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10月26日の馬見丘陵公園のダリア&コスモス

10月28日        10月26日の馬見丘陵公園のダリア&コスモス
                   午後~家内と公園散歩に・・・
馬見丘陵公園北エリア駐車場へ車を入れ、公園散歩スタートしたが、ダリア園と北エリアの
花々に見とれている間に急に太陽が雲に覆われて薄暗くなり、中央エリアへの散歩を止め、
帰る羽目になった。ダリア園の前のコスモスとダリア園の大輪のダリアを撮っただけで・・・
馬見丘陵公園北エリアは夏の花と秋の花が咲き乱れて一面が花畑、丁度花の多い時期?
南エリアもきっとバラが咲いていただろうに ” 残念 ” だった
ダリア園前のコスモス
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ダリア園
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10月23日の歩こう会は上町台地を散策ー1

10月28日          10月23日の歩こう会は上町台地を散策ー1
                    歩こう会 10月度例会  6km
前日の天気予報で降水確率 30/40%だったので予定していた歩こう会10月度例会を
開催、参加者69名で大川の八軒家浜~四天王寺迄の5km更にあべのハルカス迄6km
大川べりの受付場所ではスタート前には少し小雨が降ったり止んだりしてたがスタートの
10時には雨もやんで順調なスタート、昼食場所の生國魂神社前迄雨降らず、昼食休憩も
も無事に終わり、四天王寺へ向かう途中で小雨がポツリポツリ、四天王寺で中締め解散、
あべのハルカスへ向かうグループと天王寺駅から帰るグループに分かれて・・・・
京阪電車天満橋駅(受付)大川べりスタート~八軒家浜~中大江公園~太閤下水見学所
~南大江公園(集合写真)~榎大明神~空堀商店街を横切り~高津宮~真言坂~生國
魂神社~生玉公園(昼食休憩)~四天王寺(中締め・解散)~あべのハルカス(ゴール)
私は中締め解散後アベ地下へ反省会、此の日の私の万歩計は、17399歩で約12.8km。
志都美駅
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大川べり
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八軒家浜
かつて旧淀川(大川)左岸に設けられた船着場・八軒家浜(はちけんやはま)の歴史及び、
その歴史にちなんで2008年(平成20年)に開設された観光用岸壁・八軒家浜船着場。
上町台地北端の西麓、天満橋と天神橋の間において、平安時代までに渡辺津(わたなべ
のつ)と呼ばれる外港が成立した。大江、国府津、窪津、楼津などとも呼ばれ、摂津国の
政治の中心であった渡辺の地はまた、四天王寺、住吉大社、高野山、そして熊野三山へ
の参詣道である熊野街道の起点として駅楼が置かれ、海陸交通の要地として栄えた。
大阪平野の形成にともなって西へ移動した河口と離れて河港に姿を変えたことや、遷都
等の要因によって外港としての役割は縮小したが、同地における寄港地としての機能は
近世以降も残ることになる。
江戸時代には、同地は船宿などが8軒並んでいたことから「八軒家浜」と呼ばれるように
なり、京(伏見)と大坂を結ぶ「三十石船」と呼ばれる過書船のターミナルとなるなど、淀
川舟運の要衝として栄えた。
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中大江公園へ向かう
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中大江公園
12名ずつ班編成して10分間隔で太閤下水見学施設へ向かう。
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太閤下水見学施設
豊臣秀吉による大坂城築城の際に原型が造られたと言われている石積の下水溝です。
豊臣秀吉が大坂城築城に着手したのは、天正11年(1583年)のことでした。
町づくりにあたっては、大阪が、淀川・大和川のデルタ地帯にできた低湿な土地であった
ので、道路整備と同時に町屋から出る下水を排水するための下水溝が建設されました。
東西の横堀川に囲まれた城下町は、大坂城に向かう東西道を軸に碁盤の目に区切られ、
その道路に面した建物の背中どうしのところ(裏口)に下水溝が掘られました。この下水
溝は「背割下水」、あるいは太閤秀吉にちなんで「太閤下水」と呼ばれています。当時の
大阪は、この太閤(背割)下水に挟まれた約40間(72m)四方の区画が町割りの基本と
なっていました。
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南大江公園(班毎の集合写真撮影)
先に太閤下水を見学した班は此処で後続の班を待ち、全員揃って~次の場所へ向かう

榎大明神
第二次世界大戦の大阪大空襲の際、この榎木大明神のところにも猛火が迫ってきた。
しかし不思議なことに火は榎木大明神の前でぴたりと止まり、そこより東側一帯は焼失
を免れた。御神木が立っている。樹齢約650年。楠木正成(くすのきまさしげ)が植えた
ともいわれる。白蛇さんを祀っている。
榎木大明神ですから榎(えのき)の木があると思いますが、実は、槐(えんじゅ)です。
槐(えんじゅ)は、マメ科の落葉高木で、中国が原産。古くから台湾、日本、韓国などで
植栽されている樹木です。
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此の続きは、
10月23日の歩こう会は上町台地を散策ー2 として
        下記のメインブログへ詳細を投稿します。
       https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、空堀商店街へ向かう~
空堀商店街へ向かう
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空堀商店街(からほりしょうてんがい)を横切る
空堀商店街は、大阪市中央区南東部にある商店街。
大坂冬の陣後に埋め立てられた大坂城南惣構(みなみそうがまえ)堀の遺構である
空堀通の西半分、松屋町筋から上町筋に至る中央区側の東西約800mのアーケー
ド商店街。
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高津宮へ向かう
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高津宮
高津宮(こうづぐう)の縁起は、平安初期の(貞観8年)清和天皇の勅命により、仁徳
天皇の旧都の遺跡を探索し、現在の大阪城付近を社地と定め社殿を築き、仁徳天
皇を主神として祭ったのを創始としている。
以後皇室を始め時の幕府等の度々の造営寄進を受け、浪速津の守護神として信仰
を集めてきた。1583年(天正11年)豊臣秀吉の大阪城築城に際し、「比売古曽社」
があった現在地に遷座し今日に至っている。
1945年(昭和20年)3月の空襲により、神輿庫を一つ残して社殿ことごとく焼失した
が、1961年(昭和36年)復興完成を見た。
仁徳天皇の御製『高き屋にのぼりて見れば 煙立つ 民のかまどは賑わいにけり』は、
1922年(大正10年)に制定された大阪市歌にも「高津宮の昔より代々栄えをかさね
きて民のかまどに立つけむりのにぎわいにまさる大阪市・・・」と歌われておるのはご
承知の通りであるが、このシーンを絵馬にしたものが絵馬堂に飾られている。
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報恩院(ほうおんいん)
報恩院は大阪市中央区にある真言宗醍醐派の仏教寺院。山号は高津山。
良遍上人が大阪の上町台地の佳き地を選び、現世利益の不動明王の世相にあった
北向不動明王(きたむきふどうみょうおう)を造立したことが、始まりと伝えられている。
また、北向不動明王と同時期に植えられたという樟(くす)は、相生の樟(あいおいの
くす)として有名で、戦前までは、繁茂していたという。
商売繁盛と家内安全の所願成就のご利益を求め、多くの人々で報恩院は香煙の絶
え間がなかったという。
明治に入って、廃仏毀釈により、報恩院は無住に近い状態になり荒れ寺になり、報恩
院第12世の孝教和上が明治・大正にかけて中興した。しかし、太平洋戦争による大
阪大空襲で、北向不動尊を残して灰燼に帰した。被災後 わずか数日が立ったぐらい
から、住職・壇信徒により焼跡整理が始まった。その後、諸堂の再建がなった。
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生國魂神社へ向かう
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真言坂(しんごんざか)・・・真言坂は大阪府大阪市天王寺区にある坂。
天王寺七坂と呼ばれる坂の一つで、一番北に位置し、かつ唯一南北に通る。北側の上
り口は千日前通の南(阪神高速高津入口付近)に通じ、上り口に真言坂の顕彰碑があ
り、正式名称は真言坂。南向きに坂を上ると生國魂神社の北の鳥居・石段の前へ至る。
坂の名の由来は、このあたりに生國魂神社の神宮寺だった法案寺をはじめとした真言
宗の仏教寺院が十坊(「生玉十坊」と呼ばれた)あったことに由来する。これらの寺院は
明治時代初頭の神仏分離により撤去され、現在は周辺はマンションやラブホテルが建
ち並んでいる。
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生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)
生國魂神社は、大阪府大阪市天王寺区生玉町にある神社。式内社(名神大社)。
旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。別名、難波大社。
大阪市中心部、難波宮跡や大坂城から南西方の生玉町に鎮座する。かつては現在
の大坂城の地に鎮座し、中世にはその社地に近接して石山本願寺も建立され繁栄
したが、石山合戦後の豊臣秀吉による大坂城築城の際に現在地に遷座されている。
この生國魂神社が祭神とする生島神(いくしまのかみ)・足島神(たるしまのかみ)は、
国土の神霊とされる。両神は平安時代に宮中でも常時奉斎されたほか、新天皇の即
位儀礼の1つである難波での八十島祭(やそしままつり)の際にも主神に祀られた重
要な神々で、生國魂神社自体もそれら宮中祭祀と深い関わりを持つとされる。また、
同様に大坂城地から遷座されたという久太郎町の坐摩神社とともに、難波宮との関
わりも推測されている。その後中世・近世を通じても崇敬を受け、戦前の近代社格制
度においては最高位の官幣大社に位置づけられ大阪の代表的な古社の1つである。
社伝では、神武天皇(初代天皇)の東征の際、天皇が摂津国石山碕(現在の大坂城
付近)に生島神・足島神を鎮祭したのが創建という。
史実としての創建時期は明らかでないが、孝徳天皇の時に難波宮の資材になる大き
さの樹木が伐られていることから、それ以前の鎮座は確実とされる。旧鎮座地につい
て史書に詳しい記述はなく、正確な位置は明らかでない。
文献上初見は『日本書紀』孝徳天皇(在位:645年-654年)即位前紀で、その分注に孝
徳天皇が神道を軽んじた例として「生国魂社」の樹を伐ったことが記されている。この
伐採は、難波宮造営のためであったと考えられている。なお、それに先立つ『日本書
紀』推古天皇6年(598年)条では、難波吉士磐金が新羅から持ち帰った鵲2羽を「難波
杜」で飼わせたと見え、これを生國魂神社に比定する説もある。
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生玉公園(昼食休憩)
源聖寺坂入口の近くの生魂山 齢延寺 (レイエンジ)境内のチャイニーズイエローバナナ
が咲いていたら見せて貰おうと覗いて見たが既に花季は終わって見る事が出来なかった。

四天王寺(中締め・解散
四天王寺(してんのうじ)は、大阪市天王寺区四天王寺にある寺院。聖徳太子建立七
大寺の一つとされている。山号は荒陵山(あらはかさん)、本尊は救世観音菩薩(ぐぜ
かんのんぼさつ)である。「金光明四天王大護国寺」(こんこうみょうしてんのうだいごこ
くのてら)ともいう。
『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されたという。当寺周辺の
区名、駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称である。また、荒陵寺(あ
らはかでら)・難波大寺(なにわだいじ)・御津寺(みとでら)・堀江寺(ほりえでら)などの
別称が伝えられている。
宗派は天台宗に属していた時期もあったが、元来は特定宗派に偏しない八宗兼学の
寺であった。日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派
にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年に「和宗」の総本山として独立している。
四天王寺は蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並び日本における本格的な仏教寺院として
は最古のものである。
四天王寺の草創については『日本書紀』に次のように記されている。
用明天皇2年(587年)、かねてより対立していた崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の間
に武力闘争が発生した。蘇我軍は物部氏の本拠地であった河内国渋河へ攻め込んだが、
敵の物部守屋は稲城(稲を積んだ砦)を築き、自らは朴(えのき)の上から矢を放って防戦
するので、蘇我軍は三たび退却した。聖徳太子こと厩戸皇子(当時14歳)は蘇我氏の軍
の後方にいたが、この戦況を見て、白膠木(ぬるで)という木を伐って、四天王の形を作り、
「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺塔(てら)を建てる」という誓願をし
た。その甲斐あって、味方の矢が敵の物部守屋に命中し、彼は「えのき」の木から落ち、戦
いは崇仏派の蘇我氏の勝利に終わった。その6年後、推古天皇元年(593年)、聖徳太子
は摂津難波の荒陵(あらはか)で四天王寺の建立に取りかかった。寺の基盤を支えるため
には、物部氏から没収した奴婢と土地が用いられたという(なお、蘇我馬子の法興寺は上
記の戦いの翌年から造営が始まっており、四天王寺の造営開始はそれから数年後であっ
た)。以上が『書紀』の記載のあらましである。聖徳太子の草創を伝える寺は近畿地方一円
に多数あるが、実際に太子が創建に関わったと考えられるのは四天王寺と法隆寺のみで、
その他は「太子ゆかりの寺」とするのが妥当である。
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あべのハルカスへ向かう
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私は中締め解散後ハルカスへは向かう途中で8名でアベ地下へ反省会に・・・

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10月21日の秋の空気を感じて神社仏閣巡りー1

10月26日         10月21日の秋の空気を感じて神社仏閣巡りー1
                   近鉄駅フリーはいきん 約9km 
此の日は、大和西大寺駅~平城宮跡へ秋の空気を感じながら神社仏閣巡りに出かけよう、
とのハイキングへ・K場さん・I 田さんと私の3名で参加、平城宮跡の天平祭りの大勢の人
出に加担?して来ました。
近鉄駅フリーハイキング 大和西大寺駅南出口 受付9:30~11:00 10時5分集合
大和西大寺駅~西大寺~菅原天満宮~喜光寺~垂仁天皇陵~唐招提寺~養天満宮~
がんこ一徹長屋~薬師寺~秋篠川沿い公園で昼食~平城宮跡・天平祭~大極殿~二人
は西大寺駅へ帰り、私は朱雀門前広場へ戻ってバスでJR奈良駅経由して帰る事に・・・
此の日の私の万歩計は、22000歩で約16.2km歩いたことに・・・
志都美駅
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知人二人と合流
大和西大寺駅受付・スタート
西大寺(さいだいじ)
西大寺は、奈良市西大寺芝町にある真言律宗総本山の寺院。奈良時代に孝謙上皇(重
祚して称徳天皇)の発願により、僧・常騰を開山(初代住職)として建立された。南都七大
寺の1つとして奈良時代には壮大な伽藍を誇ったが、平安時代に一時衰退し、鎌倉時代
に叡尊によって復興された。山号は勝宝山[1]。現在の本尊は釈迦如来である。
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菅原天満宮へ向かう
八坂神社
八坂神社は奈良市青野町にある神社。
由来などは全く分らないが、小さく纏まった建物の構造をしている。
小さいながらも綺麗に整った本殿がある。
オオナムキノミコト、スサノオノミコト、スクナヒコナノミコトを祀っている。
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菅原天満宮へ向かう
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菅原天満宮(すがわらてんまんぐう/すがはら-)
菅原天満宮は、奈良県奈良市菅原町にある神社。式内社で、旧社格は郷社。
古代氏族の土師氏・菅原氏に関係する神社として知られる。
祭神は次の3柱。
天穂日命(あめのほひのみこと)
野見宿祢命(のみのすくねのみこと)
菅原道真公(すがはらのみちざねこう)
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳での祭神の記載は1座。社伝では、元々の
祭神は天穂日命1柱であったが、のち野見宿禰・菅原道真が配祀されて3柱となった
という。
創建は不詳。菅原の地を本貫(本拠地)とする土師氏支族(のちの菅原氏)が、その
祖神を祀ったことに始まると推測される。 延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳
では大和国添下郡に「菅原神社」と記載され、式内社に列している。
菅原神社の祭祀は、菅原の土師氏支族(のちの菅原氏)がその祖神を祀ったことに
始まると見られているが、後世に菅原道真の誕生地とする説も生じ、現在は天神信
仰の神社として信仰されている。
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喜光寺(きこうじ)
喜光寺は、奈良県奈良市菅原町にある法相宗の寺院。この一帯が菅原氏の治領で
あったことから「菅原寺」とも呼ばれる。山号は清涼山。本尊は阿弥陀如来。奈良時
代の僧・行基が没した地とされている。法相宗の別格本山。
奈良時代に架橋、土木工事などの社会事業に携わり、東大寺大仏造立にも貢献した
僧・行基が創建したと伝わる。『行基年譜』(安元元年・1175年成立)によれば、菅原
寺(喜光寺)は、養老5年(721年)、寺史乙丸なる人物が自らの住居を行基に寄進し、
翌養老6年(722年)行基がこれを寺としたものであって、行基建立の四十九院の一
つであるとされている。『大僧正舎利瓶記』によれば、行基は天平21年(749年)この
寺で82歳で死去したという。なお、行基の墓は喜光寺から直線距離で7キロ離れた
生駒市有里の竹林寺にある。前出の『大僧正舎利瓶記』は、行基墓から出土した銅
筒に記されていたものである。
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垂仁天皇陵へ向かう
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垂仁天皇陵
宝来山古墳(ほうらいさんこふん/ほうらいやまこふん、蓬莱山古墳)は、奈良県奈良市
尼ヶ辻町(尼辻町)にある古墳。形状は前方後円墳。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「菅原伏見東陵(すがはらのふしみの
ひがしのみささぎ)」として第11代垂仁天皇の陵に治定されている。
全国では第20位の規模の古墳で、4世紀後半頃(古墳時代前期)の築造と推定される。
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左手前の小さな島
※田道間守
『日本書紀』垂仁天皇紀によれば、垂仁天皇90年2月1日に田道間守は天皇の命
により「非時香菓(ときじくのかくのみ)」すなわちタチバナ(橘)を求めに常世国に派
遣された。しかし垂仁天皇99年7月1日に天皇は崩御する。翌年(景行天皇元年)
3月12日、田道間守は非時香菓8竿8縵(やほこやかげ:竿・縵は助数詞で、葉を
とった8枝・葉のついた8枝の意味)を持って常世国から帰ってきたが、天皇がすで
に崩御したことを聞き、嘆き悲しんで天皇の陵で自殺したという。
『日本書紀』『古事記』では田道間守の墓に関する記載はないが、『釈日本紀』巻
10(述義6)所引の『天書』では景行天皇が田道間守の忠を哀しんで垂仁天皇陵
近くに葬ったとしている。現在、垂仁天皇陵(菅原伏見東陵)に治定される宝来山
古墳(奈良県奈良市)では墳丘南東の周濠内に小島があるが、これが田道間守
の墓に仮託され、湟内陪冢の「伝田道間守墓」として治定されている。
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※垂仁天皇(すいにんてんのう
垂仁天皇は第11代天皇。伊勢神宮の建立や大規模な灌漑事業を行った。相撲、埴
輪など著名な神事の起源もこの天皇の治世にあるとされる。活目入彦五十狭茅尊
(いくめいりびこいさちのみこと)・活目尊等と称され、『古事記』には「伊久米伊理毘
古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)」、『常陸国風土記』には「伊久米天皇」、
『令集解』所引「古記」に「生目天皇」、『上宮記』逸文に「伊久牟尼利比古(いくむにり
ひこ)大王」と見える。『日本書紀』、『古事記』に見える事績は総じて起源譚の性格が
強いとして、その史実性を疑問視する説もあったが、近年においてはその実在を認め
ることが多い。
崇神天皇29年1月1日に誕生(垂仁天皇即位前紀による。崇神天皇元年の条では、
御 間城姫はこれより前に垂仁天皇を生んだとあり、矛盾する記述となっている)。
同48年4月、崇神天皇の夢の前兆により皇太子に立てられる。
垂仁天皇元年1月即位。翌2年2月に狭穂姫を立后、10月、纒向に遷都した。
同3年3月、新羅王子の天日槍が神宝を奉じて来朝。
同5年10月、皇后の兄・狭穂彦が叛乱を起こし、皇后は兄に従って焼死。
同7年7月、野見宿禰が当麻蹴速と相撲をとり蹴殺す(相撲節会の起源説話)。
同15年2月、丹波道主王の女たちを後宮に入れ、8月にその中から日葉酢媛を皇后
とした。同25年3月、天照大神の祭祀を皇女の倭姫命に託す(元伊勢伝承)。
同27年8月、諸神社に武器を献納し、神地・神戸を定める。この年、来目(奈良県橿
原市久米町)に初めて屯倉を興す。
同28年、殉死の禁令。
同32年7月、日葉酢媛が薨去。野見宿禰の進言に従い、殉死の風に替えて埴輪を
埋納する(埴輪の起源説話)。『古事記』に「石祝(棺か)作りを定め、土師部(はにし
べ)を定めたまいき」とある。石棺を作る部民や赤土で種々の器を作る部民を定めた
というのである。
同35年、河内国の高石池や茅渟(ちぬ)池を始め、諸国に多くの池溝を開いて、農
業を盛んにしたと伝える。
同39年10月、五十瓊敷命が剣千振を作り、石上神宮に納める。この後、五十瓊敷
命に命じて、同神宮の神宝を掌らせる。
同90年2月、田道間守に命じて、常世国の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求
めさせる。同99年7月、崩御。140歳(『日本書紀』)、153歳(『古事記』)、139歳(『大
日本史』)。12月、菅原伏見陵に葬られた。

唐招提寺へ向かう
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此の続きは、
10月21日の秋の空気を感じて神社仏閣巡りー2 として
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続きは、唐招提寺~
唐招提寺
聖武天皇の招きに応じ、苦難の末、日本にやってきた唐僧鑑真和上によって建立
されました。鑑真は日本に着いてから5年間、戒壇院での授戒を制度として確立す
るために東大寺で過ごしましたが、東大寺から解放された後、故新田部親王(天武
天皇の第七皇子)の旧宅を賜り、そこを「唐律招堤」と称し、戒院として教学の場を
営むことになりました。やがて鑑真を支持する人々から居室や宿舎を贈られ、倉庫、
食堂、講義用の講堂、本尊を安置する仮金堂などが建てられ、鑑真の没後も金堂
や東塔が建立されました。平安時代初頭に伽藍全体が完成し、そのころ「唐律招
堤」から「唐招提寺」となりました。
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薬師寺へ向かう
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養天満宮
かつては、薬師寺の寺内社でした(現在は、社寺地は線路で分断されています)
創建は古く、祭られている神像(菅公)の状態などから、鎌倉時代以前にさかの
ぼると考えられるそうです。本殿は元禄15年(1702)の改築。
祭神;菅原道真公  境内社;熊野神社、蛭子神社、気比神社
社叢は市の指定文化財(1989年指定)。
天然記念物のツブラジイを中心とする群落は、住宅地にあって原始林的な森林
形態を保っているのは極めて珍しいそうです。
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がんこ一徹長屋
がんこはこだわりです。こだわらな職人やない!!
伝統を受け継いだ大和の7人の匠が、こだわりの技を存分に魅せる、ほんまもん
の職人長屋です。
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薬師寺
薬師寺は天武天皇9年(680年)、天武天皇の発願により、飛鳥の藤原京(奈良
県橿原市城殿〈きどの〉町)の地に造営が開始され、平城遷都後の8世紀初め
に現在地の西ノ京に移転したものである。ただし、飛鳥の薬師寺(本薬師寺)の
伽藍も10世紀頃までは引き続き存続していたと見られる。
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秋篠川沿い公園で昼食
平城宮跡
朱雀門・天平祭
朱雀門(すざくもん)は、古代、平城京や平安京といった条坊都市の宮城(大内
裏)において南面する正門。宮城の12の門のうち最も重要な門であった。
中国の条坊制を模範に造営された古代都城では、中央北辺に宮殿、官衙からな
る宮城が置かれた。平城京では平城宮、平安京では平安宮などといい、大内裏
とも呼ばれた。大内裏には四方に12の門が備えられ、各々有力氏族の姓が付与
されていた。南門は「天子南面す」というように、皇宮より京師を睥睨(へいげい)
する最も重要な門であり、朝廷の有力氏族、大伴氏の姓が付けられ「大伴門」と
呼ばれていた。714年、これを漢風に改め、四神において南方を守護するとされ
る朱雀の名を冠したものとした。朱雀門から都城正門の羅城門に続く大路を朱雀
大路という。平城京朱雀門は、考古学的研究と奈良県下の寺社に残る門を参考
にして、五間三戸の二重門がかつての位置に等寸復元されることとなった(平城
宮跡)。朱雀門の位置や規模が1964年の発掘調査で確認され、翌年に10分の1
サイズで模型製作が行われる。その後、1989年に決定された基壇の復原工事が
1992年に終わると、門本体の復原工事は1993年に開始され、1998年に竣工し
ている。
朱雀門前で天平祭が執り行われていた・・・
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第一次大極殿へ向かう
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平城宮跡
平城京は、今から1300年程前に奈良市に建設された都です。その中心の平城
宮には天皇の住まいや官公庁が集まっていました。甲子園球場が30個も入る
広大なスペースには、現在様々な公開施設が有ります。
大極殿・・・第一次大極殿
奈良建都1300年に当たる2010年に合わせ、平城宮跡に第一次大極殿が実物
大で復元された。(→平城遷都1300年記念事業)
復元された平城宮第一次大極殿の屋根には、中国古代建築の類例に倣い、大
棟中央飾りが設置されている。ただし、これまで平城宮跡からは大棟中央飾金
具の出土例がない。そのため、奈良時代前後の事例および資料の収集調査を
通じ、この金具の意匠設計を進めたという。 宝珠形の大棟中央飾りの類例とし
て、初唐の敦煌莫高窟第338窟壁画の邸宅、隋の訓西西安出土仏殿形式石棺
などがある。
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朱雀門前広場へ向かう
朱雀門
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朱雀門前広場
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私は朱雀門前広場へ戻り、バスでJR奈良駅経由で帰った

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10月17日の昼飲み会ウオーク 新石切駅~枚岡駅ー1

10月22日       10月17日の昼飲み会ウオーク 新石切駅~枚岡駅ー1
                    東大阪いっとこMAP 約5㎞
此の日は、・K場さん・S藤さん・M吉さん・O田さんご夫妻の発参加に私の6名でわいわい
がやがや歩きましたが昼飲み会は少人数の3名で2次会のカラオケも行かずに・・・
近鉄けいはんな線新石切駅(スタンプ)~石切劒矢神社~石切参道商店街~千手寺~東
石切公園~夫婦塚古墳~額田駅~楠木正行首塚~重願寺~枚岡公園~暗越奈良街道・
野尻伸線所~姥ヶ池~枚岡神社~枚岡駅 →JR天王寺駅~湯処・あべの橋
近鉄てくてくマップハイキング10㎞を5㎞に短縮して(東大阪市町歩きいっとこマップ)で・・・
楠木正行首塚を探すのに時間を費やしたが、此の日の私の万歩計は16757歩で12.4km、
志都美駅
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新石切駅(スタンプ)スタート

石切劒矢神社(いしきりつるぎやじんじゃ)
神道石切教の神社。 延喜式神名帳に記載されている河内郡の式内小社。
「石切劔箭命神社二座」。
「石切さん」「でんぼ(腫れ物)の神様」として親しまれ、本殿前と神社入り口にある百度
石の間を行き来するお百度参りが全国的に有名。創建年代は、火災により社殿及び
宝庫が悉く消失したため詳らかではないが、代々の社家「木積」家には、皇紀2年に生
駒山中の宮山に可美真手命が饒速日尊を奉祀されたのを神社の起源とし、崇神天皇
の御世に現本社に可美真手命が奉祀されたと伝わる。現在確認できる文献では、日
本三代実録(巻十一)に「貞観7年9月22日に河内国正六位の石切劔箭神社従五位下
を授く」との記述がみられ、延喜式神名帳にも「石切劔箭命神社二座」とみられる。
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石切参道商店街を通り
石切大仏
精力ドリンク「赤まむし」などを製造・販売するサカンポー(阪本漢方製薬)の4代目
阪本昌胤氏が創業地である東大阪市石切町に建立したのが、石切大仏です。
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千手寺(せんじゅうじ)
当山の縁起は1574年(天正2年)に記された寺伝によれば、今から約1300年前、笠
置山の千手窟で修行していた役行者が、神炎に導かれ当地に来て千手観音の出現に
出会い、一宇を創建し、恵日山千手寺と名付けた。以後里人はこの堂を光堂とよび、こ
の地を神並(こうなみ)の里と呼ぶようになった。
また、平安時代の初め、弘法大師がこの寺に止宿した際、当寺守護の善女竜王が夢に
現れ、補陀落山の香木を与えた。大変喜んだ大師はこの木で千手観音像を刻し本尊と
した。その後、維喬親王(これたかしんのう:844~897)の乱で、堂宇は灰燼に帰した
が、本尊の千手観音は深野池(現大東市鴻池新田あたりにあった)に自ら飛入り、夜ご
とに光を放つを見た在原業平がこれを奉出し、これを本尊として寺を再建したと伝える。
維喬親王は文徳天皇の第1皇子。第4皇子の維仁親王(後の清和天皇)の外戚藤原良
房の力が強く、皇位継承にはならなかったが、乱を起したというのは史実ではない。
いずれにしても、役行者、弘法大師、維喬親王、在原業平と歴史上の人物が次々と登
場するこの寺の寺伝。境内に古墳も有る。なんじゃもんじゃの木も有る。
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石切大仏の背中を通り
東石切公園へ向かう
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東石切公園でトイレ休憩の後
夫婦塚古墳へ向かう
夫婦塚古墳・・・神並古墳群
夫婦塚古墳は、21基からなる神並古墳群(現存7基だそうです)の中心的な古墳です。
東大坂市の文化財に指定されています。平成元年に石室内部の発掘調査が行われ
ています。西石室は3体、東石室は2体の埋葬が確認されています
東石室からは須恵器・土師器などの土器類、銀製品、玉類、馬に乗った人物や犬をか
たどった壷の装飾部品が出土。西石室からは須恵器、玉類、耳環、銀製品が出土。
6世紀中頃の築造と考えられています。
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額田駅
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楠木正行首塚へ向かう
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ようやく見つけた
楠木正行首塚
額田駅から重願寺へ向かう途中、「重願寺」の手前に「楠木正行公の首塚」が有ると
言う、駅の近くで小さな案内「楠木正行公の首塚」文字を探したが見つからない?
見つけました、私有地と書かれており入る事は出来なかったが、住宅地の一角に小
さな石龕が祀られていた。楠木正成の長男である正行は父子2代にわたる南朝方の
忠臣として後世に名をとどめており、1348年(正平3年)高師直軍との四条畷の戦い
で破れ、弟正時と差し違えて自害したといわれるが、その墓は四条畷神社が管理し
ている「小楠公墓所」以外にも、正行が本陣を置いた「往生院」にもある。また、首塚
についても京都嵯峨の「宝筺院」や宇治の「正行寺」が有名であるが、この東大阪市
の此処にも首塚が有り、この塚は、地元では昔から手厚く保護され、現在でも手入れ
が行き届いている。
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重願寺・・・重願寺HPより
当寺は當知院本誓山重願寺と号し、大阪都市計画の谷町線拡張により昭和37年に
現在の額田に移転した浄土宗のお寺です。
総本山は京都の知恩院。豊臣秀吉の本願で、文録3年(1594)5月18日に岸譽雲
海上人が開基しました。現在の住職は19世忍譽行雄です。
御本尊の木造阿弥陀如来様は座像で像高140センチ、頭高46センチ、膝張108セ
ンチで、その姿は木彫全金色で定印を結び、船形光背を負い、重蓮台に座して藤原
時代の特徴を残しています。
多寶塔におまつりしている聖観音様は立像で高さ105センチ、お顔は温和で藤原様
式の優美な観音様です。
この観音様は大坂三十三ヶ所観音めぐりの第17番札所として江戸時代以来信仰され、
近松門左衛門作『曾根崎心中附り観音めぐり』の中にも『17番に重願寺、ここからいく
つ生玉の、本誓寺ぞと伏拝む』と重願寺の事が記載されています。
大阪市内が一望できる境内には慈雲尊者歌碑をはじめとして、そのほかには大坂夏の
陣『大坂城かえる石』『大坂刀匠碑』『井上真誡墓碑』2代目桂文枝の『桂塚賛成者碑』
など様々な石碑が奉られています。
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『桂塚賛成者碑』
五世 桂文枝
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此のつづきは、
10月17日の昼飲み会ウオーク 新石切駅~枚岡駅ー2 として
          下記のメインブログへ詳細を投稿します。
        https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、枚岡公園(昼食)~
枚岡公園(昼食)
枚岡公園は、昭和13年に開設され、額田地区および枚岡地区の2つの尾根からなり、
その中央部を豊浦渓谷が流下している自然を生かした公園で、面積が約43.4haです。
昭和33年に金剛生駒国定公園が指定されるにあたり枚岡公園の全地域も国定公園
地域に含められました。梅林や桜の名所としても有名です。
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暗越奈良街道を越え
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ハイキングコースを姥ヶ池へ向かう
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姥ヶ池
姥ヶ池の伝説・・・東大坂の昔話から
およそ600年ほども昔の事でしょうか、河内の国は枚岡の里に伝わる物語です。
村の男が夜道を歩いていると、どこからともなく一尺ほどの火の玉が飛んできて男の顔
をかすめてゆきました。なんや!と思い、よく見ると、白髪頭の老婆の首が宙をただよい
口から火を吹いているではありませんか。男は肝を冷やし、家にとんで帰りガタガタ震え
ていましたが、数日後には死んでしまいした。

村では寄るとさわるとこの話でもちきりで、噂は枚岡神社の神官たちの耳に入るまでに
なりました。枚岡神社では、このところ御灯明が夜半に消えてしまう怪事件が頻発して
いて、「枚岡神社の御灯明は、河内一国を照らされるもの、なのにこれはいかがしたも
のか」と問題になっていました。

山姥の仕業、山姥の正体は?
山姥は、若いころ、「山家の花」と呼ばれたほどの器量よしで、村の若者たちのあこがれ
の的でした。ところが人生とはわからないもので、何の因果か連れ添った男が十一人ま
で次々と死に失せ、それからは村人たちも恐れて言葉も交わしません。
八十八まで生きたが、往年の面影はなく、白髪の恐ろしげな老婆となっても、死ぬに死ね
ず貧しい暮らしをたてていました。夜なべの油も買えず、悪いこととは知りながらも、神社
の燈明の油を盗んでしまいました。それを村人にとがめられたため、老婆は神社の境内
の池に身投げして死んでしまったのです。村人たちは、冷たいもので供養もせず、仏も野
ざらしにして野犬や烏のついばむに任せていました。
それ以来、雨の降る夜には池の付近に青白い火の玉が現れ、老婆の妄執の火であると、
「姥ヶ火」と呼ばれるようになり、大変怖がられるようになったのです。
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枚岡神社
祭神
主祭神として祀られている天児屋根命(あめのこやねのみこと)は、「日本書紀」神代巻に
「中臣の上祖(とおつおや)」「神事をつかさどる宗源者なり」と記され、古代の河内大国に
根拠をもち、大和朝廷の祭祀をつかさどった中臣氏の祖神で、比売御神(ひめみかみ)は
その后神です。経津主命(ふつぬしのみこと)・武甕槌命(たけみかづちのみこと)は、香取
鹿島の神で、ともに中臣氏との縁深い神として知られています。
創祀
枚岡神社の創祀は、皇紀前まで遡り、初代天皇の神武天皇が大和の地で即位される3
年前と伝えられています。神武御東征の砌、神武天皇の勅命を奉じて、天種子命(あめ
のたねこのみこと)が平国(くにむけ)(国土平定)を祈願するため天児屋根命・比売御神
の二神を、霊地神津嶽(かみつだけ)に一大磐境を設け祀られたのが枚岡神社の創祀と
されています。
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枚岡駅 →JR天王寺駅
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キューズモール
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湯処・あべの橋温泉で汗を流して 昼飲み会へ
湯処・あべの橋温泉
天然温泉・・・大阪市港区の『天然温泉テルメ龍宮』から毎日搬送しています。
源泉名 龍宮温泉 1号 阪市港区2丁目3番33号  深さ  1,500m
泉質 ナトリウム塩化物強塩温泉   泉温 摂氏53.9度(浴槽温度40~42℃)
効能 ・神経痛・筋肉痛・関節・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・打ち身・くじき
    ・慢性消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進・切り傷
    ・やけど・慢性皮膚病・虚弱体質・慢性婦人病
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天王寺ステーションビルへ向かう
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天王寺ステーションビル
4F 居酒屋 甘太郎
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10月14日の秋を探し安倍王子神社「みのり市」満喫ー1

10月20日          10月14日の秋を探し安倍王子神社「みのり市」満喫ー1
                       近鉄駅フリーハイキング 約9㎞
此の日は・K場さん・M吉さん・I 田さん・O村さん・私の5名でスタート、途中で1名増えて
6名で歩いたが途中の安倍王子神社でM吉さんが帰り、此処からまた5名でゴール迄・・・
コース 近鉄駅フリーハイキング 大阪阿部野橋駅 地下東改札口前受付9時半~11時
大阪阿部野橋駅(受付)~安倍寺跡~童謡さっちゃん碑~松虫塚~安倍晴明神社~安
倍王子神社「みのり市」~万代池公園~神須牟地神社~長居公園(昼食)~鷹合神社~
湯里住吉神社~針中野駅(ゴール)  一緒に歩いてくれた方のお名前が出て来ない?
万代池公園も長居公園も台風でかなりの大木が倒木、改めて台風被害の大きさを実感。
此の日の私の万歩計は、23471歩で約17.2km歩いたことに・・・
志都美駅
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大阪阿部野橋駅スタート
阿倍野ハルカス
地上300m、日本一の高さを誇る超高層複合ビル「あべのハルカス」は、近鉄大阪阿
部野橋駅、天王寺駅各線と直結。 日本最大級の百貨店や展望台、美術館、ホテルな
ど多彩な店舗が出店しており、1日中お楽しみいただけます。 大阪随一の絶景ととも
に堪能できるランチやスイーツなど、絶品グルメも充実。
大阪観光なら日本一高いビル「あべのハルカス」へ!  ほんまでっせ!
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安倍寺跡
阿部氏の氏寺と考えられている。一族には藤原鎌足(かまたり)らと大化の改新を推
進した、左大臣阿部内麻呂がいる。当寺の塔心礎(現在、石の鳥居をもつ松長大明
神(松崎町三丁目6-50)があり、その北側にあった。)から、相当規模の堂塔伽藍が
存在していたと思われ、かつてこの付近から白鳳、奈良時代の重弧文軒瓦(じゅうこ
もんのきがわら)や鬼瓦が出土している。
大阪市阿倍野区松崎町にある「松長大明神」の境内に「阿倍寺推定地」の石碑が建っ
ている。現地の解説版によると、当寺の塔心礎から、相当規模の堂塔伽藍が存在して
いた推測され、この付近からは白鳳、奈良時代の重弧文軒瓦や鬼瓦が出土したとの
ことである。
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※阿倍寺の礎石
大阪市西成区岸里東「天下茶屋公園」内にある「阿倍寺」の礎石。礎石は花崗岩で出
来ており、白鳳時代の五重ノ塔のものと思われ、中央に柱穴を彫り、その穴の中央に
舎利穴がある。
なぜ、松崎町からこの地に礎石が運ばれてきたのかは説明されていない。と言う。

※阿倍野の由来
阿倍野は古来、安倍野若しくは安部野とも書き、現在の「阿倍野」と書く地名は既に
鎌倉時代の文献に見えるが、その地名の起こりについては諸説がある。
① 「余戸説」 東生郡余戸郷(ひがしなりぐんあまるべごう)に関係がある。
② 「阿部島(阿閇島)説」 万葉歌人山辺赤人の歌(万葉集巻3-359)『阿倍の島
鵜の住む磯に寄する波間なく このころ大和し思ほゆ』の「阿倍島」は当地にあった。
③ 「痾免寺説」 弘法大師が当地で、疫難退散の祈祷を修し、淳和天皇より「痾免
寺(あめんじ)」の勅額を賜ったのに由来する。
④ 「阿倍寺説」 この地の豪族阿倍氏の氏寺「阿倍寺」に由来する。
⑤ 「阿倍王子説」 ⑥ 「安倍晴明説」 
などがある。どれも確証はないが、この中で④の「阿倍寺説」が最も有力な説である
とされている。

辻調理師学園ビル?
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童謡さっちゃんの歌碑
童謡「サッちゃん」の作詞をした芥川賞作家の故・阪田寛夫氏が通っていた幼稚園
に歌碑が建てられています。作詞の阪田と作曲の大中は従兄弟である。
2006年10月14日に阪田の通った大阪市阿倍野区の幼稚園にこの歌の碑が建立
され、阪田の次女大浦みずきが建立イベントに立ち会った。
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※作詞の阪田寛夫は、この歌は「近所に住んでいた少女サッちゃんのことを歌って
いる」と語っており、サッちゃんのモデルとなった少女は、阿川佐和子であるとされ
ている。阪田寛夫と、佐和子の父・阿川弘之とが知り合いで、互いの自宅も近かっ
た為で、このことは週刊文春で阿川が連載していた対談「この人に会いたい」の中
で阿川が阪田と対談した際に判明した。しかし、2011年3月18日放送のTBS系
『ぴったんこカン・カン』に阿川が出演した際には、「『実は阿川は関係無く、幼馴染
の少し影のある少女が幼稚園を転園したときの思い出を書いた曲』と言われた」と
発言している。

寄り道して松虫塚へ向かう
チンチン電車の踏切
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松虫塚
松虫塚の由来については、いくつかの説があり、古書「芦分船(あしわけぶね)」
には後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)に仕えた松虫、鈴虫の2人の官女が法然の念
仏に発心し、庵を結び隠棲(いんせい)した所であると伝えられています。
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熊野街道石碑
熊野街道は、京から大坂を経て熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野
那智大社)への参詣に利用された街道の総称。
紀伊路とも呼ばれ、当初は、渡辺津から熊野までが一体として扱われたが、近世
以後は紀伊田辺を境に紀伊路・中辺路と区分されるようになった。後者の中辺路
はユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録されている。
説教浄瑠璃の小栗判官にちなみ小栗街道(おぐりかいどう)とも呼ばれ、大阪市
街(上町)では御祓筋(おはらいすじ)とも呼ばれる。
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※渡辺津・・・現在の八軒家浜 

安倍寺跡を
出た辺りから6名で歩いている
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阿倍晴明神社
安倍晴明公は天文を見てあらゆる事を占い、花山天皇の退位を予知したり、大
江山の鬼退治を指導した事は有名で、百占奇中神の如しと称せられました。
また職神(一種の精霊)を自在に駆使したといわれ、そうして説話が「今昔物語」
等に伝えられています。子孫は土御門家を称し、代々陰陽頭となり江戸時代で
も幕末で造られた暦は一旦朝廷に送られ、土御門家が暦注吉凶を加算した上
で領布された。 
晴明公は寛弘2年(西暦1005年)、9月26年京都の堀川邸で亡くなり、(享年
62歳、系図では85歳)。 堀川邸跡(京都市上京区堀川通一条上ル)は現在晴
明神社と成っている。
もうひとつ、忘れてはいけない安部安部晴明神社が大阪の阿倍野区にあるんで
す。こちらは、安倍晴明の生誕の地といわれ、晴明誕生の秘話が伝えられていま
す。 一条天皇の命により 寛弘2年(1005年)安倍晴明生誕の地に創建された
と伝えれております。現在は大阪市阿倍野の住宅街のど真ん中にある神社です。
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※「安倍晴明説」の地、大阪市阿倍野区阿倍野元町にある「安倍晴明神社」。
この地は安倍晴明の生誕地と伝わり、晴明は奈良時代の豪族阿倍氏の一族に
つながっていたとも言われている。

安倍王子神社(あべおうじじんじゃ)
阿倍王子神社とは大阪府大阪市阿倍野区にある神社。かつては阿倍王子
(あべのおうじ)といい熊野神社の分霊社である九十九王子のひとつであった。
『摂州東成郡阿倍権現縁記』によれば、仁徳天皇の夢の中に熊野三山の使い
である3つの足の烏が現れ、仁徳天皇がそれを捜させると、同じものが当地
(阿倍島という島があったとされる)にいたので、現所在地に神社を創建した。
これとは別に、この地域を本拠した古代豪族の阿倍氏が建立したという説も
ある。
当地は四天王寺と住吉大社のほぼ中間の位置にあり、熊野参詣の街道筋の
九十九王子のひとつ「阿倍王子」として、後鳥羽天皇が熊野御幸を行った平安
時代には、窪津王子(大阪市中央区)、坂口王子(同)、郡戸王子(同)に次ぐ
4番目の王子とされていた(「後鳥羽院熊野御幸記」)。後に郡戸王子と当王子
の間に上野王子(天王寺区)が設置され、5番目の王子となるが、戦国時代の
戦乱により途中の坂口、郡戸、上野の各王子が焼失。安土桃山時代には2番
目の王子となっている。
現在、大阪府内の九十九王子で唯一、旧地に現存している王子である。
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※「痾免寺説」及び「阿倍王子説」の地である、大阪市阿倍野区阿倍野本町に
ある「阿倍王子神社」。この地で弘法大師が疫難退散の祈祷を修したと伝わる。

経塚跡
「摂陽郡談(せつようぐんだん)」の聖徳太子が、諸経の文字を一石に書いて此処
に納めたとする説と、「阿倍権現縁記(あべごんげんえんぎ)」の疫病流行に際し
空海(弘法大師)が1000部の薬師経を書写し、この塚に納めたとする2つの説が
あります。
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阪堺電気軌道上町線の横を
万代池公園へ向かう
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此の続きは、
10月14日の秋を探し安倍王子神社「みのり市」満喫-2 として
           下記のメインブログへ詳細を投稿します。
          https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、万代池公園の入口~
此処にも熊野街道石碑が有る
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万代池公園
聖徳太子の魔物退治の伝説がその名に残る万代池。渡り鳥も人間もほっと寛げる
のどかな公園。
阪堺電気軌道上町線の帝塚山3丁目駅から東へ歩いて数分。周囲約700メートルの
万代池を中心に広がる総面積4.3haの公園。昭和2年(1927)に発行された住吉村誌
によると、その昔、万代池には不思議な魔物が住み、人々を悩ませていたが、聖徳太
子が四天王寺から人を遣わし、お経をあげさせたところ、魔物は現れなくなった。その
時、あげた経が曼陀羅(まんだら)経だったことから、当初は曼陀羅池と呼ばれていた
が、いつの間にかその名が訛り、萬代池(まんだいいけ)になったという。現在の万代
池公園は子供向けの遊具などが置かれ、ラジオ体操やウォーキングなどを楽しむ市
民の憩いの場。桜の時期には地元の花見客でにぎわい、冬はやってくる渡り鳥めあ
てに野鳥ファンが集う。
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台風被害の巨大な倒木も見られる
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神須牟地神社
御祭神は神産霊大神(カミムスビノオオカミ)、天日鷲命(アメノヒワシノミコト)、少名彦
命(スクナヒコノミコト)。
由緒書には「延喜式内の古社であって三の宮と称され遠く二千年昔の御創建である」
とある。
住吉大社が摂津国一の宮と呼ばれたのに対し、当社が三の宮とされた。江戸時代、大
名が参勤交代の途中で住吉大社に参拝する際、当社で旅装から定められた装束に着
替えてから参拝したと言われている。住吉大社の神官が当社の神職を兼任する事が
多かったが、第二次世界大戦後、敗戦の混乱で存亡の危機に立たされ、八尾市の古
社の神官が当社の土地を無償で譲り受け、初代宮司となる。
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※創建年代は不詳なるも、社伝には「2000年前に創建された」と記されている。2000
年前といえば、紀元前後となろう。延喜式神名帳に掲載されているのだから900年頃
には存在していたことは明らかだろう。
神社明細書に「はじめは住吉大社の北方住道に鎮座していたが、729年に楯原に遷
移、その後、現鎮座に三遷した」とある。
これは700年代には存在していたことを示す資料と言えよう。
そして、前述の磯歯津路が雄略天皇の御代のものであるとする日本書紀を信用し、
須牟地神が磯歯津路の道の神として祀られたとすれば、それでも400年代。

長居商店街
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長居公園(昼食)
1928年(昭和3年)5月29日に、大阪市が住吉区東長居町[注 1]の一帯66.12haを
「臨南寺公園」(りんなんじこうえん)として造営計画を決定。ちなみに「臨南寺」は東
長居町に存在した曹洞宗の寺院で、現在も園内の一角に寺院が存在する。1934
年(昭和9年)に「長居公園」に改称後、1944年(昭和19年)4月1日に開園した。
太平洋戦争後の1948年(昭和23年)には園内に市営競馬場として「大阪競馬場」が
開場、1950年には市営競輪場として「大阪中央競輪場」が開場した。しかし大阪競
馬場は開場から11年後の1959年に閉場、大阪中央競輪場もその3年後の1962年
に閉場した。
その後長居公園は本格的な運動公園としての整備開始。競輪場跡に長居陸上競
技場が完成したのを皮切りに、複数のスポーツ施設・文化施設が整備され、1993
年(平成5年)の長居第2陸上競技場の完成をもって整備完了となった。
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鷹合神社
地名にちなんで鷹合神社と呼ばれ、牛頭天王とも称した。古は鷹合村の東方の神所
にあったのを、後に現在地に遷座したという。正式名称は素盞嗚尊神社。
天正年中に武田信玄の臣沼田重光がこの地に来り、村民の信頼を得て当社に奉仕
していたが数年足らずで大坂に移去した際、当社の旧記全部を持ち去ったため、由
緒は不明であるが、住吉神社の旧神官青蓮寺という家の記録の内に、延徳元年
(1489年)八月云々と記録されているので、当社の創祀はその以前であろう。
 
『日本書紀仁徳紀四十三年』依網の屯倉の阿珥古が変わった鳥を捕らえて天皇に奉
り、「私はいつも網を張って鳥を捕っていますが、まだこんな鳥を捕ったことはありませ
ん。 珍しいので献上いたします。」といった。天皇が酒君をよんで、これは何の鳥かと
尋ねられた。酒君が答えて、「この鳥の類は百済には沢山います。 馴らすと人によく
従います。また速く飛んでいろいろの鳥を取ります。百済の人はこの鳥を倶知(くち)と
いいます。」といった。 これは今の鷹である。酒君に授けて養わせた。いくらも経たぬう
ちに馴れた。酒君はなめし革のひもをその足につけ、小鈴をその尾につけ、腕の上に
とまらせ天皇に奉った。 この日百舌鳥野におでましになって狩りをされた。その時雌
雉が沢山飛び立った。そこで鷹を放って捕らせると、たちまち数十の雉を得た。 この月
はじめて鷹甘部を定めた。時の人はその鷹を飼うところを名付けて鷹飼邑といった。
注:酒君は百済王の王族
当神社との関連は不明だが『摂津国名所図絵』には鷹飼邑は今の鷹合村としている。
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湯里住吉神社
天神山に鎮座する須牟地神社が富田荘の氏神であったが、富田荘が分割されて河
内国丹比郡に編入されたため、祭神住吉三神のうちの一座をこの地に勧請して須牟
地神社と称した。住吉二の宮、湯屋島住吉などと呼ばれた。
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針中野駅へむかう
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針中野駅(ゴール)  
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おまけ
家の近所・高速道路の裏道で
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10月12日のならまち~帯解~天理へー1

10月18日          10月12日のならまち~帯解~天理へー1
                  近鉄てくてくマップハイキング 伊本4
近鉄てくてくマップハイキング、ならまちから帯解~天理へのコースを・M吉さん・K場
さんと3名で歩いた、残暑厳しい場合は帯解~櫟本駅迄のショートカットも考えたが、
割と過ごし易い天気だったのでゴールの天理駅まで完歩・・・
コース   近鉄奈良駅スタート(私はJR奈良駅~近鉄奈良駅迄も徒歩で)
近鉄奈良駅(スタンプ)ふたりと合流~高札・手力雄神社~南円堂・額塚・中金堂・五重
塔~猿沢池・率川橋(いさがわばし)地蔵尊~ならまち・道祖神(猿田彦神社)・元興寺・
にぎわいの家・庚申堂・元興寺塔址・・御霊神社~椚神社~常夜灯2灯~青井神社~
地蔵尊~帯解寺~龍象寺~大王松~菩提仙川・蔵之庄大橋~稲荷神社~楢神社~
大阪府奈良警察署櫟本分署跡~在原神社~浄土院~稲田酒造~天理本通り商店街
~天理駅(ゴール) ビールセットで乾杯!
此の日の私の万歩計は、30798歩で約22.7km歩いたことに・・・・よう歩いたわ・・・
志都美駅
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左に信貴山、右に生駒山
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JR奈良駅前
旧駅舎・・・観光案内所
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近鉄奈良駅(スタンプ貰う)知人と合流
商店街を通り、高札へ向かう
高札
奈良市三条通は平城京の時代からの道です。東六坊大路の餅飯殿通と交わる所は
江戸時代、札の辻でした。幕府のお触れや命令を高札で広めた「橋本町御高札場」
があり、興福寺や春日大社に近く、当時もにぎわっていた場所です。歴史を見直そう
と、1984年に地元の人たちによって元の場所の近くに復元されました。
また、明治時代に奈良県が設置された時、街道の起点を表す「奈良県里程元標」が
建てられ、戦後は基礎の石積みだけが残っていましたが、2010年に現在の高札場
のそばに復元されました。今は多くの人に注目され、記念撮影のスポットです。
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手力雄神社(たぢからおじんじゃ)
手力雄神社は、奈良県奈良市橋本町にある神社。春日大社境外末社。三条通北側
東端築地の上にあり、後方は築地塀を挟んで興福寺会館となる。
祭神は天手力雄神(アメノタジカラオ)
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※天手力雄神(アメノタジカラオ)
岩戸隠れの際は岩戸の脇に控えており、アマテラスが岩戸から顔をのぞかせた時、
アマテラスを引きずり出して(『日本書紀』の一書や『古語拾遺』では「引き開けて」)、
それにより世界に明るさが戻った。
天孫降臨の際、アマテラスが三種の神器にオモイカネ、タヂカラオ、天石別神を副
えたとあり、その後伊勢の佐那県(三重県多気町佐奈)に鎮座したとしている。

南円堂
西国三十三所観音霊場の第九番札所です。
弘仁4年(813)に藤原冬嗣(ふゆつぐ)が父内麻呂(うちまろ)の冥福を願ってお建てに
なった八角円堂です。基壇(きだん)築造の際に地神を鎮めるために、和同開珎(わど
うかいちん)や隆平永宝(りゅうへいえいほう)をまきながら築き上げたことが発掘調査
であきらかになりました。この儀式には弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)が深く
係わったことが伝えられます。
興福寺は藤原氏の氏寺でしたが、藤原氏の中でも摂関家北家の力が強くなり、その祖
である内麻呂・冬嗣親子ゆかりの南円堂は興福寺の中でも特殊な位置を占めます。
そのうえ本尊不空羂索観音菩薩(ふくうけんさくかんのん)像が身にまとう鹿皮は、氏
神春日社(かすがしゃ)との関係から、特に藤原氏の信仰を集めました。
創建以来4度目の建物で、寛政元年(1789)頃に再建されました。堂内には本尊不空
羂索観音菩薩像、法相六祖坐像(ほっそうろくそざぞう)、四天王(してんのう)像(以上
いずれも国宝)が安置されます。
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右近の橘
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額塚・・・興福寺の「額塚(茶臼山)」
「南大門跡」から北側の石段を下りて、西の「南円堂」の方へ向かう途中、売店と「不動
堂」の間に高さ2m芝生の「茶臼山」が在ります。奈良時代天平宝宇の始め頃、興福寺
南大門にも月輪山(がちりんざん)の山号額を掲げていましたが、何故か、しばしば魔
障が起こり、風も無いのに樹木が倒伏し、水が突然噴出して大穴を開け、石垣を崩壊
したので、山内大いに困惑していると、ある僧の霊夢に「月の字は水に縁ある為なり」
とお告げがあり、困り果てて額を取り下げると、不思議にその後何も起こらず事なきを
得ました。それで、額を埋めた所が「額塚」で、以後は、法相宗大本山「興福寺」では、
山号を用いておりません。
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興福寺中金堂・・・2018/10/08 に公開 一般公開は10月20日より
「天平回帰」を目指す世界遺産・興福寺(奈良市)で、焼失後約300年ぶりに再建された
伽藍(がらん)中核である中金堂(ちゅうこんどう)の落慶奉告(ぶこく)法要が7日、営ま
れた。焼失を繰り返しながらも再びよみがえった、平城宮大極殿(だいごくでん)に匹敵
する巨大木造建築の威容に見入る参列者約3千人が悲願の実現を祝った。
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興福寺五重塔
古都奈良を象徴する塔です。塔は仏教の祖釈迦の舎利(しゃり)(遺骨)をおさめる墓
標です。天平2年(730)に興福寺の創建者藤原不比等(ふひと)の娘光明(こうみょう)
皇后がお建てになりました。初層の東に薬師浄土変(やくしじょうどへん)、南に釈迦
浄土変(しゃかじょうどへん)、西に阿弥陀浄土変(あみだじょうどへん)、北に弥勒浄
土変(みろくじょうどへん)を安置し、また各層に水晶の小塔と垢浄光陀羅尼経(くじょ
うこうだらにきょう)を安置していたと伝えられます。
その後5回の被災・再建をへて、応永33年(1426)頃に再建されました。高さ50.1m、
初層は方三間で8.7m、本瓦(ほんがわら)葺きの塔です。軒の出が深く、奈良時代の
特徴を随所に残していますが、中世的で豪快な手法も大胆に取り入れた、大変に力強
い塔です。
初層の四方には、創建当初の伝統を受け継ぐ薬師三尊像、釈迦三尊像、阿弥陀三尊
像、弥勒三尊像を安置します。
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猿沢池(さるさわいけ、さるさわのいけ)
猿沢池は、奈良県奈良市の奈良公園にある周囲360メートルの池。興福寺五重塔が
周囲の柳と一緒に水面に映る風景はとても美しく、「猿沢池月」 は南都八景のひとつ
となっている。興福寺が行う「放生会」の放生池として、天平21年(749年)に造られた
人工池である。放生会とは、万物の生命をいつくしみ、捕らえられた生き物を野に放
つ宗教儀式である。
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率川橋(いさがわばし)地蔵尊・・・・(率川暗渠工事で発見されて集めた石仏)
猿沢池のすぐ南側部分の率川橋(いさがわばし)の下に目をやると、不思議な舟型の
台座に何体かの石仏が集められた一角があります。これは『率川地蔵尊』(または「尾
花谷地蔵尊」「舟地蔵」とも)と呼ばれるもの。幕末のころ、この辺りの河川工事をした
際に、埋もれていた約40体の石仏が見つかり、ここに集められて祀られるようになっ
たのだそうです。
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ならまち
道祖神(猿田彦神社)
猿田彦神社(さるたひこじんじゃ)は、奈良県奈良市今御門町にある神社。道祖神社
とも呼ばれる。
平城天皇の御代に元興寺境内に創祀されたと伝わる。宝徳2年(1450年)元興寺の
大火後、再々の火難に類焼し、現在の小祠となった。
一説には、橘奈良麻呂の乱で無実の罪で獄死した道祖王の怨霊を恐れ、祀られた
のが始めともいう。
往古より道祖神、賽神・妻神、開運の神として近在の信仰を集め、商売繁盛、開運
招福、良縁・安産の神として名高い。
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元興寺(がんごうじ)
元興寺は、奈良県奈良市にある寺院。南都七大寺の1つ。蘇我馬子が飛鳥に建立
した日本最古の本格的仏教寺院である法興寺(飛鳥寺)が、平城京内に移転した
寺院である。
広大な寺域には、金堂・講堂・塔・僧房などが立ち並んでいましたが、平安時代半ば、
その勢威も衰えてしまいました。現在では僧坊の一画が唯一現存しています。極楽
坊はかつての元興寺僧坊の一部で、鎌倉時代に極楽堂〔国宝〕と禅室〔国宝〕に改築
されました。中世以来庶民の信仰を集め、境内から無数の石仏と民俗資料が発見さ
れています。法輪館には奈良時代の木造五重小塔〔国宝〕木造阿弥陀如来坐像・智
光曼陀羅図・庶民信仰資料〔各重文〕などが多数保存されています。
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にぎわいの家
大正6年(1917年)に古物商によって建てられた町家(蔵は江戸期)で、茶室や15帖も
ある広い座敷、金箔の貼られた仏間ほか、襖絵や装飾など、その空間構成や意匠は
見応えがあります。現在は、二十四節気をテーマに、四季を感じる町家の良さや生活
文化を発信する町家として、奈良町のにぎわいの場となっています(登録有形文化財)
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吉祥堂
「庚申さん」とよばれる青面(しょうめん)金剛像がまつられています。この「庚申」さんの
お使いの猿を型どったお守りは、魔除けとして、よく奈良町の家の軒先にぶらさがって
います。災いを代わりに受けていただけることから、「身代わり猿」と呼ばれています。
また、背中に願い事を書いてつるすと願いが叶うといわれ、「願い猿」ともいいます。
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元興寺塔址
門前に『史跡 元興寺塔跡』の碑が立ち、民家に囲まれた小さな空間に仮堂と塔跡があ
ります。元興寺は、現在の明日香村にあった日本最古の本格的仏教寺院・法興寺(飛
鳥寺)が平城遷都のときに移設されたものです。
現在奈良町と呼ばれる広大なエリア全体が元興寺の境内でしたが、一揆や火災による
消失のあと衰退し、現在は「極楽坊」「塔跡」「小塔院」の3つ別のお寺に分かれて残って
います。後者の二つはそれぞれ東塔と西塔にあたりますが、小塔院にあったとされる高
さ5.5mの室内型の五重塔は、現在「極楽坊」の収蔵庫に保管されていて、常時見学が
可能です。
一方「塔跡」にあった五重塔は、江戸時代末期(1859年)に焼失するまでは、奈良の名所
として知られ、伝承では72mですが、少なくとも興福寺の五重塔(約51m)をしのぐ高い塔
であったことは間違いなさそうです。実際、現存する興福寺の五重塔も鎌倉時代に再建さ
れるときは、この元興寺の五重塔を参考に奈良時代の技法で再現されたのだそうです。
同時に焼失した観音堂(仮堂)は再建されましたが、塔は再建されていません。塔跡には、
ほんの150年ほど前まで巨大な塔が立っていたと言うだけあって、綺麗な状態で基壇と
礎石が残っています。
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御霊神社
創祀は800年(延暦19年)、桓武天皇の勅願によると伝えられています。
本殿に祀られているのは、無実の罪で幽閉されたあげく亡くなった井上内親王とその子、
他戸親王の二座。さらに東側社殿・西側社殿にはそれぞれ三座を、また境内末社には
開運出世、衣食住、縁結びとご利益の広大な出世稲荷神社と学問の神様・若宮社も祀
られています。
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椚神社へ向う
民家の軒先に咲く花
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椚神社(くぬぎじんじゃ)
椚神社は、奈良県奈良市にある神社である。神木として櫟(くぬぎ)の木を祀っている。
空海伝承
空海(弘法大師)が大柳生から奈良へ来た際に、この地で休息し、出立にあたり櫟の杖
を挿して置いていかれたものが芽を出し、神木となったという。一説には杖は春日明神
の杖であったとも伝わる。椚大明神と呼ばれ、この椚を切ると罰が当たると言われてい
る。文政年間に一度枯れて植え替えられ、現在は3代目の神木にあたるとされる。
神社の周囲は、現在は肘塚(かいのつか)町と呼ばれるが、古くは椚(くぬぎ)町と呼ばれ
た。明治16年合併前の旧肘塚町の南に位置し、「椚木町 十三ヶ寺の下」と「奈良曝」に
記されたように、南都十三ヶ寺の地子がかけられた。 肘塚町と同様、肘塚村内に形成
された町の一つで、「大乗院寺社雑事記」では長禄2年(1458年)11月2日の条に、「カ
ヰノツカノ郷事者、依守神木(クノキ)所役皆免ノ在所也」との記述があり、神木を守る役
が肘塚郷にあったとみられ、町名、神社もこれに関連するものと考えられる。 また「奈
良坊目拙解」では、南都南口惣門がこの地にあり、その傍らにクヌギの大樹があった
のが地名の由来とも記されている。同書では「椚」に「モンノ」と振仮名が打たれている。
寛文初年以前の作成になる奈良絵図(東大寺図書館蔵)では、奈良町南端に「くのき道」
との記述はみられるが、町名は認められない。
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文政13年の常夜灯 2灯
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青井神社へ向う
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此の続きは、
10月12日のならまち~帯解~天理へー2 として
         下記のメインブログへ詳細を投稿します。 
        https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、青井神社~
青井神社
『大和の伝説』
「奈良から桜井に通じる上街道にそって登坂町がある。この町の中ほどに青井明神
という社があるが、俗にくさ神さんと呼んでいる。
昔、小野小町が宮中で歌の競詠会があった時、全国からたくさんの歌人たちが集まっ
たが、だれも小町に勝つものはなかった。紀州から出て来た某は小町に負けたのを
残念に思い、朝廷にざん言して、小町を宮中から追い出してしまった。小町は途方に
くれ、あちこち歩き回っている間に、瘡毒にかかり困っていると、ある夜の夢に翁があ
らわれ、『前世の悪因によって、そのようになったのである。奈良から一里はなれたと
ころに、ホウソウ神をまつる神社がある。そこへ詣り、一心に拝むがよい』と告げた。
小町はそこで、二十一日間、行水して祈願すると、満願の日に瘡毒はすっかりなおっ
た。小町は、はるさめは今ひと時にはれてゆく
        ここにぬぎおくおのがみのかさ  の歌を残して、伊勢に去ったという」
この伝承からすると、この社は平安時代にはあったということになります。灯篭には
「疱瘡神社」と記されていて、この神社の信仰が、純粋な疱瘡除け、疱瘡治しであっ
たことを思わせます。
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地蔵尊
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帯解寺へ向かう
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帯解寺
帯解寺縁起
当山は弘法大師の師である勤操大徳の開基巖渕千坊の一院で霊松庵と申しました。
そして、今から約1100年前、人皇55代文徳天皇の御妃染殿皇后(藤原明子)が永い
間お子様が生まれず、大変お悩みの折、祖神春日明神のお告げによって、早速勅使
をたてられて帯解子安地蔵菩薩にお祈り遊ばされたところ、まもなく御懐妊、月満ちて
惟仁親王(のちの清和天皇)を御安産になられました。
文徳天皇はお喜びのあまり、天安二年(858年)春、更に伽藍を建立になり寺号を改
められ、無事帯が解けた寺、帯解寺(おびとけでら)と勅命せられました。
帯解の名称はここから始まりました。
昭和34年7月美智子妃殿下御懐妊に際して安産祈願法要を厳修し奉り、同年9月30
日安産岩田帯、御守、御祈祷札を献納致しました。
昭和40年8月、昭和43年10月にも御安産祈願法要を修し、岩田帯、御守を献納致し
まして、時の東宮御所より御礼状を賜っております。
そして平成3年5月、及び平成6年8月には、秋篠宮妃紀子殿下に安産岩田帯、御守、
御祈祷札を献納、また平成13年6月には皇太子妃雅子殿下にも安産岩田帯、御守、
御祈祷札を献納いたしており、東宮御所より御礼状を賜っております。
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龍象寺(りゅうぞうじ)
龍象寺は、帯解寺などがある上街道沿いに広がる「帯解エリア」の古い町並みの一角
にある高野山真言宗の小さな寺院です。
その歴史は大変古いもので、天平2年(730年)に、光明皇后の安産祈願をする中で、
行基菩薩により創建されたと言われています。なお、当時は近くにある「広大寺池」の
そばにあった大きなお寺「広大寺」の奥之院として設置されたともされています。なお、
このお寺はあくまでもかつて存在した広大寺に由来するものであるため、現在有名な
お寺として知られている近くにある「帯解寺」の「奥の院」ではありません。
ちなみにこのお寺の「龍象」という名は「広大寺」に生息したとされる「巨大な龍」に由
来するものとされ、お寺にある龍の絵から龍が抜け出して広大寺池で遊ぶといったユ
ニークな伝説も残されています。
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櫟本へ向かう
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高井病院の大王松
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菩提仙川・蔵之庄大橋
稲荷神社
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楢神社(ならじんじゃ)
五十狭芹彦命(いさりせりひこのみこと)を祭神とし、鬼子母神を合祀する。鬼子母神像
は手にザクロを持っていることから、子授けの神として有名。御利益を受けて授かった
子どもの名前には、「奈良」や「楢」の字を頂いて命名するという習わしがあった。境内
には8代目市川団十郎の奉納による「実増井の井筒(みますいのいづつ)」があり、子
授けの霊水が湧くともいわれている。本殿は文久2年(1862)、春日大社の式年造替に
より払い下げられたもの。氏子が春日大社から神社まで、担いで運んだと伝えられる。
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大阪府奈良警察署櫟本分署跡
明治19年ごろ、大阪府奈良警察署櫟本(いちのもと)分署として使用されていました。
なぜココが有名になったかと言うと、天理教教祖中山みき(89歳)が、明治19年(1886)
2月18日から12日間、軍国主義に反対したために拘留されていたからです。天理教
信者にとって重要な聖地というべき所でしょうか。古い町並み(馬出しの町並み)の一
角に有り、格子戸のある町家です。やや薄暗い内部は教祖が座っていたとされる所を
再現されていした。
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在原神社(在原寺跡)
標石が示すとおり、元々は在原寺と業平神社がありましたが、明治時代の廃仏毀釈
で在原寺が廃され、業平神社は在原神社になりました。
在原神社-在原業平と父を祀る神社-
「伊勢物語」の作者とも、モデルとも伝えられる在原業平とその父・阿保親王(あぼしん
のう・平城天皇の皇子)が祀られています。
中将・在原業平は有名な歌人の一人で、絶世の美男子だったと伝えられ、紀有常の娘
とこの地に居を構えていました。
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在原寺跡-在原氏の氏寺-
和州在原寺の縁起によると、東の平尾山には光明皇后が開かれた補陀落山観音院本
光明寺(現在の姫丸神社近辺)があり(本尊・聖武天皇御縁仏の十一面観音)、阿保親
王(第51代平城天皇の子)はこの観音を信心したおかげで在原業平が生れたと信じ、
承和2(835)年、光明寺をこの地に移して、本光明山補陀落院在原寺と称したそうです。
その後に書かれた「寛文寺社記」には、元慶4(880)年5月28日に業平が病没したので、
邸を寺にしたとあります。
天文23(1554)年の『吉野詣記』や、延宝9(1681)年の『和州旧跡幽考』には、寺領はわ
ずかに五石だが、本堂、庫裡、楼門などがあり、近在は在原千軒と呼ばれるほど人家
が建ち並んでいた、と記されています。
その後、在原寺は廃寺となり、本堂は明治初年に大和郡山市若槻の西融寺に移された。
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在原神社
参拝紀念にA4カードが・・・
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浄土院
勢至丸さま像・・・法念上人の幼名
法然(ほうねん、長承2年(1133年) - 建暦2年(1212年))は、平安時代末期から鎌倉
時代初期の日本の僧である。はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、承安5年
(1175年)、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平
等に往生できるという専修念仏の教えを説き、のちに浄土宗の開祖と仰がれた。法然
は房号で、諱は源空(げんくう)。幼名を勢至丸。通称は黒谷上人・吉水上人とも。
浄土宗では、善導を高祖とし、法然を元祖と崇めている。
※浄土真宗
浄土真宗では、法然を七高僧の第七祖とし、法然上人・源空上人と称し、元祖と位置
付ける[注釈。親鸞は、『正信念仏偈』や『高僧和讃』などにおいて、法然を「本師源空」
や「源空聖人」と称し、師事できたことを生涯の喜びとした。
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稲田酒造・・・HPより
稲田酒造合名会社はJR・近鉄天理駅から東西に伸びる三島本通り商店街にある創業
130年余りの酒蔵です。 小さな蔵元ですが造り手、売り手、飲み手が一本の糸で結ば
れ、それぞれの顔が見える状況にあること、人と人との繋がりを大切にすることをモット
ーに営業しております。
また昭和45年より造り酒屋のおいしい奈良漬けとして白瓜、きゅうり、スイカ、守口大根、
生姜等の奈良漬けを製造・販売させていただいております。
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年末に歩こう会の歩き納め、稲田酒造様で納会を予定しています。

天理本通り商店街
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天理ステーションストア?
信華摟? 生ビールセットにつられて・・・
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10月7日の大和高田市の街並み巡りー1

10月13日          10月7日の大和高田市の街並み巡りー1
                  近鉄駅フリーハイキング 約8㎞
此の日は、朝のうちは曇り空で歩き易かったが昼前からは、かんかん照りの晴天?
久し振りに・I 田さん・O村さん・M村さんと4名での参加、私は途中でJR高田駅へ。
コース 近鉄駅フリーハイキング 高田市駅受付 9時30分~11時 10時集合
高田市駅(受付)~大中公園・静御前碑~春日神社・弁慶の七つ石~有井弘法井戸
~築山古墳~公園(昼食)~大和高田駅~おかげ祭りの神輿~茶店コーヒータイム
~皆さんと別れて高田駅へ、皆さんは片塩商店街・おかげ祭り~高田市駅(ゴール)
此の日の私の万歩計は、18425歩で約13.6km歩いたことに・・・
志都美駅
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高田駅~高田市駅へ向かう
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高田市駅(受付)
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大中公園・高田千本桜・静御前碑
3月下旬から4月上旬にかけては、大中公園を中心に川の両岸南北2.5kmにわたり、
見事な花が続きます。夕闇とともにぼんぼりがともり、ライトアップされた夜桜を見物
する人の波は絶えることがなく、桜の下で、楽しく、にぎやかに、宴が開かれます。
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高田千本桜
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大中公園内「静御前記念碑」
(碑表)静御前記念碑 
しずやしず 賤のおだまきくりかえし 昔を今になすよしもがな

(碑裏)静御前
静御前は大和高田の宿の長者磯禅師の娘といわれる。京に遊んで歌舞の名手となり、
烏帽子に水干鞘巻を帯びたる麗姿は都人の称賛を浴びた。
かくて源義経と結ばれたが頼朝に追われ吉野山に義経と別れ捕らえられた。鎌倉鶴岡
八幡宮の社頭、頼朝政子の前に夫を想う曲を舞い、後許されて大和に帰り母子とも磯
野の里におわるという。
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春日神社・弁慶の七つ石
古来当麻もうでの道として知られた当麻街道沿いに鎮座する春日神社の境内に、七つ
石が置かれています。源義経一行が兄の頼朝に追われた際に静御前の母親である礒
野禅尼が住む礒野の地を訪ね、この神社の境内の石に腰掛けて一休みしたと、現在も
地元の人々の間で伝承されています。
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有井弘法井戸へ向かう
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有井弘法井戸
有井町にある。磐園(いわその)小学校の西南の方、道路に面している。通称は「弘法
井戸」で弘法大師が掘ったと伝えられている。井戸は石造枡形の井筒があり木製のフ
タをしている。小堂を設けて保存している。
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※清水井戸弘法大師御詠歌
「ありがたや清きわき出しかぢの水こうぼうだいしはあらたなりけり」

弘法大師の有り難い井戸があるということでこの土地(むら)のならすとよい音をひびか
せるようになった有井とした。道は南北に走っているが、井戸の西方に「道場」という地
があって弘法大師が建立した仏堂があったと伝えられている。
(絵本:大和高田の民話「水がわいた」)

此の続きは、
10月7日の大和高田市の街並み巡りー2 として
       下記のメインブログへ詳細を投稿します。
      https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、築山古墳へ向かう~
築山古墳へ向かう
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築山古墳
築山古墳(つきやまこふん)は、奈良県大和高田市築山字城山にある古墳。形状は前方
後円墳。馬見古墳群を構成する古墳の1つ(南群の盟主墳)。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「磐園陵墓参考地」(被葬候補者:第23
代顕宗天皇)として陵墓参考地に治定されている。
宮内庁が磐園(いわぞの)陵墓参考地として管理しているため、一般市民は立入ることは
出来ない。墳丘長は210mあり、後円部径は120m、前方部幅は105mである。情報は少
ないが、採集された埴輪片から、4世紀後半の築造が考えられている。 墳丘の段築につ
いては、詳しい調査が行われていないが、前方部二段築成・後円部三段築成、前方部三
段築成・後円部三段築成、前方部三段築成・後円部四段築成等の説がある。
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公園(昼食)
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キダチチョウセンアサガオ(園芸名でエンジェルトランペット)と呼ばれることが多い。
花言葉は、愛敬、偽りの魅力、変装、愛嬌。
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大和高田駅~おかげ祭りの神輿
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茶店でコーヒータイム
皆さんと別れてJR高田駅へ、皆さんは片塩商店街・おかげ祭り~高田市駅へ
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9月27日~10月4日の奄美大島への帰省

10月13日        9月27日~10月4日の奄美大島への帰省
9月27日以来、 久し振りの投稿です
9月27日(木) 関西国際空港~奄美空港 JW873 奄美大島への 帰省
         関西国際空港 9:50 ~奄美空港 11:30 到着遅れで(11:50) 
         わくわくセール 奄美大島 往2780円 座席指定500円 手数料700円
27日 関空
此れで奄美へ飛ぶ
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奄美の叔母の家で
提灯ハイビスカス?
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なべら(ヘチマ)炒め
奈良や大阪では中々手に入らないので久し振りに食べた
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9月28日(金)
台風24号奄美を暴風県内に、フェリーかけろま欠航

9月29日(土)~10月1日(月) 
台風24号で停電&電話不通、
停電の中、LEDランタンの灯りで食事
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10月2日
浦上の停電&電話不通の解消、加計呂麻島は未だ停電、断水、電話不通続く
奄美本島の南部、瀬戸内町古仁屋へ移動
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古仁屋港で宿泊
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海上タクシーを予約した
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夕方の古仁屋港
対岸の加計呂麻島へ夕日が沈む
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10月3日
古仁屋港~海上タクシーで加計呂麻島 芝集落へ
芝集落の岸壁につくと街灯が、停電が解消されて隧道も復旧
先祖代々の墓参り&台風24号で傷めつけられた生家の補修他
屋根がめくれかけてる
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庭のミカンの木が壁に寄りかかっている
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畑を見に行くと
荒れに荒れて大木?が生えていた・・・
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加計呂麻島芝集落~海上タクシーで古仁屋港へ
台風25号の影響で午後の2便ともフエリーかけろまは欠航
台風25号に追われる様に加計呂麻島を脱出?
10月3日
古仁屋港で宿泊
10月4日
台風25号に追われる様に?
古仁屋~奄美市へ移動 奄美市名瀬 浦上の叔母の家へ
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10月4日(木) 奄美空港~関西国際空港 JW874 帰阪 復3980円
         奄美空港 17:15 ~関空 18:40 
         わくわくセール 奄美大島 復3980円 座席指定500円 手数料700円
台風24号に向討たれて?台風25号に追いたてられる様に関空へ帰阪・・・・
今回は台風で停電、断水、電話不通等さんざんな目に遭遇した奄美帰省でした・・・

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