6月26日の達磨発祥の地~ササユリの町上牧町を歩く-1
7月1日 6月26日の達磨発祥の地~ササユリの町上牧町を歩く-1
JRふれあいハイキング 歩程約13㎞
此の日は、王寺町~地元の上牧町を歩くJRふれあいハイキングに参加、参加者203名。
コース 奈良県ウオーキング協会主催のJRふれあいハイキング 参加費500円
王寺駅(9時半集合)~達磨寺~葛下川遊歩道・せせらぎ公園~片岡城跡~伊邪那岐神
社~滝川遊歩道~上牧町2000年会館・公園(昼食休憩)~貴船神社~服部記念病院~
※光專寺~※智照神社~浄安寺~庚申塚~五軒屋~雨乞い地蔵~香芝一号公園~香
芝駅(ゴール)・・・・五軒屋で皆さんと別れて雨乞い地蔵~上牧出合へ出てバスで帰宅。
奈良県ウオーキング協会スタッフの方々に大変お世話になり、有難う御座いました。
今日の私の万歩計は、19670歩で約11.8kmだった。見所のガイドが無いのが残念だ・・・
志都美駅
王寺駅(9時半集合)・スタート
達磨寺へ向かう
達磨寺
達磨寺・・・達磨信仰発祥の地
『日本書紀』によると、推古天皇21年(613年)12月、聖徳太子が道のほとりに伏せって
いた飢人を見つけ、飲み物と食べ物、それに衣服を与えて助けましたが、飢人は亡くな
りました。そのことを大いに悲しんだ聖徳太子は、飢人の墓をつくり、厚く葬りましたが、
数日後に墓を確認してみると、埋葬したはずの飢人の遺体が消えてなくなっていました。
この飢人が、のちの達磨大師の化身と考えられるようになり、達磨寺は生まれました。
このように、聖徳太子と達磨大師の出会いからはじまった達磨寺には、今も本堂の下
に達磨寺3号墳とよばれる古墳時代後期の円墳があります。
これが、聖徳太子が飢人のためにつくったお墓、すなわち達磨大師の墓とされ、鎌倉時
代にその上にお堂が建てられて、本尊として道内に聖徳太子像と達磨大師像が安置さ
れました。
葛下川遊歩道へ向かう
葛下川遊歩道・せせらぎ公園
葛下川を渡り片岡城跡へ向う
此処から山道へ
片岡城跡・・・中世の山城「片岡城」
片岡城を築いたのは片岡国春。上牧町内の下牧地区から金富地区へ抜ける峠道の
頂部分に中世の山城と伝えられる片岡城跡があります。片岡城は1550年頃に片岡
国春によって築かれたとされています。下牧に片岡城を築く前は、隣町の王寺町と香
芝市の境界あたりにある小高い山、送迎(ひるめ)山の標高262mのところにありまし
た。この頃の葛城地方は片岡氏に続いて南のほうへ順に岡・万歳・布施・倶志羅・楢
原・吐田の六人が勢力を伸ばし、倶志羅氏以外の五氏はいずれも山城を築いており、
片岡国春の送迎山城も地理的に良く似たところにあります。片岡国春が上牧町内に
新たに築いた片岡城は高さ80mの丘城で、他の山城とは地形的に異なり、要害性に
は劣りますが、片岡谷を見下ろす位置にあり、政治・経済の中枢としての機能は送迎
山城より優れていたと考えられます。片岡城は葛下川を望む上牧第二中学校から葛
下川と滝川との合流点へ続く丘陵地帯に築かれた山城です。
城の西すそを流れる葛下川から見ますと48mの高さの位置にありますが、急な崖で
迫り、当時、すそを覆うように流れていた葛下川がたびたび氾濫を繰り返し、あたり一
面は湿地帯になっていました。また、城の東側にも滝川が流れそれが城の北側で葛
下川と合流、三方を自然の水濠で囲まれた、この近辺では屈指の要害に適した地形
になっていました。片岡氏から松永久秀に変わって・・・松永時代に完成した片岡城、
別々に機能していた曲輪と曲輪を共通に防御できるようになり、このときに片岡城が
完成したと考えられます。この年代は永禄12年から天正5年の8年間と限定できます。
※細川忠興15歳、その弟の頓五郎(細川興元)14歳
天正5年(1577)の、松永久秀による信長への反乱に従い、松永久秀の与力である海老
名某も、河内国片岡城に立て籠もった。これに対し信長は、長岡(細川)藤孝父子、惟任
(明智)光秀、筒井順慶に「3人で押し寄せ、蹴散らせ」と命じた。
これにより十月朔日未明に、この3名による片岡城攻めが始まった。ここで、長岡藤孝の
嫡男與一郎(細川忠興)15歳、その弟の頓五郎(細川興元)14歳の兄弟が真っ先に駆け
入った。織田勢は新手を入れ代わり立ち代わりに攻め立てさせた為、死傷者多く出て残
り少なくなると、「今や叶わじ」と思ったか、城主の海老名は腹を十文字に掻っ切って伏せ、
残る兵たちも、みな思い思いに自害して、同じ枕に臥した。
細川忠興・興元兄弟は、この戦いでの働きにより信長から直筆の感状をもらっている。
※片岡城笹ゆり姫物語があります
初夏の風が貴船(きふね)の社の木立を通り抜け竹林をそよがせている。楽士の奏でる音
色に合わせて一人神楽を舞う幼い巫女は、ササユリを両手にかざし得も言われぬ愛らしさ
を辺りに漂わせていた。 「あの子は誰だろう」景頼が、その姫を初めて心に留めたのは、ま
ばゆい光が射し込む御祭礼の日で あった。永禄七年、木辻城の嫡男、景頼は数えて十一
歳。片岡城の一人娘佐葦姫はまだ十歳であった。それから五年、歳月は幼い二人を美しい
姫と逞しい若者へと変えていった。・・・・・・・・・・・・・・・1章~6章迄あり、途中の話を割愛して
「景頼さま」と、駆け寄る。 「今、確かに景頼さまが・・・これは」そこには白いササユリの中に、
一際美しく淡く紅を染めた一輪のササユリが咲いていた。 「これは狭井川の辺に咲くという
幻の紅いササユリでは・・・景頼さまがこれを」 「景頼さま、小百合ですよ。佐葦はもう泣きま
せん。この上の牧で強く生きて行きます。どうぞこの城山から私達を見守っていてください」
瓔珞山の大王杉から一部始終を見守っていた白い梟は、やがて金色に染まり、昏の空いっ
ぱいに羽を広げると、飯盛山の彼方へと消えていった。
案内板の横のお地蔵さん
伊邪那岐神社へ向かう
伊邪那岐神社
下牧と金富との間に横たわる山の頂にあり、祭神は伊邪那岐命です。
主神の伊邪那岐命を中央にして、相殿とし春日、八幡、住吉、稲荷の神をまつっています。
もと指定村社で、町内の神社では格式が高いとも言われていました。
神殿は流れ造りで明治12年(1879)の造営で昭和43年(1968)に改築されています。
もと東田口の忍山(しのんやま)にありましたが疫病が流行したので静寂の聖地をもとめ
て現在の地に移したといわれています。 旧地は現在住宅化している丘陵の中央で頂上
が平地になっていました。そのころは五社神社と言われていたようです。
また足利の末期に片岡国春がここに片岡城を築いたときに春日、八幡の両神を守護神と
してまつったという言い伝えもあります。『延書式巻九』の神名帳には、「葛下郡伊邪奈岐
神社」と書かれている神社がこれではないかといわれています。
また『大和国町村誌集』には「下牧、神社、伊邪奈岐神社」とあり、明治24年の『神社明
細帳』にも「伊財奈岐神社」とかかれていますが、今は伊邪那岐神社と書いています。
境内に末社はありませんが石灯篭が数多く並んでいて、信仰の篤さを示しています。
その石灯篭の中には寛文年号のものもあります。
案内板の方へ戻る
滝川遊歩道へ向かう
此の続きは、
6月26日の達磨発祥の地~ササユリの町上牧町を歩く-2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿します。、
https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、滝川遊歩道~
滝川遊歩道
上牧町2000年会館へ向かう
上牧町2000年会館・公園(昼食休憩)
やすらぎ広場
午後のスタート
貴船神社へ向かう
虹の湯の前を通る
虹の湯
神の牧温泉。泉質はナトリウムー塩化物温泉。
適応症
神経痛・筋肉痛・関節痛・五十肩・運動麻痺・間接のこわばり・うちみ・くじき・慢性
消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進・きりきず・やけど・慢
性皮膚病・虚弱児童・慢性婦人病
現在は、スーパー銭湯形式で大野天風呂が魅力の「虹の湯」が営業しています。
貴船神社へ向かう
貴船神社
智照寺山にあり、祭神は罔象女命(春日)、保食神(稲荷)、素盞鳴命(八坂)、別雷
神(加茂)を祀り、智照神社の奥の宮といわれてる。社殿は神明造りで、もとは上牧
小学校の奉安殿であったのを移建する。この近くに葦田池があったと伝えられ、地
形上から延喜式内の古社「深溝神社」ではないかといわれている。
服部記念病院へ向かう途中に
貴船神社一の鳥居
服部記念病院~光專寺
※光專寺(真宗佛光寺派)
佛光寺の草創
越後流罪に遭われた親鸞聖人は、ご赦免の翌年建暦二年(1212)に京都に帰られ、
山科の地に草庵を結ばれました。この草庵が佛光寺草創と伝えられています。
当初、真宗開闢の根本道場を意味して、「興隆正法寺」と号しました。
中興了源(りょうげん)上人
親鸞聖人在世の当時、真宗の教えは関東を中心に広がりをみせていましたが、第七世
了源上人になって、教化活動の拠点を旧仏教の盛んな京都に置き、光明本尊・絵系図・
交名帳を用いて西日本一帯の布教活動に力を入れました。人々は風になびく草木のご
とく上人のお徳を慕って念仏申すようになり、元応二年(1320)には、寺基を山科から
今比叡汁谷(現・京都国立博物館あたり)に移しました。
佛光寺が繁盛するにしたがって、それを妬む輩が現れ、ある夜ご本尊や法宝物を盗み出
して竹やぶに投げ捨てました。
その夜、後醍醐天皇が夢枕に東南の方向から一筋の光が差し込むのをご覧になり、ただ
ちに人を遣わせられたところ、阿弥陀如来のお木像が出てきました。この仏像がわがご本
山の阿弥陀如来像の台座と一致するところとなり、勅願により「阿弥陀佛光寺」略して佛光
寺の寺号を賜ったと伝えられています。
※智照神社~浄安寺
智照神社
祭神は 罔象女命 配祀 天兒屋根命、素盞嗚命、別雷命、保食命。
延喜式神名帳葛下郡記載の深溝神社に比定されている貴船神社を奥宮として拍手山
頂に置かれた。 山頂には既に蓑目大明神が鎮座していた上に被さったようである。同
じく真言宗智照寺薬師堂もあったが、明治初期の神仏分離による、浄安寺に移された
という。貴船神社の鎮座する山は智照寺山と言う。両社と智照寺などは一体であり、相
当広い境内に散在していたと見られている。
拍手山へ登る参詣道が集落の中央から北に向かっている。石段を登ってさらに廻りつ
つ登る。途中に摂社が二社鎮座しているが、名前が判らない。 社叢はいい。照葉樹と
檜とが多い。本殿付近の石燈籠には五社大明神と刻まれている。
浄安寺(西国三十三箇所観音傍丘霊場)
浄安寺には由来として二つの説が伝わっています。
1185年の壇ノ浦の戦いで、船中で叔父の平敦盛と自刃して果てたとされる平和盛が、
敵をあざむいて上牧へ逃れ、その守り本尊でああった弁財天をまつり、小庵をかまえ
て移り住んだ。
平家物語に登場する能登守教経の子孫の久保小太郎武盛が、元冶元年(1658)ごろ
祖先である平家一門の霊を弔うために上牧に来て、牧浦と名のり、浄安寺を建立し山
頂付近に弁財天を祠った。
南上牧にある浄安寺は創建年代は不明ですが、宝永5年(1708)に再建されています。
境内には西国三十三箇所の観音石仏が点在しています。
上牧庚申塚へ向かう
上牧庚申塚
昔は各集落に立てられていたそうです
五軒屋を少し離れた一本道沿い、こんもりとした大木に守られるように青面金剛を祀っ
た庚申塚が立っています
かつては、延命長寿を願い夜を徹して語り明かす、庚申講が行われていました。
現在、村内では唯一この塚が残るだけです
五軒屋・・・此処でスタッフの方にお断りして皆さんと別れて別行動
五軒屋~雨乞い地蔵へ
五軒屋の雨乞い地蔵
この石地蔵を荒縄で縛り、神田池へ連れて行き「雨が降ったらお地蔵さんに出ていただ
きます、どうか雨の降るようにしてください」と池の水につけると雨が降ったという話が残
されています。集落には、地域独特の風習やご利益がある地蔵が6カ所に祀られていて、
地蔵盆などを通して、人々に親しまれているそうです
※奈良の昔話・・・雨乞い地蔵
奈良盆地の西、北葛城郡上牧(かんまき)町の五軒屋。その昔、このあたりは牧野(ば
くや)とよばれていた。上牧町の東、広陵町と河合町などにまたがって広がる馬見(うま
み)丘陵は、古代、朝廷の放牧地で、上牧の地名もそれに由来するとか。五軒屋を抜け
る今の舗装道路も昔は「馬街道」とよばれていた。
そのかつての馬街道に立つと、五軒屋は、周囲を小高い緑の丘陵に囲まれ、その中に
広々とした田圃(たんぼ)がどこまでも続く。実にのどかな昔懐かしい里山の風景である。
馬見丘陵の北東の磯城郡三宅町。地名は古代の「屯倉」(みやけ)に由来し、大和朝廷
が支配していた穀倉地帯であった。つまり五軒屋も含め、このあたり一帯は古くから豊
かな稲田が一面に広がっていたのであろう。水田に必要な溜池も多く点在している。
そんな稲作地帯でのお話。
昔、ある年の夏、旱(ひでり)の日が何日も続き、五軒屋の村人も、「こんなに長く雨が降
らんと、米がとれん。困ったなあ」と話し合っていた。「そうや、雨乞い地蔵さんにお願いし
たらどうや」。「ああ、それがよい」ということになり、村のお地蔵さんに助けを求めた。
村人は、重い石地蔵さんを荒縄で縛り、皆で担いで溜池の神田池(じんでんいけ)まで運
んだ。「お地蔵さん、どうか雨を三日のうちに降らせてください。降りましたら、お地蔵さん、
池から出ていただきますから」と言い、地蔵さんを池につけた。
すると、なんと有難いことに、三日のうちに恵みの雨が降った。村人は大いに喜んだという。
この雨乞いの行事は、その後も何度か行われたらしい。だが、困ったことに、地蔵さんを引
き上げる時は、せっかく溜めた大切な池の水を放流しなければならない。そのためかどう
か、いつからか行われなくなった。
ただ、大正十三年八月の大旱魃(だいかんばつ)の時には行われた。その時も「霊験あら
たか。おかげで、雨を降らせてもらった」と、この時のことは今も古老によって語り継がれ
ている。その雨乞い地蔵さんは、五軒屋の村人の手で今も大切に祀(まつ)られている。
JRふれあいハイキング 歩程約13㎞
此の日は、王寺町~地元の上牧町を歩くJRふれあいハイキングに参加、参加者203名。
コース 奈良県ウオーキング協会主催のJRふれあいハイキング 参加費500円
王寺駅(9時半集合)~達磨寺~葛下川遊歩道・せせらぎ公園~片岡城跡~伊邪那岐神
社~滝川遊歩道~上牧町2000年会館・公園(昼食休憩)~貴船神社~服部記念病院~
※光專寺~※智照神社~浄安寺~庚申塚~五軒屋~雨乞い地蔵~香芝一号公園~香
芝駅(ゴール)・・・・五軒屋で皆さんと別れて雨乞い地蔵~上牧出合へ出てバスで帰宅。
奈良県ウオーキング協会スタッフの方々に大変お世話になり、有難う御座いました。
今日の私の万歩計は、19670歩で約11.8kmだった。見所のガイドが無いのが残念だ・・・
志都美駅
王寺駅(9時半集合)・スタート
達磨寺へ向かう
達磨寺
達磨寺・・・達磨信仰発祥の地
『日本書紀』によると、推古天皇21年(613年)12月、聖徳太子が道のほとりに伏せって
いた飢人を見つけ、飲み物と食べ物、それに衣服を与えて助けましたが、飢人は亡くな
りました。そのことを大いに悲しんだ聖徳太子は、飢人の墓をつくり、厚く葬りましたが、
数日後に墓を確認してみると、埋葬したはずの飢人の遺体が消えてなくなっていました。
この飢人が、のちの達磨大師の化身と考えられるようになり、達磨寺は生まれました。
このように、聖徳太子と達磨大師の出会いからはじまった達磨寺には、今も本堂の下
に達磨寺3号墳とよばれる古墳時代後期の円墳があります。
これが、聖徳太子が飢人のためにつくったお墓、すなわち達磨大師の墓とされ、鎌倉時
代にその上にお堂が建てられて、本尊として道内に聖徳太子像と達磨大師像が安置さ
れました。
葛下川遊歩道へ向かう
葛下川遊歩道・せせらぎ公園
葛下川を渡り片岡城跡へ向う
此処から山道へ
片岡城跡・・・中世の山城「片岡城」
片岡城を築いたのは片岡国春。上牧町内の下牧地区から金富地区へ抜ける峠道の
頂部分に中世の山城と伝えられる片岡城跡があります。片岡城は1550年頃に片岡
国春によって築かれたとされています。下牧に片岡城を築く前は、隣町の王寺町と香
芝市の境界あたりにある小高い山、送迎(ひるめ)山の標高262mのところにありまし
た。この頃の葛城地方は片岡氏に続いて南のほうへ順に岡・万歳・布施・倶志羅・楢
原・吐田の六人が勢力を伸ばし、倶志羅氏以外の五氏はいずれも山城を築いており、
片岡国春の送迎山城も地理的に良く似たところにあります。片岡国春が上牧町内に
新たに築いた片岡城は高さ80mの丘城で、他の山城とは地形的に異なり、要害性に
は劣りますが、片岡谷を見下ろす位置にあり、政治・経済の中枢としての機能は送迎
山城より優れていたと考えられます。片岡城は葛下川を望む上牧第二中学校から葛
下川と滝川との合流点へ続く丘陵地帯に築かれた山城です。
城の西すそを流れる葛下川から見ますと48mの高さの位置にありますが、急な崖で
迫り、当時、すそを覆うように流れていた葛下川がたびたび氾濫を繰り返し、あたり一
面は湿地帯になっていました。また、城の東側にも滝川が流れそれが城の北側で葛
下川と合流、三方を自然の水濠で囲まれた、この近辺では屈指の要害に適した地形
になっていました。片岡氏から松永久秀に変わって・・・松永時代に完成した片岡城、
別々に機能していた曲輪と曲輪を共通に防御できるようになり、このときに片岡城が
完成したと考えられます。この年代は永禄12年から天正5年の8年間と限定できます。
※細川忠興15歳、その弟の頓五郎(細川興元)14歳
天正5年(1577)の、松永久秀による信長への反乱に従い、松永久秀の与力である海老
名某も、河内国片岡城に立て籠もった。これに対し信長は、長岡(細川)藤孝父子、惟任
(明智)光秀、筒井順慶に「3人で押し寄せ、蹴散らせ」と命じた。
これにより十月朔日未明に、この3名による片岡城攻めが始まった。ここで、長岡藤孝の
嫡男與一郎(細川忠興)15歳、その弟の頓五郎(細川興元)14歳の兄弟が真っ先に駆け
入った。織田勢は新手を入れ代わり立ち代わりに攻め立てさせた為、死傷者多く出て残
り少なくなると、「今や叶わじ」と思ったか、城主の海老名は腹を十文字に掻っ切って伏せ、
残る兵たちも、みな思い思いに自害して、同じ枕に臥した。
細川忠興・興元兄弟は、この戦いでの働きにより信長から直筆の感状をもらっている。
※片岡城笹ゆり姫物語があります
初夏の風が貴船(きふね)の社の木立を通り抜け竹林をそよがせている。楽士の奏でる音
色に合わせて一人神楽を舞う幼い巫女は、ササユリを両手にかざし得も言われぬ愛らしさ
を辺りに漂わせていた。 「あの子は誰だろう」景頼が、その姫を初めて心に留めたのは、ま
ばゆい光が射し込む御祭礼の日で あった。永禄七年、木辻城の嫡男、景頼は数えて十一
歳。片岡城の一人娘佐葦姫はまだ十歳であった。それから五年、歳月は幼い二人を美しい
姫と逞しい若者へと変えていった。・・・・・・・・・・・・・・・1章~6章迄あり、途中の話を割愛して
「景頼さま」と、駆け寄る。 「今、確かに景頼さまが・・・これは」そこには白いササユリの中に、
一際美しく淡く紅を染めた一輪のササユリが咲いていた。 「これは狭井川の辺に咲くという
幻の紅いササユリでは・・・景頼さまがこれを」 「景頼さま、小百合ですよ。佐葦はもう泣きま
せん。この上の牧で強く生きて行きます。どうぞこの城山から私達を見守っていてください」
瓔珞山の大王杉から一部始終を見守っていた白い梟は、やがて金色に染まり、昏の空いっ
ぱいに羽を広げると、飯盛山の彼方へと消えていった。
案内板の横のお地蔵さん
伊邪那岐神社へ向かう
伊邪那岐神社
下牧と金富との間に横たわる山の頂にあり、祭神は伊邪那岐命です。
主神の伊邪那岐命を中央にして、相殿とし春日、八幡、住吉、稲荷の神をまつっています。
もと指定村社で、町内の神社では格式が高いとも言われていました。
神殿は流れ造りで明治12年(1879)の造営で昭和43年(1968)に改築されています。
もと東田口の忍山(しのんやま)にありましたが疫病が流行したので静寂の聖地をもとめ
て現在の地に移したといわれています。 旧地は現在住宅化している丘陵の中央で頂上
が平地になっていました。そのころは五社神社と言われていたようです。
また足利の末期に片岡国春がここに片岡城を築いたときに春日、八幡の両神を守護神と
してまつったという言い伝えもあります。『延書式巻九』の神名帳には、「葛下郡伊邪奈岐
神社」と書かれている神社がこれではないかといわれています。
また『大和国町村誌集』には「下牧、神社、伊邪奈岐神社」とあり、明治24年の『神社明
細帳』にも「伊財奈岐神社」とかかれていますが、今は伊邪那岐神社と書いています。
境内に末社はありませんが石灯篭が数多く並んでいて、信仰の篤さを示しています。
その石灯篭の中には寛文年号のものもあります。
案内板の方へ戻る
滝川遊歩道へ向かう
此の続きは、
6月26日の達磨発祥の地~ササユリの町上牧町を歩く-2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿します。、
https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、滝川遊歩道~
滝川遊歩道
上牧町2000年会館へ向かう
上牧町2000年会館・公園(昼食休憩)
やすらぎ広場
午後のスタート
貴船神社へ向かう
虹の湯の前を通る
虹の湯
神の牧温泉。泉質はナトリウムー塩化物温泉。
適応症
神経痛・筋肉痛・関節痛・五十肩・運動麻痺・間接のこわばり・うちみ・くじき・慢性
消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進・きりきず・やけど・慢
性皮膚病・虚弱児童・慢性婦人病
現在は、スーパー銭湯形式で大野天風呂が魅力の「虹の湯」が営業しています。
貴船神社へ向かう
貴船神社
智照寺山にあり、祭神は罔象女命(春日)、保食神(稲荷)、素盞鳴命(八坂)、別雷
神(加茂)を祀り、智照神社の奥の宮といわれてる。社殿は神明造りで、もとは上牧
小学校の奉安殿であったのを移建する。この近くに葦田池があったと伝えられ、地
形上から延喜式内の古社「深溝神社」ではないかといわれている。
服部記念病院へ向かう途中に
貴船神社一の鳥居
服部記念病院~光專寺
※光專寺(真宗佛光寺派)
佛光寺の草創
越後流罪に遭われた親鸞聖人は、ご赦免の翌年建暦二年(1212)に京都に帰られ、
山科の地に草庵を結ばれました。この草庵が佛光寺草創と伝えられています。
当初、真宗開闢の根本道場を意味して、「興隆正法寺」と号しました。
中興了源(りょうげん)上人
親鸞聖人在世の当時、真宗の教えは関東を中心に広がりをみせていましたが、第七世
了源上人になって、教化活動の拠点を旧仏教の盛んな京都に置き、光明本尊・絵系図・
交名帳を用いて西日本一帯の布教活動に力を入れました。人々は風になびく草木のご
とく上人のお徳を慕って念仏申すようになり、元応二年(1320)には、寺基を山科から
今比叡汁谷(現・京都国立博物館あたり)に移しました。
佛光寺が繁盛するにしたがって、それを妬む輩が現れ、ある夜ご本尊や法宝物を盗み出
して竹やぶに投げ捨てました。
その夜、後醍醐天皇が夢枕に東南の方向から一筋の光が差し込むのをご覧になり、ただ
ちに人を遣わせられたところ、阿弥陀如来のお木像が出てきました。この仏像がわがご本
山の阿弥陀如来像の台座と一致するところとなり、勅願により「阿弥陀佛光寺」略して佛光
寺の寺号を賜ったと伝えられています。
※智照神社~浄安寺
智照神社
祭神は 罔象女命 配祀 天兒屋根命、素盞嗚命、別雷命、保食命。
延喜式神名帳葛下郡記載の深溝神社に比定されている貴船神社を奥宮として拍手山
頂に置かれた。 山頂には既に蓑目大明神が鎮座していた上に被さったようである。同
じく真言宗智照寺薬師堂もあったが、明治初期の神仏分離による、浄安寺に移された
という。貴船神社の鎮座する山は智照寺山と言う。両社と智照寺などは一体であり、相
当広い境内に散在していたと見られている。
拍手山へ登る参詣道が集落の中央から北に向かっている。石段を登ってさらに廻りつ
つ登る。途中に摂社が二社鎮座しているが、名前が判らない。 社叢はいい。照葉樹と
檜とが多い。本殿付近の石燈籠には五社大明神と刻まれている。
浄安寺(西国三十三箇所観音傍丘霊場)
浄安寺には由来として二つの説が伝わっています。
1185年の壇ノ浦の戦いで、船中で叔父の平敦盛と自刃して果てたとされる平和盛が、
敵をあざむいて上牧へ逃れ、その守り本尊でああった弁財天をまつり、小庵をかまえ
て移り住んだ。
平家物語に登場する能登守教経の子孫の久保小太郎武盛が、元冶元年(1658)ごろ
祖先である平家一門の霊を弔うために上牧に来て、牧浦と名のり、浄安寺を建立し山
頂付近に弁財天を祠った。
南上牧にある浄安寺は創建年代は不明ですが、宝永5年(1708)に再建されています。
境内には西国三十三箇所の観音石仏が点在しています。
上牧庚申塚へ向かう
上牧庚申塚
昔は各集落に立てられていたそうです
五軒屋を少し離れた一本道沿い、こんもりとした大木に守られるように青面金剛を祀っ
た庚申塚が立っています
かつては、延命長寿を願い夜を徹して語り明かす、庚申講が行われていました。
現在、村内では唯一この塚が残るだけです
五軒屋・・・此処でスタッフの方にお断りして皆さんと別れて別行動
五軒屋~雨乞い地蔵へ
五軒屋の雨乞い地蔵
この石地蔵を荒縄で縛り、神田池へ連れて行き「雨が降ったらお地蔵さんに出ていただ
きます、どうか雨の降るようにしてください」と池の水につけると雨が降ったという話が残
されています。集落には、地域独特の風習やご利益がある地蔵が6カ所に祀られていて、
地蔵盆などを通して、人々に親しまれているそうです
※奈良の昔話・・・雨乞い地蔵
奈良盆地の西、北葛城郡上牧(かんまき)町の五軒屋。その昔、このあたりは牧野(ば
くや)とよばれていた。上牧町の東、広陵町と河合町などにまたがって広がる馬見(うま
み)丘陵は、古代、朝廷の放牧地で、上牧の地名もそれに由来するとか。五軒屋を抜け
る今の舗装道路も昔は「馬街道」とよばれていた。
そのかつての馬街道に立つと、五軒屋は、周囲を小高い緑の丘陵に囲まれ、その中に
広々とした田圃(たんぼ)がどこまでも続く。実にのどかな昔懐かしい里山の風景である。
馬見丘陵の北東の磯城郡三宅町。地名は古代の「屯倉」(みやけ)に由来し、大和朝廷
が支配していた穀倉地帯であった。つまり五軒屋も含め、このあたり一帯は古くから豊
かな稲田が一面に広がっていたのであろう。水田に必要な溜池も多く点在している。
そんな稲作地帯でのお話。
昔、ある年の夏、旱(ひでり)の日が何日も続き、五軒屋の村人も、「こんなに長く雨が降
らんと、米がとれん。困ったなあ」と話し合っていた。「そうや、雨乞い地蔵さんにお願いし
たらどうや」。「ああ、それがよい」ということになり、村のお地蔵さんに助けを求めた。
村人は、重い石地蔵さんを荒縄で縛り、皆で担いで溜池の神田池(じんでんいけ)まで運
んだ。「お地蔵さん、どうか雨を三日のうちに降らせてください。降りましたら、お地蔵さん、
池から出ていただきますから」と言い、地蔵さんを池につけた。
すると、なんと有難いことに、三日のうちに恵みの雨が降った。村人は大いに喜んだという。
この雨乞いの行事は、その後も何度か行われたらしい。だが、困ったことに、地蔵さんを引
き上げる時は、せっかく溜めた大切な池の水を放流しなければならない。そのためかどう
か、いつからか行われなくなった。
ただ、大正十三年八月の大旱魃(だいかんばつ)の時には行われた。その時も「霊験あら
たか。おかげで、雨を降らせてもらった」と、この時のことは今も古老によって語り継がれ
ている。その雨乞い地蔵さんは、五軒屋の村人の手で今も大切に祀(まつ)られている。
2019-07-01 01:01
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