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11月15日の須磨・源平合戦・源氏物語ゆかりの地巡り-1

11月21日      11月15日の須磨・源平合戦・源氏物語ゆかりの地巡り-1
                 11月度 歴史探訪の会
天気良く、ハイキング日和にも係らず参加者は13人、やはり遠距離がひびくのかな?
此の日訪れた須磨は、西国と畿内を結ぶ要地にあり、奈良時代には須磨の関が置か
れ、平安時代には「源氏物語」に見られる様に貴族の隠棲の場所にもなりました。平安
時代末期には源義経による”逆落とし”で有名源平合戦(一ノ谷の合戦)の舞台にもなり
ました。江戸時代には西国街道を多くの人が往来し、松尾芭蕉や与謝野蕪村などが須
磨を訪れた記録が残っています。又、須磨の地名の由来は、六甲山系の鉄拐山や鉢
伏山が海の近くまで迫り平地の「スミ」にあたる事、山の西で垂水区との境を流れる境
川が古くは摂津と播磨の国境であった事より、隅っこの「スミ」が訛って「スマ」になり、
色々な漢字が当てられた様だが、現在の「須磨」になった、との説があります。
今回のコース
JR須磨駅改札口(10時集合)~村上帝社~関守稲荷神社~現光寺~平重衡捕われ
の松~須磨寺~須磨寺公園(昼食)~松風村雨堂~綱敷天満宮~JR須磨駅(解散)
此の日の私の万歩計は、13531歩で約10km歩いたことに・・・
志都美駅
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JR須磨駅舎から海を
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JR須磨駅&須磨海岸
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村上帝社&琵琶塚
平安時代の末期、琵琶の名手であった藤原師長は唐に渡って琵琶の奥義を極めたい
と思い、都を発った。須磨迄来た夜に村上天皇と梨壺女御の霊が現れ琵琶の奥義を伝
えたので、唐に行く事を思いとどまり、琵琶の名器「獅子丸」を此処に埋めて都に帰って
行った。此の伝承に基づいて土地の人が村上天皇を祀ったとされる。
能の「絃上」は此の伝承を題材にしたもの。師長が琵琶を琵琶を埋めたという塚は一分
が残っている。
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関守稲荷神社
関守稲荷人社は此の辺りにあった「須磨の関」の守護神として祀られたと伝えられて云
います。「須磨の関」は大宝令に定められている摂津の関の事で、天下の三関(伊勢・鈴
鹿の関、美濃・不和の関、越前・愛発(あらち)の関)に次ぐ重要な関でした。境内には源
兼昌の歌碑があります。 百人一首   源兼昌(78番)
        淡路島 かよふ千鳥の 鳴く声に  いく夜寝覚め ぬ 須磨の関守   ...
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現光寺(源氏寺)
正式な名称は藩架山現光寺 正式な名称は藩架山現光寺。「源氏物語」の須磨の巻の舞
台と伝えられている事より光源氏の住居跡といわれ、元は源氏寺とも呼ばれていた。江戸
時代には松尾芭蕉が此の寺に泊まったとも言われ、境内には三段切の名句「見渡せば眺
むれば見れば須磨の秋」の句碑が立っている。
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平重衡捕らわれの松跡
1184年の一ノ谷の合戦で源範頼(頼朝の弟、義経の兄)の軍と戦った平重衡(平清盛の五
男)は戦いに敗れ、退却しようとしたが範頼の郎党に生け捕りにされた。捕えられた重衡は
近くに有った松に腰を掛けて無念の泗を流した。これを見た村人が哀れに思い酒を差し出し
たところ、重衡は大変喜び 「笹ほろや 波ここもとを 打ちすぎて すまでのむこそ濁り酒な
れ」と詠んだと伝わる。平重衡はその後鎌倉に送られたが、重衡に焼き討ちされた南都の
強い要求により南都に引き渡され、木津川の畔で処刑された。
駅舎の角にある
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須磨寺へ向かう
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須磨寺
真言宗須磨寺派の本山で、正式名称は上野山(じょうやさん)福祥寺ですが一般的に須磨寺
と呼ばれています。平安時代に漁師が和田岬の沖で見つけた聖観音像を聞鏡(もんきょう)上
人が此の地に移したのが始まりとされています。一ノ谷の合戦で熊谷直実に討たれた平敦盛
愛用の「青葉の笛」、平敦盛の首塚(首塚は須磨浦公園にあります)、弁慶の鎧、義経腰掛け
の松等、源平ゆかりの重宝や史跡があります。又、境内には松尾芭蕉、正岡子規等文人の句
碑や歌碑等が有ります。
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※平敦盛
平清盛の弟、経盛の末子で笛の名手と伝わる。愛用の「青葉の笛」は敦盛の祖父平忠盛が鳥
羽上皇から賜ったものと言われる。一ノ谷の合戦で源氏方の熊谷直実に討たれるが、直実は
敦盛が我が子と歳の変わらぬ若武者であった事から一度は見逃そうとするが、泣く泣く敦盛を
討った。直実は此れをきっかけに出家したと言われる。
此の続きは、
11月15日の須磨・源平合戦・源氏物語ゆかりの地巡り-2 として
           下記のメインブログへ詳細を投稿します。
          http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、須磨寺途中~
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源平の庭
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敦盛首塚
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須磨寺公園(昼食)
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松風村雨堂
平安時代の公家で、歌人でもある在原行平が光考天皇不興をかい須磨に左遷された際に多
井畑の村長の娘「もしほ」と「こふじ」に出会い、二人を「松風」と「村雨」と名付けて愛しました。
行平が都に戻った後も二人は行平を慕い続けて庵を結び行平の無事を祈ったと言われ、現
在のお堂がこの庵の跡と伝えられています。
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綱敷天満宮へ向かう
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綱敷天満宮
菅原道真が大宰府に左遷される途中、風雨を避ける為に須磨に一時上陸した際に、土地の
漁師たちが漁網の大網で円座を作り休息して頂いたとの言い伝えがあります。
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北海道の名付け親
「北海道」名付けの親である松浦武四郎さんが納めた宝鏡があります。 二十五霊社と
は「北海道」を命名した松浦武四郎の定めた天神社25社を指します。
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JR須磨駅(解散)
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