5月25日の初夏の天王寺区ぶらり名所旧跡巡り-1
5月30日 5月25日の初夏の天王寺区ぶらり名所旧跡巡り-1
近鉄駅フリーハイキング 歩程約6km
此の日は知人のK場さん・I 田さん・O村さんと4名で近鉄ハイキングに参加、暑い陽射し
の中、途中ショートカットしてコースを変えたりしながら熱中症に気を付けて歩いた。
此の日の私の万歩計は、12463歩で約7.4km歩いたことに・・・
コース 大阪上本町駅地上コンコース受付 9時30分~11時 10時集合で・・・
大阪上本町駅(受付)~大阪国際交流センター~吉祥寺(きっしょうじ)~安居神社~一
心寺~天王寺公園~堀越神社~四天王寺~大阪上本町駅
志都美駅~香芝駅~近鉄下田駅へ向かう
鹿島神社
祀ってあるのは、「武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)」で、ふつう「鹿島大明神(か
しまだいみょうじん)」という。この神社は、承安(しょうあん)1(1172 )年に源義朝(みな
もとのよしとも)の家来であった鎌田小次郎政光が常陸国(ひたちのくに)(現茨城県)の
鹿島本宮の神を連れてきたのが始まりという記録がある。伝承ではその時村人は塩餅
(しおもち)や押し飯(おしめし)を作り、大喜びでお祭りしたという。
鹿島神社には、昔から「結鎮座」(けいちんざ)と呼ばれる氏子(うじこ)の集団(宮座)が
あり、鎌倉時代の初期から記録が残されている。これは、約800年間にわたる独特の伝
統をもって今も生き続けている。日本の古い神社や寺には貴重な古文書がたくさん伝わ
っているが、民間の宮座記録としてはこの「鹿島神社文書」(かしまじんじゃもんじょ)が
最も古い。昭和37年には奈良県指定文化財となり、現在は奈良国立博物館で保管され
ている。
近鉄下田駅
大阪上本町駅(受付)
大阪国際交流センター~吉祥寺へ向かう
上本町七交差点角に「水と緑と台地」をテーマに整備された小さな公園?
大阪国際交流センターはパスして吉祥寺へ着いた
吉祥寺
寛永7年創建、禅僧洞宗の寺院。浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)は吉祥寺に「万松
山」の山号を与え、自ら心の拠り所とし、事有る度に訪れたと伝えられています。
元文4年(1739年)には江戸の泉岳寺にさきがけて赤穂義士の墓が建立された。義士
討入り当時の住職は赤穂の出身で、浅野長矩とも親交があったという。
寺は大正5年(1916年)、失火により全焼。大正14年(1925年)に再建されるが、昭和
20年(1945年)、空襲により壊滅的被害を受け、赤穂浪士の墓を残して全焼した。
吉祥寺が全国にその名を知られるのは、ここが大阪における浅野家の菩提寺だから
です。あざやかな朱色の山門をくぐると、正面には大石内蔵助の像が鎮座し、そしても
う少し中に入ると、躍動感に満ちた見事な細工の四十七士の姿が。そして境内右手に
は、戦火を奇跡的に逃れた義士たちの墓がひっそりとたたずんでいます。
境内入口に大石内蔵助像
境内に四十七士像
境内に四十七士墓塔
大江神社
大江神社は四天王寺の鎮守である四天王寺七宮のひとつとして聖徳太子によって
創建された。当初の祭神は天王寺北村の産土神である豊受大神である。後に神仏
習合して毘沙門堂が建立されて毘沙門天を祀るようになると、四天王寺の乾の方角
にあることから「乾の社」と呼ばれるようになった。そして境内には如意山神宮寺が
建立され、神社の祭祀も四天王寺の僧徒が行うようになっていった。
しかし、幕末になり神仏分離の動きが出てくると、慶応3年(1867年)に大江岸にち
なんで名称を大江神社と改めた。明治に入るとついに神宮寺を廃寺とし、毘沙門堂
も廃した。1907年(明治40年)、小儀神社、上之宮神社(上野王子)を合祀する。
太平洋戦争中の1945年(昭和20年) 3月に行われた第1回大阪大空襲によって絵
馬堂と神器庫以外のすべての建物が焼失するが、1963年(昭和38年)に本殿が再
建された。
※狛虎
当神社には狛虎というものがある。狛虎の由来は不詳であるが、300年以上前の作
と考えられている。その昔、狛虎の奥に如意山神宮寺の毘沙門堂があった。虎は毘
沙門天を護るとされている所縁のある動物である。狛虎は元々は阿吽で1対をなして
いたが、吽形の方が明治初期に滋賀県の某寺に持ち出されてしまったと言われる。
一方、残った阿形であるが大阪大空襲の際に焼夷弾を受けて損傷をしたものの、戦
後もそのまままにされていた。そこに、阪神タイガースのファンから「狛虎を一対にし
たら阪神タイガースは優勝するのでは」との話になり、吽形は2003年(平成15年)に
新たに作られて奉納され、阿吽の狛虎が久しぶりにそろった。その同年、阪神は18
年ぶりにセ・リーグ優勝してしまう。これにより狛虎はマスコミに大きく取り上げられた。
しかし、2011年(平成23年)10月、阿形は老朽化のために、2003年(平成15年)に吽
形と共に作られて保管されていた新しい阿形と交換されることとなり、元の阿形の狛
虎は蔵に保管された。
狛虎には阪神タイガースのファンより、メガホン、虎の小さい置物やぬいぐるみなどが
供えられていることがある。また、狛虎付近には阪神タイガースの優勝を祈願する張
り紙や木札がある。なお、普通の狛犬も存在す
愛染さん(愛染堂勝鬘院)
「愛染さん」と親しみを込めて呼ばれる愛染堂勝鬘院は縁結び・良縁成就・商売繁盛
にご利益あついパワースポットとして、また名作映画「愛染かつら」のモデルとなった
縁結びの霊木が境内に鎮座されています。
日本最初の社会福祉施設、施薬院(せやくいん)として建立
愛染堂の歴史は、今を遡ること1400年ほど昔の飛鳥時代、西暦593年(推古天皇元
年)、聖徳太子は、敬田院、施薬院、療病院、悲田院からなる四天王寺を建立されま
した。 その中の施薬院は、あらゆる薬草を植え、病に応じてあまねく人々に与えられ
るようにと四天王寺の北西の角(現在の愛染堂の場所)に建立されたのです。当時の
面積は現在より一層広大であり、また、建立の意味あいからいうと、我が国の社会福
祉事業発祥の地とも言えます。
施薬院が勝鬘院と呼ばれるようになったのは、このお寺で聖徳太子が勝鬘経というお
経を人々に講ぜられていたため、そして勝鬘経に語られるお姫様・シュリーマーラー
夫人(勝鬘夫人)の仏像が本堂に祀られているため、勝鬘院(しょうまんいん)と呼ばれ
るようになりました。
主な堂塔として、徳川秀忠(二代目)による再建の金堂(府の指定文化財)と、豊臣秀吉
による再建の多宝塔(国の重要文化財・旧国宝)があります。
正式名称は勝鬘院ですが、平安時代以降は金堂に愛染明王が本尊として奉安され、
愛染明王信仰の普及とともに、勝鬘院全体が愛染堂と通称されるようになりました。
金堂に祀られる愛染明王は、主に縁結び・良縁成就・夫婦和合・愛嬌開運の功徳があ
ることと、境内にある「愛染めの霊水」は飲むと愛が叶うといわれ、女性参詣者が毎年
たくさん訪れます。
また、小説家の川口松太郎さんが、この近くに住んでいたこともあり、彼の代表作であ
り映画化もされた『愛染かつら』のモデルとなった縁結びの霊木「愛染かつら」が境内
にあることでも有名です。
此の続きは、
5月25日の初夏の天王寺区ぶらり名所旧跡巡り-2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿します。
https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、安居神社へ向う~
安居神社へ向う
安居神社
創建年は不詳であるが、当社は少彦名神が祭られており、天慶5年(942年)から菅原
道真が祭られるようになったと伝えられている。菅原道真が大宰府に流されるときに、
風待ちのために休息をとった為にその名がついたという伝承がある。
明治に書かれた『大阪けんぶつ』では、当社は菅原道真ではなく少彦名神を祀る神社
であり、道真が休んだから「安居」となり、近くに天王寺三名水の井戸があることから
「安井」となったと伝えられるが、考証がないため信じられない、としている。
大丸の創業者の下村彦右衛門正啓がよく信仰していたので大丸天神と称される事も。
大坂夏の陣で真田信繁(幸村)が当神社境内で戦死したと伝えられ、境内に戦死跡之
碑が、他に古来、名水特に七名水として名を馳せた安居の清水(別名:かんしずめの
井)の址などがある。
一心寺(いっしんじ)
一心寺は、大阪府大阪市天王寺区にある浄土宗の寺であり、正式名称は坂松山高岳
院一心寺(ばんしょうざん こうがくいん いっしんじ)。骨仏の寺としてよく知られている。
法然上人二十五霊跡第七番札所。
文治元年(1185年)の春、四天王寺の別当であった慈円の要請によって、法然が四天
王寺の西門の坂のほとりに、四間四面の草庵を結び、「荒陵の新別所」後に「源空庵」
と称して住んだという。後白河法皇が四天王寺参詣の際に訪れて法然と共に日想観を
修した。当時草庵の西は海を遠く見渡せ、極楽浄土の瑠璃の地のようであったという。
慶長元年(1596年)、三河の僧侶であった本誉存牟上人が法然の旧跡であるこの地で
一千日の念仏修法を行い、寿命山観称院一心寺として再興した。彼の一心称名をもっ
て寺ができたため、一心寺という名になったといわれる。
慶長5年(1600年)2月、徳川家康の8男仙千代が大坂で夭折し、その葬儀を一心寺で
行った。住持である存牟が家康と同郷の出身であり、また家康が浄土宗の信者であっ
たことによる。家康は境内の坂の孤松のすがたを讃えて、「坂松山」の山号とその寺額
を贈り、仙千代の戒名から「高岳院」の院号も贈った為、一心寺は坂松山高岳院一心
寺と改名した。
寺には大坂夏の陣の天王寺・岡山の戦いで最前線に立ち討ち死にした本多忠朝の墓
所があるが、彼は酒を飲んでいたため冬の陣で敗退し家康に叱責され、見返そうと夏
の陣で奮戦したが討ち死にし、死の間際に「酒のために身をあやまる者を救おう」と遺
言したといわれることから「酒封じの神」とされるようになった。今でも墓所には禁酒を誓
う人がよく詣でている。此の墓所にも6月にはジャカランダの花が綺麗に咲く。
天王寺公園はパスして
茶臼山~堀越神社へ向う
茶臼山古墳(ちゃうすやまこふん)
茶臼山古墳は、大阪市天王寺区茶臼山町にある前方後円墳。大阪府指定史跡に指定
されている。
古墳自体は5世紀にこの地の豪族のために作られた墓といわれ、大阪市内でも最大級
の前方後円墳だが被葬者は不明である。1546年(天文15年)、細川晴元の家臣山中又
三郎が古墳の後円部に大塚城を築く。1614年(慶長19年)の大坂冬の陣では茶臼山一
帯が徳川家康の本陣となり、翌1615年(慶長20年)の大坂夏の陣では真田信繁(幸村)
の本陣となって「茶臼山の戦い(天王寺口の戦い)」の舞台となった。
大阪五低山のひとつ
茶臼山(標高26メートル)、帝塚山(標高20メートル)、聖天山(標高14メートル)
御勝山(岡山)(標高14メートル)、天保山(標高4.53メートル 日本で二番目低い山)
堀越神社
聖徳太子が四天王寺を創建した際、崇峻天皇を祭神として風光明媚な茶臼山の地に
社殿を造営したのが最初と伝わり、四天王寺七宮の一つに数えられる。かつて創建当
初から明治時代中ごろまで境内の南沿いに堀があり、この堀を渡って参詣したことの
が社名の由来だとされている。
1615年(慶長20年)の大坂夏の陣の際、徳川家康が前年の冬の陣の時に茶臼山の山
頂に本陣を置いていた縁で、同じく茶臼山の山頂にあった茶臼山稲荷神社の使いであ
る白狐が家康を真田幸村の攻撃から救ってあげたことから、合戦後に家康がお礼とし
て現在地に社殿を建立させた、とされる故事から、江戸時代を通じて大坂城代が大坂
城に赴任した際は当神社と茶臼山の家康本陣跡に詣でることとなった。また、古くから
「一生に一度の願いを聞いてくださる」と、尊崇を集めている。
外食&お茶は
天王寺公園のビックリドンキーで昼食&お茶
以降のコース、四天王寺~上本町駅への2.8kmをパス(2kmショートカット)、
JR天王寺駅で解散
近鉄駅フリーハイキング 歩程約6km
此の日は知人のK場さん・I 田さん・O村さんと4名で近鉄ハイキングに参加、暑い陽射し
の中、途中ショートカットしてコースを変えたりしながら熱中症に気を付けて歩いた。
此の日の私の万歩計は、12463歩で約7.4km歩いたことに・・・
コース 大阪上本町駅地上コンコース受付 9時30分~11時 10時集合で・・・
大阪上本町駅(受付)~大阪国際交流センター~吉祥寺(きっしょうじ)~安居神社~一
心寺~天王寺公園~堀越神社~四天王寺~大阪上本町駅
志都美駅~香芝駅~近鉄下田駅へ向かう
鹿島神社
祀ってあるのは、「武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)」で、ふつう「鹿島大明神(か
しまだいみょうじん)」という。この神社は、承安(しょうあん)1(1172 )年に源義朝(みな
もとのよしとも)の家来であった鎌田小次郎政光が常陸国(ひたちのくに)(現茨城県)の
鹿島本宮の神を連れてきたのが始まりという記録がある。伝承ではその時村人は塩餅
(しおもち)や押し飯(おしめし)を作り、大喜びでお祭りしたという。
鹿島神社には、昔から「結鎮座」(けいちんざ)と呼ばれる氏子(うじこ)の集団(宮座)が
あり、鎌倉時代の初期から記録が残されている。これは、約800年間にわたる独特の伝
統をもって今も生き続けている。日本の古い神社や寺には貴重な古文書がたくさん伝わ
っているが、民間の宮座記録としてはこの「鹿島神社文書」(かしまじんじゃもんじょ)が
最も古い。昭和37年には奈良県指定文化財となり、現在は奈良国立博物館で保管され
ている。
近鉄下田駅
大阪上本町駅(受付)
大阪国際交流センター~吉祥寺へ向かう
上本町七交差点角に「水と緑と台地」をテーマに整備された小さな公園?
大阪国際交流センターはパスして吉祥寺へ着いた
吉祥寺
寛永7年創建、禅僧洞宗の寺院。浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)は吉祥寺に「万松
山」の山号を与え、自ら心の拠り所とし、事有る度に訪れたと伝えられています。
元文4年(1739年)には江戸の泉岳寺にさきがけて赤穂義士の墓が建立された。義士
討入り当時の住職は赤穂の出身で、浅野長矩とも親交があったという。
寺は大正5年(1916年)、失火により全焼。大正14年(1925年)に再建されるが、昭和
20年(1945年)、空襲により壊滅的被害を受け、赤穂浪士の墓を残して全焼した。
吉祥寺が全国にその名を知られるのは、ここが大阪における浅野家の菩提寺だから
です。あざやかな朱色の山門をくぐると、正面には大石内蔵助の像が鎮座し、そしても
う少し中に入ると、躍動感に満ちた見事な細工の四十七士の姿が。そして境内右手に
は、戦火を奇跡的に逃れた義士たちの墓がひっそりとたたずんでいます。
境内入口に大石内蔵助像
境内に四十七士像
境内に四十七士墓塔
大江神社
大江神社は四天王寺の鎮守である四天王寺七宮のひとつとして聖徳太子によって
創建された。当初の祭神は天王寺北村の産土神である豊受大神である。後に神仏
習合して毘沙門堂が建立されて毘沙門天を祀るようになると、四天王寺の乾の方角
にあることから「乾の社」と呼ばれるようになった。そして境内には如意山神宮寺が
建立され、神社の祭祀も四天王寺の僧徒が行うようになっていった。
しかし、幕末になり神仏分離の動きが出てくると、慶応3年(1867年)に大江岸にち
なんで名称を大江神社と改めた。明治に入るとついに神宮寺を廃寺とし、毘沙門堂
も廃した。1907年(明治40年)、小儀神社、上之宮神社(上野王子)を合祀する。
太平洋戦争中の1945年(昭和20年) 3月に行われた第1回大阪大空襲によって絵
馬堂と神器庫以外のすべての建物が焼失するが、1963年(昭和38年)に本殿が再
建された。
※狛虎
当神社には狛虎というものがある。狛虎の由来は不詳であるが、300年以上前の作
と考えられている。その昔、狛虎の奥に如意山神宮寺の毘沙門堂があった。虎は毘
沙門天を護るとされている所縁のある動物である。狛虎は元々は阿吽で1対をなして
いたが、吽形の方が明治初期に滋賀県の某寺に持ち出されてしまったと言われる。
一方、残った阿形であるが大阪大空襲の際に焼夷弾を受けて損傷をしたものの、戦
後もそのまままにされていた。そこに、阪神タイガースのファンから「狛虎を一対にし
たら阪神タイガースは優勝するのでは」との話になり、吽形は2003年(平成15年)に
新たに作られて奉納され、阿吽の狛虎が久しぶりにそろった。その同年、阪神は18
年ぶりにセ・リーグ優勝してしまう。これにより狛虎はマスコミに大きく取り上げられた。
しかし、2011年(平成23年)10月、阿形は老朽化のために、2003年(平成15年)に吽
形と共に作られて保管されていた新しい阿形と交換されることとなり、元の阿形の狛
虎は蔵に保管された。
狛虎には阪神タイガースのファンより、メガホン、虎の小さい置物やぬいぐるみなどが
供えられていることがある。また、狛虎付近には阪神タイガースの優勝を祈願する張
り紙や木札がある。なお、普通の狛犬も存在す
愛染さん(愛染堂勝鬘院)
「愛染さん」と親しみを込めて呼ばれる愛染堂勝鬘院は縁結び・良縁成就・商売繁盛
にご利益あついパワースポットとして、また名作映画「愛染かつら」のモデルとなった
縁結びの霊木が境内に鎮座されています。
日本最初の社会福祉施設、施薬院(せやくいん)として建立
愛染堂の歴史は、今を遡ること1400年ほど昔の飛鳥時代、西暦593年(推古天皇元
年)、聖徳太子は、敬田院、施薬院、療病院、悲田院からなる四天王寺を建立されま
した。 その中の施薬院は、あらゆる薬草を植え、病に応じてあまねく人々に与えられ
るようにと四天王寺の北西の角(現在の愛染堂の場所)に建立されたのです。当時の
面積は現在より一層広大であり、また、建立の意味あいからいうと、我が国の社会福
祉事業発祥の地とも言えます。
施薬院が勝鬘院と呼ばれるようになったのは、このお寺で聖徳太子が勝鬘経というお
経を人々に講ぜられていたため、そして勝鬘経に語られるお姫様・シュリーマーラー
夫人(勝鬘夫人)の仏像が本堂に祀られているため、勝鬘院(しょうまんいん)と呼ばれ
るようになりました。
主な堂塔として、徳川秀忠(二代目)による再建の金堂(府の指定文化財)と、豊臣秀吉
による再建の多宝塔(国の重要文化財・旧国宝)があります。
正式名称は勝鬘院ですが、平安時代以降は金堂に愛染明王が本尊として奉安され、
愛染明王信仰の普及とともに、勝鬘院全体が愛染堂と通称されるようになりました。
金堂に祀られる愛染明王は、主に縁結び・良縁成就・夫婦和合・愛嬌開運の功徳があ
ることと、境内にある「愛染めの霊水」は飲むと愛が叶うといわれ、女性参詣者が毎年
たくさん訪れます。
また、小説家の川口松太郎さんが、この近くに住んでいたこともあり、彼の代表作であ
り映画化もされた『愛染かつら』のモデルとなった縁結びの霊木「愛染かつら」が境内
にあることでも有名です。
此の続きは、
5月25日の初夏の天王寺区ぶらり名所旧跡巡り-2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿します。
https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、安居神社へ向う~
安居神社へ向う
安居神社
創建年は不詳であるが、当社は少彦名神が祭られており、天慶5年(942年)から菅原
道真が祭られるようになったと伝えられている。菅原道真が大宰府に流されるときに、
風待ちのために休息をとった為にその名がついたという伝承がある。
明治に書かれた『大阪けんぶつ』では、当社は菅原道真ではなく少彦名神を祀る神社
であり、道真が休んだから「安居」となり、近くに天王寺三名水の井戸があることから
「安井」となったと伝えられるが、考証がないため信じられない、としている。
大丸の創業者の下村彦右衛門正啓がよく信仰していたので大丸天神と称される事も。
大坂夏の陣で真田信繁(幸村)が当神社境内で戦死したと伝えられ、境内に戦死跡之
碑が、他に古来、名水特に七名水として名を馳せた安居の清水(別名:かんしずめの
井)の址などがある。
一心寺(いっしんじ)
一心寺は、大阪府大阪市天王寺区にある浄土宗の寺であり、正式名称は坂松山高岳
院一心寺(ばんしょうざん こうがくいん いっしんじ)。骨仏の寺としてよく知られている。
法然上人二十五霊跡第七番札所。
文治元年(1185年)の春、四天王寺の別当であった慈円の要請によって、法然が四天
王寺の西門の坂のほとりに、四間四面の草庵を結び、「荒陵の新別所」後に「源空庵」
と称して住んだという。後白河法皇が四天王寺参詣の際に訪れて法然と共に日想観を
修した。当時草庵の西は海を遠く見渡せ、極楽浄土の瑠璃の地のようであったという。
慶長元年(1596年)、三河の僧侶であった本誉存牟上人が法然の旧跡であるこの地で
一千日の念仏修法を行い、寿命山観称院一心寺として再興した。彼の一心称名をもっ
て寺ができたため、一心寺という名になったといわれる。
慶長5年(1600年)2月、徳川家康の8男仙千代が大坂で夭折し、その葬儀を一心寺で
行った。住持である存牟が家康と同郷の出身であり、また家康が浄土宗の信者であっ
たことによる。家康は境内の坂の孤松のすがたを讃えて、「坂松山」の山号とその寺額
を贈り、仙千代の戒名から「高岳院」の院号も贈った為、一心寺は坂松山高岳院一心
寺と改名した。
寺には大坂夏の陣の天王寺・岡山の戦いで最前線に立ち討ち死にした本多忠朝の墓
所があるが、彼は酒を飲んでいたため冬の陣で敗退し家康に叱責され、見返そうと夏
の陣で奮戦したが討ち死にし、死の間際に「酒のために身をあやまる者を救おう」と遺
言したといわれることから「酒封じの神」とされるようになった。今でも墓所には禁酒を誓
う人がよく詣でている。此の墓所にも6月にはジャカランダの花が綺麗に咲く。
天王寺公園はパスして
茶臼山~堀越神社へ向う
茶臼山古墳(ちゃうすやまこふん)
茶臼山古墳は、大阪市天王寺区茶臼山町にある前方後円墳。大阪府指定史跡に指定
されている。
古墳自体は5世紀にこの地の豪族のために作られた墓といわれ、大阪市内でも最大級
の前方後円墳だが被葬者は不明である。1546年(天文15年)、細川晴元の家臣山中又
三郎が古墳の後円部に大塚城を築く。1614年(慶長19年)の大坂冬の陣では茶臼山一
帯が徳川家康の本陣となり、翌1615年(慶長20年)の大坂夏の陣では真田信繁(幸村)
の本陣となって「茶臼山の戦い(天王寺口の戦い)」の舞台となった。
大阪五低山のひとつ
茶臼山(標高26メートル)、帝塚山(標高20メートル)、聖天山(標高14メートル)
御勝山(岡山)(標高14メートル)、天保山(標高4.53メートル 日本で二番目低い山)
堀越神社
聖徳太子が四天王寺を創建した際、崇峻天皇を祭神として風光明媚な茶臼山の地に
社殿を造営したのが最初と伝わり、四天王寺七宮の一つに数えられる。かつて創建当
初から明治時代中ごろまで境内の南沿いに堀があり、この堀を渡って参詣したことの
が社名の由来だとされている。
1615年(慶長20年)の大坂夏の陣の際、徳川家康が前年の冬の陣の時に茶臼山の山
頂に本陣を置いていた縁で、同じく茶臼山の山頂にあった茶臼山稲荷神社の使いであ
る白狐が家康を真田幸村の攻撃から救ってあげたことから、合戦後に家康がお礼とし
て現在地に社殿を建立させた、とされる故事から、江戸時代を通じて大坂城代が大坂
城に赴任した際は当神社と茶臼山の家康本陣跡に詣でることとなった。また、古くから
「一生に一度の願いを聞いてくださる」と、尊崇を集めている。
外食&お茶は
天王寺公園のビックリドンキーで昼食&お茶
以降のコース、四天王寺~上本町駅への2.8kmをパス(2kmショートカット)、
JR天王寺駅で解散