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9月23日の飛鳥の古代ロマンと案山子ロード巡りー1

9月26日       9月23日の飛鳥の古代ロマンと案山子ロード巡りー1
                  近鉄駅フリーハイキング 歩程約9㎞
此の日は・K場さん・I田さん・T田原の3名で参加、コースを少し変えて歩いてみました。
コース 近鉄駅フリーハイキング 飛鳥駅受付9時半~   我々は10時5分集合で・・・
飛鳥駅(受付)~猿石~欽明天皇陵~鬼の雪隠・俎~亀石でコースに合流~橘寺~川
原寺跡~コースを変えて玉藻橋~石舞台古墳でコースに合流~マラ石~稲渕棚田看
板~かんじょうばし~男綱~稲渕案山子ロード~朝風石碑・案山子路看板~念仏寺~
八坂神社~文武天皇陵~高松塚古墳~飛鳥びとの館(抽選会場)・飛鳥駅(ゴール)
抽選は3名とも毎度の事ながらくじ運無く、ハ・ズ・レ・・・
乗り継ぎの橿原神宮前駅中茶店でコーヒータイム、2名は鶴橋駅へ、私は五位堂駅へ
案山子は昨年の方が良かったかな、此の日の私の万歩計は21278歩で約15.7km・・・
志都美駅~高田駅
高田駅~畝傍駅~近鉄八木西口駅
橿原神宮前駅~飛鳥駅
飛鳥駅(受付・スタート)
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猿石~欽明天皇陵~鬼の雪隠・俎
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亀石でコースに合流
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橘寺
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川原寺跡
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橘寺を振り返って
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コースを変えて玉藻橋~石舞台古墳でコースに合流
石舞台古墳地区(此処で昼食)
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マラ石
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稲渕棚田看板~かんじょうばし・男綱へ向かう
棚田と案山子ロードが見える
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かんじょうばし
男綱
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稲渕案山子ロード
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彼岸花
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案山子
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ジャンボ案山子
今年のテーマは西郷どん
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此の続きは、
9月23日の飛鳥の古代ロマンと案山子ロード巡りー2 として
         下記のメインブログへ詳細を投稿します。
        https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
引き続き稲渕案山子ロード~
稲渕案山子ロード
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棚田
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案山子
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棚田&彼岸花
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案山子
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彼岸花&棚田 
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案山子
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彼岸花&案山子 
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朝風石碑・案山子ロード看板
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朝風峠~念仏寺~八坂神社~文武天皇陵
葛の花&アケビ
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遠くに二上山
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八坂神社
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高松塚古墳~飛鳥びとの館(抽選会場)
高松塚古墳
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飛鳥駅へ向かう
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飛鳥駅(ゴール)
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飛鳥駅~橿原神宮前駅~大和八木駅~五位堂駅へ
おまけ
五位堂駅&二上山
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9月21日の大阪の歴史を感じて寺社巡り-1

9月25日         9月21日の大阪の歴史を感じて寺社巡り-1
                 昼飲み会&近鉄ハイキング
此の日は、近鉄駅フリーハイキングに併せて何時もの阿倍野の居酒屋で昼飲み会、
近鉄駅フリーハイキングは、大阪の歴史を感じて寺社巡り 歩程約7㎞を少し短縮し
銭湯&15時~の昼飲み会に間に合わせる、参加はS藤・M吉・K場・R得・T原の5名
コース  近鉄駅フリーハイキング 鶴橋駅東口受付 9時半~11時  9時40分集合
鶴橋駅(東口・受付)~三光神社~玉造稲荷神社~越中井~善福寺~心眼寺~興
徳寺~真田山公園(昼食)~東高津宮~産湯稲荷神社~ショートカットして鶴橋駅へ
JR鶴橋駅 →天王寺駅  湯処・あべの橋温泉で汗を流して 昼飲み会へ

9月21日(金) 昼飲み会15:00~17:00 居酒屋 甘太郎 コース料理&飲み放題
参加者 ハイキング参加者に加えて Y川・N西の7名、2次会は ジャンカラへ4名
此の日の私の万歩計は、19852歩で約14.6km歩いたことに・・・
鶴橋駅(東口・受付)~三光神社
三光神社
三光神社(さんこうじんじゃ)は、大阪府大阪市天王寺区玉造本町の宰相山公園に
ある神社で、天照大神・月読尊・素戔嗚尊を祀る。
反正天皇の時代の創建と伝えられる。創建以来、武内宿禰の末裔の武川氏が神職と
して奉職し、現在は86代目と伝える。社伝によれば、寛文元年(1661年)に一旦現在
地の南東の鎌八幡の隣に遷座し、宝永3年(1706年)に再び現在地に戻ったという。
かつては「姫山神社」と称し、一帯は「姫の松原」と呼ばれていた。
中風封じの神として有名な陸前国宮城郡青麻(現 宮城県仙台市宮城野区)の三光宮
(現 青麻神社)を勧請し、そちらの方が有名になった。明治15年(1882年)の『大阪名
所独案内』に三光宮を勧請した旨が書かれており、勧請はそれ以前ということになる。
明治41年(1908年)、姫山神社に境内社・三光宮を合祀し、社名を「三光神社」とした。
3柱の神を祀ることから「三柱神社」とも、「日月山神社」ともいう。
鎮座地の丘は宰相山とも真田山ともいう。かつては大坂城の出城「真田丸」が置かれ、
大坂の陣のときには真田信繁が大坂城から当地までの抜け穴を掘ったといわれ、社
殿の下に残っている。境内には黒田屏風に描かれた真田信繁を元にした像がある。
千田嘉博によると、現在残っている抜け穴は真田信繁がつくったものではなく、真田丸
を攻めた前田軍の塹壕の痕跡の可能性が高いとしている。
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玉造稲荷神社(たまつくりいなりじんじゃ)
玉造稲荷神社は、大阪市中央区玉造にある神社。旧社格は府社。宇迦之御魂大神
(稲荷神)を主祭神とし、下照姫命、稚日女命、月読命、軻偶突智命を配祀する。
社伝によれば垂仁天皇18年(紀元前12年)に創建され、当時は比売社と称していた。
蘇我氏と物部氏の戦いの際、蘇我氏方の聖徳太子がこの地に布陣して戦勝を祈願
し、戦勝後当地に観音堂を建てたという伝承がある。
豊臣大坂城の三の丸に位置し、その鎮守社として豊臣家から篤い崇敬を受けた。戦
国時代の戦火で荒廃し、慶長8年(1603年)に豊臣秀頼により社殿が再建された。慶
長20年(1615年)の大坂夏の陣で社殿は再び焼失し、元和5年(1619年)に徳川幕府
の大坂城代や氏子らの寄進によって再建された。社地は元々は急崖に面していた為、
少しでも平坦化するために、寛政元年(1789年)、東横堀川の浚渫で出た土砂を町人
らが運び込む「砂持」が行われた。豊臣・徳川時代を通して大坂城の鎮守とされ、豊津
稲荷社と称した。江戸時代には伊勢参りの出発点とされた。文久3年(1863年)11月の
大坂大火(新町焼)で焼失するが、1871年(明治4年)に再建。
現在の「玉造」の社名は鎮座地の地名によるもので、一帯は古代、勾玉などを作ってい
た玉作部の居住地であったという伝承がある。
豊臣家奉納鳥居 -- 慶長8年(1603年)、豊臣秀頼により社殿再建時に奉納された石鳥
居。阪神・淡路大震災により基礎に損傷を受け、現在は上部・脚部に分け、境内に置か
れている。
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越中井へ向かう
公園に彼岸花が・・・
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越中井(えっちゅうい)
越中井は、大阪市中央区森ノ宮中央2丁目12にある史跡。細川家の当主である細川忠
興の屋敷の台所があったと伝えられる場所で、細川ガラシャ最期の地として知られる。
越中井戸(えっちゅういど)とも呼称される。
細川ガラシャの名で知られる玉子が当屋敷に移り住んだのは1578年。細川忠興の正室
であった玉子は、父である明智光秀が本能寺の変を起こしたことで、逆臣の娘の存在が
細川家の存亡にかかわる事を恐れた忠興により、細川領内で丹後半島の奥地である味
土野に幽閉されていた。後に光秀を討ち取った豊臣秀吉が石山本願寺跡に大坂城を建
設。細川屋敷は城の三の丸にあたる同地に建設され、玉子もそこに住むことを許された。
細川屋敷に移った後、玉子は忠興の命により家臣2人を付けられ、外出を厳しく制限され、
彼女はほとんど外へ出る事が出来ない中、お忍びで訪れた教会がきっかけで熱心なキリ
シタンとなる。玉子はバテレン追放令が発令された直後に忠興に内緒でキリスト教の洗礼
を受け、「ガラシャ」の名を授かった。
秀吉の死後の1600年、会津征伐において忠興が徳川家康に従って出征している間に、豊
臣家の再興をもくろむ石田三成が決起。三成は忠興を味方につける為、ガラシャを人質に
しようと細川屋敷を取り囲むが、彼女はこれを拒絶し、自らの命を絶ち、屋敷に火を放った。
これに驚いた三成は他の大名の家族に手を出すのを控えるよう余儀なくされ、結果多くの
武将が家康側に付くこととなった。
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大阪カテドラル聖マリア大聖堂(カトリック玉造教会)
創立は1894年(明治27年)。創立時に建てられた「聖アグネス聖堂」は1945年(昭和20
年)の大阪大空襲により滅失。現在の大聖堂は1963年(昭和38年)に落成した。
敷地が細川大名家の屋敷跡という由縁もあって、大聖堂内内陣左側には細川ガラシャ
を描いた画が掲げられている。その「最後の日のガラシア夫人」および聖堂正面の壁画
「栄光の聖母マリア」、右側の「高山右近」は堂本印象の筆、大小100の窓に施されたス
テンドグラスは羽淵紅州の作、十字架や聖像はオーストリアの彫刻家ルンガルチエの作
と、当時一流の芸術家を集めて造られた。パイプ数2400の巨大なパイプオルガンでも知
られる。近代建築家・長谷部鋭吉の遺作ともいえる建築作品である。
高山右近&細川ガラシャ
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善福寺(どんどろ大師)
善福寺は、創建当初に「鏡如庵大師堂」と称し、大坂夏の陣の戦死者を弔うために建てら
れたと伝わるお寺です。通称はどんどろ大師。「どんどろ」とは、天保年間の大坂城代で
弘法大師を信仰した土井大炊頭利位(どいおおいのかみとしつら)の「土居殿」 がなまり、
本尊の弘法大師がこの名称で呼ばれるようになったといいます。土井利位は、幕府の老
中となり、水野忠邦の天保の改革に協力した人物です。
どんどろ大師は浄瑠璃『傾城阿波鳴門(けいせいあわのなると)』に登場し、お弓とお鶴の
母子再会の舞台としても有名です。
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境内のミツマタ
冬になれば葉を落とす落葉性の低木であり、ジンチョウゲ科のミツマタ属に属する。中国
中南部・ヒマラヤ地方が原産地とされる。3月から4月ごろにかけて、三つ叉(また)に分か
れた枝の先に黄色い花を咲かせる。そのため、「ミツマタの花」は日本においては仲春(啓
蟄〔3月6日ごろ〕から清明の前日〔4月4日ごろ〕まで)の季語とされている。皮は和紙の原
料として用いられる。
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心眼寺・・・真田幸村・大助親子のゆかりの地に立つお寺
大阪城の出城である「真田丸」の跡地横に真田幸村・大助父子と深く関係するお寺があり、
名前を心眼寺といいます。
1622年(元和8年)、大坂夏の陣から7年後に、白牟(はくむ)和尚が戦国武将真田幸村・真
田大助父子の冥福を祈るために建立されました。この白牟和尚は、真田家の祖先滋野氏
の一族だと言われています。
創建から寺の定紋は真田家の家紋である六文銭が使われ、山号は真田山と称します。門
には六文銭が付いています。
入口には「真田幸村出丸城跡」碑があります。丸城とありますが、最近の調査の結果、丸で
は無かったことがわかりました。
境内に「従五位下真田左衛門佐豊臣信繁之墓」が2014年に新たに建立されており、それに
よると、三日月の形をしていたことから偃月城とも呼ばれていたと書かれています。真田丸
は大坂冬の陣の講和条件により破却されました。
戦国時代とは関係ないが、江戸時代の幕末、坂本龍馬を暗殺したことで有名になった京都
見廻組の桂早之助と渡辺吉太郎のお墓もここにあります。
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興徳寺
興徳寺(こうとくじ)は大阪府大阪市天王寺区餌差町にある 高野山真言宗 の仏教寺院。
天平年間(729年~749年)行基の開創。度々の兵火に火災を罹り、古記を失う。
天正年間(1573年~1592年)の頃、祐乗上人が再興。大正4年(1915年)6月1日の火災
で本堂・庫裏を失い、わずかに土蔵のみが残った。
昭和20年(1945年)の大阪大空襲では山門を残して全焼す。その後再興。
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境内に彼岸花&ハンゲショウ
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真田丸顕彰碑(さなだまるけんしょうひ)
真田幸村(信繁)が大坂冬の陣の際に築いた砦「真田丸」があったとされる天王寺区
餌差町に「真田丸顕彰碑」が建立され、平成28年2月1日(月)に天王寺区役所主催
の除幕式が行われました。
碑に組み込まれた陶板には、大阪城天守閣所蔵の「大坂三郷町絵図」と、「大坂冬夏
陣立図」のうち「冬の陣図」が載っています。
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円珠庵(えんじゅあん)・・・鎌八幡・・・HPより
遠い昔、このあたりは三韓坂と言われた古道で、そのわきに一本の榎の霊木があり、
人々の信仰を集めていた。
下って、大阪冬の陣のとき、真田幸村がこの土地に陣所を構えたが、この信仰を聞き
伝えて、鎌を打ちつけ、鎌八幡大菩薩と称して祈念したところ、大いに戦勝をあげたと
伝えられている。
江戸時代初期には、この鎌八幡の境内に、国文学者として有名な高僧契沖阿闍梨が
居を定め、円珠庵と称した。契沖は、ここで万葉代匠記や和字正鑑要略を著し、国文
学の研究に専念すると同時に、深く鎌八幡を信仰した。この頃から「鎌八幡」は「祈とう
寺」として、人々の信仰が広まった。
大正11年に、境内全域が大阪市では最初の国の史跡指定を受けたが、境内の大部
分は、戦災で損壊したあと復興したものである。その間、霊木は蘇生し、絶えなる信仰
と多くの霊験が得られている。
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此の続きは、
9月21日の大阪の歴史を感じて寺社巡り-2 として
        下記のメインブログへ詳細を投稿します。
      https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、真田山公園(昼食)~
ベニバナトキワマンサク(紅花常盤万作)だと思う? 
中国原産でマンサク目マンサク科トキワマンサク属の耐寒性常緑小高木 「トキワマン
サク(常盤万作)」の変種の紅花品種です。
木立姿は分枝が多い。 葉は単葉の卵形で毛が密生した光沢性のある皮質です。 葉は
互生につき、葉縁には鋸歯がありません。 若葉は赤紫色で成長と共に緑色に変わる
青葉種と、紅色を保つ紅葉種があります。
春に、鮮紅色で光沢のあるビニールの細紐状の花を集合させて咲かせます。 花の感じ
がユニークです。 花は、長さ2~5cmの花弁が4枚つく4弁花で、雄蕊も4本あります。
3~5個の花が集合し、小花序を形成します。花には微香があります。
花後になる果実は朔果で倒卵形をしており晩夏~初秋に熟します。 朔果の中に黒い
長卵形の種子が入っています。
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昼食後は、梅川・忠兵衛の供養塔へ向かう
此処まで来たのでもう少し・・・
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梅川・忠兵衛の供養塔
大和・新口村の小百姓四兵衛の息子・清八が大坂淡路町にあった飛脚屋に養子に
出て、亀屋忠兵衛と名乗っていたが、1709年(宝永6年)新町・槌屋の遊女梅川に
通い詰め、店の金を使い込んでいた。
おまけに梅川を身請けするため、店に届けられていた300両の公金まで、手につけ
てしまい、2人は忠兵衛の生まれ故郷の大和・新口村まで逃亡し、実家近くの大和・
上里村(現・香芝市)の親類宅に潜んでいるところを御用となり、刑場の露と消えた
(一説には牢死したともいわれる)。
この話を近松門左衛門が1711年(正徳元年)浄瑠璃の「冥土の飛脚」としてに脚色
し、名作となった。その後、紀海音が歌舞伎の「恋飛脚大和往来」に脚色している。

梅忠ノ碑・・・墓の横に建っている「梅忠ノ碑」。
墓は四つ角の角地にあるが、周り建屋の筋違いなどの影に隠れ、見落としてしまう。
大阪市天王寺区城南寺町の一角、空き地に、「梅川・忠兵衛の墓」がある。
これらの墓は安政年間(1854~60年)に建てられたとのことで、右側の忠兵衛
の墓は「妙法頓覚利達」と刻まれ、左側の梅川の墓には「梅室妙覚信女」とある。
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※お地蔵さんの横にある立派な墓は福田金塘の墓。
福田金塘は江戸時代の後期の数学者で天文暦数を修め土御門家に仕えた。
今橋に私塾を開き、門下生は数千人に及んだという。
1807年(文化4年)大坂で生まれ、1858年(安政5年)52歳で没した。

東高津宮
東高津宮(ひがしこうづぐう)とは大阪府大阪市天王寺区にある神社。仁徳天皇社と
称していたこともある。
創建年は不詳である。元は生國魂神社の南にあったが、大阪城築城の折、当地付近
(現在では大阪上本町駅構内に当たる)に遷座したとの伝説がある。
昭和7年(1932年)の上本町駅(当時)拡張工事の折、現在地に移転。現在地を元高
津とするのは、当社から高津宮が遷座していったから。ただし、現在は高津宮に合祀
された北高津宮に遷座したからとも言われる。
戦災で社殿を焼失していたが、昭和42年(1967年)に復興した。
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産湯稲荷神社へ向う
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産湯稲荷神社
当社は比売許曽神社の旧社地にあり、現在は御旅所で末社となっている。
現地に掲げられていた社記によると「当地の開拓神である大小橋命(おおおばせのみこ
と)は天児屋根命の十三世の後胤で、13代成務天皇の御代(4世紀頃?)、ここ味原郷
に誕生した。その時、境内の玉の井の水を汲んで産湯に用いたので、この地を「産湯」と
いう。 父は神功皇后の近臣中臣雷大臣、母は紀氏清夫と言い、3人兄弟の長男である」
としている。すなわち、大化の改新で活躍した藤原家の祖、中臣鎌足の先祖に当る人で
ある。 この誕生のときの胞衣を埋めたと伝わる胞衣塚が比売許曽神社の近くにある。
また、一説では生野区にある御勝山は大小橋命の墓であるとも言われ、この地には大小
橋命に関わる伝承は多い。
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「式内比売許曽神社御旅所」と「桃山跡」の石碑。
桃山というのはこの辺りの丘陵には明治の頃まで広大な桃林があったことに由来すると
いう。1919年(大正8年)に埋め立てられた味原池とともに景勝地として知られていた。
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ショートカットして鶴橋駅へ
JR鶴橋駅 →天王寺駅  
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湯処・あべの橋温泉で汗を流して 昼飲み会へ
湯処・あべの橋温泉
天然温泉・・・大阪市港区の『天然温泉テルメ龍宮』から毎日搬送しています。
源泉名 龍宮温泉 1号 阪市港区2丁目3番33号  深さ  1,500m
泉質 ナトリウム塩化物強塩温泉   泉温 摂氏53.9度(浴槽温度40~42℃)
効能 ・神経痛・筋肉痛・関節・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・打ち身・くじき
    ・慢性消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進・切り傷
    ・やけど・慢性皮膚病・虚弱体質・慢性婦人病
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居酒屋 甘太郎
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ジャンボカラオケ
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19日の堺市の三陵巡り&ステーキハウスで会食ー1

9月24日        19日の堺市の三陵巡り&ステーキハウスで会食ー1
                  9月度の歴史探訪の会例会
9月19日の歴史探訪の会は、ステーキハウスでの会食が有る為、事前に申し込んで、
当日は弁当を持たないで参加の為、リュックを背負わない方々も半数、天気も良く・・・
コース  JR上野芝駅 受付・10時スタート  此の日の参加者は 25名
上野芝駅(受付・スタート)~履中天皇陵~大仙公園~仁徳天皇陵~ステーキハウス
「徳庵」(昼食)~反正天皇陵~方違神社(解散)・・・南海堺東駅 or JR堺市駅
自宅近くのバス停
バス停前のレジャービル
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上野芝駅で受付・スタート
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地下道を潜って履中天皇陵側へ
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履中天皇陵
履中天皇(りちゅうてんのう)
履中天皇は、第17代天皇(在位:履中天皇元年2月1日 - 同6年3月15日)。名は大兄
去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと)、大江之伊邪本和気命。中国の『宋書』
に見える「倭の五王」中の倭王讃に比定する説がある(応神天皇もしくは仁徳天皇と
する説もあり)。また古事記には「壬申年正月三日」に64歳で崩ずとの記事が見える
が、定かではない。
仁徳天皇87年1月、仁徳天皇崩御。住吉仲皇子が皇位を奪おうとして叛するが、弟の
瑞歯別皇子(後の反正天皇)に命じてこれを誅殺させ、履中天皇元年2月に即位。同2
年、蘇我満智(まち)・物部伊莒弗(いこふつ)・平群木菟(つく)・円大使主(つぶらのお
おおみ)らを国政に参画させた。同4年8月、諸国に国史(ふみひと)と呼ばれる書記官
を設置し、国内の情勢を報告させた。同6年正月に蔵職(くらのつかさ)と蔵部を興し(『
古語拾遺』には内蔵を興すとある)、3月に病気のため稚桜宮で崩御した。『書紀』に
70歳、『古事記』に64歳、『神皇正統記』に67歳。
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後円墳の方へまわり
履中天皇陵を見る為の展望所から
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大仙公園へ入って
大仙公園
仁徳天皇陵古墳に隣接する38万㎡の緑と歴史に包まれた市のシンボルパーク。
どら池、芝生広場、児童の森など自然との触れ合い空間や、博物館、茶室、日本
庭園などがあり「日本の歴史公園100選」の一つです。

七観音山古墳(しちかんやまこふん)
七観山古墳とは、大阪府堺市堺区旭ヶ丘中町4丁にかつて存在した古墳(円墳)で
七観古墳(しちかんこふん)ともいう。百舌鳥古墳群に属しており、大正時代と太平
洋戦争後に発掘され、大量の鉄製武器と甲冑が出土している。
出土した遺物は、鉄製甲冑(衝角付冑7、短甲6以上など)、鉄製素環頭大刀、鉄刀
(130前後)、蛇行状鉄剣、鉄剣、鉄鉾、鉄鏃(百数十)などの大量の武器、武具
が出土している。このうち衝角付冑の中には、鉢の部分が動物の毛皮で作られたと
見られる珍しいものも含まれている。また鉄斧、手斧、やりがんな、金銅製帯金具、
それに鐙などの馬具も出土している。そのほかに、滑石製勾玉、剣形鉄製品が採
集されている。
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大仙公園
戦没者慰霊塔の前を通り仁徳天皇陵へ向かう
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大仙公園内の
聖の帝と称された仁徳天皇の詠んだ歌碑
「百姓富めるは則ち朕が富めるなり」 仁徳天皇

ご慈悲を偲んで詠んだ歌
「高き屋に登りて見れば煙立つ民のかまどはにぎはいにけり」  新古今和歌集
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仁徳天皇陵へ向かう
青空が綺麗
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仁徳天皇陵
拝所へ向かう
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仁徳天皇陵 拝所
大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)または大山古墳(だいせんこふん)は、大阪府堺
市堺区大仙町にある古墳。形状は前方後円墳。百舌鳥古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらの
なかのみささぎ)」として第16代仁徳天皇の陵に治定されている。名称は「仁徳天皇陵
(にんとくてんのうりょう)」や「仁徳陵古墳」とも。
全国で第1位の規模の巨大古墳であり、同古墳を擁する堺市は、クフ王ピラミッド及び
秦の始皇帝墓陵に並ぶ「世界三大墳墓」と称している。
採集されている円筒埴輪や須恵器の特徴から5世紀前半から半ばに築造されたものと
考えられている。前方部埋葬施設の副葬品は5世紀後期のものと考えられるが、前方
部に存在する副次的な埋葬施設の年代として問題ないとされる。
『記紀』『延喜式』などの記述によれば、百舌鳥の地には仁徳天皇、反正天皇、履中天
皇の3陵が築造されたことになっている。しかし、それぞれの3陵として現在宮内庁が治
定している古墳は、考古学的には履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)→仁徳天皇陵
(大仙陵古墳)→反正天皇陵(田出井山古墳)の順で築造されたと想定されており、大き
く矛盾が生じている。このことから、百舌鳥の巨大古墳の中で最も古く位置づけられる
伝履中天皇陵を伝仁徳天皇陵にあてる見解もある。しかし、この場合は後述する『延喜
式』の記述と大きく食い違うことになる。
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此の続きは、
19日の堺市の三陵巡り&ステーキハウスで会食ー2 として
            下記のメインブログへ詳細を投稿します。
          https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、昼食のステーキハウスへ向かう~
ステーキハウスへ向かう
銅亀山古墳
銅亀山古墳(どうがめやまこふん)は、大阪府堺市堺区大仙町に所在する古墳である。
百舌鳥古墳群の中では数少ない方墳の一つで、大山古墳(大仙陵古墳・仁徳天皇陵
古墳)の陪塚とされる。墳丘は、宮内庁によって「仁徳天皇陵に号飛地」として管理され
ている。大山古墳の前方部南西隅の外堀に隣接している一辺26m、高さ5.4m、二段
築成の方墳とされている。築造は出土された円筒埴輪の年代から、大山古墳の築造最
終段階の5世紀中頃にあわせて完成されたと推測される。
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ステーキハウス「徳庵」到着
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昼食はコース料理の会食
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食事を終えて
反正天皇陵へ向かう
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永山古墳
永山古墳(ながやまこふん)は、大阪府堺市堺区東永山園に所在する前方後円墳。百
舌鳥古墳群を構成する古墳の1つ。
宮内庁により第16代仁徳天皇の陵の「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみさ
さぎ)」の陪冢に治定されているほか、周濠は堺市指定史跡に指定されている。
大仙古墳の周濠の北側に接して、前方部を南南西に向けて立地している前方後円墳
である。大仙陵古墳の陪塚の可能性がある。墳丘は段築によって築かれ、全長104m、
後円部は径約63m、高さ9m、前方部幅67m、高さ約8mを測る。西側くびれ部に造出
しが認められ、馬蹄形の周濠がめぐる。内部主体、副葬品は不明である。現在、宮内
庁より大仙陵古墳(百舌鳥耳原中陵)の陪塚として管理されている。
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登録有形文化財
旧天王貯水場
天王貯水池(てんおうちょすいち)とは、かつて大阪府堺市堺区中三国ケ丘町にあった
貯水池。現在は遺構が保存され、旧天王貯水池として国の登録有形文化財に登録さ
れている。
明治43年(1910年)に堺市街地としては初めての上水道施設として建設された煉瓦及
びコンクリート造の貯水池である。創設当時、通常時の堺市への配水は、浅香山浄水
場からポンプで送水していたが、堺市の需要量が多く、余裕がある場合に貯水し、不足
する場合や非常時に十分に配水できる量を貯水する能力をもった構造の貯水池として
建設された。全国では12番目として建設されている。人口6万人規模の給水を行うため、
総面積662m2の貯水規模だった。直射日光を遮り雑菌の繁殖を抑えるために貯水槽
の周囲に土が盛り上げられている。点検用の通路を挟んで2つの貯水槽が設けられた。
それぞれの貯水槽は5つの区画に区切られ、スパン約3.6mの煉瓦造のヴォールト架構
で覆われている。凱旋門風のデザインが施された点検用の出入口がある。このデザイ
ンと施工技術は建築学的価値が高いとされ、上水道の歴史上でも貴重なものと考えら
れている 。設計には大阪府が指導にあたったと考えられている。
昭和37年(1962年)に使用が停止された。
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反正天皇陵へ向かう
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反正天皇陵
反正天皇(はんぜいてんのう)は、第18代天皇。多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわ
けのみこと)・水歯別命(古事記)。
『宋書』・『梁書』に記される「倭の五王」のうち珍(彌)に比定する説が有力視される。
仁徳天皇の第三皇子。母は葛城襲津彦の女・皇后磐之媛命(いわのひめのみこと)。
履中天皇・住吉仲皇子の同母弟、允恭天皇の同母兄に当たる。
淡路宮(不詳、淡路島?)で生まれ、容姿美麗であった。生まれながらにして綺麗な歯
並びであったので、「瑞歯別」の名があるという。
『古事記』によれば、身長は9尺2寸半(約3.04m)、水歯別命の名は、歯の長さが1寸、
広さ(厚さ)は2分(4ミリ)で、上下等しく整っており、歯を褒め称えて、「水歯」と名付け
られたことによる。
仁徳天皇87年、父仁徳天皇の崩後、叛乱を起こした同母兄の住吉仲皇子をその近習
である曽婆訶理(隼人)を利用して誅殺した(従って、直接手は下していない)。履中天
皇2年1月4日に立太子(皇太弟)。同6年3月15日に履中天皇が崩御し、翌反正天皇元
年1月に即位。兄弟継承はここに始まる。同年8月6日、共に和珥木事の娘である和珥
津野媛を皇夫人に、和珥弟媛を妃に立てる。同母兄弟の2天皇と異なり皇族の妻を娶
ることはなく、皇太子も立てず、子孫が即位することもなかった。
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反正天皇陵前で集合写真撮影
方違神社へ向う
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方違神社
方違神社(ほうちがいじんじゃ)は、大阪府堺市堺区北三国ヶ丘町2丁2-1にある神社。
近郷では「ほうちがいさん」と称され、方違え、方災除けの神として知られる。
社伝では、応神天皇の時代に天神地祇ほか三座を祀り、方違大依羅神と号し、この
社を方違宮と称したとされる。
社地は摂津、河内、和泉の境の三国山(現在は三国ヶ丘と称される)にあり、三令制
国のいずれにも属さない地、方位のない地であるとして、古くから方位、地相、家相な
どの方災除けの神社として信仰を集めてきた。現在でも、転勤、結婚などでの転宅や
海外旅行などの際に祈願する参拝者が多い。自分の在所からでかけていく先の方位
についてのお祓いをしてもらい、清めの御砂を頂いて、自分の家の四方に撒く。
古くから方除けには当地の埴土を包んだちまきを奉ったことから、厄除守に御札のほ
か御砂、ちまきがある。神宮寺の向泉寺は永正年間に焼失し、のち堺市街地に再建
された。1907年(明治40年)に泉北郡向井村の氏神社である向井神社を合祀。
平成30年1月に社殿が建て替えられた。
御祭神は、方違幸大神(かたたがえさちおおかみ) 天神地祇
素盞嗚尊(すさのおのみこと)、住吉大神、神功皇后
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方違神社(解散)
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南海堺東駅へ帰るGrとJR堺市駅へ帰るGrに分かれて
JR堺市駅から帰る
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9月12日の「大阪あそ歩」茶屋町&中崎町-1

9月18日       9月12日の「大阪あそ歩」茶屋町&中崎町-1
             社友会カルチャー教室「大阪再発見 町歩き」
12日は、社友会のカルチャー教室として「大阪再発見 町歩き」の第一弾、大阪あそ歩の
ガイドさんで梅田界隈、大阪市北区茶屋町&中崎町を~月は東に日は西に~与謝蕪村
の心の故郷を参加者29名で歩いた。(予定は13時~のんびり歩いて~16時50分解散)。
社友会のU西幹事発案のカルチャー教室で今回は、歩こう会からは世話人5名が参加し
お手伝い(・S藤・K場・M吉・R得・T原)する事に・・・
当日阪急梅田駅 1Fコンコース ビッグマン前に昼食を済ませて13時に集合・スタートし
散策の途中から小雨が降ったり止んだりの天気になったが無事に終了、我々歩こう会の
世話人5名は、終了後中崎町の葉村温泉(銭湯)で汗を流し前日に予約した298梅田店
で慰労会?反省会?飲み会・・焼肉食べ放題&アルコール飲み放題の90分間に挑戦。
コース  阪急梅田駅中央口一階 ビッグマン前に13時集合 参加費@1000円
阪急梅田駅(スタート)~凌雲閣鶴~網敷神社~与謝蕪村句碑~四つ辻の井戸~白龍
神社~済美公園~大阪韓国文化院~大阪能楽会館跡~歯神社(ゴール・解散)
案内して頂いた、大阪あそ歩のガイドさんご両名、A井さんK吉さん有難う御座いました。
K吉さんには、解散後に帰り道だと言う事で葉村温泉(銭湯)の近く迄ご一緒頂きました。
自宅近くのバス停前
レジャービル
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阪急梅田駅一階の集合場所
全員に注意事項&班毎の写真撮影(青リボン班と赤リボン班に分かれてスタート) 
梅田
昔、此の辺りは湿地帯で、明治維新以降の土地開発でこれらを埋め立てて、当初は、
「埋田」(うめた)と呼ばれていたが、近くの大阪天満宮の梅花殿にあやかって「梅田」
になったと言われています。

凌雲閣鶴へ向かう
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凌雲閣鶴
明治22年(1889年)に完成した木造9階建ての娯楽施設(展望台)です。高さ130尺
(39m)ほど、1、2階は5角形、3階からは8角錐台の形で、その上に丸屋根が付いて
いました、周囲には池泉が整備されて、四季折々の花が咲き誇り、茶店、遊技場が
設けられていたと言います。今宮村(現在の浪速区・日本橋辺り)にも「眺望閣」と言
う同じ様な娯楽施設が有って、其方を「ミナミの5階」、凌雲閣のことを「キタの9階」と
呼んで、当時の大阪庶民に親しまれましたが残念ながら昭和初期に撤去されました。
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能勢海道へ向かう
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能勢街道を歩いて鶴の茶屋跡
此の付近は江戸時代後期~明治中期にかけて、大阪一大行楽地で、鶴、萩、車と言
う茶屋が並んで、大いに賑わっていました。「茶屋町」という地名は当時の名残りです。
鶴の茶屋跡前の道は「能勢街道」「中国街道」に当っていて、綱敷天神社の社前付近
から屈曲した道が、かつての旧街道の面影を残しています。
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綱敷天神社御旅社へ向かう
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綱敷天神社御旅社裏の自動販売機
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綱敷天神社(つなしきてんじんじゃ)御旅社
御祭神は平安時代の政治家・歌人・学者の菅原道真公です。延喜元年(901年)に道
真公が無実の罪によって、九州・大宰府へ左遷されたさいに、此の地で咲いていた紅
梅に目を留めて、其れを良く見る為に船のとも綱を円座状に敷きました。後に天神さま
となった菅公が「綱を敷いた」事が所以で、綱敷天神社が創建されたと言います。
綱敷天神社の本社は、約800m南東の北区神山町に御鎮座しています。御旅社(お
たびしゃ)は元々は本社の南に有り、古くは「梅塚天神」といって、菅原道真公が眺めた
という紅梅が有りましたが、明治初年頃に梅田・茶屋町の氏神としてお迎えしたいとい
う住民の土地の寄進があって現在地に鎮座しました。臨時で設けられる「御旅所」とは
異なり、常時御祭神が鎮座しているので「御旅社」といっています。
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与謝蕪村句碑 「菜の花や 月は東に 日は西に」
与謝蕪村(1716~1784年)は江戸時代の俳人・画家で、摂津国東成郡毛馬村(現在
の大阪市都島区毛馬町)に生まれ、20歳の頃に故郷の毛馬村を出て、江戸や下総、
東北、丹後、讃岐など各地を旅しながら多くの俳句を詠みました。江戸俳諧中興の祖
として、松尾芭蕉、小林一茶と並び称される巨匠で、また俳画の創始者でも有ります。
晩年は京都で暮らして、清貧の中で生涯を終え、一度も大阪・毛馬には戻りませんで
した。この句は安永3年(1774年)に作られた句です。江戸時代から明治初年の頃迄
は、蕪村の故郷の毛馬から天満、茶屋町にかけては、あたり一面、菜の花畑でした。
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茶屋町
毎日放送
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此の続きは、
9月12日の「大阪あそ歩」茶屋町&中崎町-2 として
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続きは、中崎町 四つ辻の井戸~
四つ辻の井戸
中崎町名物!迷路のような路地裏、迷路のように入り組んだ中崎町の路地裏に戦争
中に活躍した井戸が有ります。
※中崎町・・・無国籍シティー?とも
中崎町、しばらく前までは今のように名前の知られた人気エリアでは無かった。 戦災
を免れたことで残った長屋や個人商店、昭和に建築された古いマンションやアパート、
銭湯、小学校などが建ち並び、梅田から徒歩圏内の立地であるとは信じられないぐら
いに、昭和の下町の雰囲気を色濃く残した閑かな町でした。
10数年前に「天人(アマント)」「巣バコ」といったカフェがオープンしたのを皮切りに、そ
こから古着や雑貨の店、カフェなどが徐々に増え始め、昔ながらの庶民的な町並みと
個性的なショップとが混在する魅力的なスポットに変わっていったという経緯がありま
す。人気のレトロショップ・・・「green pepe」 「2匹のゾウ」 「ANDANTE」 
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白龍神社
お地蔵さんの祠(ほこら)、その後ろには枯れた楠の古木、かつてミイ巳が祀られてい
たとか。「白龍さん」
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吉美荘 昭和レトロなアパート
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済美公園
中崎町の地域住民の憩いの場所です。30年前には公園横に駄菓子屋さんが有って、
近くに有る済美小学校(現在はは廃校)の子供たちの放課後の溜り場でした。今の駄
菓子屋の雰囲気とは比べ物にならない程大盛況でした。女の子たちはそこのおばさ
んと何時も相談したり、会話したりで第二のお母さん的な存在でした。都会のど真ん
中にある、古い町並みの中の静かな公園をゆっくり味わってみて下さい。
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JAM POT
フランス雑貨や、動物や植物をモチーフにしたアクセサリーを多く取り扱っている雑貨
店です。時期によって商品は変わりますが、手書きイラストのプラ板ブローチだったり、
星座のヘアアクセサリー、パステルカラーのアニマルメモパッドなど、ファンシーで個性
的な雑貨が多い様です。
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天五中崎通商店街へ向かう
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地下鉄中崎町駅
天五中崎通商店街
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本庄産院跡(ほんじょうさんいんあと)
大正9年(1920)4月1日浄法寺の北側に寄付により開設した大阪市最初の産婦人科
専門施設の跡。昭和8年(1933)扇町2丁目に移転し扇町産院と改称されました
本庄産院から扇町産院を経て、戦後は外国人やGHQ将校が宿泊する「ホテルナニワ」
へ転用されたようです。
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大阪韓国文化院
韓国の伝統文化から、最新の韓流情報迄、韓国文化の発信地として活動しています。
知己の皆さんが韓国をより身近に感じて頂けるように、韓国映画の上映やコンサート、
文化講座、講演会、料理フエスタなど、様々な韓国文化に触れるイベントを開催して
います。中崎町の隠れ家的なお店を探索しながら、気軽に韓国旅行気分を感じて見
ましょう。
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大阪能楽会館跡・・・工事中
1959年に能楽専用ホールとして誕生、総檜造りの本舞台に橋掛りを施し、白洲が舞台
を囲む伝統ある能舞台でした。昭和34年、観世シテ方の故大西信久さんが創設しまし
た。老朽化の為に2017年12月で閉館しました。
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歯神社(ゴール・解散)
歯神社(はじんじゃ)、主祭神は歯神(はがみ)大神さまで、歯、全般の神様として信仰
されています。元々は此処に在った巨石を地元民がお祀りしていただけの小さな祠で
したが、梅田一帯が水没するかというほどの淀川の大氾濫を、歯神様の巨石が歯止め
したことから、「歯止めの神様」として慕われ、何時の頃からか「歯痛止め」「歯の神様」
となりました。明治になってから、正式な神社にしたいという地元民の思いで、綱敷天
神社の末社に加えられました。毎年6月4日に歯ブラシ感謝祭を行っています。
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中崎町
葉村温泉(銭湯)
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神山町 
綱敷天神社・・・綱敷天神社の本社
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東通り商店街
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堂山町 298梅田店
前日迄に予約、焼肉食べ放題(1080円)+アルコール(ビールはスーパードライ)&
ソフトドリンク飲み放題(1080円) 制限時間90分、他費用は、替え網 1回50円
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9月9日j昼の馬見丘陵公園の彼岸花他-1

9月11日         9月9日j昼の馬見丘陵公園の彼岸花他-1
                4日の台風21号一過 初の公園散策
9日の昼、家内と買い物に向かう途中、馬見丘陵公園に立ち寄り園内を散策した、
彼方此方に台風21号の爪痕が残っていたが散策には支障が無い様に後片付け
されていた、散策路以外の場所には、未だ折れて倒れた木が片付けられて無い
ものも多数残っていた、南エリアには廻らなかったので解らない事も・・・
日曜日の昼間、何時もなら駐車場も満車に近い入りだと思い最初から北エリアの
駐車場へ行くと車はまばら?北エリアの駐車場に車を入れて、約1時間で4800歩
歩いた、暑かった。
馬見花苑を集いの丘へ向かう
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登って見ると頂上の大木が根本で切られていた、台風で折れた?
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彩の広場のダリア園へ向かう
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ダリア園は養生中
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連絡通路へ向かう
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連絡通路を通ってバラ園へ向かう
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連絡通路を出るとクレマチスは無事に咲いていた
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ウンナンチユウキンレンも無事
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大木が横倒しになって其のまま残っていた
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アメリカデイゴも枝が裂けていた
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花菖蒲園は変わりなし
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古墳の丘の桜は無事だが頂上の方で百日紅?の大木が横倒しに
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此の続きは、
9月9日昼の馬見丘陵公園の彼岸花他-2 として
         下記のメインブログへ詳細を投稿します。
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続きは、下池と亀達?~
下池、何時もの場所に亀達がいない
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流れの有る坂道下側の下池で亀達を見つけた
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流れの有る坂道下、此処を通らずに上池の方へ向かう
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下池と上池の間の散策路の両脇に彼岸花が咲いていた
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結びの広場へ向かう、此処でも奥の方に木が折れたままになっている
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結びの広場にも彼岸花が咲いていた
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だんだん広場の池に睡蓮が残っていた
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サンシュユの木には実がびっしりだが風で傷めつけられていた
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中央公園館前広場
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バラ園横を通り北エリアへ向かう
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紅バナトチノキの大木が途中で折れて無くなってる
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此処でもユリノキの大木が倒れかけている
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北エリアrへの連絡通路
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百日紅はまだまだ綺麗に咲いている
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北エリアの駐車場へ
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8月31日の馬見丘陵公園-1

9月1日         8月31日の馬見丘陵公園-1
                 夏の花 百日紅他
久し振りに馬見丘陵公園へ夏の花(百日紅 他)を見に行って来た、今日の馬見丘陵
公園は、南エリアも北エリアも涼しげな風が吹いて、結構過ごし易い気候になっていた。
巣山古墳前丘広場では
大人4~5人のGrがゴムで飛ばす紙飛行機を飛ばして対空時間を競っていた
墳観橋(つかみばし)から暫く鑑賞、中々面白そうだ、孫に作ってやろう??
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南エリア
花は無く、緑が綺麗、コスモスの苗が多量に植えられていた
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コスモス
コスモス(英語: Cosmos [ˈkɒzmɒs]、学名:Cosmos)は、キク科コスモス属の総称。
また、種としてのオオハルシャギク Cosmos bipinnatus Cav. を指す場合もある。
アキザクラ(秋桜)とも言う。
観賞用に栽培される。 日当たりと水はけが良ければ、やせた土地でもよく生育する。
景観植物としての利用例が多く、河原や休耕田、スキー場などに植えられたコスモス
の花畑が観光資源として活用されている。ただし、河川敷の様な野外へ外来種を植
栽するのは在来の自然植生の攪乱(かくらん)であり、一種の自然破壊であるとの批
判がある。
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中央エリア
公園館
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赤、白、ピンクの百日紅が綺麗だ
サルスベリ(百日紅=ヒャクジツコウ)は、ミソハギ科の落葉中高木。
葉は通常2対互生(コクサギ型葉序)、対生になることもある。花は紅の濃淡色または
白色で、円錐花序になり、がくは筒状で6裂、花弁は6枚で縮れている。8月頃咲く。
実は円いさく果で、種子には翼がある。
花が美しく、耐病性もあり、必要以上に大きくならないため、しばしば好んで庭や公園
などに植えられる。種子から栽培する「あすか」という一才物の矮性種もある。
和名は、幹の肥大成長に伴って古い樹皮のコルク層が剥がれ落ち、新しいすべすべ
した感触の樹皮が表面に現れて更新していくことによる(樹皮の更新様式や感触の似
たナツツバキやリョウブをサルスベリと呼ぶ地方もある)。つまり、猿が登ろうとしても、
滑ってしまうということで、猿滑と表記することもある(実際には猿は滑ることなく簡単に
上ってしまう)。
中国では、唐代長安の紫微(宮廷)に多く植えられたため、紫薇と呼ばれるが、比較的
長い間紅色の花が咲いていることから、百日紅ともいう。江蘇省徐州市、湖北省襄陽市、
四川省自貢市、台湾基隆市などで市花とされている。
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ルドベキア
北アメリカ原産の草花で、日本にやってきたのは明治時代の中頃、その頃は主に
切り花として利用されていました。真夏の炎天下でも花を咲かせる気丈な植物で、
切り花はもとより鉢花や夏花壇、品種によっては地面を覆うグラウンドカバーにも
利用されます。一株でもよく枝分かれして鮮やかな黄花を満面に咲かせる様子は
遠目でもよく目立ち、ヒマワリとはまた違った良さがあります。
主な開花期は夏~秋ですが、早いものでは梅雨頃から花を咲かせます。基本の
花色はオレンジや黄色(中心付近がえんじ色で周りが黄色くなる2色咲きのもの
などもあります)で色幅自体はさほど多くないですが、小輪種や大輪種、一重咲
きや八重咲きなどもあわせると花姿はバラエティーに富んでいます。
ルドベキアの名前はスウェーデンの植物学者ルドベックに由来します。
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その他
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此の続きは、
8月31日の馬見丘陵公園-2 として
           下記のメインブログへ詳細を投稿します。
         https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、雲南地湧金蓮(ウンナンチユウキンレン)~
雲南地湧金蓮(ウンナンチユウキンレン)
バショウ科ムセラ属のー10℃までの耐寒性がある亜熱帯性の植物。
学名は、Musella lasiocarpa ( Franch. ) H.W.Li(1978)。中国名が「雲南地湧金蓮」で、
地面からわいてきた金色のハスを意味する。日本の流通名として「耐寒バナナ」、英名は
Chinese yellow banana。 中国名「雲南地湧金蓮」の由来は、地から湧き出た金の蓮
(ハス)の花という意味。
中国雲南省の2500m程度の高山が原産地で、インドシナ半島一体が生息地。樹高1m、
株張り1.5m、開花期は秋からで、一つの花が咲くと上に伸び続けて次々に開花し、1年
間近く咲く。花の大きさは30cmで黄金色のハスの花のようだが、黄色の花弁のように
見えるのは、実は苞(ホウ)で、本当の花はその間に小さく咲きあまり目立ちません。

雲南地湧金蓮は、とても珍しい植物で,芭蕉の仲間でいまだ謎の残る摩訶不思議な一
属一種です。花ことばは「幸福を招く」です。
1999年に開催された昆明世界園芸博で目玉商品の一つとして注目を浴びました。
2000年の淡路花博の際、日本にも導入され、目玉植物として大変な人気を呼んだ。
1990年(大阪花博)以降に日本にやってきたとも言われています。
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クレマチス
クレマチス(Clematis)は、キンポウゲ科センニンソウ属のこと。クレマチス属ともいう。
園芸用語としては、このセンニンソウ属の蔓性多年草のうち、花が大きく観賞価値の
高い品種の総称。修景用のつる植物として人気があり、「蔓性植物の女王」と呼ばれ
ている。テッセン(鉄仙)およびカザグルマ(風車)はクレマチス(センニンソウ属)に属
する種の名前だが、園芸用のクレマチスを指して「鉄仙」や「カザグルマ」の名が使わ
れることもある。
クレマチスには大きく分けて、つるを残し越冬する旧枝咲き(モンタナ系、パテンス系
など)や新旧両枝咲き(フロリダ系、ラヌギノーサ系など)と地上部が枯れ翌年に新枝
を伸ばす新枝咲き(ビチセラ系、ジャックマニー系など)がある。
日本や中国では大輪のクレマチスを鉢に仕立てて鑑賞するが、ヨーロッパ原産種お
よびその交配種は花が小さいことから、ヨーロッパでは主に修景に用いられる。最近
はバラと組み合わせてオベリスクやアーチに絡めたり、ワイヤーで誘引し壁面を這わ
せる仕立て方が人気でイングリッシュガーデンの主役を飾る。
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北エリアへの連絡通路
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北エリア
ダリア養生中
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ダリア
ダリア(英語: dahlia、学名:Dahlia)は、キク科ダリア属の多年生草本植物の総称。
「ダリア」 (dahlia) の名は、スウェーデンの植物学者でリンネの弟子であったアンデシュ
・ダール (Anders Dahl) にちなむ。 メキシコ原産。
和名は、花の形がボタンに似ているため、テンジクボタン(天竺牡丹)と呼ばれた。
ヨーロッパでは、1789年にスペインのマドリード王立植物園に導入され、翌1790年に
開花したのが始まりである。1842年(天保13年)にオランダから長崎に持ち込まれた
のが、日本への最初の到来となった。
球根は非耐寒性であり、サツマイモに似た塊根だが、塊根自体に不定芽を生じる能力
はない。そのため、塊根の生じる地下茎の芽を塊根につけて切り離し、増やす(芽のな
い、または切り落とされた球根は発芽しない)。こうした塊根の性質は同じキク科のヤー
コンに似る。夏から秋にかけて開花し、大きな花輪と色鮮やかな花色と咲き方が特徴。
18世紀にメキシコからスペインにもたらされて以来、長い間をかけて品種改良が行われ
て、多種多様な、花色、花容の品種が作り出されてきた。
赤色・オレンジ色・黄色・白色・ピンク色・藤色・ボタン色・紫色など、バラやチューリップと
並び、最も縹色のバラエティーに富んだ植物である。絞りや爪白のもの、コラレット咲き
には花弁(大きな舌状花)とカラー(管状花を取り囲む小さな舌状花)の色が違う2色咲
きのものがある。英語に blue dahlia ということばがあるが、青色と緑色の縹色はない。

色とりどりの花
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集いの丘の周辺
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公園館へ戻って来た
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