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2021年1月1日 新年 おめでとう御座います

2021年1月1日 新年 おめでとう御座います

      新年 明けまして おめでとう御座います
      本年も どうぞ 宜しくお願い致します
写真は、飛鳥駅前のコキアと馬見丘陵公園のコキアです。
コキアの花言葉は?下記
「恵まれた生活」「 夫婦円満」「 忍耐強い愛」等の様です。
近鉄飛鳥駅前
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奈良県営
馬見丘陵公園のコキア
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令和2年 今年も宜しくお願いします

令和2年元旦
         新年
        明けましておめでとう御座います

        今年も宜しくお願い致します

我が家は 令和2年元旦 新年のおせち
今日は、子供&孫達が全員集合するので購入したおせちです・・・

新年のおせちは?
三段重
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フイルムを外して
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後は雑煮とオードブル
オードブルも並べるだけ
は数種類のハムと焼き豚、紅白かまぼこ、伊達巻、玉子焼き等

手造りは雑煮と煮しめと数の子と切り干し大根の酢の物?で正月・・・
後は、此れに飽きたら寿司、寿司も既に注文済みで取りに行くだけです
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
通常の記事はメインブログ 気の向くままに-Ⅱ・・・ と
       https://taharas-amami-nara.blog.ss-blog.jp/
     セカンドブログ 気の向くままに・・・3 へ投稿しています
       https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/

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今後もセカンドブログをどうぞ宜しくお願い致します。

        セカンドブログは、   7月6日投稿分~気の向くままに・・・3 へ投稿します         長い間お世話になり有難う御座いました。         7月6日投稿分~下記の「気の向くままに・・・3」投稿します。         気の向くままに・・・3 taharas セカンドブログ         https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/         今後もセカンドブログをどうぞ宜しくお願い致します。
2019-10-12

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7月6日投稿分~気の向くままに・・・3 へ投稿します

7月6日  7月6日投稿分~気の向くままに・・・3 へ投稿します

        長い間お世話になり有難う御座いました。
        7月6日投稿分~下記の「気の向くままに・・・3」投稿します。

        気の向くままに・・・3 taharas セカンドブログ
        https://nara-amami-shiba.blog.so-net.ne.jp/

        今後もどうぞ宜しくお願い致します。
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6月26日の達磨発祥の地~ササユリの町上牧町を歩く-1

7月1日       6月26日の達磨発祥の地~ササユリの町上牧町を歩く-1
                  JRふれあいハイキング 歩程約13㎞
此の日は、王寺町~地元の上牧町を歩くJRふれあいハイキングに参加、参加者203名。
コース  奈良県ウオーキング協会主催のJRふれあいハイキング 参加費500円
王寺駅(9時半集合)~達磨寺~葛下川遊歩道・せせらぎ公園~片岡城跡~伊邪那岐神
社~滝川遊歩道~上牧町2000年会館・公園(昼食休憩)~貴船神社~服部記念病院~
※光專寺~※智照神社~浄安寺~庚申塚~五軒屋~雨乞い地蔵~香芝一号公園~香
芝駅(ゴール)・・・・五軒屋で皆さんと別れて雨乞い地蔵~上牧出合へ出てバスで帰宅。
奈良県ウオーキング協会スタッフの方々に大変お世話になり、有難う御座いました。
今日の私の万歩計は、19670歩で約11.8kmだった。見所のガイドが無いのが残念だ・・・
志都美駅
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王寺駅(9時半集合)・スタート
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達磨寺へ向かう
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達磨寺
達磨寺・・・達磨信仰発祥の地
『日本書紀』によると、推古天皇21年(613年)12月、聖徳太子が道のほとりに伏せって
いた飢人を見つけ、飲み物と食べ物、それに衣服を与えて助けましたが、飢人は亡くな
りました。そのことを大いに悲しんだ聖徳太子は、飢人の墓をつくり、厚く葬りましたが、
数日後に墓を確認してみると、埋葬したはずの飢人の遺体が消えてなくなっていました。
この飢人が、のちの達磨大師の化身と考えられるようになり、達磨寺は生まれました。
このように、聖徳太子と達磨大師の出会いからはじまった達磨寺には、今も本堂の下
に達磨寺3号墳とよばれる古墳時代後期の円墳があります。
これが、聖徳太子が飢人のためにつくったお墓、すなわち達磨大師の墓とされ、鎌倉時
代にその上にお堂が建てられて、本尊として道内に聖徳太子像と達磨大師像が安置さ
れました。
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葛下川遊歩道へ向かう
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葛下川遊歩道・せせらぎ公園
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葛下川を渡り片岡城跡へ向う
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此処から山道へ
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片岡城跡・・・中世の山城「片岡城」
片岡城を築いたのは片岡国春。上牧町内の下牧地区から金富地区へ抜ける峠道の
頂部分に中世の山城と伝えられる片岡城跡があります。片岡城は1550年頃に片岡
国春によって築かれたとされています。下牧に片岡城を築く前は、隣町の王寺町と香
芝市の境界あたりにある小高い山、送迎(ひるめ)山の標高262mのところにありまし
た。この頃の葛城地方は片岡氏に続いて南のほうへ順に岡・万歳・布施・倶志羅・楢
原・吐田の六人が勢力を伸ばし、倶志羅氏以外の五氏はいずれも山城を築いており、
片岡国春の送迎山城も地理的に良く似たところにあります。片岡国春が上牧町内に
新たに築いた片岡城は高さ80mの丘城で、他の山城とは地形的に異なり、要害性に
は劣りますが、片岡谷を見下ろす位置にあり、政治・経済の中枢としての機能は送迎
山城より優れていたと考えられます。片岡城は葛下川を望む上牧第二中学校から葛
下川と滝川との合流点へ続く丘陵地帯に築かれた山城です。
城の西すそを流れる葛下川から見ますと48mの高さの位置にありますが、急な崖で
迫り、当時、すそを覆うように流れていた葛下川がたびたび氾濫を繰り返し、あたり一
面は湿地帯になっていました。また、城の東側にも滝川が流れそれが城の北側で葛
下川と合流、三方を自然の水濠で囲まれた、この近辺では屈指の要害に適した地形
になっていました。片岡氏から松永久秀に変わって・・・松永時代に完成した片岡城、
別々に機能していた曲輪と曲輪を共通に防御できるようになり、このときに片岡城が
完成したと考えられます。この年代は永禄12年から天正5年の8年間と限定できます。
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※細川忠興15歳、その弟の頓五郎(細川興元)14歳
天正5年(1577)の、松永久秀による信長への反乱に従い、松永久秀の与力である海老
名某も、河内国片岡城に立て籠もった。これに対し信長は、長岡(細川)藤孝父子、惟任
(明智)光秀、筒井順慶に「3人で押し寄せ、蹴散らせ」と命じた。
これにより十月朔日未明に、この3名による片岡城攻めが始まった。ここで、長岡藤孝の
嫡男與一郎(細川忠興)15歳、その弟の頓五郎(細川興元)14歳の兄弟が真っ先に駆け
入った。織田勢は新手を入れ代わり立ち代わりに攻め立てさせた為、死傷者多く出て残
り少なくなると、「今や叶わじ」と思ったか、城主の海老名は腹を十文字に掻っ切って伏せ、
残る兵たちも、みな思い思いに自害して、同じ枕に臥した。
細川忠興・興元兄弟は、この戦いでの働きにより信長から直筆の感状をもらっている。
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※片岡城笹ゆり姫物語があります
初夏の風が貴船(きふね)の社の木立を通り抜け竹林をそよがせている。楽士の奏でる音
色に合わせて一人神楽を舞う幼い巫女は、ササユリを両手にかざし得も言われぬ愛らしさ
を辺りに漂わせていた。 「あの子は誰だろう」景頼が、その姫を初めて心に留めたのは、ま
ばゆい光が射し込む御祭礼の日で あった。永禄七年、木辻城の嫡男、景頼は数えて十一
歳。片岡城の一人娘佐葦姫はまだ十歳であった。それから五年、歳月は幼い二人を美しい
姫と逞しい若者へと変えていった。・・・・・・・・・・・・・・・1章~6章迄あり、途中の話を割愛して
「景頼さま」と、駆け寄る。 「今、確かに景頼さまが・・・これは」そこには白いササユリの中に、
一際美しく淡く紅を染めた一輪のササユリが咲いていた。 「これは狭井川の辺に咲くという
幻の紅いササユリでは・・・景頼さまがこれを」 「景頼さま、小百合ですよ。佐葦はもう泣きま
せん。この上の牧で強く生きて行きます。どうぞこの城山から私達を見守っていてください」
瓔珞山の大王杉から一部始終を見守っていた白い梟は、やがて金色に染まり、昏の空いっ
ぱいに羽を広げると、飯盛山の彼方へと消えていった。  
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案内板の横のお地蔵さん
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伊邪那岐神社へ向かう
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伊邪那岐神社
下牧と金富との間に横たわる山の頂にあり、祭神は伊邪那岐命です。
主神の伊邪那岐命を中央にして、相殿とし春日、八幡、住吉、稲荷の神をまつっています。
もと指定村社で、町内の神社では格式が高いとも言われていました。
神殿は流れ造りで明治12年(1879)の造営で昭和43年(1968)に改築されています。
もと東田口の忍山(しのんやま)にありましたが疫病が流行したので静寂の聖地をもとめ
て現在の地に移したといわれています。 旧地は現在住宅化している丘陵の中央で頂上
が平地になっていました。そのころは五社神社と言われていたようです。
また足利の末期に片岡国春がここに片岡城を築いたときに春日、八幡の両神を守護神と
してまつったという言い伝えもあります。『延書式巻九』の神名帳には、「葛下郡伊邪奈岐
神社」と書かれている神社がこれではないかといわれています。
また『大和国町村誌集』には「下牧、神社、伊邪奈岐神社」とあり、明治24年の『神社明
細帳』にも「伊財奈岐神社」とかかれていますが、今は伊邪那岐神社と書いています。
境内に末社はありませんが石灯篭が数多く並んでいて、信仰の篤さを示しています。
その石灯篭の中には寛文年号のものもあります。
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案内板の方へ戻る
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滝川遊歩道へ向かう
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此の続きは、
6月26日の達磨発祥の地~ササユリの町上牧町を歩く-2 として
             下記のメインブログへ詳細を投稿します。、
           https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/ 
続きは、滝川遊歩道~
滝川遊歩道
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上牧町2000年会館へ向かう
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上牧町2000年会館・公園(昼食休憩)
やすらぎ広場
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午後のスタート
貴船神社へ向かう
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虹の湯の前を通る
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虹の湯
神の牧温泉。泉質はナトリウムー塩化物温泉。
適応症
神経痛・筋肉痛・関節痛・五十肩・運動麻痺・間接のこわばり・うちみ・くじき・慢性
消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進・きりきず・やけど・慢
性皮膚病・虚弱児童・慢性婦人病
現在は、スーパー銭湯形式で大野天風呂が魅力の「虹の湯」が営業しています。

貴船神社へ向かう
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貴船神社
智照寺山にあり、祭神は罔象女命(春日)、保食神(稲荷)、素盞鳴命(八坂)、別雷
神(加茂)を祀り、智照神社の奥の宮といわれてる。社殿は神明造りで、もとは上牧
小学校の奉安殿であったのを移建する。この近くに葦田池があったと伝えられ、地
形上から延喜式内の古社「深溝神社」ではないかといわれている。
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服部記念病院へ向かう途中に
貴船神社一の鳥居
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服部記念病院~光專寺
※光專寺(真宗佛光寺派)
佛光寺の草創
越後流罪に遭われた親鸞聖人は、ご赦免の翌年建暦二年(1212)に京都に帰られ、
山科の地に草庵を結ばれました。この草庵が佛光寺草創と伝えられています。
当初、真宗開闢の根本道場を意味して、「興隆正法寺」と号しました。
中興了源(りょうげん)上人
親鸞聖人在世の当時、真宗の教えは関東を中心に広がりをみせていましたが、第七世
了源上人になって、教化活動の拠点を旧仏教の盛んな京都に置き、光明本尊・絵系図・
交名帳を用いて西日本一帯の布教活動に力を入れました。人々は風になびく草木のご
とく上人のお徳を慕って念仏申すようになり、元応二年(1320)には、寺基を山科から
今比叡汁谷(現・京都国立博物館あたり)に移しました。
佛光寺が繁盛するにしたがって、それを妬む輩が現れ、ある夜ご本尊や法宝物を盗み出
して竹やぶに投げ捨てました。
その夜、後醍醐天皇が夢枕に東南の方向から一筋の光が差し込むのをご覧になり、ただ
ちに人を遣わせられたところ、阿弥陀如来のお木像が出てきました。この仏像がわがご本
山の阿弥陀如来像の台座と一致するところとなり、勅願により「阿弥陀佛光寺」略して佛光
寺の寺号を賜ったと伝えられています。
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※智照神社~浄安寺
智照神社
祭神は 罔象女命 配祀 天兒屋根命、素盞嗚命、別雷命、保食命。
延喜式神名帳葛下郡記載の深溝神社に比定されている貴船神社を奥宮として拍手山
頂に置かれた。 山頂には既に蓑目大明神が鎮座していた上に被さったようである。同
じく真言宗智照寺薬師堂もあったが、明治初期の神仏分離による、浄安寺に移された
という。貴船神社の鎮座する山は智照寺山と言う。両社と智照寺などは一体であり、相
当広い境内に散在していたと見られている。
拍手山へ登る参詣道が集落の中央から北に向かっている。石段を登ってさらに廻りつ
つ登る。途中に摂社が二社鎮座しているが、名前が判らない。 社叢はいい。照葉樹と
檜とが多い。本殿付近の石燈籠には五社大明神と刻まれている。
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浄安寺(西国三十三箇所観音傍丘霊場)
浄安寺には由来として二つの説が伝わっています。
1185年の壇ノ浦の戦いで、船中で叔父の平敦盛と自刃して果てたとされる平和盛が、
敵をあざむいて上牧へ逃れ、その守り本尊でああった弁財天をまつり、小庵をかまえ
て移り住んだ。
平家物語に登場する能登守教経の子孫の久保小太郎武盛が、元冶元年(1658)ごろ
祖先である平家一門の霊を弔うために上牧に来て、牧浦と名のり、浄安寺を建立し山
頂付近に弁財天を祠った。
南上牧にある浄安寺は創建年代は不明ですが、宝永5年(1708)に再建されています。
境内には西国三十三箇所の観音石仏が点在しています。
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上牧庚申塚へ向かう
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上牧庚申塚
昔は各集落に立てられていたそうです 
五軒屋を少し離れた一本道沿い、こんもりとした大木に守られるように青面金剛を祀っ
た庚申塚が立っています
かつては、延命長寿を願い夜を徹して語り明かす、庚申講が行われていました。
現在、村内では唯一この塚が残るだけです
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五軒屋・・・此処でスタッフの方にお断りして皆さんと別れて別行動
五軒屋~雨乞い地蔵へ
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五軒屋の雨乞い地蔵
この石地蔵を荒縄で縛り、神田池へ連れて行き「雨が降ったらお地蔵さんに出ていただ
きます、どうか雨の降るようにしてください」と池の水につけると雨が降ったという話が残
されています。集落には、地域独特の風習やご利益がある地蔵が6カ所に祀られていて、
地蔵盆などを通して、人々に親しまれているそうです 
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※奈良の昔話・・・雨乞い地蔵
奈良盆地の西、北葛城郡上牧(かんまき)町の五軒屋。その昔、このあたりは牧野(ば
くや)とよばれていた。上牧町の東、広陵町と河合町などにまたがって広がる馬見(うま
み)丘陵は、古代、朝廷の放牧地で、上牧の地名もそれに由来するとか。五軒屋を抜け
る今の舗装道路も昔は「馬街道」とよばれていた。
そのかつての馬街道に立つと、五軒屋は、周囲を小高い緑の丘陵に囲まれ、その中に
広々とした田圃(たんぼ)がどこまでも続く。実にのどかな昔懐かしい里山の風景である。
馬見丘陵の北東の磯城郡三宅町。地名は古代の「屯倉」(みやけ)に由来し、大和朝廷
が支配していた穀倉地帯であった。つまり五軒屋も含め、このあたり一帯は古くから豊
かな稲田が一面に広がっていたのであろう。水田に必要な溜池も多く点在している。
   そんな稲作地帯でのお話。
昔、ある年の夏、旱(ひでり)の日が何日も続き、五軒屋の村人も、「こんなに長く雨が降
らんと、米がとれん。困ったなあ」と話し合っていた。「そうや、雨乞い地蔵さんにお願いし
たらどうや」。「ああ、それがよい」ということになり、村のお地蔵さんに助けを求めた。
村人は、重い石地蔵さんを荒縄で縛り、皆で担いで溜池の神田池(じんでんいけ)まで運
んだ。「お地蔵さん、どうか雨を三日のうちに降らせてください。降りましたら、お地蔵さん、
池から出ていただきますから」と言い、地蔵さんを池につけた。
すると、なんと有難いことに、三日のうちに恵みの雨が降った。村人は大いに喜んだという。
この雨乞いの行事は、その後も何度か行われたらしい。だが、困ったことに、地蔵さんを引
き上げる時は、せっかく溜めた大切な池の水を放流しなければならない。そのためかどう
か、いつからか行われなくなった。
ただ、大正十三年八月の大旱魃(だいかんばつ)の時には行われた。その時も「霊験あら
たか。おかげで、雨を降らせてもらった」と、この時のことは今も古老によって語り継がれ
ている。その雨乞い地蔵さんは、五軒屋の村人の手で今も大切に祀(まつ)られている。
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6月22日の奈良大和四寺巡礼 岡寺(飛鳥駅~)-1

6月27日      6月22日の奈良大和四寺巡礼 岡寺(飛鳥駅~)-1
                  近鉄ハイキング 9㎞
此の日は、真夏日で最高気温31度越の予報に知人のK場さん・O村さん・I 田さん・
Y田さんと5名で参加、本当に坂道のアップダウンもきつく大分ショートカットして臨ん
だがそれでも此の日の私の万歩計は、19549歩で約11.7kmと暑い中を歩いた・・・
コース   近鉄ハイキング 飛鳥駅受付 9時半~10時  Kipsポイント受領
飛鳥駅(受付9:30~10:00)~飛鳥歴史公園~高松塚古墳~橘寺~石舞台古墳~
岡寺~川原寺跡~飛鳥駅(ゴール)  
コースを変えて、飛鳥歴史公園~天武・持統天皇陵~亀石~橘寺~石舞台古墳の
見える丘(昼食休憩)~岡寺~犬養万葉記念館(休憩・コーヒータイム)~川原寺跡
(弘福寺)~岡寺駅へ(ゴール)
志都美駅
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飛鳥駅(受付・スタート)~
国営飛鳥歴史公園
総面積約60haある飛鳥の豊かな自然と文化的遺産の保護、活用を図る一環として、
国土交通省によって整備されたのが国営飛鳥歴史公園です。飛鳥歴史公園は以下
の5地区からなり、それぞれの特色を生かした公園づくりが行われています。一人で
も多くの方に飛鳥を訪れていただき、その豊かな自然と深い歴史を感じ取って欲しい
と願っております。
[飛鳥歴史公園の5地区] (5地区とも入園無料、24時間開園)
1.研修宿泊所「祝戸荘」がある祝戸地区(7.4ha)
2.蘇我馬子の墓と伝えられる石舞台古墳がある石舞台地区(4.5ha)
3.展望台から飛鳥の風景を一望できる甘樫丘地区(25.1ha)
4.高松塚古墳や、飛鳥歴史公園館、高松塚壁画館が設置された高松塚周辺地区
(9.1ha)
5.キトラ古墳壁画が発見されたキトラ古墳周辺地区(13.8ha)
飛鳥歴史公園館
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天武・持統天皇陵
天武天皇とその皇后で皇位を継承した持統天皇の合葬墳墓。 直径50m、高さ6.3
6m。 円墳とも八角墳ともとれるこの古墳の石室は八角形で、金銅製の蔵骨器が
のっている。天武天皇は古代律令国家体制の基礎を築き、持統天皇がその志を
継いだ。また、持統天皇は天皇として初めて火葬された人物としても知られる。鎌
倉時代に盗堀された時の記録が残されていたことから、被葬者が確実となった。
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天皇陵を振り返ると
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亀石
微笑んだような表情が愛らしい明日香を代表する謎の石造物のひとつ。巨大な花
崗岩に亀のような動物が彫られています。亀石は当麻の蛇の仕業で湖が干上がっ
て死んでしまった亀を弔ったもので、元は北向きだったものが現在の南西へと向き
を変えており、亀が当麻の方向である西を向いた時、大和国一帯が泥の海に沈む
という怖い伝説も残されています。
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橘寺
厩戸皇子(聖徳太子)生誕の地とされ、太子建立の七ヶ寺の一つです。建物は何度
も焼失し、現在の伽藍は江戸時代以降のものですが、美しいタチバナ形の塔心礎
が当時を物語っています。謎の石造物のひとつ「二面石」があるのもこの橘寺です。
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石舞台古墳の見える丘(昼食休憩)
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※石舞台古墳
6世紀の築造。巨石30個を積み上げて造られた石室古墳。その規模は日本最大級を
誇る。盛土が失われて、露出した天井石の上面が平らなことにちなんで、石舞台と呼
ばれる。墳丘は1辺50mの方墳で、周囲には幅8.4mの濠がめぐる。石室の長さは19.
1m、玄室は高さ約4.7m、幅約3.5m、奥行き約7.6m。石の総重量は推定2,300t、古
墳最大の巨岩である天井石は、南側が約77t、北側約64tもあるという。この巨大古墳
が誰の墓なのかは不明であるが、付近に蘇我馬子の庭園があったことから、馬子の
墓ではないかとの説が有力である。また、石室が露出しているのは、馬子の横暴な態
度に反発した後世の人が封土を取り除いたためともいわれている。周囲は芝生広場
になっており、春は桃やサクラ、秋は彼岸花が咲く。

岡寺へ向かう
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岡寺
岡寺は奈良県明日香村の東、岡山の中腹に位置しています。
『岡寺』という名は地名に因る名で正式には、 山号は東光山(とうこうさん) 院号は真
珠院(しんじゅいん) 法名は龍蓋寺(りゅうがいじ)となり『東光山 真珠院 龍蓋寺』と
なります。しかし古くからこの土地の名から『岡にある寺』=『岡寺』として親しみもこめ
て呼ばれており、現在でも正式名の『龍蓋寺』よりも『岡寺』と呼ばれています。
真言宗豊山派に属しており西国三十三ヶ所観音霊場の第七番札所です。また日本最
初やくよけ霊場としても知られています。
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本堂前の境内には
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此の続きは、
6月22日の奈良大和四寺巡礼岡寺(飛鳥駅~岡寺駅)-2 として
             下記のメインブログへ詳細を投稿します。
            https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、本堂前の休憩所、メダカと花の水鉢
メダカも涼しそう
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大師堂へ
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三重搭へ
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其処には絶景が
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山門へ下る
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山門を出ると治田神社へ
治田神社・・・当社案内板の「由来沿革」では次のように記されている。
「当社の創建は明らかではないが、延喜式巻十の延喜神名帳の式内社とされているの
で平安時代(十世紀)には社があったことがわかる。
さらに当境内地からは疑灰岩の基壇や礎石、瓦が出土することから、八世紀初頭の岡
寺(龍蓋寺)創建伽藍があったと推測されており、寺の鎮守神として、境内地に祀られて
いた可能性がある。この鎮守神を祀ったのが、後に治田神社になったとも考えられる。
元々は治田氏の祖神が奉祀されていた。文安年間(1444-1448)に一時大国主命の和
魂である大物主命を奉祀されたことが古書にある。さらに社名を八幡宮と称して応神天
皇を奉祀し今日に至っている。」 
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明治になつて祭神はそのままで、社名のみ治田神社に改められた。
境内は岡寺の旧地と推定され、昭和57年の発掘調査では基壇建物の北端を画したと思
われる疑灰岩の切石が4.5mほど並び、その東端に階段があったらしいことがわかって
いる。岡寺の代表的瓦である五葉複弁蓮華文軒丸瓦や、葡萄唐草文軒平瓦片等も出土
している。
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鳥居はずーっと下の方に離れて
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犬養万葉記念館(休憩・コーヒータイム)
万葉記念館の道路側に明治時代の郵便ポスト?
明治4年に使用されていたのと同形の書状集箱(郵便ポストとして使用している)
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南都明日香ふれあいセンター犬養万葉記念館
日本最古の歌集『万葉集』の研究者で、文化功労者、明日香村名誉村民だった犬養孝
の業績を顕彰する記念館。館内では、万葉集ゆかりの地を解説したDVDを上映すると
ともに、犬養孝と明日香村との関わり、自身が提唱した「万葉風土学」にもとづいて、万
葉故地を歌とともに紹介する企画展などを実施しています。
主な資料として、万葉集に関する図書を所蔵するほか、犬養の筆による万葉歌墨書や、
全国の万葉故地を紹介した『万葉の旅』の直筆原稿などを展示。万葉歌碑拓本や万葉
風土写真なども紹介しています。

川原寺跡・弘福寺
飛鳥寺、薬師寺、大官大寺とともに飛鳥四大寺に数えられ、斉明天皇の冥福を祈り息子
の天智天皇が建立したとも言われていますが、未だ創建については謎が多く残されてい
るお寺です。創建時の姿は飛鳥資料館の模型で見ることができます。
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パワーストン?
当時の瑪瑙(現在の大理石)の礎石28個が保存され、弘福寺の境内でも数個を見る事が
出来る。
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岡寺駅へ向かう
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岡寺駅→橿原神宮前駅→大和八木駅→五位堂駅

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6月18日の歩こう会 大仏鉄道遺構巡り-1

6月25日        6月18日の歩こう会 大仏鉄道遺構巡り-1
                 オープン参加企画  歩程約10km
5月の歩こう会が雨で中止となった為、久し振りに会員との出会いは4月23日の福知
山線廃線跡散策いらいの約2ケ月ぶり、此の日の参加者数は65名と少な目だった・・
コース  加茂駅東公園動輪モニュメント前集合  参加者少ないのは長距離の?
加茂駅(10時15分)東公園動輪モニュメント~C57SL~観音寺橋台~梶ヶ谷隧道~
赤橋~城見台公園(昼食休憩)~井関川橋梁跡~松谷川隧道~鹿川隧道~黒髪山
トンネル跡~大仏鉄道記念公園(ゴール)~佐保川橋桁跡~近鉄奈良駅(改札スタ
ンプ貰う)~JR奈良駅 
※大仏鉄道遺構
大仏鉄道とは、現在の関西本線の前身で明治の5大私鉄の一つとうたわれた「関西
鉄道(かんせいてつどう)(株)」が名古屋方面から大阪への進出を目指し、「加茂駅」
から現在の奈良駅北1.1kmの所に仮設的に作った「大仏駅」間を結ぶ8.8kmと、翌
年に開通した奈良駅までの通称です。
「大仏駅」の開業は明治31年(1898)4月19日、「加茂駅~大仏駅」が開通し“赤いイギ
リス製の蒸気機関車が伊勢や名古屋方面からの大仏参拝客を乗せてにぎわった”と
当時の新聞が報道してます。客車は「小さな部屋が十個ほどつながっているような感
じで、一室に五人くらい。座席は板で隣の部屋には降りなければ移れない」加茂の人
たちは汽車を「マッチ箱」と呼んでいたそうです。
この脚光を浴びた花形路線も急坂の黒髪山トンネル(勾配が25‰(パーミナル))越え
の難関では、イギリス製(ナスミス・ウィルソン社)の新鋭機関車においても走行は困
難を極め、「汽車の速度は遅く、機関車が二両ついているときはまだいいが、一両だ
と途中でとまってしまう。黒髪山の丘陵が登れなかったときは、客が降りて押したり、
法蓮村(奈良市)の人たちが押しに行った」と伝えられています。また石炭の消費量も
多かったそうです。
新たに木津駅経由の平坦路線が開通したため徐々に乗客が減少、1907年鉄道の国
有化法により僅か9年間で廃止となりました。
現在、線路跡は残っていませんが、橋脚や隧道などが元路線沿いに100年前そのま
まの姿で残っており、周囲の里山風景に溶け込み、鉄道ファンのみならずハイカーに
も人気のハイキングコースとなっています。
加茂駅東公園動輪モニュメント前集合
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C57SL展示場へ向かう
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C57SL
「貴婦人」の名で親しまれた昭和12年製の機関車。関西本線を走っていました。昭和
32年には、当時の皇太子殿下のお召し列車をけん引しました。
国鉄C57形蒸気機関車は、日本国有鉄道(国鉄)の旅客用テンダー式蒸気機関車で
ある。マスコミなどでは「貴婦人(きふじん)」の愛称で紹介されることも多い。鉄道ファ
ン等からは「シゴナナ」と呼ばれている。
1937年(昭和12年)、C55形の63号機として製造が始められた機関車であるが、改良
箇所が多岐に及んだため、検討の末に新形式とすることが決定され、C57形蒸気機
関車として誕生をしている。
1947年(昭和22年)までの間に201両が量産された。本形式への信頼も高く、C51形に
始まるライトパシフィック機の決定版となった。
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観音寺橋台
現在も利用されている関西本線の橋台と並んで位置しています。どちらの橋台もほぼ
同時期に造られたものですが、百年以上が経過した今も現役の関西本線と、わずか
6年という短い期間で廃止された大仏鉄道とのコントラストが、大仏鉄道の郷愁を誘う
スポットとなっています。
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鹿背山橋台
石積みの力強さ、形の素晴らしさが一目でわかります。レールを敷けば、すぐに列車
が走れるようです。
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鹿背山橋台~梶ヶ谷隧道
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梶ヶ谷隧道
笠石や帯石と言った装飾がなく、他の遺構に比べてシンプルなデザインの隧道です。
坑門正面はイギリス積み、アーチを形成する部分は長手積みのレンガ造り、下部は花
崗岩の切り石積みです。保存状態が良いため、深紅の機関車がこの隧道の上を走っ
ていた往時と同じように、今も隧道内を行き来することができます。
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赤橋へ向かう
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赤橋
赤橋は、イギリス積みのレンガ造りの橋台で、最上部に笠石、上部に帯石を花崗岩の
切り石で装飾しています。隅石も花崗岩で作られており、切り石の長辺と短辺を交互に
組む算木積みにより橋の強度を堅固にしています。現在、橋台は生活道路を支えてお
り、今も現役で活躍しています。
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城山台公園へ向かう
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城山台公園(昼食休憩)
此の続きは、
6月18日の歩こう会 大仏鉄道遺構巡り-2 として
          下記のメインブログへ詳細を投稿します。
   https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
此の続きは、昼食後の午後から
井関川橋梁跡
現在は道となっていますが、かつて、この場所には大仏鉄道の線路がありました。大
仏線には、線路の高低差を和らげるため、土盛りによる築堤が設けられ、井関川が
流れるこの付近には、川を渡るための橋梁があったものと考えられます。今は、南北
に走る道が当時の軌道の面影を残します。

松谷川隧道へ向かう
大仏鉄道、当時の鉄道会社「関西(かんせい)鉄道」のモニュメント
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松谷川隧道へ降りる
松谷川隧道
迫石は花崗岩で造られ、石の長辺と短辺を交互に組み合わせた算木積み、レンガの
積み方はイギリス積みです。黒っぽく見えるレンガは、赤レンガよりも高温で焼き上げ
る「焼き過ぎレンガ」で、赤レンガと「焼き過ぎレンガ」とが交互に配置されているのが、
この隧道の特徴です。
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タツタタワーへ向かう
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タツタタワー 木津川市(木津南配水池)
水道施設のネーミングライツ(命名権の売却)としては、全国初の試みとなる『タツタタ
ワー 木津川市(木津南配水池)』。平成27年1月1日から3年間、タツタ電線(株)をスポ
ンサー企業とした新名称《愛称》をスタートしました。また、1月15日には、新銘板の除
幕式及びパートナーシップ協定に調印を行いました。(平成30年1月に3年間延長され
ました)
新銘板は、市の活性化を目指した「地域応援銘板」という役割も併せ持つもの(京都造
形芸術大学の学生によるデザイン)で、敷地周辺にその昔「大仏鉄道」が走っていたと
いう歴史を表現したものです。
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鹿川隧道へ向かう
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鹿川隧道
奈良市内で唯一、当時の姿を今に伝える遺構。農業用水路のために造られた細いトン
ネルです。現在も水路として利用されています。トンネルの上が大仏鉄道の軌道跡で、
現在は市道44号線となっています。※鹿川隧道への見学用の道は設置されておりま
せん。
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黒髪山トンネル跡へ向かう
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黒髪山トンネル跡
黒髪山トンネルは、長さ約86m、幅約5m、高さ約6mで、レンガ製の関西鉄道の社章
が、加茂側の入口には1個、奈良側の入口には2個掲げられていました。この周辺が線
路で最も標高の高い急坂の難所であり、木津駅経由の平坦なルートが開通すると廃線
になりました。
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大仏鉄道記念公園
大仏駅の跡地に、奈良市と地元自治会の協力で、平成4年に造られた公園です。
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※佐保川橋桁跡
佐保川に架かる下長慶橋付近の川底に残る、レンガ製橋脚の基底部です。
今は、川に土砂がたまって見る事は出来ません。
佐保川橋桁跡~近鉄奈良駅(スタンプ貰う)~
JR奈良駅
旧JR奈良駅舎
現在、奈良市総合観光案内所として開所しているJR奈良駅旧駅舎は、国鉄奈良駅の
2代目駅舎として昭和9年に竣工し、JR奈良駅舎として平成15年まで利用されていま
した。駅舎は奈良の諸寺院の特色ある屋根を参考とした寺院風の鉄骨鉄筋コンクリー
ト造の和洋折衷建築物で、近代化産業遺産にも登録されています。
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6月16日の万葉ゆかりの地 磐余の宮跡を訪ねる-1

6月21日        6月16日の万葉ゆかりの地 磐余の宮跡を訪ねる-1
                   JRふれあいハイキング 5.7㎞
此の日は知人のK場さんと参加、参加者40名に桜井市観光協会のガイドさん2名で2班に
分かれて史跡の案内をして貰った。此の日の私の万歩計は、15541歩で約9.3kmだった。
此の日は雨上がりの爽やかなハイキング日和、ガイドさんお二人有難う御座いました・・・
昼食休憩は無く、お腹を空かして13時頃に桜井駅に帰着、駅前のスーパーマーケットの
フードコートに立ち寄り、軽めにカレーライスを食べてから帰途に着いた。
コース   桜井駅南口広場  桜井市観光協会主催 参加費無料  9時半集合
JR桜井駅南口広場(集合)~若櫻神社~土舞台~安倍文殊院~上之宮遺跡~等彌神社
~魚市場跡~保田興重朗生家~桜井駅  12時半頃解散 ※近鉄駅改札スタンプ貰った
志都美駅
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桜井駅南口広場(集合)~スタート
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若櫻神社へ向う
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若櫻神社(わかざくらじんじゃ)
若桜神社は、『延喜式神名帳』にある「若櫻神社(大和国・城上郡)」に比定される式内社
(小社)の論社。近代社格では村社。
谷集落西方の丘上に鎮座しする。第17代履中天皇が皇妃と磐余市磯池で遊んだ時、時
ならぬ桜の花が杯に散り、物部長真膽連に花を探させた。
物部長真膽連は、ひとり掖上の室山で、桜を見つけて献上した。この桜を清水湧き出る
泉のそばに植え、宮の名前も磐余稚櫻宮にしたという。
現在まで続く桜井という地名は、この故事からきている。この井戸といわれるものは、当
社のすぐ近くにあったが、近年、当社境内にも復元された。
磐余稚櫻宮が定まった後、稚櫻部造と稚櫻部臣が置かれた。御祭神は伊波我加利命。
伊波我牟都加利命の後裔で、若櫻部朝臣、阿部朝臣などの祖である。
式内社「若櫻神社」の論社は他に市内池之内の稚桜神社がある。ただし、両社地とも近
世には十市郡に属していた。
式内社「若櫻神社」は、磐余稚櫻宮に関連したものととらえられており、当社の鎮座地は
前方後円墳の後円部が残った地、ともされる。
本殿内には、大正(1912年-1926年)まで当社東の小祠に祀られていた初代神武天皇
を祀る多神社が合祀されている。
この多神社はもとはワラビ塚に鎮座していた。田原本町多の多坐彌志理都比古神社は、
寺川の洪水で、そのワラビ塚から流されていったという伝説があるという。
本殿の隣にある摂社が高屋安倍神社で、式内社「高屋安倍神社」に比定されている。
もとは、南方400メートルの松本山東方の字狐山に鎮座していた。
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土舞台へ向かう
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安倍山城跡
小規模な曲輪跡が残り現在は「桜井公園」となっています。
暦応4年(1341)、北朝方の細川顕氏が陣を構えた所。南朝方の戒重西阿の戒重城
攻めを行ったそうです。永禄8年(1565)には、松永久秀もここで布陣し、鳥見山城
(外山)の筒井順慶と戦いました。すぐ南側に、芸能発祥の地「土舞台」が有ります。
「土舞台」のまわりには小規模な円墳がいくつか有ります(桜井公園古墳群)
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土舞台
「日本書紀」推古20年(西暦612年)に百済の人、味摩之(みまし)が呉で「伎楽舞(くれの
うたまい)」を学び、これを聖徳太子がご覧になって、この地で少年を集めて習わしめた
という。土舞台は、初の国立演劇研究所がつくられた所であると伝えられている。
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安倍文殊院へ向かう
二上山が見えるビューポイント
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安倍文殊院
安倍文殊院は西暦645年に創建された寺院です。京都・天橋立の切戸文殊、山形の
亀岡文殊と共に日本三文殊のひとつです。入試合格祈願や学業成就、厄除け魔除け
祈願を願う人々のお参りが多く見られます。御本尊は「三人寄れば文殊の智恵」の格
言で有名な文殊菩薩で、日本最大(7m)、鎌倉時代・1203年に仏師・快慶によって造
立されました。獅子に乗り4人の脇侍を伴う、渡海文殊群像【5像全てが国宝】です。
また、開運弁才天、安倍仲麻呂公、安倍晴明公の御尊像、方位災難除けの九曜星が
安置される境内の金閣浮御堂は、霊宝館として内陣参拝でき、季節によって様々な寺
宝を見ることもできます。
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晴明堂
陰陽師・安倍晴明が陰陽道の修行をした場所ともいわれ、平成16年(2004年)には
安倍晴明堂が建立されている。
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※安倍晴明
晴明の系譜は明らかでないが、大膳大夫・安倍益材(あべのますき)あるいは淡路守・
安倍春材の子とされる。921年(延喜21年)に摂津国阿倍野(現・大阪市阿倍野区)に
生まれたとされる。また、生地については、奈良県桜井市安倍とする伝承もある。幼少
の頃については確かな記録がないが、陰陽師賀茂忠行・保憲父子に陰陽道を学び、
天文道を伝授されたという。加茂氏の門下生であり、のちに両家は二大陰陽家となる。
948年(天暦2年)大舎人。960年(天徳4年)40歳で天文得業生(陰陽寮に所属し天文
博士から天文道を学ぶ学生の職)であった晴明は村上天皇に占いを命ぜられており、
出世は遅れていたが占いの才能は既に貴族社会で認められていたことが伺える。50
歳頃、天文博士に任ぜられる。貞元2年(977年)、保憲が没した頃から陰陽道内で頭
角を現す。陰陽寮を束ねる陰陽頭に就任することは無かったが、位階はその頭よりも
上位にあった。979年(天元2年)、59歳の晴明は当時の皇太子師貞親王(後の花山天
皇)の命で那智山の天狗を封ずる儀式を行う。
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ウオーナー博士供養塔
安倍文殊院の境内に、アメリカ美術史家・ラングドン・ウォーナー博士の供養塔が建っ
ています。奈良や京都の文化財を戦時中の空爆から救った人物とされるラングドン・
ウォーナー博士。その功績を称えるために安倍文殊院の他にも、法隆寺西円堂の西
側や鎌倉駅西口に、それぞれ供養塔や顕彰碑が建てられています。
奈良や京都や鎌倉といった、日本の古都の文化財が守られたのはウォーナー博士の
お蔭である。そんな感謝の気持ちから、このウォーナー塔は建てられました。
しかし、当のご本人のウォーナー博士はそのことを否定しておられました。単に謙虚な
気持ちから否定なさったのでしょうか。あるいは本当に、博士が古都への攻撃を回避
するよう、米軍に働きかけたという伝説は偽りだったのでしょうか。後に作られたストー
リーだったのだろうか。一連のウォーナー伝説は、日本人に親米感情を持たせるため
に作り上げられた「GHQ占領政策」の一環だったのでしょうか。
そんな事はさておき、日米間の本当の歴史を知る上でも貴重な記念碑であると言える
ウォーナー塔です。
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金閣浮御堂(仲麻呂堂)
昭和60年(1985年)に建立された文殊池の中に建つ金色の六角堂で、安倍仲麻呂像、
安倍晴明像などを祀る。
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此の続きは、
6月16日の万葉ゆかりの地 磐余の宮跡を訪ねる-2 として
             下記のメインブログへ詳細を投稿します。
          https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、文殊院西古墳~
文殊院西古墳
本堂近くにある7世紀中頃の古墳で、豪族安倍(阿倍)氏一族の墓であることはほぼ確
実視され、安倍倉梯麻呂の墓であるともいわれる。古墳の原状は不明だが、径25mほ
どの円墳であったと見られる。横穴式石室が露出しており、切石造石室の代表的なも
のとされている。
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安倍文殊院 本堂
寛文5年(1665年)に建立された建物で、快慶作の木造騎獅文殊菩薩及び脇侍像が
安置されている。
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上之宮遺跡へ向かう
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上之宮遺跡
一辺が50メートル以上の柵や溝に囲まれた方形の区画の中に建物が規則的に配置さ
れており、西側から園池遺構が出土した。木簡、琴柱、ベッコウ等の貴重品や、地名か
ら聖徳太子が20年間居所した宮跡と推定される。
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等彌神社へ向う
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等彌神社(とみじんじゃ)
等彌神社は、奈良県桜井市桜井にある神社。『延喜式神名帳』に掲載されている大和
国城上郡等彌神社に比定されている。明治時代までは能登宮と呼ばれていた。
本社にあたる上社「上津尾社」の祭神は大日霊貴命とされるが、饒速日命とする説も存
在する。下社「下津尾社」には八幡大神・春日大神が祀られ、その他稲荷、猿田彦、金
比羅、愛宕、恵比寿等の境内社と桜井市護国神社が鎮座する。
創建年月は不詳であるが、社伝によると当社は古より鳥見山に鎮座していたとされる。
鳥見山は初代天皇とされる神武天皇が皇祖神を祀った場所(霊畤)と伝えられる。天永
3年(1112年)、山崩れにより社殿を現在地に移した。
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魚市場跡
市場跡に碑が建立されている。有名な「日本橋の魚河岸」開設に当たり、桜井の人、
大和屋助五郎が大いに貢献したということです。(東京史稿から)
旧桜井町の本町通りと立小路町とのT字路あたりは魚市場のあったところで、かつては
藤堂藩の宿場として栄え、市場としては古いものの一つである。吉野から多武峰をへて
かついできた熊野鯖は名物のひとつであった。
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※森孫右衛門と大和屋助五郎
森孫右衛門は江戸前期,江戸日本橋魚市場の祖形をつくったとされる,摂州西成郡佃村
(大阪市)の漁民。伝承多く考証未詳につき,いまは父子2人説に従う。父の孫右衛門(初
め見一姓)は,天正年中(1573~92)に徳川家康の知遇をえて森姓を与えられ,同18年一
族と共に江戸に入り,白魚漁に着手。天正18年江戸日本橋魚河岸創設説は,この事績を
指したもの。その後慶長8(1603)年までに次男九左衛門ら7名を江戸に移住させ,白魚
漁のかたわら道三堀に魚問屋を開業させる。九左衛門らは,慶長12年までに本小田原
町に進出し,ここに日本橋魚河岸が成る。森一族は,こののち旧来手法を墨守して問屋
業は先細りとなるが,元和2(1616)年ごろ本小田原町に魚問屋を興した大和桜井出身の
大和屋助五郎は,森一族と対抗しながら,駿州各浦に鮮魚の仕込金をもって敷浦(浜方
〈浦方〉への敷金〈前貸金〉にもとづく問屋の集荷専有権)を設け,産地独占的な魚河岸
の流通機構を作出した。
<参考文献>『東京都中央卸売市場史』上,中村勝『増補・改定 市場の語る日本の近代』

保田興重朗生家
保田 與重郎(保田 与重郎、やすだ よじゅうろう、1910年(明治43年)4月15日 - 1981年
(昭和56年)10月4日)は、日本の文芸評論家で多数の著作を刊行した。湯原冬美の筆
名も用いた。
奈良県十市郡桜井町(現桜井市)生まれ。旧制奈良県立畝傍中学校、大阪市阿倍野区
にあった旧制大阪高校から東京帝国大学美学科美術史学科卒業。大阪高校時代には
マルクス主義にも触れ、蔵原惟人や中条百合子の作品を評価していた。また、高校時代
の同級に竹内好がおり、後に保田が中国を訪れたときに、竹内が案内をしたことがある。
在学中より、『コギト』、亀井勝一郎らとともに『日本浪曼派』創刊同人として活躍。高校時
代のマルクス主義から後に、ヘルダーリンやシュレーゲルを軸としたドイツロマン派に傾
倒して、近代文明批判と日本古典主義を展開。1936年(昭和11年)に、処女作である
「日本の橋」で第一回池谷信三郎賞を受賞、批評家としての地位を確立する。以後、日
本浪曼派の中心人物として、太平洋戦争(大東亜戦争)終了まで、時代を代表する評論
家となる。
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桜井駅へ向かう 
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その他
・6月15日は、6月12日~16日開催の「楽画喜展」の受付当番
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6月13日の大仙公園から旧堺灯台を巡る・他-1

6月19日       6月13日の大仙公園から旧堺灯台を巡る・他-1
                 JRふれあいハイキング 10㎞
此の日は久し振りに1人で近畿ウオーキング笑会主催のJRふれあいハイキングパー
ティーに参加、ただただ歩くだけのパーティーの様で皆さんの歩くスピードも他のパー
ティーに比べて早い様な気がする、スタータの時に前の方で歩いていても次の休憩場
所近くではアンカーの赤旗と並んで歩く様に・・・・
コース  JR百舌鳥駅~歩10分 大仙公園 スミレ風車前集合 9時半 
JR百舌鳥駅~徒歩10分~大仙公園(スミレ風車前 集合)~七観山古墳~出島南~
大浜公園・蘇鉄山~旧堺灯台~旧堺港~大浜公園~利昌の杜~宿院~ザビエル公
園(昼食休憩)~妙国寺~方違神社~JR堺市駅(解散) 
近畿ウオーキング笑会主催 参加費500円   此の日の参加者数は134名との事・・・
此の日の私は、此のハイキングの帰りに阿倍野ベルタ3F「あべの市民学習センター」
で開催中の「楽画喜展」鑑賞に立ち寄り、24946歩で約14.9km歩いた事に・・・
堺市、堺とは?
堺市は、大阪府の中南部に位置し、2006年4月に日本で15番目、近畿地方では4番目
に政令指定都市に移行した、大阪府で人口・面積が第二の都市です。
堺市周辺に人が定住し始めたのは旧石器時代のころ。市内の遺跡からは、約1万年前
の打製石器や、縄文時代の土器・石器、弥生時代の銅鐸・土器などが発掘されていま
す。4~5世紀には大和朝廷が成立しましたが、堺には仁徳天皇陵古墳をはじめ、100
数基から成る百舌鳥古墳群が造られました。・・・2019年、世界文化遺産に登録された
平安時代、この地が摂津・河内・和泉の3国の境に位置しているところから「さかい」と
呼ばれるようになりました。
鎌倉時代には漁港として発達し、その後西日本の海運の拠点として発展。そして戦国
時代、堺は貿易港として黄金の時代を迎えます。堺は、対明貿易や南蛮貿易など海外
との交流拠点として発展しました。当時の堺は世界でも珍しい環濠都市を形成し、自治
都市として繁栄しました。
大仙公園(スミレ風車前 集合)
世界文化遺産に登録された百舌鳥古墳群の一角、世界最大の墳墓仁徳天皇陵古墳と
履中天皇陵古墳周辺に位置する公園。中央図書館、博物館、茶室、都市緑化センター
の建設や都市緑化植物園、大芝生広場、日本庭園、平成の森などの整備を経て、堺市
のシンボルパークにふさわしい風格を備えた総合公園になっています。
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大仙公園(スミレ風車前 スタート)
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七観山古墳へ向かう
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七観山古墳(しちかんやまこふん)
七観山古墳とは、大阪府堺市堺区旭ヶ丘中町4丁にかつて存在した古墳(円墳)で七
観古墳(しちかんこふん)ともいう。百舌鳥古墳群に属しており、大正時代と太平洋戦
争後に発掘され、大量の鉄製武器と甲冑が出土している。
ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵古墳)の後円部周濠の北側に位置し、同古墳の陪塚と
される七観音古墳のすぐ北西に所在していた。墳丘は2段に築かれ、径56m、高さ8m、
周濠も存在した。葺石と埴輪があり、墳頂部には鰭付円筒埴輪の方形埴輪列が巡って
いたようである。また、家、短甲、蓋(きぬがさ) 靫(ゆき)などの形象埴輪も出土してい
る。1913年(大正2年)、1947年(昭和22年)と発掘または遺物採取が行なわれて遺物
が出土しているが、1952年(昭和27年)には土取り工事によって消滅することになり、
それに先だって緊急の発掘調査が行なわれている。主体部は遺物をおさめた粘土槨
のような施設が3ヶ所検出されている。
この古墳の性格としては、大量の副葬品の埋納にもかかわらず、遺体が埋葬されな
かった可能性があり、陪塚と考えられる古墳のあり方を示す貴重な一例となっている。
なお、七観山古墳の跡地は現在、大仙公園の敷地にとり込まれ、消滅した古墳と同
規模の築山が造られている。
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向うに見えるのは、ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵古墳)
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大仙公園
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大仙公園を出て
~出島南~大浜公園へ50分歩いて
大浜公園
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大浜公園・蘇鉄山
蘇鉄山
蘇鉄山は大阪湾に面し、幕末には黒船来航に備えてお台場(砲台)が築かれた場所を、
明治12年(1879年)に大浜公園として解放され展望のよい築山として整備されたところ
です。蘇鉄山の約300m東南にあった御蔭山の頂に、近代地図作成のための基準点
となる一等三角点が明治18年(1885年)に設定されました。
その後御蔭山が削られ、昭和14年(1939年)に蘇鉄山の標高6.97mの所に移設された
ものです。現在一等三角点の設置されている日本一低い山となっています。
御蔭山は天保年間に港と水路浚渫により造られた山で、同時期に川浚えの土砂を積
み上げてできた大阪の天保山とは兄弟関係にあたります。
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※日和山と天保山&蘇鉄山
日和山 - 3m - 宮城県仙台市宮城野区。1990年代に標高6mで日本一低い山とされた
が、1996年7月に下記の大阪市の天保山が国土地理院の地形図により山として掲載さ
れたため日本一低い山ではなくなった。2011年3月11日の東日本大震災の津波で削ら
れ消滅したが、その後に国土地理院が行った測量で、天保山より低い標高3mの山であ
ることが確認され、地形図に掲載されたため、再び日本一低い山となった。
天保山 - 4.53m - 大阪府大阪市港区。1996年7月に国土地理院の地形図により山とし
て掲載され、日本一低い山となったが、上記のように2014年4月に日和山が天保山より
低い標高3mの山であることが確認されたため日本一ではなくなった。
ただし二等三角点のある山としては日本一低い。
蘇鉄山 - 6.97m - 大阪府堺市堺区。一等三角点(登録名は大浜公園)のある山では、
日本一低い。

大浜公園
大浜公園は明治12年(1879年)に開園し、堺市営で最も古い公園です。(府営浜寺公
園は明治6年(1873年)に開園)。明治36年(1903年)には大阪で開かれた第5回内国
勧業博覧会の会場となり、世界に誇る東洋一の水族館と言われた堺水族館が設置
されました。その他にも公会堂、潮湯、海水浴場、料理旅館や土産物屋などもあり、
当時は、関西有数のレジャー地として賑わいました。 しかし、当時の白砂青松の美
しい海岸線も臨海工場地帯の埋め立て造成に伴い、その面影をなくしました。現在
は、野球場、屋外プール、体育館、テニスコート、相撲場、猿飼育舎、蘇鉄山などが
あり、スポーツ・レクリエーションの場として利用されています。
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旧堺灯台&旧堺港へ向かう
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アメリカデイゴが咲いている
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旧堺灯台&旧堺港
室町時代から安土桃山時代にかけて、天然の良港であった堺港は海外貿易港とし
ても発展しました。後に大和川の付け替えにより衰退しましたが、江戸の商人と堺の
人々により築港・修理されたのが現在の堺旧港の原型です。
その南波止場に、明治10年(1877年)堺の人々の寄付などにより高さ11.3mの六角
錘形の木造洋式灯台が築造されました。灯台はおよそ1世紀にわたって堺港に出入
りする船の航海の安全を守ってきましたが、周辺の埋め立てが進んだ昭和43年(19
68年)にその役割を終えました。今なお堺のシンボルの一つとして保存され、現地に
現存する日本最古の木造洋式灯台の一つとして国の指定史跡になっています。近年
老朽化が著しかったのを平成13~18年度に保存修理工事が行われ往時の姿が甦り
ました。周辺は龍女神像とともに新たな親水ゾーンとして親しまれています。
旧堺灯台
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旧堺港
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龍女神像
明治36年内国勧業博覧会で大浜水族館前に設置。平和と繁栄のシンボル「乙姫さん」
の愛称で親しまれたが、廃館で撤去された後平成12年市制110周年記念事業で北波
止突堤に復元建設された。  周辺には堺旧港、旧堺燈台がある。
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此の続きは、
6月13日の大仙公園から旧堺灯台を巡るコース-2 として
           下記のメインブログへ詳細を投稿します。
         https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、大浜公園へ向かう~
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大浜公園を出て~利昌の杜
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利昌の杜
堺が生んだ茶の湯の大成者「千利休」と、日本近代文学を切り拓いた歌人「与謝野
晶子」の生涯や人物像などを通じて、堺の歴史・文化の魅力を発信する文化観光施
設です。
利休と茶の湯を歴史文化から解き明かす「千利休茶の湯館」、歌人与謝野晶子の作
品世界とその生き方に触れる「与謝野晶子記念館」、堺観光の基点となる「観光案内
展示室」などがあります。
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宿院~
与謝野晶子生家の跡
堺に生まれ明治・大正・昭和を短歌とともに生きた「情熱の歌人」与謝野晶子。
「みだれ髪」はその代表作、甲斐町の生家跡には「海こひし潮の遠鳴りかぞへつつ少
女となりし父母の家」の歌碑があります。
与謝野晶子は菓子商駿河屋の三女として甲斐町に生まれてから、鉄幹に出会い家
を出るまで堺ですごしました。明治・大正・昭和を短歌とともに生き「情熱の歌人」と呼
ばれ、同じ文学者鉄幹の妻であり、11人の子どもたちの母でもありました。明治34年
(1901年)に出版された「みだれ髪」は、鉄幹へのあふれる愛と青春のみずみずしさを
歌いあげ、浪漫主義の代表作となりました。
また詩、評論、古典研究などさまざまな執筆活動を展開する一方、女性の権利に焦
点をあてた評論も多く著し、当時の女性の地位向上に積極的に取り組んだことでも
有名です。
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ザビエル公園へ向かう
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ザビエル公園(昼食休憩)
天文19年(1550年)に堺に来たイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルを、手厚く
もてなした豪商・日比屋了慶の屋敷跡につくられた公園で、昭和24年(1949年)ザビ
エル来航400年を記念して「ザビエル公園」と命名されました。
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ザビエル公園を出発、妙国寺へ向かう
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材木町
堺伝統産業会館・・・堺の伝統産業を一堂に集めた施設です。
従来の刃物だけでなく線香、注染和晒、緞通、昆布、自転車、和菓子などの体験・学
習・展示コーナーや、各業界の逸品、堺ゆかりの名産品を販売するショップ。さまざま
な珍しい刃物やプロ用刃物を展示・販売する堺刃物ミュージアムがあります。
プロの料理人の約9割が使用しているといわれる伝統の堺打刃物をはじめ、堺のさま
ざまな伝統産業に触れることができます。
1Fには刃物、線香、注染和晒、緞通、昆布、自転車、鯉幟、和菓子の体験・学習・展
示コーナー「匠のひろば」、堺の逸品、名産品を販売するショップ「堺いち」、2Fには刃
物工程見本や刃物種類見本、堺刃物、堺打刃物を展示する「堺刃物ミュージアム」が
あります。
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妙国寺へ向かう
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妙国寺(みょうこくじ)
妙国寺は、大阪府堺市堺区材木町東にある日蓮宗の本山(由緒寺院)。山号は広普
山(こうふさん)。幕末に起こった堺事件ゆかりの寺として知られる。開基は三好実休。
開山は日珖。妙國寺とも書く。
※大蘇鉄伝説
境内の大蘇鉄は国指定の天然記念物(1924年12月9日指定)である。樹齢1100年
余と云い、次のような伝説が残っている。
織田信長はその権力を以って天正7年(1579年)、この蘇鉄を安土城に移植させた。
あるとき、夜更けの安土城で庭の蘇鉄が「堺妙國寺に帰ろう、帰ろう」とつぶやいてい
た。この怪しげな声に、信長は激怒し士卒に命じ蘇鉄の切り倒しを命じた。家来が刀
や斧で蘇鉄を切りつけたところ、みな血を吐いて倒れ、さしもの信長もたたりを怖れ
即座に妙國寺に返還した。しかし、もとの場所に戻った蘇鉄は日々に弱り、枯れかけ
てきた。哀れに思った日珖が蘇生のための法華経一千部を読誦したところ、満願の
日に蘇鉄から宇賀徳正龍神が現れ、「鉄分のものを与え、仏法の加護で蘇生すれば、
報恩のため、男の険難と女の安産を守ろう」と告げた。そこで日珖が早速門前の鍛冶
屋に命じて鉄屑を根元に埋めさせたところ、見事に蘇った。
※堺事件
慶応4年(1868年)2月15日、フランス軍艦より水兵100人が上陸し、市内を闊歩し婦
女子を追回すなど傍若無人の振舞いに、堺警備隊の土佐藩士が応対したが、双方
言葉が通じないため両者銃撃応酬の末、フランス兵11名の死者を出すにいたり国際
問題となった。本事件はフランスに賠償金を払うと共に、箕浦猪之吉、西村左平次等
土佐藩士20名に切腹が命じられた。同2月23日、妙國寺において日仏立会人の面前
で堂々と割腹自刃した。12人目にかかりフランスの立会検視人もその凄絶の様に見
るに忍びがたく切腹は中止となり、残りの9名は土佐へ流刑となった。
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方違神社へ向う
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方違神社
河内、和泉、摂津の三国の境にあり、方位のない清地とされ、方除祈願で知られてい
ます。古くから遠方へ出かける時その方向がよくない場合に、一度別方向に向かって
から出かける風習がありました。方違神社はそのような時にお参りする全国で珍しい
神社で、遠くへ旅する時や家を移る時などに、ここに参れば災難に会わないという言
い伝えがあり、新築や転居等の方災除けで各地からたくさんの人々が参詣に来ます。
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JR堺市駅
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JR堺市駅~天王寺駅
阿倍野
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阿倍野ベルタ3F「あべの市民学習センター」で開催中の「楽画喜展」に立ち寄り
シャープ社友会の絵画同好会&絵手紙クラブの合同展示を見て帰った・・・
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6月5日の岸辺駅~吉志部瓦窯跡・紫金山公園コース-1

6月6日        6月5日の岸辺駅~吉志部瓦窯跡・紫金山公園コース-1
                    JRふれあいハイキング 10㎞
此の日は天気良かった、大阪へ出て来て約8年間住んで最寄駅が千里丘だったので
岸辺駅は隣の駅、今は摂津市だが私が住み始めた時は三島郡島本町だった、懐かし
い場所、勿論1970年の万博当時も未だ此方に住んでいて土日休みの金曜日の夜は、
会社の同僚達が私のアパートに泊まり込んで万博見学に行った千里丘のボーリング
場へ早朝ボーリングに行ったりしていた懐かしい青春のく思い出の場所だった・・・
コース   JR岸辺駅 10時集合 大阪・関西歩け歩け協会主催  参加費用300円
JR岸辺駅(10時集合)~市場池公園~吉志部瓦窯跡~吉志部神社~紫金山公園~
せせらぎの道~佐井寺南ヶ丘公園(昼食休憩)~せせらぎの道~関西大学~片山公
園~片山神社~JR吹田駅(解散)    参加者171名だった様です
JR岸辺駅(10時集合)
出発式&新設された国立循環器病研究センターの横を通り
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市場池公園へ向かう
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市場池公園
摂津市と吹田市の境目に位置する公園です。のどかな雰囲気あふれる公園で散歩し
たりするには最適なスポットです。
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吉志部瓦窯跡へ向かう
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吉志部瓦窯跡
吉志部瓦窯跡は、延暦(えんりゃく)13(794)年に桓武(かんむ)天皇が着手した平安
京の造営当初の瓦を生産した瓦窯跡です。これまでの調査で丘陵の南斜面上段に登
窯4基、下段に平窯9基の計13基の窯跡と平窯群の背後を走る排水溝が確認されま
した。窯跡は等間隔に計画的に配置されたものと考えられます。また、近年、瓦窯の
南側で掘立柱建物跡、井戸跡、回転台跡、粘土採掘坑等の遺構が検出され、大規模
な造瓦工房を伴ったことが判明しました。
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吉志部神社
吉志部神社は、大阪府吹田市の紫金山に鎮座し、遥か古代より鎮守の社として村の人
々に崇敬されてまいりました。
社伝によりますと、崇神天皇の時代に大和から奉遷して大神宮と称し、極めて壮麗な社
殿を構えていたといいます。その後、応仁の乱で焼失しましたが、文明元(1469)年には
再建、さらに慶長15(1610)年には本格的な再造営をいたしました。本殿は、全国的にも
大変めずらしい七間社で、桃山様式の絢爛たる紋様が施された華麗な社殿でした。
その歴史的な価値の高さから国の重要文化財※に指定されていましたが、本殿建立か
ら400年を目前にした平成20(2008)年、不審火により全焼いたしました。
幾度も災禍に見舞われ、その都度、再建を果たしてきた吉志部神社ですが、この度の不
幸も氏子の皆さま、地域の皆さまのご努力とご支援を賜り、迅速な工事を進めることがで
き、平成23(2011)年5月22日、本殿および覆屋、拝殿を竣工いたしました。
新たに建てられた本殿は、保存されていた資料と半年以上を費やした火災跡の調査を基
に正確に復元したもので、400余年前の建立当時の建築様式はもとより鮮やかな装飾が
蘇りました。
※焼失によって、平成20(2008)年9月8日に重要文化財の指定は解除されました。
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本殿の脇道を上る
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「吹田34号須恵器釜跡」があります。
吉志部神社の直ぐ横手にある吹田34号須恵器釜跡。
吉志部瓦窯で作られた軒瓦には蓮華紋軒丸瓦が6種類、唐草紋軒平瓦が5種類、
他に丸瓦や平瓦、さらに緑釉瓦が生産されていた。
瓦の供給先は平安宮が主体だが、市内の垂水南遺跡や高浜神社、枚方市百済寺
跡、茨木市新庄遺跡などでも吉志部瓦窯産の瓦が出土し、淀川・三国川(安威川・
神崎川)とその支流域に点在している
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※吉志部古墳
吹田34号須恵器釜跡の東側に隣接して「吉志部古墳」の石柱が立っている。
墳丘の大半は流出し、石室も半壊して古墳の旧状は失われているが、横穴式石室
が現存する市内唯一の古墳である。正確な規模は明らかではないが、径 9~10m
の規模の円墳と考えられ、石室は現存部分は長さ 3.3m、幅 1.1m、高さ 0.6mであ
る。出土した須恵器等から構築時期は7世紀初頭と考えられ、当地の有力 者の墓
と考えられる。
古墳の発見当時、石室はすでに半壊していたが、残存した床面にはいくつかの副葬
品が残されていた。須恵器は完形の杯身が1点あったが、他は破片で長頸壺2点、
壺1点、はそう1点である。さらに須恵器窯の窯壁片が熔着した甕破片があり、須恵
器生産地帯の一画にある、その他に鉄刀子1点、鉄鏃1点、ガラス玉3点があり、ま
た、鉄釘があることから木棺が埋納されていたと思われる。

紫金山公園
遊具や起伏のある散歩道をはじめ、神社、国の史跡、博物館など、親子で自然を感じた
り歴史を学ぶこともできる多彩な公園です。名神高速道路を挟んで広がる大きな園内に
は広場や山道散策など様々なゾーンに分かれています。
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吹田市立博物館
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名神高速道路を潜る
隧道の壁画が綺麗・・・
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消防署
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せせらぎの道へ向かう
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せせらぎの道・・・水が流れていなかった
吹田市の中央付近、紫金山公園から総合運動場、片山中学校、佐井寺南が丘公園を
結ぶバス通りに沿ったゆったりとした遊歩道。延長約1.2kmの間には、「吹田の水にま
つわるストリートギャラリー」をテーマにせせらぎや壁泉のある池、掛樋をデザイン化し
た水のモニュメントがあります。
パーゴラやベンチも備えられ、木漏れ日の中で散歩や水遊び、ベンチに座っておしゃべ
りを楽しむ人々の姿が見られます。春はハナミズキ、ツツジをはじめとする花木が咲き
誇る中を、木々の緑風に吹かれながら歩くことができる道です。
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水が流れていない
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佐井寺南ヶ丘公園へ到着
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此の続きは、
6月5日の岸辺駅~吉志部瓦窯跡・紫金山公園コース-2 として
            下記のメインブログへ詳細を投稿します。
           https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、佐井寺南ヶ丘公園~
佐井寺南ヶ丘公園(昼食休憩)
市立総合運動場の西、ちょうど吹田市の中心に位置する公園で、ゆったりとした広場
や水景、健康遊具などの施設が整備されています。植物の種類も多く、ボケ・ウメ・モ
クレン・ヤマブキ・アジサイ・ハギをはじめ様々な可憐な花木が四季を通じて咲き続け
ます。近隣公園であるこの公園と周囲の4つの街区公園は、四し神じん(玄武・青龍・
白虎・朱雀)をイメージしてデザインされたという話があります。
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午後は
佐井寺南ヶ丘公園をスタート
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せせらぎの道を
関西大学千里山キャンパスへ向かう
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関西大学・・・千里山キャンパスの裏門から入って正門へ通り抜ける
千里山キャンパス
法・文・経済・商・社会・政策創造・外国語・システム理工・環境都市工・化学生命工学
部および大学院・関西大学第一高等学校・中学校・幼稚園
※関西大学のあゆみ
関西大学の前身である関西法律学校は、フランス人法学者ボアソナードの教えをうけ
た井上操、小倉久、堀田正忠らの司法官と自由民権運動家・吉田一士の連携によっ
て、1886(明治19)年11月4日、大阪西区京町堀の願宗寺において設立されました。
当時、大阪控訴院長であった児島惟謙は、名誉校員として創立に参画し、監督的役
割を果たしています。
    大学(旧制)への昇格
1922(大正11)年、千里山に学舎を新設。法学部と商学部の2学部をもつ大学として
認可されています。総理事兼学長となった山岡順太郎は、新しい大学の理念として
「学の実化」(学理と実際との調和)を提唱し、公開講座や語学講習会の開催、留学
生の派遣、体育の奨励などに力を注ぎました。
   今日の関西大学
現在、関西大学は法、文、経済、商、社会、政策創造、外国語、人間健康、総合情報、
社会安全、システム理工、環境都市工、化学生命工の13学部、大学院、法科大学院、
会計専門職大学院、臨床心理専門職大学院、留学生別科を擁する総合大学として
発展し続けています。
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関西大学を後に
関大を歩くと、ほっとする。
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片山公園(トイレ休憩)
子どもたちには「タコこうえん」でおなじみで、ピンクのタコ型すべりだいが大人気。
ほかにも地下水を利用したせせらぎやジャブジャブ池、桜や平和のバラ園など、みど
ころもいっぱいです。ほかにも中央図書館、片山市民体育館、市民プールなど多くの
公共施設が集まる、健康と文化の拠点です。

モニュメント・・・「平和と健康の鐘」銅鐸を挟んだ大きなモニュメントです。
このモニュメントは、吹田市が昭和58年(1983年)に行った「非核平和都市宣言」と
「健康づくり都市宣言」のシンボルとして、吹田市制施行50周年を記念し、平成2年
(1990年)に建てられました。モニュメント中央部の鐘は、明治22年山田村で発掘
された弥生時代の祈りの鐘である「山田の銅鐸」をモチーフにしました。
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※平和のバラ園
赤や白、黄色のバラ園です。平和のバラは、広島で被爆者の治療に尽力した広島
市名誉市民の医師、故原田東岷さんが「地上をバラでいっぱいにし、争いのない世
界を」との願いを込めて、世界の人々に広島の名をつけた新しい品種のバラ作りを
呼びかけて作られました。中でも「メイ・ピース」は、平成9年(1997年)に広島から
贈られたバラの新種に公募で命名し、このバラ園に植栽したものです。

※壁泉(へきせん)
石積みの壁から滝のように地下水を流しています。吹田はかつて千里丘陵からの豊
富な地下水が有名でした。片山公園周辺は、千里丘陵と淀川の沖積低地との境目に
あたり、泉殿宮(いづどのぐう)の霊泉や、垂水の滝に代表されるような湧水地帯で、
ビール工場が造られる大きな要因となっていました。そこで平成2年(1990年)の公園
再整備の際に井戸を掘り、地下250メートルの地下水をせせらぎや池の水として利用
しています。地下水に含まれる鉄とマンガンを除去しているが、飲むことはできません。

ドレミの滝
階段と平行して水が滝のように流れています。階段状に壁泉からの水が流れます。
滝の段差がそれぞれ違うので、水の音を聴いていると、まるで音楽のよう?です。
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片山神社へ向う
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片山神社・・・片山神社と古代の片山
大和時代から平安時代にかける、その昔、この地より千里に至る一帯が丘陵地に
なっており、良質の粘土が多量に出土し、その頃の人達は「須恵器」や「瓦」を作り、
生計をたてていた。
この窯焼きは大陸文化によるもので、大和朝廷(4世紀・西暦300年頃)が誕生の
頃から食器類や屋根瓦の需要が高まり、その時代の成長産業であった。
この地で生産される須恵器は、質の良さから生産も相当なものであったらしい、そし
て平安京(8世紀・西暦800年頃)が遷都された頃には屋根瓦も需要も最高に達し活
気あふれる産業地域であった。
しかし、平安時代が過ぎると、これらの産業も斜陽の一途をたどり、ついには廃窯と
なり以後、この地は農耕へと移行していった。
この歴史を実証する50基余の《登窯》が発掘されている。
その頃、この地で焼き物に携わる人達が【陶芸の祖神】であり、方除け・災難除け・火
防の守護神である素盞烏尊(すさのおのみこと)を祀り崇敬を集めていたのが、当神
社の創始と思われる。
当神社は、天正の御代(室町・安土桃山時代 西暦1500年頃)の兵火と大正3年の
2回、建造物一切が焼失され、古文書等が存在していなので、建立ならび由緒等に
ついては不明である。 昭和59年に『昭和の大造営』として、老朽化が著しくなった
社殿を建て替えて、今日に至る。  御祭神 (主神)素盞烏尊 スサノオノミコト 
(相殿)天照皇大御神 アマテラススメオオミカミ、(相殿)住吉大神 スミヨシノオオミカミ
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※スサノオノミコト
天照皇大御神(伊勢神宮)の御弟神であられ、出雲国(島根県)における八岐大蛇退
治は、災いを振り払い人々に幸運を受けた英雄の功績を称えた神話であり、〈厄除の
神様〉として、スサノオノミコトを御祭神とした神社が全国津々浦々に鎮座し人々の崇
敬を集めている。

片山神社を後に
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アサヒビール吹田工場の横をJR吹田駅へ
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JR吹田駅(解散)
その他 お・ま・け
八幡屋公園のジャカランダ
朝潮橋迄出て八幡屋公園のジャカランダを撮ってかえりました。
十数本あるジャカランダの木、花が咲き始めてるのは3本~4本だけでした。
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