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8月27日の納涼、大念佛寺「幽霊の掛け軸」を訪ねて

9月1日     8月27日の納涼、大念佛寺「幽霊の掛け軸」を訪ねて
            近鉄駅フリーハイキング・阿部野橋駅~抜粋編
       詳細については、下記のメインブログへ9月1日に投稿しました。
       http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/2017-09-01
知人と3人で参加、予定より1本早い電車で着いてしまった為、長蛇の列に並んで、
354番、知人2人が予定時刻に来る頃には長蛇の列は解消されてて直ぐに受付、
阿倍野橋駅庚申口を出て、皆さんショートカットで?コースでは阿倍野歩道橋を渡
り、JR天王寺駅を北口へ出て玉造筋を東進、南河堀交差点へでるルートを、庚申
口から道路を渡り、JR線路を跨いで直接、南河堀交差点へ、以降はコース通り・・・
コース
阿部野橋駅近東口(受付)~生野本通り商店街~生野八坂神社~生中橋~東部
市場~平野側大橋~スーパ2階レストランで昼食~平野郷環濠跡~杭全神社~
宇賀神社~大念佛寺~白鷺公園~今川緑道~今川駅(ゴール)
此の日の私の万歩計は、21473歩で約14.3km歩いたことに・・・
源ケ橋交差点を渡り
源ケ橋交差点の付近、ここには、千年以前の昔から「猫間川」がありました。南か
ら流れてきた水が、北の旧淀川に合流していてのです。
さて、このあたりに、古い伝説があります。
200年も昔、江戸は、文化と言われる頃のことです。「猫間川」の渡し守をしている
「源」という悪党がいました。通行人から暴力で金品をまきあげきあげて生活をして
いたのです。或る日、例のように、一人の旅人からみぐるみ剥いで殺してしまいまし
た。ところが、この人が、長年行方を捜していた、我が子だったのです。さすがの悪
党の「源」も深く悲しんで悔やみました。思い悩んだ末、ついに罪滅ぼしをしようと決
意します。自分の身代をすべてなげうち、「猫間川」に橋を架けることにしたのです。
この橋は、すごい橋でした。それは香木に使われる「伽羅」で出来ていたのです。
この香り高い伽羅香木の橋は、源さんの悔いを表して、あまりあるものでした。人々
は、善人になった「源さん」に因んで、「源ケ橋」と名づけて呼んだのでした。
生野本通り商店街入り口へ入る
生野本通商店街のキャラクター<しょーたくん> 聖徳太子の子孫ということです。
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生野本通り中央商店街
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生野八坂神社
東成郡誌第三編、生野村第四神社の項に『素盞嗚尊(すさのおのみこと)神社、大字
林寺字林に鎮座せり…』とあり、その創祀は諸書に『元禄二巳(1689)年勧請』とありま
すが、他にも説があって定かではありません。東成郡林寺村(旧地名)の氏神様とし
て崇敬されていましたが、明治41(1908)年に天王寺区の河堀稲生神社に合祀され、
境内地も『河堀稲生神社御旅所(おたびしょ)』となりました。その後、氏子有志の熱誠
なる努力によって復興造営が完成し、昭和30(1955)年御神霊の還御を仰ぎ『生野八
坂神社』の認証を受け、『生野の祇園様』として今日に至っています。
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商店街アーケードを抜けて生中橋~東部市場へ向かう
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平野郷環濠跡
平野の環濠は、いつ頃掘られたものか不明であるが、戦国時代の動乱の時代に自衛
と灌漑、排水用あるいは洪水の調節池としての役割をもってつくられたものと考えられ
る。町の周囲には堤を築きその外に濠を、さらに堤と濠というように二重に築かれてい
たところもあり、濠が平野川ともつながっていたので舟運もひらけ、繁栄の基礎ともなっ
た。また、町の出入口13の門(平野郷樋尻口門跡)から街道が各地に通じ、平野は水
陸両方の交通の要衝でもあった。尚河骨池(ここのいけ)口付近には船溜りがあり、平
野川を上下する柏原船の発着で賑わった。
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杭全神社
貞観4年(862年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂の孫で、この地に荘園を有していた坂
上当道が素盞嗚尊を勧請し、社殿を創建したのが最初と伝えられている。以降、建久
元年(1190年)に熊野證誠権現(伊弉諾尊)、元亨元年(1321年)には熊野三所権現
(伊弉册尊・速玉男尊・事解男尊)を勧請合祀し、後醍醐天皇から「熊野三所権現」の
勅額を賜り、熊野権現社の総社とされた。明治になって現在の社名に改まった。日本
で唯一連歌所が残っており、連歌会は明治以降廃れていたが、1987年に復活させ、
現在、毎月定期的に平野法楽連歌会が催されている。1999年からはインターネット
連歌が始まった。初代の連歌所は室町時代に建てられたが、大坂冬の陣で焼かれ
た。現存するのは1708年(宝永5年)に再建されたもので、大阪市指定文化財に指定
されている。
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※宇賀神社
杭全神社の摂社で市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)をお祭りしている神社。

大念佛寺・・・大念佛寺のHPより引用
大治2年(1127年)、聖徳太子信仰の厚かった良忍上人が四天王寺に立ち寄った
際、太子から夢のお告げを受け、鳥羽上皇の勅願により平野に根本道場として創
建したのが始まり。 平安末期以降広まった念仏信仰の先駆けとなり、国産念仏門
の最初の宗派で日本最初の念仏道場といわれる。その後、火災などで荒廃するが、
元禄期(1700年頃)に本山として体 裁が整い、現在に至る。融通念佛宗の総本山。
本堂は、大阪府下最大の木造建築で、国登録の有形文化財に指定されています。
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今川緑道
戦前は漆並木で有名な「漆堤」の名称がありました。
正徳5年(1715)付け城蓮寺村の堤奉行宛恐書(オソレガキ)の中に、「うるし堤」の美し
さを述べる文言があるので、その頃に既に漆が広く植えられていたことがわかります。
しかし、戦前の今川に残されていた漆は僅かなもので、西除川沿いにある矢田7丁目
の阿麻美許曽神社や松原市の布忍神社境内や、駒川沿いの鷹合神社境内にも川沿
いに漆の木が植えられていたことが確認できるので、漆は地場産業として、また川堤
の補強策としても、今川堤に限らず、広く植えられていたことが分かります。 今川の本
漆は、戦中の燃料不足に困った住人達が堤の樹木を盗伐し、漆にまで手を付けたの
で、その全てが消滅しましたが、今も、一部では漆を植えているところもあり、昔年の
紅葉を楽しませてくれます。
ただ、現在川沿いの所々に見られる櫨(ハゼ)の木は漆と似ていますが、樹液を分泌せ
ず、造膜性や刺激性がなく、異なった性質の樹木です。
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JR天王寺駅東口~
あべのハルカスを見上げる
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