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7月24日の「わろてんか(吉本せい)縁りの地を歩く-1

7月28日       7月24日の「わろてんか(吉本せい)縁りの地を歩く-1
                歩こう会 NHK朝ドラ わろてんか
暑い暑い街中ウオーキングに参加者62名、地下街で2回涼をとりながら無事に歩ききり
天神祭りの宵宮にも触れる事が出来、祭り気分も楽しめ盛夏ウオーク楽しめました・・・
解散後は天神橋筋商店街で串カツとビールで陵をとり、久し振りに祭り気分迄も楽しみ、
此の日の私の万歩計は、19031歩で約14km歩いたことに・・・・
コース
通天閣(10時集合・スタート)~新世界~でんでんタウン~道具屋筋~なんばグランド花
月~法善寺~南地花月「花月の落語亭」跡碑~道頓堀川沿い~クリスタ長堀(地下街)
~ガス燈が連なる三休橋筋~中之島公園・バラ園(昼食休憩)~大阪天満宮~天満天神
繁盛亭~第二文芸館跡(解散)・・・天神橋筋商店街~地下鉄天六駅
※吉本せい
「事実は小説より奇なり」という言葉がありますが、今日の漫才師が束になってかかっても、
吉本興業の創業者である吉本せいの痛快でおもろい人生にはかなわない。吉本せいは、
明治の終わりから大正、昭和、そして終戦まで、興行界を席巻した女興行師。1889年生ま
れで、1950年に戦後まもなく肺結核で亡くなっています。このとき、吉本せいは、まだ60歳
の若さでした。
吉本せいは、荒物問屋の息子であった吉本吉兵衛と、20歳で結婚。1912年、吉本夫妻は、
当時8軒もの寄席が競った繁華街の天満八軒で、不人気だった1軒の寄席の経営権を獲
得しました。その後、吉本せいの手腕で、またたく間にいくつもの寄席を買い上げた吉本夫
妻は、1932年に吉本興業合名会社を設立。戦後1948年には、吉本興業株式会社として、
いち早く株式会社化を実現しています。
吉本せいの偉大な業績は、従来は落語が中心だった寄席に、物真似、音曲、曲芸といった
諸芸を取り入れ、全く新しい笑芸、漫才を寄席にもたらしたことでしょう。
夫の吉本吉兵衛が、1924年に、37歳の若さで亡くなってしまっただけでなく、子供たちがみ
んな早世したことから、細腕一本で働かざるを得ませんでした。以後、吉本せいの片腕とし
て働いたのは、吉本せいの10歳年下の弟、林正之助です。そのまた8歳年下の林弘高が、
戦前の東京吉本を担うことになります。
吉本せいは、戦後になると会長職に退き、1950年に亡くなりました。そして林正之助が、社
長を継いで以来、1973年に一旦社長を退いたものの、1986年に社長に復帰し、1991年に
亡くなるまで社長を務めます。吉本せいが戦前の吉本興業の立役者ならば、林正之助は、
戦後の近代的な吉本興業を形作った人物です。
自宅近くのバス停(服部)
レジャービルにボーリング場と和食「さと」
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新今宮駅でおりて通天閣迄歩く
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通天閣の下で受付
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新世界
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でんでんタウン
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道具屋筋
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なんばグランド花月
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千日前
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難波地下街
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法善寺
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水掛不動明王
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お初大神横の路地を行く
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此の続きは、
7月24日の「わろてんか(吉本せい)縁りの地を歩く-2 として
           下記のメインブログへ詳細を投稿します。
         https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、南地花月「花月の落語亭」跡碑の路地~
南地花月「花月の落語亭」跡碑
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道頓堀川沿い
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ガス燈が連なる三休橋筋を
通り、中の島公園へ向かう
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中之島公園・バラ園(昼食休憩)
今日は天神祭の宵宮・・・
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バラ園を後に天満宮へ向かう
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大阪天満宮
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天満天神繁盛亭
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天満天神繁盛亭前の
第二文芸館跡(解散)

天神橋筋商店街
串カツ屋で涼をとる・・・
IMG_2043.JPG おまけ はぜの木の紅葉 IMG_2045.JPG
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7月22日の明日香稲渕の棚田&案山子ロード-1

7月28日        7月22日の明日香稲渕の棚田&案山子ロード-1
                  9月コースの下見① 飛鳥駅~
二人で9月度の歩こう会のコース下見の下見へてくてくマップ飛鳥駅のスタンプを貰って
行って来ました、此の日の私の万歩計は、19948歩で約14.7km歩いたことに・・・
飛鳥駅(9:40スタンプ貰ってスタート)~高松塚古墳~休憩所(10:00 10:05)~文武天
皇陵~八坂神社~朝風峠~稲渕の棚田・西郷どん大案山子~男綱~飛鳥川~マラ石
~石舞台古墳広場(11:30昼食12:10)~橘寺~川原寺跡~橘寺(12:30)~明日香村
役場~亀石~天武・持統天皇陵~国営飛鳥歴史館(13:05 13:15)~飛鳥駅(13:30)
我家の琉球朝顔
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志都美駅ホーム
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飛鳥駅(9:40スタンプ貰ってスタート)~高松塚古墳
~休憩所(10:00 10:05)
文武天皇陵
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八坂神社へ向う
八坂神社
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朝風峠へ向かう
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朝風峠
稲渕の棚田、此処からは男綱迄下り道
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西郷どん大案山子
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飛鳥川に
男綱
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飛鳥川
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稲渕バス停
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此の続きは、
7月22日の明日香稲渕の棚田&案山子ロード-2 として
           下記のメインブログへ詳細を投稿します。
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続きも稲渕バス停~
稲渕バス停
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石舞台古墳広場へ向かう
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マラ石
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石舞台古墳広場(11:30昼食12:10)
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昼食後、橘寺へ向かう
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橘寺
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川原寺跡
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橘寺(12:30)
山門へ
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明日香村役場
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亀石
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天武・持統天皇陵へ向かう
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天武・持統天皇陵
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国営飛鳥歴史館(13:05 13:15)
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飛鳥駅(13:30)
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飛鳥駅→柏原神宮前駅→大和八木駅→
五位堂駅
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7月18日の「聖武天皇の紫香楽之宮跡を訪ねて」-1

7月21日      7月18日の「聖武天皇の紫香楽之宮跡を訪ねて」-1
                    7月度 歴史探訪の会
此の日は、7月度の歴史探訪の会「聖武天皇の紫香楽之宮跡を訪ねて」に参加した。
参加者13名、大阪に比べると暑さが少し凌ぎ易かったのかな?と思えたが暑い暑い
中を私の万歩計は、10408歩で約7.7km歩いたことに・・・
コース
信楽高原鉄道 紫香楽宮跡駅(受付・スタート)~甲賀寺~鍛冶屋敷跡~新宮神社
跡~宮町遺跡・宮町会館(昼食)~宮町展示室~(タクシー)紫香楽宮跡駅(解散)
出かけの朝
我家の蘇鉄の新葉&琉球朝顔
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草津駅~貴生川駅へ
草津駅で電車に乗る
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草津駅 → 貴生川駅への車窓 
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貴生川駅 → 信楽高原鉄道へ乗り換え紫香楽宮跡駅へ向かう
貴生川駅の信楽高原鉄道?忍び電車
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今度は此の電車で
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紫香楽之宮跡駅(受付・スタート)
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紫香楽之宮跡駅~甲賀寺へ向かう
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紫香楽宮跡(甲賀寺跡) 
信楽高原鐵道の紫香楽宮跡駅から北西へ約lkm、松林に覆われた丘陵地に残る、
国指定の史跡です。 紫香楽宮跡は、奈良時代の天平14年(742)、現在の京都
府木津川市(きづがわし)に恭仁宮(くにのみや)を造営中であった聖武(しょうむ)
天皇が、恭仁宮から東北への道を開いてこの地に造営した離宮であり、たびたび
の行幸の後、3年後に改めて首都と定められました。
緑の松林に囲まれた緩い坂の参道をたどると、金堂跡があり、背後を囲むように
僧坊跡・経堂跡・鐘楼跡・塔院跡などの礎石(そせき)が並び、東大寺とよく似た
建物配置の寺院跡であることがわかります。この寺院は、聖武天皇が紫香楽宮
で大仏造立をはじめた甲賀寺跡だと考えられています。
東西90m・南北110mにわたる広い丘陵地には、建造当時の335個の礎石が残り、
はるか天平時代の雅やかな雰囲気が偲ばれます。
また、ここから北へ約1.5kmの宮町地区にある紫香楽宮跡関連遺跡群調査事務
所(宮町事務所 展示室併設)では、紫香楽宮跡から出土した遺物などを展示し
ています。
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階段を上がって
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僧坊跡
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搭跡へ
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此の続きは、
7月18日の「聖武天皇の紫香楽之宮跡を訪ねて」-2 として
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続きは、塔院から
塔院
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鍛冶屋敷跡へ向かう
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鍛冶屋敷跡
紫香楽宮跡(鍛冶屋敷遺跡)・・紫香楽宮跡鍛冶屋敷地区
鍛冶屋敷遺跡(かじやしきいせき)または紫香楽宮跡 鍛冶屋敷地区(しがらきのみ
やあと かじやしきちく)は、滋賀県甲賀市信楽町黄瀬(きのせ)にある古代鋳造所
遺跡。国の史跡に指定されている(史跡「紫香楽宮跡」のうち)。
奈良時代に聖武天皇が営んだ紫香楽宮(信楽宮/甲賀宮)の関連遺跡で、内裏野
地区と宮町遺跡の間に位置する。
銅製品を鋳造した大規模な官営工房群が確認され、坩堝(るつぼ)などが多数出土
していることや、紫香楽宮跡のある場所から少し山を下った所にあることから、甲賀
寺の幻の紫香楽(信楽)大仏建立に使われる銅を供給していたと考えられている。
当遺跡は、新名神高速道路の信楽IC建設工事中に本線と料金所を結ぶランプ上に
発掘された。遺跡が位置する場所は、当初の計画では盛土構造で遺跡は完全に喪
失する工法であった。しかし、滋賀県教育委員会と当時の信楽町教育委員会が200
4年(平成16年)9月に「古代史を理解する上で欠くことができない」として、遺跡の現
地保存を旧日本道路公団(JH)に要請、2005年(平成17年)4月20日に両教育委員
会とJHが、当初の計画からあった隼人川と市道を跨ぐ140mの橋梁を遺跡側に50
m延長し、橋梁で遺跡を跨ぐ橋梁構造に工法変更することで合意した。これにより
遺跡の喪失は免れることになったが、インターチェンジの工費が約1億円増加して
いる。遺跡域は、2010年(平成22年)に新宮神社遺跡・北黄瀬遺跡とともに国の史
跡「紫香楽宮跡」に追加指定されている。
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新宮神社跡
新宮神社遺跡(しんぐうじんじゃいせき)または紫香楽宮跡 新宮神社地区(しがらき
のみやあと しんぐうじんじゃちく)は、滋賀県甲賀市信楽町黄瀬(きのせ)にある古代
道路遺跡。国の史跡に指定されている(史跡「紫香楽宮跡」のうち)。
奈良時代に聖武天皇が営んだ紫香楽宮(信楽宮/甲賀宮)の関連遺跡で、鍛冶屋敷
遺跡と宮町遺跡の間に位置する。
新名神高速道路の本線工事中に発掘され、2001年2月に滋賀県教育委員会と信楽
町教育委員会が旧日本道路公団(JH)に保存を要請、2001年11月28日に両教育委
員会とJHが信楽ICのランプ橋脚計3本を東に20mずつ、遺跡西側の本線にある紫香
楽橋の橋脚2本を東に10mずつずらすことで合意した。これにより遺跡の喪失を免れ
ることができたが、工費が4000万円増加し、工事の着工も1年遅れている。
2002年(平成14年)の滋賀県甲賀市・鍛冶屋敷遺跡調査の結果では、掘立柱建物三
棟のほか、橋脚遺構と2本の道路遺構を発見。この道路遺構は朱雀路、掘立柱建物
は朱雀路を管理する役所の付随施設であったと推考されている。
遺跡域は、2010年(平成22年)に鍛冶屋敷遺跡・北黄瀬遺跡とともに国の史跡「紫香
楽宮跡」に追加指定され、2015年(平成27年)に一部が追加指定されている。なお、
現在も新宮神社は新名神高速道路の南側に鎮座する。
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宮町遺跡へ向かう
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宮町遺跡・宮町会館(昼食)
宮町遺跡(みやまちいせき)または紫香楽宮跡 宮町地区(しがらきのみやあと みやま
ちちく)は、滋賀県甲賀市信楽町宮町にある古代宮殿遺跡。国の史跡に指定されてい
る(史跡「紫香楽宮跡」のうち)。
奈良時代に聖武天皇が営んだ紫香楽宮(信楽宮/甲賀宮)跡に比定する説が確実視さ
れる。1980年から1982年度にかけて実施された遺跡分布調査とその際の聞き取り調
査で昭和40年代前半に実施された圃場整備事業の時に柱根や遺物が出土していたこ
とが判明したため遺跡の存在が明らかになり、1984年(昭和59年)から発掘調査が進
められている。
その出土した柱根は地元住民の自宅に保管されていたが、1986年(昭和61年)に奈
良国立文化財研究所(現在の奈良文化財研究所)の光谷拓実が開発した年輪年代
測定法によって、伐採年が天平14年(742年)秋から15年(743年)冬の間であること
が判明し、宮町遺跡は聖武天皇の紫香楽宮(742 - 745)の候補地として一躍注目さ
れることになった。2000年(平成12年)の調査で中心部分の巨大な建物跡が検出され、
宮町遺跡が紫香楽宮の宮殿部分であることが判明した。それ以前は、内裏野地区
(1926年紫香楽宮跡として国の史跡に指定)が宮跡とされていたが、上記調査によっ
て宮町遺跡が実際の紫香楽宮跡であると考えられるようになった。現在では、内裏野
地区は聖武天皇の大仏造立に伴って建立された甲賀寺(甲可寺)跡とする説が主流
である。2005年(平成17年)3月には、宮町遺跡を含む19.3haが国の史跡「紫香楽宮
跡」に追加指定され保存が図られている。
当遺跡の確認とほぼ同時期に新宮神社遺跡・鍛冶屋敷遺跡が確認されたため、紫
香楽宮跡周辺の再調査が行われた。また、内裏野地区で発掘された遺物を展示す
る資料室も、宮町遺跡の関連として1998年(平成8年)から開設された。また、遺跡
周辺の施設(公衆トイレ、案内板等)の整備も行われた。ただし、一部の施設は東海
自然歩道の施設に属している。
なお、この遺跡の一部の朱雀大路にあった橋の遺構は、新名神高速道路建設時に
橋梁の場所と重なるため、失われた。
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宮町展示室へ向かう

宮町展示室
紫香楽宮跡関連遺跡群調査事務所の出土遺物展示室では、 紫香楽宮跡関連遺跡
で出土した遺物等の一部を展示しています。
紫香楽宮跡の概要を解説するDVD(約20分)もご覧いただけます。

宮町展示室~(タクシーで)紫香楽之宮跡駅
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7月11日の赤膚山から三条通り&平城宮跡へー1

7月13日         7月11日の赤膚山から三条通り&平城宮跡へー1
                   近鉄てくてくマップ伊本③をアレンジ
此の日は、7月び入って2回目、久し振りのハイキングに二人で参加、暑い暑い1日でした。
コース 近鉄てくてくマップ伊本③赤膚山から朱雀門広場(ショートカット 8㎞)
富雄駅~葛上(ふじかみ)神社~霊山寺~垂仁天皇陵~朱雀門広場~バス~JR奈良駅
暑い暑い日で水分補給に2L、此の日の私の万歩計は、25833歩で約19.1km歩いた・・・
近鉄生駒線王寺駅
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生駒駅~富雄駅(受付・スタート)
富雄駅で知人と合流して富雄川沿いを下流へ向かって霊山寺(りょうせんじ)へ向かう
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長澤橋、四天王寺橋、水声橋、上鳥見橋(富雄駅~993m)、黒谷橋、近大橋、親の木橋、
藤宮橋(富雄駅~2400m)、霊山寺橋、下鳥見橋を渡り砂茶屋バス停(富雄駅~3700m)

10時35分に葛上神社(くずがみじんじゃ)前で水分補給
富男駅~藤宮橋、此処まで約2400m・・・喪中の為、神社参拝は控えている
葛上神社
本神社は、建速須佐命を主神として奉斎し、相殿の神は大山咋神、天照大神、三筒男命
なり。当社の伝記は散逸、或いは火災に罹り知るに由なしとも、鎮座多くの歳月の経て奈
良朝の頃には存在したるものの如し。大和添上郡鳥見谷一円を代々領有せし、小野の国
麿の時桓武延暦十三年山城遷都となり、これに伴い丹州山国の庄に御料木切出職を帯
び、その地に移り代々居住するにおよび本殿、和州の領地より本社も亦移されたものなり。
その後、この旧跡に再び神社を造営したるものとして、境内の一隅にある「葛上郷社古跡」
と記せる石碑あり、その錆より見て正に数百年前なることは想像に難からず。亦相殿の杣
川神社は平城宮造営のため当地杣木谷に渡来した氏神として同地に大山咋神を祭ったも
のであるが後、本所に移し合祀(年代不詳)したものである。
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10時40分に霊山寺門前に到着
バラの時期は終わったが入山券(500円)購入して・・・
霊山寺(りょうせんじ)へ入山
霊山寺は奈良市中町にある霊山寺真言宗大本山の寺院。山号は登美山(とみさん)又は
鼻高山(びこうさん)、開基(創立者)は行基と菩提僊那、本尊は薬師如来である。寺名の
読みは「りょうせんじ」が正式であるが、「りょうぜんじ」「れいざんじ」と呼ばれることもあり、
地元ではいずれの呼称でも通じる。
奈良市の西郊・富雄川沿いにあり、戦乱に巻き込まれずに古い面影を残す。バラ園があり、
世界のバラの花を集めていることで有名である。
奈良市の西郊、富雄地区にあり、富雄川の支流湯屋川をはさんで南北両側の丘陵上に鎌
倉時代建立の本堂(国宝)、三重塔(重文)などの建物が建つ。これら古建築とともに、全面
金箔貼りの黄金殿、バラ園、温泉、ゴルフ練習場、大霊園などの設備を有する異色の寺院
である。
伝承によれば、小野妹子の子である小野富人は、壬申の乱(672年)に加担したかどで右大
臣の地位を辞し、今の霊山寺境内にあたる登美山に閑居して登美仙人あるいは鼻高仙人
(びこうせんにん)と称したという。鼻高仙人となった小野富人は、登美山に薬師如来を祀り、
病人を癒すために薬草を栽培し薬湯を設けた。これは、彼が熊野本宮大社に参篭した際に
出現した薬師如来(熊野速玉大神の本地仏)のお告げにしたがったものであった。
神亀5年(728年)のこと、聖武天皇の皇女(のちの孝謙天皇)は、病に苦しんでいた。ある晩、
天皇の夢枕に鼻高仙人が現われ、登美山の薬師如来の霊験を説いたので、僧・行基を登
美山につかわして祈願させたところ、皇女の病が平癒した。天平6年(734年)、聖武天皇は
行基に命じて霊山寺を建立させた。2年後の天平8年(736年)に来日したインド僧・菩提僊那
(東大寺大仏の開眼供養の導師を務めた)は、登美山の地勢が故郷インドの霊鷲山(りょう
じゅせん)に似ていることから霊山寺と名付け、聖武天皇からは「鼻高霊山寺」の額を賜った
という。
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10時44分
蓮の花がチラホラ
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バラ園
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10時50分に八体仏霊場へ到着
八体仏霊場
十二支と星座を組み合せ、生まれ年・干支、生まれ日・星座のお守り本尊霊場として、原型
制作より5年をかけ1991年(平成3年)に完成した。
向って左より、阿弥陀如来、不動明王、大日如来、普賢菩薩、勢至菩薩、文殊菩薩、虚空
蔵菩薩、千手観音菩薩を安置する。
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私の守り本尊は、阿弥陀如来だ
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本堂へ向かう
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10時59分に本堂の前に到着
本堂へ入れて貰った、本堂の扇風機の風が涼しかった・・・
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本堂を出て奥之院へ続く鳥居の前迄行きUターン
奥之院
本堂より、約1Kmの山道を登ったところにある霊山寺奥之院。弘法大師が留錫の時大龍神
の霊験を感得し、大龍神を弁財天として奥之院へ勧請したと伝わる。
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三重搭のある丘へ登る
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此の続きは、
7月11日の赤膚山から三条通り&平城宮跡へー2 として
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続きは、11時14分に着いた 三重搭から
三重搭(国重文)
鎌倉期の純和様式で、1283~84年(弘安2~3年)頃に建立された。
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11時26分に霊山寺を出発
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11時55分~12時10分 公園で昼食
12時25分に赤膚山窯元前に到着
かつて都から、平城京の西方に赤茶けた山が望めたという。色の正体は鉄分を含んだ
上質の赤土、つまりやきものに適した粘土である。朱は魔除けにつながる聖なる色。沈
む夕日のなか、赤い山肌はさらに燃えるように際立ち、神々しかったことだろう。
その山の名は五条山といった。しかし浮き出た色ゆえに、赤膚焼の名の由来ともされる
「赤膚山」と通称されることになる。
西ノ京丘陵に位置する五条山の土で産出されたやきものの原点は古く、神々に供え物
をする須恵器にはじまるとされる。『日本書紀』には、垂仁天皇の皇后・日葉酢媛(ひば
すひめ)命が亡くなった際に殉死を防ぐため、土師氏の祖先・野見宿禰が“人の形を模
した土物=埴輪”を作って陵墓に立てた話がみえ、こうした伝承が引き合いにだされる
ことも多い。
赤膚焼として確立するのは桃山時代。郡山藩(奈良県大和郡山市)の城主となった豊
臣秀吉の弟・秀長により、この五条山に窯が開かれてのことだ。
土の採取が容易いこと。同地が窯場に選ばれたのはそれ故だろうと思いがちだが、理
由は以外にも“赤松が豊富にあったから”だという。
松脂を含む赤松は火がつきやすく、火力が強い。そこで陶芸に最適な燃料として重宝さ
れるのだが、松脂を多量に蓄えた良い松は非常に重い。しかも大量に必要だ。つまり
運搬の手間を考慮すれば、「赤松の森の近くに窯を設けるのが一番効率がいい」という
ことになるそうだ。
五条山には土も赤松もそろっていた。今もこの周辺には赤膚焼の窯元が4軒ある。所縁
の大和郡山市内には2軒を数える。
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垂仁天皇陵へ向かう
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13時7分に垂仁天皇陵に到着
垂仁天皇陵
宝来山古墳(ほうらいさんこふん/ほうらいやまこふん、蓬莱山古墳)は、奈良県奈良市
尼ヶ辻町(尼辻町)にある古墳。形状は前方後円墳。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「菅原伏見東陵(すがはらのふしみの
ひがしのみささぎ)」として第11代垂仁天皇の陵に治定されている。
全国では第20位の規模の古墳で、4世紀後半頃(古墳時代前期)の築造と推定される。
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※垂仁天皇
垂仁天皇(すいにんてんのう、崇神天皇29年1月1日 - 垂仁天皇99年7月14日)は第11
代天皇(在位:垂仁天皇元年1月2日 - 垂仁天皇99年7月14日)。
伊勢神宮の建立や大規模な灌漑事業を行った。相撲、埴輪など著名な神事の起源もこ
の天皇の治世にあるとされる。活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)・
活目尊等と称され、『古事記』には「伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちの
みこと)」、『常陸国風土記』には「伊久米天皇」、『令集解』所引「古記」に「生目天皇」、
『上宮記』逸文に「伊久牟尼利比古(いくむにりひこ)大王」と見える。『日本書紀』、『古
事記』に見える事績は総じて起源譚の性格が強いとして、その史実性を疑問視する説
もあったが、近年においてはその実在を認めることが多い。
崇神天皇29年1月1日に誕生(垂仁天皇即位前紀による。崇神天皇元年の条では、御
間城姫はこれより前に垂仁天皇を生んだとあり、矛盾する記述となっている)。
同48年4月、崇神天皇の夢の前兆により皇太子に立てられる。
垂仁天皇元年1月即位。翌2年2月に狭穂姫を立后、10月、纒向に遷都した。
同3年3月、新羅王子の天日槍が神宝を奉じて来朝。
同5年10月、皇后の兄・狭穂彦が叛乱を起こし、皇后は兄に従って焼死。
同7年7月、野見宿禰が当麻蹴速と相撲をとり蹴殺す(相撲節会の起源説話)。
同15年2月、丹波道主王の女たちを後宮に入れ、8月にその中から日葉酢媛を皇后と
した。同25年3月、天照大神の祭祀を皇女の倭姫命に託す(元伊勢伝承)。
同27年8月、諸神社に武器を献納し、神地・神戸を定める。この年、来目(奈良県橿原
市久米町)に初めて屯倉を興す。
同28年、殉死の禁令。
同32年7月、日葉酢媛が薨去。野見宿禰の進言に従い、殉死の風に替えて埴輪を埋
納する(埴輪の起源説話)。『古事記』に「石祝(棺か)作りを定め、土師部(はにしべ)
を定めたまいき」とある。石棺を作る部民や赤土で種々の器を作る部民を定めたとい
うのである。
同35年、河内国の高石池や茅渟(ちぬ)池を始め、諸国に多くの池溝を開いて、農業
を盛んにしたと伝える。
同39年10月、五十瓊敷命が剣千振を作り、石上神宮に納める。この後、五十瓊敷命
に命じて、同神宮の神宝を掌らせる。
同90年2月、田道間守に命じて、常世国の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求め
させる。同99年7月、崩御。140歳(『日本書紀』)、153歳(『古事記』)、139歳(『大日
本史』)。12月、菅原伏見陵に葬られた。

13時56分に平城宮跡・朱雀門前広場に到着 水分補給休憩
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14時42分に 遣唐使船展示場へ到着
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14時50分に平城宮跡を出発
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15時17分に三条通りへ出てバスに乗る
知人(近鉄奈良駅へ向かう)とバスで別れてJR奈良駅で下車
15時31分初の大和路線快速電車に乗り王寺駅へ、王寺駅~バス
16時13分迄バスが無い、16時のバスにのり、片岡台3丁目~徒歩で自宅へ向う
16時24分に自宅近くの高速道路裏道で・・・
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16時30分に自宅へ戻りシャワーを浴びる

おまけ
7月12日朝の我が家の琉球朝顔、
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6月28日の大阪 八尾市史跡巡り-1

7月7日          6月28日の大阪 八尾市史跡巡り-1
                てくてくマップ大阪⑫歩程(9.2㎞)
此の日は、3名で昼飲み会ハイキングに行って来ました。我々の昼飲み会ハイキングとは、
阿倍野の居酒屋で15:00~17:00の昼飲み会に、此の時期は銭湯で汗を流して、冬場は、
身体を温めて臨めるようにする事、身体をさっぱり綺麗にして飲み会に参加?・・・・
今回は、阿倍野で行きつけの銭湯が2軒とも定休日となった為、新規に銭湯を開発?
環状線の寺田町駅まえに天竜湯なる銭湯を見つけてチャレンジすることに・・・
コースは近鉄ハイキングのてくてマップ大阪12を少し距離を短く変更して対応
近鉄八尾駅(スタンプ)~常光寺~成法せせらぎの小径~長瀬川沿いの公園(省休止)~
安中新田会所跡~~渋川神社~植松観音堂~植松地蔵尊・常夜灯~物部守屋の墓~大
聖勝軍寺~鏑矢塚~楠本神社・守屋首洗い池~柏原船と使い場~防災公園(昼食)~楠
本神社~八尾空港~弓削神社(西)~JR志紀駅(約9.2㎞)
志紀駅13:22 久宝寺13:27 13:30 天王寺13:35 13:40 寺田町駅13:41 6分天竜湯
寺田町駅で K場さんと待ち合わせて4名で天竜湯へ、中々良い所又行きたい銭湯でした。 
天竜湯 14:35 →寺田町駅14:44 (14:39)  天王寺駅14:46 (14:41)
14:50分に天王寺駅の何時もの場所で待合せて 居酒屋 甘太郎へ GO!
6月28日(木) 昼飲み会15:00~17:00 6名参加 ・K場・S藤・M吉・A座・N西・T原
此の日の私の万歩計は、22402歩で約16.5km歩いたことになりました。
志都美駅~
近鉄下田駅
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近鉄八尾駅(スタンプ)
此処で3名合流してハイキングスタート
アーケード商店街
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常光寺(じょうこうじ)
常光寺は、大阪府八尾市本町にある 臨済宗南禅寺派の寺院。南禅寺塔頭金地院
の末寺で、山号は初日山。 通称は八尾地蔵尊。
本尊は地蔵菩薩で、弘仁年間(810年 - 824年ごろ)、小野篁の作と伝えられている。
山門脇に大坂城の残石と「河内最古之音頭発祥地」の碑がある。また、境内に大坂
の役で戦死した藤堂家の戦死者の墓がある。
奈良時代に僧行基が創建したと伝えられている。当初は「新堂寺」と称していた。南
北朝期に戦乱で寺は焼かれ、一旦は荒廃した。至徳2年(1385年)に土豪・藤原盛継
により復興、翌年に地蔵尊・阿弥陀堂などを再建した。室町時代に足利義満から、自
筆の 「初日山」「常光寺」 の額が納められた。(寺宝として現存。)
大坂の役において、付近は激戦地となったが、本寺は徳川方の保護を受けた。 徳川
方の武将・藤堂高虎は本堂の北にある住職の居間(方丈)の縁側に敵方の首級を並
べて「首実検」をしたという。その縁板は後に方丈の西廊下の天井として貼り替えられ
た。 おびただしい血痕がついていたため、「血天井」と称された。
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八尾市役所前の河内音頭踊り像?
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環山楼・・・八尾市指定文化財
環山楼は、江戸時代中期に八尾寺内町の豪商であった石田善右衛門利清が設けた
私塾です。当時は学芸教育が盛んで、大阪の懐徳堂をはじめとする学塾が数多く開
かれていました。
「環山楼」の名前は、当地に招かれて講義を行った京都堀川の儒学者伊藤東涯(いと
うとうがい)が、高安・二上・金剛の山々の景観に取り囲まれている様子から命名した
ものです。
市内には、麟角堂(りんかくどう)や簷葡舎(えんほしゃ)などの学塾がありましたが、
環山楼は現存する唯一のもので、現在の場所に移築保存して公開しています。
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成法せせらぎの小径へむかう
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成法せせらぎの小径
大阪府の竜華水みらいセンターの下水道高度処理水利活用によるもので、八尾市制
施行60周年記念事業として整備された「成法せせらぎの小径(せいほうせせらぎのこ
みち)」周辺のせせらぎ水路に利用されています。
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幼稚園児たちがザリガニ釣り
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長瀬川を渡る
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長瀬川沿いの公園(少休止)
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安中新田会所跡(旧植田家住宅)
1704年の大和川付け替え後、旧川床を利用して多くの新田が開発されました。そのう
ちのひとつが安中新田です。柏原市の安福寺が開発の中心であったために「安中新
田」という名がついたと言われています。開発から50年ほどたった頃、安福寺住職の
類縁にあたる植田家が管理を任されることになり、その後150年の長きにわたって新
田の支配人を勤めました。
植田家が居住していた屋敷は、会所としても使用されていました。「会所」とは新田の
管理に使われた建物のことで、地域の寄り合いの場も兼ねていました。八尾市内の
ほかの新田会所(山本新田会所、柏村新田会所)が現存しない一方で、植田家の屋
敷は増改築を繰り返しながらも、昭和60年代まで実際に使用されていました。修復・
整備を経て、書画や工芸品、河内木綿などの所蔵品とともに旧植田家住宅は一般に
公開されています。
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渋川神社
天忍穂耳尊、饒速日命、國狹槌尊、日高大神、菅原大神を祭神としている。
創建の年月は不明。 かつて飛鳥時代に本地域を本拠地としていた物部守屋の渋河
の家の跡ともいわれている。もとは旧大和川の東側の字川向にあったが、天文3年
(1533年)の大洪水で境内全域を流失。 この時、浮島神社は数kmほど北の茨田郡
新田村に漂着した。
その後元亀2年(1572年)、お旅所のあった現在地に再建された。境内には、大阪府
天然記念物のクスノキを含め数本の大きな樹木がそびえている。
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※物部守屋
物部氏は有力な軍事氏族である。物部氏は日本に伝来した仏教に対しては強硬な廃
仏派で、崇仏派の蘇我氏と対立した。ただし、物部氏の本拠の渋川に寺の跡が残り、
物部氏そのものは廃仏派ではなかったという説もある。
敏達天皇元年(572年)、敏達天皇の即位に伴い、守屋は大連に任じられた。

植松観音堂
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植松地蔵尊・常夜灯
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物部守屋の墓
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※物部守屋
物部氏は有力な軍事氏族である。物部氏は日本に伝来した仏教に対しては強硬な廃仏
派で、崇仏派の蘇我氏と対立した。ただし、物部氏の本拠の渋川に寺の跡が残り、物部
氏そのものは廃仏派ではなかったという説もある。
敏達天皇元年(572年)、敏達天皇の即位に伴い、守屋は大連に任じられた。
敏達天皇14年(585年)、病になった大臣・蘇我馬子は敏達天皇に奏上して仏法を信奉
する許可を求めた。天皇はこれを許可したが、この頃から疫病が流行しだした。守屋と
中臣勝海(中臣氏は神祇を祭る氏族)は蕃神(異国の神)を信奉したために疫病が起き
たと奏上し、これの禁止を求めた。天皇は仏法を止めるよう詔した。守屋は自ら寺に赴
き、胡床に座り、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、馬子や司馬達等
ら仏法信者を面罵した上で、達等の娘善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら3人
の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にして、海石榴市(つばいち、現在の奈良県桜井市)
の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打った。
疫病は更に激しくなり、天皇も病に伏した。馬子は自らの病が癒えず、再び仏法の許可
を奏上した。天皇は馬子に限り許した。馬子は三尼を崇拝し、寺を営んだ。  ・・・・・・
馬子は群臣にはかり、守屋を滅ぼすことを決めた。馬子は泊瀬部皇子、竹田皇子、厩戸
皇子などの皇子や諸豪族の軍兵を率いて河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の
守屋の館へ向かった。守屋は一族を集めて稲城を築き守りを固めた。その軍は強盛で、
守屋は朴の木の枝間によじ登り、雨のように矢を射かけた。皇子らの軍兵は恐怖し、退
却を余儀なくされた。これを見た厩戸皇子は仏法の加護を得ようと白膠の木を切り、四
天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努めると誓
った。馬子は軍を立て直して進軍させた。迹見赤檮が大木に登っている守屋を射殺し
た。寄せ手は攻めかかり、引き続き守屋の子らを殺害し、守屋の軍は敗北して逃げ散
った。

此の続きは、
6月28日の大阪 八尾市史跡巡り-2 として
       下記のメインブログへ詳細を投稿します。
      https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、聖徳太子古戦場~
聖徳太子古戦場
物部守屋は強かった。蘇我馬子、聖徳太子軍は物部守屋の軍勢に三度大敗。
このままでは勝てないと思った聖徳太子は願掛けをするんです。
部下四将軍に四天王の像を刻ませたと。そして「いまもし我をして敵に勝たしめば、
かならずまさに護世四天王の、おんために寺塔を建つべし」 と 日本書紀。
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聖徳太子古戦場・大聖勝軍寺
大聖勝軍寺(だいせいしょうぐんじ)
大聖勝軍寺は、大阪府八尾市の旧奈良街道に面して建つ高野山真言宗の仏教寺院。
山号は神妙椋樹山。
開基は聖徳太子、本尊は植髪太子(聖徳太子)である。 聖徳太子建立三太子の一つで、
叡福寺の「上の太子」、野中寺の「中の太子」に対して、「下の太子」と呼ばれている。
地元では単に「太子堂」と呼ばれている。
587年、崇仏派の聖徳太子が排仏派の物部守屋との戦いで「いまもし我をして敵に勝た
しめば、かならずまさに護世四天王の、おんために寺塔を建つべし」(日本書紀)と祈願
して戦勝したことから、戦後間もなく四天王を祭るための寺院として摂津国難波(大阪市
天王寺区)の四天王寺とともに、当寺の太子堂が建立された。594年、推古天皇より現
在の山号と寺号が贈られ、この年が創建年とされる。756年、聖武上皇から鎮護国家寺
の称号を贈られ、勅願寺に定められる。
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鏑矢塚
用明二年(587)に厩戸皇子(うまやどのおおじ)(聖徳太子)をはじめとする皇子達と蘇
我馬子(そがのうまこ)らは、渋河の地で物部守屋(もののべのもりや)の軍勢と戦います。
稲城(いなき)を築き、榎木の上から弓を放つ守屋に苦戦した皇子らは三度退却しますが、
四天王に祈願すると、迹見赤檮(とみのいらい)の放った矢が守屋を討ち、皇子と馬子ら
は勝利したと『日本書紀』に記されています。大聖勝軍寺(たいせいしょうぐんじ)の周辺
にはそうした史跡が残されており、鏑矢塚は、迹見赤檮が守屋を射た矢を埋めたと『大聖
勝軍寺略縁起』(1455)は伝えています。鏑矢とは、先端が植物の「かぶら」のような形
をしている矢のことです。『日本書紀』にはみられませんが、太子信仰や八尾の歴史を考
えるうえで重要です。
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楠本神社・守屋首洗い池
延喜式神名帳に、『河内国志紀郡 樟本神社三座 並大 月次新嘗」とある式内社。
延喜式当時は一社だったと思われるが、今、社名・祭神を同じくする神社が、八尾市木
の本・南木ノ本・北木ノ本の3ヶ所に鎮座する(以下、木の本社・南木の本社・北木の本
社と記す)。当社は延喜式に記載されている榎本三座の一にして、創建の年代は詳か
でないが、用明天皇の御代(585--87)、物部守屋公が本拠地である稲村城(現光連寺
敷地-当社の南約200mにあり)の守護神として、一族の祖神と崇めていた布都大神
を奉祀されたものと伝える」とある(他の2社の由緒も、ほとんど同意)。

物部守屋云々とは、日本書紀・崇峻天皇2年(588)秋七月条にある、「蘇我馬子大臣は、
聖徳太子以下の諸皇子と群臣に勧めて、物部守屋大連を滅ぼそうと謀った。・・・
(大臣らは)軍兵を率いて志紀郡から守屋の澁河の家に至った。大連は自ら子弟と奴の
兵士たちを率いて、稲を積んだ砦を造って戦った。大連は衣摺の地の榎の木股に登っ
て、上から眺め射かけること雨のようであった。 ・・・」(大意)
いずれにしろ、当地域一帯は物部氏特に物部守屋との関係が深く、物部本家の滅亡の
地が当地辺りであった可能性は強い。
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物部守屋首洗池
境内に入ってすぐ右に小さな池があり、その前に“守屋首洗池”(だいぶ摩耗している)と
刻した自然石の碑が立っている。当社社務所の壁に貼られた案内には、「(蘇我馬子ら
が物部守屋を攻めたとき)、聖徳太子が迹見赤擣に鏑矢をもって、物部守屋を射させた
ところ、その矢が守屋の胸に当たり、秦河勝がその首をとって、この池で洗って聖徳太子
の見参に入れたという」との伝承を記している。
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柏原船と使い場・・・説明版が全く読めない
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防災公園(昼食)~
佛蓮寺・楠本神社
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稲城跡
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水路
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八尾空港
ヘリが2基とまっていた
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弓削神社(西)
弓削神社(ゆげじんじゃ)は、大阪府八尾市にある神社。 付近に勢力を保持していた
物部氏の一族である弓削氏の氏神である。
八尾の弓削神社は、JR志紀駅・長瀬川を挟んで2箇所あり、二社一対で二座にあてて
いる。両社とも式内大社である。
800年ごろの創建といわれる。当地は弓削氏の一族である高僧道鏡の出身地であるが、
弓削神社は彼の没後の創建であり、直接関わりはない。
かつて東西の社殿の間に久宝寺川(旧大和川)が流れていた。度重なる水害で幾度も
流失の被害に遭っていた。
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JR志紀駅(約9.2㎞)→ 環状線 
寺田町駅~天竜湯
天竜湯の一番風呂に入って満足満足・・・
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寺田町駅
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おまけ
飲み会の帰りにJRのホームから
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6月24日の古の雅と季節あふれる奈良公園散策-1

7月5日        6月24日の古の雅と季節あふれる奈良公園散策-1
                 JRふれあいハイキング 歩程約6㎞ 
此の日は、K場さんI田さんと3名でJRふれあいハイキングに参加予定でJR奈良駅前
で落ち合ったが、なら・観光ボランティアガイドには会えず、観光案内所で地図を貰って
3名で奈良公園散策に、此の日の私の万歩計は、22573歩で約16.7km歩いたことに。
コース
JR奈良駅~開化天皇陵~浄教寺~漢国神社~近鉄奈良駅~奈良県里程元標・高札
~手力神社~興福寺・三重搭・北円堂・南円堂・五重搭~十三鐘~春日大社一之鳥居
~浮見堂~志賀直哉旧居~新薬師寺~若草山(昼食)~手向け山八幡神社・校倉造り
~三月堂・四月堂・二月堂~歴史的風土保存地区~大湯屋~大阪万博古河館遺産~
東大寺~氷室神社~猿沢池~
志都美駅
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JR奈良駅前
旧駅舎
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開化天皇陵
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※開化天皇(かいかてんのう)
開化天皇は、日本の第9代天皇。和風諡号は、『日本書紀』では「稚日本根子彦大
日日天皇(わかやまとねこひこおおひひのすめらみこと)」、『古事記』では「若倭根
子日子大毘毘命」。
※『日本書紀』・『古事記』とも系譜の記載のみに限られ、欠史八代の1人に数えら
れる。綏靖天皇(第2代)から開化天皇(第9代)までの8代の天皇は、『日本書紀』
『古事記』に事績の記載が極めて少ないため「欠史八代」と称される。これらの天
皇は、治世の長さが不自然であること、7世紀以後に一般的になるはずの父子間
の直系相続であること、宮・陵の所在地が前期古墳の分布と一致しないこと等から、
極めて創作性が強いとされる。一方で宮号に関する原典の存在、年数の嵩上げに
天皇代数の尊重が見られること、磯城県主や十市県主との関わりが系譜に見られ
ること等から、全てを虚構とすることには否定する見解もある。

浄教寺
淨教寺(じょうきょうじ)は、奈良県奈良市上三條町にある浄土真宗本願寺派の寺院
である。山号は九条山。本尊は阿弥陀如来立像。
『淨教寺由緒略記』によると、開基行延法師は、河内国八尾の庄司で、真野将監行
延と名乗る知勇兼備の武士であった。浄土真宗開祖親鸞上人の直弟子となり、寛
元2年(1244年)3月出家し、法名を行延と賜ったという。
第6世の円誓には実子がなかったが、楠木正季の孫が初陣にあたり深手を負い、円
誓の養子となって空信と法名を授かり、第7世を継いだと伝わる。このため当寺では
「九耀菊水」を定紋に用いるようになったという。また北朝光明天皇の勅願所となり、
「称仏明院」の号を賜った。
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漢國神社(かんごうじんじゃ)
漢國神社は、園神(そのかみ)として大物主命、韓神(からかみ)として大己貴命・少彦
名命を祀る。延喜式神名帳で宮中宮内省に祀られ名神大社に列すると記される園神
社・韓神社は当社からの勧請であると社伝では伝える。
推古天皇元年(593年)2月3日、勅命により大神君白堤(オオミワノキミ シラツツミ)が
園神を祀ったのに始まると伝える。その後、養老元年(717年)11月28日、藤原不比等
が韓神二座を相殿として合祀したという。かつては春日率川坂岡神社あるいは園韓神
社と称していたが、韓神の韓が漢に、園神の園が國となり、「漢國神社」という社名に
なったと伝える。貞観元年(859年)1月27日、平安京内の宮内省に当社の祭神を勧請
し、皇室の守護神としたと社伝では伝えているが、平安京の園神社・韓神社の社伝とは
矛盾している。
治承4年(1180年)兵火にかかり炎上。文治4年(1188年)に興福寺一乗院覚昭大僧正
の奏聞により、率川・坂岡両所の造営があった。慶長年間になって、徳川家康より法蓮
村において知行田5反余りを寄付され、社殿の修理を加えた。
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境内社の林神社(りんじんじゃ)は、日本唯一の饅頭の神社。貞和5年(1349年)に中国
から来日し、漢国神社社頭に住居して日本初となる饅頭を作ったという、饅頭の祖・林
浄因が祀られていることが名前の由来。1978年(昭和53年)に菓祖神の田道間守を合
祀し、饅頭・菓子の祖神の神社として関係業界の信仰を集める。
林浄因の命日である4月19日には、菓業界の繁栄を祈願する例祭「饅頭まつり」が行わ
れ、全国各地の菓子業者が神前に自家製の銘菓を献上するほか、一般参拝者向けに
も無料で饅頭と抹茶がふるまわれる。
また、林家から出た碩学、林宗二の著作『饅頭屋本節用集』に因み、民間印刷業の原点
として9月15日、印刷・出版業界の参列のもと節用集祭りが執り行われる。

近鉄奈良駅
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奈良県里程元標・高札
木で出来た多数の立て札や柱が見られます。
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このうち太い木の柱で出来たものには、「奈良縣里程元標」と描かれており、これはかつ
て明治時代に日本国内の様々な「距離」を測る上での起点として各府県に設けられたも
のを復元したものとなっており、奈良から京都・大阪・伊勢方面への距離が記されていま
す。(なお、昔の元標自体は、実際の所はこの復元された元標からわずかに離れた場所
である近隣のコンビニの近くに建っていたとされ、その位置を示した印が歩道に刻印され
ています。)
現在では当たり前の存在である「奈良県」は、かつては明治に入ってから一時期「堺県」
「大阪府」の一部として合併され、「大和」エリアを司る自治体が消滅した時期がありまし
たが、この元標は、明治中期に「奈良県」がめでたく復活された際に設けられたものであ
り、奈良県民にとっては「奈良県独立の証」とも言える存在となっています。
高札
奈良縣里程元標の後ろに有る御高札場には奈良奉行の御触書を掲示する高札が置か
れていました

手力雄神社
奈良の三条通沿いに祀られる手力雄社。
手力雄神社(たぢからおじんじゃ)は春日大社の境外末社の位置付けです。春日大社に
は計61社の摂末社がありますが、その内の一つが橋本町に鎮座する手力雄神社です。
※天岩戸伝説
天照大神が天の岩屋戸に引き籠り、世界が真っ暗になってしまったという話。困った神々
が相談して、アメノウズメが胸もお腹も露わに踊り出すことになります。八百万の神々の
笑いに誘われてそっと外の様子をうかがった天照大神を、その怪力で引っ張り出したの
が天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)です。
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興福寺・三重搭・北円堂・南円堂・五重搭・・・興福寺HPより
三重塔
康治2年(1143)に崇徳(すとく)天皇の中宮(ちゅうぐう)が創建されましたが、治承
4年(1180)に被災し、間もなく再建されました。
北円堂(ほくえんどう)とともに興福寺最古の建物で、高さ19.1m、初層は方三間
で4.8m、本瓦(ほんがわら)葺き。
鎌倉時代の建物ですが、木割が細く軽やかで優美な線をかもし出し、平安時代の
建築様式を伝えます。
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北円堂
日本に現存する八角円堂のうち、最も美しいと賞賛されるこの堂は、興福寺創建者
藤原不比等の一周忌にあたる養老5年(721)8月に、元明(げんめい)太上天皇と元
正(げんしょう)天皇がお建てになりました。
伽藍(がらん)の中では西隅に位置しますが、ここは平城京を一望の下に見渡すこと
のできる一等地で、平城京造営の推進者であった不比等(ふひと)の霊をなぐさめる
最良の場所です。
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南円堂
西国三十三所観音霊場の第九番札所です。弘仁4年(813)に藤原冬嗣(ふゆつぐ)が
父内麻呂(うちまろ)の冥福を願ってお建てになった八角円堂です。基壇(きだん)築造
の際に地神を鎮めるために、和同開珎(わどうかいちん)や隆平永宝(りゅうへいえい
ほう)をまきながら築き上げたことが発掘調査であきらかになりました。この儀式には
弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)が深く係わったことが伝えられます。
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五重搭
古都奈良を象徴する塔です。塔は仏教の祖釈迦の舎利(しゃり)(遺骨)をおさめる墓標
です。天平2年(730)に興福寺の創建者藤原不比等(ふひと)の娘光明(こうみょう)皇后
がお建てになりました。初層の東に薬師浄土変(やくしじょうどへん)、南に釈迦浄土変
(しゃかじょうどへん)、西に阿弥陀浄土変(あみだじょうどへん)、北に弥勒浄土変(みろく
じょうどへん)を安置し、また各層に水晶の小塔と垢浄光陀羅尼経(くじょうこうだらにきょ
う)を安置していたと伝えられます。
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十三鐘
興福寺の南側の石垣に沿うて三条通をずっと上がっていくと、右側へだらだらと下った
ところに、菩提院大御堂というお堂がある。俗に十三鐘と呼ばれてる。
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※ならの民話・・・「十三鐘の石子詰め」という話です。
昔から、奈良の鹿は、神様のお使いやいうて、大切にされてきてんで。ずっと昔に、春日
神社の神さんが奈良に来るとき、鹿に乗ってきたんやて。 そんな尊い鹿を、もし殺しでも
したら、「石子詰めの刑」というて、死んだ鹿と一緒に生きたまま穴に埋められたそうや。
さて、興福寺の南側の石垣に沿うて三条通をずっと上がっていくと、右側へだらだらと下っ
たところに、菩提院大御堂というお堂、俗に十三鐘と呼ばれてるところの話。

むかし、このお堂の横に寺子屋があってん。 あるときのことや。
三作という子どもが、この寺小屋で、「いーろは、いーろは」て声あげながら習字をしてる
とな、そこへ鹿が上がってきて、廊下に置いたあった大事なお手本を食べ始めてん。
三作はびっくりして、「こらっ」いうて、思わず、手元にあった文鎮を鹿に投げつけたんや。
そうしたら、当たり所が悪かったんか、鹿はその場に倒れて死んでしもうてんて。
鹿を殺した科で、三作は石子詰めにされることになってん。
大御堂の前の庭の東の方に穴が掘られ、三作は、鹿と一緒に生き埋めにされてしもうた
んや。 三作の母親は、三作が埋められたところにモミジの木を植えて供養してん。
その時から、「鹿にモミジ」という取り合わせが始まったそうや。
そうして、三作が石子詰めになった時刻が、夕方の六つと七つの間やったので、
六つと七つを足して、ここを十三鐘というようになったんやて。

このお話には、その証拠になる「三作のお墓」が今日まで伝えられている!
母親は三作が秋に亡くなったので、モミジを植えて、葉が色づくと、三作を思い出した
そうだ。また、三作が今度生まれてきたときは亀のように長生きして欲しいと、母親は
お墓に亀石と供養塔を建てた。境内のお墓をよく見て、確認してください。このように
三作の墓が今日まで伝えられている。 奈良の先祖の人たちがこの話を未来に向けて
伝えて欲しいとの強烈なメッセージ、鹿を大切にする心と子を想う母の深い愛です。

春日大社一之鳥居
平安後期に創建されたといわれ、現在のものは、寛永11年(1638年)に再建されたもので
ある。今では市街地のメインストリートの三条通との境界に当たるが、 古くは春日大社と興
福寺旧境内との境に立つ高さ6.75mの大鳥居です。3月の春日祭や12月の春日若宮おん
祭の際には大きな榊が立てられています。 今次の第60次式年造替の事始めに大規模な
修理が施されました。
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鷺池&浮身堂へ向かう
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鷺池&浮見堂
奈良公園・鷺池に浮かぶ檜皮葺き(ひわだぶき)、八角堂形式(六角形)のお堂です。  水面
に写る姿が美しく、水辺の憩いの場となっています。現在の浮見堂は、旧浮見堂が老朽化し
たために、平成3年から平成6年にかけての3年間の修復工事によって、その美しさを今によ
みがえらせました。 春日大社より浅茅が原の林をぬけていくとつきあたります。
此の日も花嫁花婿のカップルが写真撮影に順番待ちしていました・・・
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鷺池の鷺
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高畑駐車場~志賀直哉旧居へ
向かう途中で2匹の”瓜坊”に出会った
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志賀直哉旧居・・・奈良学園セミナーハウス
旧志賀直哉邸は、昭和初期に志賀直哉自身が設計したものです。 数寄屋風の造りですが、
洋風の様式も取り入れた当時としては非常に進歩的で合理的、美的な工夫を随所に凝して
いるのが特徴です。
本学園では、「旧志賀直哉邸」を昭和53年に厚生省(現厚生労働省)より譲り受け、保存に
努めるとともに、広く一般の方々に公開し、各種公開講座の開催や本学園が設置する各学
校の生徒・学生等が利用できるセミナーハウスとして用いています。
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※志賀直と奈良
大正14年(1925年)、 京都・ 山科から奈良・幸町に居を移した志賀直哉は幸町の借家で
4年間を過ごした後、この上高畑町に宅地を求めます。自ら設計の筆を執り、友人の画家・
浜田葆光に紹介を受けた京都の数寄屋大工の棟梁・下島松之助に邸宅の建築を依頼し
ました。
大正元年から始まった自身の真のありかを求め続ける彷徨の過程で、東洋の古美術と向
き合った直哉は、大正15年には美術図録「座右宝(ざうほう)」を編纂しました。昭和4年に
移り住んだこの上高畑の邸宅は奈良公園に隣接し、御蓋山、春日山、若草山、高円山など
を借景とし、自然の風景に恵まれ、静寂でしかも明美です。直哉は、奈良特有の自然美と
静寂に心をひかれ、執筆活動を行い、昭和12年には長編小説「暗夜行路」を完成していま
す。この地はまた、歴史的な古寺社を訪れるにも近くて便利であり、古美術の研究をする
ためにも理想的な土地でありました。
志賀直哉が壮年期の13年間(大正14年4月から昭和13年4月)を過ごした奈良での暮らしは、
多くの文化人たちと芸術を論じ、時には遊びに興じて、友人・知人たちとの心の交流を大切
にした時間であり、家族の平和と健康を望み、子供たちの家庭教育を行い、家族の絆を育ん
だ生活でした。

新薬師寺(しんやくしじ)
新薬師寺は、奈良市高畑町にある華厳宗の寺院である。本尊は薬師如来、開基(創立者)
は光明皇后または聖武天皇と伝える。山号は日輪山(ただし、古代の寺院には山号はなく、
後世に付したものである)。奈良時代には南都十大寺の1つに数えられ、平安時代以降は規
模縮小したが、国宝の本堂や奈良時代の十二神将像をはじめ、多くの文化財を伝えている。
新薬師寺は奈良時代(8世紀)創建の官立寺院であることは間違いないが、創建の正確な時
期や事情については正史に記載がない。平安時代末期成立の『東大寺要録』には、末寺であ
る新薬師寺についての記載があり、同書の巻第一・本願章には「天平19年(747年)、光明皇
后が夫聖武天皇の病気平癒のため新薬師寺を建て、七仏薬師像を造った」とある。また、同
書巻第六・末寺章によれば、新薬師寺は別名を香薬寺といい、九間の仏堂に「七仏(薬師)浄
土七躯」があったという。天平宝字6年3月1日(762年3月30日)の「造東大寺司告朔解」(こく
さくげ)という文書(正倉院文書)によると、当時「造香山薬師寺所」という臨時の役所が存在し、
香山薬師寺(新薬師寺の別名)の造営がまだ続いていたことがわかる。
『続日本紀』の記載を見ると、聖武天皇の病気は2年前の天平17年(745年)以来のもので、新
薬師寺の建立された天平19年(747年)頃は小康状態にあったようである。『続紀』によると、
天平17年(745年)9月には聖武の病気平癒のため、京師と畿内の諸寺に薬師悔過(けか)法
要の実施を命じ、また諸国に「薬師仏像七躯高六尺三寸」の造立を命じている。新薬師寺の
創建は、この七仏薬師造立の勅命にかかわるものとみられている。なお、別の伝承では、聖
武天皇が光明皇后の眼病平癒を祈願して天平17年(745年)に建立したともいう。
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此の続きは、
6月24日の古の雅と季節あふれる奈良公園散策-2 として
            下記のメインブログへ詳細を投稿します。
         https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、新薬師寺の境内~
新薬師寺の境内
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若草山(昼食)
今年もボランティアで5月に若草山の保全活動(南京ハゼを刈り、ススキを植える)に汗を流し
ました。山麓ゲートの近くで鹿に注意してお握りを食べました。
山全体が芝生でおおわれており、三つの笠を重ねたようなので三笠山ともいいます。
 高さ342m、広さが33haあり、山内のあちらこちらで鹿を見ることができます。春には桜、
秋の紅葉、ススキと四季折々の自然を楽しむことができます。
山麓、一重目、二重目、山頂(三重目)、鶯塚古墳周辺道などで違った景観をお楽しみ頂
けます。 (鶯塚古墳周辺道は二重目料金所を北(山頂へ向かって左折)へ進む)
歩行時間は、山麓ゲートから30分~40分位で山頂へ到着します。心地よい汗をどうぞ。
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手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)・校倉造り
奈良市街東部の手向山麓に位置。手向山は紅葉の名所として知られ、古今和歌集では
菅原道真が「このたびは幣もとりあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに」と詠んでいる。
天平勝宝元年(749年)、東大寺及び大仏を建立するにあたって宇佐八幡宮より東大寺
の守護神として勧請された。八幡宮からの分社では第一号である。当初は平城宮南の
梨原宮に鎮座し、後に東大寺大仏殿南方の鏡池付近に移座したが、治承4年(1180年)
の平重衡による戦火で焼失、建長2年(1250年)に北条時頼が現在地に再建した。当初
の鎮座地とされる梨原宮の所在地は未詳だが、奈良市役所近くにある平城京左京三条
二坊庭園跡庭園がその跡ともいわれる。創建以来、東大寺に属しその鎮守社とされて
きたが、明治の神仏分離の際に東大寺から独立した。
重要文化財
宝庫 - 奈良時代、校倉造。もとは東大寺油倉の上司倉。すぐ北には規模・形式とも類似
した「東大寺法華堂経庫」が建つ。
宝庫
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「東大寺法華堂経庫」
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東大寺 三月堂
東大寺建築のなかで最も古く、寺伝では東大寺創建以前にあった金鍾寺(きんしょうじ)
の遺構とされる。752(天平勝宝4)の東大寺山堺四至図(さんかいしいしず)には「羂索
堂(けんさくどう)」とあり、不空羂索観音を本尊として祀るためのお堂である。旧暦3月に
法華会(ほっけえ)が行われるようになり、法華堂、また三月堂ともよばれるようになった。
もとは寄棟(よせむね)造りの正堂(しょうどう)と礼堂(らいどう)が軒を接して建つ配置で
あったが、鎌倉時代、礼堂を入母屋(いりもや)造りに改築して2棟をつないだ。正堂は天
平初期の建築だが、礼堂は大仏様(だいぶつよう)の特色が見られる鎌倉時代の建築。
時代の異なる建築が高い技術によって結ばれ、調和の取れた美しい姿を見せる。
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東大寺 四月堂(三昧堂)
本来の名前は「三昧堂」ですが、このお堂では毎年四月になると法華三昧会(ほっけさん
まいえ)と呼ばれる法要が執り行われることから、次第に「四月堂」という通称で呼ばれる
ようにもなっていきました。
東大寺境内では珍しく、管理者の方(堂守)が近くに常駐しておられる上に、無料で拝観
することが可能なお堂となっています。観光スポットとしての扱いはあまりされておらず、
東大寺ファン、仏像ファンの方のみに知られるような存在ではありますが、気軽に立ち寄
ることが可能です。
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二月堂へ向かう
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二月堂
旧暦2月に「お水取り(修二会)」が行われることからこの名がある。二月堂は平重衡の兵
火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の戦火には焼け残ったが、寛文7年(16
67年)、お水取りの最中に失火で焼失し、2年後に再建されたのが現在の建物である。本
尊は大観音(おおかんのん)、小観音(こがんのん)と呼ばれる2体の十一面観音像で、ど
ちらも何人も見ることを許されない絶対秘仏である。
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歴史的風土保存地区
二月堂の裏山を階段を登って行くとお地蔵さんの並んだ散策路に出る、右の方へは、多分
手向山八幡の方向へ?今回は左手の二月堂の裏参道の川沿いへ出る方向へ歩いてみた。
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大湯屋
寺院の風呂場です。奈良時代から設けられていたのですが、文献での初見は平安時代に
降ります。その後数回の被災・再建を経て、室町時代に再建されたのが現在の建物で、五
重塔再建と同じ時期-すなわち応永33年(1426)頃と考えられます。
正面4間(11.7m)、側面4間(10.6m)、本瓦(ほんがわら)葺きの建物で、西面の屋根
は入母屋(いりもや)、東面の屋根は切妻(きりづま)ですので、東側になんらかの建物があ
り、この大湯屋で湯を沸かし、東の建物に湯を送って蒸し風呂にしたり、あるいは入浴した
りしたと思われます。
内部に床を敷かず、地面に直接鉄の湯釜を2個据えています。南の湯釜はほぼ完形で、口
径1.5m、胴径1.86m、高さ1.27mで鎌倉時代、北の湯釜は口縁の部分しか残らない
のですが、口径1.44mで平安時代のものです。
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東大寺
大仏殿へ向かう
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大阪万博古河館遺産、東大寺の七重搭の双輪
大阪万博の古川パビリオン、周囲に池を巡らした庭の中に、天平文化のシンボルといわれ
る高さ 86メートルの「七重の塔」の展示館がそびえていた。約 1200 年前、奈良・東大寺の
大仏殿前に建てられた 2 基の「七重の塔」を摸して、当時とそっくりの姿で再現したもので、
当時の人たちが塔に託した“新しい世界”への夢を、現代に置きかえようとの意味がこめら
れていた。  此の時の七重塔の双輪を移築して残して有る
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東大寺
8世紀前半には大仏殿の東方、若草山麓に前身寺院が建てられていた。東大寺の記録で
ある『東大寺要録』によれば、天平5年(733年)、若草山麓に創建された金鐘寺(または金
鍾寺(こんしゅじ))が東大寺の起源であるとされる。一方、正史『続日本紀』によれば、神
亀5年(728年)、第45代の天皇である聖武天皇と光明皇后が幼くして亡くなった皇子の菩
提のため、若草山麓に「山房」を設け、9人の僧を住まわせたことが知られ、これが金鐘寺
の前身と見られる。金鐘寺には、8世紀半ばには羂索堂、千手堂が存在したことが記録か
ら知られ、このうち羂索堂は現在の法華堂(=三月堂、本尊は不空羂索観音)を指すと見
られる。天平13年(741年)には国分寺建立の詔が発せられ、これを受けて翌天平14年
(742年)、金鐘寺は大和国の国分寺と定められ[4]、寺名は金光明寺と改められた。
大仏の鋳造が始まったのは天平19年(747年)で、このころから「東大寺」の寺号が用いら
れるようになったと思われる。なお、東大寺建設のための役所である「造東大寺司」が史料
に見えるのは天平20年(748年)が最初である。
聖武天皇が大仏造立の詔を発したのはそれより前の天平15年(743年)である。当時、都は
恭仁京(現・京都府木津川市)に移されていたが、天皇は恭仁京の北東に位置する紫香楽
宮(現・滋賀県甲賀市信楽町)におり、大仏造立もここで始められた。聖武天皇は短期間に
遷都を繰り返したが、2年後の天平17年(745年)、都が平城京に戻ると共に大仏造立も現
在の東大寺の地で改めて行われることになった。この大事業を推進するには幅広い民衆の
支持が必要であったため、朝廷から弾圧されていた行基を大僧正として迎え、協力を得た。
難工事の末、大仏の鋳造が終了し、天竺(インド)出身の僧・菩提僊那を導師として大仏開
眼会(かいげんえ)が挙行されたのは天平勝宝4年(752年)のことであった。そして、大仏鋳
造が終わってから大仏殿の建設工事が始められて、竣工したのは天平宝字2年(758年)の
ことであった。東大寺では大仏創建に力のあった良弁、聖武天皇、行基、菩提僊那を「四聖
(ししょう)」と呼んでいる。
※盧舎那仏の造立&『華厳経(大方広仏華厳経)』の教理の研究
天平12年(740)2月、河内国知識寺に詣でた聖武天皇は、『華厳経』の教えを所依とし、
民間のちからで盧舎那仏が造立され信仰されている姿を見て、盧舎那大仏造立を強く願
われたという。とは言え、造立する前に『華厳経(大方広仏華厳経)』の教理の研究がまず
必要であった。
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鏡池
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東大寺
山門を後に氷室神社へ向う
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氷室神社
由緒は「氷室神社縁起」絵巻に記されており、また『続日本紀』や『元要記』にも散見される。
和銅3年(710年)、元明天皇の勅命により、吉城川上流の月日磐に氷神を奉祀し(下津岩
根社、厳寒に結氷させたものを氷室に蓄え、翌年に平城京へ献氷させる制度が創始され
た。翌和銅4年(711年)6月1日に初めて献氷の勅祭が興され、以降毎年4月1日より9月
30日まで平城京に氷を納めた。奈良朝7代、70年余りの間はこの制度は継続したが、平
安遷都後は廃止され、貞観2年(860年)、清和天皇の時期になって、現在の地に奉遷さ
れ、左右2神を併せ三座となった。社殿が建立されたのは建保5年(1217年)とされている。
以来、春日大社の別宮に属し、式年費用や営繕費、祭礼費などは春日社、興福寺の朱
印高2万石、および社頭所禄、三方楽所料2千石などの一部によって行われたが、明治
以降はこの制度も廃止され、氏子と冷凍氷業界の奉賛により維持される形になっている。
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猿沢池
興福寺が行う「放生会」の放生池として、天平21年(749年)に造られた人工池である。放生
会とは、万物の生命をいつくしみ、捕らえられた生き物を野に放つ宗教儀式である。
現在、猿沢池園地として整備され、市街地に近いこともあって市民の憩いの場となっている。
※猿沢池の七不思議
猿沢池の水は、決して澄むことなくまたひどく濁ることもない。水が流入する川はなくまた流
出する川もないのに、常に一定の水量を保っている。亀はたくさんいるが、なぜか蛙はいな
い。なぜか藻も生えない。毎年多くの魚が放たれているので増える一方であるにもかかわら
ず、魚であふれる様子がない。水より魚の方が多くてもおかしくないような池。
※采女伝説
猿沢池のほとりにある采女神社(うねめじんじゃ)は、帝の寵愛が衰えたことを嘆き悲しんで
入水した采女を慰めるために建てられたという。
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