から約10 分歩くと淀城跡に到着、お堀には黄
色い菖蒲の花が咲いていた。此の日の私の万歩計は、13492歩で約8.3km歩いた・・
コース   京阪 淀駅集合 10時10分
京阪淀駅(集合)~淀城跡・與杼神社~淀駅-八幡市駅~飛行神社~頓宮~高良
神社~参道とケーブルカーに分かれて~展望所(昼食休憩)~石清水八幡宮~エジ
ソン記念碑~石清水八幡宮参道を下る~方生川・安居橋(解散)~八幡市駅
京阪淀駅
淀城に水を供給する為の水車の復元模型(水車が2つ使われていた)
城で使用の水を川からくみ上げる為直径16M の水車が西・北堀の2 ヵ所に有った。
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淀城跡・・・淀城と呼ばれる城は2 つあった。
此の日見学した淀城は、德川幕府による京都・大坂支配の一環として築かれた近
世城郭である。淀君が住んだ城は約500M北にあった戦国時代の淀古城として区
分され 別の城である。淀古城は応仁の乱後に築かれ、転々と城主が変わった後、
天正17 年(1589 年)に秀吉が愛妾茶々(淀君)のために改築して入城させた城だ
が、文禄4 年(1595 年)に廃城となった。
現存する淀城跡は德川幕府が元和9 年(1623 年)に京都護衛の要衝として建設
した。 当初の城主は松平定綱3 万5 千石、その後城主は変遷し江戸後期には、
稲葉氏が任じられた。幕末の稲葉正邦は徳川慶喜の老中として活躍したが、鳥
羽伏見の戦いでは官軍に属して幕府軍の入城を拒んだ。
建築当初の天守は宝暦6 年(1756 年)に落雷で焼失、その後二条城の天守を
移築した。なお、この天守は元々豊臣秀長が築いた大和郡山城の天守を德川幕
府により二条城に移されたもので、更にその後淀城に移された。
当時水車があったとされる場所
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天守台
天守台は打込み接ぎの美しい石垣。当時この上には二条城の旧天守が移築された
が、天守台に比べ旧天守が小ぶりだったため、天守台の四隅に小さな櫓を建てそれ
らを多聞櫓で繋ぎ、その中央に天守を載せるという独特の構造になっていたという。
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與杼(よど)神社へ
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城跡内に 與杼(よど)神社と稲葉神社が祀られていた
稲葉神社
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與杼(よど)神社
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栴檀の大木に花が咲いていた。
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この後、淀駅に戻り八幡市駅まで電車で移動。
淀駅ホームから京都競馬場を・・・
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八幡市駅~方生川を渡り飛行神社へ向う
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飛行神社・・・二宮忠八と飛行神社
米国のライト兄弟が1930 年に発動機付き有人飛行機の離陸に成功する以前
(1891 年)に我が国の二宮忠八が模型飛行機の飛行実験を成功させていた。
当時の軍に提言したが却下され、自力で数々の模型飛行機の飛行を成功させ
たが、限界があり有人化に至らなかった。ライト兄弟が成功した有人飛行機の
原理に近かった事で、後に軍の幹部が忠八に謝罪したそうである。
この『飛行神社』はその二宮忠八が航空事故犠牲者の慰霊と航空の安全を祈
願して創建、自ら宮司を務めた。
神社のまえに、ジェットエンジン、境内に海中から引き揚げられたゼロ戦のエン
ジン部(プロペラ付き)が展示されていた。
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石清水八幡宮
一ノ鳥居の扁額の八幡宮の文字は、平安時代政治の中枢にいた藤原行成の書。
扁額の八幡宮の「八」の字は八幡さんのお使いである向合う2 羽の鳩になってる。
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頓宮(とんぐう)
男山山上の上院(じょういん)に対して下院(げいん)と呼ばれる頓宮は、石清水
八幡宮の御旅所である。年に一度だけ、9 月15 日に行われる石清水祭りには、
八幡大神など三柱の神霊を乗せた御鳳輦(ごほうれん)が渡御される。
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高良神社
頓宮の南門外にある高良神社は八幡神の伴神である“高良玉垂命(こうらたます
だれのみこと)がまつられている。山上の本社が国家鎮守の社であるのに対し、
八幡町の氏神として庶民の信仰を集めてきた。
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此の後、此処から本殿までは、階段や急坂となるので一部の人はケーブルカー
を利用。徒歩組みは結構きつい坂や階段を登る。私は、ケーブルカーで・・・
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ケーブルカーを降りて男山山上の展望所へ向かう
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此の続きは、
5月15日の淀城跡と飛行神社&石清水八幡宮巡り-2 として
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続きは、展望所入口から
展望所入口
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展望所で参道組と合流、天王山、愛宕山、比叡山などの山に囲まれた美しい
京都の街並みが見られる。ここで昼食休憩。
展望所から京都方面を撮る
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石清水八幡宮本殿へ向かう
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石清水八幡宮
日本四大八幡宮の一つである。(他は 宇佐・宮崎・鶴岡)
平安前期の貞観2 年( 859 年)に大安寺の僧である行教( ぎょうきょう )が豊後の
宇佐神宮に参詣した際、八幡神の神託を受けて 神霊を平安京南西の男山に奉安
し、翌年に清和天皇の勅命を受けて社殿6宇を建立、3柱を勧請したのが始まり、
社名は男山の山腹に湧く霊泉に因む。
平安時代は朝廷の崇敬を受けて伊勢の皇大神宮に次ぐ宗廟と仰がれ天皇や上皇
の行幸は 250 回を超えた。
源義家が社殿で元服して八幡太郎義家を名乗った事から、源氏の守護として鎌倉
時代も隆盛を極め、室町・江戸時代にも幕府や武家たちの 庇護に支えられ地位を
保った。
横長の本殿には中央に八幡大神(譽田別尊)、西に宗像三女神、東に息長帯比賣
命(神功皇后)を祀り、本殿から軒を連ねた外殿・幣殿・舞殿は、楼門と東西門のつ
く回廊で囲まれている。(いずれも 徳川 家光の建 立)
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見所
① 南総門からの参道の向きが、社殿(真南)と少しずれているのは お参りの帰りに
神様にお尻を向けないようにとの配慮と云われている?
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②楠木正成公寄贈の樹齢700年の楠
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③校倉造り
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④ 京の都の鬼門は比叡山延暦寺、に対し石清水八幡宮は裏鬼門に当たり、鬼門
封じのため、社殿東北の石垣を切り取った造りになっている。
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⑤信長塀は、織田信長公寄進、瓦と土を幾重にも重ねる事により 銃撃や耐火性、
耐久力に優れていた。
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エジソン記念碑へ向かう
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エジソン記念碑
発明家のエジソンが白熱電球を開発する際、フィラメントの素材として6千種の材料
を試みた が満足出来るものが無かった。その内日本の“うちわの竹を試して思わぬ
成果を得た。エジソンに 協力していた探検家のムーアが探しあてたのが此処男山の
真竹だった。
       「発明は1%の霊感と99%の努力からなる」 エ ジソン
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全てのコースを終えて今度は表参道を下り、途中の美しい反り橋「安居橋」を経由し 、
(解散)。我々は石清水八幡宮の一の鳥居前の八幡の老舗、銘菓走井餅を食べて帰
りの八幡市駅へ向かう。
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八幡の老舗、銘菓走井餅
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5月14日の馬見丘陵公園散策-1

5月21日        5月14日の馬見丘陵公園散策-1
               息抜きになんじゃもんじゃを?
此の日は朝一番の眼科検診を終えて、馬見丘陵公園散策へ出かけてみた・・・
車で出かけたので、此の日の私の万歩計は5266歩で約3.1kmの公園散策でした。
公園館前の極楽鳥花
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なんじゃもんじゃは終わって
蛙がお出迎えの森のウッドデッキ通路へ
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上池が見える
此処のなんじゃもんじゃも終わって
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梅林の前を通り
倉塚古墳前~一本松古墳の間を下池へ
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下池のウッドデッキ通路を
菖蒲を見ながら
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此の続きは、
5月14日の馬見丘陵公園散策-2 として
        下記のメインブログへ詳細を投稿します。
       https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、カタビ古墳の古墳の丘へ~
カタビ古墳群の古墳の丘へ
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下池の
ウッドデッキから亀を・・・
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未だ花の無い
花菖蒲園
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栗の花、紫蘭、シロバナ紫蘭
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バラ園
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バラ園から公園館へ向かう
台風で途中から折れたベニバナトチノキに花が咲いて
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シャリンバイ
ツツジ
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公園館前で
最初に撮った極楽鳥花をもう一度撮った
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5月11日の奈良大和 四寺巡礼 長谷寺-1

5月15日         5月11日の奈良大和 四寺巡礼 長谷寺-1
               近鉄ハイキング 歩程約8km Kipsカード
此の日は知人のK場さん・I 田さん・O 村さん・S籐さんと5名で参加、天気良すぎて暑い
暑い一日でした。此の日の私の万歩計は、22000歩で約13.2km歩いたことに・・・
コース   桜井駅(9:30~10:00受付)→桜井中央公園へ 
桜井駅~650m~桜井中央公園(受付・スタート)~大和川(初瀬川)・仏教伝来之地碑・
大和川(初瀬川)沿い~脇本春日神社~白山神社~地蔵堂~十二柱神社~桜井市・出
雲~長谷寺~法起院~長谷寺駅(ゴール)
志都美駅
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大和川(初瀬川)・仏教伝来地
桜井市の三輪山の南麓に流れる初瀬川の畔に、「仏教伝来の地」の碑が立つ。
古代、この辺りには、「海石榴市(つばいち)」と呼ばれる、わが国最初の大きな市があっ
たという。山の辺の道をはじめ、いくつかの古道が交差する陸の交通の要衝であり、摂
津の難波津(なにわつ)から大和川(初瀬川)を遡行する、舟運の終着地でもあった。
ゆえに多くの物資が集まり、交易の中心として栄えた。
近くには欽明天皇の磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)があったとされる。付近
一帯は、外国の使節が発着する水上交通の要所としても利用されるなど、外国からの
人、物、文化を迎え入れる玄関口だったようだ。
『日本書紀』によると、欽明天皇13(552)年(※)、百済(くだら)の聖明王の使者が、この
地に釈迦仏の金銅像や経典を献上したとあり、それをもって日本に仏教が伝来したとさ
れる。また、聖徳太子に優れた才能を見いだされた遣隋使の小野妹子が帰国したのも
この地。隋からの使者である裴世清(はいせいせい)も下客(しもべ)12人とともに降り立
ち、朝廷側は飾騎(かざりうま)を75匹用意し、盛大に迎えたそうだ。
※『上宮聖徳法王帝説』、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』では538年と記されている。
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大和川(初瀬川)沿い
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脇本春日神社
脇本遺跡のほぼ中心に脇本地区のの鎮守、春日神社が鎮座しています。境内に立つ杉
の老大木がその歴史を物語っているようです。この神社は三輪山から南に延びた丘陵の
尾根を削り造成された事が今もその地形から明確に読み取れます。神社の境内には古
墳時代の土器片が散乱しており朝倉宮造営の時に削平された可能性もあります。祭神は
天児屋根命、太玉命、天宇受受命で拝殿の左奥に末社の稲荷社があります。創祀由緒
は不詳ですが春日造りの本殿は慶長8年(1603)に建立された三間春日造りで知られ県
指定文化財に指定されています。尚、この神社の前の道は旧伊勢街道です。
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ご参考までに境内の説明板より
春日神社本殿 (県指定文化財)三間社春日造で、身舎の側面は二間からなり、前面吹放
とし、後面梁行に三口の板扉を設けて身舎としている。身舎の正面と両側面には縁を付け、
背面両端柱には脇障子を取り付け、縁高欄を巡らしている。向拝には浜縁を設け、正面中
央一間に、五級の木階と登り高欄を取り付けている。屋根は桧皮葺である。本殿は組物・
虹梁など、細部の手法がすぐれた三間社春日造であり、棟木銘から慶長8年(1603年)の
建立であることが明らかで、貴重な建造物である。  桜井市教育委員会
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※脇本遺跡
脇本遺跡は奈良盆地の東南部に位置し三輪山と外鎌山(忍坂山)に挟まれた泊瀬谷の入
り口にあたる場所にあります。飛鳥に宮が移るまで三輪山の西南麓から香具山あたり一
帯は、大王(天皇)や皇后の宮が十三もあったと伝えられ大和王権の中心地域でした。
しかし伝承地は、ほとんど調査されることなく今日に至っているのですが、脇本遺跡に限っ
ては過去18次にわたる調査が橿原考古学研究所と桜井市教育委員会で行われ5世紀
後半、6世紀後半、7世紀後半の大型建物跡などが発見されています。
5世紀のものについては→雄略天皇の泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)跡 ,6世紀に
ついては→欽明朝の行宮の泊瀬列城宮(はつせなみきのみや)跡 、7世紀のものについ
ては→大伯皇女の斎宮跡の可能性が指摘されてきました。この地は、すぐ近くには王権
の武器庫があったと言われる忍阪や軍事氏族の大伴氏の本拠地もあり、水陸の交通の
要所としても大和と東国を結ぶ重要な位置にあります。5世紀後半にこの朝倉宮にいた
雄略天皇は万葉集巻1の巻頭歌でも知られる第21代の天皇(当時は大王と言う名前で
呼ばれた)です。

白山神社
万葉集発祥の地!桜井市の白山神社
境内南東隅に万葉集がこの地から始まったことを讃える萬葉集発耀讃仰碑が建っています。
桜井市黒崎の「天の森」が、朝倉宮の地であろうとの説は、『大和志』や『日本書紀通証』など
で、述べられている。が立地的に見て、宮を営むのに適地ではない。保田興重郎氏は、この
白山神社付近をその候補地とし、雄略天皇の歌で始まる『万葉集』の発祥の地として、神社
境内に記念碑を建立したものである。・・・桜井市教育委員会の石碑より
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泊瀬朝倉宮跡(はせあさくらのみやあと)
朝倉宮跡は伝承としては3ヵ所あり、この脇本あたりは弥生時代古墳時代に至る遺物が出土
しており、古くから人々が生活していた地である。
第21代雄略天皇の宮跡である。万葉集には開巻第1の歌が有名である。脇本付近は近年発
掘調査があり建物遺構も出土している。
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地蔵堂・・・出雲の流れ地蔵(堂)という
「本尊は室町時代末の地蔵菩薩で、上半身だけを地上に出し、腰から下は地下に埋まって
いる風変わりな地蔵さんとして有名である。
文化8年1811年)の大洪水で、初瀬川上(長谷寺の桜の馬場)から現在地まで流されてきた
のを当時の出雲村の人たちが助けてまつった、と語り継がれている。
本かわらぶき宝形造りの立派な堂前に建つ石燈籠に、天保11年(1840年)の年号が刻ま
れている。」・・・・(地蔵菩薩前の掲示板から)
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此の続きは、
5月11日の奈良大和 四寺巡礼 長谷寺-2 として
          下記のメインブログへ詳細を投稿します。
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続きは、十二柱神社~
十二柱神社(じゅうにはしらじんじゃ)
神社境内には野見宿彌の顕彰碑や五輪塔が建てられている。また神社参道の石段を登っ
た所にある狛犬の台座には珍しい相撲取りの人形が見られ、片方4人ずつで大きな狛犬を
支えている。
神代の七神とその後の地神五神を祭神とする。垂仁天皇のころ、当麻蹴速と相撲を取り、
勝者となった野見宿彌の五輪塔が移されている。
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野見宿禰顕彰会の立て札
十二柱神社は「出雲ムラ」の村社。
大昔は、神殿がなく、「ダンノダイラ」(三輪山の東方1700メートルの嶺の上にあった古代 の
出雲集落地)の磐座を拝んだ。明治の初めごろまで、年に一度、全村民が「ダンノダイラ」へ
登って、出雲の先祖を祀り偲んだ。一日中、相撲したり、食べたりした。・・・(出雲ムラ伝説)
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武烈天皇泊瀬列城宮伝承地
武烈天皇はヽ小泊瀬稚鷦鷯天皇とあり、仁徳天皇の大鷦鷯と対の名をもつ・これは、仁徳
の皇系が武烈天皇で絶えるため、仁徳を聖帝・武烈を暴君として描くのと同じ考え方であろ
う。武烈があまりの悪政非道な政治をしたから、仁徳の皇系は絶えたことを記紀では強調し
ているが、実際のところはわからない。壇場を柏瀬列城に設けたとあり、初瀬谷の中央、出
雲の地あたりかと考えられている。
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桜井市・出雲
長谷寺へと続く国道165号線に架かる歩道橋に、この場所が「桜井市出雲」であることが
示されています。出雲、この文字を見ると、自然と古代日本の姿が想い起されます。
出雲大社、上賀茂神社、それに大神神社。
それぞれの国における一之宮に、出雲の地名が残されています。なんとも不思議なつな
がりを感じます。昔の文献によれば、出雲国の大国主神の和魂を、大美和の三輪山に鎮
めたと記されています。
出雲といえば、出雲大社で有名で、一般的には今の島根県の東部を指す地名として知ら
れます。出雲は神様と関係の深い地名であることに間違いなく、桜井市出雲も、神の鎮座
する山として名高い三輪山の麓に位置しています。
出雲の地名由来ですが、島根県の出雲に端を発します。いわゆる国号地名です。
出雲の集落のほぼ真ん中に鎮座する十二柱神社。
昔は背の高い樹木や建物の柱に神様が降りて来ると信じられていました。神様の数を数
える単位として「柱」が使われます。
十二柱神社には、全部で12柱の神様が祀られています。
十二柱神社の境内には、大相撲にゆかりのある野見宿禰の五輪塔が建てられています。
野見宿禰の出自は出雲国です。山の辺の道の相撲神社に野見宿禰のお話が残されてい
ます、出雲と大和の文化交流・・・その歴史が垣間見えます。
桜井市出雲は出雲人形の生産地でもありました。
出雲人形とは、出雲の集落で昔から作られている素朴な人形で、そのルーツを埴輪に辿
ることができます。長谷寺や伊勢神宮へと続く伊勢街道の途上にあって、子どものお土産
として参詣客に人気があったようです。
出雲という地名は、三輪山南東のこの辺りだけではなく、他の近隣エリアにも残されており、
狭井神社で知られる狭井川の北方に、出雲屋敷という地名が伝承されています。さらに、
三輪山北西には、かつて出雲荘と呼ばれる荘園がありました。出雲荘は、現在の桜井市
大西・江包(えっつみ)の地に当たります。
大西地区北部には、今もなお”ヲナンジ”という子字名が残ります。このヲナンジですが、荘
園絵図には「大己貴(おおなむち)」と記されています。
大己貴といえば、大神神社の神様として有名な名前です。
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長谷寺へ向かう
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長谷寺
仁王門から本堂へ続く登廊が印象的。399段ある石段を登りながら、桜、牡丹、あじさい、
紅葉、寒牡丹など四季折々の花が楽しめる。本堂の舞台からは、門前町や与喜山の原生
林が一望できる。山号を「豊山」と称える。創建以来9度の罹災で焼失と復興を繰り返す。
現在の本堂は、西暦1650年に再建されたもので、平成16年10月に国宝に指定された。
真言宗豊山派の総本山として、 また西国三十三観音霊場第八番札所として、 全国に末
寺三千余ヶ寺、 檀信徒はおよ三百万人といわれ、四季を通じ「花の寺」としての多くの
人々の信仰をあつめている。
長谷寺(はせでら)は、奈良県桜井市初瀬にある真言宗豊山派総本山の寺。山号を豊山、
院号を神楽院と称する。本尊は十一面観音、開基(創立者)は僧の道明とされる。西国三
十三所観音霊場の第八番札所であり、日本でも有数の観音霊場として知られる。寺紋は
輪違い紋。
大和と伊勢を結ぶ初瀬街道を見下ろす初瀬山の中腹に本堂が建つ。初瀬山は牡丹の
名所であり、4月下旬〜5月上旬は150種類以上、7,000株と言われる牡丹が満開になり、
当寺は古くから「花の御寺」と称されている。また『枕草子』『源氏物語』『更級日記』など
多くの古典文学にも登場する。中でも『源氏物語』にある玉鬘の巻のエピソード中に登場
する二本(ふたもと)の杉は現在も境内に残っている。
大和七福八宝めぐり(三輪明神、長谷寺、信貴山朝護孫子寺、當麻寺中之坊、安倍文殊
院、おふさ観音、談山神社、久米寺)の一つに数えられる。

創建は奈良時代、8世紀前半と推定されるが、創建の詳しい時期や事情は不明である。
寺伝によれば、天武朝の朱鳥元年(686年)、僧の道明が初瀬山の西の丘(現在、本長
谷寺と呼ばれている場所)に三重塔を建立、続いて神亀4年(727年)、僧の徳道が東の
丘(現在の本堂の地)に本尊十一面観音像を祀って開山したというが、これらのことにつ
いては正史に見えず、伝承の域を出ない。
長谷寺は平安時代中期以降、観音霊場として貴族の信仰を集めた。

長谷寺は東大寺(華厳宗)の末寺であったが、平安時代中期には興福寺(法相宗)の
末寺となり、16世紀以降は覚鑁(興教大師)によって興され僧正頼瑜により成道した新
義真言宗の流れをくむ寺院となっている。天正16年(1588年)、豊臣秀吉により根来山
(根来寺)を追われた新義真言宗門徒が入山し、同派の僧正専誉により現在の真言宗
豊山派が大成された。近年は、子弟教育・僧侶(教師)の育成に力を入れており、学問
寺としての性格を強めている。
十一面観音を本尊とし「長谷寺」を名乗る寺院は鎌倉の長谷寺をはじめ日本各地に多く
240寺程存在する。他と区別するため「大和国長谷寺」「総本山長谷寺」等と呼称するこ
ともある。
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法起院へ向かう
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法起院
徳道上人は斉明天皇の御宇二年(西暦六五六年)、播麿の国矢田部の里で誕生なさい
ました。その容貌は気品に満ち、眼は真澄鏡(ますみかがみ)のように美しく清らかで、
髪の毛は 梳(くしけず)れば滴(したた)るように黒く艶やかに光り、深くたたえられた優雅
さと聡明さに里人達は目を見張ったそうです。
成長されるにしたがって読書を好み、手に筆を持つことを無上の楽しみとし、神童との噂
の中で 連日精進をお重ねになりました。
しかし、突然起こった不幸は上人の父を奪い、そして数年の後には母も 不帰の客となっ
たのです。仏の道を極めることこそ人間に生まれた最高の道であり、 亡き父母の菩提を
弔うことが今の自分にとっては、真実の報恩であろうと大悟徹底された上人は、当時我
が国随一の大名僧であった大和長谷寺の道明大徳との間に師弟の契りをお結びになり
ました。 約十年間の修行の後、智道兼備の名僧となられた上人は、大和の長谷寺、鎌
倉の長谷寺をはじめ諸国に四十九ヶ所の寺院を建立されました。
その中でも大和の長谷寺では本尊大観音を御造立されました。
前記の養老二年の春、突然の病のために仮死状態にあった上人は、夢の中で閻魔大
王にお会いになり、悩める人々を救う為に三十三ヶ所の観音菩薩の霊場を広めるよう
に委嘱され、そして三十三ヶ所の宝印を与えられて仮死状態から解放されました。
上人は三十三ヶ所の霊場を設けましたが、人々は上人を信用しなかったので、やむな
く宝印を摂津中山寺にお埋めになったと伝えられています。
二百七十年後の永延二年(西暦九八八年)に、花山法皇がこの宝印をお掘り出しにな
り、今日の三十三ヶ所を復興なさいました。
本堂の左側には、「上人御廟十三重石塔」があり、上人が晩年当院の松の木の上から
法起菩薩と化し去ったといわれ、当院の名前もそこからつけられました。
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長谷寺駅
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5月5日の平野の大念仏寺万部お練り-1

5月9日(令和元年)      5月5日の平野の大念仏寺万部お練り-1
                      JR平野駅~大念佛寺
5月1日に予定入れていたが雨だったので5日に延期し、知人のO村さん達4名と一緒
に行く事になった、JR平野駅出待ち合わせて大念佛寺へ歩いて約5分出到着した・・・
1日~5日迄、連日13時~万部お練りが開催される、との事だったので12:30頃到着
を目標にしてたので丁度良かった。奈良の当麻寺の練供養を思って時間設定したが、
思い切り当てが外れてしまいました、13時スタートに来ても十分観覧出来る様子・・・
まあー12:30仁到着したおかげで観覧出来た神事も有ったので早目にきて良かった。
大念佛寺
1127年、聖徳太子信仰の厚かった良忍上人が四天王寺に立ち寄った際、太子から夢
のお告げを受け、鳥羽上皇の勅願により平野に根本道場として創建したのが始まり。
平安末期以降広まった念仏信仰の先駆けとなり、国産念仏門の最初の宗派で日本最
初の念仏道場といわれる。その後、火災などで荒廃するが、元禄期(1700年頃)に本山
として体裁が整い、現在に至る。融通念佛宗の総本山。

融通念仏とは
融通とは溶け合い和合することです。
砂とセメントと水は、それぞれその形も働きも異なりますが、この三者が溶け合って和合
すると強固なコンクリートになるのも融通です。
融通念仏は、念仏が相互に融通して大きな力となることをいいます。すなわち念仏を称
えることによって、人と人、人と物、物と物とのすべての関係の上に融通和合の世界を
自覚し、苦脳と迷いのこの世を喜びに満ち溢れ、悟りの智慧かがやく楽土(浄土)にする
ことをめざした教えです。
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宗祖良忍上人とは
良忍上人(聖應大師)は、延久四年(1072)尾州知多郡富田荘(現愛知県東海市富木島
町)に誕生、父はその地方一帯を治める領主で、名を藤原秦氏兵曹道武といい、母は
熱田神宮大宮司第二十四代、藤原秀範の息女でした。生まれつき美声の持ち主だっ
たところから、幼名を音徳丸と名づけられました。十二歳で比叡山に登り、良賀僧都の
もとで得度し、名を光乗坊良仁と与えられました。良忍と改名したのは大原へ隠棲して
後のことです。
比叡山での良忍上人は堂僧(堂守り)として修業する傍ら、天台の学問はもとより密教
や戒律の修法にも努めました。二十一歳ですでに多くの学侶(学問をする修行僧)を教
導する講主の職に任ぜられることになります。しかし学問の議論ばかりが先走り、真に
道を求める心が薄れていることを嘆いていた良忍上人には当時の比叡山は決して修
行に適した環境ではなくなっていました。伝教大師が強調された道心がゆるんでいた
のです。また時代は貴族社会に変わって武家政権に移行する動乱期にさしかかって
いました。一大仏教拠点たる比叡山にも時代変革に伴う世俗化の波が押し寄せてい
たのです。そうした中にあって心ある修行僧は本来の仏道を求めて別の地に移り棲む
ことがよく行われました。
二十三歳にして良忍上人は洛北大原に隠棲されることになります。大原は比叡山の別
所として、念仏聖や修行者が草庵を結んで一つの集落を形成していたところです。
大原での良忍上人は、世俗の営みを断ち偏に往生を願う純心な念仏行者であったこと、
一切経を披閲し堂舎、仏像を造立し多年修練したこと、一日六万遍の念仏を称えるかた
わら、法華経書写に励んだこと、睡眠時間をきりつめ、手足の指を燃やして仏と経に供
養したこと等が最も古い資料とされる「後拾遺往生伝」「三外往生記」等に見え、真摯な
念仏行者であり、法華経の修行僧であったことが窺えます。また「一切経を披閲し」とあ
るのは、大原来迎院に「如来蔵」という書庫を建て、仏教の典籍に親しまれたことを指し
ています。
かくて上人四十六歳の永久五年(1117)五月十五日 午の刻(正午)一心に念仏を称えて
いる中に阿弥陀仏が面り相好(お姿)を現じ、速疾往生といって、後の世を待たずに、現
世にだれもが速やかに智慧かがやき喜び溢れる幸せの世界に至る方法として融通念仏
の法門を授与されました。その授与された御文を「弥陀の妙偈」といい、融通念佛宗の教
えの要となるものです。
「一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行 是名他力往生 十界一念 融通
念仏 億百万遍 功徳円満」
告げ終わって更に大光明を放って、白い絹一枚を上人に授与されました。そこには今しが
た空中にお姿を現された仏、菩薩の尊像が描かれていました。中央に阿弥陀如来が立ち、
その周囲を十体の菩薩がとりかこむお姿で、ご本尊「十一尊天得如来」であります。
良忍上人は阿弥陀如来の示現をいただき、融通念仏の教えを深く領解したとはいえ、いま
だ民衆に念仏を勧める機縁の熟さないまま草庵に閑居しておられました。しかし上人の徳
は人づてに京の都に伝わっていました。ある時、鞍馬寺の多聞天王が威厳に満ちたお姿
を現して上人にいわれるには、 「あなたは先に仏さまから尊い融通念仏を授かったのに、
どうしてそれを人びとに勧めて苦しみの衆生を救済しないのか」 このお言葉によって布教
の時ようやく至ったことを知った良忍上人は、天治元年(1124)6月9日 はじめて市中に出
て念仏勧進を始められました。上人の名は朝廷に達し鳥羽上皇は宮中に上人を招いて皇
后や百官もろともに融通念仏会を修し、自ら日課百遍の念仏を誓約されました。その上、
上皇はご帰信のしるしに愛用の鏡を鉦に鋳かえて上人に授与されました。これを“鏡鉦”と
いい念仏勧進の道すがら鏡鉦を叩いて歩かれ代々大切に伝持されてきました。中祖法明
上人のとき、故あって“亀鉦”と改称され今に大念佛寺の宝物として伝わっています。

早目に来て観覧出来た神事?
途中から見たので何かはわからない?が神事には違いない・・・
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万部お練り
「万部おねり」とは聖聚来迎会と阿弥陀経万部会が融合された融通念佛宗総本山大念
佛寺最大の伝統行事の通称名です。
聖聚来迎会は無量寿経の中の「その人、寿(いのち)が終わる時にあたって、私は極楽
浄土から二十五菩薩を従えて、その人を迎えに来るであろう」という阿弥陀仏の願いを具
体的に表現した儀式であり、貞和五年(1349)3月15日「観音様の蓮台に乗り、阿弥陀如
来のお導きに従って、生身のまま往生の本懐を遂げるまでの儀式を営んでみたい。聖聚
来迎の様相を実際にこの眼で見、また世の多くの人々にも見ていただきたいものだ」と中
祖法明上人自ら行者となり、臨終不退、一念往生、上品上生を遂げるまでの法明上人の
堅固な意思により始まったことを起源としています。
「阿弥陀経万部会」は江戸時代第四十九世尭海上人の頃、「阿弥陀経を一万部読誦して、
極楽往生と檀信徒の先祖供養」を願いとしてはじめられました。
平安時代の中頃から浄土信仰が盛んになります。
二十五菩薩とは
臨終の際に極楽浄土から阿弥陀如来とともに迎えに来る菩薩の一団です。
1・観世音菩薩 2・薬王菩薩 3・大勢至菩薩 4・薬上菩薩  5・普賢菩薩
6・陀羅尼菩薩 7・法自在王菩薩  8・白象王菩薩 9・虚空蔵菩薩 10・徳蔵菩薩
11・宝蔵菩薩 12・金蔵菩薩 13・光明王菩薩  14・山海恵菩薩  15・金剛蔵菩薩
16・華厳菩薩 17・日照王菩薩 18・衆宝王菩薩 19・月光王菩薩  20・三昧菩薩
21・獅子吼菩薩 22・大威徳菩薩 23・定自在王菩薩 24・大自在王菩薩
25・無辺身菩薩

万部お練りスタート
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10番目迄
万部お練り途中ですが
此の続きは、
5月5日の平野の大念仏寺万部お練り-2 として
       下記のメインブログへ詳細を投稿します。
      https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、万部お練りの途中~ 
万部お練り 11番目から
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※練供養の発祥は奈良当麻寺の練供養の様です。
中将姫さまは、宝亀6年3月14日、二十五菩薩のお迎えを受け、現身のまま、阿弥陀如来
さまの極楽浄土へ迎えられました。その故事に因んで行われるのが「聖衆来迎練供養会
式」です。
「聖衆来迎練供養会式」は、観音菩薩、勢至菩薩ら二十五菩薩が、現世に里帰りした中将
姫を迎えて、阿弥陀さまの待つ極楽へ導いていく様子を再現した儀式です。
1000年を越える伝統を持つこの行事は、我が国の「練供養(ねりくよう)」の発祥で、境内
は数多くの参詣者で埋め尽くされます。

JR1平野駅へ戻りました
煙にいぶされて身体中、着てるものも皆煙臭い・・・
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5月3日の平城宮跡天平文化の香りとともにー1

5月8日(令和元年)       5月3日の平城宮跡天平文化の香りとともにー1
                       近鉄駅フリーハイキング 歩程11㎞
此の日は、素晴らしいハイキング日和の中、知人の・I 田さん・M村さん・O村さんと4名で
参加した、西大寺駅前から平城宮跡迄奈良交通の無料シャトルバスが出ていたので先
ずは此れに乗車、約7分で朱雀門広場に到着、朱雀門広場での天平祭は大勢の人だか
りの輪の中で見る事が出来ず、パスして大極殿へ向かい、此処から後のコースを不退寺
をパスしてショートカットしたが・・・
此の日の私の万歩計は、25170歩で約15.1km歩いたことに・・・
コース  大和西大寺駅南出口  10時35分集合
大和西大寺駅(南出口・受付)~シャトルバス7分~平城宮跡朱雀門広場(天平祭会場)~
平城宮跡・南門復元工事・大極殿・遺構展示館前(昼食)~海龍王寺~春日社~法華寺前
~芸亭伝承地~佐保川堤~大仏鉄道記念公園~奈良県庁屋上~奈良公園・国立博物館
前~むくろじ大木前~奈良公園の藤~春日大社~十三鐘~興福寺・五重搭・中金堂・南円
堂前・額塚・北円堂前~近鉄奈良駅~JR奈良駅
平城宮跡朱雀門広場(天平祭会場)
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大極殿へ向かう
平城宮跡・南門復元工事
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大極殿
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遺構展示館へ向かう
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遺構展示館前(昼食)
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法華寺前へ向かう
海龍王寺
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春日社
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法華寺前へ向かう
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法華寺前~芸亭伝承地
芸亭伝承地
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佐保川堤を歩く
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大仏鉄道記念公園
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佐保川
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佐保川堤~奈良県庁へ向かう
此れは菖蒲(あやめ)だと思う
かきつばた(杜若)は浅い水辺に葉を伸ばし花を咲かせます。あやめ(菖蒲)は乾燥した
陸地に葉を伸ばし花を咲かせます。違いは明らかに咲いている場所で判断できます。
花だけを見た時は良く似ていて、違いを見分けるのが難しいかもしれません。その場
合の簡単な見分け方ですが、かきつばた(杜若)は花びらの中央が真っ白で、あやめ
(菖蒲)は花びらの中央に網目の模様があります。
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奈良県庁屋上
屋上から見る興福寺の五重搭
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此の続きは、
5月3日の平城宮跡天平文化の香りとともに-2 として
          下記のメインブログへ詳細を投稿します。
        https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/ 
続きは、奈良公園~
奈良公園・国立博物館前~仏教美術資料研究センター
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むくろじ大木前~奈良公園の藤
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春日大社参道
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春日大社本殿へ向かう
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春日大社
砂ずりの藤
慶賀門を入った所の棚作りの藤で、5月初旬頃に花房が1m以上にも延び、 砂にすれ
るということからこの呼名があります。ノダフジの変種といわれます。
摂関近衛家からの献木と伝えられ、『春日権現験記』にも書かれている古い藤、 樹齢
700年以上といわれます。
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復路
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飛び火野の藤
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春日大社一の鳥居
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十三鐘(じゅうさんかね)のなんじゃもんじゃ
「十三鐘」=興福寺菩提院大御堂と言うのが正式名称
「十三鐘(じゅうさんがね)」と呼ばれる興福寺菩提院大御堂の正面には「伝説三作
石子詰之旧跡」と書かれた木標が立てられています。
この記されている伝説「三作石子詰」、すなわち「石子詰めの三作」とは、現在も「神
鹿」であり保護されている奈良の鹿が一層手厚く保護されていた昔、「三作」と呼ば
れる子どもが文鎮を鹿に当て、誤って鹿を死なせてしまい、鹿を死なせた者を死罪
とする掟を破ったことで穴に埋められたという悲劇の伝説です。江戸期、元禄時代
には近松門左衛門が三作伝説を題材に母親が弔いの鐘を鳴らすエピソードを盛り
込んだ浄瑠璃「十三鐘」を生み出すなど、奈良に留まらず古くから広く流布した伝説
・伝承として知られています。
ちなみに、埋められたとされる場所は木標の下ではなく、脇にある鹿よけの門を開け
興福寺菩提院に入った前庭に、三作を祀った実際の「塚」が設けられています。
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興福寺・五重搭
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中金堂
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額塚
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南円堂前の変わり藤?
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北円堂前
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近鉄奈良駅~JR奈良駅
コーヒーケーキセット @600円
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