9月24日の飛鳥稲渕の棚田と案山子と彼岸花-1
10月1日 9月24日の飛鳥稲渕の棚田と案山子と彼岸花-1
近鉄駅フリーハイキング飛鳥駅~
此の日は知人と6人で参加、天気が良くてまだまだ暑い中でのハイキングだった・・・
長蛇の列を想定して10時過ぎて飛鳥駅に着いたがまだまだ長蛇の列、私で837人目、
知人を待つ間、まだまだ長蛇の列が続いていた・・・
コース 近鉄駅フリーハイキング 飛鳥駅受付9時半~11時10分
飛鳥駅(受付)~文武天皇陵~朝風峠~稲渕棚田・案山子ロード~男綱~祝戸橋~
石舞台古墳地区(昼食)~石舞台古墳~橘寺~川原寺跡~亀石~鬼の雪隠~鬼の俎
~飛鳥周遊道路~猿石(吉備媛王)~欽明天皇陵~耳なほし地蔵~飛鳥駅
飛鳥駅~文武天皇陵へ向かう
文武天皇陵~朝風峠へ向かう
文武天皇
文武天皇(もんむてんのう、天武天皇12年(683年) - 慶雲4年6月15日(707年7月18日))
は、日本の第42代天皇(在位:文武天皇元年8月1日(697年8月22日) - 慶雲4年6月15日
(707年7月18日))。天武天皇と持統天皇の孫。
当時としては異例の14歳の若さで即位。祖母・持統太上天皇(史上初の太上天皇)のもと
で政務を行っていた。後の院政形式の始まりである。
朝風峠~稲渕棚田・案山子ロード
稲渕棚田・案山子ロード~男綱
此の続きは、
9月24日の飛鳥稲渕の棚田と案山子と彼岸花-2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿します。
http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、
まだまだ続く 稲渕棚田・案山子ロード~男綱
此れが
一番大きい案山子
まだまだ続く
稲渕棚田・案山子ロード~男綱
9月24日の飛鳥稲渕の棚田と案山子と彼岸花-3 として詳細は別途・・・
男綱~祝戸橋
祝戸橋~石舞台古墳地区(昼食)
石舞台古墳地区~石舞台古墳
石舞台古墳
石舞台古墳は、飛鳥歴史公園内石舞台周辺地区の中央に位置するわが国最大級の
方墳です。30数個の岩の総重量は約2300トン、特に天井石は約77トンとかなりの重
量で、造られた当時の優れた土木・運搬技術の高さがうかがわれます。
1933年(昭和8)~35年(昭和10)の発掘調査で方形の墳丘、堀、外堀が存在すること、
6世紀代の小古墳を壊して築造されていたことなどが確認されており、その上で築造は
7世紀初め頃と推定されています。
石舞台古墳~橘寺
此処から名は、
9月24日の飛鳥稲渕の棚田と案山子と彼岸花-4 として詳細は別途・・・
橘寺~
橘寺~川原寺跡望む
橘寺
聖徳太子誕生の地に太子自身が創建とされる橘寺(たちばなてら)です。この橘とは
日本書紀によると田道間守(たじまもり)が垂仁天皇の勅命を受けて不老長寿の薬を
求め、海を渡り十年後にある種を持ち帰りました。しかし、その時はすでに天皇は亡く
なっていたそうです。しかたなく、その種をこの地にまくと芽が出たのが橘(みかんの
原種)であったことから、以来この地を橘と呼ぶようになったそうです。そしてここに橘
の宮という欽明天皇の別宮が建てられ、太子はここで生まれ子供頃を過ごしました。
橘寺~亀石
此の続きは、
9月24日の飛鳥稲渕の棚田と案山子と彼岸花-5 として詳細は別途・・・
亀石~
亀石~鬼の雪隠~鬼の俎
亀石
大きさは長さ3.6メートル、幅2.1メートル、高さ1.8メートルもある。
いつ頃制作されたのかや目的・用途など詳しいことはわかっていないが、弘福寺
(川原寺)の古文書に「字亀石垣内」と記載されたもの有り川原寺の寺域の境界を
示す石標ではないかという説や、猿石、二面石、人頭石など一連の飛鳥石造物の
一つではないかなど、様々な説がある。
※亀石伝説
奈良盆地一帯が湖であった頃、対岸の当麻のヘビと川原のナマズの争いの結果
前者のヘビが勝ち、水を吸い取られた結果、川原の辺りは干上がってしまい、湖
のカメはみんな死んでしまった。これを哀れに思った村人たちは、「亀石」を造って
供養をしたという。
また、亀石は最初は北を向いていたが、次に東を向いたと言う。そして、現在は南
西を向いているが、西に向き、当麻のほうを睨みつけると、奈良盆地は一円泥の
海と化すと伝えられている。
飛鳥周遊道路~猿石(吉備姫王墓)・欽明天皇陵
猿石(吉備姫王墓)
欽明天皇陵の南西に、宮内庁が檜隈墓として管理する吉備姫王(きびひめのみこ)の
墓がある。吉備姫は第35代皇極天皇(第37代斉明天皇)および第36代孝徳天皇の
生母であり、『日本書紀』によれば皇極天皇2年(642)9月になくなり、檀弓丘に埋葬さ
れた。『延喜式』諸陵寮には欽明天皇陵と同じ陵域内に墓があると記されていること
から、その墓が現在の古墳に比定されている。柵の中に有る高さ1m前後の石造物は、
それぞれ僧、男性、女性、山王権現の名で呼ばれているが、何故か「猿石」と総称され
ている。
欽明天皇陵~耳なほし地蔵
欽明天皇
欽明天皇(きんめいてんのう、継体天皇3年(509年?) - 欽明天皇32年4月15日(571年
5月24日?))は、第29代天皇(在位:宣化天皇4年12月5日(539年12月30日?) - 欽明天
皇32年(571年?)4月15日)。和風諡号は天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろに
わのすめらみこと)。別名、志帰嶋天皇・斯帰斯麻天皇(いずれも「しきしまのすめらみこ
と」と呼ぶ)。この代に、百済より仏教が公伝し、任那が滅亡した。
耳なほし地蔵~飛鳥駅
耳なほし地蔵
朝風峠でボランティアガイドさんに下記の伝説を聞いた事が有ります。
明日香・栗原集落の朝風峠のお地蔵さん、右の肩の上が大きく欠けているのは、
「朝風地蔵」と平田集落にある「耳なほし地蔵」が争って、片方は肩を取られ、
片方は耳を取られた。というおもしろい言い伝えがあるそうです。
今日、訪れた、此の耳なほし地蔵には「キリ」が多数奉納されていました、キリ
で穴が開けられる様に耳が通り聞こえる様になる?というおまじないでしょう・・・
おまけ
二上山~我が家の琉球朝顔他
近鉄駅フリーハイキング飛鳥駅~
此の日は知人と6人で参加、天気が良くてまだまだ暑い中でのハイキングだった・・・
長蛇の列を想定して10時過ぎて飛鳥駅に着いたがまだまだ長蛇の列、私で837人目、
知人を待つ間、まだまだ長蛇の列が続いていた・・・
コース 近鉄駅フリーハイキング 飛鳥駅受付9時半~11時10分
飛鳥駅(受付)~文武天皇陵~朝風峠~稲渕棚田・案山子ロード~男綱~祝戸橋~
石舞台古墳地区(昼食)~石舞台古墳~橘寺~川原寺跡~亀石~鬼の雪隠~鬼の俎
~飛鳥周遊道路~猿石(吉備媛王)~欽明天皇陵~耳なほし地蔵~飛鳥駅
飛鳥駅~文武天皇陵へ向かう
文武天皇陵~朝風峠へ向かう
文武天皇
文武天皇(もんむてんのう、天武天皇12年(683年) - 慶雲4年6月15日(707年7月18日))
は、日本の第42代天皇(在位:文武天皇元年8月1日(697年8月22日) - 慶雲4年6月15日
(707年7月18日))。天武天皇と持統天皇の孫。
当時としては異例の14歳の若さで即位。祖母・持統太上天皇(史上初の太上天皇)のもと
で政務を行っていた。後の院政形式の始まりである。
朝風峠~稲渕棚田・案山子ロード
稲渕棚田・案山子ロード~男綱
此の続きは、
9月24日の飛鳥稲渕の棚田と案山子と彼岸花-2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿します。
http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、
まだまだ続く 稲渕棚田・案山子ロード~男綱
此れが
一番大きい案山子
まだまだ続く
稲渕棚田・案山子ロード~男綱
9月24日の飛鳥稲渕の棚田と案山子と彼岸花-3 として詳細は別途・・・
男綱~祝戸橋
祝戸橋~石舞台古墳地区(昼食)
石舞台古墳地区~石舞台古墳
石舞台古墳
石舞台古墳は、飛鳥歴史公園内石舞台周辺地区の中央に位置するわが国最大級の
方墳です。30数個の岩の総重量は約2300トン、特に天井石は約77トンとかなりの重
量で、造られた当時の優れた土木・運搬技術の高さがうかがわれます。
1933年(昭和8)~35年(昭和10)の発掘調査で方形の墳丘、堀、外堀が存在すること、
6世紀代の小古墳を壊して築造されていたことなどが確認されており、その上で築造は
7世紀初め頃と推定されています。
石舞台古墳~橘寺
此処から名は、
9月24日の飛鳥稲渕の棚田と案山子と彼岸花-4 として詳細は別途・・・
橘寺~
橘寺~川原寺跡望む
橘寺
聖徳太子誕生の地に太子自身が創建とされる橘寺(たちばなてら)です。この橘とは
日本書紀によると田道間守(たじまもり)が垂仁天皇の勅命を受けて不老長寿の薬を
求め、海を渡り十年後にある種を持ち帰りました。しかし、その時はすでに天皇は亡く
なっていたそうです。しかたなく、その種をこの地にまくと芽が出たのが橘(みかんの
原種)であったことから、以来この地を橘と呼ぶようになったそうです。そしてここに橘
の宮という欽明天皇の別宮が建てられ、太子はここで生まれ子供頃を過ごしました。
橘寺~亀石
此の続きは、
9月24日の飛鳥稲渕の棚田と案山子と彼岸花-5 として詳細は別途・・・
亀石~
亀石~鬼の雪隠~鬼の俎
亀石
大きさは長さ3.6メートル、幅2.1メートル、高さ1.8メートルもある。
いつ頃制作されたのかや目的・用途など詳しいことはわかっていないが、弘福寺
(川原寺)の古文書に「字亀石垣内」と記載されたもの有り川原寺の寺域の境界を
示す石標ではないかという説や、猿石、二面石、人頭石など一連の飛鳥石造物の
一つではないかなど、様々な説がある。
※亀石伝説
奈良盆地一帯が湖であった頃、対岸の当麻のヘビと川原のナマズの争いの結果
前者のヘビが勝ち、水を吸い取られた結果、川原の辺りは干上がってしまい、湖
のカメはみんな死んでしまった。これを哀れに思った村人たちは、「亀石」を造って
供養をしたという。
また、亀石は最初は北を向いていたが、次に東を向いたと言う。そして、現在は南
西を向いているが、西に向き、当麻のほうを睨みつけると、奈良盆地は一円泥の
海と化すと伝えられている。
飛鳥周遊道路~猿石(吉備姫王墓)・欽明天皇陵
猿石(吉備姫王墓)
欽明天皇陵の南西に、宮内庁が檜隈墓として管理する吉備姫王(きびひめのみこ)の
墓がある。吉備姫は第35代皇極天皇(第37代斉明天皇)および第36代孝徳天皇の
生母であり、『日本書紀』によれば皇極天皇2年(642)9月になくなり、檀弓丘に埋葬さ
れた。『延喜式』諸陵寮には欽明天皇陵と同じ陵域内に墓があると記されていること
から、その墓が現在の古墳に比定されている。柵の中に有る高さ1m前後の石造物は、
それぞれ僧、男性、女性、山王権現の名で呼ばれているが、何故か「猿石」と総称され
ている。
欽明天皇陵~耳なほし地蔵
欽明天皇
欽明天皇(きんめいてんのう、継体天皇3年(509年?) - 欽明天皇32年4月15日(571年
5月24日?))は、第29代天皇(在位:宣化天皇4年12月5日(539年12月30日?) - 欽明天
皇32年(571年?)4月15日)。和風諡号は天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろに
わのすめらみこと)。別名、志帰嶋天皇・斯帰斯麻天皇(いずれも「しきしまのすめらみこ
と」と呼ぶ)。この代に、百済より仏教が公伝し、任那が滅亡した。
耳なほし地蔵~飛鳥駅
耳なほし地蔵
朝風峠でボランティアガイドさんに下記の伝説を聞いた事が有ります。
明日香・栗原集落の朝風峠のお地蔵さん、右の肩の上が大きく欠けているのは、
「朝風地蔵」と平田集落にある「耳なほし地蔵」が争って、片方は肩を取られ、
片方は耳を取られた。というおもしろい言い伝えがあるそうです。
今日、訪れた、此の耳なほし地蔵には「キリ」が多数奉納されていました、キリ
で穴が開けられる様に耳が通り聞こえる様になる?というおまじないでしょう・・・
おまけ
二上山~我が家の琉球朝顔他
2017-10-01 01:12
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