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3月22日の昼飲み会ハイキング河内山本駅~八尾駅-1

3月25日     3月22日の昼飲み会ハイキング河内山本駅~八尾駅-1
昼飲み会ハイキング 大阪11八尾市巡り
此の日は曇り空、知人・M吉さん・K場さん・M村さん・S藤さん・O村さんと6名で近鉄てくてく
マップ大阪11八尾市寺内町巡りの12kmコースをアレンジ&ショートカットツして約8.5kmを
歩き、13:13分に近鉄八尾駅から電車に乗り15時~昼飲み会に参加する為のハイキング。
此の日の私の万歩計は、19866歩で約11.9km歩いたことに・・・
コース     河内山本駅に10:15着で集合・スタート
河内山本駅(10:15)~山本八幡宮~玉串川~御野縣主(みのあがたぬし)神社 ~ 玉串川
~福万寺公園・移設された福栄橋~三十八神社~第二寝屋川~木村重成墓・公園 (昼食)
~八尾市埋蔵文化C~西郡天神社~楠根川緑地公園~近鉄八尾駅へショートカット 8.5㎞
志都美駅~香芝駅
香芝駅~近鉄下田駅へ乗り換え
鹿島神社・・・平安末期の勧請伝承を持つ由緒ある鹿島神社。
河内源氏当主源義朝の腹心に、鎌田左兵衛尉政清という者がいた。相模の出身で、母
が義朝の乳母であり、乳兄弟として義朝が最も信頼を置く男だった。平治の乱で平清盛
に敗れ京都を逐われた義朝は、勢力を立て直すべく東国へ向かった。道中落武者狩り
に遭い、多くの一族郎等を失いながら、尾張国野間の長田忠致の許に身を寄せた。忠致
は政清の舅にあたる。この時義朝は馬を失い、しかも裸足だったという。
忠致は義朝一行を快く迎え入れ歓待したが、その夜異変は起こる。忠致が恩賞目当てに
裏切り、入浴中の義朝を暗殺。政清も酒を呑まされて忠致の子景致に殺害される。平治
二年(1160)が明けて間もなくのことだった。
父政清とともに義朝に従っていた鎌田小次郎政光は難を逃れ、常陸国鹿島神宮に辿り着
いた。鹿島はかつて少しの期間ながら居住したことのある地だった。政光は鹿島大明神に
源氏再興と鎌田家繁栄を祈願し、百日の参籠を行った。満願を迎えた夜、夢に老翁が現
れてこう告げた。 「庚子の年に源氏栄えん。汝の福は西にあらん」
政光は鹿島の神の分霊を奉じて西方を目指し旅立った。長い年月が過ぎた。時に承安二
年(1172)三月、大和国下田に到った頃、日が沈んだため松の木の下で野宿をした。翌朝
目を覚ました政光は、この地の風景が鹿島に似ているように思い懐かしむ。そこでこの地
こそが我が安住の地と思い定め、小祠を建てて鹿島大明神を祀ったという。
政光とその子孫は下田の南の鎌田に代代住して鹿島神社に奉仕し、また鎌田村の名主と
して長く栄えた。そして庚子にあたる治承四年(1180)、源義朝の遺児頼朝が平氏を打倒し、
源氏の世が到来する。又、香芝市の市名由来は間接的に鹿島神社とされている。
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近鉄下田駅~河内山本駅10:15着
山本八幡宮
誉田別尊(応神天皇)を祀る。近鉄河内山本駅のすぐ北側、玉串川の西岸、立石街道の
南沿いに所在する、小ぢんまりとした神社である。
享保元年(1716年)、山本新田の開発者である山中庄兵衛正永と、本山弥右衛門重英
(加賀屋)の両人らが石清水八幡宮より神霊を勧請し、山本新田の鎮守として分祀され
た。当初は「山本八幡神社」という名称だった。その後、享保13年 (1728) 正月に加賀
屋から泉屋住友吉左衛門へ所有が変わった後には、住友家の尊崇と保護を受け近代ま
で至る。昭和15年(1940年)に住友住宅による山本新田での宅地分譲が終了し、212年
に渡る住友家の地主管理が終了する。その際に住友住宅より東南部分の土地を寄贈さ
れている。同年に玉串川沿いにあった池を埋めたて、社務所が新築される。
昭和31年(1956年)に旧橿原神宮の古材を用いて社殿が改築され、恩智神社の社家で
ある新海(にいみ)氏より専任の宮司を迎え入れている。この頃に旧山本新田住友会所
の建物の移築もあり境内が整備され、「山本八幡宮」と改称し現在に至っている。
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※天台院(てんだいいん)・・・次回は是非見てみたい
大阪府八尾市西山本町(旧:河内国若江郡八尾中野村)にある天台宗の仏教寺院。
山号は紫雲山。作家の今東光が住職を務めたと有るので探して見たが不明?
天台宗総本山である比叡山延暦寺の末寺。室町時代初期、朝廷が南朝・北朝に分裂し
ていた頃の創建とされている。開基は文観上人と伝えられており、確証はないが河内長
野市の天野山金剛寺に伝わる「釈摩訶行論」の奥書きに、上人は 壮年四天王寺に遊び、
また河内国に錫をとどめていた と記され、このとき 河内に小庵を結んだ とあり、その小
庵が天台院であるとされている。
昭和26年(1951年)、今東光が本山から住職として派遣された。今東光が派遣された頃
の寺は木造の古びたボロ堂宇で、檀家が三十数件の貧乏寺であった。和尚は24年間ほ
ど住職として滞在した。その間作家・政治家として活躍し、寺も世間の注目を集めていた。
現在はコンクリート製の立派な堂宇となり、境内には八尾文化協会による「東光碑」が建
てられた。
境内に無畏智道上人の碑(文化4卯年7月8日)があり、さらに碑の前方に井戸があり、
「智道の水」として知られている。・・・・・調べた結果はこうだった、次回は是非見たい?

玉串川(たまくしがわ)
玉串川は、大阪府を流れる淀川水系の川(普通河川)。大阪府八尾市二俣で長瀬川から
分流。八尾市の中央部を北上し、東大阪市玉串元町で第二寝屋川に合流する。川幅は
おおむね5 mほどで、川岸は石積みまたはブロックで護岸が整備されている。
高度経済成長期には上流の大和川や長瀬川と同様に水質が悪化していたが、流域の各
所において遊歩道の整備、水生植物の植栽や簡易式の曝気施設が設けられ、環境改善
や水質浄化がなされている。また、これらの整備が行なわれた頃にコイやフナの稚魚が
放流された。流域付近は、八尾市柏村の南部に田畑が広がり、近鉄大阪線河内山本駅
付近が商業地となっている以外はおおむね閑静な住宅街となっている。また、二俣付近と
柏村橋付近 - 五月橋交差点、山本橋 - 山本町北七丁目付近までの両岸に桜の木が植え
られている。この桜は、1960年代前半、工場排水などで汚染が進んでいた玉串川の再生
を図り、当時の住民や自治会の寄付によって、1965年1月から徐々に植樹されていった
ものである。例年、年3月下旬~4月初旬にかけて桜が満開となる。この桜並木は、「大阪
みどりの百選」にも選ばれている。
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そめいよしのではない?
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御野縣主(みのあがたぬし)神社
御野縣主神社は、大阪府八尾市にある神社。式内小社で、旧社格は村社。
旧河内国河内郡上之島村(八尾市上之島地区)の氏神。かつてこの地一帯を支配して
いた豪族・美努連(みぬのむらじ)、三野縣主一族の祖神である。創建の年代は不詳で
あるが、延喜式神名帳に河内国若江郡の御野縣主神社二座と記載されていることから
平安時代以前にはあったとされる。明治5年(1872年)に村社に列せられた。
境内西側は小高い丘になっており、かつて西側に流れていた玉櫛川(旧大和川)の堤
防跡であり、現在ではここだけにしか残っていないとされる。八尾市の保全樹林に指定
され、貴重な史跡となっている。境内の南に御野縣池がある。
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玉串川へ戻る
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玉串川
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山本交番を左に
福万寺公園へ向かう
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此の続きは、
3月22日の昼飲み会ハイキング河内山本駅~八尾駅-2 として
               下記のメインブログへ詳細を投稿します。
             https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、福万寺公園~
福万寺公園・移設された福栄橋
元々恩智川に架っていた石橋(福栄橋)がトイレ横に移築されている
福栄橋
この石橋は福栄橋とよばれ、大坂の玉造から若江、福万寺をへて大和の竜田を結ぶ
十三街道の恩智川を渡るために架かっていました。かって、この橋があった西側には
寛政12年(1800)に福万寺の人々が建てた橋の供養碑が残されています。 碑には、
大雨による洪水で橋が流失したので、新しく再建したことが記されています。 橋に感
謝して建てられた供養碑としては市内で唯一のものです。 ここに保存されている石
橋は、明治9年4月(1876)に造られたものですが、昭和48年(1973)の恩智川改修
工事の際に橋が付け替えられ、橋脚部分を除いた板石と高欄部分が残されています。
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三十八神社(みそやじんじゃ)
三は御祭神(天照皇大神・八幡大神・春日大神)を表し、十八は、神々に対する敬語と伝え
られている。この土地に、当神社が建立された年代は明らかではないが、正平年中(北朝
の文和年間1352-55)佐々木守綱八世の子孫、佐々木二郎盛恵の居城、福万寺城址と記
されている。
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境内入口に”条里割遺構(福万寺)”の石碑
大化改新(645)のさいに行われた耕地の割りかたである。耕地を東西・南北にそれぞれ六
町四方に区画し、一辺を「条」、他の辺を「里」と名づけ、それを三十六等分し、その一つを
一坪とした。一坪は一町歩にあたり、坪の数え方は、千鳥式と平行式があるが、当地域で
は千鳥式である。この地福万寺や上ノ島には、今も味の一の坪、二の坪という坪名が
残っていて、古い条里割遺構の残る地として名高い。・・・八尾市教育委員会
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第二寝屋川
※山口重信碑(八尾市幸町)・・・今回はパスした
元和元年(1615)の大坂夏の陣にこの場所で、木村重成の槍に突かれて戦死した徳川方
武将山口重信の碑。三十三回忌にあたり、弟弘隆が建碑したもので、珍しい亀趺(きふ)の
上に建てられ、碑は西面し表に林 羅山の撰文が刻まれているが、残念ながら破損が・・・

木村重成の墓・木村公園 (昼食)
木村重成の墓
大坂夏の陣で戦死した重成の墓は、もとはここから東五〇メートルの地点にあったが、 
昭和四二年第二寝屋川の開削工事により、その川筋にあったのでここに移された。  
この墓は、宝暦一四年(一七六四)重成の一五〇回忌にあたって、重成の首を落とし
た安藤長三郎の子孫で、彦根藩士安藤次輝が建てたもので,昭和一四年大阪府の史
跡として指定されている。
重成の墓石には「長門守木村重成之墓」と刻まれている。左隣りは山口左馬介(重成
の妹婿)の墓。山口左馬介も重成と同日同地で戦死した。
墓石を削って飲むと、勇気が出て勝負事に強くなるとの俗信仰があり、そのため角が丸
くなっている。また墓前の松の葉を蒲団の下に敷いて寝ると、子どもの寝小便や夫の浮
気に効があると伝えられている。
木村重成は大坂冬・夏の陣で活躍した大坂方の武将。関白豊臣秀次の臣木村常陸介
重茲の子とも言われる。豊臣秀頼に仕え、1614年(慶長19年)大坂冬の陣では11
月26日の今福・鴫野の戦いで功を上げ、1615年(元和元年)の夏の陣では5月6日
の河内若江の戦いで藤堂高虎・井伊直孝の軍と相まみえ、奮戦むなしく戦死した。
若干23歳であった。重成はこの若江戦いに臨んで、兜に香をたきしめていたというこ
とで、徳川家康を感動させたとの話が伝わっている。
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木村公園出昼食を済ませて
八尾市埋蔵文化財調査C(トイレ休憩)へ
展示品見学
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展示品見学&小休止後西郡天神社へ向う
西郡天神社
西郡天神社(にしこおりてんじんじゃ)は、大阪府八尾市泉町にある神社。近代社格では
村社。前後区時代の天文年間(1532年-1555年)の創建と伝わるが、それよりも以前と
の説もある。当地は、錦織連の居住地だった。
錦織連は百済より渡来した織物技術者で、宮中に仕えた。当社境内の手水鉢は、錦織
氏が創立した西郡寺の塔刹柱礎石だった。
つまり当社は寺院跡(錦織廃寺)で、八間堂の字名が残る。かっての寺領は広大で北は
300m先の恩智川まであった。また本堂、金堂、三重の塔などを持つ大寺院だった。
この塔心礎は、高さ60センチ、縦120センチ、横160センチの自然石の中央に、直径67
センチ、深さ37センチの柱穴があり、その中央に直径21センチ、深さ18センチの舎利孔
がある。 白鳳時代に属するものとされ、また、この境内から鎌倉時代の石灯篭の台座も
出土した。現在は市の史跡に指定されている。
南北朝時代には、楠木正成によって建立された幻の河内寺の一つ錦織寺となったが、
南朝の敗退により焼き討ちにされたという。その跡地に、自然発生的に神社が建立され、
錦織家の祖神が祭祀されたのが当社だという。
御祭神は、本殿中央が主祭神の須佐之男大神、脇神として、本殿右座が天穂日命、本殿
左座が菅原道真。当社は、現在は道真が祀られているとはいえ、もとは天神・天満宮では
なく、古い形態の天神社である。
境内社に小宮として、拝殿手前右側に南宮(大国主大神)と、拝殿手前左側に東宮(少彦
名命)がある。 境内には、市の保全樹木に指定されているむくのきがある。
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※錦織廃寺
かっての寺領は広大で 北は恩智川まで(300m)有ったとゆうまた本堂、金堂、三重の塔
などを持つ大寺院であった。 錦織連は百済より渡来した織物技術者である。

※楠根川緑地公園?・・・今回は時間がおしてて辿り着けずパス

近鉄八尾駅で13:13発に乗る
鶴橋駅でJR環状線に乗り換え天王寺駅へ
天王寺駅~キューズモール → 湯処・あべの橋 →14:30
キューズモール 
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湯処・あべの橋
天然温泉・・・大阪市港区の『天然温泉テルメ龍宮』から毎日搬送しています。
源泉名 龍宮温泉 1号 阪市港区2丁目3番33号  深さ  1,500m
泉質 ナトリウム塩化物強塩温泉   泉温 摂氏53.9度(浴槽温度40~42℃)
効能 ・神経痛・筋肉痛・関節・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・打ち身・くじき
    ・慢性消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進・切り傷
    ・やけど・慢性皮膚病・虚弱体質・慢性婦人病
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銭湯を出て待ち合わせ場所へ向かう
あべのハルカス
地上300m、日本一の高さを誇る超高層複合ビル「あべのハルカス」は、近鉄大阪阿
部野橋駅、天王寺駅各線と直結。 日本最大級の百貨店や展望台、美術館、ホテルな
ど多彩な店舗が出店しており、1日中お楽しみいただけます。 大阪随一の絶景ととも
に堪能できるランチやスイーツなど、絶品グルメも充実。
大阪観光なら日本一高いビル「あべのハルカス」へ!是非是非!  ほんまでっせ!
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天王寺駅ビル4F 居酒屋へ
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3月22日(金)の昼飲み会の参加者は15名 
集合場所 JR天王寺駅551蓬莱前14:50 Or4F甘太郎前 14:55 参加者は下記
H本・A座・Y田・T石・K池・K西・N西・N山・S藤・M吉・M越・R得・K場・M井と私で15名
最長12年振りに会うメンバーもいて非常に盛り上がり楽しい宴会&情報交換会に・・・

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3月20日の日本のはじまり田原本の史跡巡りー1

3月23日          3月20日の日本のはじまり田原本の史跡巡りー1
                     歴史探訪の会(オープン企画) 8㎞
此の日は最高のハイキング日和、オープン企画とした為会員以外の参加者が14名増となり
参加者合計36名で歩きました。此の日の私の万歩計は、18406歩で約11km歩いたことに・・
コースは   田原本駅西口広場に10時集合
田原本駅西口広場(受付・スタート)~浄照寺~田原本聖救主教会~平野氏陣屋跡(役場)
~寺川~唐古・鍵考古学ミュージアム~池神社~千万院~眺めの丘(昼食)・展望台~ 唐
古・鍵遺跡史跡公園~遺構情報展示館~道の駅「レスティ唐古・鍵」(解散)~石見駅へ
田原本町の観光ボランティアガイドさん2名のご案内で歩きました。有難う御座いました。
志都美駅
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畝傍駅~
八木西口駅で乗換
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田原本駅西口広場(集合・10時スタート)
浄照寺へ向かう
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浄照寺~本誓寺
浄照寺(じょうしょうじ)
浄照寺は、奈良県磯城郡田原本町にある浄土真宗本願寺派の寺院。
山号は松慶山。本尊は阿弥陀如来。田原本御坊とも称される。
天正11年4月(1583年)、織田信長の後継者の地位を争って、羽柴秀吉と柴田勝家が賤ヶ
岳の戦いを起こした。この戦いで秀吉子飼いの7人の武将が活躍し、「賤ヶ岳の七本槍」と
呼ばれる勇名を馳せたが。その一人平野長泰は軍功により、田原本他6か村を与えられ5
千石の領主となる。しかし、長泰は生涯、田原本の地に居住することはなかった。
正保4年(1647年)、長泰より田原本地領(寺内町)の経営を任されていた真宗寺院の真宗
大谷派教行寺は、2代目領主長勝との間に支配権のことで対立し、広陵町箸尾へ立ち退か
せられる。慶安元年(1648年)、領主長勝は田原本に陣屋を築造する。
慶安4年(1651年)、長勝は教行寺の跡地を二分し、北側に平野家の菩提寺である浄土宗
本誓寺を招請建立し、南側に浄土真宗の寺院「円城寺」(淨照寺の前身)を建立した。領主
は円城寺と地域末寺8か寺を加えて浄土真宗本願寺第13世門主良如上人に寄進した。住
職は本願寺門主が務め、御門跡兼帯所(御坊・別院)として、筋壁(表塀の五本の筋)が使
用される。
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※本誓寺(ほんせいじ)・・・田原本町HPより
本誓寺は、浄土宗の寺。開基は、鎌倉時代の伝承もあるが不明。江戸時代の田原本領主
であった平野氏の菩提寺。田原本二代領主平野長勝は、正保四年(1647)に浄土真宗教
行寺を著尾に転座させ、その跡地に円城寺(現在の浄照寺)と本誓寺を建立した。 本堂は
度々の火災を受け、現在は昭和58年に再建された鉄筋コンクリート建物である。
本尊は、阿弥陀如来立像で鎌倉時代後期の作。他に、元は楽田寺にあったとされる平安
時代中期の十一面観音立像が安置されている。

田原本聖救主教会へ向かう
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田原本聖救主教会・・・田原本町HPより
日本聖公会の田原本布教の歴史は、明治16年(1883)の説教会に始まり、明治28年(1895)
には最初の会堂を建築し、伝道を本格化した。現会堂は、昭和8年(1933)に建てられ、木造
平屋、切妻造り。屋根は桟瓦葺(さんかわらぶき)、鬼瓦の紋には十字架が ついている。玄関
妻側の窓も色ガラスがはめ込まれ、桟は十字架をかたどっており、昭和初期当時の面影を留
めている。 NHK連続テレビ小説「芋たこなんきん」、「マッサン」のロケ地としても使用された。
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平野氏陣屋跡(役場駐車場)~
田原本は、賤ヶ岳七本槍の一人に数えられる平野長泰が、文禄4年に豊臣秀吉から
5,000石を与えられたところ。寛永12年に2代長勝がこの地に陣屋を構え、以後旗
本交代寄合として8代続いた。
明治元年に9代長裕は、5,000石を加増され大名に列した。
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寺川・・・今里浜   
通称、今里では「浜」と呼ばれているが、今里橋 付近の寺川が改修され昔の面影は
何も残っていない。村伝来の古地図を見る限りでは昔の繁栄振りが伺えるが今は掲
示板だけが立っているだけ。田原本北部、今里領と石見領と入り組んだ寺川の東岸
に石見領唐の口に江戸期今里村庄兵衛が経営する舟問屋があった。 
今里浜は立地条件の良いことからこれらの物資の荷上場として舟問屋が建ち並び問屋
町田原本の外港として栄えた。舟運は水量の多い春と秋に利用され春は上り船が多く
塩、肥料の干鰯や油粕が運ばれ、秋は下り船が主で米、雑穀、綿花等が運ばれた。 
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唐古・鍵考古学ミュージアム
唐古・鍵遺跡(国史跡)は、日本を代表する弥生時代の遺跡として知られ、発見から100
年以上にわたって調査が続けられてきました。
唐古・鍵考古学ミュージアムは、これまでに出土した膨大な資料の一部を展示しており、
2018年6月にリニューアルオープンしました。
玄関前のこれは何?
ただの雨だれを受ける器・・・
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館内
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真剣に聞いています
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真剣に聞いています
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楼閣と第建造物の
イメージ図
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此の続きは、
3月20日の日本のはじまり田原本の史跡巡りー2 として
          下記のメインブログへ詳細を投稿します。
        https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、池神社へ向う~
池神社へ向う
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池神社・千万院
池神社
池神社は、初瀬川沿いに鎮座する。祭神は天万栲幡千千比売命・菅原道真で、明治初年
ごろまでは天満宮と称されていた。現在は延喜式内大社「池坐朝霧黄幡比売神社」に比定
されている。中世の天満宮は、在地豪族長谷川党の鎮守であった。近世以降も 法貴寺の
実相院が社僧として社務全般を支配した。この関係は神仏分離により法貴寺から池神社
が切り離されるまで続いた。
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千万院
法貴寺は、「法起寺」ともいい、聖徳太子が創建し秦河勝に賜ったという。千万院はこの法貴
寺の塔頭の子院だった。法貴寺の本坊を実相院といい、中世には法貴寺天満宮(池坐朝霧
黄幡比売神社)の別当職を担うなど、在地豪族長谷川党とのつよい結びつきで大きな勢力を
誇った。しかし、江戸時代半ばには実相院と千万院の2坊のみとなり、神仏分離で実相院に
かわって法貴寺薬師堂を受け継いだのは千万院だけとなった。
現在、千万院の僧坊はすでになく、薬師堂を千万院と呼ぶ習わしとなっている。
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眺めの丘へ向かう
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眺めの丘(昼食)・展望台・集合写真撮影・オープン参加者へ入会の案内
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唐古・鍵遺跡史跡公園へ向かう
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唐古・鍵遺跡史跡公園・遺構展示館(解散)
およそ2,000年前に栄えた、弥生時代の代表的な集落です。奈良盆地のほぼ中央、奈良県
磯城郡田原本町大字唐古および大字鍵に位置します。遺跡面積の約42ヘクタールは近畿
地方最大です。直径約400mの範囲が居住区で、その周りには幾重にも「環濠」が巡ってい
ました。遺跡は弥生時代前期(約2,300年前)に成立し、古墳時代前期(1,700年前)までの約
600年間続きました。昭和11年の第1次調査では多量の土器・石器・木器が出土し、その成
果は弥生時代研究の基礎となりました。昭和52年の第3次調査以来継続的な調査が行われ、
多数の絵画土器や青銅器鋳造施設の発見など重要な成果が相次ぎました。その重要性か
ら、1999年1月27日、国の史跡に指定されました。
唐古・鍵遺跡(国史跡)は、日本を代表する弥生時代の遺跡として知られ、発見から100年以
上にわたって調査が続けられてきました。特に末永雅雄氏らによる、唐古池の発掘調査(第
1次調査)は、弥生集落の様相が初めて明らかとなり、その後の弥生時代研究の確固たる基
礎を築きました。その後も、奈良県立橿原考古学研究所・田原本町教育委員会によって調査
が続けられ、日本最大級の環濠集落であることが明らかとなりました。また楼閣を描いた絵
画土器や、勾玉を入れた褐鉄鉱容器、大型建物跡など重要な発見も多く、今なお唐古・鍵遺
跡は、弥生文化を考える上で重要な位置を占めています。
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楼閣の説明を聞く
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遺構展示館
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※おまけ・・・道の駅「レスティ唐古・鍵」
平成30年4月20日(金)にオープンした田原本町道の駅「レスティ唐古・鍵」は、さまざまなイベ
ントの開催とともに、田原本町内の新鮮な野菜、果物、花をはじめ地元や県下の特産品を多
数販売します。また、1階のベーカリーでは「黄金の生食パン極」を製造直売するとともに、各
種ジェラートを販売し、2階のカフェではバラエティー豊かな12種類の「オリジナルドッグサンド」
をメインに、ドリンクメニューや軽食メニューをご用意いたします。
「黄金の生食パン 極」
高級カナダ産小麦粉を100%使用し、バター、生クリーム、はちみつを加えて施設内で焼き上
げた高級食パンです。しっとりとした食感と優しい甘さが特徴、そのまま生でお召し上がりいた
だくのがおすすめ。もちろん焼いても美味しいです。
平成30年9月23日、24日に道の駅丹後王国「食のみやこ」で開催された『道-1グランプリ20
18』のスイーツ部門において、近畿大学と松井農園の共同開発したメロン「バンビーナ」を使
用した「バンビーナジェラート」が見事グランプリを獲得いたしました。各々1階 Kagiベーカリー
にて販売しております。

石見駅へ向かう・寺川
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石見駅
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田原本駅~西田原本駅へ乗り換え
田原本線100周年記念、100年前の色に塗り替えたシャリョウが・・・
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3月16日の酒蔵みてある記上田酒造「嬉長」ー1

3月19日          3月16日の酒蔵みてある記上田酒造「嬉長」ー1
                   近鉄駅フリーハイキング 歩程約10km
此の日は、知人の・K場さん・Y田さん・O村さん・I 田さん・M吉さん達と6名で酒蔵みて
ある記に参加よていしてたが、早朝の雨でY田さんが不参加、結果はハイキング受付か
ら天気予報通り雨は完全にやみ、素晴らしいハイキング日和、晴れ間を歩きました。
此の日の私の万歩計は、16663歩で約9.9km歩いたことに・・・
コース   東生駒駅受付(9:30~10:30) 10時40分集合 
東生駒駅受付(10:40)~往馬大社~竹林寺・行基墓・忍性墓~※歓喜の湯(足湯)をパ
スして~行基菩薩の関連で円福寺~往生院~上田酒造・試飲・甘酒・抽選会~一分駅
雨の中、傘を差してバス停~王寺駅へ
王寺駅で近鉄生駒線出生駒駅経由東生駒駅へ
東生駒駅(受付)
雪の生駒山が見えるがハイキングスタート時にはすっかり溶けて
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往馬大社へ向かう
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竜田川
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往馬大社(いこまたいしゃ)
生駒山をご神体とした古社です。広さ3ヘクタールにおよぶ鎮守の森は、奈良県の天然
記念物として指定されているほか、伝統行事の火祭りは県の無形民俗文化財として指
定されています。奈良県生駒市にある神社である。式内社で、旧社格は県社。生駒神
社(いこまじんじゃ)と通称される。
生駒山の神である伊古麻都比古神・伊古麻都比賣神、および氣長足比賣命(神功皇后)
・足仲津比古命(仲哀天皇)・譽田別命(応神天皇)・ 葛城高額姫命(神功皇后の母)・息
長宿禰王(神功皇后の父)を祀る。伊古麻都比古神・伊古麻都比賣神は古代より火を司
る神として信仰されている。大嘗祭で用いられる浄火を起こす道具である火燧木は代々
当社が献上することとなっており、今上天皇の大嘗祭においても当社の火燧木が使用さ
れた。『北山抄』『元要記』『亀相記』などには当社の神が「火燧木神(ひきりぎのかみ)」と
書かれている。10月第2日曜日(元は10月10日)の例祭は「火神祭」と呼ばれ、龍田大社
の風神祭、廣瀬大社の水神祭とともに古来より朝廷の崇敬を受けてきた。
創建の年代は不詳であるが、古代、当地に住みついた人々が生駒山を神体山として祀っ
たのを起源とするものとみられる。文献での最も古い記述は、『総国風土記』の雄略天皇
3年(458年)条に「伊古麻都比古神社」とあるものである。延喜式神名帳では大和国平群
郡「往馬坐伊古麻都比古神社二座」と記載され、大社に列し、月次・新嘗の奉幣に預ると
記されている。
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社務所前
すっかり晴れて青空に
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竹林寺古墳
生駒市有里町に所在する古墳時代前期の前方後円墳である。竜田川上流域(生駒谷)
における唯一の前方後円墳で、周辺には他に主だった古墳も存在していないことから、
この地域の首長墓であったと目される。行基や忍性の墓所で知られる文殊山竹林寺境
内にある小規模な前方後円墳である。築造年代は出土した円筒埴輪の特徴から、古墳
時代前期後半の4世紀中頃と比定される。前方部先端と後円部の一部が失われ、後円
部は墳頂に通じる小道が通り、掘削(くっさく)による損傷が生じている。その他の部分は
雑木林に覆われ、開墾による削平(さくへい)を受けておらず、原型を比較的よく留める。
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竹林寺・行基墓・忍性墓
竹林寺
生駒市有里町にある律宗の寺院。奈良時代の僧・行基の墓があることで知られる。山号
は生馬山。本尊は文殊菩薩騎獅像。竹林寺は生駒山の東麓の山中に位置する。奈良時
代に架橋、治水などの社会事業に奔走し、東大寺大仏の造立にも力のあった僧・行基の
墓所がある寺である。行基が壮年期に営んだ小庵が後に寺院とされたものと思われる。
行基は文殊菩薩の化身と信じられており、寺号は文殊菩薩の聖地である中国の五台山
大聖竹林寺にちなむ。明治時代以降は廃寺同然となり、本山の唐招提寺が管理していた
が、20世紀末から境内の整備が進められている。
竹林寺は、奈良時代の僧・行基(668年~749年)の基礎を築いたと伝えられています。
行基は 749年に奈良市菅原寺(すがはらでら)において82歳で生涯を終え生駒山で火
葬され竹林寺に埋葬されています。本堂に向かって右手に行基の墓が、左手の墓地
に忍性(にんしょう)の墓(五輪塔)が建っています。忍性は文殊菩薩と行基を強く尊敬
しており行基と同じように自らも慈善事業に努めました。遺言により遺骨は竹林寺・極
楽寺(鎌倉市)・額安寺(大和郡山市)に分骨されています。
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行基菩薩墓
河内国大鳥郡に生まれる。682年に15歳で出家し、飛鳥寺(官大寺)で法相崇などの
教学を学び、集団を形成して畿内を中心に貧民救済・治水・架橋などの社会事業に活
動した。704年に生家を家原寺としてそこに居住した。その師とされる道昭は、入唐し
て玄奘の教えを受けたことで有名である。行基は奈良時代、貴族の為のものとなって
いた仏教を民衆に広め、橋や溜池を作るなど民衆の為に社会事業を行ったとされてい
る。その行基がこの近くに一時期居を構え、母親の最期をみとったそうだ。その後、聖
武天皇より大仏建立の為に招聘( しょうへい)されるが、82歳で人生を終えると母親の
近くに眠りたいと、この地に埋葬されたという。行基(ぎょうき/ぎょうぎ)668年~749年
は、奈良時代の日本の僧。僧侶を国家機関と朝廷が定めそれ以外の直接の民衆への
仏教の布教活動を禁じた時代に、禁を破り畿内を中心に民衆や豪族など階層を問わず
広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬された。また、道場や寺院を多く建立しただけで
なく、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所、困窮者のための布施屋9所等の設立など数々の
社会事業を各地で成し遂げた。朝廷からは度々弾圧や禁圧されたが、民衆の圧倒的な
支持を得てその力を結集して逆境を跳ね返した。その後、大僧正(最高位である大僧正
の位は行基が日本で最初)として聖武天皇により奈良の大仏造立の実質上の責任者と
して招聘された。この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられている。
東大寺では大仏創建に力のあった良弁、聖武天皇、行基、菩提僊那を「四聖(ししょう)」
と呼んで いる。
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忍性菩薩墓
良観房忍性は、建保5年(1216)に大和国城下郡屏風里(現在の奈良県磯城郡三宅
町)で生まれた。早くに亡くした母の願いを受けて僧侶となり、西大寺の叡尊を師として、
真言密教や戒律受持の教えを授かり、貧者や病人の救済にも身命を惜しまぬ努力をし
ました。特にハンセン病患者を毎日背負って町に通った忍性の人柄がうかがえます。
後半生は活動の拠点を鎌倉に移し、より大規模に戒律復興や社会事業を展開します。
忍性は行基の大ファン?16歳の忍性は額安寺(奈良県大和郡山市)に入った。忍性は
19歳から6年間毎月竹林寺に参詣したという。参詣を始めた年に竹林寺で行基の舎利
が発見された。行基は奈良時代の僧で、貧民救済や土木事業などの社会事業を行い、
大仏建立にも尽力したことが知られ、平安時代以降に文殊菩薩の化身とされた。忍性
が竹林寺へ6年間参詣し、その生涯を文殊信仰に基づく救済に捧げたのは、行基を範
とするとするところが大きいと云われる。忍性は、鎌倉・極楽寺で87歳で臨終を迎えた。
遺言により遺骨は三分され、額安寺、竹林寺、極楽寺に埋葬された。人々の救済に努
めた忍性に、後醍醐天皇は「菩薩」号を追贈した。
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※ 歓喜の湯(足湯)をパスして行基菩薩関連で円福寺と往生院へ
歓喜の湯(足湯)
小瀬保健福祉ゾーンの中にある無料の足湯、歓喜の湯
いつも多くの人で賑わっており、なかなか足をつける隙間が空いていることが少ない。
夏の暑い日か、天気の悪い日には空いてる?このひは丁度良く空いてた・・・
泉質も正真正銘の温泉で、美人の湯と言われるアルカリ性温泉。
この施設内には、温泉自動販売機という珍しい施設もあり、100リットル100円で
温泉を持ち帰って、家の湯船に入れて楽しめるという仕組み。

円福寺・・・真言律宗(しんごんりつしゅう)
本尊は阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)
奈良時代に僧行基ぎょうきが開創したと伝えられていますが、詳細は不明です。安永3
年(1774)に書かれた『十一ヶ村村鑑むらかがみ』には、「真言宗 上醍醐報恩院(かみ
だいごほうおんいん)末寺」と記載されており、もとは真言寺院であったと思われます。
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円福寺本堂・・・重要文化財
桁行3間・梁間3間 一重 入母屋造 向拝1間 背面下屋附属 本瓦葺 室町時代 
応安4年(1371)造立 来迎壁額縁裏面墨書銘「応安二二(四)年ウルウ三月廿五日
春カウ五郎」
方3間の規模に周囲に縁を廻らし正面全てを蔀戸とします。来迎柱を立て十二天図
を描いた来迎壁に須弥壇を設け、中央小組格天井を組み上げる和様建築です。
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宝篋印塔 2基(重要文化財)・・・生駒市デジタルミュージアムより
総高(残存値)240.0cm 石造 鎌倉時代 塔身に四方仏を彫り込み、笠石下部と基礎上
部に蓮弁れんべんを刻みます。
総高(残存値)244.0cm 石造 鎌倉時代 永仁元年(1293)造立 塔身に金剛界こんごう
かい四仏(阿しゅく如来にょらい・宝生ほうしょう如来・阿弥陀あみだ如来・不空成就ふく
うじょうじゅ如来)の梵ぼん字を刻んでいます。
銘「右志者 為自他滅罪生善往生浄利 七世四恩法界庶衆平等利益 造立如件永仁
元年壬辰十二 月十六日元祖□於 [(不読)沙弥 [(不読)尼浄阿弥陀佛 近真□」
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往生院(おうじょういん)・・・華厳宗けごんしゅう
輿山こしやま古墓群の中にあり、奈良時代の僧行基ぎょうきが天平21年(749)に没した
とき火葬された生駒山の東陵にあたると伝えられています。本尊は行基菩薩坐像で、
境内には宝篋印塔(重要文化財)などが残っています。
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往生院・宝篋印塔(ほうきょういんとう)・・・生駒市デジタルミュージアムより
重要文化財
総高(残存値)206.5cm 石造 相輪上部欠損 鎌倉時代 正元元年(1259)造立
塔身に金剛界こんごうかい四仏(阿しゅく如来にょらい・宝生ほうしょう如来・阿弥陀あ
みだ如来・不空成就ふくうじょうじゅ如来)の梵ぼん字を刻んでいます。
銘「(東面)南無當□ 導師 弥勒佛 釈迦入滅(南面)一千八百 六十七年 正元々年
十月日 勧進[(不読)」
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此の続きは、
3月16日の酒蔵みてある記上田酒造「嬉長」ー2 として 
         下記のメインブログへ詳細を投稿します。
        https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、上田酒造へ向かう~
公園出昼食を終えて上田酒造へ向かう
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上田酒造・試飲・甘酒・抽選会
上田酒造
清酒:生長 (セイチョウ)と嬉長(キチョウ)の上田酒造
創業以来400有余年。「酒に心あり」を胸に酒造りに対する杜氏達の技によって、生駒
の名水と良質の米が見事に調和し、芳醇な香りと、上品な味わいを持ったお酒が生ま
れます。 生駒の長ならんとの思いから付けられた「生長」と、嬉しい事が長く続くように
と名付けられた「嬉長」の2銘柄です。 新しいことにも挑戦し、近年では完全無農薬有
機米を使用した「嬉長」有機純米酒を発売しました。
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もう一度
甘酒を・・・
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上田酒造を後に
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生駒線一分駅ホームで
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王寺駅前・バス停前
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3月15日の馬見丘陵公園の河津桜&寒緋桜-1

3月17日           3月15日の馬見丘陵公園の河津桜&寒緋桜-1
                    河津桜を鑑賞に?撮りに行って来た
馬見丘陵公園の駐車場に車を入れて、墳観(つかみ)橋で道路を渡り巣山古墳前丘へ、
此処のエリアに植えられている河津桜と池の端に植えられている寒緋桜を撮って来た。
先ずは墳観橋から5枚
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墳観橋から
前丘へ下りて桜並木を撮り歩く・・・
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此の続きは、
3月15日の馬見丘陵公園の河津桜&寒緋桜-2 として
          下記のメインブログへ詳細を投稿します。
         https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、寒緋桜の咲く池~
寒緋桜の咲く池・・・
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途中でタンポポを撮る
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池の端の寒緋桜
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竹取t公園~馬見丘陵公園へ入る
ブリッツジ両側の寒々としたユリノキ
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馬見丘陵公園へ入るとコブシが咲いて
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梅林へ向かう
途中に雪柳やマンサク、サンシュユの花が咲いて
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マンサク
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サンシュユ
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花の終わった梅林
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チュウリップの苗が育ってくる
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駐車場へ戻り
石油ファンヒータ用に灯油を買って帰る

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3月9日の酒蔵みてある記 河合酒造「出世男」ー1

3月12日       3月9日の酒蔵みてある記 河合酒造「出世男」ー1
                   近鉄駅フリーハイキング
此の日は、知人の・K場さん・O村さん・I 田さん・M村さん・M吉さんと6名で近鉄ハイキング
に参加、素晴らしいハイキング日和、と言うよりも初夏の様な暖かさの中を今井町の酒蔵へ
藤原宮跡で昼食を終えてショートカットしておふさ観音~酒蔵へ早目の13時過ぎに到着した
が又しても甘酒には有り着けなかった、残念・・・前日に頼んでおいた胡瓜の奈良漬を購入。
甘酒以外は、楽しいハイキングでした。此の日の私の万歩計は、24077歩で約14.4km・・・
コースは   大和八木駅受付・スタート 10時12分
大和八木駅受付~耳成山~山之坊山口神社~八釣山地蔵尊~畝尾健土安神社~畝尾都
多本神社~資料館(トイレ休憩)~藤原宮跡(昼食休憩)~おふさ観音~飛鳥川~今井町~
河合酒造・試飲~今井町田村商店(胡瓜奈良漬)~今井町・喫茶大川~八木西口駅
志都美駅へ向かう
西名阪自動車道沿い~香芝SAを撮る?
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志都美駅
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高田駅~大和高田駅へ
大和高田駅
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大和八木駅受付~耳成山
耳成山へ向かう
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耳成山~山口神社
耳成山(みみなしやま)
耳成山は、奈良盆地の南部に位置する奈良県橿原市にある山。山の標高は139.6m
だが、山頂にある三角点の標高は139.2mで、天香久山、畝傍山とならんで大和三山
の一つをなし、最も北に位置する。歴史的風土特別保存地区と国の名勝に指定され
ている。この山は第三紀に噴出した火山岩が侵食されてその一部のみが残存した侵
食地形である。瀬戸内火山帯に属する独立峰であり、安山岩より形成される。
天然の山ではなく、古代に造営された上円下方墳との説がある。大和三山が二等辺
三角形をなし、かつその事実が古くより知られていた事、古事記や日本書紀において
古い時代の記述が無く、ようやく日本書紀において允恭天皇の時代以降に記述が見
られる事が根拠として提示される。その規模の大きさから全くのゼロから造営された
古墳でなく、既存の天然山を改造したという説もあり、火山と見られるのに噴火口が
無い事から、噴火口を埋めるなどの造成をした(その際に大和三山の山頂が二等辺
三角形をなすように調整された)とも考えられている(もちろん上述の通り、火山岩が
侵食された侵食地形というのが通説である)。かつては天神山とも呼ばれ天神山城
があったとされる。南麓の池は木原古池遺跡、北西には木原環濠がある。
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耳成山口神社(みみなしやまぐちじんじゃ)
耳成山口神社は、奈良県橿原市の耳成山(大和三山)にある神社。「山口神社」とある
が山麓ではなく山の八合目程の位置にある。大和国の山口社六社(飛鳥・石村・畝火・
忍坂・長谷・耳成)のうちの1社で、皇室の舎殿用材を切り出す山の神として祀られてい
た。また、同境内には金刀比羅神社・稲荷神社・白龍大神も祀られている。祭神は、高
皇産霊神(高御産巣日神、たかみむすびのかみ)、大山祗神(おおやまみつのかみ)
創建は定かではないが、古くは『正倉院文書』の正税帳の730年(天平2年)に天皇より
稲を給わったことや、『延喜式神名帳』に大社として月次祭・新嘗祭を仰せつかったと
の記載がある。また、806年(大同元年)や859年(貞観元年)9月などに、天皇の遣使
によって雨乞いの神事が行われたと記録が残っている。
1651年(慶安4年)、山之坊の村民が神木を伐り荒らしたことを切っ掛けに神社を中心
にした山の管理や所有争論が起こり、1702年(元禄15年)、「耳無山天神ハ式内之社
耳無山口神社」とすることで決着した。その後、山之坊の村民は神霊を山之坊山口神
社に遷座している。 この間、建物が焼失するなど荒廃していたが、1748年(寛延元年)
8月、耳成村の氏子らが現在に残る本殿と拝殿を再建し、石原田・木原・葛本・新賀・常
磐・山之坊地区の氏神として祀られている。
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木原古池
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山之坊山口神社へ向う
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山之坊山口神社
本社は昭和四十二年に創建された神社であり、これを主 張する説は存しない。それを論
社としてあげたのは、耳成山口神社 との関係からである。
本社は、その由緒として山之坊町の氏神は古く耳成山上に奉祀されていたが 徳川の中
期享保年間境界訴訟の結果耳成山が木原町の 領地と定められた当町の宮司佐伯丹後
守が神霊を奉じ て下山、その子孫の宅に奉仕して今日に至る。と登記明細帳に記してを
り、享保と寛延と時代は前後する が、耳成山口神社が目原坐高御魂神社とした場合には、
本来の耳成 山口神社が山の上に移り、本来の目原坐高御魂神社は現在の 山之坊山口
神社に連なる。
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八釣山地蔵尊へ向かう
畝傍山
平成17年に名勝指定された大和三山(やまとさんざん)と呼ばれる香具山(かぐやま)・畝
傍山(うねびやま)・耳成山(みみなしやま)のうちの1つです。
標高199.2m。大和三山では一番高い山です。橿原市の中心部に位置します。周囲には、
橿原神宮や神武天皇陵など名所旧跡が点在しています。
瀬戸内火山帯に属する死火山で、噴火時はいまよりも2倍以上大きかったそうです。それ
が長い年月をかけて侵食され、現在のような形になりました。
地質は、花崗岩質の丘陵がのびてきた上に火山が噴出したもので、中腹以上は黒雲母
安山岩からなります。
畝傍山という名前は、田の畝のようにくねくねした尾根を多く持つところからつけられたそ
うです。「古事記」「日本書紀」「万葉集」では、「畝火山」「雲根火山」「宇禰縻夜摩」「慈明
寺山」「御峯山」「瑞山」と記されました。万葉集では、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)
が大和三山のことを詠んだ歌があります。
「香具山は 畝火ををしと 耳梨と 相あらそひき 神代より 斯くにあるらし 古昔も 然に
あれこそ うつせみも 妻をあらそふらしき」
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二上山(にじょうさん)
二上山は、奈良県葛城市と大阪府南河内郡太子町にまたがる山。かつては大和言葉に
よる読みで「ふたかみやま」と呼ばれた。
金剛山地北部に位置し、北方の雄岳(517m)と南方の雌岳(474m)の2つの山頂がある
双耳峰である。 また、石器に使われた讃岐岩(サヌカイト)の産地である。二上山の北側
の春日山付近の地域で遺跡が多く発見されていることから二上山北麓遺跡群とも呼称さ
れている。後期旧石器時代から弥生時代にかけての多量の剥片・砕片・石核・くさび形石
器・敲石類が採集されており、遺構としての採掘坑も確認されている。大阪みどりの百選
に選定されている。
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畝傍山
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八釣山地蔵尊への案内標石
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八釣山地蔵尊
興福寺(八釣山地蔵尊)(こうふくじ やつりやまじぞうぞん)
585年に、物部守屋(もののべのもりや)が仏法を嫌い、飛鳥の「橘寺」(たちばなでら)に
火を放って焼いたとき、金堂に安置してあった地蔵菩薩が、火から香具山(かぐやま)の
頂上に逃れて行き、それを知った聖徳太子が香具山の山麓に寺を建立して地蔵を祀っ
たと言われています。また、聖徳太子が夢のお告げで御体顕されたいう御夢想の名灸
があり、リュウマチや神経痛などに良く効くそうです。「八釣」の地名は、中世まで「やと
り」と呼んでいたことが文献に残っているとされています。この「やとり」は古代の職業名
の漢織(あやはとり)を簡略したものだという説があります。香久山の南北に「八釣」と呼
ぶ地域があり、朝廷の衣裳を縫っていた人々が住んでいたことがわかっており、この地
域の北を「下八釣」と呼んでいたとのことです。・・・ (「かしはら町名考」より)
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畝尾坐健土安神社(うねおにますたけはにやすじんじゃ)
『日本書紀』神武天皇即位前紀己未年二月二十日の条に「天皇、前年の秋九月を以て、
潜に天香山の埴土を取りて、八十平瓮を造りて、躬自ら斎戒して諸神を祭りたまふ。遂
に区宇を安定むること得たまふ。故、土を取りし処を号けて、埴土と白ふ」という埴安の
地に祀られた土霊が当社であるという。
『大和志』では「今称天照大神」とあり、近世に天照大神社と称していた。
祭神は、伊邪那美が火の神の迦具土命を産んで陰部に火傷を負い、亡くなった。この
時に、尿や糞、嘔吐物から新たな神々を産んだ。その糞から産まれた神が祭神の健土
安比売命である。
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※迦具土命
カグツチとは、記紀神話における火の神。『古事記』では、火之夜藝速男神(ひのやぎは
やをのかみ)・火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ)・火之迦具土神(ひのかぐつちのか
み;加具土命)と表記される。また、『日本書紀』では、軻遇突智(かぐつち)、火産霊(ほ
むすび)と表記される。

畝尾都多本神社(うねおつたもとじんじゃ)
祭神は、泣沢女神(なきさわめのかみ)、泣沢という井戸があり、その井戸が御神体として
祀られている。畝尾都多本神社は、「哭澤の神社」(なきさわのもり)とも言います。祭神の
哭澤女神(なきさわめのかみ)は、「古事記」によると国生みの最後の段階で、伊邪那美神
(いざなみのかみ)が火の神である火之迦具土神(ひのかぐちのかみ)を生み亡くなったの
を、父の伊邪那岐神(いざなぎのかみ)が悲しんで泣いた涙から生まれた女神だと言われ
ています。神殿はなく玉垣で囲んだ空井戸をご神体とし、境内には末社の八幡(はちまん)
神社が鎮座しています。
桧隈女王(ひのくまのおおきみ)が、「哭澤の 神社(もり)に神酒据(みわす)ゑ 祈れども
我が大君は 高日(たかひ)知らしぬ」と詠んだと言われる万葉歌碑が境内にあります。
創建は不明だが、『万葉集』巻第二の二〇二に、哭沢の神社に神酒すゑいのれどもわご
玉は高日知らぬ(泣沢神社の女神に神酒を捧げて薨じられた皇子の延命を祈っているの
に、皇子はついに天を治めになってしまわれた。)その左注に、「右一首、類聚歌林に曰は
桧隈女王の泣沢女神を怨むる歌といへり。日本紀を案ふるに云はく、十年丙申(696)の秋
七月辛丑の朔の庚戌、後皇子命薨りましぬといへり」と記されている。これは、持統天皇
十年(696)に、松隈女王が再生の神に神酒を捧げ高市皇子の延命を祈ったのに、蘇るこ
となかったという、泣沢女神を恨む和歌である。この事から畝尾都多本神社は、飛鳥時代
には既に存在していると考えられる。延喜式内社の畝尾都多本神社と比定され、同じく式
内社の畝尾坐健土安神社が隣接して鎮座。奈良時代の正税を収納管理する役所「香山
正倉」の遺構が周辺から発掘されている。明治時代に社殿が再建された。
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資料館(トイレ休憩)
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藤原宮跡へ向かう 振り返ると天香久山が・・・
天香久山、天香具山(あまのかぐやま、あめのかぐやま)、
天香久山、天香具山、または香久山、香具山(かぐやま)は、奈良県橿原市にある山。畝
傍山、耳成山とともに大和三山と呼ばれる。標高は152.4mと三山の中では標高は2番目
である。他の二山が単独峰であることに比して多武峰から続く竜門山地の端にあたる。
歴史的風土特別保存地区[2]と国の名勝に指定されている。太古の時代には多武峰から
続く山裾の部分にあたり、その後の浸食作用で失われなかった残り部分といわれている。
山というよりは小高い丘の印象であるが、古代から「天」という尊称が付くほど三山のうち
最も神聖視された。天から山が2つに分かれて落ち、1つが伊予国(愛媛県)「天山(あめ
やま)」となり1つが大和国「天加具山」になったと『伊予国風土記』逸文に記されている。
また『阿波国風土記』逸文では「アマノモト(またはアマノリト)山」という大きな山が阿波国
(徳島県)に落ち、それが砕けて大和に降りつき天香具山と呼ばれたと記されている、と
される。藤原京の東にあることにより太陽信仰の地であったともいわれる。現在、山頂か
らは畝傍山を望むことができ、その山頂には國常立命を祭神とする國常立(くにとこたち)
神社があって、2つの小さな祠のうちの1つには高靇神が祀られている。山の北麓には櫛
真智命神(くしまちのみことのかみ)を祭神とする天香山(あまのかぐやま)神社、南麓に
は天照大神の岩戸隠れの伝承地とされる岩穴や巨石を神体とした天岩戸(あまのいわ
と)神社がある。
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藤原宮跡(昼食休憩)
中国の都城にならい、日本で初めて建設された本格的都城。持統8(694)年遷都。平城
京遷都までの16年間、この地で持統、文武、元明の天皇三代が律令国家体制を強力に
押し進めた。藤原京の規模は東西5.3km、南北4.8kmで、その中心部には藤原宮があっ
た。天皇の住まいである内裏や、天皇が儀式や政治を行った大極殿跡が残る。最近の
調査研究によると、平城京や平安京を上回る規模だったとも考えられている。現在、宮
跡には原野が広がり、大極殿跡には基壇が残る。宮跡からは東に天香具山、西に畝傍
山、北に耳成山を望める。
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※藤原京
694年(持統8年)から710年(和銅3年)までの16年間、都城制を敷いた初めての都で、
日本で初めて国家体制が確立された大化の改新(645年)以後、その新しい国家の首
都として造営された日本で最初の都市である。
史料には、持統天皇4年(690年)に着工し、4年後に飛鳥浄御原宮から宮を遷した、と
ある。それまで、天皇ごと、あるいは一代の天皇に数度の遷宮が行われていた慣例か
ら3代の天皇に続けて使用された宮となったことは大きな特徴としてあげられる。この
時代は、刑罰規定の律、行政規定の令という日本における古代国家の基本法を、飛
鳥浄御原(あすかきよみはら)令、さらに大宝律令で初めて敷いた重要な時期と重なっ
ている。政治機構の拡充とともに壮麗な都城の建設は、国の内外に律令国家の成立
を宣するために必要だったと考えられ、この宮を中心に据え条坊を備えた最初の宮都
建設となった。
実際の建設は、その後の研究により、すでに676年(天武天皇5年)には開始され(これ
を倭京と呼ぶ)、宮都が完成したのは遷宮から10年も経った704年(慶雲元年)とも言
われ、着工から28年が経過したことになる。以来、宮には持統・文武・元明の三代にわ
たって居住したが、完成から4年後の708年(和銅元年)に元明天皇より遷都の勅が下
り、710年(和銅3年)に平城京に遷都された。その翌年の711年(和銅4年)に、宮が焼
けたとされている(『扶桑略記』、藤原宮焼亡説参照)。

おふさ観音
通称おふさ観音。正式名は高野山真言宗別格本山観音寺。通称名は、江戸時代に地
元の娘「おふさ」さんが、この地で観音様を奉りはじめたのが後にお寺に発展したとい
われています。本尊は十一面観音。大和七福神(信貴山朝護孫子寺、久米寺、長谷寺、
おふさ観音、談山神社、當麻寺中之坊、安倍文殊院)に大神神社が加わり、大和七福
神八宝霊場会を発足。
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※今年の春のバラまつり
開催日時2019年5月15日(水)~2019年6月30日(日)(07:00~16:30 ※開門は17:00迄)
境内を埋め尽くす4,000株、約3,800種類のバラを無料でお楽しみ頂けます。花の女王と
呼ばれる、バラの濃厚な香りと様々な花色が織り成すファンタジックな光景は、華やかな
感動を与えてくれます。また、本堂では寺宝を特別公開します。
此の続きは、
3月9日の酒蔵みてある記 河合酒造「出世男」ー2 として
          下記のメインブログへ詳細を投稿します。
        https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、飛鳥川沿いを今井町へ向かう~
飛鳥川沿いを今井町へ向かう
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今井町 河合酒造・試飲・・・今年も甘酒に間に合わず残念
河合酒造は、江戸時代から続く蔵元です。この蔵元のある橿原市の今井町は、国の“重要
伝統的建造物群保存地区”に指定されていて、昔ながらの街並みが保存されています。
また、この河合酒造は、その中でも国の重要文化財に指定されているほどの歴史ある蔵
元です。今では毎年造る酒の量も少なくなりましたが、昔ながらの味わいを現在も造り続
けています。
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今井町 田村商店へ向かう
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今井町 田村商店(胡瓜奈良漬)
頼んでおいた胡瓜の奈良漬を購入・・・
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この後、1名は奈良医大病院へお見舞いにいき残り5名で喫茶へ
今井町・喫茶大川
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八木西口駅へ向かう
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八木西口駅
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五位堂駅~バス~馬見九丁目~徒歩で・・・
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馬見九丁目~徒歩で自宅へ向う
上牧町の繁華街??はま寿司、赤屋、コメリ、上新、青山、松の屋、魚輝、等々
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水菜が美味しそう?
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3月6日の城陽市青谷梅林~城陽酒造「城陽」ー1

3月8日          3月6日の城陽市青谷梅林~城陽酒造「城陽」ー1
                  近鉄 酒蔵みてある記ハイキング 8lkm
此の日も曇り空、知人と二人で参加、最近のハイキングは天気に恵まれない、昨日は
良い天気で綺麗な青空だったのに、と。でも雨が降らないでハイキングに出れる事だけ
でも良い事だとしましょう。此の日は、ラストの酒蔵で読売テレビの街かどトレージャー
のロケに遭遇、トレージャーハンターが酒粕詰め放題挑戦した直後の写真撮影に成功
した。私の連れも酒粕詰放題ラスト40人目に間に合い500円1分間で2.94キロ詰めた・・
私は詰め放題には間に合わず、此の日の私の万歩計は、19561歩で約11.7km歩いた
コース     近鉄新田辺駅西口で受付
新田辺駅西口(受付)~防賀川公園~山城大橋~青谷橋~市辺天満神社~龍福寺~
青谷梅林(昼)~城陽酒造・試飲・甘酒振舞い・酒粕詰め放題・抽選会~山城青谷駅
新田辺駅(受付・スタート)
一休さん像
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近鉄線とJR線を越えて
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防賀川公園~
山城大橋へ向かう
山城大橋
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山城大橋を越えて
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青谷橋を越えて左折
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市辺天満神社
菅原道真を祭神とする旧市辺村の産土神です。
本殿は慶長11年(1606年)に建築されたと伝えられています。
鳥居をくぐって直ぐ右に「菅原道真」が梅を詠んだ歌碑が建っています。参道を入った
奧に拝殿があって、その後ろの本殿は、覆屋で守られて、一間社流造、檜皮葺で、桃
山時代の装飾と古い手法を合わせもつ本格的な造です。祭神は菅原道真ですが、由
緒沿革はあきらかでありません。なお、当社の例祭は、毎年10月16日です。また、境
内の東側丘陵上に古墳時代後期の石室をもつ古墳があり、境内の西側には、平成13
年市の名木・古木の認定を受けた「杉」「モチノキ」が植わっています。
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杉の木
市内で最古のスギの大木で、樹齢約130年とされており、伸びやかに成育している。
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山背古道を
青谷梅林へ向かう
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浄土宗 龍福寺
「市辺天満宮」から鳥居をくぐって車道へ出ないで直ぐ右へ曲がって北へ進み、ちょっと坂
を登り大きな道を横切って更に「山背古道」を北へ進むと、東の高台に天澤山(てんたくざ
ん)「龍副寺」があります。石段を上がると右に祠が2つあり、手前の祠は左手を頬(ほほ)
に当てた「歯痛地蔵」、奧の石仏は右手に三鈷をもった「弘法大師」で、当寺は元、京都
「黒谷金戒光明寺派」で、1607年(慶長12年)に雲誉(うんよ)上人が当地より西方で善
光寺阿弥陀如来を本尊として開基し、1674年(延宝2年)現在地に移転。1690年(元禄
3年)火災で本尊を失ったが東大寺より本尊の阿弥陀如来座像と供に寺号を拝受。
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そのまま境内が繋がってて
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中天満神社(なかてんまじんじゃ)
中天満神社の創建年代は不明であるが、社殿の一番古い棟札が慶長11年(1606年)であ
ることから、それより以前に創建されたと考えられる。 祭神は、菅原道真。
中天満神社周辺には黒土古墳群がある。その中の黒土1号墳は、南北31m、東西26mの
楕円形墳で、横穴式石室の埋葬施設がある。
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青谷梅林へ向かう
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山の神を祀る三の口
「中天満神社」の鳥居の前から北へ向かって直ぐ、右(東)に曲がり、山の方へ向かうと、
暫く行って、樫(かし)の木などが繁る「聖なる林」があり、そこで、毎年初寅の日に「山の
神まつり」が行われます。山の支配者である山の神は、里に豊作をもたらす田の守護神
ですが、しかし、彼が怒ると、大雨等を降らして土砂を流し里を襲うので、中地区の人々
は昔から山と里との境界3カ所にある一の口、二の口、三の口に「山の神」を祀り、山の
安全と豊かな暮らしを祈り続けてきました。祭では、「龍福寺」の住職が簡単な祭壇の前
で、神木に向かって読経をし、自然を神として崇められ、城陽市指定無形民俗文化財。
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青谷梅林(梅祭り会場)へ向かう
青谷梅林
山の神を祀る「三の口」を抜けると、日本で見たい梅林九番目に評価された中地区の
「青谷梅林」です。20ヘクタールに約50戸の農家が城州白、白加賀、オクフクダルマ
等の梅を約1万本栽培されています。梅樹の栽培の起源については、後醍醐天皇の
皇子で、宗良親王が詠われた歌に、次ぎのようなのがあって、
      風かよふ 綴喜の里(城陽市)の梅が香を空にへだてる中垣ぞなき
鎌倉時代に植えられたとも云われ、江戸時代には毎年青谷川渓流の大谷に淀藩主
が観梅に来たと云います。
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此の続きは、
3月6日の城陽市青谷梅林~城陽酒造「城陽」ー2 として
          下記のメインブログへ詳細を投稿します。
        https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、青谷梅林梅祭り会場(昼)~
青谷梅林梅祭り会場(昼)
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城陽酒造へ向かう
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城陽酒造・試飲・甘酒振舞い・酒粕詰め放題・抽選会
昔から「五里五里のさと」と呼ばれる城陽は京から五里・奈良から五里の位置にあり、
温暖な気候と木津川の流水に 恵まれた自然豊かな地です。
城陽酒造では、地下100mから汲み上げた水とこだわりの酒造好適米のみを用いて、
手間暇かけた小仕込みで品質第一を目標に酒造りに取り組んでいます。
10月中旬からの酒造期には、「新酒量り売り」、3月には「蔵開き」などのイベントも行
っています。また、地元の青谷梅林で採れる肉厚で香り高い大粒の梅の実(城州白)
を用いた梅酒は添加物を一切使わず三年以上寝かせた本格梅酒です。
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※読売TVの街かどトレージャーに遭遇!
トレージャーハンター(増田岡田の増田)が酒粕詰め放題にチャレンジして終えた直後
に偶然遭遇し写真撮りました。  ・・・来週13日の水曜放映?見るぞう
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城陽酒造
酒粕詰め放題が人数制限してるとは知らず、街かどトレージャーに夢中になり、おかげ
で私は酒粕詰め放題の40名に入れず・・・連れが丁度ラスト40人目で2.94キロゲット。。
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山城青谷駅へ

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2月26日の寿宝寺十一面千手観音~酬恩庵-1

3月4日       2月26日の寿宝寺十一面千手観音~酬恩庵-1
               歩こう会 玉露の町京田辺の史跡散策
此の日は素晴らしいハイキング日和、参加者79名(内オープン参加1名)で楽しく歩いた。
此の日の私の万歩計は、19360歩で約11.6km歩いたことに・・・
コース   近鉄三山木駅に10時集合
近鉄三山木駅~壽寶寺・十一面千手千眼観音~同志社大構内・筒城宮址~酒屋神社~
花見山公園(昼食)~酬恩庵(一休寺)・解散~薪神社~とんちロードを新田辺駅へ
とんちロードの途中で「ずいき神輿」で有名な棚倉孫神社に立ち寄って新田辺駅へ・・・・
志都美駅
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近鉄三山木駅~壽寶寺へ向かう
玉露のまち
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壽寶寺・十一面千手千眼観音
寿宝寺(じゅほうじ)
寿宝寺は、文武天皇慶雲元年(704)に創建したと伝えています。
古くは山本の大寺と呼ばれ大寺院であったが、度重なる木津川の氾濫により移転を繰
り返していました。享保17年(1732)江戸時代中期に現在地に移転し、明治初めに近隣
の寺々を合併しました。平成9年(1997)の大造営で260年ぶりに本堂、客殿、庫裏等が
改築されました。本寺のハイライトは観音堂内に国の重要文化財十一面千手千眼観世
音菩薩立像です。
平安時代後期の作で 像高181cm、頭上に十一面をいただき、左右にそれぞれ五百手
をもち、持ち物の無い手には墨で目が印されている。大阪の葛井寺、奈良の唐招提寺
の千手観音と共に三大名作とされている。この仏様は明るいところと暗いところで 見せ
る表情は全く異なります。昼の太陽の光で見る表情は「眼は半眼、唇の朱色が鮮やか
に見え、厳しいお顔をしている」、入り口の戸を閉めて月の灯りで見る表情は「眼を閉じ、
唇の朱は目立たず、ふっくらとやさしいお顔をしている」という素晴らしい表情を解説と
共に鑑賞させて頂きました。
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同志社大構内・筒城宮址
511年10月、継体天皇は樟葉宮跡(現、貴船神社)から筒城宮(つつきのみや)、現在の
京都府京田辺市多々羅附近に遷宮します。
正確な場所はわかっていませんが、多々羅地区には「都谷」という地名があり、ちょうど
同志社大学のキャンパスにあたるところです。ここを「筒城宮」の推定地とする説はこれを
根拠にしています。
「筒城宮址」碑は、京田辺市郷土史会が1961年に筒城宮跡を顕彰するために建てた石
碑で、当初は現在の同志社国際高校の敷地内に建てられましたが、後にこの場所に移
設されたものです。もう一つの「継体天皇皇居故跡」碑は1928年に建立された「安兵衛意
志碑」で、これも移設されたものです。遷宮の理由はもちろんわかっていません。
当時朝鮮半島は動乱の様相にあり、軍事力の強化は倭国にとって最大の課題となって
いたと考えることができます。
筒城宮が置かれた多々羅という地名は鉄を意味しており、この附近が鉄の産地又は鉄の
精製に関わりがあったことが推測されます。またこの地域は木津川に面し、その水利権を
押さえ、かつ軍事面でも継体天皇にとって欠かせない要地であったのかもしれません。
この地はまた継体の出自とされる息長氏や神功皇后伝説と関係の深い場所でもあります。
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その他
※第16代仁徳天皇皇后「磐之媛(いわのひめ)」も、この地に住んだという。
「磐之媛(いわのひめ)」は葛城山系の東麓、大和側に勢力を誇っていた葛城氏の娘で、四
王子を生み、うち三人(履中、反正、允恭)が天皇になった。
日本書紀巻第十一・仁徳天皇に、淀川流域を舞台にした物語が載っている。
仁徳30年の秋、「磐之媛(いわのひめ)」は紀国においでになり、熊野岬で祭祠用に御綱葉
(みつなかしば:三角葉)を採取して帰ってこられた。皇后の留守中に天皇はついに、八田皇
女を娶って宮に入れられた。皇后は難波(なにわ)の渡りまで帰ってこられたところで、この
ことを聞かれて、大変お恨みになった。
そして、持ち帰られた御綱葉を海に投げ入れて、岸に船を着けようとされなかった。天皇は
皇后が怒っているのを知らず、自ら難波津に出て、皇后の船をお待ちになった。皇后は難
波津に船を着けず、更に川をさかのぼって山背(やましろ)より廻って倭(やまと)に出られた。
翌日、天皇は舎人(とねり)を遣わして、皇后を連れ帰らせようとされた。皇后は帰ろうとせず
奈良の山を越えて葛城を望んで、難波の宮を通り過ぎ、山背川をさかのぼると奈良を過ぎ、
倭を過ぎ、私の見たいと思う国は葛城の高宮の我が家のあたり、とお詠みになった。
そして山背に戻り、筒城岡の南に宮を造って住まわれた。
天皇は臣を遣わして、皇后に帰るよう申し上げさせたが、黙って返答されなかった。臣は雨に
ぬれ、一晩中、御殿の前に伏して退出しようとしなかった。その妹で、皇后の側に侍す国依姫
は、兄が雨にぬれるのを見て涙を流して、「筒城宮で、皇后に物を申し上げようとしている兄
を見ると、かわいそうで涙ぐんでしまう」と詠んだ。
皇后が、おまえはなぜ泣くのかと問われたので、「今、庭に伏して居りますのは、私の兄です。
雨にぬれても下がらず、伏したまま、お目にかかろうとしています。ですから私は泣いている
のです」と申し上げた。
皇后は、「おまえの兄に言って、早く帰らせなさい。私は金輪際、帰らない」とおっしゃった。
臣は帰って、天皇にその旨を申し上げた。十一月に、天皇は川をさかのぼり、山背に行幸さ
れた。時に、桑の枝が水に従って流れているのご覧になって、磐之姫は並大抵のことでは
お聞き入れにならない私の心恋(うらごひ)の木、その末桑(うらぐわ)の木が近寄ることの出
来ない河の曲り角にあちこち寄っては 流れ、寄っては流れて行くその末桑の木が とお詠
みになった。翌日、筒城宮に参られたが、皇后は会おうとされなかった。その時、天皇は次
の歌をお詠みになった。山背女が木の鍬で掘り起こした大根、その大根の葉がざわつくよ
うにざわざわとあれこれ貴女が言われるからこそ、見渡すむこうにある木の茂るように大
勢の人を引き連れて貴女に会いに来たものを皇后は人を介して、「陛下は八田皇女を入
れて妃とされました。私はその皇女に副って、皇后で居りたくありません」と申し上げた。
天皇は、皇后が大変立腹されているのをお恨みになった。仁徳35年夏、磐乃媛は筒城宮
で亡くなった。御陵は、奈良市佐紀町の佐紀ヒシアゲ古墳である。

酒屋神社へ向う
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酒屋神社(さかやじんじゃ)
創建年月など不詳だが、かつて神功皇后(じんぐうこうごう)が三韓遠征の際、神社背後
の山に酒壺を三個安置して出立、帰国後その霊験に感謝して建てられたとも。本殿は明
治9(1876)年の再建で一間社流造り、屋根に特徴があり、千鳥破風(ちどりはふ)と軒唐
破風(のきからはふ)を配した姿は山城地域では県(あがた)神社(宇治市)本殿など、限
られたところにしか見られない。神功皇后が朝鮮より持ち帰った“九山八海の石”が今もこ
こにあるという。 また、河内国の酒造りを業とする中臣酒屋連(なかとみのさかやのむら
じ)の一族が来往して、酒造りを伝え、祖神を祭ったものともいわれる。 佐牙神社とともに
酒造りに縁のある神社である。祭神は、津速魂神(つはやむすびのかみ)と応神天皇。
近くには興戸の大池があり、初夏の青葉、秋の紅葉と季節によって様々な美しい姿を見
せてくれる。
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花見山公園へ向かう
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花見山公園(昼食)
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此の続きは、
2月26日の寿宝寺十一面千手観音~酬恩庵-2 として
          下記のメインブログへ詳細を投稿します。
         https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、とんちロードを一休寺へ向かう~
とんちロードを一休寺へ向かう
近鉄新田辺駅西口の一休像横、JR京田辺駅西口の一休像横、一休寺山門横に一休と
んちロードを紹介する看板を設置しています。
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酬恩庵しゅうおんあん)一休寺・解散
酬恩庵は、京都府京田辺市にある臨済宗大徳寺派の寺院である。山号は霊瑞山。
本尊は釈迦如来。一休寺(いっきゅうじ)、薪(たきぎ)の一休寺とも称される。枯山
水の石庭や一休宗純の木像のほか、納豆の一種である「一休寺納豆」でも有名。
正応年間(1288 - 1293年)に南浦紹明が開いた妙勝寺が前身である。元弘年間
(1331 - 1334年)に兵火にあって衰退していたのを、康正2年(1456年)に一休宗
純が草庵を結んで中興し、宗祖の遺風を慕い師恩に酬いる意味で酬恩庵と号した。
その後、一休は文明13年11月21日(1481年12月12日)、88歳で亡くなるまでをここ
で過ごし臨終の際には「死にとうない」と述べたと伝わる。なお、金春禅竹が総門の
まえで一休のために能を演じたという。

一休禅師の墓
禅師は文明13年(1481)11/21に88歳で示寂されたがこれに先立って文明7年(1475)
ここに寿塔を立て慈楊塔と名付けられた。前面の庭は禅院式枯山水の様式で室町の
古風を存している。現在墓所は宮内庁が御陵墓として管理をされており門扉に菊花の
紋があるのもそのためである。
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本堂
本堂は仏殿ともいい内部には本尊釈迦如来坐像、文殊普賢菩薩像が安置されてい
ます。当本堂は山城・大和地方の唐様建築中で最も古い建造物であります。1429年
から1441年の永享年間に室町幕府六代目将軍足利義教公の帰依により建立されま
した。
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方丈・他
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三本杉
元は一休禅師、蓮如上人、蜷川新衛門の三人によるお手植えの杉として500年の
緑を湛えていたが寿命となり今は昭和40年に植えられた2代目である。
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薪神社(たきぎじんじゃ)・能楽発祥の地碑
能役者金春禅竹(こんぱるぜんちく1405−1570年)が一休禅師のために猿楽を演
じたと伝えられる場所で、「薪能(たきぎのう)」の名称はこの地で野外能を演じたこと
から起こったと云われている。
境内社殿前には薪能発祥の碑があり、「能楽は薪能即ち金春流に初まり、次に宝生
能観世能は大住に、金剛能は大和に発祥」 と彫られている。
一休寺山門前の「薪能金春芝旧跡」という碑文はやはりこの付近で金春禅竹が一休
禅師に猿楽の能を演じ観覧に供したことを伝えている。金春禅竹(1405~1471年)は
室町時代の能役者・能作者で, 大和四座のひとつ円満井座(えんまいざ=金春座)の
太夫金春弥三郎の子。能楽の大成者世阿弥(ぜあみ1363−1443年)の娘婿となり,
世阿弥の能を発展させ, 金春流隆盛の基礎を固めたとされる。応仁の乱(1467−14
77年)の際, 一休が酬恩庵に難を避けていた間禅竹も薪の多福庵に移り 二人の間に
交流があったとされる。一休も禅竹の影響で能に関心を示し, 謡曲の「山姥(やまうば
)」」「江口(えぐち)」は一休の作との説もある。一休禅師は応仁の乱で荒れる世の中
で薪能という日本の大切な文化を育成した功労者でもある。
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とんちロードを新田辺駅へ
2018年7月・・・京田辺市
市民のみなさんがまちの歴史を再認識し、京田辺市に愛着を持つことができるようにす
るため、また、来訪者が一休寺までの道中を楽しみながら歩くことができ、京田辺市を訪
れてよかったと思えるようにするために、区間内15カ所の電柱に、一休禅師生誕600年
を記念して製作された「一休かるた」を使った22種類の案内板を取り付けました。
「屏風の虎退治」などのとんち話や一休さんにまつわる言い伝えなどを、和やかな絵と共
に紹介しています。府道八幡木津線から一休寺の方面へ、一休さんが誕生したときから、
晩年を薪で過ごされるようすの順にかるたが並んでいます。

棚倉孫神社(たなくらひこじんじゃ)・・・「ずいき神輿」
御祭神は、大永6年(1526年)の棚倉孫神社紀によると、推古(すいこ)天皇31年(623年)
9月に相楽郡の棚倉ノ庄より高倉下命(たかくらじのみこと)を勧請するとある。別名を天
香古山命(あめのかごやまのみこと)、また手栗彦彦命(たぐりひこのみこと)とも申しあげ、
天照大御神(あまてらすおおみかみ)の曾孫(ひこ)で、天神(あまつかみ)の直系である。
『古事記』や『日本書紀』によると天孫降臨(てんそんこうりん)に父命(饒速日命)と共に降
り紀州熊野に住み、神武天皇の東征の時、布都御魂(ふつのみたま)の神剣を奉り大功
をたてられたとある。『日本三代実録』の清和(せいわ)天皇、貞観元年(859年)正月27日
に畿内七道諸神進階及び新叙があり、267社の中に「棚倉孫神」が従五位下から従五位
上の神位を賜った。延喜式内の棚倉孫神社 旧社格は郷社(昭和6年2月に列せられる)
延喜5年(905年)に着手し、延長5年(927年)に完成の『延喜式神名帳』に掲載されている
神社であり、創建が延喜以前であることがわかる。
※畿内七道は大宝律令で大宝元年(701年)制定。・山城国・大和国・河内国・摂津国・和
泉国(京都付近の五か国)・東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道
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「ずいき神輿」
京田辺市文化財2号。明治の中頃から民俗神事瑞饋神輿(ずいきみこし)が伝えられてい
たが昭和4年(1929年)中断。昭和51年10月秋祭りに47年ぶりに制作技術の復興を見る。
昭和53年(1978年)2月に瑞饋神輿保存会が結成され、同年10月に文化財2号として指定
される。瑞饋神輿は2基あり、大人用は隔年、こども用は毎年制作している。
ずいき御輿は、屋根を赤ずいきで葺かれ、千日紅やトウガラシなど、多くの野菜や穀類
を使い色鮮やかに仕上げられています。御輿は、五穀豊穣を願い2年に一度保存会の
みなさんの手で作られるもので、ずいきや千日紅など保存会で育てられたものが使われ
ているそうです。
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JR京田辺駅
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新田辺駅から帰途に
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2月24日の南河内 竹内街道と古市古墳群を歩く-1

3月4日       2月24日の南河内 竹内街道と古市古墳群を歩く-1
南河内歴史ウオーク 歩程13km
此の日は、知人M村さんと二人で参加した、参加者784名だったかな?M村さんとは
当初からわかって他事だが、午後から別の用事が有るとの事で12時半に分かれて、
此の日の私の万歩計は、27204歩で約16.3km歩いたことに・・・
コース   華やいで大阪・南河内観光キャンペーン協議会主催 布忍神社受付
布忍駅~10分~大林寺~布忍神社受付(9時半~10時)~西除川遊歩道~王仁の聖
堂址~竹内街道(大師堂)~竹内街道・緑の一里塚~竹内街道・緑の一里塚~丹治は
やプラザ(昼食)~八王神神社~高燈籠(竹内街道モニュメント)~仁賢天皇陵古墳~
峰塚公園・峯ケ塚古墳~清寧天皇陵古墳~白鳥陵古墳~向墓山古墳~墓山古墳~
誉田八幡宮~東高野街道~応神天皇陵古墳~大鳥塚古墳~古室山古墳~仲姫命陵
古墳~小室八幡神社(ゴ―ル・解散)~鍋塚古墳~土師ノ里駅
布忍駅~10分~大林寺
大林寺・・・融通念仏宗の布忍山大林寺(ふにんざんだいりんじ)
当山はもとは東大饗村(東おわい村:現堺市美原町)にあったが、1878年 (明治11年)
当地に移転した。寺院の西側を流れる西除川の西岸にあった永興寺(ようこうじ:明治6
年に廃寺)の本尊であった十一面観音像や「布忍山永興寺略縁起」、「大般若経600巻」
を蔵する。この「布忍山永興寺略縁起」によると、永興寺は1069年(寛治3年)永興律師
により創建され、弘安年中(1278~88年)に大和西大寺の叡尊が中興したと伝える。
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布忍神社受付
長蛇の列で受付迄随分待たされた
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※布忍神社
本社の鎮座する「布忍」の地名の由来は日本書紀にもある布忍入姫命(ぬのしいりびめの
みこと、日本武尊の娘のひとり)にあると言われている。本社の創建年については明確で
ない。本殿は府指定有形文化財にも指定されている。主祭神は速須佐男之命(はやすさ
のおのみこと) 厄除け・病気平癒・交通安全の宮、恋みくじが若者に人気・・・

西除川遊歩道
西除川遊歩道は松原市西部の西除川に沿って、北は天美西公園から南は松原市民運動
広場までを結ぶ約4kmの遊歩道です。四季折々の花や緑を眺めながら、ウォーキング等
を楽しめます。今回は、布忍神社~松原市民運動広場迄の約2.5kmを歩いた
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王仁の聖堂址
出岡弁財天 同社は元禄5年(1692)の「寺社改帳」に、慶長年間の焼失後、寛永年間に再
建された。
聖堂は、孔子を祀る堂です。わが国で孔子を祀ることが始まったのは大宝元年(701)のこ
とですので、王仁が聖堂を建てた事実は不確かです。ししかし、ここに聖堂があったと江戸
時代以後、伝えられてきた背景には、当地の人々が河内に教育者王仁を顕彰し、学問を広
めたいという願望があったからではないでしょうか。
清堂池から西南一帯は清堂遺跡とよばれる旧石器時代から近世に至る複合遺跡です。市
内でも、最も古くから開けた土地柄なのです。
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※学者の王仁
『日本書紀』によると、応神が大王のころ、朝鮮半島の百済から学者の王仁が大和王権に
招かれました。王仁は応神の太子である菟道稚郎子の師となって、太子に典籍を教えたと
あります(応神16年条)。一方、『古事記』では、王仁は和邇吉師と記され、孔子の『論語』
十巻、『千字文』一巻を貢進したと記されています(応神段)。
王仁の渡来は4世紀後半ごろと思われますが、『日本書紀』『古事記』とも王仁は西文氏の
祖と伝えています。西文氏は5~6世紀半ばにかけて大和王権内で文筆専門の氏族として
活躍しました。現在の羽曳野市古市に居住し、いまも法灯を続ける西琳寺(古市2丁目)を
氏寺としていました。
こうしたことから、江戸時代以後、儒学が盛んになるにつれ、王仁はわが国学問の祖とし
てあがめられるようになりました。とくに、大阪は王仁に関する伝承が多く、枚方市藤阪に
は王仁墓が建てられています。また、大阪市北区大淀北には王仁を祭神とする八坂神社
が鎮座していましたし、高石市の高石神社も元来は王仁を祀っていました。

竹内街道(大師堂)
竹内街道
春分と秋分の日、太陽は三輪山から昇り、二上山を超えて大阪湾に沈む。
このことから、推古天皇21年(613年)に東西の直線で敷設された幅20mを越える大道
(竹内街道・横大路)は、太陽の道と言われる。
古代には、大陸からの使節団が難波宮から飛鳥京を訪れ、先進技術や仏教文化を伝
えた。中世には経済都市を結び、近世には伊勢参りの宿場町としての賑わいを見せ、
場所ごとに様々な表情を浮かべる。
1400年の歴史の移り変わりを周辺の歴史遺産を通して感じさせる日本最古の国道。
それが竹内街道・横大路(大道)なのである。
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大師堂
空海を祀る大師堂(岡5丁目)が建っています。もともとは増池の東畔にありましたが、
池の半分は埋められ、岡公園となっています。
大師堂の創建は未詳ですが、高野山大円院より招請したという空海坐像・不動明王立
像・板彫千手十一面観音立像が安置されています。密教様式の厳しい表情が特徴で
す。境内には、室町時代の阿弥陀如来坐像2体も祀られています。
大円院と関わりがあるのは、大師堂に長く住持した神田覚栄師が大円院で修行をされ
たからです。覚栄師は、幕末の嘉永5年(1852)生まれ。昭和18年(1943)に亡くなるま
で、地域の大師信仰を支えてきました。
戦後以降、大師堂は岡の観音講によって守られています。
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竹内街道・緑の一里塚・・・第1号(松原市)
2013年3月29日(金曜日)に、「緑の一里塚」の第1号を大阪府、松原市、(財)国際花
と緑の博覧会記念協会及び地元自治会が協働で、松原市立部に設置しました。
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丹治はやプラザへ向かう
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竹内街道・緑の一里塚・・・第6号(羽曳野市野地区)
2013年11月24日(日曜日)に、「緑の一里塚」の第6号を大阪府、羽曳野市(公財)国際
花と緑の博覧会記念協会、北野木材、地元町会が協働で、羽曳野市野に設置しました。
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丹治はやプラザ(昼食)
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八王神神社
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仁賢天皇陵古墳へ向かう
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高燈籠(竹内街道モニュメント)
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仁賢天皇陵古墳
仁賢天皇(にんけんてんのう、允恭天皇38年 - 仁賢天皇11年8月8日)は、第24代天皇
(在位:仁賢天皇元年1月5日 - 同11年8月8日)。名は億計天皇(おけのすめらみこと)・
大石尊(おおしのみこと)、意祁命・意富祁王(おおけのみこ)。諱は大脚(おおし)または
大為(おおす)、字は嶋郎(しまのいらつこ)。
安康天皇3年、天皇が暗殺された後に父の市辺押磐皇子が大泊瀬皇子(後の雄略天皇)
に殺されると、弟の弘計王(後の顕宗天皇)と共に逃亡して身を隠した。まず丹波国与謝
郡(丹後半島東半)に逃げ、後には播磨国明石や三木の志染の石室に隠れ住む。兄弟
共に名を変えて丹波小子(たにわのわらわ)と称した。縮見屯倉首(しじみのみやけのお
びと)に雇われて牛馬の飼育に携わっていたが、清寧天皇2年に、弟王が宴の席で王族
の身分を明かした。清寧天皇は、子がなかったため喜んで迎えを遣わし、翌年に2王を宮
中に迎え入れた。4月に億計王が皇太子となった。
同5年に清寧天皇が崩じたときに皇位(王位)を弟王と譲り合い、その間は飯豊青皇女が
執政した。『古事記』では、2王が身分を明かして宮中に戻ったのは清寧天皇の崩御後、
飯豊王の執政中のことであるとする。翌年、弟王が即位(顕宗天皇)したが、わずか在位
3年(『古事記』では8年)で崩御した。
これを受けて、億計王が仁賢天皇元年1月に即位した。3年2月に石上部(いそのかみべ)
舎人を、5年に佐伯造(さえきのみやつこ)を置いた。また、6年9月に高麗(こま)へ日鷹吉
士(ひたかのきし)を遣わし、皮の工匠などの手工業者を招いたという。仁賢天皇の時代は
国中が良く治まり、人民から「天下は仁に帰し、民はその生業に安んじている」と評された。
7年1月には皇子の小泊瀬稚鷦鷯尊を皇太子に定め、11年8月に崩御。『水鏡』に50歳、
『帝王編年記』には51歳とある。
皇后は雄略天皇の皇女である春日大娘皇女であるが、父を殺した雄略天皇の皇女を皇后
とした理由として、仁賢天皇自身が傍系の出身であるため、直系の皇女を皇后に迎え入れ
正当性を強めたと考えられている。これは娘の手白香皇女も、傍系出身の継体天皇の皇后
となった事で繰り返されている。
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峰塚公園へ向かう
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峰塚公園・峯ケ塚古墳
峯ヶ塚古墳(みねがづかこふん)は、大阪府羽曳野市軽里2丁目に存在する古墳時代後期
の前方後円墳。古市古墳群の南西部に位置する。国の史跡に指定されている。
峯ヶ塚古墳は、墳丘の長さ96m、前方部の幅74.4m・高さ10.5m、後円部は直径56m・高さ
9mの前方後円墳である。
江戸時代には、日本武尊白鳥陵に比定されていた(現在は、軽里大塚古墳を比定)。また、
允恭天皇皇子の木梨軽皇子の墓との伝承もあった。
墳丘は二段に築かれており、二段目斜面の裾部分のみに数段の角礫が葺いてあるほか
は、表面に葺石はみられない。 1992年(平成4年)の発掘調査で、後円部墳頂中央部の盗
掘壙(とうくつこう)を掘り進めた結果、竪穴式石室が現れた。 石室や盗掘壙から、大刀・鉄
鏃などの武器、挂甲小札(けいこうこざね)などの武具、轡(くつわ)・鐙(あぶみ)などの馬具、
装身具、玉類などが大量に出土した。また、成人男性の骨や歯なども出土している。 出土し
た埴輪や横穴式石室の特徴から、6世紀初頃(古墳時代後期)の築造と考えられている。
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此の続きは、
2月24日の南河内 竹内街道と古市古墳群を歩く-2 として
            下記のメインブログへ詳細を投稿します。
          https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、清寧天皇陵古墳~
清寧天皇陵古墳
陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府羽曳野市西浦6丁目にある河内坂門原陵(こうちの
さかどのはらのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「白
髪山古墳」で、墳丘長112メートルの前方後円墳である。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が
祀られている。
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※清寧天皇(せいねいてんのう、允恭天皇33年? - 清寧天皇5年1月16日)は、第22代天
皇(在位:清寧天皇元年1月15日 - 同5年1月16日)。御名は白髪皇子(しらかのみこ)。
和風諡号は白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこの
すめらみこと)、白髪大倭根子命(古事記)。
御名の「白髪皇子」の通り、生来白髪(アルビノの可能性もある)であったため、父帝の雄
略天皇は霊異を感じて皇太子としたという。
雄略天皇23年8月、雄略天皇崩御。吉備氏の母を持つ星川稚宮皇子が大蔵を占拠し、
権勢を縦(ほしいまま)にしたため、大伴室屋・東漢直掬らにこれを焼き殺させる。翌年正
月に即位。 皇子がいないことを気に病んでいたが、清寧天皇2年、市辺押磐皇子の子で
ある億計王(後の仁賢天皇)・弘計王(後の顕宗天皇)の兄弟を播磨で発見したとの情報
を得、勅使を立てて明石に迎えさせる。翌年2王を宮中に迎え入れ、億計王を東宮に、弘
計王を皇子とした。
5年正月に崩御した。『水鏡』に41歳、『神皇正統記』に39歳という。なお、『古事記』では2
王の発見は天皇崩御後の出来事としている。

白鳥陵古墳へ向かう
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白鳥陵古墳・・・白鳥陵(しらとりのみささぎ)
公式形式は前方後円。考古学名は「軽里大塚古墳」または「前の山古墳」。墳丘長190m
の前方後円墳で、5世紀後半の築造と推定される。河内の白鳥陵は明治8年(1875年)
に教部省により伊岐宮(現・白鳥神社)の白鳥神社古墳に考定されたが、明治13年(18
80年)に現陵(軽里大塚古墳/前の山古墳)に改定された。現陵は、『河内国陵墓図』では
木梨軽太子の「軽之墓」と記されている。かつては西方の峯ヶ塚古墳に比定する説もあっ
たという。
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※「日本武尊」
ヤマトタケル(生年不詳 - 景行天皇43年)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族(王族)。
『日本書紀』では主に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、『古事記』では主に「倭建命
(やまとたけるのみこと)」と表記される。現在では、漢字表記の場合に一般には「日本
武尊」の用字が通用される。第12代景行天皇皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。
熊襲征討・東国征討を行なったとされる、日本古代史上の伝説的英雄である。
草薙剣
記紀日本武尊が帯びた剣は、草薙剣(草那芸剣)といわれる。出雲でスサノオ尊がヤマ
タノオロチを倒した際にその尾から出てきたもので、天照大神に献上され、天孫降臨に
伴い三種の神器の一つとして、再び地上に戻ってきたものである。
日本書紀の注記によると、元は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)という名で、日本武
尊が駿河で野火攻めに遭った時、この剣が独りでに鞘から抜けて草を薙ぎ払い、難を
逃れたことにより草薙剣(くさなぎのつるぎ)と名付けられたとする。ただし、これは挿入
された異伝であり、正式な伝承とは見なされていない。本文では一貫して草薙剣と表記
され、途中で名称が変わることはない。古事記でも草那芸剣(大刀)とのみ記される。
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西馬塚古墳
西馬塚古墳は、墳長45m、高さ9.4mの方墳で、五世紀後半に築造されたと考えら
れています。後世に削られているため墳丘は原型をとどめていません。
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向墓山古墳へ向かう
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向墓山古墳
墓山古墳の陪塚
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墓山古墳
墓山古墳は古市古墳群のほぼ中央にある大形の前方後円墳です。三段に築かれた墳
丘は長さ225m、くびれ部両側に造出しを備え、深い濠と幅広い堤をめぐらせます。墳丘
部は「応神天皇陵陪塚」として宮内庁が管理されていますので、内部の詳しい様子は不
明です。だた、これまでに多量の滑石製勾玉や各種の形象埴輪の出土が知られていま
す。また、後円部には亀甲紋を陰刻した長持形石棺が納置されていた報告もあります。
これらの情報から墓山古墳は5世紀の前半に築造されたと考えられます。墓山古墳の
周囲には浄元寺山、向墓山、野中、西墓山という4基の陪塚が配されていて、典型的な
中期大型古墳の様相をみせています。
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誉田八幡宮へ向かう
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誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)
大阪夏の陣の際、豊臣方の武将・薄田隼人が陣を布いた近くに鎮座しています。豊臣
秀頼による社殿の再建中に大阪の陣が勃発してしまった為、社殿の天井板は未だに
未完成のままとなっています。
誉田八幡宮は、大阪府羽曳野市にある神社で、旧社格は府社。主祭神は応神天皇で、
誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の直ぐ南に鎮座する。
社伝によると、欽明天皇20年(559年)に任那の復興を目指した欽明天皇によって、応神
天皇陵前に神廟が設置されたことをもって創建としている。このことから最古の八幡宮を
称している。奈良時代には行基によって神宮寺の長野山護国寺も創建された。永承6年
(1051年)の後冷泉天皇行幸の際に、元の鎮座地から1町ほど南の現在地に遷座した。
八幡神が源氏の氏神とされることから、源氏姓を名乗る歴代の将軍をはじめ、武家の信
仰を受けた。南北朝時代から戦国時代にかけては、別当職の誉田三河入道一族によって
保護されたが、享徳3年(1454年)より始まった河内守護・畠山氏の内輪争いにより社殿・
伽藍を焼失し荒廃した。三好氏により滅ぼされた応神天皇末裔の誉田氏の一部は、四国
や九州に逃れ、また、江戸期には、関西一円の香具師(やし)(露天商)の元締めとして君
臨したといわれている。河内国を支配下に置いた織田信長により、社領をすべて奪われ、
その後、豊臣秀吉は社領200石を寄進し、社殿を再建した。天正14年(1586年)に社殿が
焼失したため、豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行に任命して社殿再建を行ったが、拝殿の
建造中に大坂夏の陣・豊臣氏滅亡があり、建物の内部が未完成のままとなっている。
江戸幕府も200石の社領を安堵し、数度にわたり社殿の修復を行った。 神宮寺の長野山
護国寺は、明治の廃仏毀釈により大半の建物が取り壊され、現在は南大門のみが残る。
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応神天皇陵古墳へ向かう
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東高野街道(ひがしこうやかいどう)・・・羽曳野市HPより
東高野街道は高野詣でのための京から高野山に至る道で、江戸時代には東高野街
道の他、西高野街道、下高野街道、中高野街道などいくつかの経路がありました。東
高野街道は、 京都九条の教王護国寺(東寺)から大阪平野の東縁を南下し、羽曳野
市域を通って紀見峠を越え高野山に至っています。
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※ 東高野街道とは、かつて京都から高野山への参詣道として用いられた街道。
数ある高野街道のうち、いちばん東側に位置する道筋。八幡(京都府八幡市)で京街
道(大坂街道) と別れ、河内国の東部を通り、長野(大阪府河内長野市)で西高野街道
と合流し、 以南は高野街道として紀見峠、橋本、高野山へ至る。いつ頃に形成された
かは定かでない。既存の集落を経ず、出来るだけ直線になるように通されており、自
然発生的に形成された道ではなく、計画に基づいて建設された古代道路であると言わ
れている。 淀川水系の河川や、かつて存在した巨大な河内湖(深野池)周辺の湿地
帯を避けて生駒山地の麓を通り、河内国府(現在の藤井寺市)付近で大和川を越え
ると石川の左岸に沿って通った。 平安時代には、京と河内国府を結ぶ官道としても重
要であったとされる。その後は官道としての重要性は薄れたものの、仏教信仰の一般
化に伴い、高野山参りが盛んになると参拝道として賑わうようになった。
現在では、府道長尾八幡線、枚方バイパス、府道枚方交野寝屋川線、府道枚方富田
林泉佐野線と国道170号(旧道)各道の大半に相当または平行する。

応神天皇陵古墳(誉田山古墳とも言う)
誉田御廟山古墳 (こんだごびょうやまこふん)又は誉田山古墳(こんだやまこふん)は、大
阪府羽曳野市誉田にある古墳。形状は前方後円墳。古市古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「惠我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみ
ささぎ)」として第15代応神天皇の陵に治定されている。また外濠と外堤は1978年(昭和5
3年)に国の史跡に指定されている。 名称は「応神天皇陵」とも呼ばれ。全国で大仙陵古
墳(大阪府堺市)に次ぐ第2位の規模の巨大古墳である。
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大鳥塚古墳(おおとりづかこふん)
大鳥塚古墳は、大阪府藤井寺市古室にある古墳。形状は前方後円墳。古市古墳群を構
成する古墳の1つ。国の史跡に指定されている(史跡「古市古墳群」のうち)。
大阪府東部、藤井寺市・羽曳野市・松原市にまたがる大古墳群である古市古墳群のうち、
中位段丘(国府台地)上に築造された大型前方後円墳である。墳形は前方後円形で、前
方部を南方に向ける。墳丘は後円部で3段築成、前方部で2段築成。墳丘表面では葺石・
円筒埴輪列や、形象埴輪(家形・蓋形・盾形・靫形・冑形埴輪など)が認められる。墳丘く
びれ部両側には造出を付すほか、墳丘周囲には馬蹄形の周濠が巡らされる(空濠、現在
は埋設保存)。大鳥塚古墳は、古墳時代中期の5世紀前葉頃の築造と推定される(赤面山
古墳も同時期)。古市古墳群では大王墓の仲津山古墳(藤井寺市沢田)と同時期とされ、
巨大前方後円墳(大王墓)に次ぐ大型前方後円墳として、当時のヤマト王権の政治階層を
示す古墳になる。
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古室山古墳(こむろやまこふん)
古室山古墳は、大阪府藤井寺市古室にある古墳。形状は前方後円墳。古市古墳群を構
成する古墳の1つ。国の史跡に指定されている(史跡「古市古墳群」のうち)。
大阪府東部、藤井寺市・羽曳野市・松原市にまたがる大古墳群である古市古墳群のうち、
中位段丘(国府台地)上に築造された大型前方後円墳である。
墳形は前方後円形で、前方部を北東方に向ける。墳丘は3段築成。墳丘長は150メートル
を測り、古市古墳群では中規模になる。
古室山古墳は、古墳時代中期の4世紀末-5世紀初頭頃の築造と推定される。古市古墳群
では最初の大王墓と目される津堂城山古墳(藤井寺市津堂)と同時期とされ、巨大前方後
円墳(大王墓)に次ぐ大型前方後円墳として、当時のヤマト王権の政治階層を示す古墳。
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仲姫命陵古墳・・・仲津山古墳(なかつやまこふん)
仲ツ山古墳(仲津山古墳)は、大阪府藤井寺市沢田にある古墳。形状は前方後円墳。古市
古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「仲津山陵(なかつやまのみささぎ)」として
第15代応神天皇皇后の仲姫命の陵に治定されている。
古市古墳群の北部、誉田御廟山古墳の北東に位置する。全長290m、後円部径170m、高
さ26.2m、前方部幅193m、高さ23.3mで、古市古墳群で2番目、全国でも9番目の大きさを
誇る。国府台地の最高所にあるため、周濠は空濠に近い湿地帯になっている。 出土した埴
輪の特徴から、古市古墳群の巨大前方後円墳では、津堂城山古墳に次いで古く、5世紀前
半の築造と推定されている。
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小室八幡神社(ゴ―ル・解散)
神社に由緒書きはありませんが、國府八幡神社由緒に「藤井寺市内には、江戸時代初期
の頃に誕生した八幡神社が五社あり、国府八幡神社以外の八幡神社 は、誉田八幡宮(羽
曳野市)の分霊を勧請したものとされています。沢田八幡神社、古室八幡神社、土師里八
幡神社、津堂八幡神社の四社です。」とあり、江戸時代の初め頃、誉田八幡宮の分霊を勧
請した古室地区の氏神様のようです。
国府八幡神社は、壺井八幡宮(羽曳野市)の分霊を勧請して始まっ たとされています。
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※壺井八幡宮
武家棟梁・河内源氏の氏神である。八幡神として誉田別尊(応神天皇)・仲哀天皇・神功皇
后を主祭神とし、玉織姫・武内宿禰を配祀する。一帯は河内源氏の本拠地で、寛仁4年(10
20年)に源頼信が河内国国司に任じられて以降、頼信・頼義・義家の3代にわたって当地に
居住し、河内源氏と呼ばれるようになった。康平7年(1064年)5月15日、前九年の役に戦
勝して凱旋した源頼義が、現在地である河内国香呂峰の私邸の東側に社殿を造営し、河
内源氏の氏神である石清水八幡宮(京都府八幡市)を勧請したのが当社の始りである。こ
の時に地名を香呂峰から壺井と改め、壺井八幡宮を武家源氏棟梁の河内源氏の総氏神と
した。近くには河内源氏の氏寺・通法寺がある。その後、源頼義は、河内源氏の東国進出の
拠点として、鎌倉にも石清水八幡宮を勧請した(鶴岡若宮。後の鶴岡八幡宮)。頼義の5世孫
である源頼朝が鎌倉幕府を開いた後は、河内源氏の総氏神は壺井八幡宮から鶴岡八幡宮
に移り、壺井八幡宮は河内源氏の祖廟にして当地に土着した河内源氏である石川源氏の氏
神となる。

鍋塚古墳
4世紀末葉築造、古墳の形は方墳、墳丘一辺の長さ 63m、2段築成。出土したものは、
円筒埴輪、家、衣蓋、盾、靭形といった形象埴輪。
現状は一辺40m前後ですが、周辺の調査成果により一辺63mに復元することができます。
仲姫命陵古墳外堤に食い込むような位置に築かれています。
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土師ノ里駅
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