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4月17日のウワナベ古墳~神功皇后陵古墳へ古墳巡り-1

4月22日     4月17日のウワナベ古墳~神功皇后陵古墳へ古墳巡り-1
        6月度歩こう会のコース下見 10km
此の日は、6月度歩こう会のコース(8km)下見に5名でおまけも入れて10km歩いた。
コース   てくてくマップ奈良② 歴史の道ウワナベ古墳~秋篠寺コース
新大宮駅(10時)~芸亭伝承地~ウワナベ古墳~航空自衛隊奈良基地~コナベ古墳
~磐之媛命陵~水上池~平城宮跡遺構展示館(昼食)~平城天皇陵~佐紀神社~隆
光大僧正墓石~佐紀神社~釣殿神社~八幡神社~日葉酢媛命陵~成務天皇陵~福
松大神~八幡神社~神功皇后陵~秋篠寺~八所御霊神社~大和西大寺駅(ゴール)
6月度歩こう会には新大宮駅~佐紀縦列古墳群めぐり~平城駅(8km)コースを予定。
此の日は、おまけの秋篠寺~八所御霊神社~大和西大寺駅迄10kmを歩いたので私
の万歩計は、25763歩で約19km歩いたことに・・・
新大宮駅~佐保川を渡り
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芸亭(うんてい)伝承地
「芸亭」(うんてい)とは,日本で最初の公開図書館とされている施設。
8世紀末,奈良時代後期に 有力貴族であった石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)が 平
城京(現・奈良市)に設置した。芸亭院(うんていいん)とも呼ばれる。
石上宅嗣は大納言の地位にまで昇る一方で,知識人であり 熱心な仏教信者でもあった。
自分の邸宅を阿閤寺として改築した際に,敷地の一部に古今の書籍を収蔵し 希望者に
閲覧を許したのが芸亭の始まりとされている。
奈良時代,個人で蔵書を集める風潮が芽生え「公家文庫」と呼ばれる蔵書が出現した。
芸亭は 公家文庫のうちでも最も古いものの一つである。
芸亭以前にも 8世紀の初めごろ,国家の蔵書を管理する組織“図書寮(ずしょりょう)”が
中務省(現在の宮内庁に相当)開設されているが,ここは役所内の施設であり, 一般公
開はされていなかった。
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ウワナベ古墳
ウワナベ古墳・コナベ古墳
周囲に壕をめぐらせた巨大な前方後円墳で、いずれも松の緑におおわれています。
東側が全長255mのウワナベ、ひと回り小さな西側がコナベで全長204m。コナベ古
墳のまわりには副葬品などを納めたとみられる方墳や円墳もあり、日本古墳時代中
期(5世紀)を代表する古墳です。
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自衛隊奈良基地
奈良基地(ならきち)とは、航空自衛隊幹部候補生学校が配置されている航空自衛隊
の基地である。奈良県内では唯一の自衛隊施設である(自衛隊奈良地方協力本部を
除く)。基地司令は、幹部候補生学校長が兼務。
航空機を運用する航空団や飛行隊などは配備されていない。よって滑走路も有してい
ないが連絡機用として基地グラウンド内に回転翼機が発着するスペースがあり化学消
防車も配備されている。基地内にはF-1戦闘機を始めとする航空自衛隊で使用された
航空機が野外展示されている。
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コナベ古墳
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磐之媛命陵
磐之媛命(いわのひめのみこと)
仁徳天皇の4人の皇后のうちのひとり。仁徳天皇2年(314年)立后。葛城襲津彦の娘
で、武内宿禰の孫にあたり、皇族外の身分から皇后となった初例とされる。孝元天皇
の男系来孫(古事記では玄孫)。仁徳天皇の男御子5人のうちの4人(履中天皇・住吉
仲皇子・反正天皇・允恭天皇)の母。記紀によるととても嫉妬深く、仁徳天皇30年(34
2年)に、彼女が熊野に遊びに出た隙に夫の仁徳天皇が八田皇女(仁徳の異母妹。
磐之媛命崩御後、仁徳天皇の皇后)を宮中に入れたことに激怒し、山城の筒城宮(現
在の京都府京田辺市多々羅付近)に移り、同地で没した。
妬み深い人物として知られる。その様から他の妾が宮殿に会いに行けず、仁徳天皇
は宮殿を離れた時か、彼女が宮殿から出かけた時に迎えいれるしかなかったという。
ただ、裏を返せばそれだけ仁徳天皇が多情であったということ・・・・
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水上池
平城宮跡にも近い野鳥の楽園は平城遷都前に設けられた「ため池」
水上池(みずかみいけ・みずがみいけ)は、平城宮跡北側の第一次大極殿や遺構展
示館等があるエリアからほど近い、佐紀盾列古墳群(ウワナベ古墳群)周辺にある奈
良市最大級の大規模なため池です。
天理市との境に位置する「白川溜池」のような護岸で固められた人工的な池を除いて
は、奈良市内で最も広大な池であり、かつ最も古い池の一つであるとされる水上池は、
『日本書紀』の垂仁天皇記において「倭の狭城池及び速見池をつくる」と記される中の
「狭城池」にあたると考えられ、その歴史は1300年前の「平城京遷都」をもはるかに
遡るものであるとも言われています。
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平城宮跡遺構展示館へ向かう
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平城宮跡遺構展示館・・・近くの広場で(昼食)
大和西大寺駅と新大宮駅の間に拡がる広大な緑の空間が、奈良時代に天皇の住まい
や官公庁が集まっていた平城宮跡です。 「平城宮跡資料館」では出土遺物や復元模
型の展示、「遺構展示館」では発掘状況をそのまま保存。復元された壮大な「朱雀門」、
奈良時代の庭園のようすがしのばれる「東院庭園」も復元されております。 また、平
城遷都1300年となる2010年には、宮跡の中核施設である第一次大極殿正殿も復元
されました。
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平城天皇陵
51代平城天皇(へいぜいてんのう)。父は桓武天皇、母は皇后天之高藤廣宗照姫之尊
御 陵 名は楊梅陵 (やまもものみささぎ) 、円丘
809年、平城天皇は病気を理由に弟の嵯峨天皇に譲位し、平安京を出て平城京に移り
住んだ。翌810年、健康を取り戻した平城上皇は藤原仲成・薬子兄妹らに担ぎ上げられ
て重祚(再び皇位につくこと)を企て、「都を平安京から平城京へ移す」と詔を出した。
このため平安京に住んでいた嵯峨天皇と対立し、平城上皇は挙兵のため東へ向かった。
しかし嵯峨天皇は先手を打って坂上田村麻呂を東に派遣しており、藤原仲成は処刑さ
れた。藤原薬子は服毒自殺し、平城上皇は出家した。 これを『薬子の変』と言う。
不退寺は『薬子の変』で敗れた平城天皇が出家後に住んだ『萱の御所』があった場所だ
と伝わっている。不退寺の西2kmほどのところに、市庭古墳があり平城天皇陵に比定さ
れている。市庭古墳は5世紀につくられた古墳だと考えられる。平城天皇は平安時代の
人物なので、市庭古墳は平城天皇陵ではないとする説と、平城天皇陵は5世紀の古墳
を流用して葬られたとする説がある。
1962-63年、市庭古墳の発掘調査を行ったところ、市庭古墳は円墳だと考えられていた
のだが、前方部が壊されていた跡が見つかり、市庭古墳は前方後円墳だった。前方部は
南向きで平城京築造の障害になったため、前方部が取り壊されたものと考えられている。
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佐紀神社(亀畑)へ向かう
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隆光大僧正墓石
隆光大僧正は1649年(慶安2年)大和国超昇寺郷(現在の奈良市二条町)で生まれ、
長谷寺等で学んだ後、江戸へ出て関東新義真言宗本山の「護持院」を創設した。 5代
将軍徳川綱吉の生母桂昌院の寵愛を受け、綱吉の護持僧となった。元禄年間、通法
寺再興の時、多田義直の上表の際に、柳沢吉保と共に尽力している。また、桂昌院の
援助で大和の社寺修復に尽くし、特に1567年 (永禄10年)松永久秀が焼き、142年
間雨ざらしの大仏殿再建に尽力しており、地元の河内や大和では評判は良い。
悪法として世人の不満を買った『生類憐みの令』は彼の発案だとされている。そのため、
綱吉の死後はお役御免となり、かって再興に尽力した通法寺の住職に左遷されている。
最晩年の10数年は生まれ故郷に帰り、超昇寺で遇し、1724年(享保9年)に没してい
る。元超昇寺の本墓ともに、通法寺跡にも分骨墓が有る。
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※超昇寺(ちょうしょうじ)
平城天皇の皇子高丘(たかおか)親王(出家して法名を真如(しんによ)という)が、
835年(承和2)楊梅(やまもも)宮の跡地をたまわって創建した。10世紀の末、興
福寺の清海がこの寺に住み,7日間の大念仏(超昇寺大念仏)を始め、極楽浄土
の曼荼羅をえがいた。これを〈清海曼荼羅〉といい、日本の浄土三曼荼羅の一つ
に数えられている。中世の戦乱により衰退し、江戸初期にはわずかに堂1宇を残
すのみとなり、隆光が復興につとめたがついに廃絶した。
※通法寺
羽曳野市壺井は河内源氏発祥の地として知られているが、この壷井通法寺は、長
久4年(1043年)に、河内国司であった源頼信の子源頼義が猟の際に千手観音の
霊像を得て、これを本尊にして創立した寺院と伝えられている。前九年の役の時、
頼義が子の八幡太郎義家とともに奥州へ出陣。凱旋ののち、「香呂峰の地」と呼ば
れた同地に八幡宮を祀ったが、これが西北に隣接する壷井八幡宮の起りとなった。
頼義は浄土宗に帰依し阿弥陀如来を本尊としたことから河内源氏の菩提寺となり
源氏の隆盛と共に栄えた。
南北朝時代に戦火により焼失。江戸時代になって源氏の子孫・多田義直が5代将
軍綱吉に願い出て柳沢吉保らが普請奉行となり再興する。
※通法寺跡に大僧正隆光の墓も有る
隆光は、徳川五代将軍綱吉の学僧。「生類憐れみの令」を公布させた僧として知ら
れ、綱吉死後は左遷され通法寺の住職を勤めていたのだという。

佐紀神社(亀畑)
御祭神は天児屋根命 経津主命 六御県命
奈良市佐紀町、平城宮跡近く、佐紀路沿い、御前池の東にある。御前池の西にも同名
の神社があり、同じく式内論社になっている。
社伝によると、天武天皇二年(673)の創祀。超昇寺の建立と同時に、鎮守社として祀
られたという。 式内社・佐紀神社に比定されている古社。鳥居扁額に「式内佐紀神社」
と刻まれている。
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御前池(おまえいけ)
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此の続きは、
4月17日のウワナベ古墳~神功皇后陵古墳へ古墳巡り-2 として
           下記のメインブログへ詳細を投稿します。
          http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、佐紀神社(西畑)~
佐紀神社(西畑)
御祭神は天児屋根命 経津主命 六御県命
奈良市佐紀町、平城宮跡近く、佐紀路沿い、御前池の西にある。御前池の東にも
同名の神社があり、同じく式内論社になっている。
東の佐紀神社と違い、ここには式内の石碑がある。でも、規模や雰囲気は同じ。
参道は、こっちの方が明るい、気がする。 当社の東には、「釣殿神社」がある。
由緒は不詳。境内の石碑にある通り、式内社・佐紀神社の論社となっているが
亀畑の佐紀神社からの分神だとも言われている。
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釣殿神社
創建は平安時代頃、式内佐紀神社(奈良市佐紀町字亀畑)の末社・市杵島姫神社と
して、創建されました。当時の御祭神は市杵島姫命。室町時代、戦国時代と、戦火
に遭い消失。江戸時代初頭に、市杵島姫神社が再建とともに、佐紀神社の祭神の
六御県命、経津主命の2神を「釣殿神」として合祀し、天児屋根命をも合祀。市杵島
姫命と合わせ、3柱を祭神としています。
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八幡神社・・・山上八幡神社
創建は、江戸時代に入ってからの延宝5年(1677年)とも言われていますが、その
詳しい由来については不詳。しかし神社の周辺には中世に反映した寺院である「超
昇寺」、またその周辺を戦国時代にかけて陣地とした藤原鎌足の末裔とも言われる
超昇寺氏の城郭があったことで知られており、超昇寺氏の信仰を受けていた神社と
しても知られています。
また境内の北側、社殿左後方にそびえる杉の木は、神社の創建時期とは前後する
が、天正19年(1591年)に豊臣秀吉が朝鮮出兵に際してその成功を祈り手植えした
由緒ある神木であるとされているほか、拝殿には合戦の様子を鮮やかに描いた大き
な絵馬が奉納されている事でも知られています。なお、山上八幡神社の祭神は天照
皇大神(あまてらすすめおおかみ)・八幡大明神(やはたのだいみょうじん)・春日大
明神(かすがのだいみょうじん)となっています。
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日葉酢媛命陵
全長207メートルの前方後円墳。日葉酸媛は垂仁天皇の后で、「古事記」には、
日葉酸媛が亡くなった時、野見宿袮(のみのすくね)の意見をとりいれ、埴輪を
つくるようになったとする埴輪の起源説話が残されています。
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成務天皇陵
日葉酸媛陵の西に隣接する全長219メートルの美しい前方後円墳。大規模な前方
後円墳が、これほど接してつくられた例は、全国的にも非常にめずらしいそうです。
近くは古代に思いを馳せる歴史の道として散策に最適。
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神功皇后陵古墳へ向かう
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福松大神
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八幡神社・・・山稜八幡神社
「神功皇后陵」と隣り合わせになっており、この神功皇后陵と深い関係を持つ神社
としても知られています。
祭神は主祭神は神功皇后本人である「気長足媛命」、そしてそれ以外には「品陀和
気命(応仁天皇)」、そして神功皇后の母親である「玉依媛命(タマヨリ)」が祀られて
おり、一般的な「八幡神社」は応仁天皇が最も重要な主祭神となっていることが多い
中で神功皇后ゆかりの神社らしく神功皇后が第一にお祀りされている状況となって
います。なお、この神社では神功皇后は「武運」と「安産」の神、応仁天皇は「厄除開
運の神」、そして玉依媛命は「育児の神」とされており、特に女性にはご利益があり
そうな神社となっています。
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神功皇后陵古墳
佐紀古墳群の北西地域にある、4世紀末~5世紀初めの古墳で全長275メートル。
佐紀盾列古墳群の中では最も大きい古墳です。
神功皇后(じんぐうこうごう)は、仲哀天皇の皇后。『日本書紀』では気長足姫尊(お
きながたらしひめのみこと)・『古事記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみ
こと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后。父は開化天皇玄孫・
息長宿禰王で、母は天日矛(あめのひぼこ)裔・葛城高顙媛。応神天皇の母であり、
この事から聖母(しょうも)とも呼ばれる。
神功元年から神功69年まで政事を執り行なった。夫の仲哀天皇が香椎宮にて急死
(『天書紀』では熊襲の矢が当たったという)。その後に熊襲を討伐した。それから住
吉大神の神託により、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま筑紫から玄界
灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。新羅の王は「吾聞く、東に日本と
いう神国有り。亦天皇という聖王あり。」と言い白旗を上げ、戦わずして降服して朝
貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという(三韓征伐)。
渡海の際は、お腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石を当ててさらしを巻き、冷やすこ
とによって出産を遅らせたとされる。月延石は3つあったとされ、それぞれ長崎県壱
岐市の月讀神社、京都市西京区の月読神社、福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮に奉
納されたと言われている。その帰路、筑紫の宇美で応神天皇を出産し志免でお紙目
を代えたと伝えられている。他にも壱岐市の湯ノ本温泉で産湯をつかわせたなど九
州北部に数々の伝承が残っており、九州北部に縁の深い人物であったと推測される。
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ここからはおまけ
秋篠寺(あきしのでら)へ向かう
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秋篠寺
奈良時代末期780年頃、光仁天皇の勅願によって建立され、開山は善珠僧正と
伝えられています。平城京西北の外れ「秋篠」の地に建てられたためこう呼ばれ
ています。平安時代末期に戦火のため伽藍の大部分を焼失し、鎌倉時代には今
の本堂がもとの講堂の跡に再興されましたが、金堂や東西両塔の跡は雑木林に
なってしまっています。本堂に25体安置されている仏像の中でも特に著名なのが
伎芸天(重文)で、諸技諸芸の守護神として多くの芸術家や芸能人らに慕われ、
またその造形の優美な写実性は古美術愛好家の間でも広く親しまれています。
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八所御霊神社
由緒沿革は定かでないが、崇道天皇以下御霊八所(火雷大神、崇道天皇、伊豫
親王、藤原廣嗣、文室(ふんや)宮田麻呂、橘逸勢、吉備大臣、藤原夫人)を祭神
とし、秋篠寺の鎮守社であった。
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大和西大寺駅
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4月14日の日本のはじまり唐古・鍵遺跡ウオークー1

4月18日     4月14日の日本のはじまり唐古・鍵遺跡ウオークー1
             近鉄駅フリーハイキング 歩程約10㎞
此の日は知人と3名で、新しく整備された唐古・鍵遺跡へのハイキングに参加しyた。
コース  近鉄駅フリーハイキング  石見駅 受付 9時半~11時 
石見駅(受付)~石見鏡作神社~白髭神社~唐古・鍵史跡公園~千万院~池坐神
社~鍵の蛇巻き~安養寺~笹鉾山古墳~法楽寺~黒田大塚古墳(昼食)~孝霊神
社~宮古薬師堂~鏡作神社~浄照寺~楽田寺~津島神社~田原本駅(ゴール)
此の日の私の万歩計は、27604歩で約20.4km歩いたことに・・・
志都美駅~石見駅(受付・スタート)
三宅町石見にある石見鏡作神社
祭神は石凝姥命、天照皇大神、 天児屋根命と思われますが詳細は不詳。
石見の集落は城郭作りの環濠、「石見環濠集落」、集落の北の端、環濠集落の北東の
角に位置する場所に白髭神社と並んで石見鏡作神社が有ります。この地より南、岩見
遺跡の発掘調査による以降は5世紀末から6世紀初めにこの一帯が湿地帯からようや
く顔を出したのが5世紀の終わり位からと考えられます。 主祭神の石凝姥命は天孫降
臨、天の岩戸に出てくる神様で、鏡作部の祖とされ、鉄工、鏡作りは1世紀頃から遅くと
も3世紀半ばには行われ銅鐸の鋳型の発掘が有った唐子鍵遺跡は前4世紀から3世紀
半ば。保津宮古遺跡は古墳時代初頭(3世紀後半=4世紀前半)。薬王寺、十六面遺跡
も3-4世紀~。石見を始め三宅町一帯が開発されたのは5世紀終わり頃からと考えられ、
一帯には、石見をはじめ、但馬、三河の地名が今も残ることから、崇仁天皇以降、湿地
帯から顔を出した一帯の開発の為各地から人足が移住させられたと考えられる。
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三宅町石見にある白髭神社
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寺川を渡り、唐古・鍵史跡公園へ向かう
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唐古・鍵史跡公園
田原本町大字唐古から鍵にかけて所在する弥生時代の環濠集落遺跡である。奈
良盆地のほぼ中央、標高48〜51mの沖積地に立地する。集落は、多条環濠を有し、
大型建物や高床・竪穴住居、木器貯蔵穴、井戸、区画溝などの遺構で構成されてい
る。大環濠(内濠)は直径400mの範囲を囲み、外濠を含めた全体では約42万平方
mの面積を占める。出土遺物は土器、農工具・容器などの木製品、石鏃や石包丁
などの石器骨角器、卜骨などの祭祀遺物、炭化米、種子、獣骨類など多種多様な
遺物、さらには銅鐸の鋳型などの鋳造関係遺物、褐鉄鉱容器に入ったヒスイ製勾
玉、楼閣が描かれた絵画土器など特殊な遺物も出土している。これらの遺構・遺物
から本遺跡は、近畿地方の盟主的な集落と考えられている。
展示品は、唐古・鍵考古学ミュージアムに展示している。
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300年前に作られた農業用溜池
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楼閣
2000年前の楼閣を復元
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大和川堤防に建つ展望台へ向かう
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展望台
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大和川沿いを歩く
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千万院
法貴寺は、「法起寺」ともいい、聖徳太子が創建し秦河勝に賜ったという。千万院
はこの法貴寺の塔頭の子院だった。法貴寺の本坊を実相院といい、中世には法
貴寺天満宮(池坐朝霧黄幡比売神社)の別当職を担うなど、在地豪族長谷川党
とのつよい結びつきで大きな勢力を誇った。しかし、江戸時代半ばには実相院と
千万院の2坊のみとなり、神仏分離で実相院にかわって法貴寺薬師堂を受け継
いだのは千万院だけとなった。現在、千万院の僧坊はすでになく、薬師堂を千万
院と呼ぶ習わしとなっている。
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池坐神社
池神社は、初瀬川沿いに鎮座する。祭神は天万栲幡千千比売命・菅原道真で、明治
初年ごろまでは天満宮と称されていた。現在は延喜式内大社「池坐朝霧黄幡比売神
社」に比定されている。中世の天満宮は、在地豪族長谷川党の鎮守であった。近世
以降も 法貴寺の実相院が社僧として社務全般を支配した。この関係は神仏分離に
より法貴寺から池神社が切り離されるまで続いた。
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鍵の蛇巻きへ向かう、公園の藤棚
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鍵の蛇巻き・・・(下り龍・降り龍)
鍵では、午前中八坂神社にて稲わらで蛇をつくる。午後からは1年の間に鍵大字内で
祝い事のあった家や、お祝いをしたい家に「おめでとう」と言いながら、蛇を担いで訪ね
る。300キロ近い頭を中学1年生から高校1年生までの男子が担ぎ、後ろの綱を参加し
た全少年が頭の前進を阻むよう引っ張り合いながら道を進んでいく。最後に、北中学
校の前の「はったはん」という場所の大樹の根元に頭がおかれ、胴体を上にして樹に
吊るされる。(下り龍・降り龍)
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※今里の蛇巻き・・・(上り龍・昇り龍)
今里の杵築神社では、午後1時過ぎに中学生以上の男子が麦わらを束ねて、全長18
mにもなる蛇を作る。行事参加者が拝殿でお神酒を飲む間、村の参拝者にはわらの
先にくくられた「わかめの味噌煮」が配られる。余れば、観光客にもおすそ分けがある。
甘く美味。その後、中学1年生から高校1年生までの男子が蛇頭を抱え、今里の各戸を
「おめでとう」と言いながら練り歩く。広い道では、「それ」との掛け声とともに、蛇体に人
を巻き込む。蛇は再び杵築神社に戻り、神社南側にある大樹に頭を上に巻き付けられ
る。(上り龍・昇り龍)

安養寺へ向かう
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安養寺
安養寺は、寛永10年(1633)、源蓮社宝誉上人の開山と伝えられる。
安養寺(あんようじ)は1633年に創建されたお寺です。
木造阿弥陀如来立像は鎌倉時代 12世紀末〜13世紀初頭の作品です。
像は、玉眼・粉溜塗の特徴をもつ。粉溜とは、白土を下地にその上に金泥を塗ったも
のである。快慶が好んで用いた手法。X線写真によると、眼の奥に蛇腹状の文様が
映っている。これは玉眼を入れるための工法によるもので、快慶仏には時々この手
法が認められるという。足ほぞには快慶作を示す「巧匠安阿弥陀佛」の墨書が認め
られるが、これは後世に書き改められたものと考えられている。
安養寺は、寛永10年(1633)、源蓮社
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此の続きは、
4月14日の日本のはじまり唐古・鍵遺跡ウオークー2 として
        下記のメインブログへ詳細を投稿します。
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続きは、笹鉾山古墳へ向かう~
笹鉾山古墳へ向かう
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笹鉾山古墳
笹鉾山古墳(1号墳)は、田原本町八尾字山本に所在する東向きの前方後円墳である。
全長88mの2重周濠をもつ6世紀前半の古墳である。墳頂には稲荷神社が祀られ前方
部に向かって参道が伸びている。主体部は明らかでないが、墳丘には埴輪が樹立され
ていた。 古墳時代後期(6世紀前半)に制作。1号墳の北側28mに直径約19.5mの円
墳(2号墳)が存在する。2号墳の周濠からは、ほぼ完全に復元できる馬子と飾り馬の
セットが2組出土している。馬子の1体の顔面には入れ墨を表現する線刻がみられる。
このほか、蓋形埴輪・円筒埴輪・朝顔形埴輪・笠形木製品などが出土している。
出土した埴輪の一部は、唐古・鍵考古学ミュージアムに展示されている。
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法楽寺へ向かう
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法楽寺
法楽寺は、由緒書によれば、孝霊天皇黒田廬戸宮跡に建立され、聖徳太子開基にかか
るものとされる。承元元年(1207年)、伽藍坊舎は残らず焼失したが、貞応元年(1222年)
に再建がなされた。長禄三年(1459年)八月の墨書銘をもつ板絵には、盛時の法楽寺の
伽藍坊院が描かれている。室町時代の盛期には堂宇25を数えたが、兵火で焼けて現在
残るのは1坊のみである。 本尊は子安地蔵菩薩立像。僧形地蔵菩薩坐像(室町時代後
期)などの古い仏像も所蔵する。
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黒田大塚古墳
黒田大塚古墳は、古墳時代後期の前方後円墳である。周濠まで含めた本来の全長は
86mであるが、後世に周濠は埋め立てられ、墳丘の周囲が削り取られている。
周濠の発掘調査では埴輪や木製品が出土しており、墳丘上に立て並べられていたも
のと考えられる。葺石は認められない。
出土品の一部は、唐古・鍵考古学ミュージアムに展示されている。
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孝霊神社
祭神は孝霊天皇(大倭根子日子賦斗迩命)御脇立 倭迹迹日百襲姫命、彦五十狭彦
命(吉備津彦命・桃太郎噺のモデル)、稚武彦命、他三神。もとは、法楽寺の鎮守社で
あったが、明治時代初期に現社地へ遷座をし、黒田村の氏神として引き継がれた。旧
地より移した物に、明和七年(1770)の石燈籠がある。岡山県や香川県など日本各
地に残る桃太郎の伝説地の多くは、『古事記』、『日本書紀』に記されている孝霊天皇
の皇子の彦五十狭彦命と稚武彦命兄弟の活躍に由来するものである。第七代孝霊天
皇の黒田廬戸宮(いおと)は、田原本町宮古(都の意)から、この黒田のあたりを指し、
この一帯は古代の地名を残した貴重な所である。
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宮古薬師堂へ向かう
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宮古薬師堂
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鏡作神社(鏡作坐天照御魂神社)
鏡作坐天照御魂神社は、田原本町八尾に鎮座する延喜式内大社で、「和名抄」
鏡作郷に鎮座する。祭神は天照国照日子火明命、石凝姥命、天児屋根命で、
古来から鏡鋳造の神として信仰された。このうち石凝姥命は、天照大神の御魂
の神爾の鏡として内待所に祀る鏡を鋳造したとされる神で、社伝ではその試鋳
の鏡が鏡作神社のご神体であると伝える。
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豊雛大明神
口碑によれば、江戸時代に豊受大神の小さな雛型の祠を奉祀していたそうで氏子は
これを豊雛大明神と称したと伝わります。本殿は、安政4年(1857)の改築だそうです。
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浄照寺
天正十一年四月(1583年)豊臣秀吉が柴田勝家と織田信長の後継者の地位を
争って賎ヶ岳で合戦。このとき加藤清正・福島正則・片桐且元・秀吉ら七人の武将
が槍を振るって勇名をはせ、世にこれを「賎ヶ岳の七本槍」と称して名高い。
その内の一人、平野權平長泰は数々の軍功により、田原本他六ヶ村を賜り五千石
の領主となった。 その子長勝が二代目領主となり、田原本に陣屋を築造した。
先代の長泰より寺内町の経営を任されていた真宗寺院の教行寺との間に支配権
のことで対立し、教行寺を箸尾へ立ち退かせた。
慶安四年(1651年)、この跡地に長勝は一寺を建立し、本願寺第十三世門主良
如上人に寄付し、御門跡兼帯所(別院)として格式ある寺とした。 門跡寺院として
筋壁(表塀の五本の筋)を許された。
最初円城寺といい、寛延二年(1749年)寺号を改めて浄照寺と称した。
明治10年(1877)2月10日、明治天皇行幸、畝傍山陵参拝のみぎり、ご休憩ご昼
食。明治23年(1877)4月24日、昭憲皇太后行啓、ご宿泊所となる。
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楽田寺
楽田寺は、天平年間の創建と伝えられますが、定かではありません。元は真言宗
の寺院でしたが、江戸時代に融通念仏宗に改宗しています。現在は無住となって
います。
※楽田寺の善女龍王図
室町時代に製作されたと伝わっています。龍王が雷神・雨神を伴い、上方には
十一面観音像、下方には弘法大師坐像を配しています。寺号の雨宝龍王院が
示すように、善女龍王図は雨乞い祈願に用いられました。
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津島神社
津島神社は、田原本町旧町域の南側に鎮座する。神仏分離以前は祇園社といった。
現在も夏に盛大な祇園祭が催されることもあり、地元では「祇園さん」の愛称で親しま
れている。現在、祭神は素戔鳴命、櫛名田姫命、誉田別命、天児屋根命などとなって
いるが、本来は牛頭天王を祭神とする田原本村の産土神だったと考えられる。
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4月13日の吉野山その他-1

4月16日               4月13日の吉野山その他-1
     その他色々・・・
4月12日
社友会事務所へ歩こう会のHP更新へ
久宝寺駅~
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家の近所へ戻って
ハナミズキが満開に・・・
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4月13日
およそ30年ぶりの吉野?
吉野山へ桜を鑑賞?に出かけて見たが残念な事に・・・
吉野駅~
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中千本広場へバスで行くが桜は無し? @360円
シャガが目につく、更に上の奥千本へバスで向かう @400円
奥千本へ到着
金峯神社 修行門
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金峯神社
此処の桜は未だ残っていた?
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源義経隠搭
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直ぐ下に展望台が有り、行ってみた
高城山展望台
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此処から
帰り道、義経隠搭へもどり
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家内を待たせていた金峯神社へ戻り
奥千本のバス亭へ並び
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奥千本~中千本へ バス移動 @400円
バス発着場~竹林院~中千本バス発着場へ
竹林院
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此の続きは、
4月13日の吉野山その他-2 として
       下記のメインブログへ詳細を投稿します。
      http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、竹林院~中千本バス停へ~
竹林院~中千本バス停へ歩く
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シャガが綺麗
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トンネルからバスが
このバスで吉野駅へ向かう?
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30年前は、此の辺り迄来た記憶が?金峯山寺蔵王堂へ来てた
中千本から上へは行った記憶が無い、今回初めて桜を求めて奥へ・・・
中千本バス停~吉野駅へバス @360円
バスの車窓から
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吉野駅に到着
桜とバニラ、ヨモギとバニラのソフトクリームを喰らう?
ヨモギとバニラが美味しかった!?
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五位堂駅からバスで地元へ
ハナミズキが綺麗に咲いて・・・
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4月8日の馬見丘陵公園50万株の花々を見に行こう-1

4月16日     4月8日の馬見丘陵公園50万株の花々を見に行こう-1
            近鉄駅フリーハイキング 歩程8㎞
此の日は、知人と5名で参加、近鉄ハイキング30周年記念ピンバッジが貰えると有り
参加者多数、更に今回は女性の為、女性の方々には抽選会も開催されるハイキング。
コース  近鉄駅フリーハイキング  五位堂駅 受付10時~10時半 
五位堂駅(受付)~かつらぎの道~新家長福寺~竹取公園~馬見丘陵公園・チュー
リップフエア~竹取公園・抽選会~三吉石塚古墳~かつらぎの道~五位堂駅(解散)
コースには無かった新家長福寺へ花を見に立ち寄って正解、八重桜、藤、石楠花や
牡丹も咲いていてとても良かった。私は三吉石塚古墳~かつらぎの道へ行く所で皆と
別れて自宅へ帰り、此の日の私の万歩計は、24516歩で約18.1km歩いたことに・・・
志都美駅
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香芝駅~近鉄下田駅へ乗り換え
鹿島神社
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近鉄下田駅
特急電車通過
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五位堂駅(受付)
長蛇の列
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かつらぎの道~新家長福寺へ寄り道
コースには無かった真宗大谷派・新家長福寺(しんけ・ちょうふくじ)へ花見に
境内に桜が多く、地元の人からは「桜御坊」と呼ばれ、親しまれている。八重桜が
多く植えられている。地元の人からは「桜御坊」と呼ばれ、親しまれている。
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此の続きは、
4月8日の馬見丘陵公園50万株の花々を見に行こう-2 として
         下記のメインブログへ詳細を投稿します。
       http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きも、新家長福寺の花々~
新家長福寺の花々
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竹取公園へ向かう
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竹取公園
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馬見丘陵公園
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南エリアのチューリップ
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下池
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中央エリア、バラ園のチューリップ
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北エリアへ向かう
ハナミズキも満開・・・
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中央と北エリアの連絡道
トンネルを潜って北エリアのチューリップ
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抽選会場の竹取公園へ戻る
水車小屋
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抽選会場
女性だけに抽選が始まった
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三吉石塚古墳
コースの牧野古墳を三吉石塚古墳に変えて?
三吉石塚古墳
新木山古墳の西に築かれた東向きの帆立貝形古墳で、周濠が掘られ、さらに外堤
があり、堤を含めた全長は62メートルとなる。墳丘は二段築成で、二段目には円筒
埴輪の他に蓋(きぬがさ)、短甲(たんこう)、家形埴輪が立てられていた。埋葬施設
は未調査で、埴輪から古墳時代中期後葉の築造と考えられる。古墳の遺構を盛土
で保存した上に、かさあげ方式で築造当初の姿に復元整備してる。円筒、朝顔形埴
輪は、出土遺物に基づいて製作した複製品を設置し、葺石も築造当時の積み方で
葺いている。
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かつらぎの道へ向かう途中のケーキ屋で
ケーキでお茶してかつらぎの道で皆と別れて、少し歩いてバスで帰った・・・

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4月7日の榛原駅~目指せ!又兵衛桜!-1

4月15日        4月7日の榛原駅~目指せ!又兵衛桜!-1
               近鉄駅フリーハイキング 歩程約13㎞
此の日は知人と2名で参加、前日の風雨で桜が散ったのでは?と心配したが桜は
未だ残っていた、しかし冬に逆戻りした様な非常に寒い中のスタート、曇り空で寒
かったが、昼からは陽も差してきて少し暖かくなり過ごし易い天気になって・・・
此の日の私の万歩計は、28723歩で約21.2km歩いたことに・・・
コース  近鉄駅フリーハイキング  榛原駅 南出口階段下 受付9時半~11時
榛原駅(受付)~宇陀川沿いを歩く~うだ・アニマルパーク(昼食)~宇陀松山地区
・慶恩寺・秋山城跡・春日神社~阿紀神社~又兵衛桜~人麻呂公園~大願寺~
道の駅宇陀路   大宇陀バス停 ⇒ 奈良交通バス ⇒ 榛原駅
榛原駅(受付)
宇陀川桜並木を歩く
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篠楽河川公園
猟路の桜(かりじのさくら)
飛鳥藤原京の古、宮廷遊猟の地であった宇陀の山野。古典的に由緒あるこの地
を後世に伝えんと記念の桜を植樹し、「猟路の桜」と名づけられたいうのが所以の
桜並木。榛原の花火大会も行われるこの地に、こんな桜があろうとは。すらばらし
いお花見ポイントでした。
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平尾水分神社の朱い鳥居
宇陀には、このほか宇太水分神社(下社) 宇太水分神社(中社) 惣社宇太水分
神社(上社)とあります
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うだ・アニマルパークへ向かう
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うだ・アニマルパーク(昼食休憩)
宇陀市大宇陀の県畜産技術センターでは60年以上にわたり、牛・豚・鶏などの試験
研究を行い、様々な成果を上げてきておりますが、平成13年4月に大家畜(牛)部門
が宇陀郡御杖村の「みつえ高原牧場」に移転したことによる敷地の有効活用として、
動物とのふれあいを通して次代を担う子どもたちの健全な育成を目指すとともに、県
内外のみなさんにレクリェーションの場を提供し、社会全体の発展に寄与することを
目指し、うだ・アニマルパークを設置することにしました。
うだ・アニマルパークは、人と動物とのふれあいを通して、動物を学び、動物から学び、
そして動物のために学ぶ「いのちの教育」を行い、広く県民に動物全般に対する理解
を促進するとともに動物に対する愛護の思想について、普及啓発を図り豊かな社会
づくりに寄与することを目的とした施設です。
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宇陀松山地区
宇陀松山、聞き慣れない地名かもしれませんが、古くから城下町として発展し、その
町並みが今も生活の場としながらも景観を保ったまま残っている地区です。
2006年には「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。
・慶恩寺
松谷山菩提院慶恩寺。開山は持統天皇九年に吾城行宮を賜って堂宇としたことに
始まる。その後文治2年に奈良の大仏殿再興にあたり、伽藍指図5分の1の試みと
して建立された。鐘楼には無銘であるが古い梵鐘が懸かる。
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宇陀簡易裁判所の桜
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・松山西口関門(黒門)
福島掃部孝治が城下町への出入口として今から400年前に建築したもので、昭和
6年に国の史跡に指定された。宇陀川から春日社にぬける道に位置し、付近には
枡形がある。町の人には「黒門」と呼ばれ親しまれている。
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・恵比寿神社
愛宕神社、恵毘須神社、愛宕寺の神仏混合社。愛宕神社は、城下町の火災防止の
ため、松山城主織田長頼が勧請奉祀させたといわれる。恵毘寿神社は町内の茶町
から移され、江戸以来毎年2月8日には初えびすが行われる。
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・秋山城跡・春日神社
秋山城跡のみで城址へは登らなかったが
宇陀松山城は、南北朝時代から宇陀に勢力をもつ秋山氏の本城であったが、天正
13年に豊臣家大名の居城となり、城下町が整備された。最後の城主福島氏が元
和元年に改易され、平成7年からは発掘調査が行われている。平成18年、国史跡
に指定された。
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春日神社
祭神、武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比び大神。本殿、拝殿、神饌所、門、社務
所の施設が整い、石造灯籠新古を交え35基を奉建している。当社の旧祠宮と伝え
る佐々岡家には祭礼記など数通の古文書を蔵している。
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伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ)
春日神社の双幹の大杉は伊太祁曽神社のご神木になっています。
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銘菓「きみごろも」本舗 松月堂(しょうげつどう)
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阿紀神社へ向う
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阿紀神社(あきじんじゃ)
阿紀神社は奈良県宇陀市大宇陀迫間(おおうだはさま)に鎮座する神社。旧社格
は県社、延喜式内社。旧称は阿貴宮および神戸大神宮、通称は神戸明神。
神代に神楽岡に創建され、崇神天皇の勅によって神戸大神宮の号を賜わる。安土
桃山時代(天正年間)に本郷川西岸の現在地に遷座されたときに、現在の社名へと
改められた。江戸時代前期に能舞台が建設され、能が上演されるようになる。
1902年(明治35年)に郷社から昇格して県社に列格した。
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此の続きは、
4月7日の榛原駅~目指せ!又兵衛桜!-2 として
       下記のメインブログへ詳細を投稿します。
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続きは、又兵衛桜へ向かう~
又兵衛桜へ向かう
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又兵衛桜
樹齢300年とも言われる枝垂れ桜。この地に伝わる後藤又兵衛の伝説と、この
桜が後藤家の屋敷跡にあることから「又兵衛桜」と呼ばれ親しまれています。
大阪夏の陣で活躍した戦国武将後藤又兵衛が当地へ落ち延び、僧侶となって一
生を終えたという伝説が残り、この垂れ桜が残る地も、後藤家の屋敷跡とされる。
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阿騎野人麻呂公園
「阿騎野人麻呂公園」は古代の狩場であった「阿騎野」の中心施設がおかれていた
場所で、平成7年の発掘調査の後、現在は遺跡公園として保存されている。公園内
には柿本人麻呂像や、復原された掘立柱建物などがある。
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大願寺
大宇陀は、古くは阿騎野と呼ばれ、推古19年(611年)に宮廷の薬狩りの記述が日本
書記にあります。万葉集の中でも秀歌とされる「東(ひむがし)の野にかぎろひの立つ
見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」は柿本人麻呂がこの地を訪れて詠んだもので
す。江戸時代には織田松山藩が治め商家町として栄え、薬草の里らしく多くの薬問
屋がありました。現在も風情のある町並が残る宇陀松山地区は国の重要伝統的建
造物群保存地区に指定されています。江戸中期より続く「森野旧薬園」や薬問屋の
旧居を資料館にした「薬の館」などを見学することが出来ます。
織田家の祈願所の歴史を持つ大願寺では、薬草や宇陀の名産である吉野葛を使っ
た精進料理を提供しております。
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道の駅 宇陀路

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4月5日の春爛漫!風に揺られてひときわ輝く桜華-1

4月11日       4月5日の春爛漫!風に揺られてひときわ輝く桜華-1
                 近鉄駅フリーハイキング 歩程約14㎞
此の日は知人と2名で参加、昨年の紅葉の季節に歩こう会の会員大勢で訪れた公園
に近鉄駅フリーハイキングで桜の季節に又トライ・・・
コース   近鉄駅フリーハイキング  新祝園駅(受付)9時半~11時
新祝園駅(受付)~照光寺~常念寺~稲植神社~けいはんな記念公園~鳥谷公園~
山田川駅(ゴール)
けいはんな記念公園からショートカットして山田川駅へ向かったがたいした距離短縮に
はならず、此の日の私の万歩計は、29627歩で約21.9kmあるいたことに・・・
志都美駅
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照光寺(しょうこうじ)・・・精華町HPより
延宝8年(1680)、釈浄乗の開基といわれています。明和9年(1772)に寺地の地上げ
修復をしました。真宗大谷派の寺院。
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常念寺(じょうねんじ)・・・融通念仏宗
創建は不明ですが、寛正2年(1461)隨空恵順が中興、天保4年(1833)円空隣粲が本
堂・庫裡を再建して現在に至っています。
常念寺に伝えられている菩薩形立像は、神と仏、神道と仏教の調和の関係を具体的に
示す遺品の一つとして、わが国の歴史上きわめて重要な仏像といえるでしょう。
木津川は大変暴れ川で江戸時代250年間でも35回以上も洪水の被害が記録されてい
ます。「七仏薬師経」にとかれている七仏薬師の第一善名称吉祥薬師如来は、この薬
師如来独特の功徳として、大河や海上で暴風雨にあったとき、この像を祀り、航海の無
事を祈ったといわれています。
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※菩薩形立像(薬師堂本尊/国の重要文化財)
平安時代前期に製作されたもので、精華町で最も古い仏像です。高さは約169cmです。
一木造(いちぼくづくり)で頭から体部、両手首までを一材から掘り出しています。両手首
先や両足先、天衣の垂下部には別材をあてていますが、これらは後世に修復され、新し
い材に替わっています。表面は、現状ではほとんど素地を呈していますが、肉親部や着
衣部にわずかな漆箔の痕跡が見られるので、本来は漆箔仕上げの像であったと推定さ
れます。天衣を両肩から脚部付近まで長くたらしますが、両膝の前で複雑に交差させて
いる様式は、衣のひだに現れている翻波式衣文(ほんぱしきえもん)とともに9世紀の特
色をよく示しています。

※ハナズオウ(花蘇芳)
中国原産。江戸時代初期頃に日本に渡来。葉が出てくる前にピンク色の小さい蝶形
の花がたくさんかたまって咲く。木全体が花で埋まって見事な眺め。白花もときどき
見かける。「蘇芳」という言葉はマレー語の「サパン」から来ている。
また、この「蘇芳」から名づけられたのは、この花の色が神代から重要な赤色染料と
された”スオウ”の木の染汁の色に似ていることから。
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稲植神社へ向う
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稲植神社・・・精華町HPより
稲植神社は、南稲八妻・植田両地区を氏子として建立された神社で、御祭神は建速須
佐之男命(たけはやすさのおのみこと)です。口伝承によると、元祇園(京都八坂神社の
元)といわれるほど、古い歴史を持っています。最初は、牛頭天王社(ごうづてんのうや
しろ)として祀られ、のちに祇園社として祀られたという記録も残っており、記紀神話のな
かでは特別に豊かな性格づけがなされています。
源平の戦いや応仁の乱などで焼失し、一時期衰微していましたが、再建され、両地区の
氏神として祀られています。
なお、末社として、八幡宮、天満宮、熊野宮、八王子社、四ノ宮があります。
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稲植神社
当社に隣接して、三宝大荒神社がある。
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此の続きは、
4月5日の春爛漫!風に揺られてひときわ輝く桜華-2 として
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続きは、けいはんな公園へ向かう~
けいはんな記念公園へ向かう
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けいはんな記念公園
けいはんな学研都市(関西文化学術研究都市)の建設を記念する公園です。日本の里
の風景をテーマにしており、水景園(日本庭園)、芽ぶきの森(里山)、棚田風の広場など
を楽しめます。季節の行事も盛りだくさんです。
水景園(日本庭園)
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芽ぶきの森(里山)
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棚田風の広場)
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昼食を終えてひたすら歩く
鳥谷公園をパスして~山田川駅へ向かう
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4月3日の静御前縁の大和高田で歴史にふれて-1

4月10日      4月3日の静御前縁の大和高田で歴史にふれて-1
                歩こう会特別企画 歩程約8㎞
此の日は3月の例会に続いて2回目の花見ハイキング企画、今年は2回とも大当り、
3月27日の背割り堤に続き桜に大当たり?素晴らしい花見ハイキングとなった・・・
コース     参加者43名
築山駅(南改札口前広場 10時)~築山古墳~高田千本桜~静御前塚跡~静御前
記念碑(大中公園)・昼食~衣掛けの松~龍王宮~横大路~春日神社(解散)~近
鉄OrJR高田駅
此の日の私の万歩計は、17729歩で約13.1km歩いたことに・・・
志都美駅
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築山駅(南改札口前広場 10時)
築山古墳前 児童公園でトイレ休憩
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築山古墳(つきやまこふん)
築山古墳は、奈良県大和高田市築山字城山にある古墳。形状は前方後円墳。馬見
古墳群を構成する古墳の1つ(南群の盟主墳)。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「磐園陵墓参考地」(被葬候補者:第
23代顕宗天皇)として陵墓参考地に治定されている。
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高田川へ向かう
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高田川
高田千本桜・・・大和高田市HPより
高田川畔の千本桜は、市制施行の1948年(昭和23年)に植樹されたものです。
まもなく、樹齢70年を迎えます。年輪を重ねた見事な桜並木を見ることができます。
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※高田千本桜植樹秘話
・・・名倉仙蔵 第2・4代大和高田市長&奈良軍政府司令官ヘンダーソン大佐
サクラ苗木は、市内の町内会から、数本ずつの寄贈をうけることになってその数は
千本を少し越えた。文字どおり市民のサクラ、ということになる。
サクラ苗木は、吉野山保勝会へ斡旋を依頼して昭和23年12月に植樹することに
なった。このまま植樹ができたらなんの問題もなかったのだが、ひとつのざ折が
あった。河川の堤防にサクラを植える交渉を、長いあいだかかって県とやってきたが
どうしても許可できないという。従来は河川の堤防にサクラを植樹すると堤防を弱く
するといわれてきたが、サクラの根の張り方からみて、植樹の位置、間隔が適当で
あればむしろ堤防を強くする、この論文を、知事と土木部長に提示して強く許可を求
めたが、許可できないという。奈良軍政府司令官ヘンダーソン大佐に話してサクラの
植樹に協力を求め。将校食堂でヘンダーソン大佐と私の趣旨説明が終わると、軍曹
がボール箱でつくった寄付箱を持って食卓をまわってくれた。当時、サクラ苗木の価
格は7年生、8年生、といったもので80円だった。
まず、ヘンダーソン大佐が自分と夫人の名前を書いて6本を寄贈してくれた。将校連
中は、つぎつぎに自分と夫人や子どもの名前を書いて軍曹に渡してくれた。30分ほ
どで250本の寄贈をうけることになった。将校とその夫人、子どもの名前を書いた小
さな名札をつくって苗木につけ、一挙に、250本を堤防の安全な位置へ植樹した。
・・・・250本の苗木に右へならって千本サクラの苗木を植えてしまった。
高田川から少し外れて
静御前 塚跡
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※静御前
静御前は大和高 田の宿の長者の妻、礒野禅尼の娘として生まれた。美しい娘でした
ので、京都へのぼって歌舞を習い白拍子の名手となった。立烏帽子、水干、鞘巻を帯
びた麗し い姿は都の人々のまととなった。源義経にかわいがられたが、兄頼朝と仲が
わるくなった弟義経は追われて吉野山へかくれたときに静御前も吉野山へ来たが捕ら
えられて鎌倉へ送られ、鶴ヶ丘八幡宮の社頭で頼朝や政子の前で「静や、しず、静の
おだまき繰りかへし、昔を今に、なすよしもがな」と胸に涙をかくして舞っ た。静御前の
妙なる舞いの名技はならびいる人々の心をうばい、政子のなさけによって静御前は鎌
倉から京都に帰ることができた。ところが心つかれて病気にな り、母のいる故郷大和の
高田の礒野村に帰った。春日町の笠神の森にある明神さまに病気平癒をいのり、帰る
途中の一本の松の木に静御前は衣を掛けた。そこは 古墳で、いまは県立高田高校体
育館の南側の運動場。もと三本松があり、三本松といっていたが、天明年間(1781~
1789)に一本枯れ、昭和にも最後の 一本があった。高田の住人森田湖月が「色かえぬ
松の緑の 古墳かな」とよんだ俳句は、昭和十八年西川林之助によって碑とされたる高
さ七十センチ、幅七十 センチ。 静御前は、ここから礒野の里へ帰って死んだという。
いまの礒野の東北、字藤木にその塚がある。
大中公園
静御前 記念碑(大中公園)
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大中公園で昼食
高田川堤防で・・・
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此の続きは、
4月3日の静御前縁の大和高田で歴史にふれて-2 として
            下記のメインブログへ詳細を投稿します。   
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続きは、大中公園&高田川千本桜の途中~
昼食休憩の大中公園&高田川千本桜
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衣掛けの松へ向かう
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静御前 衣掛けの松(高田高校)
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龍王宮へ向かう
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龍王宮・・・石園坐多久虫玉神社(いそのにますたくむしたまじんじゃ)
通称は龍王宮と呼ばれる。大和高田市唯一の延喜式内社。
祭神は建玉依彦命、建玉依姫命の二坐。本社は安寧天皇片塩浮孔宮跡と伝承される。
尚、横大路に沿うように、大神神社を龍の頭、当神社を龍の胴、葛城市の長尾神社を龍
の尾とする伝承がある。
創建年代は不明であるが、第三代安寧天皇の時代の都である片塩浮穴宮跡の伝承地
に鎮座している。崇神天皇の時代に勅祭が行われたと伝えられる。延喜式神名帳では
「大和国葛下郡 石園坐多久虫玉神社 二座」と記載され、大社に列し、月次・新嘗の幣帛
に預ると記されている。
古くは「射園神:いそのかみ」と呼ばれたという。石上神宮がある石上(いそのかみ)と何
らかの関係があるのか興味深い。また、宮中に祀られていた園神神社と関係があるとの
説もある。
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横大路・・・大和高田市HPより
市内の中央部を東西に貫く道、横大路は、古代からの大道で、国家が設置した最初の国
道ともいえるものです。日本書紀には「難波より京に至る大道を置く」と記述されており、
道幅が30メートル(諸説あり)ぐらいあったとされています。
「横大路」は、古代には京(飛鳥)へ、中世以降は、長谷寺や伊勢神宮詣での交通の要衝
として、多くの人々の往来があり、そのなかには、飛鳥の都へ向かう外国の使者や、豪族
たちも、この道を通ったと思われます。
江戸時代には、伊勢参りが盛んとなり、伊勢神宮に参拝する道中には、道しるべとして
「おかげ灯籠」が建てられて、幕末にはおかげ参りが大ブームとなり、街道沿いでは、食事
や湯茶の接待などの「施行」を行ったとされています。
このようすは、文政13年(1830年)に石園座多久虫玉神社(龍王宮)に奉納されたおかげ
参りの絵馬(1990年焼失)に詳しく描かれ、この絵馬に描 かれている「おかげ参り」に由来
して、平成9年に、かつての横大路の賑わいと商都「大和高田」の復活を願って高田おか
げまつりが発足しました。
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※横大路(伊勢街道)
横大路(よこおおじ)とは、奈良盆地を東西に貫く古代からの道。 「横大路」と呼ばれた道
は、奈良盆地南部の藤原京付近を通っていた道 と 法隆寺付近から現在の天理市櫟本
付近までの道の二つがあり、通常は前者のことを指し、後者は「北の横大路」と区別される。
通常「横大路」と呼ばれる道は、桜井市の三輪山の南から葛城市の二上山付近まで東西に
ほぼまっすぐに設置された道である。難波京と飛鳥京を結ぶ官道のひとつとして整備され
た。 別名として、伊勢街道(伊勢本街道)とも呼ばれる。現在の国道166号線の一部区間そ
のもの、および国道に平行している。東側では伊勢国への伊勢街道および初瀬街道に、西
側では和泉国に至る竹内街道および長尾街道に接続する。

春日神社
大和高田市大中東町の「春日神社」が鎮座します。祭神は、奈良の「春日大社」と同じ神様
で、武甕槌命(たけみかづちノみこと)、経津主命(ふつぬしノみこと)、天児屋根命(あめノ
こやねノみこと)、天児屋根命の妃・比売神(ひめノかみ)ら春日四神を祀っています。神社
の紋は「下がり藤」です。
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※義経の七つ石
境内に「源義経の七つ石」があります。平家を滅ぼしたけど、兄頼朝に追われた義経が、
京都から奈良へ出て、山の辺の道を南へ歩き、長谷街道を西へ向かい、静御前の母・磯
野禅尼(いそのぜんに)のいた高田の里へ入り、大中の村の小さな宮(チャンチャン社)で
休みました。その時、義経に従うのは、静、武蔵坊弁慶、常陸坊海尊、駿河の次郎、伊勢
の三郎、亀井の六郎、片岡経春、狐の化身・佐藤忠信、荷物持ち喜三太の9人で、伊勢
の三郎が物見に出て、静は片岡経春の護衛で母に会いに行き、残った義経主従7人が境
内の石に腰掛ました。
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近鉄OrJR高田駅

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3月31日の春を探そう 東大阪桜花謳歌の旅-1

4月5日      3月31日の春を探そう 東大阪桜花謳歌の旅-1
              近鉄駅フリーハイキング 歩程約9㎞
此の日は、最高のハイキング日和、知人と4名で参加、途中に石切劔箭神社を加えて
此の日の私の万歩計は、26558歩で約19.6km歩いたことに・・・
近鉄駅フリーハイキング  石切駅 北改札口(受付) 9時半~10時半
石切駅 北改札口(受付)~石切大仏~石切劔箭神社~重願寺~枚岡公園~枚岡神
社~瓢箪山稲荷神社~花園中央公園~吉田春日神社(ラグビー神社)~東花園駅 
志都美駅
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石切大仏へ向かう
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千手寺(せんじゅうじ)
当山の縁起は1574年(天正2年)に記された寺伝によれば、今から約1300年前、笠
置山の千手窟で修行していた役行者が、神炎に導かれ当地に来て千手観音の出現に
出会い、一宇を創建し、恵日山千手寺と名付けた。以後里人はこの堂を光堂とよび、こ
の地を神並(こうなみ)の里と呼ぶようになった。
また、平安時代の初め、弘法大師がこの寺に止宿した際、当寺守護の善女竜王が夢に
現れ、補陀落山の香木を与えた。大変喜んだ大師はこの木で千手観音像を刻し本尊と
した。その後、維喬親王(これたかしんのう:844~897)の乱で、堂宇は灰燼に帰した
が、本尊の千手観音は深野池(現大東市鴻池新田あたりにあった)に自ら飛入り、夜ご
とに光を放つを見た在原業平がこれを奉出し、これを本尊として寺を再建したと伝える。
維喬親王は文徳天皇の第1皇子。第4皇子の維仁親王(後の清和天皇)の外戚藤原良
房の力が強く、皇位継承にはならなかったが、乱を起したというのは史実ではない。
いずれにしても、役行者、弘法大師、維喬親王、在原業平と歴史上の人物が次々と登
場するこの寺の寺伝。境内に古墳も有る。なんじゃもんじゃの木も有る。
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石切大仏
精力ドリンク「赤まむし」などを製造・販売するサカンポー(阪本漢方製薬)の4代目
阪本昌胤氏が創業地である東大阪市石切町に建立したのが、石切大仏です。
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石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)
神道石切教の神社。 延喜式神名帳に記載されている河内郡の式内小社。
「石切劔箭命神社二座」。
「石切さん」「でんぼ(腫れ物)の神様」として親しまれ、本殿前と神社入り口にある百度
石の間を行き来するお百度参りが全国的に有名。創建年代は、火災により社殿及び
宝庫が悉く消失したため詳らかではないが、代々の社家「木積」家には、皇紀2年に生
駒山中の宮山に可美真手命が饒速日尊を奉祀されたのを神社の起源とし、崇神天皇
の御世に現本社に可美真手命が奉祀されたと伝わる。現在確認できる文献では、日
本三代実録(巻十一)に「貞観7年9月22日に河内国正六位の石切劔箭神社従五位下
を授く」との記述がみられ、延喜式神名帳にも「石切劔箭命神社二座」とみられる。
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石切大仏の方へ戻る
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石切大仏~額田駅へ向かう
公園出トイレ休憩
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夫婦塚古墳・・・神並古墳群
夫婦塚古墳は、21基からなる神並古墳群(現存7基だそうです)の中心的な古墳です。
東大坂市の文化財に指定されています。平成元年に石室内部の発掘調査が行われて
います。西石室は3体、東石室は2体の埋葬が確認されています
東石室からは須恵器・土師器などの土器類、銀製品、玉類、馬に乗った人物や犬をか
たどった壷の装飾部品が出土。西石室からは須恵器、玉類、耳環、銀製品が出土。
6世紀中頃の築造と考えられています。
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額田駅~重願寺へ向かう
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※又見逃した楠正行の首塚
額田駅から重願寺へ向かう途中、「重願寺」の手前に「楠木正行公の首塚」が有ると言う、
駅の近くで小さな案内「楠木正行公の首塚」文字を見たが見つからない?
案内瞞に従い歩いて行くと、住宅地の一角に小さな石龕が祀られていると言う、楠木正成
の長男である正行は父子2代にわたる南朝方の忠臣として後世に名をとどめており、13
48年(正平3年)高師直軍との四条畷の戦いで破れ、弟正時と差し違えて自害したといわ
れるが、その墓は四条畷神社が管理している「小楠公墓所」以外にも、正行が本陣を置い
た「往生院」にある。また、首塚についても京都嵯峨の「宝筺院」や宇治の「正行寺」が有名
であるが、この東大阪市の此処にも首塚が有ると言う。
この塚は、地元では昔から手厚く保護され、現在でも手入れが行き届いていると言う。

重願寺・・・重願寺HPより
当寺は當知院本誓山重願寺と号し、大阪都市計画の谷町線拡張により昭和37年に
現在の額田に移転した浄土宗のお寺です。
総本山は京都の知恩院。豊臣秀吉の本願で、文録3年(1594)5月18日に岸譽雲
海上人が開基しました。現在の住職は19世忍譽行雄です。
御本尊の木造阿弥陀如来様は座像で像高140センチ、頭高46センチ、膝張108セ
ンチで、その姿は木彫全金色で定印を結び、船形光背を負い、重蓮台に座して藤原
時代の特徴を残しています。
多寶塔におまつりしている聖観音様は立像で高さ105センチ、お顔は温和で藤原様
式の優美な観音様です。
この観音様は大坂三十三ヶ所観音めぐりの第17番札所として江戸時代以来信仰され、
近松門左衛門作『曾根崎心中附り観音めぐり』の中にも『17番に重願寺、ここからいく
つ生玉の、本誓寺ぞと伏拝む』と重願寺の事が記載されています。
大阪市内が一望できる境内には慈雲尊者歌碑をはじめとして、そのほかには大坂夏の
陣『大坂城かえる石』『大坂刀匠碑』『井上真誡墓碑』2代目桂文枝の『桂塚賛成者碑』
など様々な石碑が奉られています。
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此の続きは、
3月31日の春を探そう 東大阪桜花謳歌の旅-2 として
          下記のメインブログへ詳細を投稿します。 
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続きは、枚岡公園~   
枚岡公園(昼食休憩)
枚岡公園は、昭和13年に開設され、額田地区および枚岡地区の2つの尾根からなり、
その中央部を豊浦渓谷が流下している自然を生かした公園で、面積が約43.4haです。
昭和33年に金剛生駒国定公園が指定されるにあたり枚岡公園の全地域も国定公園
地域に含められました。梅林や桜の名所としても有名です。
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姥ヶ池
姥ヶ池の伝説・・・東大坂の昔話から
およそ600年ほども昔の事でしょうか、河内の国は枚岡の里に伝わる物語です。
村の男が夜道を歩いていると、どこからともなく一尺ほどの火の玉が飛んできて男の顔
をかすめてゆきました。なんや!と思い、よく見ると、白髪頭の老婆の首が宙をただよい
口から火を吹いているではありませんか。男は肝を冷やし、家にとんで帰りガタガタ震え
ていましたが、数日後には死んでしまいした。
村では寄るとさわるとこの話でもちきりで、噂は枚岡神社の神官たちの耳に入るまでに
なりました。枚岡神社では、このところ御灯明が夜半に消えてしまう怪事件が頻発して
いて、「枚岡神社の御灯明は、河内一国を照らされるもの、なのにこれはいかがしたも
のか」と問題になっていました。
山姥の仕業、山姥の正体は?
山姥は、若いころ、「山家の花」と呼ばれたほどの器量よしで、村の若者たちのあこがれ
の的でした。ところが人生とはわからないもので、何の因果か連れ添った男が十一人ま
で次々と死に失せ、それからは村人たちも恐れて言葉も交わしません。
八十八まで生きたが、往年の面影はなく、白髪の恐ろしげな老婆となっても、死ぬに死ね
ず貧しい暮らしをたてていました。夜なべの油も買えず、悪いこととは知りながらも、神社
の燈明の油を盗んでしまいました。それを村人にとがめられたため、老婆は神社の境内
の池に身投げして死んでしまったのです。村人たちは、冷たいもので供養もせず、仏も野
ざらしにして野犬や烏のついばむに任せていました。
それ以来、雨の降る夜には池の付近に青白い火の玉が現れ、老婆の妄執の火であると、
「姥ヶ火」と呼ばれるようになり、大変怖がられるようになったのです。
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枚岡神社
祭神
主祭神として祀られている天児屋根命(あめのこやねのみこと)は、「日本書紀」神代巻に
「中臣の上祖(とおつおや)」「神事をつかさどる宗源者なり」と記され、古代の河内大国に
根拠をもち、大和朝廷の祭祀をつかさどった中臣氏の祖神で、比売御神(ひめみかみ)は
その后神です。経津主命(ふつぬしのみこと)・武甕槌命(たけみかづちのみこと)は、香取
鹿島の神で、ともに中臣氏との縁深い神として知られています。
創祀
枚岡神社の創祀は、皇紀前まで遡り、初代天皇の神武天皇が大和の地で即位される3
年前と伝えられています。神武御東征の砌、神武天皇の勅命を奉じて、天種子命(あめ
のたねこのみこと)が平国(くにむけ)(国土平定)を祈願するため天児屋根命・比売御神
の二神を、霊地神津嶽(かみつだけ)に一大磐境を設け祀られたのが枚岡神社の創祀と
されています。
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※皇紀
皇紀とは日本独自の暦で、西暦はキリスト誕生を元始とするが、日本の皇紀は、
初代天皇西暦よりも660年前に皇紀がはじまったとされます。
※神武御東征(じんむごとうせい)
神武天皇(神倭伊波禮毘古命:かむやまといはれびこのみこと)は、日本の国を治める為、
九州の日向高千穂から東に向かわれ、地方を治めながら日本の最中大和の国、畝傍山
の橿原の地でご即位されたと日本書記に記されています。これを神武御東征といいます。
浪速(今の大阪湾、当時の湾はかなりいりくんでいたと伝わる)に上陸され、生駒の山を
越えて大和の国へ進もうとされたが、生駒の豪族であったナガスネヒコの大軍がこれを阻
止しようと戦がおこってしまいます。思うように進むことができないばかりか、兄である五
瀬命(いつせのみこと)が流れ矢によって負傷してしまうなど、かなりの痛手を負い、ここに
神武天皇は、神のお告げによって「天照大御神の子孫でありながら、日に向かって敵を討
つことは神の道に逆らうものである」と悟られ、天神地祇を祀った後、皇軍を還して和歌山
紀州路から吉野を通り、日を背にむけて大和へ進むことを決意されます。
この時に、天児屋根命・比売御神の二柱の神を霊地神津嶽にお祀りし、国土の平定を
祈願され、その後、熊野を経て大和橿原の地に即位されます。

瓢箪山稲荷神社
瓢箪形の古墳を背にまつられた瓢箪山稲荷神社は古くから「淡路島かよう千鳥の河内ひょ
うたん山恋の辻占」と名調子で売り歩いた辻占の総本山で、日本三大稲荷の一つです。こ
の辻占は、一の鳥居前にある占場に立って往来する人の服装・態度・持ち物などを見て判
じたといわれています。
創建は天正11年(1584年)。豊臣秀吉が大坂城築城にあたり、巽の方(大坂城の南東)三
里の地に鎮護神として伏見桃山城から「ふくべ稲荷」を勧請したことが由緒とされる。 現在
の本殿は、慶応2年(1866年)に建てられたものである。
神社本殿の背後にある小丘は、通称「瓢箪山古墳」とよばれる、古墳時代後期・6世紀末ご
ろに作られた双円墳で、山畑古墳群の中で最大・最古のもの。 そのヒョウタンに似た形状
から、古墳および一帯の地名が「瓢箪山」と呼ばれるようになった。
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花園中央公園へ向かう
瓢箪山商店街
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しばらく恩地川沿い
恩地川を渡る
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花園中央公園・・・HPより
公園内には花園中央公園野球場(花園セントラルスタジアム)、ドリーム21、市民美術セン
ター等があり、花園図書館や花園ラグビー場にも近く、東大阪市の文化・スポーツ活動の
拠点となるよう、 各種の施設整備を進めています。  
公園内の東側には、桜の広場や花菖蒲池などがあり、開花時期には多くの人が訪れ、公
園利用者の憩いの場となっています。また、南側のメインゲートにある石モニュメントと噴
水は公園のシンボルであり、涼やかで心地良い空間を創り出しています。
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吉田春日神社(ラグビー神社)
吉田春日神社は、大阪府東大阪市吉田にある神社。近代社格では村社。神社本庁に属
さない単立神社である。正式には春日神社のみ。参拝すれば、御朱印を頂ける。
創建年代は不詳。大和春日大社より四柱神を勧請したと伝わる。旧河内郡吉田村の鎮守
として崇敬され、古くは「松の宮」と称した。
御祭神は、天児屋根大神・比売大神・武甕槌大神・経津主大神(斎主大神)。
現存の本殿は、江戸時代前期の寛文10年(1670年)に再建され、中期の享保5年
(1720年)に大修理されたもの。
昭和4年(1929年)、日本初のラグビー専用スタジアムとして、花園ラグビー場が開場した。
「花園」といえば高校生ラガーの憧れであり、聖地。
当社はその程近くに鎮座するため、現在は「ラグビー神社」として知られる。拝殿には奉納
された大きな木製のラグビーボールとラグビーボール型の絵馬が並ぶ。
正月の全国高校ラグビー大会、ジャパントップリーグの開催期間には関係者の参詣が多く、
全国唯一のラグビー守袋を扱う。

東花園駅

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3月27日の淀の城下町から京街道を歩く-1

4月2日       3月27日の淀の城下町から京街道を歩く-1
                 3月度 歩こう会 歩程約7㎞
最高のハイキング日和、最高の桜開花時期に背割り堤の桜を見る事が出来た。
此の日の参加者は87名、私の万歩計は、17881歩で約13.2km歩いたことに・・・
飛行神社参拝後に石清水八幡宮鳥居前の走井餅屋で知人と4名でお茶して
コース  鶏飯淀駅に10時半(受付・集合) 
京阪淀駅(受付)~淀城(跡)・與杼神社~淀緑地(河津桜)~淀川河川公園~背
割り堤(昼食)さくらであい館&展望台~飛行神社~京阪八幡市駅(解散)
京橋駅で京阪電車に乗り換えて
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淀駅到着~スタート
淀駅前の水車
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與杼神社(よどじんじゃ)&淀城跡へ向かう
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與杼神社(よどじんじゃ)
與杼神社は、京都市伏見区淀にある神社。祭神は、豊玉姫命、高皇産霊神、速秋
津姫命の三柱。
愛宕念仏寺などを再興した千観内供が応和年間(961年-964年)頃に肥前国(現在
の佐賀県)佐賀郡河上村の與止日女神社より淀大明神を勧請して建立。
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淀城跡
戦国期の城は現城跡より北の納所に築城。のち豊臣秀吉が淀君の産所として修築
したが伏見城の築城で廃城。その後、1623年(元和9)松平定綱が現位置に築く。
明治維新後破却。本丸石垣・内濠の一部が残り往時の名残をとどめている。
淀は「与渡津」(淀の港の意)と呼ばれ、古代には諸国からの貢納物や西日本から都
に運ばれる海産物や塩の陸揚げを集積する商業地であった。また、河内国・摂津国
方面や大和国方面から山城国・京洛に入る要衝であった。
淀城は、宇治川、桂川の合流付近の川中島、現在の京都市伏見区の京阪電気鉄道
淀駅の南西に位置する。安土桃山時代、豊臣秀吉が、側室茶々の産所として築かせ
た淀城は現在の位置より北へ約500メートルの位置にあった。こちらは、鶴松死後に
拾丸誕生後養子となっていた豊臣秀次が謀反の疑いを掛けられた際、城主であった
木村重茲の連座とともに廃城とされた。
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淀緑地・・・京都で一番早く花見が出来る場所?だとか
伏見区の南西に位置する淀。かつて桂川・宇治川・木津川が合流して淀川となり、
大阪平野へつながる水陸交通の要衝でした。平安時代には「与度津」を呼ばれ都
の外港となり、戦国時代にかけては城が築かれ、城下町として発展しました。淀は
各時代で重要な役割を果たし、歴史を刻みながら変遷を続けてきたのです。
近年は京都競馬場のある場所として、多くの人を集めてきましたが、1999年に着
工した京阪電鉄本線淀駅の高架化と周辺整備をきっかけに、淀の特色を生かした
新しい町づくりを目指した取り組みが進められています。淀水路を中心に河津桜を
植樹する試みも、その一つです。
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淀川河川公園へ向かう
田圃のあぜ道を、足元にレンゲ、土筆、タンポポ等春の花々・・・
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此の続きは、
3月27日の淀の城下町から京街道を歩く-2 として
       下記のメインブログへ詳細を投稿します。
      http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、未だ未だ続く淀川河川公園へ向かう~
スギナと土筆
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淀川河川公園(よどがわかせんこうえん)
淀川河川公園は、大阪府と京都府を流れる淀川の河川敷にある国営公園です。
6市・2町をまたぐ大規模な公園ですが、その中でも京都府八幡市にある背割堤
(せわりてい)は、景観全保全地区に指定されていて、その堤防沿いの桜が美し
いと評判です。
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展望台・・・さくらであい館
三川合流の地に、出会いの場がある。 木津川、宇治川、桂川が出会う三川合流
地点にほど近い桜の名所、背割堤に平成29年春、地域の新しいランドマークが
完成しました。 三川合流エリアの地域間交流や地域振興、観光周遊の拠点として
人・物・情報が出会う、活気あふれるスペースをめざして活動しています。
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背割り堤(昼食)
背割堤は宇治川(淀川)と木津川の合流部にある堤防で、全長約1.4Km。非常に
広々とした堤防沿いは、お花見をするには抜群のロケーションです。
背割堤(せわりてい)は、京都府八幡市にある堤防である。宇治川(淀川)と木津川
の合流部に全長1.4kmにわたって2つの河川を区切るように設置されている。洪水
発生時に両河川をスムーズかつ安全に合流させる役割を果たしている。
淀川河川公園の景観保全地区に指定され、ソメイヨシノが約250本植えられている
ため、毎年4月には花見客でにぎわっている。
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※桜の背割り堤・・・昭和63年4月より桜並木の一般開放を開始した。
明治時代まで木津川は淀(京都市伏見区)付近で宇治川に合流していた。1800年
代後半には明治大洪水をはじめとして、淀川で多数の水害が発生した。そのため、
木津川と宇治川の合流部を現在の三川合流部に付け替える淀川改良工事が行わ
れ、1910年に現在の流路となった。更に1917年の大正大洪水の被害を受けて河
川改修が行われ、現在の背割堤が建設された。
1970年代までは堤防にマツが植えられていたが、虫害のためソメイヨシノに植え替
えて現在に至っている。昭和63年(1988年)4月より桜並木の一般開放を開始した。

昼食を終えて展望台から
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背割り堤の入口に集合
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飛行神社へ向う
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飛行神社・・・飛行神社HPより
このサイトは我が国で最初に固定翼の理論、飛行原理を発見した愛媛県八幡浜市
出身の二宮忠八翁が大正4年(1915)京都府八幡の自邸内に創建した飛行神社の
公式ホームページです。
航空殉難者・物故先覚者の御霊の安穏を祈り、空の安全、航空業界の益々の発展
を願う神社です。
平成27年(2015)に創建100年、同28年(2016)には二宮忠八翁生誕150年の
記念の年を迎えました。
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※飛行神社の祭神
中央:饒速日命 右:航空殉難者の霊・航空業功績者  左:薬祖神・金毘羅・白龍神
饒速日命は神話において天磐船にのって地上に降臨したとされることから、空の神・
飛行機の神(天磐船:アメノイワフネ=飛行機と解釈)として結び付けられ、飛行神社
の祭神に選ばれた。大阪府交野市の磐船神社より勧請したものである。
右の社殿には航空業界に業績を残したものの霊と、世界中の全ての航空事故の犠牲
者の霊を祀る。日本国内の航空事故犠牲者については表名(一人一人の名前を挙げ
て)合祀を行い、国外の犠牲者については無表名で(個人を特定しないで)合祀する。
左の社殿には、薬業の祖神とする武田長兵衛と金毘羅神と地主神である白龍神を祀っ
ている。薬祖神は二宮忠八が製薬会社に勤めていたことによるもので、金毘羅は忠八
が讃岐の金刀比羅宮(船の神、飛行機に通じる)を信仰していたことによる。白龍神は
境内に出現した白蛇を地主神として祀ったものである。

京阪八幡市駅(解散)~京橋駅
京橋駅~鶴橋駅構内で澳門安徳魯餅店(マカオ アンドリューモチテン)の
お気に入りの?エッグタルト&シナモンアップルを買う
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3月23日の昼飲み会ハイキング 柏原・八尾史跡巡り-1

4月1日    3月23日の昼飲み会ハイキング 柏原・八尾史跡巡り-1
  近鉄てくてマップ大阪⑬河内国分駅~
此の日は、K場さんS籐さんM吉さんと田原の4名で思ってたよりも登り坂を歩く羽目に。
コース   河内国分駅集合10時スタート  歩程約10km
近鉄てくてマップ大阪⑬柏原・八尾史跡巡り 河内国分駅でスタンプ~高安駅迄
河内国分駅(スタンプ)~高井田~歴史の丘展望台公園~鐸比古鐸比賣神社~恩地城
跡~安養寺~権現社~高安駅 ⇒鶴橋駅 ⇒天王寺駅  湯処・あべの橋 
昼飲み会に参加メンバーと待ち合わせ6名で居酒屋へ 14:50 551蓬莱前 ⇒甘太郎
此の日の私の万歩計は、25214歩で約18.6km歩いたことに・・・
志都美駅
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香芝駅~近鉄下田駅へ
香芝駅
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鹿島神社
祭ってあるのは、「武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)」で、ふつう「鹿島大明神
(か しまだいみょうじん)」という。この神社は、承安(しょうあん)1(1172 )年に源義朝
(みなもとのよしとも)の家来であった鎌田小次郎政光が常陸国(ひたちのくに)(現茨
城県)の鹿島本宮の神を連れてきたのが始まりという記録がある。伝承ではその時村
人は塩餅 (しおもち)や押し飯(おしめし)を作り、大喜びでお祭りしたという。
鹿島神社には、昔から「結鎮座」(けいちんざ)と呼ばれる氏子(うじこ)の集団(宮座)
があり、鎌倉時代の初期から記録が残されている。これは、約800年間にわたる独特
の伝統をもって今も生き続けている。日本の古い神社や寺には貴重な古文書がたくさ
ん伝わっているが、民間の宮座記録としてはこの「鹿島神社文書」(かしまじんじゃもん
じょ)が最も古い。昭和37年には奈良県指定文化財となり、現在は奈良国立博物館で
保管されている。
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下田駅~河内国分駅
下田駅
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国豊橋を渡る
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宿奈川田神社(すくなかわたじんじゃ)
大阪府柏原市にある式内社で、地元では通称 白坂神社(しらさかじんじゃ)と呼ば
れ、地図や看板でもそのように表記されている。
宿奈彦根命・高皇産霊命・級戸辺命を主祭神とする。『神社覈録』や『特選神名牒』
では「祭神不詳」となっている。
創建の由緒は不詳である。近くにある天湯川田神社(柏原市高井田89)とともに、
当地を拠点としていた鳥取連が祖神を祀ったものとみられる。弘仁式の時から官社
となっており、延喜式神名帳に「河内国大県郡 宿奈川田神社」と記載され、小社に
列している。中世には「白坂大明神」と称していた。
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高井田横穴公園
JR高井田駅の北側にある国の史跡・高井田横穴群を保存・公開する公園。高井田横
穴は、凝灰岩の岩盤に洞窟を掘って築造された古代の墓で、6世紀中頃から7世紀前
半にかけて造られ、総数は200基以上にのぼると考えられている。大正時代、洞窟の
壁に人・鳥・馬などを刻んだ線刻壁画が発見され、一躍有名に。また近年では、平成
元年から始まった公園整備の調査中、高井田山古墳が発見され、古代のアイロン
「火熨斗(ひのし)」や鏡、冑、甲などが出土。この古墳は、5世紀の終わり頃に造られ
たと推定されている。公園の遊歩道に沿って歩くと、横穴や透明の屋根をかけた高井
田山古墳、出土品のレプリカが見学できる。園内には市立歴史資料館もある。
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高井田山古墳
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歴史資料館
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観音寺へ向かう
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あけび?
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観音寺
観音寺は、かってこの地にあった智識寺の法灯を継ぐと伝え、その縁起は後鳥羽院
(在位:1183~ 98年)の時、源頼朝が勅を奉じて、2寺を合わせて1ヵ寺としたとい
う。智識寺は奈良時代の創建で、7堂伽藍を備えた河内6大寺の1つで、聖武天皇や
孝謙(称徳)天皇の行幸、礼仏で知られる。聖武天皇は740年(天平元年)に行幸、
当時としては日本最大であった丈六の大仏を見た感動から東大寺大仏の造立発願
の契機となったいわれる。智識寺は1086年(応徳3年)の落雷のため倒壊、以後再
建されることはなかった。
観音寺にはこの智識寺の経机が所蔵されている。経机の制作年代は不明であるが
奈良・平安を通し、河内における大寺として知られた智識寺の唯一の遺品ともいえる
だけに貴重な物といえる。
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鐸比古鐸比賣神社へ向う
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鐸比古鐸比賣神社
河内国大県郡(柏原市平野、大県地区)の氏神であり、背後にそびえる高尾山(標高:
278m)を神体山・磐座としている。 神社縁起によると創建は成務天皇二十一年(151
年)とされるが、実際の年代は不明。 祭神は「鐸比古命」「鐸比売命」。 鐸比古命は垂
仁天皇の子であり、「沼滞別命」「鐸石別命」と同人とされる。 和気清麻呂の遠祖であり
、鐸比古命を祭神とするのは日本全国でもここと岡山県の和気神社のみとされている。
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此の続きは、
3月23日の昼飲み会ハイキング 柏原・八尾史跡巡り-2 として
          下記のメインブログへ詳細を投稿します。
        http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、恩地城へ向かう~
若倭彦神社へ向う
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若倭彦神社
柏原市平野地区の産土神で式内社です。
創建年代は不詳のようですが、6世紀頃この地で勢力を持っていた若倭部ノ連が、祖神
である若倭彦命を祀ったのが創始の様です。若倭姫神社も同様だそうです。
別名を「あかざ八幡」と言います。
古記録には「貞観2年(859)従五位下を授く」「延喜の制に小社に列せられ祈年祭並に鍬
一口を奉る」とあります。
若倭姫神社とともに、明治41年に鐸比古鐸比売神社に合祀されましたが、戦後独立し
現在地に復座しました。現社地は極狭い境内地となっていますが、昔は、境内も広大で
老松が境内の周囲を天を摩するごとく覆っていたようです。それが明治維新後に現在の
ように小さくなったと伝えられています。
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瑠璃光禅寺へ向かう
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瑠璃光禅寺(るりこうじ)
瑠璃光寺は、大阪府柏原市山ノ井町にある仏教寺院。曹洞宗永平寺の末寺で山号は
「医王山」。 正式には「医王山 薬師院 瑠璃光禅寺」と称する。
天平年間に行基が開創、本尊の薬師如来像は行基の作と伝わる。かつては『七堂伽藍
を具備せし巨刹なり』といわれ、大規模な寺院だったが、織田信長の信貴山城攻略の際
に兵火に遇い、その後慶安四年(1651年)に再建されるも往時のような規模にはならず、
境内は縮小して現在は敷地わずか123坪となり、本堂、庫裏、廊下および不動堂がある
のみとなっている。
本堂には本尊とともに、焼けただれた四体の四天王像が安置されている。一木添木式の
木像で、いずれも両腕と持仏が焼失しているものの高さは1mほどあり、平安時代の作。
境内奥に「日露戦勝記念碑」および「高田川音吉碑」がある。高田川は山ノ井出身で、碑
は昭和4年(1929年)に建立された。 境内南には式内社である若倭姫命神社がある。
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若倭姫神社
創建は不詳ですが、「若倭彦神社」同様、6世紀頃この地で勢力を持っていた、若倭部
連氏の祖神である若倭姫命を祀ったのが創始であろうといわれています。式内社で、
若倭姫命を御祭神としています。「式内社調査報告」では、若倭姫神社は中世、醫王山
薬師寺(瑠璃光寺)の鎮守社となったと記されているそうです。若倭彦神社同様、明治
41年鐸比古鐸比売神社に合祀されましたが、昭和22年元地に復座しました。本殿裏の
岩壁は磐座ではないかという説があるようです。
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山井寺
融通念仏宗 (ゆうずうねんぶつしゅう)
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八王子神社
式内社で常世岐姫神社といったが地元では八王子神社として親しまれている。 古記録
によれば宝亀七年(七七六)の夏河内國大県郡の人正六位上、赤染人足ら十三人に常
世岐の姓を与えたという。 この赤染とは茜染のことでこのあたりの人々が茜染めをやっ
ていたことがわかりこの人々の祖神を祭ったものであろう。 今は安産の神として名高い。
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※常世岐姫神社(とこよきひめじんじゃ)
常世岐姫神社は、燕王公孫淵を祖と称する常世氏が信奉する神(常世岐姫神)を祀る神
社であり、日本全国に数社ある。大阪府八尾市神宮寺にある神社が本宮であるとされる。

シュミイ地蔵
名前の由来はわからないが、地元恩智の有志が結集して菩提追善のため、彼岸の中
日に建立したものである。高さ136センチ、幅67センチ材質は花崗岩である。像の左右に次
の銘文がようやく読みとれる。良盛長盛道梁妙見也阿常助宗 父道善宗恩道明為脩門 
道妙□阿妙法 天文十三年甲辰八月時正 河内国恩智□逆修一結衆 敬白
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恩地城址(おんぢじょうし)
恩智城は中世この地の豪族恩智左近満一が築いた。自然の高地を利用した城郭で高
安連峰との間に堀をめくらせ前方に大阪平野を一望のもとにおさめた。堀の中にかつ
ては小島があったがそれはむかしの一の丸で現在の城址は二の丸の址という。
正平三年(一三四八)四條畷の戦いで楠木正行が戦死し恩智城も落ちた。学制領布
のときここに小学校が新築され、今では桜の名所として知られている。
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安養寺へ向かう
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安養寺(あんようじ)
この地は恩智字向谷といい、本寺裏山の通稱垣内山のすぐ裏手の山裾から大正10年
(1921)風雨のため山崩れが生じその赤土露出部より流水紋銅鐸が発見された。流水
紋様は弥生時代前期から中期にかけて近畿を中心に流行した流水紋土器に見られ、
この鐸もその影響を受け作られたものであろう。 銅鐸は現在東京博物館にありその
拓本が当寺にある。安養寺は浄土宗で本尊は阿弥陀如来である。【
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権現社(ごんげんしゃ)
権現社の沿革
神社明細書には「慶長年間(1596~1614)に、熊野権現を勧請した」と書かれている。
寛政2年(1790)意満寺の南西端にあった愛宕神社を合祀した。境内にある古い灯籠
南部にある一基は元禄13年(1700) 拝殿前の二基は宝暦2年(1752)
権現社(ごんげんしゃ)
黒谷地区の氏神で、熊野神社とも言う。熊野権現を祀る。明治5年に教興寺村の天照
大神高座神社に合祀されたが、今はもどる。信貴山へ登る古道(信貴道)が神社の南
側を通って山道となる。今は、この古道はほとんど消えている。丁石は寛政13年
(1801)のものが、寺池そばの三丁石から始まって四、六、七丁石と残っている。 
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※信貴道道標と丁石
旧高野街道の教興寺四つ辻は、高安信貴山道の起点であり道標が2本建っている。南
西角の寺川家前の道標は、宝永5年(1708)のもので、市内の建設年次を記した道標と
しては一番古いものである。南東角の浅田家前の道標は、元治1年(1864)のもので、
いずれも信貴山案内のものである。参詣道には一丁毎に丁石が建てられ、今も十数本
の丁石が残っていて昔をしのばせる。
高安駅へ向かう
恩智川
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高安駅
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湯処・あべの橋
天然温泉・・・大阪市港区の『天然温泉テルメ龍宮』から毎日搬送しています。
源泉名 龍宮温泉 1号 阪市港区2丁目3番33号  深さ  1,500m
泉質 ナトリウム塩化物強塩温泉   泉温 摂氏53.9度(浴槽温度40~42℃)
効能 ・神経痛・筋肉痛・関節・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・打ち身・くじき
    ・慢性消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進・切り傷
    ・やけど・慢性皮膚病・虚弱体質・慢性婦人病
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居酒屋へ
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居酒屋
甘太郎
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