11月29日の幸村・伊達正宗と激突した誉田・道明寺を巡る
12月3日 11月29日の幸村・伊達正宗と激突した誉田・道明寺を巡る
近鉄 駅フリ-ハイキング 歩程約6㎞
このひは知人と3人で参加、S藤さん・M吉さんと3人で参加、ハイキングの後は、
安倍野の居酒屋で昼飲み会、此の飲み会には別に4人参加して7人で開催・・・・
コース 近鉄駅フリーハイキング 古市駅 受付 9時半~10時半
古市駅(受付)~白鳥陵古墳~墓山古墳~向墓山古墳~~誉田八幡宮~薄田
隼人墓~応神天皇陵~小室山古墳~道明寺天満宮~道明寺合戦記念碑~道
明寺駅(ゴール)少しコースを変え一緒に参加した知人の家の前を通る事に・・・
古市駅(受付)~白鳥神社~白鳥陵古墳・遥拝所~墓山古墳~向墓山古墳~羽
曳野市文化財展示室~誉田八幡宮~薄田隼人墓~応神天皇陵~小室山古墳
~仲姫皇后陵古墳~古室八幡宮~澤田八幡宮~道明寺~道明寺天満宮~道明
寺合戦記念碑~道明寺駅(ゴール)
道明寺駅 → 阿倍野橋駅 → ゆ処・あべの温泉で暖まって、昼飲み会へ
古市駅
白鳥神社
日本武尊御陵参道
白鳥陵(しらとりのみささぎ)
公式形式は前方後円。考古学名は「軽里大塚古墳」または「前の山古墳」。墳丘
長190メートルの前方後円墳で、5世紀後半の築造と推定される。河内の白鳥陵
明治8年(1875年)に教部省により伊岐宮(現・白鳥神社)の白鳥神社古墳に考
定されたが、明治13年(1880年)に現陵(軽里大塚古墳/前の山古墳)に改定され
た。現陵は、『河内国陵墓図』では木梨軽太子の「軽之墓」と記されている。かつ
ては西方の峯ヶ塚古墳に比定する説もあったという。
遥拝所&近所の池
※「日本武尊」
ヤマトタケル(生年不詳 - 景行天皇43年)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族
(王族)。『日本書紀』では主に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、『古事記』で
は主に「倭建命(やまとたけるのみこと)」と表記される。現在では、漢字表記の
場合に一般には「日本武尊」の用字が通用される。
第12代景行天皇皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。熊襲征討・東国征討を
行なったとされる、日本古代史上の伝説的英雄である。
草薙剣
記紀日本武尊が帯びた剣は、草薙剣(草那芸剣)といわれる。出雲でスサノオ尊
がヤマタノオロチを倒した際にその尾から出てきたもので、天照大神に献上され、
天孫降臨に伴い三種の神器の一つとして、再び地上に戻ってきたものである。
日本書紀の注記によると、元は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)という名で、日
本武尊が駿河で野火攻めに遭った時、この剣が独りでに鞘から抜けて草を薙ぎ払
い、難を逃れたことにより草薙剣(くさなぎのつるぎ)と名付けられたとする。ただし、
これは挿入された異伝であり、正式な伝承とは見なされていない。本文では一貫し
て草薙剣と表記され、途中で名称が変わることはない。古事記でも草那芸剣(大刀)
とのみ記される。
墓山古墳へ向かう
墓山古墳
墓山古墳は古市古墳群のほぼ中央にある大形の前方後円墳です。三段に築かれた
墳丘は長さ225メートル、くびれ部両側に造出しを備え、深い濠と幅広い堤をめぐらせ
ます。墳丘部は「応神天皇陵陪塚」として宮内庁が管理されていますので、内部の詳
しい様子は不明です。だた、これまでに多量の滑石製勾玉や各種の形象埴輪の出土
が知られています。また、後円部には亀甲紋を陰刻した長持形石棺が納置されてい
た報告もあります。これらの情報から墓山古墳は5世紀の前半に築造されたと考えら
れます。墓山古墳の周囲には浄元寺山、向墓山、野中、西墓山という4基の陪塚が配
されていて、典型的な中期大型古墳の様相をみせています。
向墓山古墳
墓山古墳の陪塚
羽曳野市文化財展示室
誉田八幡宮へ向かう
誉田八幡宮
薄田隼人正兼相の墓
此の続きは、
11月29日の幸村・伊達正宗と激突した誉田・道明寺を巡る-2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿済みです。
続きは、応神天皇陵~
応神天皇陵
誉田御廟山古墳(伝応神天皇陵)で墳丘長さ425メートル、濠を含めた全長650
メートルで 百舌鳥古墳群の仁徳天皇陵の墳丘長486 メートル、全長 840
メートルに次ぐ。体積は、143万立法メートルで仁徳天皇陵の140万立法メートル
を抜き日本最大。
大鳥塚古墳
大鳥塚古墳は、墳丘の長さが110メートルの前方後円墳です。古市古墳群の中で
は中形で、前方部は南を向いています。墳丘はほぼ全域がクヌギの林になってい
て、足を踏み入れると夏でもひんやりとした感じを受けます。造られた当時、墳丘の
斜面には石が葺かれ、平坦面には円筒埴輪が並んでいました。人を葬った施設の
構造は分かっていません。
古室山古墳(昼食休憩)
古室山古墳は、後円部頂上の標高が約39メートルを測り、国府台地でも高所に位置
しています。そして視界をさえぎる巨木が少ないため、頂上からの眺望はすばらしい
ものがあります。また、梅や桜の木が植えられており、季節になると美しい花を咲かせ
ます。これらはいずれも訪れる人々を楽しませています。古墳の墳丘の長さは150メー
トルで、古市古墳群の中では中形の前方後円墳に属します。古室山古墳が造られたの
は4世紀末から5世紀初頭のことです。これは、古市古墳群の形成が開始された時期に
あたり、同古墳群中で最も早く造られた古墳の一つに数えられます。
柿の木のひこばえ?しばし柿の木談義・・・
仲姫命陵古墳
5世紀前半に築造された大型前方後円墳です。墳丘長は290mで古市古墳群で
は応神天皇陵古墳(羽曳野市)に次ぐ大きさを誇ります。後円部側には陪塚と考
られる鍋塚古墳があります。
古室八幡神社
祭 神:仲津媛皇后 応神天皇
澤田八幡神社は、御陵の中程に、この神社は、古墳の前方に位置してる。
澤田八幡神社
境内に電車が通っているという、全国的にも数少ない珍しい神社です。
祭 神:仲津媛皇后 応神天皇
国府八幡神社の由緒書きに、藤井寺市内には、江戸時代初期の頃に誕生
した八幡神社が五社ありますが、国府八幡神社以外の八幡神社は、誉田
八幡宮(羽曳野市)の分霊を勧請したものとされています。沢田八幡神社、
古室八幡神社、土師里八幡神社、津堂八幡神社の四社です。とある・・・・
※国府(こう)八幡神社・・・藤井寺市
祭神:八幡大神(応神天皇)、春日大神・住吉大神
由緒:正式には「國府八幡神社」と書きます。
伝承によれば、近世の初期に壺井八幡宮(羽曳野市)の分霊を勧請して始まった
とされています。藤井寺市内には、江戸時代初期の頃に誕生した八幡神社が五
社ありますが、国府八幡神社以外の八幡神社は、誉田八幡宮(羽曳野市)の分霊
を勧請したものとされています。沢田八幡神社、古室八幡神社、土師里八幡神社、
津堂八幡神社の四社です。国府八幡神社の祭神は、他の八幡神社と同じ八幡大
神(応神天皇)が主神で、春日大神・住吉大神があります。
道明寺
道明寺(どうみょうじ)は、真言宗御室派の尼寺。山号は蓮土山。
道明寺周辺は、菅原道真の祖先にあたる豪族、土師(はじ)氏の根拠地であった。
道明寺は土師氏の氏寺土師寺として建立され、今の道明寺天満宮の前にあった。
当時は七堂伽藍や五重塔のある大規模なものであった。901年(延喜元年)、大宰
府に左遷される道真がこの寺にいた叔母の覚寿尼を訪ね「鳴けばこそ別れも憂け
れ鶏の音のなからん里の暁もかな」と詠み、別れを惜しんだと伝えられる。この故
事は、後に人形浄瑠璃・歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』「道明寺」の場にも描かれて
いる。道真の死後、寺名は道明寺と改められるが、これは道真の号である「道明」
に由来する。
道明寺天満宮
祭神は菅原道真公、天穂日命と、菅原道真公のおばに当たる覚寿尼公である。
隣接して道明寺という真言宗の尼寺がある。この地は、菅原氏・土師氏の祖先に当
たる野見宿禰の所領地と伝え、野見宿禰の遠祖である天穂日命を祀る土師神社が
あった。仏教伝来後、土師氏の氏寺である土師寺が建立された。伝承では聖徳太
子の発願により土師八島がその邸を寄進して寺としたという。平安時代、土師寺に
は菅原道真公のおばに当たる覚寿尼公が住んでおり、道真公も時々この寺を訪れ、
この寺のことを「故郷」と詠んだ詩もある。延喜元年(901年)、大宰府に左遷される途
中にも立ち寄って、覚寿尼公との別れを惜しんだ。道真公遺愛の品と伝える硯、鏡等
が神宝として伝わり、6点が国宝の指定を受けている。
道明寺合戦記念碑
道明寺駅前に2014年11月、大坂夏の陣 道明寺合戦の史実を後世に伝えるために
建立された記念碑です。道明寺合戦は、真田幸村軍と伊達政宗軍が激突し、戦国の
歴史が大きく動いた戦いとして有名で、片倉小十郎、後藤又兵衛、薄田隼人など名だ
たる武将が戦いました。地元では、合戦の歴史を後世に伝えるため、「道明寺合戦ま
つり」などを毎年開催しています。
道明寺駅
道明寺駅ホーム
湯処 あべの温泉・・・気分はスーパー銭湯、料金は庶民派銭湯
天然温泉
大阪市港区の『天然温泉テルメ龍宮』から毎日搬送しています。
源泉名 龍宮温泉 1号 大阪市港区2丁目3番33号
深さ 1,500m 泉質 ナトリウム塩化物強塩温泉
泉温 摂氏53.9度(浴槽温度40~42℃)
効能 ・神経痛・筋肉痛・関節・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・打ち身
・くじき・慢性消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復
・健康増進・切り傷・やけど・慢性皮膚病・虚弱体質・慢性婦人病
7人で昼飲み会&4人でカラオケへ
近鉄 駅フリ-ハイキング 歩程約6㎞
このひは知人と3人で参加、S藤さん・M吉さんと3人で参加、ハイキングの後は、
安倍野の居酒屋で昼飲み会、此の飲み会には別に4人参加して7人で開催・・・・
コース 近鉄駅フリーハイキング 古市駅 受付 9時半~10時半
古市駅(受付)~白鳥陵古墳~墓山古墳~向墓山古墳~~誉田八幡宮~薄田
隼人墓~応神天皇陵~小室山古墳~道明寺天満宮~道明寺合戦記念碑~道
明寺駅(ゴール)少しコースを変え一緒に参加した知人の家の前を通る事に・・・
古市駅(受付)~白鳥神社~白鳥陵古墳・遥拝所~墓山古墳~向墓山古墳~羽
曳野市文化財展示室~誉田八幡宮~薄田隼人墓~応神天皇陵~小室山古墳
~仲姫皇后陵古墳~古室八幡宮~澤田八幡宮~道明寺~道明寺天満宮~道明
寺合戦記念碑~道明寺駅(ゴール)
道明寺駅 → 阿倍野橋駅 → ゆ処・あべの温泉で暖まって、昼飲み会へ
古市駅
白鳥神社
日本武尊御陵参道
白鳥陵(しらとりのみささぎ)
公式形式は前方後円。考古学名は「軽里大塚古墳」または「前の山古墳」。墳丘
長190メートルの前方後円墳で、5世紀後半の築造と推定される。河内の白鳥陵
明治8年(1875年)に教部省により伊岐宮(現・白鳥神社)の白鳥神社古墳に考
定されたが、明治13年(1880年)に現陵(軽里大塚古墳/前の山古墳)に改定され
た。現陵は、『河内国陵墓図』では木梨軽太子の「軽之墓」と記されている。かつ
ては西方の峯ヶ塚古墳に比定する説もあったという。
遥拝所&近所の池
※「日本武尊」
ヤマトタケル(生年不詳 - 景行天皇43年)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族
(王族)。『日本書紀』では主に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、『古事記』で
は主に「倭建命(やまとたけるのみこと)」と表記される。現在では、漢字表記の
場合に一般には「日本武尊」の用字が通用される。
第12代景行天皇皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。熊襲征討・東国征討を
行なったとされる、日本古代史上の伝説的英雄である。
草薙剣
記紀日本武尊が帯びた剣は、草薙剣(草那芸剣)といわれる。出雲でスサノオ尊
がヤマタノオロチを倒した際にその尾から出てきたもので、天照大神に献上され、
天孫降臨に伴い三種の神器の一つとして、再び地上に戻ってきたものである。
日本書紀の注記によると、元は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)という名で、日
本武尊が駿河で野火攻めに遭った時、この剣が独りでに鞘から抜けて草を薙ぎ払
い、難を逃れたことにより草薙剣(くさなぎのつるぎ)と名付けられたとする。ただし、
これは挿入された異伝であり、正式な伝承とは見なされていない。本文では一貫し
て草薙剣と表記され、途中で名称が変わることはない。古事記でも草那芸剣(大刀)
とのみ記される。
墓山古墳へ向かう
墓山古墳
墓山古墳は古市古墳群のほぼ中央にある大形の前方後円墳です。三段に築かれた
墳丘は長さ225メートル、くびれ部両側に造出しを備え、深い濠と幅広い堤をめぐらせ
ます。墳丘部は「応神天皇陵陪塚」として宮内庁が管理されていますので、内部の詳
しい様子は不明です。だた、これまでに多量の滑石製勾玉や各種の形象埴輪の出土
が知られています。また、後円部には亀甲紋を陰刻した長持形石棺が納置されてい
た報告もあります。これらの情報から墓山古墳は5世紀の前半に築造されたと考えら
れます。墓山古墳の周囲には浄元寺山、向墓山、野中、西墓山という4基の陪塚が配
されていて、典型的な中期大型古墳の様相をみせています。
向墓山古墳
墓山古墳の陪塚
羽曳野市文化財展示室
誉田八幡宮へ向かう
誉田八幡宮
薄田隼人正兼相の墓
此の続きは、
11月29日の幸村・伊達正宗と激突した誉田・道明寺を巡る-2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿済みです。
続きは、応神天皇陵~
応神天皇陵
誉田御廟山古墳(伝応神天皇陵)で墳丘長さ425メートル、濠を含めた全長650
メートルで 百舌鳥古墳群の仁徳天皇陵の墳丘長486 メートル、全長 840
メートルに次ぐ。体積は、143万立法メートルで仁徳天皇陵の140万立法メートル
を抜き日本最大。
大鳥塚古墳
大鳥塚古墳は、墳丘の長さが110メートルの前方後円墳です。古市古墳群の中で
は中形で、前方部は南を向いています。墳丘はほぼ全域がクヌギの林になってい
て、足を踏み入れると夏でもひんやりとした感じを受けます。造られた当時、墳丘の
斜面には石が葺かれ、平坦面には円筒埴輪が並んでいました。人を葬った施設の
構造は分かっていません。
古室山古墳(昼食休憩)
古室山古墳は、後円部頂上の標高が約39メートルを測り、国府台地でも高所に位置
しています。そして視界をさえぎる巨木が少ないため、頂上からの眺望はすばらしい
ものがあります。また、梅や桜の木が植えられており、季節になると美しい花を咲かせ
ます。これらはいずれも訪れる人々を楽しませています。古墳の墳丘の長さは150メー
トルで、古市古墳群の中では中形の前方後円墳に属します。古室山古墳が造られたの
は4世紀末から5世紀初頭のことです。これは、古市古墳群の形成が開始された時期に
あたり、同古墳群中で最も早く造られた古墳の一つに数えられます。
柿の木のひこばえ?しばし柿の木談義・・・
仲姫命陵古墳
5世紀前半に築造された大型前方後円墳です。墳丘長は290mで古市古墳群で
は応神天皇陵古墳(羽曳野市)に次ぐ大きさを誇ります。後円部側には陪塚と考
られる鍋塚古墳があります。
古室八幡神社
祭 神:仲津媛皇后 応神天皇
澤田八幡神社は、御陵の中程に、この神社は、古墳の前方に位置してる。
澤田八幡神社
境内に電車が通っているという、全国的にも数少ない珍しい神社です。
祭 神:仲津媛皇后 応神天皇
国府八幡神社の由緒書きに、藤井寺市内には、江戸時代初期の頃に誕生
した八幡神社が五社ありますが、国府八幡神社以外の八幡神社は、誉田
八幡宮(羽曳野市)の分霊を勧請したものとされています。沢田八幡神社、
古室八幡神社、土師里八幡神社、津堂八幡神社の四社です。とある・・・・
※国府(こう)八幡神社・・・藤井寺市
祭神:八幡大神(応神天皇)、春日大神・住吉大神
由緒:正式には「國府八幡神社」と書きます。
伝承によれば、近世の初期に壺井八幡宮(羽曳野市)の分霊を勧請して始まった
とされています。藤井寺市内には、江戸時代初期の頃に誕生した八幡神社が五
社ありますが、国府八幡神社以外の八幡神社は、誉田八幡宮(羽曳野市)の分霊
を勧請したものとされています。沢田八幡神社、古室八幡神社、土師里八幡神社、
津堂八幡神社の四社です。国府八幡神社の祭神は、他の八幡神社と同じ八幡大
神(応神天皇)が主神で、春日大神・住吉大神があります。
道明寺
道明寺(どうみょうじ)は、真言宗御室派の尼寺。山号は蓮土山。
道明寺周辺は、菅原道真の祖先にあたる豪族、土師(はじ)氏の根拠地であった。
道明寺は土師氏の氏寺土師寺として建立され、今の道明寺天満宮の前にあった。
当時は七堂伽藍や五重塔のある大規模なものであった。901年(延喜元年)、大宰
府に左遷される道真がこの寺にいた叔母の覚寿尼を訪ね「鳴けばこそ別れも憂け
れ鶏の音のなからん里の暁もかな」と詠み、別れを惜しんだと伝えられる。この故
事は、後に人形浄瑠璃・歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』「道明寺」の場にも描かれて
いる。道真の死後、寺名は道明寺と改められるが、これは道真の号である「道明」
に由来する。
道明寺天満宮
祭神は菅原道真公、天穂日命と、菅原道真公のおばに当たる覚寿尼公である。
隣接して道明寺という真言宗の尼寺がある。この地は、菅原氏・土師氏の祖先に当
たる野見宿禰の所領地と伝え、野見宿禰の遠祖である天穂日命を祀る土師神社が
あった。仏教伝来後、土師氏の氏寺である土師寺が建立された。伝承では聖徳太
子の発願により土師八島がその邸を寄進して寺としたという。平安時代、土師寺に
は菅原道真公のおばに当たる覚寿尼公が住んでおり、道真公も時々この寺を訪れ、
この寺のことを「故郷」と詠んだ詩もある。延喜元年(901年)、大宰府に左遷される途
中にも立ち寄って、覚寿尼公との別れを惜しんだ。道真公遺愛の品と伝える硯、鏡等
が神宝として伝わり、6点が国宝の指定を受けている。
道明寺合戦記念碑
道明寺駅前に2014年11月、大坂夏の陣 道明寺合戦の史実を後世に伝えるために
建立された記念碑です。道明寺合戦は、真田幸村軍と伊達政宗軍が激突し、戦国の
歴史が大きく動いた戦いとして有名で、片倉小十郎、後藤又兵衛、薄田隼人など名だ
たる武将が戦いました。地元では、合戦の歴史を後世に伝えるため、「道明寺合戦ま
つり」などを毎年開催しています。
道明寺駅
道明寺駅ホーム
湯処 あべの温泉・・・気分はスーパー銭湯、料金は庶民派銭湯
天然温泉
大阪市港区の『天然温泉テルメ龍宮』から毎日搬送しています。
源泉名 龍宮温泉 1号 大阪市港区2丁目3番33号
深さ 1,500m 泉質 ナトリウム塩化物強塩温泉
泉温 摂氏53.9度(浴槽温度40~42℃)
効能 ・神経痛・筋肉痛・関節・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・打ち身
・くじき・慢性消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復
・健康増進・切り傷・やけど・慢性皮膚病・虚弱体質・慢性婦人病
7人で昼飲み会&4人でカラオケへ
2016-12-03 01:36
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